不連続な読書日記(2008.10-12)



【読了】

●水上勉・佐々木守・小島剛夕『一休伝』上中下(集英社:2005.7.20〜9.21)
●鶴見和子・佐佐木幸綱『鶴見和子・対話まんだら  佐佐木幸綱の巻  「われ」の発見』(藤原書店:2002.12.30)
 この9月、一週間ほど入院した。高熱が続いたのと、ベッドのなかでぐずぐず寝転んで過ごす習慣がついたのとで、退院後、何をするにも億劫で、体と頭がい うことをきいてくれない日々が続いた。その間、雑誌で琳派の作品と解説を日がな一日、午睡つきで眺めて暮らしたのと、数日かかって少しずつ『一休伝』(の 主に小島剛夕の絵)に没頭したのと、何度も何度も繰り返し反芻しながら、鶴見和子と佐佐木幸綱の歌談義に読み耽ったのとが精一杯で、以後、ますます下降線 をたどっていった。

●丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス──無意識の深みにうごめくもの』(講談社学術文庫:2007.10.10/1990)
 鶴見和子と佐佐木幸綱の対話を何度も何度も繰り返し反芻していたのと並行して、入院前に読みかけていた本書を読み終えた。最初のうちは、このいかにも頭 だけで拵えられた(としか思えなかった)理論書を受け付けられない状態が続いた。鶴見和子が、「私は今杖をついて、毎日歩くおけいこをしてますけれども、 大体歌が出てくるのはそうやって歩いているときです。歩くおけいこをしている。だから歩かなかったら、言葉を失うんです。私はそう思ってる。歩くことに よって、言葉が出てくる。その言葉は論文の言葉とは別なの。」とか、「脳出血の後遺症はもう一生治らないから、これからは歌で自分の考えを述べていくよ り、しようがないと今思っているんです。」とか、「内発的発展論という発想でも、倒れてから初めて、内発性ということが何かが、だんだん身にしみてわかっ てきたように思う。抑えても抑えても私の個体から出てくるものが内発性なのね。」と語っている、そうした生命のリズムにのっとった(と思える)言葉しか受 け付けられない状態が続いていた。この病み上がりの一時的な(と今になってそう思う)状態を大切に育んでいけば、詩歌や芸術を「味わう」ことにつながって いったかもしれない。『言葉・狂気・エロス』や『言葉と無意識』に書かれた事柄の根っこのところにある体験を再現することだってできたかもしれない。

●築山節『脳と気持ちの整理術──意欲・実行・解決力を高める』(生活人新書,NHK出版:2008.4.10)
●築山節『脳が冴える15の習慣──記憶・集中・思考力を高める』(生活人新書,NHK出版:2006.11.10)
 『言葉・狂気・エロス』をなんとか読了してから、いよいよ深刻なスランプに陥ってしまった。頭がフリーズしかけているのが日々実感できるのが気持ち悪 かった。半年前は、米山公啓著『左脳がみるみる若返る本+CD』で劇的に回復した。同じ方法をとるのが億劫だったので、評判のベストセラー本に頼ってみ た。劇的とまではいかなかったけれど、立ち直りへの足場は固められたと思う。

●辻原登『マノンの肉体』(講談社文庫:2008.5.15/1994)
 「マノンの肉体」はてっきり官能小説、性愛小説のたぐいかと思って読み始めたら全然違っていて、語り手が大量の社員の首を切ったけじめに会社をやめて神 戸から横浜に転居したら抗原抗体複合体依存性過敏症に罹り、その入院中に娘に読んでもらった「マノン・レスコー」でなぜ作者はマノンの肉体について一切描 写しなかったのかが気になっているうちに退院して、従兄の四十九日の法要に出かけた和歌山で七年前の殺人事件のことを知り当時の記事や裁判記録まで取り寄 せて推理をたくましくしているうちに妻が出奔し、病後の関節の痛みや熱とともに何か過剰なものがからだからあふれ出て歯止めがきかなくなり事件の起きた廃 屋の戸に手をかけると「奥で何かうごめく気配がした」、と荒削りに筋をまとめるとこんな支離滅裂なものになるなのだが、これが不思議と一本筋の通った読中 読後感をもたらすのだから辻原登の力量は相当なものだと思う。作品としては表題作よりも、ラフカディオ・ハーンの紀行文「江ノ島行脚」になぜ富士の描写が 出てこないのかという問いに始まり、ある未亡人の過去の記憶を確認するために訪れた江ノ島の映画館で小津安二郎の「浮草」を観たあと、人っ子ひとりいない 参道をまるで島の宮司のようにゆっくりと落着いておりて行くと江ノ島大橋と弁天橋が欄干の一部を残して水の中に沈んでいた、とこれもまた荒削りにまとめる とこんな感じの「片瀬江ノ島」の方が、短くてその分読後の印象が鮮やかなので個人的には好きだ。文章の力だけでどんな世界にだって現実性を与えてみせる、 そういえばそれこそ小説の力だったのだ。

●松岡正剛『白川静──漢字の世界観』(平凡社新書:2008.11.14)
 レヴィ=ストロースが今年百歳を迎えた。白川静は日本のレヴィ=ストロースである。

●小池清治『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫:1995.6.7/1985)
 時枝誠記『国語学原論』(岩波文庫)の総論と前田英樹の解説を読み終えたときに東京の八重洲ブックセンターでこの本をみつけ、帰りの新幹線の中でほとん ど夢中になって読んだ。太安万侶、紀貫之、藤原定家、本居宣長、夏目漱石、時枝誠記の六人が中心的に取り上げられていて、その六つの章のそこかしこに 「えっ、そうだったの」という発見があった。この本はしばらくおいてもう一度最初から読み直したいと思う。

●坂井克之『心の脳科学──「わたし」は脳から生まれる』(中公新書:2008.11.25)
 この本で伝えたかったことは最終章にまとめて記している。あとがきにそう書いてあったので、まず終章「物質現象の結果として「わたし」が生まれる」に目 を通した。そこにはこういうことが書いてある。──実は「わたし」が脳の持ち主なのではなく、「わたし」の持ち主が脳である。なぜその情報が「わたし」に 見えるのか。でも「わたし」が実体として存在しないのであれば、つまり物質世界に存在しない「わたし」の世界(「わたし」が感じたり考えたりする精神活動 のすべて)が虚構であり、あるいはせいぜい現象でしかないのであれば、この問いかけはおかしい。脳で表象された情報そのものがこれを見ているように感じて いる「わたし」を作りだしている。そう考える方が科学的アプローチの対象となる。あるいは「脳」から「わたし」へという流れで考える際、思考するときに脳 が活動するという方向ではなく、脳が活動した結果として「わたし」の思考という主観的な実感が生まれるという方向で考えていく必要がある。そのような発想 とアプローチの転換を経て、最近の脳科学は脳(=「わたし」)を読むこととそれ(=「わたし」)操作することを含むものになった。「わたし」を科学の対象 にすることにはメリットより不安の方が大きい。それを乗り越えてどのような意義のある人間観を形成できるのか。明確な答えを見出すことはできない。でも真 理はそれ自体が絶対的な価値を持つものであると私(坂井)は信じている。(以上)
 もしも将来、「わたし」を作り上げている脳のメカニズムが明らかになり、その社会的な「応用」が可能になったとして、そのことによって「人間観」や「社 会観」が深刻な影響を蒙るのだとすれば、土台それはその程度のものでしかなかったのだし、脳が作るものなど所詮は薄っぺらなものだったということなのだ。 「わたし」の持ち主は、たぶん脳よりもっと大きなものに違いなくて、それはたとえばこれまで「身体」とか「自然」と呼ばれてきたもののことなのではない か。

●福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書:2008.10.20)
「私たちにとっての媒体[メディアム]とは何か。それは、時間である、と私は思う。時間の流れとは私たち生命の流れであり、生命の流れとは、動的な平衡状 態を出入りする分子の流れである。つまり時間とは生命そのもののことである。生命の律動が時間を作り出しているにもかかわらず、私たちは時間の実在を知覚 することができない。/いや、むしろこういうべきだろう。生命は時間という名の媒体にどっぷりと浸されているがゆえに、私たちはふだん自分が生きているこ とを実感できないのであると。ならば、時間の存在を実感できる一瞬だけ、私たちは私たちを運ぶ媒体の動きを知り、私たち自身が動いていること、つまり生き ていることを知覚しうるのではないだろうか。」(275頁)
「時間の存在を、時間の流れを知るたったひとつの行為がある。時間を追い越せばよい。巡航する時間を一瞬でも、追い越すことができれば、その瞬間、私たち は時間の存在を知ることができる。時間の風圧を感じることができる。それが加速覚に他ならない。/巡航する時間を追い越すための速度の増加、それが加速度 である。加速されたとき初めて私たちは時間の存在を感じる。そしてそれは最上の快感なのだ。なぜならそれが最も直截的な生の実感に他ならないから。/自然 は、加速を感じる知覚、加速覚を生物に与えた。進化とは、言葉のほんとうの意味において、生存の連鎖ということである。生殖行為と快感が結びついたのは進 化の必然である。そして、きわめてありていにいえば、できそこないの生き物である男たちの唯一の生の報償として、射精感が加速加速覚と結合することが選ば れたのである。」(283頁)

●梁石日『男の性(さが)』(幻冬社アウトロー文庫:1999.8.25/1992)
●代々木忠『プラトニック・アニマル』(情報センター出版局:1992.5.4)
 梁本は『男の性解放』というタイトルで情報センター出版局から1992年12月に刊行されたもの。これを読んで、同時期、同じ出版社から出た代々木本を 想起した。で、代々木本を16年ぶりに読み返してみたら、やはり名著だった。いたるところに叡智の言葉がちりばめられている。「たとえばソープランドや SMクラブにきちんと行ける弁護士とか検察官を、私は素晴らしい人たちだと思う。」「オーガズムというのは、ある意味では時間さえも超越してしまうし、物 事の本質が見えてしまうので、おそらく巫女たちの預言[古代ギリシアの娼婦=巫女はオーガズム状態で神と交流し預言もしていた]というのもまんざら的外れ ではなかったのだろう。」「意識の最も深いところにある根っこを見てしまうから、みんなつながっているのだというところまでいってしまう。だからオーガズ ムというのは、エゴの死であり、一つの悟りなのだ。」「男でも女でも、人間ができるのは、本当は自分が気持ちよくなることだけなのだ。自分が気持ちよく なったときに初めて、その波動によって相手が気持ちよくなるのである。」「オーガズムとは生の中に位置した一つの死」である。「精神的な動物〈プラトニッ ク・アニマル〉に戻ったとき、私たちはとかく否定的にとらえがちだったものごとさえも肯定的に受けとめられるようになる。なぜなら、制度の世界の価値観や 固定観念に縛られ、自分の見栄やプライドを守るために他人を疑ってみる必要などなくなるからだ。そうすれば、自分が自分で作り出した多くの苦しみからも人 は解放されるだろう。それが私の考える〈愛の状態〉である。」

●メアリー・ローチ『セックスと科学のイケない関係』(池田真紀子訳,日本放送出版協会:2008.11.25)
 性現象と性科学をめぐる「イケない」エピソードが満載で、それが、今のところたぶんこれしかないだろうと思える文体で語られている。これには翻訳者の手 柄が大きいと思う。

●グラハム・ハンコック『異次元の刻印――人類史の裂け目あるいは宗教の起源』下(川瀬勝訳,バジリコ:2008.9.21)
 『セックスと科学のイケない関係』に「オーガズムは異星人に誘拐されるのに似ている」(294頁)と書いてあるのを読んで、途中で放置していたハンコッ ク本を思い出し、最後まで一息に読み終えた。──シャーマン的な変性意識状態(トランス、法悦状態)と性的オーガズムの体験には、心身の両面にわたる共通 の根があって、それは(多くの場合、DMT[ジメチルトリプタミン]などの幻覚性物質の摂取による)脳内の化学プロセスである。おそらくそういうことなの だろう。霊的体験と官能、スピリチュアリティとセクシュアリティとの洞窟(脳)における生化学的な結合。異次元の存在との遭遇、すなわちエゴの死と再生。 しかし、それは(脳内神経系がもたらす)幻覚なのではない。そもそも、幻覚を見る能力は人間に限定されたものではない。「たとえば、LSDを投与されたク モは、複雑に入り組んだ奇怪な「アラベスク模様」の巣を作る。」(255頁)つまり、異次元の存在は内面の産物なのではない。それは「人間ではない明らか に非物理的な知性体」として現実に存在し、今日でも私たちとともにある(261頁)。南極大陸のうちに眠る古代の文明のように。


【購入】

●水上勉・佐々木守・小島剛夕『一休伝』上中下(集英社:2005.7.20〜9.21)【¥714+762+800】
 病み上がりの静養期間に読めるものというと漫画本になる。

●鯨統一郎『哲学探偵』(カッパノベルス,光文社:2008.9.25)【¥838】
 「哲学と短歌の無茶な核融合」とか「みそひともじの中に森羅万象を詠む!」といったコピーに、なんじゃこれは、と速攻で購入。全八話のうち、タレス(何 もかも世界は水からできている哲学の始祖タレスの主張)とソクラテス(誰よりも汝自身を知った人本を書かない智者ソクラテス)に目を通した。以下、デカル ト、パスカル、カント、ショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデッガーと続く。扉に掲げられたウィトゲンシュタインの言葉「これまでのすべての哲学は誤って いるのではない。無意味なのだ。」が意味深長。

●高橋睦郎『遊ぶ日本──神あそぶゆえ人あそぶ』(集英社:2008.9.10)【¥3200】
 書評を読んで本屋に走ることがときにはあって、この本は毎日の三浦雅士の「たんなる日本論ではない。著者のしなやかな感受性は、人類の始原にまで迫って いる、と思わせられる。」という思わせぶりな文章にそそられた。日経の山折哲雄の書評でも言及されていた世阿弥=巫者論が興味深い。「神楽者はほとんど巫 者である。巫者は枕を共にすることによって神と交わる。神と交わることで神を体現し、神として遊び、神を遊ばせる。」

●保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社:2008.9.25)【¥1900】
 「小説とは長ければとても一晩では読めず、長さゆえにその全体を詩のように暗記することができない、というそのことを基盤とした芸術で、これは小説につ いて考えるときの出発点だ。」保坂和志らしい意地の悪い言葉だ。この底意地の悪い人がどうして『季節の記憶』や『カンバセイション・ピース』の作者なのか と思うが、だからこそなのかもしれないとも思う。『小説の自由』『小説の誕生』と続く「小説をめぐって」の連載は終わったというけれど、「終わる理由」を この人はどうつけているのだろうか。それとも理由などいらないか。

●福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書:2008.10.20)【¥820】
 この人はほんとうに文章が上手い。本書の前半は、極上のミステリー小説のように綴られた性決定遺伝子をめぐる科学者たちの物語(「Yの悲劇」とでも?) であり、後半は、性決定へのカスケードを演じる細胞内の物質の物語である。保坂和志の小説論がそれ自体小説であるように、福岡伸一の科学啓蒙書は細胞内物 質が登場するである。

●坂井克之『心の脳科学──「わたし」は脳から生まれる』(中公新書:2008.11.25)【¥900】
●下條信輔『サブリミナル・インパクト──情動と潜在認知の現代』(ちくま新書:2008.12.10)【¥900】
 最近、脳神経細胞を外から観察することで、その脳の持ち主がその時何を見ているかを画像化できたというニュースを読んだ。坂井本は、MRIを使った脳画 像研究の最先端の話題と、脳科学が決めていくことになるかもしれない未来の可能性の一端を語る。下條本は、『サブリミナル・マインド』(中公新書: 1996)『〈意識〉とは何だろうか』(講談社現代新書:1999)以来ほぼ十年ぶりの新書。

●時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫:2007.3.16)【¥700】
●時枝誠記『国語学原論(下)』(岩波文庫:2007.4.17)【¥700】
●時枝誠記『国語学原論 続篇』(岩波文庫:2008.3.14)【¥760】
●小池清治『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫:1995.6.7/1985)【¥800】
●松岡正剛『白川静──漢字の世界観』(平凡社新書:2008.11.14)【¥780】
 いま書いている貫之論がだんだん難しいところにさしかかってきた。これらの書物を「参考文献」として読み始めて、ますます迷宮に迷い込んでいる。

●ウィーン性科学研究所編『性学事典』(高橋鐵訳,河出i文庫:2007.7.20)【¥1350】
●夏目祭子『性に秘められた超スピリチュアルパワー』(徳間書店五次元文庫:2008.2.29)【¥648】
●梁石日『男の性(さが)』(幻冬社アウトロー文庫:1999.8.25/1992)【¥495】
●メアリー・ローチ『セックスと科学のイケない関係』(池田真紀子訳,日本放送出版協会:2008.11.25)【¥2100】
 最近ある「プロジェクト」をたちあげようかと考え始めている。そのための「参考文献」として。

●辻原登『マノンの肉体』(講談社文庫:2008.5.15/1994)【¥571】
 「官能の迷宮としての小説の可能性を切り開いた意欲的作品集」という謳い文句に惹かれた。

●梅原猛『うつぼ舟T 翁と河勝』(角川学芸出版:2008.12.10)【¥2200】
 知人に、旧姓川勝(河勝?)さんという女性の環境宗教学者がいる。中沢新一著『精霊の王』を読み、秦河勝が赤穂の坂越に漂着し荒神となったという伝承を 知り、そのことを話したときに、実は、と明かされた。個人的な思い出話はともかく、とうとう世阿弥が梅原猛に憑依した。

●岩野卓司・若森栄樹編『語りのポリティクス──言語/越境/同一性をめぐる8つの試論』(彩流社:2008.4.20)【¥2500】足り
 山田哲平氏の「日本、そのもう一つの──貫之の象徴的オリエンテイション」が読みたくて、昼間のパーティの帰り、少しアルコールがまわった勢いで購入。 序文に出てくるテーゼ、「すべての語りには語り自身による語りがともなっている」は、どこか古めかしく聞こえもする。

●M.J.アドラー/C.V.ドーレン『本を読む本』(外山滋比古・槇未知子訳,講談社学芸文庫:1997.10.10)【¥900】
 本の読み方がよくわからなくなった。一から修行したいと思った。

●築山節『脳と気持ちの整理術──意欲・実行・解決力を高める』(生活人新書,NHK出版:2008.4.10)【¥700】
●築山節『脳が冴える15の習慣──記憶・集中・思考力を高める』(生活人新書,NHK出版:2006.11.10)【¥700】
●『ニコリ「数独」名品100選』(ニコリ編著,文藝春秋:2006.5.30)【¥838】
 とにかく頭が働かない。頭が働かないと体も働かない。感情もコントロールが利かなくなる。そのうち気力や意欲がそがれていく。それを頭の中だけで解決し ようとすると際限のない悪循環が始まる。本が読めなくなる。読んでも頭に入らなくなる。言葉が気持ちを動かさなくなる。書けなくなる。何をしても面白くな くなってくる。年に数回、かならず繰返しこうなる。

●『BRUTUS』2008年10月15日[特集|琳派って誰?](マガジンハウス)【¥600】
 一日ゆったりとした気持ちで過ごすための旅の道連れに選んで買った。狩野派と琳派の違いの解説がいい。(狩野派=幕府ご用達の世襲のゼネコン。琳派=赤 の他人の絵を「いい!」と思った個人が勝手に継承するうち、世間のほうで「派」と呼ぶようになった。)「「我」なんて邪魔。だって「我」があったら、デザ インできないもん。」という橋本治の言葉もいい。

●『現代思想』2008年11月[特集|〈数〉の思考](青土社)【¥1238】
 川田順造さんと酒井隆史さんと立岩真也さんの連載を読み、特集では黒川重信さんと小島寛之さんの対談「現代数論の戦略」を読んだ。編集後記に花田清輝の 「群論──ガロア」が紹介されていた。

●『新潮』2008年12月[歿後四半世紀特集|小林秀雄の「響き」](新潮社)【¥1048】
●『dankaiパンチ』2008年12月[哀しみのモーツァルト](飛鳥新社)【¥933】
 小林秀雄の未発表音源「勾玉について」が収録された73分の名講演選CDと「他では入手不可能、選りすぐり12曲70分」の「哀しみのモーツァルト」を 入手するために購入。『新潮』には保坂和志の連載「カフカ『城』ノート」の第四回目が掲載されていた。


  【ブログ】

★12月30日(火):『コーラ』6号

 Web評論誌『コーラ』6号が発行されました。
 「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第7章を寄稿しています。よかったら眺めてみてください。

●「コーラ]
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

●哥とクオリア/ペルソナと哥
 第7章 哥の伝導体
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-7.html