不連続な読書日記(2008.6)



【書評】

●野矢茂樹『大森荘蔵──哲学の見本』(再発見 日本の哲学,講談社:2007.10.18)

《大森哲学の流れとよどみ》

 著者は本書で、大森哲学の「流れ」を、その源流の最初の一滴から上流・中流・下流へと、死後にも続くその「よどみ」にいたるまで、大森ゆずりの明晰簡明 な言葉で語っている。
 目の前にコーヒーカップが見える。でも、見えているのはある特定の視点(パースペクティブ)からでしかない。たとえば、その背面は見えない。見ようと思 えば見えるけれども、回り込んで見たコーヒーカップの知覚像は、いま・ここで私に見えているそれではない。こんなシンプルな場面から大森哲学は始まる。
 知覚を超えたもの、およそ経験を超越したものを、われわれはどう理解しているのか。たとえば、知覚されない物、電子などの理論的構築物、過去や他我。そ れらをどう認識しているか、ではなくて、どのように了解しているか。
 こうした問いに答えるため、大森はまず、前期(上流)において、物と知覚の「重ね描き」の論を提示する。それが、中期(中流)において、知覚という経験 をより豊かなものにする「思い」や「虚想」を含んだ、「立ち現われ一元論」へと転回する。後期(下流)では、さらに、「思い的に立ち現われるものは、思い 的に存在する」とか、「過去世界もまた言語実践によって社会的に制作される」といったかたちで主張される「語り存在」の論へと進化していく。
 著者は、その堂々たる流れを克明にたどり、時々のよどみにおける悪戦苦闘のプロセスを丹念に腑分けして、大森荘蔵にとっての、かつまた野矢繁樹にとって の「哲学するということの手触り」を、噛んで含めるようにして語る。そして、「どうだ、これが哲学だ」と誇らしげに見得を切るのだが、それが虚しく空を切 ることはない。(「噛んで含める」とは、文字どおり、死せる大森に噛みつき、論戦を挑み、著者自身の哲学的思考をそこから紡ぎだしていくことだ。そして、 実はこの点こそが、本書最大の読み所になっている。)

 著者は、「大森は生涯経験主義者であり、かつ、独我論者であった」と書いている。
 このうち、大森荘蔵が生涯独我論者であったことについて、別のところでは、「ただひたすら自分の生の現場からすべてを捉えようとする独我論的まなざし を、けっして捨て去ろうとはしなかった」と書き、また、立ち現われ論における「独我論への傾き」として、「すべてが立ち現われる「今」と「私」。あたかも 繭を紡ぐ一匹の蚕のように、大森はどうしてもそこへ戻っていく」とも書いている。
 この意味での「独我論」は、「経験主義」と同義である。
 大森哲学における「知覚の優位」について述べたところで、著者は、大森がとりわけ知覚を重視するのは、知覚こそ「私が生きている現場」だからであり、そ の意味での現場主義は「大森哲学を生涯貫く特徴」であったと書いていた。この「現場主義」は(ただひたすら自分の「生の現場」からすべてを捉えようとす る)「独我論」と同義で、かつ(知覚という「私が生きている現場」を重視する)「経験主義」とも同義である。
 自らの死を体験した独我論者・大森荘蔵は、どこかでまだ哲学を続けているのではないだろうか。それは、おそらく「自我」をめぐる問い、われわれは、いや 私は「自我」をどのように了解しているか、をめぐる哲学だろう。(もしかすると、本書での弟子・野矢茂樹による「噛みつき」こそが、死後における哲学の存 在様式なのかもしれない。)

●永井均『なぜ意識は実在しないのか』(双書哲学塾,岩波書店:2007.11.6)

《なぜ「なぜ意識は実在しないのか」と問うのか》

 「なぜ意識は実在しないのか」って、変な問いだと思いませんか?
 これが「なぜ神は存在しないのか」だったら、無神論の立場から神の不在を論証しようとしているのか、それとも有神論の立場から逆説的に神の存在証明を企 てているのかのどちらかだとあたりをつけることができます。
 ところが、意識が実在をめぐる意見の対立は、神の存在をめぐる対立ほどには明確ではないと思います。
 そんなことはないと反論されるかもしれませんね。一方に、意識なんて脳がつくりだした幻だと考える唯物論者がいて、他方に、そう考えること自体が実は意 識現象なのだから、そう考えているかぎり意識はあると主張する唯心論者がいる。
 でも、「なぜ意識は『存在』しないのか」ではなくて、「なぜ意識は『実在』しないのか」ですよ。意識というものがどこかに存在するかどうかではなくて、 今・ここで・現実に存在しているかどうかです。いやあ、昨日までは確かにいたんですがねえ、あいにく今日は……、とか、かつては神がいたが現代では神は死 んだ、といった話とはまったく次元が違うんです。
 それに、脳がつくりだすかどうかは別として、唯物論者や唯心論者が想定している意識って誰にでもある「一般的な意識」という概念のことで、そんなものを 見た人は誰もいません。
 意識とは「この私の意識」のことです。「事例がその一つしかないのだから、一般的なものではなくて、その唯一の事例は、私のそれであって、私のそれでし かありえない」。だから、「本当は『これ』としか言えない」と永井さんはいいます。
 では、そういう意味での意識は実在するのかというと、それが「実在する」といえるのは永井さんだけで、でも、永井さんがそういったとたん、「その通り。 そういう意味の意識だったら実在する。どこにって? ほら、ここにあるこの『これ』が」と、きっと誰かが応答するでしょう。
 そうすると、そのどちらかが間違っているのでないかぎり、事例がたった一つしかないはずの意識が複数あることになります。これはもう「一般的な意識」で すよね。だから、「実在する」と誰かが言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」ことになる。つまり、その二人ともが正しいとしたら (ある意味では、つまり意識という言葉の一般的な定義からいえば、それは正しいに決まっている)、その正しさゆえに、二人とも間違っている(二人ともゾン ビである)ことになるんです。
 そういうわけで、永井さんは、初日の講義の最後にこう語っています。「意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意 味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題の すべてがあるのです。」
 で、第2日目、第3日目と講義はつづき、最後の最後の質疑応答で、「この講義が言おうとしていることも、やはり『言えない』ということにはなりません か?」「それはおそらく正しい解釈だろうと思います」というやりとりで終わります。
 この本は「台本」のようなものだと永井さんは「はじめに」に書いています。そうだとしたら、台本は実演されるためにあるものなのですから、できれば声に だして最初から最後まで読むことでしか、この本を理解することはできません。そして、この本を理解するということは、「言葉よりも手前にある」ことを言葉 で理解するということなのですから、結局、何をどう理解したのかは「言えない」ことになります。
 問いが変なら、その答え(の理解のされ方)も変です。でも、これが永井哲学を体験するということなのです。


【読了】

●佐藤優『国家の罠──外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮文庫:2007.11.1/2005)
●イアン・マキューアン『贖罪』上下(小山太一訳,新潮文庫:2008.3.1)
●池谷裕二『進化しすぎた脳──中高生と語る[大脳生理学]の最前線』(朝日出版社:2004.10.25)
●日本経済新聞社編『されど成長』(日本経済新聞社:2008.1.25)
●浅利誠『日本語と日本思想──本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人』(藤原書店:2008.2.29)
●川合光『はじめての〈超ひも理論〉──宇宙・力・時間の謎を解く』(講談社現代新書:2005.12.20)


【購入】

●大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語』上下(中公文庫:1994.8.10、9.18)【¥838+933】
●浅利誠『日本語と日本思想──本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人』(藤原書店:2008.2.29)【¥3600】
●長滝祥司・柴田正良・美濃正編『感情とクオリアの謎』(昭和堂:2008.3.30)【¥2500】
●ポール・ヴァレリー『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』(清水徹訳,岩波文庫:2008.6.17)【¥600】
●藤原克己・三田村雅子・日向一雅・佐々木和歌子『源氏物語――におう、よそおう、いのる』(ウェッジ選書:2008.5.30)【¥1400】



  【ブログ】

★6月8日(日):大森哲学の流れとよどみ──『大森荘蔵』

 野矢茂樹著『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社)。

 著者は本書で、大森哲学の「流れ」を、その源流の最初の一滴から上流・中流・下流へと、死後にも続くその「よどみ」にいたるまで、大森ゆずりの明晰簡明 な言葉で語っている。
 目の前にコーヒーカップが見える。でも、見えているのはある特定の視点(パースペクティブ)からでしかない。たとえば、その背面は見えない。見ようと思 えば見えるけれども、回り込んで見たコーヒーカップの知覚像は、いま・ここで私に見えているそれではない。こんなシンプルな場面から大森哲学は始まる。
 知覚を超えたもの、およそ経験を超越したものを、われわれはどう理解しているのか。たとえば、知覚されない物、電子などの理論的構築物、過去や他我。そ れらをどう認識しているか、ではなくて、どのように了解しているか。
 こうした問いに答えるため、大森はまず、前期(上流)において、物と知覚の「重ね描き」の論を提示する。それが、中期(中流)において、知覚という経験 をより豊かなものにする「思い」や「虚想」を含んだ、「立ち現われ一元論」へと転回する。後期(下流)では、さらに、「思い的に立ち現われるものは、思い 的に存在する」とか、「過去世界もまた言語実践によって社会的に制作される」といったかたちで主張される「語り存在」の論へと進化していく。
 著者は、その堂々たる流れを克明にたどり、時々のよどみにおける悪戦苦闘のプロセスを丹念に腑分けして、大森荘蔵にとっての、かつまた野矢繁樹にとって の「哲学するということの手触り」を、噛んで含めるようにして語る。そして、「どうだ、これが哲学だ」と誇らしげに見得を切るのだが、それが虚しく空を切 ることはない。(「噛んで含める」とは、文字どおり、死せる大森に噛みつき、論戦を挑み、著者自身の哲学的思考をそこから紡ぎだしていくことだ。そして、 実はこの点こそが、本書最大の読み所になっている。)

 著者は、「大森は生涯経験主義者であり、かつ、独我論者であった」と書いている。
 このうち、大森荘蔵が生涯独我論者であったことについて、別のところでは、「ただひたすら自分の生の現場からすべてを捉えようとする独我論的まなざし を、けっして捨て去ろうとはしなかった」と書き、また、立ち現われ論における「独我論への傾き」として、「すべてが立ち現われる「今」と「私」。あたかも 繭を紡ぐ一匹の蚕のように、大森はどうしてもそこへ戻っていく」とも書いている。
 この意味での「独我論」は、「経験主義」と同義である。
 大森哲学における「知覚の優位」について述べたところで、著者は、大森がとりわけ知覚を重視するのは、知覚こそ「私が生きている現場」だからであり、そ の意味での現場主義は「大森哲学を生涯貫く特徴」であったと書いていた。この「現場主義」は(ただひたすら自分の「生の現場」からすべてを捉えようとす る)「独我論」と同義で、かつ(知覚という「私が生きている現場」を重視する)「経験主義」とも同義である。
 自らの死を体験した独我論者・大森荘蔵は、どこかでまだ哲学を続けているのではないだろうか。それは、おそらく「自我」をめぐる問い、われわれは、いや 私は「自我」をどのように了解しているか、をめぐる哲学だろう。(もしかすると、本書での弟子・野矢茂樹による「噛みつき」こそが、死後における哲学の存 在様式なのかもしれない。)

★6月15日(日):なぜ「なぜ意識は実在しないのか」と問うのか

 永井均著『なぜ意識は実在しないのか』(双書哲学塾,岩波書店)。

 「なぜ意識は実在しないのか」って、なんだか変な問いだと思いませんか?
 これが「なぜ神は存在しないのか」だったら、無神論の立場から神の不在を論証しようとしているのかなと推測できます。あるいは、有神論の立場から逆説的 な論法で神の存在証明を企てているのかもしれません。でも、そのどちらであっても、無神論と有神論の対立を前提にするかぎり、この問いはまっとうです。
 ところが、意識が実在するかどうかをめぐる意見の対立は、神の存在をめぐる対立ほどには明確ではないと思います。
 そんなことはないと反論されるかもしれませんね。一方に、意識なんてものはない、そんなものは脳がつくりだした幻だと考える唯物論者がいて、他方に、い や違う、そう考えること自体が(脳が存在すると考えることも含めて)実は意識現象なのだから、君がそう考えているかぎり現に君の意識はある(意識だけがあ る)と主張する唯心論者がいる。
 でも、よく見てください。「なぜ意識は『存在』しないのか」ではなくて、「なぜ意識は『実在』しないのか」ですよ。
 意識というものがこの世のどこかに(本やスクリーンの中でもいいんです)存在するかどうかではなくて、今・ここで・現実に存在しているかどうか。「存 在」ではなく「実在」が問われているとはそういう話です。いやあ、昨日までは確かにいたんですがねえ、あいにく今日は……、とか、かつては神がいたが現代 では神は死んだ、といった話とはまったく次元が違うんです。
 それに、脳がつくりだすかどうかは別として、唯物論者や唯心論者が想定している意識って、誰にでもある「一般的な意識」という概念のことです。あるい は、観察可能な「心理」のことです。そういう意味での意識、つまり唯物論者や唯心論者や心理学者がいう意識なんて実在しない。だって、「一般的な意識」な んて見た人は誰もいないのだから。
(永井さんがいう意識は、ほんとうは「今・ここで・現実に存在している」ともいえないものです。「今・ここで・現実に存在している意識」もまた、言葉にし てそういうと、誰にでもあてはまる一般的な概念になってしまうしかないからです。)
 意識とは「この私の意識」のことです。「事例がその一つしかないのだから、一般的なものではなくて、その唯一の事例は、私のそれであって、私のそれでし かありえない」。だから、「本当は『これ』としか言えない」と永井さんはいいます。
 では、そういう意味での意識、つまり永井さんの「これ」は実在するのかというと、それが「実在する」といえるのは永井さんだけで、でも、永井さんがそう いったとたん、「そうだ、その通り。そういう意味の意識だったら実在する。どこにって? ほら、ここにあるこの『これ』が」と、きっと誰かが(たとえばあ なたやこの私が)応答するでしょう。
 そうすると、永井さんか永井さんに応答した人の少なくともどちらかが間違っているのでないかぎり、事例がたった一つしかないはずの意識が複数あることに なります。これはもう「一般的な意識」ですよね。だから、「実在する」と言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」ことになる。つま り、永井さんと永井さんに応答した人のどちらもが正しいとしたら(ある意味では、つまり意識という言葉の一般的な定義からいえば、それは正しいに決まって いる)、その正しさゆえに、二人とも間違っている(二人ともゾンビである)ことになるんです。
 こんなことをいうと、きっと、「それでも、私は在る」と、ガリレオが生きていた頃の哲学書みたいなことをいいたくなる人がでてきます。そうすると、その 人が「私の意識は実在する」と言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」ことになる、ということが繰り返されるわけです。
 ここに出てきた「実在する」と「実在しない」の対立は、さっきの「存在」と「実在」の対立よりもっとずっと根の深いものです。だから、同じ「なぜ意識は 実在しないのか」という問いでも、それを問う状況の違いに応じて意味が異なってきます。(「今」や「ここ」や「この」や「現実」や「私」や「存在」の意味 も含めて。)
 そういうわけで、永井さんは、初日の講義「なぜ意識は哲学の問題なのか」の最後にこう語っています。「意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であ り、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと 思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。」
 で、第2日目「なぜわれわれはゾンビなのか」(これもまた奇妙な問いかけです)、第3日目「なぜ意識は志向的なのか」と講義はつづき、最後の最後の質疑 応答で、「この講義が言おうとしていることも、やはり「言えない」ということにはなりませんか?」「それはおそらく正しい解釈だろうと思います」というや りとりで終わります。
 以上のことは、この本に書かれていることの「要約」などではありません。この本は「台本」のようなものだと永井さんは「はじめに」に書いています。そう だとしたら、台本は実演されるためにあるものなのですから、できれば声にだして最初から最後まで読むことでしか、この本を理解することはできません。
 そして、この本を理解するということは、永井さんが本文で使った言い回しでは「言葉よりも手前にある」ことを言葉で理解するということなのですから、結 局、何をどう理解したのかは「言えない」ことになります。

★6月17日(火):クオリアと言語と記憶と感情(1)

 池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』(朝日出版社)に、ちょっと気になる発言が出てくる。
 ある「単純な意識の実験」(脳波をモニターしながら脳の活動を調べる)によると、運動前野が動き始めて1秒も経ってから「動かそう」という意識が現われ た。(リベットの実験結果はたしか〇・五秒だったと記憶しているが、それはそれとして、とにかく)、「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」と いうクオリア(「「動かそう」と自分では思っている」クオリア)が生まれた。つまり、自由意志は潜在意識の奴隷にすぎない。
 この事実から、クオリアが脳の活動を決めているのではなくて、無意識の脳の神経活動が運動を促し、その一方でクオリア(「動かそう」という意識や感覚) を生み出している、ということがわかる。
 感情についてもこれと同じことがいえる。もっとも原始的な感情は「恐怖」だが、この恐怖の感情は偏桃体が活動することで生まれる。だが、偏桃体そのもの には感情(クオリア)はない。感情は別経路の大脳皮質で生まれる。偏桃体自体は、危険な行動は避けるという記憶を強固にするはたらきをする。動物は「こわ いから避ける」のではなくて、偏桃体が活動したから避けている。
 ここで使われる「クオリア」の多義性(感覚や感情や自由意志や自己意識その他諸々の感じや思い、つまり意識と同義)もちょっと気になるが、それは定義の 問題だと割り切ることにして、その後につづく箇所にもっと気になる言い方が出てくるので先を急ぐ。

(言葉の定義の問題だと割り切ってしまうのはちょっと気持ちが悪いので、少しだけ補足しておく。
 クオリアの問題がこれほど「一般的」になったのは、私の知るかぎり、茂木健一郎さんの『脳とクオリア』以来ではないかと思う。で、この本がクオリアをど う定義していたかというと、現物が手元にないので確かなことはいえないが、観察可能な「心理」と現象学的な「意識」とをまず分けて、その意識をクオリアと 志向性の二つの概念でとらえるといった感じだった。
 そこでは感覚的なものにともなう生々しい質感というクオリアの本籍が明確にされていて、たとえば永井均さんのいうメタフィジックな独在性の〈私〉につい て言及された箇所では、慎重にクオリアの語は避けられていたと記憶している。茂木さんが『脳とクオリア』以後に書いた本では、クオリアと志向性に加えて主 観性の語で〈私〉の問題を扱っていたと、これもそう記憶している。
 最近の茂木さんがクオリアをどう定義しているかは知らないが、少なくとも「初期」の茂木さんは慎重に対応していたと思う。)

《…おそらく「悲しみ」を感じさせる〈源〉になる神経細胞がきっとあるんだろう。そこが活動すると「涙が出る」という脳部位に情報を送っている。でも、そ の涙の経路と「悲しい」というクオリア自体は直接は関係がない。つまり、悲しみのクオリアが涙を誘発しているというのは、ちょっとニュアンスが違う。悲し みとはクオリアにすぎないんだ。つまり、神経の活動の〈副産物〉でしかない。
 もっと言っちゃおう。クオリアとは〈抽象的なもの〉だよね。「こわい」とか「悲しい」とかって、抽象そのものだ。今日の講義のテーマでもあったけれど も、〈抽象的なもの〉は言葉が生み出したものだったね。つまりは、クオリアもまた言葉によって生み出された幻影だってわけだ。
 ここで言う、幻影とは〈実在しない〉って意味じゃないよ。クオリアはたしかに存在する。幻覚や夢と同じ。幻覚や夢は実在するでしょ。夢の存在を否定する 人はいないよね。みんなも見たことあるでしょ。夢という〈視覚〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや 悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。》(192頁)

 クオリアは脳の活動がつくりだす。それも副産物としてつくりだす。では脳の活動の本務は何かというと、それは運動である。涙が出ることも運動である。
 ここまではいい。脳科学者なら当然そう考える。「副産物でしかない」という言い方は少し気になるが、クオリアが生み出されるのは、自由意志としての脳に (環境適応)運動への切迫感をもたらし、また運動の記憶の定着へ向けた強度を高めるためなのだ、クオリアの生成を待ついとまがないほど差し迫った状況で は、潜在意識としての脳が勝手に行動を指図し、また記憶を強固にするのだ、といったような説明を補えば、それなりに理解できる。
 でも、後半の議論はかなり気になる。そこでは三つのことがいわれていた。クオリアとは抽象的なものである。抽象的なものは言語が生み出すのだから、クオ リアも言語によって生み出される。クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊であるが、幻影・幽霊としてのかぎりで実在する(つまり、幻影・幽霊とし てのかぎりでクオリアはその機能を果たす)。
 以下、順次見ていこう。

★6月18日(水):クオリアと言語と記憶と感情(2)

 まず、クオリアが「抽象的なもの」であるという説をめぐって。
 基本的に、というか最終的に、私はこの考えに賛成したい。プロの脳科学者に向かって、市井の一素人が「賛成したい」もあったものではないと思うが、これ は十代の理系の中高生を相手にしたゼミでの発言だし、要は言葉の用法の問題なのだから、そこに素人が口をはさむ余地はあるというものだ。
(「十代の理系の中高生を相手にしたゼミでの発言」だから、気軽でいい加減なものだといいたいのではない。そうではなくて、厳密な定義と使用法が人為的に 定められた術語ではない、常識的な語の使用例であるといいたいのだ。)
 基本的に賛成できる理由は、いま述べた「言葉の用法」という点につきる。どういうことかというと、たとえば「私は悲しい」という言葉の中にクオリアは無 い、その意味で悲しみのクオリアは抽象的なものである。
 もう少し丁寧にいうと、私が「悲しい」と思うとき、私にとってその悲しみのクオリアは切実なものとして実在する。それが「クオリアという概念」の定義で ある。しかし他人はその(私の)悲しみのクオリアを感じない。つまり他人にとってその(悲しみの)クオリアは端的に無い。これもまた「クオリアという概 念」のうちに含まれている。
 そして、「クオリアという概念」はこの両方の場合を共に含むものとして、いいかえれば他人もまた「私」になりうるという可能性を織り込んだものとして成 立する。そういう個々の具体例を離れて成立するもののことを「抽象的なもの」という。
 ここでいう「抽象的なもの」とは実は言葉のことである。つまり、一方に個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物の世界があって(この「物」には 身体が含まれる)、もう一方に物の世界から切り離された言語の世界がある。言葉は物の世界に属していないという意味で抽象的なものである。だからクオリア も、それが「クオリアという概念」として語られる場合は抽象的なものである。
 以上が、基本的に賛成できる理由だが、いや、それでも私のクオリアは個別具体のものとして、言葉を超えて実在する(抽象的なものではない)という、個別 具体の実感に即した主張に対してどう対応するかで、その帰結が分岐する。

 第一の方向。
 あなたが「私のクオリア」と呼ぶものは、たしかに物の世界における個別具体の出来事として実在するのでしょう。私自身のクオリア体験から、確信をもって そう推測できますよ。でも、あなたのクオリア体験と私のクオリア体験とはまるで違うものですよね。そこには「差異」があります。
 ただしこの差異は、同じ種類の元素の化合物なのにそれぞれの元素の含有割合の違いでまるで質の異なる物質ができるといった、直接観察したり実験で確かめ ることのできる共通の土台のようなものの上にある差異ではなくて、そもそも相互に比較できない類の差異です。
 だって、端的にいって私はあなたではないのだから、どう加工してもあなたのクオリアを直接体験できるはずがないでしょう。私のクオリアをあなたが直接体 験することもできませんね。そして、直接体験できないものを比較することなんてできません。もちろん科学者にだってできません。(むしろ、科学者だからこ そできないというべきでしょう。)
 これほどまでに違う、本当は「違う」と言葉に出してさえいえないほど異なるものをめぐって、私とあなたがコミュニケーションを図るためには、それぞれの 「私のクオリア」の個別具体性を言葉という抽象的なものに託すしかないじゃないですか。なぜかしら言葉は、差異性をもった個別具体のものを抽象的な同一性 のうちに移し替える力をもっているのですから。
 では、それでも私のクオリアは個別具体のものとして実在するという、個別具体の「私の実感」の方はどうなるのか、とさらに重ねて問われるかもしれません ね。でも、それは別にどうともなりようがないですよ。ただ、言葉でいくらそう語っても「私の実感」を直接名指すことはできません、と答えるしかないです ね。
 あなたがいわれる「私のクオリア」にせよ「私の実感」にせよ、私にはそれらの実在を否定することはできません。そもそも肯定することさえできないのです から。ただ、それらの言葉を私とのコミュニケーションの場で使われても、私に伝わるのは「抽象的なもの」でしかないですよ。
 もしそういう言葉を(「私のクオリア」や「私の実感」を直接名指すものとして)使いたいのなら、どうか自分のためだけにお使いください。たとえば誰にも 読ませない「クオリア日記」のようなかたちで。(大切なことは、誰にも読ませないということです。もしも私があなたの「クオリア日記」を読むと、そこには 「抽象的なもの」としてのクオリアや実感しか書かれていないことになってしまいますから。)
 私にいえることは、脳科学者の実験によると、被験者がなにがしかのクオリアを体験しているときに、いやそれにほんのわずか先だって、その人の脳細胞のあ る特定の部位が発火していて、それはどうやらすべての人間に共通した物質過程であるらしいということだけです。
 だから、「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」において、あなたが「私のクオリア」や「私の実感」と呼んでいる何かが生起し ているのであろうことは推測できますが、結局、それらを「私のクオリア」や「私の実感」として直接体験することは私にはできない。言葉にされたそれらは 「抽象的なもの」でしかない。同じことをくどくど繰り返して恐縮ですが、やはりこのことは決定的なのではないですか。
 あと一つだけ私にいえることがあります。「私のクオリア」や「私の実感」という言葉は、この私に対してだけは個別具体の体験を直接的に名指している。私 の「クオリア日記」を私が読むときにかぎり、私はかつての「私のクオリア」や「私の実感」を直接想起することができる。このことの方がもっと決定的です ね。
 ですから、あなたが「私のクオリア」といい「私の実感」というのも、実はもともともこの私が使っていた言葉の模倣なのではありませんか。なぜかしら、こ の私の使っていた言葉に「差異性をもった個別具体のものを抽象的な同一性のうちに移し替える力」がこもって、あなた方がいま使っている言葉になったとしか 私には思えません。
 クオリアは抽象的なものであるという池谷さんの説に同意はしますが、それはこの私の場合を除いてのことです。だから、この私の「私のクオリア」が「個別 具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」において生成することは、言葉では形容できないほど驚異的な出来事なのですよ。(永井均さんが よく使われる言葉でいえば「奇跡的」な出来事です。ただし、永井さんがどうしてこの私についてのみ生じた「奇跡」のことをご存じなのか、私には不思議です が。)そうは思いませんか。

 第二の方向。
 いや、それでも私のクオリアは個別具体のものとして実在する(抽象的なものではない)と、君がそう主張したくなる気持ちはよく判る。でも君がいう「私の クオリア」は、君がそう主張したくなるようなものとして言葉がこしらえた抽象物でしかないのだよ。いってみれば言葉が見る(見させる)夢のようなものだ ね。
 「悲しみ」という言葉がなければ、そもそも「悲しみのクオリア」をともなった体験が立ち上がることもない。そんなことは実は君だってとうに知っているは ずだよ。本当のことをいってしまうとね、「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」だって、それもまた言語の世界の中のことでしか ないんだよ。なぜかしら言語は、そんな「奇跡」のような力をもったものとして存在している。

 冒頭に書いた、クオリアが抽象的なものであるという考えに「最終的に」賛成したい理由は、そこでいう「抽象的」の意味をどうとらえるかにかかっている。
 いままで書いてきたところでは、個別具体的な物の世界と対比させた言語の世界の特質を「抽象的」ととらえた。抽象的なものは言葉が生み出したものだとい う池谷さんの説によりそってみたわけだ。
 この意味での「抽象的なもの」とは、「差異性をもった個別具体のものを同一性のうちに移し替える力」をもった概念のことだ。「クオリアという概念」が抽 象的であるのは、言葉の定義からして当然のことだ。
 ただこのような解釈だと、池谷さんの第三の説、「クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊であるが、幻影・幽霊としてのかぎりで実在する」の意味 がつかみにくくなる。
 クオリアは抽象物だが実在する。池谷さんはそういっている。抽象物は言語の世界に属するのだから、それが実在するということの意味がよくわからない。実 在を云々できるのは個別具体の物の世界のはずだからだ。
 クオリアは言語が制作する抽象物だが実在するという池谷説を合理的に解釈するためには、実在との関係が整合するように「抽象的」の定義を変えなければい けない。
 そういうことだから、クオリアが抽象的なものであるという池谷さんの第一の説に「最終的に」賛成したい理由については、「抽象的なものは言語が生み出す のだから、クオリアも言語によって生み出される」という池谷さんの第二の説について考えたあとで述べることにする。
(もしかすると、その段階では、実は「最終的に」賛成できないということに考えが変わっているかもしれないけれど。)

★6月19日(木):クオリアと言語と記憶と感情(3)

 クオリアとは抽象的なものである。抽象的なものは言語が生み出すのだから、クオリアも言語によって生み出される。池谷さんのこの主張は、古典的な三段論 法のっとっている。
 だから正しいといえるためには、そこで使われている言葉の定義が同じでなければならない。その点で怪しいのは「抽象的なもの」という語だ。クオリアが抽 象的なものであるというときと、言語が抽象的なものを生み出すというときとで「抽象的」の意味が違っている可能性がある。
 そうだとすると、クオリアそのものの意味も違ってくるはずだ。クオリアが抽象的だといわれるときと、言語が生み出す抽象的なものの一つがクオリアだとい われるときとで、同じクオリアという語を使っていながら全然別のものを意味していることになりうる。
 それともう一つ、「抽象的なものは言語が生み出す」という命題は「“すべての”抽象的なものは言語が生み出す」でなければならない。これが「言語は抽象 的なものを生み出す」だったら「“一部の”抽象的なものは言語が生み出す」とも読めることになって、結局この推論は間違っていることになる。
 私が池谷さんの発言でもっとも気になったのはこのことだった。結論を先にいえば、池谷さんは間違っていると私は考えている。間違っている理由は、いま述 べた点に尽きているが、もう少し丁寧に書いてみる。

 「抽象的」の意味には二つある。その一つは、この語の使用可能領域を言語の世界に限定すること。言葉が生み出すもの、つまり言語的に構成される概念が (そのすべてが、そしてそれのみが)抽象的なものであるととらえる。そうすると、生(なま)の体験としてのクオリアはこの意味では抽象的ではないが、これ を「クオリア」と言葉で言い表したものは抽象的であるということになる。
 ややこしいのは、「生の体験としてのクオリア」もまた言葉でそう言い表したものにほかならないのだから、その意味では抽象的なものであるということだ。 このことを肯定する場合にかぎって、池谷さんの説は正しい。
(「生の体験としてのクオリアという概念」は抽象的だ。なぜなら概念とは抽象的なものだから。そして抽象的概念はすべて言語的構築物なのだから、クオリア も言語によって生み出される。池谷さんはそう主張していることになる。これだと言葉の使い方が一貫しているし、筋が通っている。)
 ただしそうなると、「生の体験としてのクオリア」が(言語の世界とは異なる)物=身体の世界に実在していることを、自らの意識において現に生々しく体験 していることの個別具体性を直接的に表現する言葉などないということになる。それで一向に構わない。脳科学者はそう考える。(そう考える人のことを、その ような思考様式の伝統に棹さす訓練を受けた人のことを自然科学者という。)
 一向に構わないというのは、一つには、客観的に観察できないもの、つまり脳科学者が観察できない主観的な個別具体性を捨象しても世界の描像は不変であ る、少なくとも脳科学者にとってはそうだということ、いま一つは、「生の体験としてのクオリア」という概念が(そのような個別具体のものを直接的に表現す る言葉がないということを含めて)ちゃんと成立しているのだから、その実在を「自らの意識において現に生々しく体験していることの個別具体性」はその概念 に託して表現すればよいということ、この二つのことからそういえる。
 でも、それだとあまりに寂しい。人生の実相を科学はつかんでいない。「悲しいから涙が出るのではない、涙が出るから悲しいのだ」と脳科学者は実験データ を示してそう断定するが、ほかならぬこの私のこの「悲しみ」の固有性を科学はどう説明してくれるのか。そう嘆く人も、実は脳科学者と同じ思考様式の上にい る。
 「生の体験としてのクオリア」が物=身体の世界に個別具体のものとして実在しているかどうか。脳科学が問うのはそのことではない。それはあってもいい。 現に「ある」と言葉で報告する人がいる。そのときその人の身体(脳)においてどのような物質過程が生じているか。脳科学はそのことを問題にする。それを観 察・実験して、その結果とそこから得られる結論を言葉で言い表す。それだけのことである。
 これに対して、先ほど脳科学者の思考様式を嘆いた人も、「生の体験としてのクオリア」が現にここに「ある」と報告する人の身体の状況を観察している。も ちろん脳細胞の活動状態などを観察することはないが、少なくとも身体の振る舞いや顔の表情や言語表現にこめられた切実さや感情の襞のようなものを観察し て、そこに表現された個別具体性をもって「人生の実相」(という概念の実質)を見てとっている。
 脳科学者の場合に話を戻すと、肝心なのは、そのときその人の身体(脳)において生じている物質過程がただその人だけに固有な個別具体のものではないとい うことだ。精確にいうと、すべての人に同じ法則のもとで生じている物質過程だけが脳科学の研究対象であるということだ。そして、物質過程とはそもそもその ようなものなのではないか。もちろん個体差はあるだろう。しかしそれは個体差でしかない。現象としては様々だが原理的には同じ物質過程なのだ。
 この「現象としては様々だが原理的には同じ物質過程」という点が、言語的に構成された概念の抽象性に通じている。「人生の実相を科学はつかめない」と嘆 く人も、「人生」「実相」「科学」「つかむ」といった概念を使って、その人の人生だけでなく万人の人生に関する言明としてそういっている。「この私に固有 の唯一の生の実相を科学はつかめない」と嘆いてみせても、それもまた万人の「唯一の生」に関する言明でしかない。

 こうした意味での「抽象性」を首尾一貫して使用しているかぎり、池谷さんの主張は正しい。ところが、どうもそうではないようなのだ。
 池谷さんは「クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊だ」といっている。これは「クオリアは言葉によって生み出される抽象的なものだ」という主張 と実質的に変わらないはずだ。実質的に変わらないのなら、なぜことさら「幻影」や「夢」や「幽霊」とたたみかけるのか。そしてクオリアの(脳の中での) 「実在」を強調するのか。
 それはたぶんこういうことだと思う。池谷さんも「生の体験としてのクオリア」が「自らの意識において現に生々しく体験していることの個別具体性」を直接 的に体験しているからなのだ。もちろんそれらの言葉が表現しているのはすべて抽象的概念だということを承知した上で、その概念では掬いきれない実感のよう なものを「幻影」「夢」や「幽霊」と呼んでいるのだ。
(いやそうではないというのなら、「幻影・幽霊」ではなくせめて「錯覚」の語を使うべきだろう。端的に、体験としてのクオリアなど実在しない、実在すると 思うのは言語がそう思わせている「錯覚」だと主張されていたら、その主張は首尾一貫したものになったと思う。)
 だとすると、池谷さんの主張は正しくは次のようなものになる。体験としてのクオリアを〈クオリア〉と、概念としてのクオリアを《クオリア》と表記してい いかえてみよう。(この表記法は永井均オリジナルのものを借用した。)

 〈クオリア〉は個別具体のものだと思われているが、実は〈クオリア〉とは抽象的なものである。ところで抽象的概念は言語が生み出すのだから、《クオリ ア》も言語によって生み出される抽象的概念である。

 これは明らかに間違った推論である。〈クオリア〉という体験が抽象的であることと《クオリア》という概念が抽象的であること(言語的構築物であること) とは別の話だ。これを同じ「抽象的」の語でつなぐのは間違っている。というより、ここに二度出てくる「抽象的」の意味はそれぞれで違っている。
 この主張は二つに分けて考えないといけない。私は、基本的に《クオリア》が抽象的であることに賛成できるし、また最終的には〈クオリア〉が抽象的である ことに賛成したい。「最終的に」と限定がつくのは、「抽象的」の二つ目の意味が確定できればという趣旨である。
 それでは、「抽象的」の二つ目の意味とは何か。

★6月20日(金):クオリアと言語と記憶と感情(4)

 これまでのことを振り返っておこう。
 池谷裕二さんが『進化しすぎた脳』に気になることを書いていた。それは次の三つの主張にまとめることができる。

1.クオリアとは抽象的なものである。
2.抽象的なものは言葉が生み出すのだから、クオリアも言葉によって生み出される。
3.クオリアは言葉によって生み出される幻影・夢・幽霊であるが、幻影・夢・幽霊としてのかぎりで実在する。

 第一の主張について、私は、概念としての《クオリア》が抽象的なものであることに基本的に賛成できる。これと同じ理由から第二の主張についても、そこで いわれる「クオリア」が(体験としての〈クオリア〉のことではなく)概念としての《クオリア》であるかぎりにおいて賛成できる。そして、そのかぎりにおい て第一の主張と第二の主張を三段論法で結びつけることにも賛成できる。そう書いた。
 しかし、そうだとすると第三の主張が浮いてくる。抽象的概念としての《クオリア》は言語の世界において一定の機能を果たす。この当然のことをいうため に、なぜ「言葉の幽霊」が「実在」するなどと紛らわしい表現をするのか。
 もう一度池谷さんの発言を丁寧に見ておこう。
 まず「クオリアは神経の活動の副産物でしかない」と池谷さんはいう。これは「自由意志は潜在意識の奴隷にすぎない」の「自由意志」を「クオリア」に、 「潜在意識」を「神経活動」に言い換えたものだ。
 次に「クオリアとは抽象的なもの」であり、「抽象的なものは言葉が生み出すのだから、クオリアも言葉によって生み出される」という第一、第二の主張が続 き、その結論として「クオリアは言葉によって生み出された幻影だった」といわれる。

《ここで言う、幻影とは〈実在しない〉って意味じゃないよ。クオリアはたしかに存在する。幻覚や夢と同じ。幻覚や夢は実在するでしょ。夢の存在を否定する 人はいないよね。みんなも見たことあるでしょ。夢という〈視覚〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや 悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。》

 これを読んで私は、なぜ池谷さんはこんな弁解めいたことをいうのかと疑問に思ったのだ。なぜ端的に「クオリアは言葉が生み出す抽象的概念にすぎない、体 験としてのクオリアなど錯覚にすぎず、端的にいって存在しない」と言い切らないのか。
 たぶん言い切れなかったのだろう。それは池谷さん自身が、概念としての《クオリア》では掬いきれない体験としての〈クオリア〉、実感としての〈クオリ ア〉の存在の影にひきずられているからなのだろう。私はそう考えた。
 池谷さんはここで、クオリアという幽霊は夢と同じものだと発言している。そして「夢という視覚」は脳のなかに存在するのだから、クオリアの体験もまた脳 のなかに存在するのだと発言している。
 ところで、言葉もまた脳のなかに存在する。精確にいうと、言葉もまた脳の神経活動の副産物である。池谷さんは明示的にそう語っているわけではないが、お そらくそのような図式を前提にして語っている。
 そうだとすると、ここで一つの問題が立ち上がる。夢も言葉と同様に脳の神経活動の副産物だろう。しからば、言葉と夢の関係はどう考えればいいのか。池谷 さんによると、クオリアは言葉が生み出すものだった。これと同様に夢もまた言葉によって生み出されると考えれば、この問題は解決する。
 しかしその場合、クオリアと夢の関係はどう考えればいいのだろう。この点については、池谷さんの発言を文字通りに受けとめればいい。池谷さんは「クオリ アは夢と同じように存在する」といっている。これは比喩や類比ではなくて、文字通り「同じ」なのだ。夢の体験はクオリア体験の一種である。そう考えればい い。
 もっといえば、池谷さんがいう「潜在意識」とは脳内の神経活動のことで、この神経活動から直接生み出されるものが言葉である。この言葉は「自由意志」の 領域ともつながっていて、そして池谷さんがいう「自由意志」とはおよそ意識現象全般のことのようだから、結局、夢を含めてすべての意識現象は言葉によって 生み出される。この「すべての意識現象」のことを池谷さんはクオリア(覚醒感覚)と呼んでいる。こう考えれば、整合性がとれる。[*]
 しかし、池谷さんがいっているのはそういうことだけではない。「クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。」こ こでいわれる「喜びや悲しみっていうやつ」は、単なる概念のことではない。
 脳のなかには、言葉が生み出す抽象概念としての《クオリア》だけが存在しているのではない。体験・実感としての〈クオリア〉(喜びや悲しみの実質)もま た存在している。ただしそれは言葉の幽霊として、あくまで「言葉のなかに」存在している。
 池谷さんはそういっている。「でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ」の「でも」は、池谷さんの発言の文脈や本来の趣旨を離れて、「それで も〈クオリア〉は実在する」の「それでも」のニュアンスを(逆転されたかたちで)帯びている。私はそう受けとめた。
 いま「言葉のなかに」と書いた。それは、体験・実感としての〈クオリア〉が言葉から切り離すことのできないかたちで脳のなかに存在する、ということを表 現したかったからだ。「クオリア」という言葉のシニフィアンと結びついたシニフィエとして〈クオリア〉は存在する、といいかえても同じことだ。
 抽象的概念としての《クオリア》は、実はいま述べたことを含めて成り立っている。つまり「体験・実感としての〈クオリア〉」というのもまた概念であり、 したがって《クオリア》のうちにあらかじめ含まれている。だからこそ、池谷さんは「でも」というのだ。
 〈クオリア〉は物=身体の世界に実在する。でも、言語の世界では、それは《クオリア》として存在する。強引な読み替えであることは百も承知で、私は池谷 さんの発言をそのように受けとめた。その上で、先の三つの主張をさかのぼって次のように読み替える。

1.〈クオリア〉とは抽象的なものである。
2.《クオリア》は言葉によって生み出される抽象的概念である。
3.〈クオリア〉は物の世界において実在するが、言語の世界では《クオリア》として存在する。

 このように読み替えた上で、私はそのいずれの主張にも賛成する。このうち第二の主張については、これまでさんざん論じてきた。[**]
 残るのは第一と第三の主張だが、これらは一つにまとめることができる。

 体験としての〈クオリア〉は物の世界において「抽象的」に実在するが、これを言葉で表現することはできない。
 というのも、体験としての〈クオリア〉は言語の世界では《クオリア》という「抽象的」な概念として存在する(言語の世界において、そしてそこにおいての み一定の機能を果たす)しかないからだ。

 この新しい主張に二度出てくる「抽象的」は、前段と後段とでそれぞれの意味合いが異なる。後段については「抽象的」の一つ目の意味としてすでに論じた。 では、その二つ目の意味とは何か。物の世界におけるクオリアの実在がもつ様相としての「抽象的」とはどのようなものなのか。
 私の現時点での直観を述べておくと、結局のところ「抽象的」の二つの意味は同じことになる。精確には、物の実在の世界における「抽象性」が言語の存在の 世界における「抽象性」の原型なのである。つまり〈クオリア〉こそが《クオリア》を生み出している。でも、本当にそうか?

[*]言葉が脳内の神経活動から「直接」生み出されるというのは、神経活動によって生じる脳内の物質交換の過程が、そしてその結果生じる身体の行動との双 方向の関係が、実は言語の活動や機能と同じ構造をもっているということだ。
 だから「生み出される」は精確な表現ではない。言語と神経活動とは、少なくとも「潜在意識」のレベルでは、同じ物質過程の異なる描像であるというべきだ ろう。
 また言葉が自由意志の領域と「つながっている」というのもあいまいな表現だ。
 神経活動の結果としての身体活動には「声に出す」ことが含まれる。この「声に出す」ことが言語の発生の端緒で、それは脳(身体)の内部の出来事を外部に 表示することから、そしてまず外部に表示されたものが「声に出した」本人にフィードバックすることから始まった。
 やがて「声に出す」ことは他者とのコミュニケーションや記憶のツールとなり、文字の発明とあいまって自律的な言語の世界がひらけていった。複雑精妙な発 声装置をもったヒトにおいて、そして複雑精妙な運動能力を備えた手をもつヒトにおいて、複雑精妙な言語の世界がひらけた。
 池谷さんも次のように語っている。

《「心」というのは脳が生み出している。つまり、脳がなければ「心」はない。でも、体がなければ脳はないわけだから、結局は、体と心は密接に関係している ことがわかる。
 そのひとつのポイントとして、二日目の講義で、僕は「言葉」を挙げた。人間は声を自由に操れるようになった。「咽頭」……人間はほかの動物と違って咽頭 を持ってるでしょ。咽頭を持ったがゆえに、言葉をしゃべれるように脳が再編成されて、いま僕たちは言葉を自由に操っている。
 これはとても大きな影響を脳に与えた。なぜかというと、言葉というのはコミュニケーションの手段としてあるだけじゃなくて、人間が抽象的な物事を考える のに必要なツールになったんだ、そういう話をしたね。つまり、意識とか……「クオリア」という言葉を覚えてるかな、覚醒感覚ね。ああいった抽象性、いわゆ る「心」を生み出すのは「言葉」である、という話になった。極言すれば心は咽頭がつくったとも言えるんだ。》(349頁)

[**]一言補足する。なぜ《クオリア》という概念が生み出されるのか。池谷さんの説では、そもそも抽象的概念が生み出されるのは、生物として環境に適応 するための「汎化」(共通の基底ルールを見つけ出し一般化すること)という、言葉や(言葉が生み出す)心のはたらきゆえであり、クオリアの生成もその一種 である。
 その役割は「人間の世界観に色彩を添えたり、他人の感覚を想像したり共感したり」といったことで、「役には立ってるんだけれども、でも、感情というクオ リアは脳の活動をダイレクトには決定してはいないと考えたほうがいい」(198頁)。
 これは、悲しみのクオリアが神経活動の副産物でしかないことの説明である。この語り口からうかがえるのは、クオリアの生成には「汎化」がもつ生物進化上 の機能を超過した部分があるということだ。他人の感覚を想像したりこれに共感することは生存戦略の上でとても大切な機能だと思うが、世界観に色彩を添える ことの方は必ずしもそうではない。
 池谷さんは、人間の脳は環境に適応する以上に過剰に進化してしまったと語っている。そして、この一見無駄とも思える脳の過剰進化は、将来環境や身体その ものが急に変化してもこれをコントロールするための安全装置なのだと語っている(97頁)。
 だとするとクオリアという概念も、少なくともその一部はこうした脳の過剰進化の産物なのかもしれない。そもそも物の世界における〈クオリア〉の実在その ものが、物質世界の過剰進化の産物なのかもしれない。

★6月21日(土):クオリアと言語と記憶と感情(5)

 「抽象的」の二つ目の意味は何か。
 念のために一つ目の意味を確認しておく。それは言語が構成する概念の性質をいうものだった。たとえば「言語を絶したクオリア」という概念は抽象的であ る。言語の世界は抽象的概念でかたちづくられている。そういうことだった。
 「抽象的」の二つ目の意味が住まいするのはそのような言語世界と対になる世界、つまり物=身体の世界である。では、体験としての〈クオリア〉が物の世界 において「抽象的」に実在するというときの、その「抽象的」とは何か。
 まずトリビアルな事実の確認。
 〈クオリア〉は言語を絶している。なぜなら〈クオリア〉が住まいする物の世界は「不立文字」の世界だからだ。(「不立文字、以心伝心」の世界といっても いいが、その場合の「心」は池谷さんがいうような意味での心、すなわち言葉によって生み出され、意識現象全般がそこにおいて生起する心のことではない。物 の世界に「抽象的」に実在する〈心〉のことだ。)
 物の世界は個別具体の世界である。差異の世界である。ただしそこでは、個別具体の物が相互に比較できる共通の土台の上にそれぞれの個別具体性を表現して いる、といった描像は成り立たない。物の世界とは、そもそも比較を絶した差異性のうちに個別具体の物が端的に実在する世界である。
 比較を絶した差異性は、どのような力をもってしても抽象的概念の「同一性」のうちに移し替えることはできない。だから〈クオリア〉は言語を絶している。 (「言語を絶した《クオリア》」という概念は、決して言語を絶した〈クオリア〉そのものに届かない。)
 それでは、そのような意味での差異の世界に住まいする〈クオリア〉が「抽象的」に実在するとはいかなることか。それは「形而上的」に実在するということ 以外のなにものでもないだろう。
 不立文字の世界に言葉の定義をもちこむのも奇妙な話だが、個別具体の物の実在を超えているという意味で、〈クオリア〉はメタフィジカルに実在する。それ が「抽象的」に実在するということの意味なのではないか。
 ただし、ここまではトリビアルな事実の確認の域を出ない。トリビアルかどうかは措くとしても、ただ言葉を置き換えただけのことにすぎない。物の世界にお いて〈クオリア〉がメタフィジカルに実在するというとき、その「メタフィジカルに実在する」ことの実質を解明しなければ何もいったことにならない。
 ある意味では言語の世界もメタフィジカルである。言語は脳内の神経活動によって「生み出される」。そのように考えるとき、言語は物の世界に属している。 しかし、神経活動によって「生み出される」言語の世界そのものは物の世界を超えているといえるからだ。

 ここで「神的言語」というアイデアを導入してみよう。個別具体の物の世界における差異性を、概念としてではなくそれそのものとして名指す言語。名指すと いうよりは、むしろ個別具体の「それ」を「それ」として実在させる(創造する)言語。(ベンヤミンが「神の言葉」とか「純粋言語」と呼ぶのと同じ種類のも のではないかと思うが、確証はない。)
 物の世界において〈クオリア〉がメタフィジカルに実在するとは、そのような神的言語として、かつ神的言語のなかに実在する(創造される)ということだ。 神的言語におけるシニフィアンとして、かつそのシニフィエとして〈クオリア〉は実在する。ただ端的に実在する。
 これに対して、一般の言語では、実在する〈クオリア〉(体験としての〈クオリア〉)がそれそのものとして名指されることはない。読み手のうちに〈クオリ ア〉そのものが実在させられることもない。あくまで(言語の世界を介して見られた)物の世界における差異性としての〈クオリア〉が(言語の世界における) 同一性のうちに、つまり概念としての《クオリア》のうちに移し替えられるのだ。(この言語の概念化の力を精錬しつつ、かつ言語が生み出す概念を物的世界に 投げ返すことでもって世界を解析しようとするのが科学の言語である。)
 ところで、神的言語は物の世界に対してメタフィジカルにかかわる。ということは、神的言語を生み出す物的過程はないということだ。一般の言語のように、 脳内の神経活動によって「生み出される」といったことはない。端的にいって、この世界(物の世界)に神的言語は実在しない。(神的言語が世界のなかに実在 しないのは当然のことだ。なぜなら、神的言語はこの世界そのものの創造にかかわる言語だからだ。)
 こうして、三次方程式の代数的解法(カルダノの公式)に登場し、やがて消去される虚数のようなものとして、神的言語はその役割を終える。残されたのは、 神的言語が消失した後のメタフィジカルな場だけである。そして、それこそが実在としての〈クオリア〉の棲息地にほかならない。
 本当のことをいえば、神的言語を消去しなくても以下の議論につないでいくことはできる。神的言語を生み出す物的過程など問題にしない論の建て方がありう るし、それに神的言語の物的基盤を問題にするとしても、そもそも脳内の神経活動などにそれを求める義理はないからだ。
 人間の脳が進化するより以前に、いやもっとさかのぼって生命が誕生するより以前に、神的言語を生み出す物的過程を求めることだってできたはずだ。ここで あえて神的言語を退場させたのは、自然科学の議論との接続を図る余地を残しておきたかったからである。

 それでは、そのようなメタフィジカルな場に実在する〈クオリア〉を生み出す物的過程とは何か。そんなものは、端的に無いはずではなかったのか。私は、そ れはあると考えている。
 すべての物的過程がひととおり完了し、同じことが二度、三度と反復されるとき(私の直観では、三度反復されるとき)、そこにもともとの過程にはなかった 「同じ」ということが付け加わる。たとえばそうした子供だましのような論理の道筋を通じて〈クオリア〉は生成する。
 いま苦しまぎれに「論理」という語を使った。それはかのヘーゲルの『大論理学』を念頭においたものだった。ヘーゲルはそこで、自然(物的世界)に先立つ 存在の論理(ロゴス)の自己展開(自己限定)のプロセスを語っていた。
 また「論理の道筋」とは推論のことで、推論について考えるとき、私はいつもパースを想起する。パースは『連続性の哲学』で、宇宙を探求する私たちの推論 のプロセスは、探求の対象である宇宙が従っている論理の道筋(推論)と基本的に同一であるといった趣旨のことを語っていた。(それは、ドゥルーズが『差異 と反復』で、世界は神が計算しているあいだにできあがってくると書いていたことと呼応している。)
 まわりくどい言い方はやめよう。私が考えているのは、すべては逆だったのではないかということだ。
 脳が言語を生み、言語が抽象的概念としての《クオリア》を生み出す。しかし、言語は実感としての〈クオリア〉の実在を掬えない。そうではなくて、そもそ も〈クオリア〉はそれを生み出す物的過程(推論過程)を論じるより前に、というかその推論過程(物的過程)そのものを駆動する〈形而上的=抽象的概念〉と して、あらかじめ物の世界において実在していたのだ。[*]
 もっといってしまうと、その〈抽象的概念〉によって駆動される〈推論過程=物的過程〉を通じて脳が生み出され、その脳のなかの神経活動によって駆動され る《推論過程=言語過程》を通じて《抽象的概念》が生み出されたのだ。
(この二つのプロセス、つまり物の世界と言語の世界における二つのプロセスをつなぐ物的媒介として、なぜ脳という器官が選ばれたのか。それはおそらく偶然 のなせる業だろう。この「偶然」は、西欧社会においてかつて「神の意志」と呼ばれていたものと同類である。)
 これと同じことを「言語」に即して言い換えればこうなる。〈クオリア〉の自己展開(自己限定)の〈物的過程〉において〈言語〉はあらかじめ実在してい る。これが脳内の神経活動を通じて、《言語》の自己展開(自己限定)の《推論過程》を通じた《クオリア》の生成へと翻訳される。
 ここにいたってようやく、私は、池谷さんの「クオリアとは抽象的なものである」という主張に「最終的に」賛成できる。

[*]ここで述べたのと同じ趣旨のことを、パースはもっと詩的で説得力のある文章で語っている。

《われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体から遺され た残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖堂や寺院が壮麗な 全体をなしていたことを証言しているのと同じである。しかし、その広場が実際に建立される以前にも、その建築を計画した人の精神のうちには、ぼんやりとし て不十分な現実存在があったことであろう。まさしくこれと同様に、わたしはあなた方に、存在の初期の段階には、現在のこの瞬間における現実の生と同じくら い実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだと考えてもらいたいと思う。この感覚質の宇宙は、それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものに なる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していたのである。》(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』257頁)