不連続な読書日記(2008.8-9)



【書評】

●ドゥニ・ゲジ『ゼロの迷宮』(藤野邦夫訳,角川書店:2008.7.31)

《人生に必要な物語》

 メソポタミア南部の都市ウルクに建造されたイナンナ神殿の女大司祭からイラク戦争下の考古学者まで、五千年の時を隔てた五つの物語に登場する同じ名と顔 と声と躰をもつ主人公。
 この五人のアエメールに寄り添って物語を糾っていく男たちは、それぞれなんらかのかたちで数と計算と観測と記号の世界に(あるいは殺戮と破壊の世界に) かかわっている。ゼロの概念の発見という五つの物語に伏流する趣向はそこに由来する。
 それは性と死、破壊と復元、不妊の子宮とからっぽの墓とが交錯する、叙事詩か神話の文体で綴られた物語群が湛える静謐でどこか抽象的な幸福感の隠し味と なっている。
「これはどちらかといえば、飛び越えることなんだ。おれたちから見れば、死は消えてしまうことじゃなく、生命の特殊な形式なんだよ。ないことが、あること の特殊な形式なのとおなじことさ。これでおれたちインド人が、空白の符号を考えだした理由がわかるだろう。」
 生命の特殊な形式としての物語。
 この作品が『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』の作者によるものだということを知らないで読むのがいい。そして、「空前のスケールで描く、壮大な数学歴 史ファンタジー!」と腰巻に書かれた謳い文句は無視して読むのがもっといい。
 そういった予備知識はいっさい忘れ、物語の時間の流れに身も心もゆだねてこそ、第5章に登場する九世紀はじめのアラブ世界最大の詩人の次の言葉が生きて くる。
「われわれは大王や大聖人や、大将軍や大学者のことを、耳にたこができるほど聞かされてきた。彼らがいなくても、人生はよくも悪くもないだろうよ。必要な のは、物語作家だけだ。物語やコントや神話がなければ、われわれの人生はイヌの一生より悪くなるだろうな。」


【読了】

●ロノ・ウェイウェイオール『鎮魂歌は歌わない WILEY'S LAMENT』(高橋恭美子訳,文春文庫:2008.7.10)
 時折、無性にハードボイルド系が読みたくなる。かつてキース・ピータースンのジョン・ウェルズ・シリーズ(創元推理文庫)に陶酔し、8年後にサム・リー ヴズのシリーズ第一作『長く冷たい秋』(ハヤカワ文庫)に痺れ、その7年後に本作、ワイリー・シリーズ第一作に没頭した。登場人物の過去の人間関係(男た ちの友情と、男と女の愛憎)がよくわからなかったが、そういう些事にはかかわらず、暴力と復讐の物語は疾走していく。白黒の古い映画を観終えたような読後 感。印象深い人物群がつかのま登場して、余韻を残してスクリーンから消えていく。

●R・D・ウィングフィールド『フロスト気質』上下(芹澤恵訳,創元推理文庫:2998.7.31)
 下巻にさしかかったあたりからノンストップで一気に最後まで駆け抜けた。おかげでまる二日何も手につかない状態が続いた。読み終えた日の夜の夢にまでフ ロストが出てきた。スクリューボール・コメディのテイストとはこの作品に漂っていたもののことなのだろうか。既訳の三冊が未読。続けて読むと一、二週間を 棒に振ることになる。

●V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊、ふたたび──見えてきた心のしくみ』(山下篤子訳,角川書店:2005.7.30)
 先々月の池谷裕二著『進化しすぎた脳』に続いて、買い溜めていた脳科学関係本を読んだ。この本が無類に面白いことは読む前からわかっていた。わかってい て、しっかり夢中になり読み耽った。このまま正編に進みたいが、それはまた他日の楽しみにとっておく。

●高橋元洋『日本人の感情』(ぺりかん社:2000.4.20)
 万葉集の感覚世界をとりあげた第二章「“感情”と心の外部──古代的世界観の場合」を中心に、全体をざっと眺めた。第四章「身体から分離する“感情” ──近世思想の場合」に富士谷御杖がとりあげられている。この本はいつかまた熟読することになる。

●平田遼『思考とは脳裏で死者が語り合う事である。』第一部「ベイショアと絵本」(新風舎:2005.3.25)
 著者から寄贈を受けた。少しずつ読み継いでようやく第一部を終えた。村上春樹と保坂和志と埴谷雄高をブレンドしたような感じ。語り手の(日本での)過去 の物語と(シンガポールでの)現在の物語と(脳裏での)対話による思考。それらが1:2:7ほどにブレンドされている。村上春樹的部分(過去語り)と保坂 和志的部分(現在進行形)がもう少し充実して、かつ埴谷雄高的部分(脳科学や精神分析や哲学的思弁をめぐる思考小説)と素材的に緊密につながっていくと小 説としての面白さが増すと思う。第二部に期待。個人的には知的障害者のマークとのかかわりがもっと濃密に描写されることを期待している。

●小松英雄『古典再入門──『土左日記』を入りぐちにして』(笠間書院:2006.11.21)
 『古典和歌解読』を読み始めて『古典再入門』をまだ最後まで読み終えていなかったことに思い当たり、その第W部「絶えて桜の咲かざらば」を大急ぎで読ん だ。この人の書いていることは本当のことなのではないかと思う。

●丸山圭三郎『言葉と無意識』(講談社現代新書:1987.10.20)
 再読。何冊かの本を第二の書斎から第一の書斎に移動させる際、ふと眼にとまった。岸田秀著『性的唯幻論序説 改訂版』と併読した。二十年前の懐かしい知的風景がよみがえる。ソシュールのアナグラムとやまとうたの関係が妖しい。

●岸田秀『性的唯幻論序説 改訂版――「やられる」セックスはもういらない』(文春文庫:2008.9.10)
 その昔、ものぐさ精神分析シリーズにはまったことがあった。この切り口と語り口はやはり懐かしかった。同時並行的に読んだ丸山圭三郎著『言葉と無意識』 に何度か岸田秀の名が出てくるのにも時代を感じた。

●桑子敏雄『感性の哲学』(NHKブックス:2001.4.20)
 再読。感は「感[うご]くこと」であり、性は潜在的な能力である。性が世界と交感して能力を発揮した状態を「情」という。性が感じて情となる。情は性の エネルゲイア(実現態)である。人間の心のはたらきは、性(精神的作用の発現能力)と情(性が外界と相互作用して発生する現実的な状態)の統合である。ア リストテレス哲学と中国思想(朱子学)と大森哲学のブレンド。いよいよ『西行の風景』に挑むか。

●ドゥニ・ゲジ『ゼロの迷宮』(藤野邦夫訳,角川書店:2008.7.31)
 読み始めたらとまらなくなった。「数学歴史ファンタジー」と銘打たれているが、数学も歴史もファンタジーも関係なく楽しめた。

●グラハム・ハンコック『異次元の刻印――人類史の裂け目あるいは宗教の起源』上(川瀬勝訳,バジリコ:2008.9.21)
 洞窟壁画とアヤワスカ(魂のツタ)体験とアブダクション(UFO誘拐)と妖精伝説とシャーマン。これらに共通するものは何か。

【購入】

●リチャード・パワーズ『われらが歌う時』上(高吉一郎訳,新潮社:2008.7.30/2003)【¥3200】
 年に一冊は海外の新作小説を読むことに決めている。昨年はミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』を読んでいた。面白い作品だったのに、気がついた らなぜか読みかけのままになっている。今年はイアン・マキューアンの『贖罪』を読んだから、もう「ノルマ」は達成している。リチャード・パワーズは、ほぼ 7年前『ガラテイア2.2』(若島正訳,みすず書房)を読んで驚嘆した。盆休みにでも一気読みできればと思って購入した。

●R・D・ウィングフィールド『フロスト気質』上下(芹澤恵訳,創元推理文庫:2998.7.31)【¥1100×2】
 ハードボイルド系(『鎮魂歌は歌わない』)に少し酔ったら、今度は無性に警察小説が読みたくなった。それもクセのある刑事が活躍する、暴力シーン抜きの 本格物が読みたくなり、フロスト警部シリーズの第四弾が刊行されたばかりと聞きつけさっそくに入手した。冒頭数頁を読んだだけで、しっかりはまっている。

●土取利行『壁画洞窟の音――旧石器時代・音楽の源流をゆく』(青土社:2008.8.10)【¥2200】
 『もの思う鳥たち―鳥類の知られざる人間性』という本を買いに出かけた書店で、鳥、声、音の連想で音楽書の新刊コーナーを覗いてみたら、『縄文の音』の 続編が出ていた。かつて「仮面的なもの」についてあれこれ考察をめぐらせていたときに読んで刺激を受けた。そのときの基本的なアイデアは、大聖堂は(聴き 手がその内部に入り込む)楽器で、仮面的なものとは楽器であるというものだった。洞窟的なものもまた楽器=仮面ではないか。最近そんなことを考え始めてい た矢先に、ちょうどタイミングよく出会えた。

●ドゥニ・ゲジ『ゼロの迷宮』(藤野邦夫訳,角川書店:2008.7.31)【¥2400】
 『破綻した神 キリスト』(バート・D・アーマン)に続いてbk1から届いた。

●小松英雄『古典和歌解読──和歌表現はどのように深化したか』(笠間書店:2000.10.30)【¥1500】
 古今集はまだ誰によっても読み解かれていない。デタラメで無責任な放言が横行し、いまだ研究以前の段階にある。この激越な断言はいかにも小松英雄らし い。

●新川哲雄『「生きたるもの」の思想──日本の美論とその基調』(ぺりかん社:1985.5.10)【¥1200古】
 書店や古本屋の店先で妙な胸騒ぎを覚えることがある。この本を買い求めたとき、今日この店で運命的な書物との出会いを果たすのではないかという予感が立 ち上がっていた。

●岸田秀『性的唯幻論序説 改訂版――「やられる」セックスはもういらない』(文春文庫:2008.9.10)【¥743】
 懐かしい。仕事帰りに速読の練習をかねて読むことにした。

●丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス──無意識の深みにうごめくもの』(講談社学術文庫:2007.10.10/1990)【¥800】
 『言葉と無意識』ですっかり丸山本に浸った。この本はその続編で「狂気と芸術とエロティシズムに通底する言葉の深層風景を、欲動の視点から捉え直した試 み」。

●大野晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』(中公文庫:1990.11.10/1987)【¥743】
 この対談は中央公論社刊の叢書『日本語の世界』の付録についていたものだと思う。大岡信が解説に「「てにをは」の重要性と面白さを徹底して追及した本 で、かつてこのような機智と説得性に富んだ文法の書が書かれたことは一度もなかったと言っていい」と書いている。

●郡司ペギオ‐幸夫『時間の正体――デジャブ・因果論・量子論』(講談社選書メチエ:2008.9.10)【¥1700】
 グラハム・ハンコック『異次元の刻印――人類史の裂け目あるいは宗教の起源』か河合隼雄『源氏物語と日本人』を買おうと思って本屋に足を運び、つい目に ついたので衝動買い。この人の本はとんでもなく面白いことがとらえどころのない文章で語られているので、読み出したら一気に最後まで進まないと何が書いて あったか判らなくなる。

●グラハム・ハンコック『異次元の刻印――人類史の裂け目あるいは宗教の起源』上下(川瀬勝訳,バジリコ:2008.9.21)【¥1600×2】
 『神々の指紋』が面白かったのと、洞窟壁画が題材にされていることが決め手になった。

●坂本龍一編集『ラブコト』(ソトコト9月号増刊,木楽舎:2008.9.1)【¥838】
 『エロコト』は「エロ急ぐ」あまり、内容が過激になり、各方面からお叱りを受けた。ラブコト宣言と題した文章なかで坂本龍一さんはそう書いている。『エ ロコト』のどこが「過激」だったのかと思う。正直いって、あの本と比べると『ラブコト』はまるで読み応えがない。付録のCDのコトリンゴ「to stanford」は悪くなかった。

●『PLAYBOY』2008年9月[特集|詩は世界を裸にする](集英社)【¥743】
 池澤夏樹が選ぶ20世紀の詩人10人。『PLAYBOY』誌が選んだ世界の詩人たち(15人)。5人の日本人を含む計25人の詩人の作品が1、2編ず つ、肖像写真と組み合わせてゆったりとした誌面で紹介されている。こういう形態の詩集をもちたいと思った。佐藤優さんの連載「役に立つ神学」がもう16回 目になっている。

●『サライ』2008年8月21日[特集|国宝「眼福」の旅](小学館)【¥648】
 人との待ち合わせの時間を埋めるためだけに買って読んだ。一時間ほど没頭した。


  【ブログ】

★8月7日(木):哥と共感覚・素材集(追録の1)

 M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(中島盛夫訳,法政大学出版局)。「共感覚」という語が二箇所に出てくる。いずれも、第二部「知覚された世界」の 「T 感覚すること」でのこと。
 一度目は、メスカリン体験をめぐる記述のなかで。二度目は、「発声映画」の話題につながる箇所で。該当箇所とその前後を、二日にわけて抜き書きする。
 メルロ=ポンティの文章は、読み始めるととまらなくなる。こんな大部の哲学書に、一夏没頭できたらいいと思う。その余裕がないのは残念。

◎空の青み/メスカリンの体験(彼は音そのものを見る)/耳はわれわれに正真正銘の「物」を与える

「…もろもろの感官は互いに連絡しあっている…。(略)もし私が感官の一つにおのれを閉じこめようと欲し、例えば私のすべてを眼のなかに投げいれ、空の青 みに身をまかせるならば、私は程なく見つめているという意識さえもたなくなる。そして私がおのれをすっかり視覚と化そうと欲するまさにその刹那、空は「視 覚的知覚」たることをやめて、その刹那の私の世界となる。」(370頁)

「感覚的性質は知覚と同延であるどころか、好奇心ないし観察という態度の特殊な産物なのである。私のまなざしをすっかり世界に委ねるかわりに、私がこのま なざしそのものに向い、“正確にいって私は何を見ているのか”[傍点]と自問するとき、感覚的性質が現われるのである。それは私の視覚と世界との間の自然 なつきあいのなかには出現しない。それはある問いに対する私のまなざしの答えであり、おのれをその特殊性において知ろうと努める視覚の、二次的もしくは批 判的な働きの結果である。」(372頁)

「メスカリンの中毒は公平無私な態度を妨げ、患者をその生命衝動に委ねるから、共感覚(synesthe'sies)の発生を助長するはずである。じじつ メスカリンの影響のもとでは、フルートの音は緑青色に見え、メトロノームのチクタクいう音は暗やみのなかで灰色のしみとなって現われる。しみとしみとの間 の空間的な間隙は音と音との間の時間的間隔に対応し、しみの大きさは音の強さに、しみの空間的な高さは音の高さに対応する。(略)共感覚的経験はこうし て、感覚の概念と客観的思惟とを改めて問題にする、新たな機会を提供しているのである。“それというのも被験者は、ただ単に音と色とを同時に経験すると いっているのではなく、色彩が形づくられるその場所に、彼は音そのものを見るのだからである”[傍点]。視覚が視覚的 quale によって、音が音響的 quale によって定義されるならば、被験者のこのいい方は文字通り意味を失ってしまう。しかし、何といっても音を見るということ、色を聞くということは現象として 存在するのだから、被験者の言明が意味をもつような仕方で、われわれの定義を構成する責任がわれわれに存するのである。そしてこれは例外的な現象でさえな い。共感覚的知覚はむしろふつうのことなのだ。」(374-378頁)

「一羽の鳥がそこから飛び立ったばかりの木の枝の運動のうちに、この枝のしなやかさ、もしくは弾性が読みとられ、林檎の枝と樺の枝とがこうして直ちに見分 けられる。われわれは、砂のなかに沈んだ鋳鉄の塊りの重さや水の流動性やシロップの粘性を見ることができるし、また同様にして、道路を通る馬車の響きのな かに敷石の堅さと凹凸を聞きとることができるのである。したがって「軟らかい」音「艶のない」音「乾いた」音などといわれるものももっともなことなのだ。 耳がわれわれに正真正銘の「物」を与えることを、たとえ疑うことができるにしても、少なくとも耳が空間における音を越えて、「音を出す」ある物をわれわれ に提示し、これによって、他の諸感官と連絡していることは確かである。最後に、もし私がまぶたを閉じて、鋼の棒と科[しな]の木の枝とをたわめるならば、 私はこの二本の手の間で、金属と木材の奥まった組織を知覚する。したがって「あい異なる感官の与件」は、それぞれ比較を許さぬ性質として取り上げられた場 合には別々の世界に属することになるけれども、またそれぞれその特殊な本質において、物を吟ずる(moduler)一つの仕方であるので、それらはすべ て、その有意味的な核心によって互いに連絡しあっているのである。」(376-377頁)

★8月8日(金):哥と共感覚・素材集(追録の2)

 M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』から。

◎身体は実存の凝固した形態である/発声映画/身体は語にその原初的な意味を付与する感応的対象である

「これ[両眼視の総合]を諸感官の統一の問題に適用してみよう。諸感官の統一は、一つの根源的な意識のもとへのそれらの包摂によって理解されるのではな く、認識する唯一の身体へのそれらの統合によって、しかし決して完成されない統合によって理解されるはずである。相互感官的な対象と視覚的対象との関係 は、視覚的対象と複眼における単眼視像との関係に等しい。そしてもろもろの感官は、二つの眼が視覚において協力しあうように、知覚において相互に連絡す る。音を見たり、色を聞いたりする働きは、まなざしの統一が両眼を通じてなされるような仕方で、実現されるのである。こういうことが起るのも、私の身体が 並存する諸感官の総和ではなくて、諸感官の共働的な組織であり、そのあらゆる機能が「世界における(への)存在」の一般的運動のなかで捉え直され、結びつ けられているからである。つまり身体が実存の凝固した形態だからである。見ること、もしくは聞くことが、ある不透明な quale の単なる所有ではなくて、実存の一つの様式の体験であり、私の身体とそれとの同調であるならば、私が音を見たり色を聞いたりするということにも、一つの意 味がある。そして性質の経験がある仕方の運動もしくは振舞の体験であるならば、共感覚の問題にも解決の曙光が見出される。私がある音を見るというとき、私 が意味していることは、音の振動に、私の感官的存在の全体によって、そしてとりわけ色に感じうる私自身の区域によって、私がこだましているということなの である。客観的な運動、つまり空間における位置の変化としてではなく、運動の企投もしくは「潜勢的運動」として理解されるならば、運動は、諸感官の統一の 基礎である。発声映画が情景に単に音響上の随伴物を添えるにとどまるものではなくて、情景そのものの内容をも変えるということはよく知られている。フラン ス語に吹き替えられた映画を見ているとき、私は、ただ単に言葉と映像との不一致に気づくばかりではない。突如としてかしこで“別のこと”が語られていると 私には思われてくるのである。そして劇場と私の耳は吹き替えられた言葉で充たされているのに、この言葉は私にとって、聴覚的な存在さえもってはいない。そ して、私は、スクリーンからやってくる音のない別の言葉にしか耳を傾けていないのである。映写の途中、突然発声装置に故障が起きて、スクリーンの上で演技 しつづける役者の声が出なくなると、そのとたん私から去ってゆくのは、単にこの人物の言葉の意味だけではない。情景そのものも変えられてしまうのだ。今し がたまで生き生きしていた役者の表情は、狼狽したひとのそれのように、もつれ、こわばる。音の中断はスクリーンを一種の麻痺状態におとしいれる。観客の側 で役者の身振りと言葉とが一つの観念的な意義のもとに包摂されるのではなくて、言葉は身振りを、身振りは言葉を継承し、私の身体をとおして互いに通いあう のである。私の身体の感覚的側面と同様に、それらは直接相互に象徴しあう関係にあるが、それというのも、私の身体がまさに、相互感官的な等値と置換の既成 のシステムだからである。諸感官は、翻訳者を必要としないでおのずから互いに翻訳され、観念を通過することを要せずに互いに了解しあう。以上の注意は、ヘ ルダーの次の言葉──「人間とは、時には一方からまた時には他方から触発される一個の持続的な共通感官(sensorium commune)である」──の意味を十全に理解せしめるものである。身体像という概念でもって新たな仕方で描かれるのは、単に身体の統一だけではない。 身体の統一をとおして、諸感官の統一も対象の統一もまた然りである。私の身体は表現(Ausdruck)という現象の場所であり、むしろその現実性 (actualite')そのものなのである。そこにおいては例えば視覚的経験と聴覚的経験とは相互にはらみあい、これらの経験のもつ表現的な値が、知覚 世界の先述定的統一(unite' ante'pre'dicative)を基礎づけ、これをとおして、言語的表現(Darastellung)と知的意義(Bedeutung)とを基礎づ けるのである。私の身体は、あらゆる対象の共通の織地であり、少くとも知覚世界に関しては、私の「了解」(compre'hension)の普遍的な道具 である。」(382-384頁)

「要するに私の身体は、ただ単に、あらゆる他の諸対象とならぶ一個の対象でもなければ、さまざまな感覚的諸性質の複合体の一つにとどまるものでもなく、そ れにもましてあらゆる他の諸対象に“感応する”一個の対象なのである。つまり、それは、あらゆる音と共鳴し、あらゆる色と共振し、語を迎え入れる仕方に よって語にその原初的な意味を付与するところの、“感応的”対象なのである。(略)それゆえ、われわれは語の意義はもちろん、知覚されたものの意義でさ え、「身体的感覚」の総和に還元しているのではない。そうではなくて、身体にはさまざまな「振る舞い方」がある以上、身体とは自分自身の諸部分を世界の一 般的な象徴手段として用いるあの特異な対象なのであり、したがってそのおかげでわれわれがこの世界と「親しくする」ことができ、それを「了解し」そこに意 義を見出すことができるようになる当のものであるということ、これがわれわれの主張なのである。」(386-387頁)

★8月11日(月):物理的資源・情報処理の仕事・成功基準

 いま、別冊日経サイエンス『不思議な量子をあやつる』を読んでいる。よく理解できた、とはとてもいえないけれど、とにかく面白い。その冒頭論文「量子情 報科学とは何か」(M.A.ニールセン/古澤明訳)に、情報科学の3つのステップとその基本的な問題が紹介されている。
 ここに出てくる「物理的資源」「情報処理の仕事」「成功基準」の三つの語は、とても使い勝手がよい。いろいろな面で、応用が利きそうだ。

《2001年、ケニヨンカレッジのシューマッカー(Benjamin W. Schumacher)は、古典的な情報科学でも量子情報科学でも、本質的要素は次の3つのステップに集約されると提唱した。
【ステップ1】情報を表現する「物理的資源」を特定すること。よく知られている古典的な例はビット列だ。ビットは抽象的な存在(0と1)と考えられること が多いが、どんな情報も現実の物理的対象に符号化されることによって表現される。したがって、ビット列は物理的資源と見なされる。
【ステップ2】こうした物理的資源によって実行可能な「情報処理の仕事」を特定すること。古典的な例としては、情報源からの出力(例えば本に書かれた文 章)をビット列に圧縮し、それを元に戻すという2段階の仕事がある。圧縮されたビット列を元の情報に復元するのが仕事の中身だ。
【ステップ3】この仕事が「成功したかどうかを判定する基準」を特定すること。上の例では、元に戻したビット列が圧縮前の状態と完全に一致することが基準 となる。
 こうしてみると、情報科学の基本的な問題は「ある情報処理の仕事(2)を成功基準(3)に照らして完遂するために必要な物理的資源(1)の最小量はどれ だけか?」に集約できる。この問題がすべてではないにしろ、情報科学分野の多くの研究を考察するうえでよい視点を与えてくれる。》

★9月15日(月):人生に必要な物語──『ゼロの迷宮』

 ドゥニ・ゲジ『ゼロの迷宮』(藤野邦夫訳,角川書店)。

 メソポタミア南部の都市ウルクに建造されたイナンナ神殿の女大司祭からイラク戦争下の考古学者まで、五千年の時を隔てた五つの物語に登場する同じ名と顔 と声と躰をもつ主人公。
 この五人のアエメールに寄り添って物語を糾っていく男たちは、それぞれなんらかのかたちで数と計算と観測と記号の世界に(あるいは殺戮と破壊の世界に) かかわっている。ゼロの概念の発見という五つの物語に伏流する趣向はそこに由来する。
 それは性と死、破壊と復元、不妊の子宮とからっぽの墓とが交錯する、叙事詩か神話の文体で綴られた物語群が湛える静謐でどこか抽象的な幸福感の隠し味と なっている。
「これはどちらかといえば、飛び越えることなんだ。おれたちから見れば、死は消えてしまうことじゃなく、生命の特殊な形式なんだよ。ないことが、あること の特殊な形式なのとおなじことさ。これでおれたちインド人が、空白の符号を考えだした理由がわかるだろう。」
 生命の特殊な形式としての物語。
 この作品が『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』の作者によるものだということを知らないで読むのがいい。そして、「空前のスケールで描く、壮大な数学歴 史ファンタジー!」と腰巻に書かれた謳い文句は無視して読むのがもっといい。
 そういった予備知識はいっさい忘れ、物語の時間の流れに身も心もゆだねてこそ、第5章に登場する九世紀はじめのアラブ世界最大の詩人の次の言葉が生きて くる。
「われわれは大王や大聖人や、大将軍や大学者のことを、耳にたこができるほど聞かされてきた。彼らがいなくても、人生はよくも悪くもないだろうよ。必要な のは、物語作家だけだ。物語やコントや神話がなければ、われわれの人生はイヌの一生より悪くなるだろうな。」