不連続な読書日記(2009.1-2)



【書評】

●高牧康『「裏声」のエロス』(集英社新書:2008.12.21)

《“歌のような”感情の言葉》

 不思議なテイストをもった本。著者は「裏声の幸福論」というけれども、裏声の人類学、裏声の性愛論、裏声の健康法、裏声の人生論、裏声の教育論と、時々 の関心と心身の状態に応じて、さまざまな読み方で楽しむことができる。
 葛飾北斎の春画に書き入れられた、蛸と睦み合う海女の「よがり声」「もだえ声」「あえぎ声」の話題から始まる。まさにそれが裏声で、そのルーツはニホン ザルのメスが交尾中に発する発情音(他のオスを呼び込み、乱交を続けることで、優秀な子孫を残すための「精子戦争」を誘発する)にある。
「励めば励むほど、女性はさらに言葉にならない声を発し、男性の嫉妬を呼び起こしてしまうのです。そして、嫉妬した男性はこれでもかこれでもかと、声と運 動で[いま睦み合っている女性を]独占した確信を得ようとする。……追いかけっこを繰り広げた末の、ゴールに向かうときの男性の声、それはもう、独占を果 たすことができた“安心の声”です。ですから、それ以前より高くなり、時には裏声になることすらあるのです。」
 そんな、きわどい(が啓蒙的な)話題をふりだしに、プレゼンテーションの成功の秘訣は裏声にあった、ストレスを解消しカタルシスをもたらす泣き声の正体 は裏声だった、裏声こそが人類本来の声だった、吃音も嚥下障害も音痴も裏声で直る、等々の、読んでいるだけで心と体が元気になる話題が続き、そして、裏声 を奪われた子どもたちには食育とともに「音育」が必要だ、「発声教育で大切なのは、裏声の活用です。声楽の知恵を活用して、正しく美しい声を育むことは、 よりよい社会を築いていくうえでも大変重要なことなのです」と、高らかに宣言して終わる。
 最後まで面白く読んだ。とりわけ面白かったのは、言語のルーツと裏声との深い関係をめぐる話題だった。
「最近の人類学研究では、咆哮や唸り声から言語が発達したのではなく、私たちの祖先、原人に至っては、咆哮に知性と感情が加わり、“歌のようなもの”に よって会話をしていたという仮説が登場してきました。やがてその“歌のようなもの”が、言語と歌、音楽へと同時に分岐していったというのです。」
「私は、もともと声は一つだったと考えます。それは裏声のような声だったに違いありません。だからこそ、遠くへ響かすこともでき、音程も付けられたので しょう。やがて、言語という文明が生まれたことによって、音の高さや強さなど、音調で表現する必要がなくなってきたのです。そのため、会話の声として、地 声が誕生したのではないかと思われます。」
「日常では、遠くの人と会話するわけではないので音量の大きさも必要なく、音程も低い会話専用の声が生まれた、すなわちそれが地声であると考えるのが妥当 でしょう。それに対して、音の高低をつかさどる変化に富んだ声、感情の声、歌う声、これが裏声なのです。言語が生まれて地声が生まれましたが、その中で取 り残された声が喜怒哀楽の感情面だけの声であり、理性から遠のいた声こそが裏声だったのです。」
 地声ではなく、裏声によるコミュニケーションで営まれる社会生活とはどのようなものなのだろう。もしかすると、平安時代の貴族たちは裏声で話しあってい たのかもしれない。和歌とは「歌のようなもの」の生き残りの姿だったのだろうか。本書を読みながら、そんなことを考えていた。

●福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書:2008.10.20)

《もうひとつのYの悲劇》

 保坂和志の小説論がそれ自体小説であったように、福岡伸一の科学啓蒙書は、細胞内の出来事を描写した一篇の小説である。
 本書の前半は、極上のミステリー小説のように綴られた、性決定遺伝子をめぐる科学者たちの物語(書名の候補としては、『もうひとつのYの悲劇』)であ り、後半は、性決定へのカスケードを演じる細胞内物質群の物語(同様に、『平衡宇宙』)である。
 朝日新聞(2009年2月14日付け朝刊)に、加藤周一への追悼文が掲載されている。
 「アンリ・ファーブルのような緻密さ、ジュール・ベルヌのような飛躍、あるいは今西錦司のごとき自由な変幻さ」に憧れて大学に進学した著者は、理科系の 学問に半ば失望し、ひそかに文系にあこがれていた。そんなとき、“文転”の大先輩が著した『羊の歌』を読んで、著者は衝撃を受けた。
 加藤周一が医を廃して詩に向かったのは、「夥しい本を読み、そして多くを書き、世界中を旅し、少なくない数の女性を愛したのち」のことだったのだ。「私 はまだ全く何もなしてはいなかった。」
 こうして著者は、『生物と無生物のあいだ』に描かれた、分子生物学者への長い旅に踏み出し、やがて、ファーブルやベルヌの詩に繋がる水脈に触れることに なった。「絶え間ない消長、交換、変化を繰り返しつつ、それでいて一定の平衡が保たれているもの。それは恒常的に見えて、いずれも一回性の現象であるこ と。そしてそれゆえにこそ価値があること。生命現象を、あるいは世界を、そのようなものとして捉えようとようやく気づいた私にとって、加藤周一はいつもは るかに遠い。」
 それにしても、この人はほんとうに文章が上手い。以下に、「できそこないの男たち」に捧げられた福音を抜き書きしておく。

《私たちにとっての媒体[メディアム]とは何か。それは、時間である、と私は思う。時間の流れとは私たち生命の流れであり、生命の流れとは、動的な平衡状 態を出入りする分子の流れである。つまり時間とは生命そのもののことである。生命の律動が時間を作り出しているにもかかわらず、私たちは時間の実在を知覚 することができない。
 いや、むしろこういうべきだろう。生命は時間という名の媒体にどっぷりと浸されているがゆえに、私たちはふだん自分が生きていることを実感できないので あると。ならば、時間の存在を実感できる一瞬だけ、私たちは私たちを運ぶ媒体の動きを知り、私たち自身が動いていること、つまり生きていることを知覚しう るのではないだろうか。》

《時間の存在を、時間の流れを知るたったひとつの行為がある。時間を追い越せばよい。巡航する時間を一瞬でも、追い越すことができれば、その瞬間、私たち は時間の存在を知ることができる。時間の風圧を感じることができる。それが加速覚に他ならない。
 巡航する時間を追い越すための速度の増加、それが加速度である。加速されたとき初めて私たちは時間の存在を感じる。そしてそれは最上の快感なのだ。なぜ ならそれが最も直截的な生の実感に他ならないから。
 自然は、加速を感じる知覚、加速覚を生物に与えた。進化とは、言葉のほんとうの意味において、生存の連鎖ということである。生殖行為と快感が結びついた のは進化の必然である。そして、きわめてありていにいえば、できそこないの生き物である男たちの唯一の生の報償として、射精感が加速覚と結合することが選 ばれたのである。》


【購入】


●漆原友紀『蟲師』9・10(講談社:2008.2.20、2008.11.21)【¥590×2】
 今年の初買い。「残り紅」「風巻(しまき)立つ」「壷天の星」「水碧む」「草の茵(しとね)」。(以上、9巻)「光の緒」「常の樹」「香る闇」「鈴の 雫」。(以上、10巻)こうして収められた作品のタイトルを書き並べていくと、どこからか「妖質というモノ」が流れはじめる。

●山本史也『続・神さまがくれた漢字たち 古代の音』(よりみちパン!セ,理論社:2008.7.25)【¥1300】
●高牧康『「裏声」のエロス』(集英社新書:2008.12.21)【¥680】
 このところ「込み入った」本が読めない状態が続いているので、軽めの本をサクサクこなして勢いをつけようと思って読みはじめてみたところ、山本本は軽い どころかこれが小中学生向けの文体かと驚かされるほどの奥深さを湛えているし、高牧本はそこに書かれているのは途轍もないものの氷山の一角にすぎないと思 わせるだけの広がりをもっているしで、なかなか一気読みができないまま日々が流れていく。

●斎藤慶典『知ること、黙すること、遺り過ごすこと──存在と愛の哲学』(講談社:2009.1.13)【¥2000】
 日本の「若手」の哲学者で、入不二基義と斎藤慶典が書いた本ならだいたい全部買う(読む)ことに決めている。とはいえ、『時間と絶対と相対と──運命論 から何を読み取るべきか』(入不二本)と『レヴィナス 無起源からの思考』(斎藤本)がずいぶん前に買ったきり全然手つかずで本箱に並んでいる。斎藤本にいたってはもうかれこれ三年半は放置しているし、ちくま 新書から出た『哲学がはじまるとき──思考は何/どこに向かうのか』は買いそびれてさえいる。
 だから本屋で新刊を見つけたとき、やばいと思った。また積読本がたまってしまうと少し焦った。このところ本をサクサクと読む技術を見失っていて、今年は あまり「込み入った」本は買わずに、たまりにたまった読みかけ本の山を「棚卸し」することに専念しようと堅く心に誓ったばかりだった。でも、手にとって冒 頭の一文を目にしたとき、これは速攻で買いと腹がきまった。そこにはこう書いてあった。「本書は「表現」論であり、この表現という観点から捉え直された 「芸術」論であり、「言語」論である。」
 いま、紀貫之の和歌と歌論をめぐって、そこに、貫之が自然を詠んだことと自然が貫之を通じて自らを詠んだこととが区別ができない事態が成り立っているこ と、それを(西田幾多郎について永井均さんが書いた本を参考に)「貫之現象学」と名づけて、そのような事態が成り立っている貫之の歌の世界とはどのような ものかを探求する作業に没頭している。この本はグッドタイミングでその参考文献になると思ったのだ。(『語りのポリティクス』に収められた山田哲平氏の 「日本、そのもう一つの──貫之の象徴的オリエンテイション」を筆頭に、読みかけの参考文献が嫌になるほどたまっているけれども。)
 で、さっそく『本を読む本』の教えに従って「点検読書」に着手した。はじめにとあとがきに目を通し、目次を凝視し、序章を(鉛筆片手に議論の組み立てを チャックし、小見出しをつけながら)通読し、ところどころ拾い読みもして、第一段階の「組織的な拾い読み、または下読み」を終えた。明日から第二段階の 「表面読み」に移行し、できれば一週間程度で読み終えて、引き続き肝になる箇所に限定した「分析読書」を敢行する。と、まあだいたいそのような心積もりで 臨むことにする。
 現時点での感想を書いておくと、腰巻の謳い文句「現象学に立脚する精緻強靭の哲学者が、「私たちのこの現実」という事態を考え抜く。」に出てくる「精緻 強靭」という語彙が、この本の性格を見事に言い当てている。その構成、論述のすべて、細部から全体にわたって著者による完璧な統治が及んでいる。読者によ る点検読書の第一段階を先取りするメタ叙述(ここで私=著者は何を論じるつもりか、ここまで私=著者は何を論じてきたか、等々)が要所要所に出てきて、こ れは著者による自己確認を超えて読者による勝手な要約を許さない趣旨ではないかとさえ思える。そうえいば、先に引いた冒頭の一文などまるで自著に対する書 評の言葉のようではないか。

●阿刀田高『チェーホフを楽しむために』(新潮新書:2009.1.1)【¥552】
 かれこれ四半世紀も前のことになるが、中央公論社のチェーホフ全集全16巻をまとめて衝動買いした。当初は一月に一巻、そのうち半年に一巻、やがて年に 一巻、最後には数年に一巻のペースで読み進めてきて、いま手元には第9巻が読みかけのまま、もう十年以上経つのではないかと思われる歳月の重みと埃を一身 にまとっている。(調べてみると、第8巻を読み終えるのに5年かかっていて、それが15年も前のこと。とても「読み進めてきて」などと言えたものではな い。)
 チェーホフに飽きたり、チェーホフが嫌いになったりしたわけではない。それどころか今でも「好きな外国の作家は?」と問われたならば、(これもまた最近 ほとんど読まなくなったポール・オースターやリチャード・パワーズやミシェル・ウエルベック、古いところではカフカやロレンスやスタンダール等々の名とと もに)必ずチェーホフの名が浮かんでくる。それにチェーホフを読まなくなったわけではなくて、三年ほど前には新潮文庫でチェーホフの戯曲四篇を読んでいる し、その時あわせて買った短編集は大事にとっておいて時々手にはしている。
 なにかきっかけが欲しくなっていたのだろう、書店でふと目にとまった本書が気になって気になってしかたなかった。著者の文章、たとえば第1章の書き出し の二行、「アントン・チェーホフ、まことに、まことに知恵豊富な人であった。/医者であった。作家であった。病気持ちであった。肺結核と痔疾である。ずい ぶんと悩まされた。」などは、これを目にしただけで投げ出したくなるほどのものなのだが、矢吹申彦の挿画が気に入ったのと、まあチェーホフのことが好きな 人の書いた本ならいいかと割り切って速攻で購入。勢いで読みきって、一気に「愛読書」後半の読破に挑みたいと思う。

●『COURRiER Japon』2009年2月号[“日本人化”するインド人の暮らし](講談社)【¥743】
 誰かがどこかで、いま日本で一番面白い雑誌だと紹介していた。ひところ毎週「ニューズ・ウィーク」を購読していたことがある。今年は「クーリエ・ジャポ ン」でいくかと思いたって、昨年11月4日、シカゴのグラントパークでのオバマ勝利演説“The Hope of a Better Day”を収録したDVDを観てみたかったのと、リチャード・パワーズが自分のDNA解析体験の一部始終を綴った「僕はどんな風に死ぬのだろう?」を読み たかったのとで、試しに買ってパラパラ眺めてみた。オバマの雄弁は食わず嫌いだったのだが、このスピーチは評判どおり凄いと思った。政治は言葉だとも思っ た。でも、やっぱりこういう空疎なのにやたら感動をかきたてる演説は好きになれない。

●『落語昭和の名人決定版 古今亭志ん朝(壱)』(小学館)【¥190】
●『落語昭和の名人決定版 古今亭志ん生(壱)』(小学館)【¥1190】
 演目は、志ん朝が「夢金」「品川心中」、志ん生が「火焔太鼓」「替り目」「唐茄子屋政談」。このシリーズでは、志ん生・志ん朝・金原亭馬生の親子、三遊 亭圓生、桂文楽の5人の名人を購入するつもり。

●川端康成『眠れる美女』(新潮文庫:1967)【¥400】
●川端康成『伊豆の踊子』(新潮文庫:1950)【¥362】
 ドイツ語の映画で「眠れる美女」を観た。レンタルショップの官能映画のコーナーで、アラン・ロブ=グリエの「グラディーヴァ マラケシュの裸婦」と一緒 に借りてきた。あらためて原作を眺めてみると、かなり忠実に映画化されている(らしい)ことがわかった。「魔翁」川端康成への関心がにわかに高まった。

●養老猛司・竹村公太郎『本質を見抜く力──環境・食料・エネルギー』(PHP新書:2008.9.30)【¥760】
 この本は「モノという現実」から日本を見ようとする、私としては最初の試みである。養老猛司さんがまえがきにそう書いている。そこでいわれる「モノ」と は五感で直接に捉えられるもののことで、言葉でしか捉えられない「概念」と対になる。(「モノの専門家」である竹村公太郎さんは対談の冒頭で「養老さんは 昆虫魔ですが、私はデータ魔でして」と切り出している。この「データ」が「モノ」と同義で、それらは総じてあとがきで「下部構造」と言われる。)
 第一章の対談での次のやりとりが、養老人間学の真髄を語っている。
竹村「歴史とはエネルギー争奪史であるという仮説で過去を見ていくと、隠れた下部構造のモノにこそ真実があったのではないかと思われて仕方がありませ ん。」
養老「歴史学は書かれたものに基づいて書きます。それをラテン語ではファクタ=ディクタと言う。「書かれた事実」という意味ですね。いまの言葉で言えばイ ンテリジェンスで、書かれたものから判断していくのです。(略)僕は、歴史学は文献学だからだめだと言うつもりはありません。でも、文献学には文献学の限 度があります。にもかかわらず、モノの視点を持った歴史学はほとんどない。(略)モノから歴史を語るには、人間はどういうものかということについての理解 が不可欠ですが、そういう身も蓋もない話をしても誰も聞いてくれないのです。「要するにエネルギーだろ」などと言ってもね。」
 第六章「特別鼎談 日本の農業、本当の問題」に登場する農業経済学者の神門善久(ごうど・よしひさ)さんが、それこそ「身も蓋もない」議論を展開してい る。「困ったことに、「食料安全保障」とか、「水田の多目的機能」とか言って、農産物輸入に反対している人は、のきなみ平場の優良農地が「錬金術」に弄ば れて有効利用されない[「土地持ち非農家」がおいしい転売機会が来るまで黙って耕作放棄している]という辛らつな現状には見て見ぬフリを決め込みます。日 本農業が外国人就農者頼みであるという現状にも見て見ぬフリを決め込みます。」
 神門善久さんはまた、「ノスタルジックなスローフードだの、まやかしの地産地消だの、あんなものが話題になるのは農業の本当のすごさを知らないからで す。」とか「いまの地産地消や食育は薄っぺらです。」とも語っていて、「イメージ先行の抽象論としての農業論」を厳しくとがめている。このことは『日本の 食と農』の第二章「食の議論の忘れもの」の第2節「食の安産・安心は古くからの話題」と第5節「地産地消、グリーン・ツーリズムの誤謬」で存分に論証され ている。

●川勝平太・鶴見和子『「内発的発展」とは何か──新しい学問に向けて』(藤原書店:2008.11.30)【¥2200】
 地域政策についてしっかり勉強しておきたいと思って、まず本書と『本質を見抜く力』と『環境の哲学』(桑子敏雄)の三冊を精読することでもってにわか勉 強を始めることにした。「下部構造」として、食料・水・資源・エネルギーといった「モノ」を据え、固有名詞をもっ地域の具体相に即して、地域振興とか地域 再生とか、その他、言葉で表現すると上滑りな印象を覚えてしまう営みを支える仕組み(たとえば「金融」)について、「データ」に基づき思いをはせてみる。 そのようなスケッチをおおまかに描いている。ヴァーチュアルな「下部構造」からいかにしてアクチュアルな「上部構造」が生まれてくるのか。概念の使い方が おかしいけれど、そんなことを考えているうち、「内発的発展」(endogenous development)という語が浮かんできて、これはどうあってもこの本を読まねばならぬと思い立った。

●『BRUTUS』2009年2月15日[特集|みんなで農業。](マガジンハウス)【¥590】
 『本質を見抜く力』での鼎談での神門善久さんの「身も蓋もない」過激な議論に触発されて、図書館で借りた『日本の食と農』を読み始めたところ、これがま たが途方もなく面白い。で、あのBRUTUSが農業をめぐってどんな特集を組んでいるのか、興味をもった。

●白石一文『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』上下(講談社:2009.1.26)【¥1600×2】
 フィクション系では、リチャード・パワーズの『われらが歌う時』上巻と平田遼さんの『思考とは脳裏で死者が語り合う事である。』の第二部が読みかけのま まなのに、にわかに趣向の違う「軽い」作品をサクサクと読みとばしたくなった。「これはセックスと経済の物語」という帯の表の言葉と「白石一文が全身全霊 を賭けて挑む、必読の最高傑作!」という裏の言葉に惹かれて、評判のスウェーデン産ミステリー『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』(スティーグ・ ラーソン著)とどちらにするか一週間ほど迷ったあげく、結局、昔読んだ『一瞬の光』の清冽な読後感を思いだして白石本を選んだ。

●鈴木貞美『日本人の生命観──神、恋、倫理』(中公新書:2008.12.20)【¥780】
 この本を書店で目にしたときからいつか読むむことになるのではないかと感じていたが、こんなに早く手にするとは思わなかった。全体の三分の一、第一章 「民族の遠い記憶──風土記、記紀、万葉」と第二章「浄土と恋と土地──中古から中世へ」を読んだかぎりでは、無味乾燥な教科書風の概説が延々とつづくだ けで、とても面白いとは思えない。こういうときは一気に読み終えてしまうにかぎる。

●三島由紀夫『小説家の休暇』(新潮文庫:1982)【¥476】
 未完の「日本文学小史」に古今和歌集がとりあげられているので、とりあえずその部分だけでも読んでおきたいと思った。古今和歌集の「文化意志」について 書かれた次の一節など、ひたすら反復反芻して心に銘記すべき。
《この冒頭の一節[仮名序の「やまとうたは、ひとのこころをたねとして」云々から「たけきものゝふのこゝろをも、なぐさむるは哥なり」まで]には、古今和 歌集の文化意志が凝結している。花に啼く鶯、水に棲む蛙にまで言及されることは、歌道上の汎神論の提示であり、単なる擬人化ではなくて、古今集における夥 しい自然の擬人化は、こうした汎神論を通じて「みやび」の形成に参与し、たとえば、梅ですら、歌を通じて官位を賜わることになるのである。
 全自然(歌の対象であると同時に主体)に対する厳密な再点検が、古今集編纂に際して、行われたとしか考えようがない。それは地上の「王土」の再点検であ ると共に、その王土と正確に照応し重複して存在すべき、詩の、精神の、知的王土の領域の確定であった。地名も、名も、花も、鶯も、蛙も、あらゆる物名[も ののな]が、このきびしい点検によって、あるべき場所に置かれた。無限へ向って飛翔しようとするバロック的衝動は抑えられ、事物は事物の秩序のなかに整然 と配列されることによってのみ、「あめつちをうごか」す能力を得ると考えられたのである。これは力による領略ではなくて、詩的秩序による領略であった。》

●「小説新潮」編集部編『七つの甘い吐息』(新潮文庫:2007.11.1)【¥476】
 いちいち「記録」するのはやめたけれど、あいかわらず官能小説本を買っては読み捨てている。異なる作家の短篇アンソロジーにはこれまであまり心を動かさ れなかった。誰かが(たしか丸谷才一さんが)詩はアンソロジーで読むものだと書いていた。官能小説にも通じるところがあるのかもしれないし、あまり関係な いのかもしれない。

●『サライ』2009年3月5日[特集|今こそ注目したい、日本人の美意識の原点「能・狂言」幽玄なる旅](小学館)【¥476】
 貫之、俊成、定家を終えたら、世阿弥、利休、芭蕉へ進んでいこうと考えている。貫之であと最低でも一年、俊成でニ、三年、定家で三、四年はかかりそうだ から、世阿弥にたどりつくのは十年近く先のことになってしまう。それまで待てない。少しずつ準備をしておかないといけない。(そういえば『PEN』が利休 を特集していたのを買い忘れた。)

●神田龍身『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』(ミネルヴァ書房:2009.1.10)【¥3000】
 なにかしら大切な「出会い」があるのではと胸騒ぎを感じて半日書店めぐりをしたはてに、近所のジュンク堂でこの本にめぐりあった。こういう書物を読みた かった(書きたかった)。

●中空麻奈『早わかりサブプライム不況──「100年に一度」の金融危機の構造と実相』(朝日新書:2009.1.30)【¥700】
 新聞の書評欄で紹介されていた。こういう本もたまには読む。

●ウィリアム・K・クルーガー『二度死んだ少女』(野口百合子訳,講談社文庫:2009.2.13)【¥1086】
 ハードボイルド系のしっかり書き込まれたミステリーをじっくり読みたくなった。勘に任せてこの本を選んだ。作者のことは知らない。本の厚さ(児玉清さん の解説もいれて622頁)で選んだ。


【読了】

●M.J.アドラー/C.V.ドーレン『本を読む本』(外山滋比古・槇未知子訳,講談社学芸文庫:1997.10.10)
 昨年の大晦日に読み終えた。今年はこの本の教えに従って本を読むことにしようと思った。

●漆原友紀『蟲師』9・10(講談社:2008.2.20、2008.11.21)
 今年の初読み。ほぼ2年ぶりに蟲の世界にひたった。「比類なき幻想世界、そこに脈打つ生命達の息吹。」「広大無辺の妖世譚──その幕がついに降りる。」 これらの謳い文句は決して空疎ではない。この間、劇場版実写映画を観た。それはそれでなかなかよきものではあったが、なにぶんにも妖質が足りない。妖質は 実写版では表現できない。おそらくは画にしか宿らない。──鈴の音は神の声の模倣。これは、「降幕の刻」を告げる最後の作品(鈴の雫)のモチーフである。 この作品で、「カヤ」という女は「ヒトではないモノ」になった。開幕の時を告げる最初の作品「緑の座」では、漢字(象形文字)に生命を与える「しんら」と いう男が登場した。蟲とは、イキモノとただのモノの中間にあるもの。文字とカミの中間にあるもの。

●高牧康『「裏声」のエロス』(集英社新書:2008.12.21)
「最近の人類学研究では、咆哮や唸り声から言語が発達したのではなく、私たちの祖先、原人に至っては、咆哮に知性と感情が加わり、“歌のようなもの”に よって会話をしていたという仮説が登場してきました。やがてその“歌のようなもの”が、言語と歌、音楽へと同時に分岐していったというのです。これまでの 音楽の起源については、……諸説あるのですが、どれをとっても話すことが歌うことよりも先であるかのような説であり、……生まれながらに音程をコントロー ルできる仕組みを持っているにもかかわらず、それを使わない言語のほうが先に発達した、というのは不合理です。むしろ、音の高低があり、リズムがあり、複 数の音色を持っている、その“歌のようなもの”が、言語より先にあったというほうが、喉頭のメカニズムからも合点がいく話です。
 私は、もともと声は一つだったと考えます。それは裏声のような声だったに違いありません。だからこそ、遠くへ響かすこともでき、音程も付けられたので しょう。やがて、言語という文明が生まれたことによって、音の高さや強さなど、音調で表現する必要がなくなってきたのです。そのため、会話の声として、地 声が誕生したのではないかと思われます。」
「“歌のようなもの”の中には、意味付けされた単語のようなものと、感情とが混在していました。操作的なことや指示的なことが含まれている一方、喜怒哀楽 も織り込まれていたのです。やがて、言語は単語数が増え、文法が生まれ、その組み立てから、会話が構築されるようになり、音程や音色は介在する必要がなく なってきました。……すると音程の機能は感嘆符などに集中し、さらに、音の高低、音色の機能は言葉を伴わない鼻歌のような音楽になったり、わずかな単語を 繰返し声にする歌になったり、それに合わせて自由な両手で手を打ったり、物を叩いたり、踊ったりと、まさに“音楽”するこtになっていったと考えられま す。日常では、遠くの人と会話するわけではないので音量の大きさも必要なく、音程も低い会話専用の声が生まれた、すなわちそれが地声であると考えるのが妥 当でしょう。それに対して、音の高低をつかさどる変化に富んだ声、感情の声、歌う声、これが裏声なのです。言語が生まれて地声が生まれましたが、その中で 取り残された声が喜怒哀楽の感情面だけの声であり、理性から遠のいた声こそが裏声だったのです。」

●梅原猛・松岡心平『神仏のしづめ』(梅原猛「神と仏」対論集第4巻,角川学芸出版:2008.5.30)
梅原「松岡さんと対論を始めようと心から思ったのは、秦河勝を通じて世阿弥が私に乗り移ったからです。」
松岡「そうですか、今度は世阿弥(笑)。」
梅原「シテが世阿弥で、ツレに観世元雅とか禅竹とかがいる。私はワキの諸国一見の僧です。」
  ※
梅原「「芭蕉」を観ると、禅竹は哲学者だ。それもただ理論だけの哲学者ではなく、深い理を背景とした素晴らしい能に作っている。……禅竹は、どこか人間を 超えたところに眼が行っているような気がする。」
松岡「むしろディオニソス的な力ですとか、そういう裏側にある世界を生成させる力みたいな方向に、禅竹は向かったのだと思います。」
梅原「「天台本覚論」をどう捉えるか。有情成仏、人間を含めた動物が成仏できるという考えが植物や鉱物にまで及ぶところに飛躍がある。……「芭蕉」には草 木の成仏がもっとも鮮明に出ている。」 
  ※
松岡「いろいろなものにメタモルフォーゼし、流動していく翁の世界を仏の世界、顕教の世界で求めていくと観音になると思います。」
梅原「観音信仰、特に十一面観音は、水を司る信仰からきています。」
松岡「禅竹は、「水が根源」だと言っている。……世阿弥も「水の女」を描き、「井戸の女」を描く。水が根本です。」
梅原「僕の「日本学」の最後が中世になったのは、「水」に戻るということです。」

●阿刀田高『チェーホフを楽しむために』(新潮新書:2009.1.1)
 楽しい読み物だった。チェーホフは戯曲だ。そういうことが書いてあった。

●斎藤慶典『知ること、黙すること、遺り過ごすこと──存在と愛の哲学』(講談社:2009.1.13)
 一気に読み終えて、いま二度目の読みに入っている。(つづけて、長年積読のまま放置していた『レヴィナス──無起源からの思考』を読破するつもりだった が、これは手つかずのまま。)ここに書かれていることのほとんどはかつて自分自身で考えたことばかりだ。そんな思いがつきまとう。前田英樹さんの『言葉と 在るものの声』とともに、徹底的に腑分けして我が血肉のうちに吸収しつくしてしまいたい。

●下條信輔『サブリミナル・インパクト──情動と潜在認知の現代』(ちくま新書:2008.12.10)
 面白い本だった。(つづけて、最終章だけ読まずに残しておいた郡司ペギオ‐幸夫さんの『時間の正体』を仕上げ、両書あわせて「書評」もどきを書いておく つもりだったが、これもまた手つかずのまま。)いくつかの話題を拾っておく。
「やがてヒトの直系の祖先である霊長類では、その社会集団の拡大に伴って集団内コミュニケーションの必要と価値が高まった。また、新皮質の感覚モダリティ (視覚、聴覚、運動に伴う感覚など)間統合が、最終的には言語機能を準備した。」(41頁)
「言語はもともと動物の叫び声やほえ声のように情動的な信号だったはずで、それが次第に状況を記述したり、情報を伝えたりするものへと進化してきたと考え られる。これが言語の進化の主な道筋です。だとすると、そこから枝分かれした、いわば裏街道で、逆に情動的なコミュニケーションに特化して発生したのが音 楽だとは考えられないでしょうか。/そう考えることは、先ほど説明した言語と音楽の共通起源説、また言語の記述機能と情動表出機能からしても自然です。何 よりもそう考えることによってのみ、音楽の持つあの異様に効果的な情動喚起力が説明できると思うのです。」(68頁)
「音楽の発明、その快の発見の中にこそ、人類の脳を動物脳から分けた内部報酬が潜んでいたのかも知れません。だとすればその延長上で、現代文化を過去の文 明史から際立たせるものを理解することもできるかも知れません。//より進化した動物ほど、外部からの生物学的報酬ではなく「感覚そのものの」「内部的 な」報酬に反応しているのではないか。これが仮説です。」(79頁)
「前の章で「世の中は、外界を正確に写し取るという意味での物理的リアリズムではなくて、脳内の神経活動を最大化するという意味でのリアリズムに向ってい るのではないか」と述べました。また「その神経活動を活性化するものこそが最高の快であり、テクノロジーとコマーシャリズムもそれを最大化する方向に突き 進んでいるのではないか」とも。そういう考え方をまとめて「ニューラル・ハイパー・リアリズム」と名づけてみました。」(135頁)
「自由は、こういう事後の後づけの原因帰属によって決まります。誰か(何か)に明らかに強制されたという因果推論が成り立たない場合に、人は自分の内側の 「自由な」欲求に帰するのです。」(193頁)
「つまりプレディクティヴな過程で実質制御されていながら、ポストディクティヴな過程で「自由」の感覚が広がるということは、大いにあり得ると思うわけで す。」(195頁)
「しかもこの賢い客[座布団を持ってきたマクドナルドの客]は、そんなこと[プラスティック製の椅子の硬さ]はすっかり忘れて、文庫本に夢中になって時間 を忘れるかもしれない。ふとんの触覚的で情動的な座り心地のよさに「われを忘れる」というかたちで潜在的に反応しているわけです。つまり潜在的なトリガー に抗して、潜在レベルで対抗する手段を、自覚的に(顕在的に)講じた。その結果、ただ潜在的にそこに在ることが、店側の戦略[客が長居しにくい硬い椅子を 用意することで回転をよくして売り上げを伸ばす]に対して顕在的に対抗する手段を与えたのです。(235頁)
脳は「環境から独立したインテリジェント・システム」ではない。(269頁)

●鈴木貞美『日本人の生命観──神、恋、倫理』(中公新書:2008.12.20)
 第三章「いのちの自由と平等─近世の多様な生命観」から第四章「天賦人権論と進化論受容─生命観の近代化」にかけて俄然面白くなってきた。圧巻は第五章 「宇宙大生命─大正生命主義とその展開」で、その勢いで第六章「いのちの尊厳とは?─戦後の生命観」まで一気に読み終えた。
 第五章の、大震災後の「新感覚派」について書かれた節(そこでは、川端康成の短篇「抒情歌」が取り上げられている)に続く、大恐慌から5・15事件に至 る「歴史の転換点」を扱った節に次の文章が出てくる。「大正期に芭蕉の俳諧を日本の象徴主義芸術と論じた流れは、より範囲をひろげて、禅宗の影響のもとに ひろがった中世の美意識全般におよび、アカデミズムの美学と「文芸学」を名のる流れは、「わび・さび」や「幽玄」こそ、「日本的なるもの」の核心と論じる ようになってゆく。」(183頁)

●神門善久『日本の食と農──危機の本質』(シリーズ「日本の〈現代〉」第8巻,NTT出版:2006.6.28)
 これほどおもしろい本にめぐりあうのは、そう滅多にあることではない。良質なノンフィクションとデータに裏打ちされた学術書と熱い心をもった政策論を三 つあわせて読ませてもらった。反復反芻すべき書物。
 『本質を見抜く力』の第六章「特別鼎談 日本の農業、本当の問題」で、神門善久さんは「おそらく僕は、ストックに由来する不労所得を嫌うということにか んして、徹底しています。僕は冷血な近代経済学者ですが、心情的にはマルクス主義者かもしれません。」と語っていた。『日本の食と農』の謝辞には、「私の 価値観・行動様式は古い。たぶん四、五十年くらい時代に後れていると思う。」とか「時代錯誤的行動は私のつねで、おかげで日常的にトラブル・メーカーに なっている。」と書かれている。

●養老猛司・竹村公太郎『本質を見抜く力──環境・食料・エネルギー』(PHP新書:2008.9.30)
 この本もまた反復反芻すべき書物。

●B.J.パインU/J.H.ギルモア著『[新訳]経験経済──脱コモディティ化のマーケティング戦略』(岡本慶一・小高尚子訳,ダイヤモンド社: 2005.8)
 最近、第四次産業、という言葉を知った。一次産業と二次産業と三次産業の合体(農工商の連携)といった類のことではなくて、サービス産業の次に来るもの のこと。「経験経済」もしくは「体験経済」などはその最有力候補だろう。面白かったのは、さらにその先に想定されている「変革経済」もしくは「変身経済」 で、これは「宗教経済」もしくは「感情経済」などと名づけていいもののことではないかと考えながら読んでいた。

●白石一文『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』上下(講談社:2009.1.26)
 こういう小説を読みたかった。きっとそんな読後感をもたらしてくれる作品だろうと思っていた。勘は冴えていた。
《この別れのときに何かミオに語るべきものがあったのではないか? たとえ人生というものが虚ろな幻影にすぎないとしても、まがりなりにも十数年の歳月を 共にした妻にかけるべき詞があったのではないか、と僕は思った。
 しかし、しばらく経つうちにそのような言葉などどこにもありはしないことに僕ははたと気づいた。
 そのかわり、胸中には別の言葉の群れがあふれるように湧き上がってきていた。
 僕は目をつぶり、その言葉の群れに静かに身を委ねる。
 言葉だけが時間の魔術から僕たちを解き放ってくれる──という鮮烈な思いが自分の心を鋭く貫いていくのが分かった。
 この世界を損ない、僕やきみたちを損なっているものは一体何か。その正体をいまこそ僕たちは見極めるべきだ。僕たちは過去から遠い未来へと旅する旅人な どでは決してない。僕たちの人生にとって過去などどこにもなく、そして未来などどこにもない。人間は何千年何万年を生きてきたのではない。たかだか百年足 らずの人生を個別に繰り返してきたにすぎない。過去の人々は僕たちとはまったく異なる、本来何の意味も価値も持ち得ない無味無臭液体のようなものだ。僕た ちに与えられたのは今、今このときだけなのである。
 僕たちは自分が過去から未来へと連綿と生き長らえる何者かの一部だと感じた瞬間に自分自身を見失う。そして無責任で怠慢になる。そういう考えの中に夢や 希望、絶望や諦め、期待や不安といった人生のカラクタが混ざり込み、僕たちをひたすら翻弄してしまうのだ。過去への未練や後悔、未来への憧憬や畏れ。ただ 一度生まれ、わずかな時間で死に滅びてしまう僕たちは、この二つの甘い誘惑につい引っかかりそうになる。偽りの神は現在の中にいるのではなく、そのように 過去と未来の中に住んでいる。
 本当の神だけがいまこうしてこの瞬間に存在し、僕たちを小さな声で励ましてくれているのだ。あなたはあなた自身をひたすらに見よ、と。あなた自身を常に 見失わず、あなた以外のありとあらゆる存在に対して身構え、なすべきことをなせ、と。あなた以外のありとあらゆる存在を慈しみ慰めるために、いまこの瞬間 に自らが欲することをなせ、と。あなたはいまここにしかいない。そのあなた自身があなたという必然の唯一の根拠なのだ、と。だから、たったいまあなたはな すべきことをなせ、と。
 僕たちは今の中にしか生きられない。歴史の中に僕たちはもうどこにもいないのだ。過去の中にもこれからの過去の中にも僕たちはどこにもいない。今、この 瞬間の中にしかいない。この瞬間だけが僕たちなのだ。時間に欺かれてはならない。時間に身を委ねたり、時間を基軸として計画を練ったりしてはならない。そ ういう過ちを犯した瞬間、僕たちは未然のものとなり、永遠に自らの必然から遠ざけられてしまう。そして、影も形もない希望や取り返しのつかない事柄への後 悔や懺悔の虜となり果て、偽りの神の信徒となるほかに生きる術を失ってしまうのだ。
 この胸に深々と突き刺さる時間という長く鋭い矢、偽りの神の名が刻まれた矢をいまこそこの胸から引き抜かねばならない。その矢を抜くことで、僕たちは初 めてこの胸に宿る真実の誇りを取り戻すことができるのだから……。》(下巻299-301頁)