不連続な読書日記(2009.3-4)



【書評】

●福岡伸一『動的平衡[Dynamic Equilibrium]──生命はなぜそこに宿るのか』(木楽舎:2009.2.25)

《福岡伸一の「流れ」と「淀み」》
 ひと頃、著者の連載コラム「エレメント・フラグメント・モーメント─等身大の科学へ─」を読むためだけに、毎月『ソトコト』を購入していたことがある。 たかだか見開き二頁に綴られた文章なのに、奥深く広大な思考世界がその背後に息づいているのが伝わってきた。いつか単行本になったらまとめて読みたいと 思っていた。
 本書は、その連載記事に再編集と加筆をほどこし、別の雑誌に執筆した文章も取り込んで、プロローグと八つの章に仕立て直したものだ。「汝とは「汝の食べ た物」である」「人間は考える管である」「生命活動とはアミノ酸の並び替え」「「飢餓」こそが人類七○○万年の歴史」「全体は部分の総和ではない」「生命 は分子の「淀み」」「なぜ、人は渦巻きに惹かれるのか」──目次からいくつかの章名や見出しを引いてみるだけで、短い文章のうちに結晶した著者の「思考細 片」ともいうべきものの感触が蘇ってくる。
 著者はあとがきにこう書いている。「それら[思考細片]はいずれも、文字通り、要素[エレメント]であり、断片[フラグメント]であり、揺らぎ[モーメ ント]であった様々な思いが言葉となった何かであり、私の思考のすべてはここから生まれた」。たとえば次の文章を読むと、そこで語られているのは生命現象 一般についてというより、福岡伸一の思考そのものであるかのようだ。
《…私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出 し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ 物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありよ うに「動的な平衡」という素敵な名前をつけた。
 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。
 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そ のものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。(略)
 サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、 ずっと後になって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。》
 ひとつ成果があった。「自然は歌に満ちている」と「豚は思考しているか」という素敵な見出しを付された文章に、ライアル・ワトソンの二つの近著が紹介さ れていて、それらは著者の翻訳によって今年中に木楽舎から刊行される予定だという(邦題『エレファントム』『思考する豚』)。

●小林道夫『科学の世界と心の哲学──心は科学で解明できるか』(中公新書:2009.2.25)

《デカルト哲学、より善く生きるための学問》

 かつて『新しいデカルト』(渡仲幸利著)と『デカルト入門』(小林道夫著)を続けて読み、デカルト哲学の射程の広さと深さに圧倒されたことがある。以 来、心と身体の関係をめぐるデカルトの二元論を批判した文章に接するたび、まずは疑ってかかるようになった。
 そのデカルトの心の哲学がいかに豊かで重要な洞察に富むものであるか。このことを、当のデカルトによって設定された近代科学の世界像との対比のうちに描 いた本書は、著者によるもう一つの「デカルト入門」である。
 たとえば、ポール・チャーチランドは「消去的唯物論」を唱えた。心の哲学は心の科学へと自然化(科学化)させられる。われわれが日常言語の常識に従い、 心や人格を基本概念として行っている心的活動の説明は、(かつて燃焼とは物質の内にあるフロギストンが空中へ逃げさることだと考えられていたのに等しい) 素朴で不完全な一種の科学理論であり、神経科学の進展によっていずれ消去される運命にあるとするものだ。
 著者はこれに異を唱える。まず、常識の知識は、その本性上、科学理論ではありえない。ガリレオとデカルトに始まる自然科学は、数量化(知覚的性質や価値 的意味の捨象)、事象間の普遍的構造の追求、実験・検証による再現可能性を特徴とする。
 ところが、われわれは五感の直接の対象を取り上げ、それに意味を認めているのであり、その対象は数量的に表現可能なものに限定されない。また、日常言語 による心の活動の説明は、「私・今・ここ」(指標詞)や「これ・それ」(指示詞)や「彼・彼女」(代名詞)といった、発話者と発話の状況に依存した語の使 用によってなされる具体的個物の存在にかかわる。数学的理論に訴え、事象間の精密で普遍的な(状況に依存しない)構造を説明しようとするものではない。そ れは固有名をもった主体の一回限りの出来事の記述であって、実験による再現可能性をもたない。
 それでは、日常言語による心の哲学とはどのようなものか。それは、「私が私の腕を動かす」という表現が示す私の身体に対する主体的・能動的作用と、「私 は思う」というときの私の精神と意識の実在性を認め、空間的広がりをもつ物理的世界との二元論を受けいれることによって成り立つもので、これもまたデカル トに始まる。
《デカルトの「非物体的な精神がいかにして物体である身体に作用しうるのか」という「心身問題」に対する答えは、それは、たとえば、「実際に自分の意志で 腕を動かしてみる」ことによって、またそうしてのみ明瞭に体得できる、というものである。(略)
 そこで重要なことは、デカルトが、この「心身合一」の心的因果性を、物体と物体とのあいだの相互外在的な物理的因果性と混同してはならないと主張してい ることである。(略)心的因果性と物理的因果性には、いわばわれわれが、当の「因果」を内から体験するか、外から記述・観察するかという視点の違いがあ る。したがって、この二つの視点の違いをわきまえ、それらを混同することがなければ、われわれは、「(能動的)心的因果性」と「物理的因果性」を両立させ ることができるのである。》
 私たちは、脳を含む身体やその身体が属する環境世界を純粋に物理的な存在と見る視点と、意識活動をそれらから切り離して非物体的・心的存在として経験す る見地とをあわせもっている。さらに進んで、心と身体を実践的に合一させ、環境世界(感覚世界)に存在する事物の美的・価値的な意味を見出すこともでき る。
 デカルトの心の哲学は、そうした豊穣な経験の世界と心の科学の世界をともに包摂した、(江戸や明治の時代を生きた人ならそう呼んだに違いない)より善く 生きるための「学問」のようなものなのだ。


【購入】


●小林道夫『科学の世界と心の哲学──心は科学で解明できるか』(中公新書:2009.2.25)【¥740】
 科学的探究によっては原理的に汲み付くしえない事柄として「人間の心」の次元がある。つまり、科学的探究によっては「人間の心」のいろいろな特性を本質 的には扱えない。また、「心の存在」の問題については過去の哲学のうちに「より奥深い洞察」が認められる。つまり、デカルトの心の哲学はきわめて豊かで重 要な洞察に富むものである。以上、著者が本書で示したいとしていること。

●日名子暁『不良中年の風俗漂流』(祥伝社新書:2009.3.5)【¥780】
 射精産業ではない新しいフーゾク。それをスピリチュアルやヒーリング、マルチプル・オーガズムとか性感、等々の言葉で語ると、どこか違っているように思 うが、いずれ脳科学やロボット工学(や人形工学)などの進歩とともに、あるいは少子高齢化の進行とともに、あるいはそれらのこととは一切かかわりなく、こ れまでのものとはまるで違った性産業が誕生することだろう。もしかするとそれは一見、古色蒼然とした装いのもとに始まるのかもしれない。「フン、つまら ん。みんな、素人ばかりではないか。いまの男たちは、打てばひびく、さすればこたえる、玄人の味を知らん。それでは遊びも色も分からぬではないか」(偽永 井荷風)。

●『ソトコト』2009年4月号[特集|知的な地的なエネルギー学!]【¥762】
 2年前に「次世代エネルギー」特集号を買って以来、久しぶりのソトコト。付録のチビコトやCD、それからいくつかの記事を省いて、もっとコンパクトでハ ンディでローコストの雑誌に仕立てればいいのにと思う。

●細見和之『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』(岩波書店:2009.2.24)【¥2900】
 現代文庫に入っている精読シリーズの二冊、「歴史哲学テーゼ」(今村仁司)と「複製技術時代の芸術作品」(多木浩二)は、いつかベンヤミン菌に再感染し た時のために常備している。「言語一般および人間の言語について」は、晶文社の著作集3とちくま学芸文庫のコレクション1の二つの翻訳を常備している。 「類似したものについての詩論」(『来たるべき哲学のプログラム』)もとってある。その他ベンヤミン関連本はほとんど手元においている。これだけの準備を 確認してからでないと、うかつにベンヤミンには近寄れない。

●スーザン・ブラックモア『「意識」を語る』(山形浩生・守岡桜訳,NTT出版:2009.3.2)【¥2200】
 クオリアや自由意志があるかないか。そもそも意識があるのかないのか。そして他人の心は? 等々と、意識について長年考えつづけることで、その人(研究 者)の生き方が変わったかどうか。スーザン・ブラックモアが用意したこの質問に、21人に科学者たち(うち4人はネット)がどう答えたか。

●ウォレス・ソーンヒル/デヴィッド・タルボット『電気的宇宙論T──銀河、恒星、惑星の進化を書き換えるプラズマ・サイエンス』(小沢元彦訳,徳間書 店:2009.2.28)【¥2200】
 どういうわけか、かねてからプラズマというものに関心があった。(固体、液体、気体につぐ物質の第四の状態。固体からいっきに気体に変化することを昇華 という。だとすると、固体がいっきにプラズマに変化する場合を何というのだろう。)

●誉田哲也『ストロベリーナイト』(光文社文庫:2008.9.20)【¥667】
 姫川玲子シリーズ第一弾。書店に山積みになっていた。読み始めて、このテイストはちょっと違うかなと思った。

●岩永文夫『フーゾク進化論』(平凡社新書:2009.3.13)【¥800】
 『不良中年の風俗漂流』(日名子暁)につづき、未来のフーゾクを考えるための基本書として。(村上春樹の作品のなかに、フーゾクの未来形を探る。たとえ ば、アームチェアに横たわり、精神分析を受けるような。あるいは、培養器の中の脳のような。物との接触なくしてクオリアが可能であるとしたら、オーガズム も同様に可能となるだろう。意識のハードプロブレムとしての、クオリアとオーガズム。)

●中村真一郎『美神との戯れ』(新潮社:1989.8.10)【¥500古】
 雑誌(新潮45)連載中の副題が「わがポルノグラフィ」。千冊以上の「淫書」を読んだという著者が、「七十歳に達して、尚、創造力を持つ芸術家にとっ て、その仕事の原動力である生命と、それに炎をそそぐ愛と性欲と、また刻々と肉体を犯しつづける老いと死とが、どのように内的な必然性をもって絡まり合っ ているか、という、私自身についての切実な主題を、いささかの遊び心をもって、物語として展開」した作品。
 中村真一郎の同系列の作品には、他に「女体幻想」や「老木に花の」や「雪のゆき来」があり、また「仮面と欲望」「時間の迷路」「魂の暴力」「陽のあたる 地獄」の四重奏シリーズがある。

●梅原猛『古典の発見』(講談社学術文庫:1988.5.10)【¥330古】
 「歌の伝統」「内面の発見」「日本文化論」の三つの章に分類された十一の文章は、いずれも昭和40年代に発表されたもの。刊行は昭和48年。

●菊池成孔『スペインの宇宙食』(小学館文庫:2009.4.12/2003)【¥657】
 これまでに読んだことのない破壊的で猥雑な文章表現に接したくなって、よしもとばななが「私はこの本を、全て小説として読んだ」と書いている文庫解説の タイトルが「なんで癒されたんだろう」であることにもひかれて、これは衝動買いだと自分にいいきかせながら買い求めた。

●入不二基義『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』(朝日出版社:2009.3.27)【¥1800】
 地平線と国境線の違いは何か。答えは、またぎ越すことができるかできないかである。「私たち」と「私たちでないもの」の区別を産み出しているのは何か。 答えは、それもまた「私たち」である。もちろん、ことが「哲学」の問題である以上、そんな一問一答では終わらない。しかし、哲学論文ではなくて「哲学随 想」なのだから、議論の森の奥深くまで分け入ることは控える。だから「寸止め」だと著者は書いている。「寸止めの愉楽」や「エロティックな快楽」という言 葉さえ使っている。

●今泉淑夫『世阿弥』(人物叢書新装版,吉川弘文館:2009.3.1)【¥2100】
 ミネルヴァ日本評伝選の『紀貫之』(神田龍身著)が滅法面白かったのに味をしめて、また、たまたま目にした書評(本郷和人「一つにまとめる芸の華」、 2009年4月6日、読売新聞)[http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090406bk06.htm]で 「抜群である。これまでの世阿弥論とは明らかに一線を画する。」と絶賛されていたのに唆されて購入。

●安藤礼二『光の曼荼羅 日本文学論』(講談社:2008.11.22)【¥3600】
●『新潮』2009年5月号【¥857】
 『光の曼荼羅』は、第3回大江健三郎賞受賞作品。だから買ったのではなくて、伊藤邦武著『パースの宇宙論』で言及されていた『神々の闘争 折口信夫論』 を読み返してみたら、これがまた滅法面白くて、(昔、駆け足で眺めたはずなのに、いったいどこをどう読んでいたのかと唖然)、本書が、その安藤礼二の「到 達点」(帯の謳い文句)だというものだから、勢いで買った。こんどの連休の「スプートニク(旅の道連れ)」にしようと思っている。
 『新潮』には、「本よみうり堂」(2009年4月21日)の記事[http: //www.yomiuri.co.jp/book/news/20090421bk04.htm]で、「半分以上空想を込めて、評論と小説のあわいのよ うなものになった。『死者の書』に自分なりのけりがつけられました」と語っている「霊獣 『死者の書』完結編」(240枚)が掲載されている。「なお、本 作の内容に関しては、先に刊行された拙評論集『光の曼荼羅 日本文学論』と密接な関係をもっていることを記しておきたい」とある。これを読むならあれも読 めということだ。


【読了】

●中空麻奈『早わかりサブプライム不況──「100年に一度」の金融危機の構造と実相』(朝日新書:2009.1.30)
 新聞やTVのニュースで知った気になっていても、実は肝心なことがまるでわかっていなかったということはよくある。というか、ほとんどのことが見出し程 度の知識でわかった気になってやりすごしているのではないかと思う。証券化商品、たとえばCDSの仕組み。本書を読んで、ある程度のことが理解できたよう に思うけれど、たぶんまだ何も肝心なことはわかっていない。

●朱捷『においとひびき──日本と中国の美意識をたずねて』(白水社:2001.9.20)
 第三章「「匂」という文字の由来とにおいの共感覚」をサクサクと読んだ。「熟女の声のにおい」など、とても興味深い。(共感覚 (synesthesia)のことを、中国では「通感」というらしい。)──物事の余韻、余情を表現するのに、日本では「匂」(にほひ)といい、中国では 「韻」(ひびき)といいあらわした。「「匂」という和製漢字は、日本語の「ニホフ」には嗅覚をあらわす漢語の文字ではカバーできない意味領域があること、 および、そのカバーできない領域は漢語の聴覚を示す文字を借りればカバーできることを、示唆しているのである。」
 面白くなったので、ついでに全体にざっと目を通した。第一章「においは生命の原点」の、においと生殖の不思議な関係の話題など、とても興味深い。第二章 「においのある人間──源氏物語の人物評価」や第五章「「音楽は天地の精」──中国人の宇宙観における音楽」も面白い。この本は、機会があればゆっくりと 読み耽りたい。

●福岡伸一『動的平衡[Dynamic Equilibrium]──生命はなぜそこに宿るのか』(木楽舎:2009.2.25)
 ライアル・ワトソンの『エレファントム』に、象と鯨が超低周波の声で語りあうシーンがある。このことにふれた箇所(第8章)で、伊藤若冲の「象鯨図屏 風」の図版が添えられている。この書物は、著者の翻訳で年内に刊行されるという。同時に、豚が「心の理論」(他の豚の頭の中を推理する能力)をもつことを 紹介したワトソンの『ホール・ピッグ』も。

●藤田博史『人形愛の精神分析』(青土社:2006.4.15)
 アートは生きていく欲動、エロスと結びついている。ところが人形は「リプロダクション」である。人形を作っていく背後に「死の欲動」が働いている可能性 がある。「生の欲動」を絶対的に抑えつけているものがある。フランスの精神分析の研究によると、それは言語ではないかということになる。「つまりわれわれ は言葉を覚えた瞬間から死に続けているわけです。それを自ら反復している。自分の置かれている状況を、人形を作ることによって反復している可能性がある。 人形作家そのものが、生きつつ死んでいる生命体というように思います。」「人間は創作していく動物なのだ。人間がつくる全ての創作物は人形なのだ」。以 下、「眼と眼差し、あるいは視的欲望」「声/幻聴、そして皮膚/体感」「関節、そして性器」「毛、そして乳房」「尻、そしてゆび」「身体運動」「鼻、耳、 そして口」「口、頭、そして内臓」の各論へ。著者のホームページ[http://foujita.com/]に「秋山まほこ人形館[http: //www16.plala.or.jp/mahokodoll/]へのリンクが張ってあった。この人の作品が本書の口絵に採用されている。

●坂部恵『不在の歌──九鬼周造の世界』(TBSブリタニカ:1990.12.17)
●細見和之『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』(岩波書店:2009.2.24)
●神田龍身『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』(ミネルヴァ書房:2009.1.10)
 いずれも再読本。いま書いている貫之論に使える。

●川勝平太・鶴見和子『「内発的発展」とは何か──新しい学問に向けて』(藤原書店:2008.11.30)
 二つの知性が対話を通じてスパークし、相互に刺激を与え合っている。対話は、死後も続いている。これも再読本。

●ウィリアム・K・クルーガー『二度死んだ少女』(野口百合子訳,講談社文庫:2009.2.13)
 趣向の凝らされた出来事と物語の筋が実にバランスよく構成され、人物の言動が丹念に書き込まれた傑作ミステリー。ただ、唯一の欠点は、最後の最後に「合 理的」な解決が待ち受けていることで、これはよくできた傑作ミステリーの宿命。この作品のように、見事などんでん返しが決まると、それが鮮やかであればあ るほど、せっかくそれまでの叙述が達成した濃密なリアリティが雲散し、なにかしら白々とした読後感が残ってしまう。最後まで読まずにすますことができた ら、と思う。

●「小説新潮」編集部編『七つの甘い吐息』(新潮文庫:2007.11.1)
 アンソロジーのかたちで性愛小説、官能小説を読むのは、たぶんはじめて。(いや、そんなことはないだろう。少なくとも、小説誌では経験があるはず。)思 いのほか、この形式が気に入った。和歌と同じで、アンソロジーこそ、性愛小説の王道だ。鹿島茂さんの「ポルノグラフィア・ファンタスティカ」がよかった。

●小林道夫『科学の世界と心の哲学──心は科学で解明できるか』(中公新書:2009.2.25)
 「書評」に引用した文章に出てくる「二つの視点」を、私は、いわゆるカルテジアン・ダイコトミーをめぐる新しい解釈を指し示すものと受け取った。内から の実感と外からの観察、すなわち(知恵と実践にかかわる)学問と(知識と理論にかかわる)科学の二元論だ。(かつて柄谷行人が、デカルトの「精神」を共同 体の外側に位置づけたことを想起する。)
 ここで問われているのは、物質としての脳と非物質的な心をめぐる二元論の問題ではない。そんな問題は児戯に等しいとさえ思う。その児戯に等しい探求か ら、心をコントロールする物質的な技術が産まれる可能性がある。しかし、それはまた別の問題である。(もう一つ「別の問題」がある。それは、著者や柄谷行 人が問わなかったもので、永井均や入不二基義によって論じられている。)

●日名子暁『不良中年の風俗漂流』(祥伝社新書:2009.3.5)
 「この世のものとは思えない、嬉しさのあまり声を上げた、人生、最高の体験だった。」いま最も評判が高い熊本の高級ソープに、わざわざ東京から飛行機で かけつけた体験者の言葉。

●誉田哲也『ストロベリーナイト』(光文社文庫:2008.9.20)【¥667】
 解説に、警部補・姫川玲子=松嶋奈々子、巡査長・井岡=生瀬勝久、研修中のキャリ坊・北見=オダギリジョー(か、妻夫木聡)等々と、「こいつを映像化し たら誰か」とキャラごとに実在の役者名があげられていて、このキャスティングが最初に目にとまったものだから、まるでテレビ・ドラマか映画をみているよう な感じが最後までつきまとった。

●ウォレス・ソーンヒル/デヴィッド・タルボット『電気的宇宙論T──銀河、恒星、惑星の進化を書き換えるプラズマ・サイエンス』(小沢元彦訳,徳間書 店:2009.2.28)
 プラズマという言葉の響きが好きだ。スピノザとかスペルマとかいった語彙とも響きあって聞こえる(私の場合)。それは物質の第四の形態で、液体や気体と ともに流体に分類される。電荷を帯びたイオン群がスープ状に(生命のスープ、宇宙のスープ)、コロイド状に密集していて、「液体の中の沈澱物、固体と液体 の中間のようなどろどろしたもの」という意味をもつギリシャ語の「ヒュポスタシス」(英語のサブスタンス)を思わせる(私の場合)。
 最近、原形質のことを英語で「プロトプラズマ」(protoplasm)と言うことを知った。ここに出てくる「プラズマ」は物理学のそれと同じで、血漿 (blood plasma)に出てくるそれとも同じだ。ウィキペディアの「プラズマ」(plasma)の項を調べてみると、(「この項目は著作権侵害が指摘され、現在 審議中です。」とあるので、いずれ削除される運命にあるのだろう)、その語源について次のように書いてある。
「英語のplasmaは母体,基盤,そして鋳型 (mold) といった意味のギリシア語をもとにしている。放電現象が放電管の中で隅々まで広がる様子を見てラングミュアが命名したといわれている。元のギリシア語は宗 教用語としても使われ、神に創造されたものといった意味で使われていたことから、神秘的なもの、霊的なものとも結び付けられ、エクトプラズム (ect plasm) といった用語もある。」
 とにかく、プラズマは興味深い。そのプラズマの名を冠した宇宙論がある。これもまたウィキペディアに、「宇宙でのあらゆる現象は重力の影響だけではな く、宇宙の全バリオン物質の99.9%を構成している電気伝導性の気体プラズマによる影響が大きく、宇宙では巨大な電流と強力な磁場が主導的役割をすると している。そして電磁気と重力の相互関係によって、壮大な現象を説明できると主張する宇宙論」とある。
 本書のカバー裏には、「重力が宇宙を作り上げていたのではなかった。宇宙はそれ自体が巨大な伝導体であり、電気の力が宇宙全体を結びつけていた。」「電 気的宇宙は、これまでまったく関係ないと思われていた古代の謎にも解明の光を当てる。古代の岩壁絵画に描かれた象徴・文様が、古代の空にプラズマ放電が作 り出した形と同じであることがわかったのだ。」と書いてあって、これだけでこの本の中身はだいたいわかる。写真や図版が多くて、それだけでも楽しめる。

●菊池成孔『スペインの宇宙食』(小学館文庫:2009.4.12/2003)
 これほど面白い文章にめぐりあうことは、そうめったにあることではない。純粋言語(ベンヤミン)ならぬ純粋文章。なにも表現せず、なにも伝えない文章。 無償の読書。純粋読書。

●高月靖『南極1号伝説 ダッチワイフからラブドールまで─特殊用途愛玩人形の戦後史』(バジリコ:2008.4.26)
 坂本龍一編集の『エロコト』でラブドール(オリエント工業)の存在を知った。『南極1号伝説』は書店では手が出せなかったので、市立図書館の蔵書検索で 「貸出中」の表示が消えるのを辛抱強くまち、ようやく手にして読んでみた。「ダッチワイフ=竹夫人」(抱き枕のこと、夏の季語)とか、「ドーラー=ラブ ドールのユーザー」といった言葉を覚えた。オリエント工業(これは一種のブランド名で、法人としての正しい名称は「有限会社ツチヤ商会」)の製品名の変遷 が面白い。──微笑、面影、影身、影華(えいか)、華三姉妹、キャンディガール、明日香、アリス。そして、シリコン製のプチジュエル「アリス」(2001 年、56万円)。

●寺山修司『寺山修司未発表歌集 月蝕書簡』(田中未知編,岩波書店:2008.2.28)
 安藤礼二著『光の曼荼羅 日本文学論』の書き下ろし序文「死者たちの五月」を読む。「昭和二十八年(一九五三)、折口信夫の死。/昭和二十九年(一九五 四)、寺山修司の登場。/昭和三十年(一九五五)、中井英夫、『虚無への供物』執筆を開始。」にわかに寺山修司の短歌にふれたくなり、たまたま手元にあっ た『月蝕書簡』を一気に読みきる。「王国の猫が抜け出すたそがれや書かざれしかば生まれざるもの」

●港千尋『レヴィ=ストロースの庭』(NTT出版:2008.11.20)
 寺山修司の短歌に浸ったあと、口直しに、これもたまたま手元にあった、レヴィ=ストロースの写真と港千尋の短い文章で構成された本書に没頭した。「庭は 家と森とのあいだにある。」(庭の神話)「…森と家のあいだに拡がる空間が、宇宙全体に等しい広大な世界だということが実感できる。その宇宙には天の川や 星座だけでなく、音や色や匂いといった感覚や感情までもが含まれている。」(蜂蜜の贈り物)

●伊藤邦武『パースの宇宙論』(岩波書店:2006.9.8)
●宇波彰『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』(御茶の水書房:2007.07.27)
●安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』(講談社:2004.12.20)
 いずれも再読本。実に面白かった。


  【ブログ】

★4月18日(土):『コーラ』7号

 Web評論誌『コーラ』7号が発行されました。
 「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第8章〜第10章を寄稿しています。よかったら眺めてみてください。

●「コーラ]
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

●哥とクオリア/ペルソナと哥
 第8章 哥と共感覚・上
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-8.html

 第9章 哥と共感覚・中
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-9.html

 第10章 哥と共感覚・下
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-10.html


★4月19日(日):書かなかったことは消えてしまう

 朝日新聞読書欄のコラム「著者に会いたい」で、現代詩作家・荒川洋治さんの新刊書『読むので思う』を取り上げた文章(2009年1月4日掲載)に次の一 節が出てきた。[http://book.asahi.com/author/TKY200901070145.html]

《ある本について書いた文章を10年後に自分で読みかえすと、「書かなかったことは消えてしまう」と気づく。書いたものがその本のすべてになる。読む、思 う、書く、すべてがつながっていることへの緊張がある。》

 これが『読むので思う』からの引用なのか、インタビューに答えた荒川氏の言葉なのか、たぶん後者だと思うが、この発言と、本の中の一節とことわって記さ れた文章、「本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある」をあわせ読ん で、奇妙な感覚におそわれた。
 それは、「本を読んだから思ったこと、しかし、書かなかったから消えてしまったこと」がもたらす取り返しのつかない喪失感と、そもそも「本を読まなかっ たら思わなかっただろうこと、しかし、書かなかったから消えてしまったこと(思わなかったのと同じになってしまったこと)」にまつわる行き場のない空白感 とがないまぜになったものだ。
 「一度は思考されたがその後消えてしまったこと」と「そもそも一度も思考されなかったこと」という、異なった種類のふたつの不在の思考が強いる「緊張」 のうえに、「読む、思う、書く」ことの「すべてがつながっている」。
 「本を読んで思ったこと」は、それ自体がひとつの経験で、だから小説の題材になったり、詩や絵画や彫刻や演劇や映画や舞踊で表現することもできる。「書 かなかったこと」、つまり表現されなかったことは「消えてしまう」し、逆にいうと、「書いたもの」、つまり表現されたものが「その本のすべてになる」。そ うした芸術を含めたあらゆる表現行為が、つまり最広義の言語表現が、「そもそも一度も経験されなかったこと」と「一度は経験されたが、書かなかったので、 その後消えてしまったこと」とが強いる「緊張」のうえになりたっている。

     ※
 今年になって、言語と芸術について書かれた書物を二冊つづけて読んだ。斎藤慶典著『知ること、黙すること、遺り過ごすこと──存在と愛の哲学』と、細見 和之著『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』で、どちらもとても面白く、かつ刺激的だった。
 ここに書かれていることは、かつて私が考えたことだ。読中、そんな思い(既視感ならぬ「既読感」のようなもの)がつきまとった。
 その「かつて」とはいったいいつのことなのかと自問しても、答えはない。答えようがないのは当然で、それは「読んだから思ったこと」と「読まないでもい ずれ思ったかもしれないこと」との取り違えがもたらしたものでしかないからだ。
 それは誰が最初に思ったことか。言葉に書かれた思いは、もはや誰のものでもない。でも、それを最初に書いた者と、それを読んで思っただけの者とでは、そ の思いと身体とのつながりの強度がまるで違っているのではないかと思う。
 まして、読んだから思ったけれど、書かなかったから消えてしまったことは、最初からなかったのと同じことになる。
 こうして、「読む、思う、書く、すべてがつながっていることへの緊張」が高まってくる。

 ほぼ半年、ブログを書かなかった。
 書かなかったから消えてしまったことが累々と、不在の場所に降り注いでいる。いや、それほど多くはないかもしれないけれど、それでもいくつかの思考はち りぢりになって消えていったはずだ。
 いまあげた二冊の本と、それから二年ほど前に読み、同様に「ここに書かれていることは、かつて私が考えたことだ」と、これまた根拠なくそう思った、前田 英樹著『言葉と在るものの声』の三冊を当座の話題として、(最近、坂部恵著『不在の歌──九鬼周造の世界』を読み、いたく刺激をうけた九鬼周造の文学論や 押韻論のことや、ちょうど昨日から読みはじめた宇波彰著『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』なども組み入れて)、書くことを再開しよう。
 いや、特段のテーマなどは設けずとも、それこそ「不連続」であってもいいので、書くことを再開しよう。書かなかったことは、いずれ消えてしまうのだか ら。そして、消えてしまったことは、最初からなかったのと同じことなのだから。

★4月24日(金):「対象O」と「純粋言語」と「ル・レエル」

 「ラカン」「パース」「ベンヤミン」で検索して、宇波彰氏の「弱者の言説 パースからラカンへ」[http: //www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bulletin/pdf/24AkiraUnami_p50.pdf]を入手した。明 治学院大学の言語文化研究所が発行する研究紀要「言語文化」24号(2007年03月)に掲載されたもの。

(ちなみに、「宇波彰現代哲学研究所」[http://uicp.blog123.fc2.com/]でも同様の検索をして、「未来図書館のリストに」と いう記事(2008年02月14日)をみつけた。『Intercommunication』(2002年春号)の「未来の図書館にどういう本を納めるべき か」に応えたもの。
 宇波氏の回答は、「C・S・パースの著作集」「グレゴリー・ベイトソンの著作集」「ベンヤミン全集」(いずれも年代順)の三点。ブログには、「今もし付 け加えるならば「ラカンの年代順作業・セミネール集」ということになるであろう」と付記されていた。)

 「弱者の言説」は、パースの「対象O(としてのテクスト)」とベンヤミンの「純粋言語」とラカンの「ル・レエル」を(いわば「星座」のように)関連づけ た刺激的な小論。
 『コーラ』に連載している貫之論の次章「ラカン三体とパース十体」のマクラに使いたいと思い、プリントアウトして繰り返し読んでいるうち、ふと気になっ て、『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』(御茶の水書房:2007年07月27日)を図書館から借りてきてみると、思ったとおりこの論文が収 録されている。
 タイトルから副題が省かれ、本文にもかなりの加除修正がほどこされているが、論旨は変わらない。同書所収の「ラカンのシニフィアンに光あれ!」や「ガタ リ的機械」や「アブダクションの閃光」や「聖堂のカフカ」などと併読してみて(いずれも面白い)、これはやはり「使える」と思った。どう「使える」かは、 実地に使ってみないとわからないが。

★4月25日(土):「対象O」と「純粋言語」と「ル・レエル」(承前)

 宇波彰氏の「弱者の言説」(『記号的理性批判』)で、パースの「対象O(としてのテクスト)」とベンヤミンの「純粋言語」とラカンの「ル・レエル」がど のように関連づけられていたか。以下、該当する箇所を(適宜、加工を加えて)抜き書きしておく。

◎パースの「対象O」について
 パースの思考では、記号論(認識論)は存在論と不可分になっている。
 そのパースの記号論の基本的な概念のひとつに「セミオシス」(semiosis 記号連鎖)がある。
 対象O(object)を記号S(sign)が示すとき、その記号Sを解釈項I(interpretant)によって解釈するというプロセスである。
 この解釈項Iは、実際には記号Sとは別の記号S'である。そしてこの記号S’はまた別の記号S''で解釈されるから、そのプロセスは無限に続く。そのと き、もとの対象Oは変化しない。
 ここで留意しておくべきことは、対象Oに対して記号Sがシニフィアンであるということであるが、その次に来る記号S'にとってはシニフィエになるという ことである。
 無限に継起するシニフィアンS、S'、S''…は対象Oとつながりがあるように見える。しかし、それらは対象Oとは別のものである。そこには「ずれ」が ある。
 対象O、すなわち最初に存在する解釈の対象であるシニフィエ(としての事物[the thing,Ding])は、セミオシスのプロセスのなかでは、遅れていて、取り残されている。

◎ベンヤミンの「純粋言語」について
 ベンヤミンはつねに「事実的なものが理論である」というゲーテの教えに忠実であった(ボルツ)。
 そのベンヤミンは「翻訳者の課題」で次のように書いている。「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたもの ではないのだ。」(野村修訳)
 ここでベンヤミンは、テクストが受け取るひとのために存在するのではなく、それ自体で価値を持つといっている。
 このようなベンヤミンの思想と深い関係があるのは、彼の「純粋言語」(reiner Sprache)の概念である。
 純粋言語は、「もはや何ものをも意味せず表現しない」(「翻訳者の課題」)。それは伝達の手段ではなく、意味を持たず、表現もしていない言語であるか ら、それを「解釈」することは最初から不可能である。
 ベンヤミンの「純粋言語」という考え方には、ヴォーリンガー(『抽象と感情移入』)の影響がある。
 ヴォーリンガーは、感情移入、つまりミメーシスを原理とする芸術を否定した。ミメーシスに代わる原理が「抽象」である。それはいかなる「表象」とも断絶 した、リーグルのいう「芸術意欲」に基づく芸術の原理であった。
 ベンヤミンは『ドイツ悲哀劇の根源』で、ヤコブ・ベーメの「永遠のことば、神の響き、神の声」ということばを引用している。「神の声」は表現や伝達を目 標としていない「純粋言語」であり、人間の堕落以前、バベル以前の「アダム語」である。
 芸術家はときにこのような「言語以前の言語」を用いた作品を作る。たとえば、ジジェク(『幻想の感染』)はシューマンの「フモレスケ」について、「声に ならない〈内な声〉にとどまる、声による旋律線」云々と書き、ラカン解釈のキーワードのひとつである the impossible-real という概念(到達不可能なものとしてのル・レエル)を使って説明している。
 地上の人間は「神の声」をなんとか聞こうとする。そのときに考えられる手段が、アレゴリーである。
「アレゴリカーの手のなかで、事物はそれ自体ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物ではないなにかについて語ることになる。」 (『ドイツ悲哀劇の根源』)
 ここでベンヤミンが「事物」(Ding)といっているのは、パースの対象Oである。

◎ラカンの「ル・レエル」について
 対象Oとしてのテクスト、ベンヤミンの純粋言語を、ラカンのル・レエルと関連させて考えることが可能である。
 なぜなら、これまで「現実界」と訳されてきた「ル・レエル」は、「シンボル化に絶対に抵抗するもの」(『セミネールT』)もしくは「不可能なもの」 (『セミネールXT』)として規定されているからである。
 いままでの訳語に囚われず、ル・サンボリックは「言語・記号が作る世界」、リマジネールは「イメージ・像が作る世界」、ル・レエルは「像にも記号・言語 にもならないもの」として解釈し直すべきである。
 言語・記号・法・慣習・伝統・文化などが一体となって作る領域、これまで「象徴界」と訳されてきたル・サンボリックこそむしろ「現実界」である。
 このル・サンボリックの領域に入ることを拒否するものがル・レエルであり、ル・レエルの領域にあるものは存在しない。「女」「性的関係」は、言語化・シ ンボル化が不可能なル・レエルである。
 ラカンは『セミネールXII』の段階ではそれを「物」(das Ding)と呼んだ。ル・レエルの語源はラテン語の res (物)である。この「物」は言語化されることに抵抗する。
「現実は、イメージ、論理的なカテゴリー、ラベルからなるシステムであり、差異化していて、通常は予測可能な経験の連続性に従う。これに対して、ル・レエ ルは現実の彼方にあって、経験のなかで、想像不可能で、名前がなく、差異化されていない他性(otherness)である。」(ジョン・P・マラー)

★4月29日(水):書かざれしかば生まれざるもの

 宇波氏の「パースの対象O」をめぐる議論に、軽い違和感を覚えている。
 それは、宇波氏がいう「対象と記号のずれ」の問題が、うっかりすると、「対象O」と「記号連鎖S、S'、S''…」の二項関係をめぐる議論と取り違えら れてしまわないかということだ。「解釈項Iは、実際には記号Sとは別の記号S'である」といったとたんに、三項関係を基本とするパースの思考とはまったく 別の次元の話題に転じてしまうのではないか。
 このあたりのことは、最近ようやく読み終えたばかりの、伊藤邦武著『パースの宇宙論』を参考にしながら、もう少しじっくりと考えてみる必要がある。

     ※
 その『パースの宇宙論』に、安藤礼二著『神々の闘争 折口信夫論』の名が出てくる。
 このことについては、また別の機会に書くことにして、安藤礼二氏の『光の曼荼羅 日本文学論』の書き下ろし序文「死者たちの五月」を読んでいると、次の 年譜が目にとまった。

  昭和二十八年(一九五三)、折口信夫の死。
  昭和二十九年(一九五四)、寺山修司の登場。
  昭和三十年(一九五五)、中井英夫、『虚無への供物』執筆を開始。

 にわかに寺山修司の短歌にふれたくなり、たまたま手元にあった『寺山修司未発表歌集 月蝕書簡』(田中未知編)を一気に読みきった。

  王国の猫が抜け出すたそがれや書かざれしかば生まれざるもの

 寺山修司の短歌、たとえば「義母義兄義妹義弟があつまりて花野に穴を掘りはじめたり」について、佐々木幸綱氏が「解説」で次のように書いている。

《短歌には、物語を抱き込む短歌と、物語を排除して、瞬間つまり時間の断面をうたう歌がある。古典和歌では藤原定家が一首の背景に物語を想像させる歌を好 んだとされている。近代では、たとえば石川啄木が物語を抱え込んだ歌を多く作っている。寺山修司は、その点で啄木の強い影響を受けた。
 演歌的物語あるいは童心の物語等をいったん深く抱き込んで、シュールな色合に染める手ぎわが、寺山短歌の大きな魅力だった。具体的にいえば、物語をベー スに置きながら、突出した特異な映像の発明に賭けるのである。秋の花が咲きさかる野に穴を掘る義母義兄義妹義弟。彼や彼女は何歳ぐらいなのか、何を着て何 を持って何をしゃべりながら穴を掘っているのか。どんどん奇っ怪なイメージが広がる。そのイメージを楽しみながら、読者は思い切ってシュールな色に染まっ た物語を楽しむことができる。偽家族たちが集合して穴掘りをするにいたる物語である。》

 演歌的なあるいは童心の「物語をベースに置きながら、突出した特異な映像の発明に賭けるのである」。これを読んで、最近レンタル・ショップでみつけダビ ングしたままの『田園に死す』と『さらば箱舟』を観たいと思った。