不連続な読書日記(2008.4-5)



【書評】

●バート・D・アーマン『破綻した神 キリスト』(松田和也訳,柏書房:2008.5.10)

《空しさに耐える知恵》

 人はなぜ苦しむのか。600万の無辜のユダヤ人は、なぜ抹殺されなければならなかったのか。神はなぜ、心を凍てつかせる悲惨な出来事を許すのか。全能の 神、そして愛である神が。
 著者は、この問いへの答えを、聖書うちに探る。そこには、苦痛と悲惨に関するさまざまな説明がある。

1.人が苦しむのは神に背いた罪に対する神罰である。
2.悲惨を創り出すのは他者を虐待し抑圧する人間である。
3.苦しみには積極的な恩恵があり、神は救済をもたらすために苦難を引き起こしている。
4.苦痛と悲惨は、人がいかなる時にも敬虔でいられるかを試す神の試練である。
5.苦しみにはわれわれに理解できる理由など何も無い。
6.苦しみは悪の勢力によってもたらされる。やがて死者の復活と最後の審判を経て神の王国が到来する。

 新旧聖書に纏められた諸文書からのおびただしい引用とともに、本書を丹念に読み込んでいくと、ヘブライ預言者の神学の基盤をなす歴史性が、そして贖罪と 救済に関するキリスト教の教理を支える根源的な出来事が、ある生々しさをもって迫ってくる。
 だが、問題は、古代ユダヤ人や初期キリスト教徒が蒙った苦難をいかに説明するかではない。苦しみは、現に「いま・ここ」にある。それは概念的な説明では なく、現実的な「生きた人間としての反応」を求めている。
 著者はいう。聖書の中のどの書も、その時代の人々のために書かれたものだ。「神の国は近づいた」。ナザレのイエスはそう説いた。それから2千年を経た 今、終末はまだ到来していない。
 著者はまた、神学者や哲学者が、苦難や悲惨をもたらす悪を単なる「概念」として扱い、「実在の人々の生活を引き裂く現実の問題」として取り組んでいない と批判する。これと同じことが聖書にも妥当するだろう。神の計らいによって10人の子供を奪われたヨブは、それでも敬虔さを失わなかった褒美として、新た に10人の子供を授けられた。「いったいこの記者は何を考えているのか? 子供を失った悲しみは、別の子が生まれれば帳消しにされるとでも?」
 こうして著者は、苦しみをめぐる古代的な見解を棄却し、「もはや、この世界の諸問題に積極的に関与する神という存在は信じられない」と告白する。
 この「棄教」がもたらす苦痛は、「空虚感」と表現される。「私には感謝の念を表明する相手がいない」。それは、『コヘレトの言葉』の冒頭と響き合ってい る。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」

《私が同意するのは、『コヘレトの言葉』に示される見解だ。…この世の多くの出来事には意味などない。時には正義などどこにもないこともある。…悪いこと は数限りなく起こる。だが人生には善いこともある。人生に対する解とは、生きているうちにそれを楽しめということだ。なぜなら生は儚いものだから。この世 は、そしてこの世のすべてのものは、儚く、移ろいやすく、すぐに消えてしまうものだ。われわれは永遠に生きるわけではない。…だからわれわれは人生を十全 に、可能な限り、できるだけ長く楽しむべきなのだ。》

 われわれはこの世界を、「われわれにとって」と同時に「他者にとっても」、この上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならない。末尾に示され たこの言葉は、「概念」としてとらえれば空虚である。「生きた人間としての反応」によって、この空虚は埋められなければならない。
(本書に描かれたキリスト教的な思索を、かつて「実在の人々の生活を引き裂く現実の問題」として苦や悪の問題に取り組んだ日本中世の仏教思想と対比させて みるとどうだろう。)

●中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書:2008.5.10)

《怪物の力を解き放つこと》

 折口信夫は「古代人」だった。たとえば、『古代研究』冒頭の「妣が国へ・常世へ」に出てくる一節。
「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の突端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。 (略)此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。」
 この文章をめぐって、著者は次のように書いている。
 日本人のルーツのひとつは南洋諸島にある。一万数千年前、水没した大陸スンダランドの高度な新石器文化が島づたいに日本列島に渡り、縄文文化の基礎を築 いた。この民族的な集合記憶が、間欠泉のように折口信夫の心にほとばしり出たのだと。
 そして、「作家」としての折口信夫が試みたのは、古代人の思考を近代のまっただなかによみがえらせるという前例のない精神的冒険だったのであり、折口信 夫の思考と文章をとおして、ことばの深みで思考を超えた「存在の根」になまなましいほどの感触をもってふれる「奇跡」が実現されているのだと。
 しかも、この古代人の思考は、原生人類(ホモ・サピエンス)、すなわち技術とことば、宗教と芸術をもつ人類に共通する普遍性をそなえたものだったのだ と。
 こうして、古代人・折口信夫の「奇跡的な学問」の精髄が一気に開示される。
 人類普遍の「存在の根」に通じる他界からの来訪者、すなわち精霊としての「まれびと」論。その末裔として、生と死を一体のものと考える古代人の思考をそ のままに生きようとした中世の芸能の民をめぐる論考。
 以上が本書の前半で、後半になると、「未来人」としての折口信夫の途方もない思考が解き明かされる。
 いわく、『死者の書』以来、折口信夫が取り組んだのは、「民族の自然智の茫漠たる集合体」としての神道に、ユダヤ教やキリスト教の特徴である一神教とし てのひとつの明確な組織と体系を与えることだった。
 それは、「あらゆる宗教の誕生以前にあり、またあらゆる宗教の終焉の後の世界に生まれるであろう知性の形態」であった。
 このあたりにくると、本書の叙述はもはや折口信夫の「解説」の域を超えている。それはむしろ、折口信夫という古代人の思考を自らの内によみがえらせた中 沢新一自身の語りである。
 たとえば、折口信夫が注目したムスビの神の内部では物質と生命と魂の三つが協同し、この三位一体構造はキリスト教の父と子と聖霊の三位一体に組み込まれ た聖霊の働き(増殖)と深い共通性を持っている。
 これなどは、まさに中沢新一の宗教経済学が切り開きつつある世界を告知するものである。
 また、芸能史を取り上げた章では、この世とあの世、人間と人間ならざるものとの境界面でおこなわれた芸能の不穏な力を論じた最後に、あらゆる芸能が、本 質においてはみな怪物なのであって、「折口の学問の精神をよみがえらせることによって、わたしは日本の芸能をふたたび怪物として生まれから変わらせたい、 と願っている」と書いている。
 これもまた、中沢新一の芸術人類学がこれからつき進もうとしている方向を予告している。
 怪物・折口信夫の思考にひそめられた未発の力を解き放すこと。それこそ、中沢新一が構想しているもう一つの「奇跡的な学問」の夢なのである。
 それにしても、「折口信夫の著作を前にしたときほど、わたしは自分が日本語の使い手であることを、しみじみと幸福に感じたことはない」と、これほどまで の賛辞を捧げられる対象をもつことは、ほんとうに幸福な生だと思う。
 こういう書物を、もっと若い時分に読んでおきたかった。


【読了】

●矢口敦子『償い』(幻冬舎文庫:2003.6.15)
●今野敏『リオ 警視庁強行犯係・樋口顕』(新潮文庫:2007.7.1)
●今野敏『朱夏 警視庁強行犯係・樋口顕』(新潮文庫:2007.10.1)
●文・柳澤桂子、絵・堀文子、英訳・リービ英雄『生きて死ぬ智慧』(小学館:2004.10.10)
●長田弘『人生の特別な一瞬』(晶文社:2005.3.30)
●吉田秀和『永遠の故郷──夜』(集英社:2008.2.10)
●リチャード・ブローティガン『芝生の復讐』(藤本和子訳,新潮文庫:2008.4.1)
●坂口ふみ『信の構造──キリスト教の愛の教理とそのゆくえ』(岩波書店:2008.3.7)
●バート・D・アーマン『破綻した神 キリスト』(松田和也訳,柏書房:2008.5.10)
●リルケ『マルテの手記』(大山定一訳,新潮文庫)
●野矢茂樹『大森荘蔵──哲学の見本』(再発見 日本の哲学,講談社:2007.10.18)
●高橋洋一『さらば財務省!──官僚すべてを敵にした男の告白』(講談社:2008.3.18)
●中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書:2008.5.10)
●米山公啓『左脳がみるみる若返る本+CD』(中経出版:2008.4)
●高橋洋一『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』(文春新書:2008.5)


【購入】

●矢口敦子『償い』(幻冬舎文庫:2003.6.15)【¥648】
●神崎繁『魂(アニマ)への態度──古代から現代まで』(双書哲学塾,岩波書店:2008.3.25)【¥1300】
●今野敏『リオ 警視庁強行犯係・樋口顕』(新潮文庫:2007.7.1)【¥590】
●今野敏『朱夏 警視庁強行犯係・樋口顕』(新潮文庫:2007.10.1)【¥552】
●丸谷才一『文章読本』(中公文庫:1980.9.10)【¥200古】
●宇野邦一『映像身体論』(みすず書房:2008.3.19)【¥3200】
●リチャード・ブローティガン『芝生の復讐』(藤本和子訳,新潮文庫:2008.4.1)【¥476】
●リルケ『マルテの手記』(大山定一訳,新潮文庫)【¥514】
●イアン・マキューアン『贖罪』上巻(小山太一訳,新潮文庫:2008.3.1)【¥552】
●イアン・マキューアン『贖罪』下巻(小山太一訳,新潮文庫:2008.3.1)【¥590】
●バート・D・アーマン『破綻した神キリスト』(松田和也訳,柏書房:2008.5.10)【¥2200】
●山内志朗『普遍論争 近代の源流としての』(平凡社ライブラリー:2008.1.10)【¥1900】
●高橋洋一『さらば財務省!──官僚すべてを敵にした男の告白』(講談社:2008.3.18)【¥1700】
●中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書:2008.5.10)【¥700】
●米山公啓『左脳がみるみる若返る本+CD』(中経出版:2008.4)【¥1400】
●高橋洋一『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』(文春新書:2008.5)【¥700】



  【ブログ】

★4月20日(日):『コーラ』4号

 Web評論誌『コーラ』4号[http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html]が発行されまし た。「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第4回[http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-4.html]を 寄稿しています。よかったら眺めてみてください。

●「コーラ」
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

●哥とクオリア/ペルソナと哥
 第4章 貫之現象学のトリアス
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-4.html

★4月29日(火):雨色の記憶のなかのリルケ

 中軽井沢の星のや[http://www.hoshinoya.com/]というところで二泊してきた。
 旅の道連れは新潮文庫の『マルテの手記』。宿につき温泉をはしごしてから旧軽井沢で買っておいたワインと生ハムとパンをかじりライブラリで借りたヨー ヨー・マを聴きながら第一部を読み終えて寝た。
 二日目は一日中雨だった。傘をさして温泉と食事にでかけライブラリで珈琲を飲み朝刊とターシャ・テューダーの庭の写真集を二冊読み川辺で遊ぶセキレイを 眺めながら歩いて帰り、それからテレビと時計がない部屋でライブラリから借りてきた村治佳織を流しながら長田弘の詩集を読んで少し午睡してまた食事と温泉 に出かけ、地ビールを飲みながらマルテを少し読んで寝た。
 最後の朝は快晴だった。近くにある野鳥の森を歩きミソサザイとミソサザイをねらっていた写真家とであい軽井沢高原協会と内村鑑三記念堂(石の教会)を駆 け足で見物して、帰りの列車でマルテを第二部の半分まで読んだ。
 いい旅の記憶はもって帰ることができない。記憶は水面をうつ雨の気配と鳥たちの声とともにいまでもあの場所にある。

     ※
 二日目の夜、ノートの切れ端に長田弘さんの『人生の特別な一瞬』から抜き書きしておいた詩文が二つ。

 雨は、雨だけがもつ不思議な力をもっている。風景に魔法をかけるちからを、雨はもっているのだ。
 どんなによく知る風景ですら、雨が降ってくると、周りがぜんぶ雨色に染まって、その雨色のなかに、何もかもが遠のいていって、まったく知らない風景に なってゆく。
 旅の雨はむしろ幸運かもしれない。(「雨色の時間」から)

 先へ先へと急ぐ物語の本や、次へ次へとみちびく情報の本ではなく、時間を静かにつかえるときでなければ読めないような本を手にする。そうして、ゆっくり と、言葉の色合いや明るさや重さを読んでゆく。
 読書のスピードはレント(緩徐調)がのぞましい。読書はすこしも急がないような読書がいい。そう言ったのは、哲学者のニーチェだった。
 よく読むこと。感じやすい指と目をもって、ゆっくりと、深く、うしろと前に気をくばりながら、よく読むこと。(「旅の書斎」から)

 旅から帰って二日目になる。いまでもリルケをゆっくりと、うしろと前に気をくばりながら読んでいる。

★5月4日(日):空しさに耐える知恵──『破綻した神 キリスト』

 バート・D・アーマン著『破綻した神 キリスト』(松田和也訳,柏書房)を読んだ。

 人はなぜ苦しむのか。600万の無辜のユダヤ人は、なぜユダヤ人であるというだけの理由で、冷血に抹殺されなければならなかったのか。この地上で、毎日 4万人の男女、子供が、汚染された飲み水に起因する病気のために死んでいかなければならないのはなぜか。
 神はどうして、そのような心を凍てつかせる悲惨な出来事を許すのか。全能の神、そして愛である神が。
 著者は、キリスト教神学において「神義論」と呼ばれるこの問いへの答えを、預言書や黙示録、福音書といった古代文書に記された思索のうちに探る。聖書に は、苦痛と悲惨に関するさまざまな説明がある。

1.人が苦しむのは神に背いた罪に対する神罰である。(「アモス書」「マタイによる福音書」ほか)
2.悲惨を創り出すのは他者を虐待し抑圧する人間である。(「詩編」ほか)
3.苦しみには積極的な恩恵があり、神は救済をもたらすために苦難を引き起こしている。(「ローマの信徒への手紙」ほか)
4.苦痛と悲惨は、人がいかなる時にも敬虔でいられるかを試す神の試練である。(「創世記」「ヨブ記」ほか)
5.苦しみにはわれわれに理解できる理由など何も無い。(「コヘレトの言葉」)
6.苦しみは悪の勢力によってもたらされる。やがて死者の復活と最後の審判を経て神の王国が到来する。(「ダニエル書」「ヨハネの黙示録」ほか)

 全9章からなる本書の2章から8章までが、こうした伝統的見解の紹介にあてられている。とりわけ、第1の古典的・預言者的見解と、第6の「黙示思想」 (アポカリティシズム)にはそれぞれ2章分が費やされている。
 新旧聖書に纏められた諸文書からのおびただしい引用とともに、これらの文章を丹念に読み込んでいくと、ヘブライ預言者の神学の基盤をなす歴史性が、そし て贖罪と救済に関するキリスト教の教理を支える根源的な出来事が、ある生々しさをもって迫ってくる。
 しかし、古代ユダヤ人や初期キリスト教徒が蒙った苦しみをいかに説明するかが問題なのではない。苦難や悲惨は、現に「いま・ここ」にある。それらは概念 的な説明をではなく、現実的な反応を求めている。

 著者はいう。聖書の中のどの書も現代のわれわれを念頭に置いて書かれたものではない。それは、その時代の人々のために書かれたものだ。「神の国は近づい た」。ナザレのイエスはそう説いた。それから2千年を経た今、終末はまだ到来していない。
 著者はまた、知的な神学者や哲学者が、苦難や悲惨をもたらす悪というものを単なる「概念」としてのみ取り扱っていて、「実在の人々の生活を引き裂く現実 の問題」として取り組んでいないと批判する。「苦しみには生きた人間としての反応が必要だ」。
 これと同じことが聖書にも妥当するだろう。神の計らいによって7人の息子と3人の娘を奪われたヨブは、それでも敬虔さを失わなかった褒美として、新たに 7人の息子と3人の娘を授けられた。「いったいこの記者は何を考えているのか? 子供を失った悲しみは、別の子が生まれれば帳消しにされるとでも?」
(終章で、幼児虐待事件にふれたイワン・カラマーゾフの言葉が引用されている。「いいか──もしも誰もが、その苦難によって永遠の調和を買うために苦しま ねばならないのだとしたら、どうか教えてくれ、それと子供は何の関係がある?」)

 こうして著者は、聖書のうちに記録された古代的な見解を、コヘレト(教師)が授ける知恵への共感を除いて、すべて棄却する。そして、かつて敬虔かつ熱心 な「ガチガチの」福音派キリスト教徒であった著者は、「私にはもはや、この世界の諸問題に積極的に関与する神という存在は信じられない」と告白する。
 この「棄教」がもたらす苦痛は、「空虚感」と表現される。「私には感謝の念を表明する相手がいない」。それは、「コヘレトの言葉」の冒頭と響き合ってい る。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。/…/かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。/太 陽の下、新しいものは何ひとつない。」

《だが結局、私は苦しみの問題について最終的には聖書に同意することを認めざるを得ない。私が同意するのは、『コヘレトの言葉』に示される見解だ。この世 にはわれわれに理解できないことなどごまんとある。この世の多くの出来事には意味などない。時には正義などどこにもないこともある。物事は計画や予想通り にはならない。悪いことは数限りなく起こる。だが人生には善いこともある。人生に対する解とは、生きているうちにそれを楽しめということだ。なぜなら生は 儚いものだから。この世は、そしてこの世のすべてのものは、儚く、移ろいやすく、すぐに消えてしまうものだ。われわれは永遠に生きるわけではない──永遠 どころか、長くすら生きられない。だからわれわれは人生を十全に、可能な限り、できるだけ長く楽しむべきなのだ。これこそが『コヘレトの言葉』の著者の考 えであり、私も同意する。》

 われわれはこの世界を、「われわれにとって」と同時に「他者にとっても」、この上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならない。──本書の最 後に示された著者の見解は、それを「概念」として理解しようとすれば、空虚である。「生きた人間としての反応」によって、この空虚は埋められなければなら ないだろう。
(本書に描かれたキリスト教的な思索を、かつて「実在の人々の生活を引き裂く現実の問題」として苦や悪の問題に取り組んだ仏教思想と対比させてみるとどう だろう。)

★5月6日(火):リルケとブローティガン

 軽井沢への旅の道連れに携えたリルケの『マルテの手記』(大山定一訳)を読みながら、なにも孤独な詩人の魂の苦悩と呻吟だとか二十世紀初頭のパリの貧民 の悲惨な生活だとかに思いをはせていたわけではなかった。
 これはまったくの偶然なのだが、小旅行の前後に同じ新潮文庫から出たばかりのリチャード・ブローティガン『芝生の復讐』(藤本和子訳)を読んでいて、こ の自伝的要素の濃い二つの作品が響き合ったのだ。
 文庫カバーの言葉を借用すると、かたや65の「断片的感想、備忘ノート、散文詩の一節、過去の追憶、目にした風物の描写、日記、手紙などを一冊にまとめ あげた手記体の小説」と、かたや「囁きながら流れてゆく清冽な小川のような62の物語」とが、時と場所を隔て、そして翻訳の文体の違いを超えて、(晩年の リルケの詩境に即して言えば、「世界内面空間」もしくは「純粋空間」のうちで、あるいは、辻邦生が『薔薇の沈黙──リルケ論の試み』で使った語彙では「薔 薇空間」において)とても気持ちよく響き合ったのだ。
 リルケとブローティガン。孤独と憂愁の独白、追憶を経て、なにかしら建築的なもの、意志的なものへと向かう『マルテの手記』。ユーモアと「メランコリ ア」(藤本和子)を漂わせながら、どこかしら死後の世界の静謐と充足を思わせる『芝生の復讐』。
 たとえば『芝生の復讐』の「朝がきて、女たちは服を着る」に、「そして、ふたりはリルケの詩について長いこと話しあったが、彼女があまり詳しく知ってい るので、驚かされた。」とあるのをみつけて、ちょっと興奮させられる。そんな表面的なことだけではなくて、なにより、それぞれの書物の随所にちりばめられ た少年時代の記憶を綴った文章が素晴らしいものだった。もちろん語り口はまったく違うし、印象も異なる。小説の中での追憶なのだから、それらは虚構の記憶 なのかもしれない。
 ジョルジュ・バタイユは、「文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか」と書いた(『文学と悪』)。この言葉を思い出すたび、ベ ンヤミンの「一九○○年頃のベルリンの幼年時代」を想起したものだが、これからはベンヤミンとともにリルケとブローディガンの名が浮かぶことになるだろ う。

《この時になって、彼[放蕩息子]の心には大きな変化が起った。彼ははるかな神に近づこうとする日々の苦しい仕事に、ほとんど神を忘れてしまったらしい。 そしていつかやがて神の手から授けられるのは、ただ「一人の人間の魂をわずかに我慢してくれる神の忍耐」だけだと思った。人々が何か重大なもののように考 える運命の偶然など、彼はもうきれいに忘れてしまっていた。喜びも悲しみも、すべて付随的な甘味や苦味を失ってしまい、まるで純粋な、栄養的な成分だけに なったのだ。彼の存在の根からは堅固な越冬性の植物が生え、豊かな歓喜を枝いっぱいにみなぎらしていると言ってよかった。彼は自分の内部生命をつちかうも のを取り入れるのに一所懸命だった。彼は何一つ見のがさぬように気をつけた。すべてのものの中に彼の愛があり、すべてのものの中に彼の愛が少しずつ成長す ることを、彼はもはや疑わなかったのだ。彼の激しい内部的な覚醒は、かつてなし得なかったままのびのびになっているいちばん大切なものを、ぜひ今から取返 そうと決意した。彼はまず幼年時代のことを思い出した。静かに落着いて考えれば考えるほど、それは仕残された不完全なものに見えるのだ。幼年時代の追憶に はすべて曖昧なおぼろげなものがくっついていた。しかもそれが遠く過ぎ去った過去であるために、かえってこれから訪れる未来の世界のように思われたりする のだ。もう一度自分の幼年時代を現実に引寄せてみたいという悲しい願いに、なぜ「放蕩息子」がふるさとの土を再び踏んだかの理由があるだろう。彼がそのま まふるさとにとどまったかどうかは知らない。僕たちはただ、彼が一度ふるさとへ立ち帰ったのを知っているのだ。》(『マルテの手記』319-320頁)

★5月8日(木):『マルテの手記』からの抜き書き

 前回書いたこととも関連する文章を、『マルテの手記』から二つ抜き書きしておく。

《僕はものを見ることを学び始めたのだから、まず何か自分の仕事にかからねばならぬと思った。僕は二十八歳だ。それだのに、僕の二十八年はほとんどからっ ぽなのだ。振返ってみると、僕はカラパチオについて論文を書いたがおよそひどいものだった。「結婚」という戯曲を試みたが、間違った観念を曖昧な手段で証 明しようとしたにすぎなかった。僕は詩も幾つか書いた。しかし年少にして詩を書くほど、およそ無意味なことはない。詩はいつでも根気よく待たねばならぬの だ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十 行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほん とうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感 じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅。遠くから近づいて来るのが見える別離。 ──まだその意味がつかめずに残されている少年の日の思い出。喜びをわざわざもたらしてくれたのに、それがよくわからぬため、むごく心を悲しませてしまっ た両親のこと(ほかの子供だったら、きっと夢中にそれを喜んだに違いないのだ)。さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。 静かなしんとした部屋で過した一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海、ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。それ らに詩人は思いをめぐらすことができなければならぬ。いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜 ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人 々の枕もとに付いていなければならぬし、明け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で死人のお通夜もしなければならぬ。しかも、こうした追憶を持つだけなら、 一向なんの足しにもならぬのだ。追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして、再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいる のだ。思い出だけならなんの足しにもなりはせぬ。追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、名まえのわからぬものとなり、もはや僕ら自身と区別するこ とができなくなって、初めてふとした偶然に、一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生れて来るのだ。》(『マルテの手 記』26-28頁)

 ここでマルテ(リルケ)は、「詩はほんとうは経験なのだ。…人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を 集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。」と書いている。
 リルケの墓には、次の三行詩が刻まれている。『リルケ』(清水書院)の著者星野慎一氏によると、この墓碑銘はリルケによる「俳句」である。(リルケは生 前、「ハイカイ」と題した三行詩を三篇書いている。)

 Rose,oh reiner Widerspruch,Lust,
 Niemandes Schlaf zu seine unter soviel
 Lidern.

 薔薇よ、おお純粋な矛盾、
 誰の眠りでもない眠りを あまたの瞼の陰にやどす
 歓びよ。

《僕は旅行者でないことをうれしく感じた。もうすぐ寒くなるだろう。彼等の空想の贅沢な偏見にゆがめられた「かよわい、眠たげなベニス」は、くたびれた眠 そうな異国の旅行者といっしょに消えてしまうのだ。そしてある朝、全く別な、現実の、いきいきした、今にもはじけそうな、元気のよい、夢からさめたベニス が、姿を見せるに違いない。海底に沈んだ森の上に建設したという、「無」から生れたベニス。意志によって建てられ、強制によって築かれたベニス。あくまで 実在に堅く縛りつけられたベニス。きびしく鍛えられ、不要なものを一切切り捨てられたベニスの肉体には、夜ふけの眠らぬ兵器廠が溌剌と血液を通わせるの だ。そのような肉体が持つ、精悍な、突進しか知らぬ精神には、地中海沿岸の馥郁たる空気の匂いなどから空想されるものとはおよそ比較を絶した凛冽さがあっ た。資源の貧しさにもかかわらず、塩やガラスとの交換で、あらゆる国々の財宝をかきよせた不逞な都市ベニスだ。ただ表面の美しい装飾としか見えぬものの中 にさえ、それがかぼそく美しくあればあるほど、強い隠れた力を忍ばせているベニス。ベニスは全世界の重石[おもし]、しかも静かな美しい重石だった。》 (『マルテの手記』301-302頁)

 ここに描かれた「ベニス」は、リルケの詩そのものではないか。ベニスの町は「世界のどこにも見当たらぬ凛冽峻厳な意志の実例である」と、マルテ(リル ケ)は書いている。

★5月9日(金):「心の歌」としての歌曲、「〈生〉の履歴」としての音楽

 前回抜き書きしたリルケの二つ目の文章は、その後、マルテと同郷のデンマークの女性が、伯爵夫人に請われてイタリア語で、ついでドイツ語で歌うシーンへ とつづく。
 そこで、吉田秀和著『永遠の故郷──夜』(集英社)に、詩をめぐる美しい文章があったのを思い出した。それは「春深き」という、フーゴー・ヴォルフの 「メーリケ歌曲集」から二つの歌(「春の中で」と「少年と蜜蜂」)を取り上げた文章の冒頭にでてくる。

《詩だって、すべての芸術作品がそうであるように「全体」があってはじめて完結する表現体としてあるのに違いないが、私の経験では、詩の場合はその中の一 行が特に読むものの中の何かについての想いを強烈に、鮮明に呼び覚ますか、呼び起こすかするものだ。そうでなければ詩ではないとさえ言いたくなる。だか ら、詩では詩想の凝縮、凝集への働きが必要不可欠になる。
 そう考えれば、詩人はその一行のために全体を書いた──あるいは、ある詩篇の全体はその一行に到達するための過程としてあるということになる。》 (112頁)

 ここに書かれたことは、『永遠の故郷──夜』に収められた12の作品そのものについても言えることで、いま、心に残る「一行」を、「四つの最後の歌」と いう、これはリヒャルト・シュトラウスの同名の作品をあつかった文章の中から(一つではなく、二つ)拾い上げてみる。

《音楽は現在に響きながら、過去を身近に呼び戻したり、時には未来を予感させ呼び出す働きをする。それが音楽のリアルな生態なのだ。と同時に、この巨匠最 晩年の創作では、書いている音楽家は現在生きている人間であるだけでなく、過去の自分でもあるのだ。創作は幾層にもわたる意識と共に行われる。》(41 頁)

《では、改めて、こう問いただしてみよう。なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくありうるのか? 美しくなければならないのか?
 なぜならば、これが音楽だからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうし て、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。
 画家を見るがいい。彼らはなにも何かを飾り立てて、美しく見える絵を描こうとして、仕事をしているのではない。この人たちの心の底深くには、以前から燃 える火があり、彼らはそれに追い立てられるようにして、何かを把え、色と形とで見えるものにしようと力の限りをつくしているにすぎない。美はその過程の中 で生れてきたあるものでしかない。》(「四つの最後の歌」50頁)

 本書全体にとっての「一行」と思われる文章が、あとがきに刻まれている。

《言葉によりそって音楽を書く時、その音楽は詩のもつ論理性、構築性を無視できない。いや、詩とはそうやって構築されたものだから、音楽家たちは、音に よって、言葉によりそった構築物を構築した。そうすると、彼らの「心」がそこに乗り馮[うつ]って来たのである。
 歌曲について書く時、私はその構築物を仔細に眺めることを通じて、歌曲の心に到達する道を選ぶことが多い。歌曲をきくのは、これまた私の心。私は歌の中 に心を感じ、心を見、心を聴く。だが、それを書くのは言葉である。作曲から受容までの間の音と言葉のよりそい具合、からみ合い、それが私の関心を呼び、そ れについて感じ、考えることを、私は楽しむ。ある時は、それがなかなかうまくいかず、私は歌曲の中の心の在り方の迷路の中でさまよい歩く。私はそういう仕 事(?)、そういう生き方(?)が好きである。》(151頁)

 こうして、「歌曲とは心の歌にほかならない」という究極の「一行」へとつづいてゆく。
 そういえば、ハイネ=シューマンは「心の歌」「心理の微妙の歌」だが、メーリケ=ヴォルフのは「肉と心の愛の呻きだったり叫びだったり、声にならない声 だったりする」(90頁)とか、ピアノの伴奏を「言葉のない心の歌」(151頁)と表現している文章もあった。

     ※
 茂木健一郎著『すべては音楽から生まれる──脳とシューベルト』(PHP新書)から、究極の「一行」を拾い上げてみる。

《あらゆる言葉は、意味はわからなくても音楽として聴くことができる…。(略)そもそも私は、言葉というものを意味においてとらえていない。言葉は意味で はなく、リズムや音といった、感覚的なものに負う部分も多い。意味だけを求めると、本質からは遠くなってしまう。(略)さらに告白してしまうと、ここ数 年、私は文章を書く時、意味の伝達に主眼を置いていない。(略)最近では、他人の文章を読む時も、音楽のように読んでいる自分がいる。視覚から入ってきた 文字という情報の無意識の層に沈潜するリズムやハーモニーに耳を傾ける、という感覚だ。(略)私の人生は、既に音楽の領域に足を踏み入れてしまったのかも しれない。(略)生きるということは、時々刻々のすべてが音楽であって、自分の〈生〉の履歴は余さず音楽として感じることができるのではないか。世界はお しなべて音楽なのではないか。》(122-124頁)

 「心の歌」としての歌曲にせよ、「〈生〉の履歴」としての音楽にせよ、それらはいずれにせよ中世歌論における「哥」に通じている。

★5月10日(土):三つの時間、三つの世界

 映画はいつだって三つの層からできている。三つの時間の層、三つの語りや経験の空間といってもいい。──『白いカラス』と『めぐりあう時間たち』を DVDで立て続けに観ての、これが感想。
 『白いカラス』では、作家ネイサン・ザッカーマンの回想を通じてコールマン・シルク教授(アンソニー・ホプキンス)とフォーニア・ファーリー(ニコー ル・キッドマン)の物語が語られ、その物語の中にコールマンの回想が挿入される。
 『めぐりあう時間たち』では、時代と場所を異にする三人の女性──1923年、イギリス・リッチモンドのヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマ ン)、1951年、ロサンゼルスのローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)、2001年、ニューヨークのクラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)── のある一日の出来事が重ね描かれる。
 そういった個別的なことを抜きにしても、映画はいつだって三つの層からできている。原作者と監督と観客の三つの主体。映像と映像以前と映像以後。どんな 言い方でもできる。
 三つの時間、三つの世界は、多重な回路でつながっている。俳優はもちろん、監督でさえ気づかない回路があるかもしれない。誰にも気づかれないままの回路 だってあるかもしれない。だから、映画は何度でも繰返し、そのつど初めて観ることができる。
 もう一つ。『白いカラス』と『めぐりあう時間たち』を続けて観て、映画は精神分析やエックス線といった「見えないことを見る」技術と同時期に誕生したと いう、鈴木一誌さんの言葉を想起した。
 二つの作品を通じて、ニコール・キッドマンの演技が圧倒的。

★5月15日(木):村上春樹の大長編小説──「精神的な囲い込み」と「主観の混乱」

 最近無性に、村上春樹の小説を読み直したいと思うようになった。ここ数年目にふれるたび買い求めてきた村上春樹論(内田樹著『村上春樹にご用心』ほか) もけっこうたまってきたので、ついでにまとめて読みたいと思う。
 『海辺のカフカ』以来となる「大長編小説」の執筆作業が、06年のクリスマスの日から始まりいまも続いている。毎日新聞(5月12日夕刊)のインタ ビュー記事にそう書いてあった。以下、要約するのがめんどうなので記事をまるごと抜き書きしてみる。

《新作の背景として、カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世界に関する認識も語った。その予兆は95年の阪神大震災と地下鉄サリン事件にあり、「9. 11」事件後に顕在化した。「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、そ れがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなく なる」
 だが、そうした状況でこそ文学は力を持ち得るという。「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えるこ とじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」》

 ここのところを読んでいて、保坂和志が読売新聞(5月11日)の「半歩遅れの読書術」にフィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖 痕』について書いている文章を思い出した。これも関連箇所をスクラップしておく。

《『パーマー……』では、世界は巨大企業によって支配されていて、企業の外に出ることは半ば死を意味する。世界を動かしているのは国家や世界連邦ではなく 企業なのだ。そして、企業の中にいる個人は忠誠心を証明するために必死の努力を強いられるのだが、その根底には主体性を奪われた者の無力感がある。この設 定はディックの多くの作品に共通している。
 ディックが書き続けたテーマは、“記憶に対する不信”や“主観の混乱”だが、これは「巨大企業によって主体性を奪われた者たちの社会」という未来像とパ ラレルな関係にあるということが今回再読してわかった。リアルさの核は間違いなくそこにある。》

 この文章は、保坂和志自身の文学観(物語観)を述べたものではない。ここに書かれているのは、フィリップ・K・ディックの小説の「リアルさの核」とは何 かである。
 それでは、フィリップ・K・ディックの小説の「リアルさの核」とは何かというと、物語の登場人物の「主観の混乱」が、これとパラレルな関係にある「巨大 企業によって主体性を奪われた者たちの社会」という未来像とともに『パーマー……』のうちに描かれているということだ。
 これに対して、村上春樹の作品では、(ディックにおける「主観の混乱」もしくは「主体性を奪われた者の無力感」に相当する)「精神的な囲い込み」や 「檻」とパラレルな関係にある社会像のようなもの、あるいはその背景をなす世界認識、たとえば「カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世界に関する認 識」といった事柄は直接的に書き込まれていない。
 少なくとも村上春樹がこれまでに発表した作品には書かれていなかったし、いま書いているという大長編小説でも「カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の 世界に関する認識」が直接的に書き込まれることはないだろう。
 この「作品に直接的に書き込まれない事柄」を「作品の無意識」と呼ぶならば、村上春樹の作品の魅力のほとんどは、けっして書かれることのない「作品の無 意識」の喚起力・造形力にあるのだと思う。
 物語を読み進めるうち、しだいに「無意識」という怪物が読者の心のうちにリアルで鮮明な像を結ぶようになる。物語の終末とともに怪物の呪縛から解放され る。怪物は殺されるのではなく、飼い慣らされるのでもなく、ただリアルに認識される。
(保坂和志もまた社会像や世界認識を作品のうちに書き込まない。しかし、村上作品のように「作品の無意識」を喚起するわけでもない。ディックとは違う意味 合いで、保坂和志は社会や世界そのものを立ち上げる。)
 ところで、先の保坂和志の文章は次のように続く。

《“記憶に対する不信”というのは「自分の記憶は誰かによって偽造されたのではないか?」ということで、つまりは“主観の混乱”に行き着くのだが、ディッ ク作品は手が込んでいて、予知能力を絡めたりする。未来が予知される世界にあっては、未来の出来事もまた記憶の一部となり、過去と未来が一緒になって“主 観の混乱”を引き起こす。
『パーマー……』では、パーマー・エルドリッチが宇宙から持ち込んだドラッグを一度でもやったら最後、その人の住む世界のいたるところにパーマー・エルド リッチが侵入してくる。それは主観の世界の出来事のはずなのだが、主観と断定するにはあまりに生々しい。というよりも、主観とは本当に自分の物なのか?と いうことだ。
 事実、私たちの主観はすでにメディアと企業に浸食されている。メディアと企業が人から奪っているのは、時間の自由ではなく、内面の自由、つまり個人の主 体性なのだ。》

 「パーマー・エルドリッチが宇宙から持ち込んだドラッグ」とは、「わるい物語」の比喩なのかもしれない。
 「わるい物語」は、(「いい物語」が「人の心を深く広くする」のに対して)人の心を浅く狭いところに囲い込む。現代社会におけるメディアと企業のよう に、私たちの主観に浸食する。「それは虚構の世界(物語の中の世界)の出来事のはずなのだが、虚構(物語)と断定するにはあまりに生々しい。」
 村上春樹の作品が「わるい物語」だといいたいわけではない。ただ、毒をもって毒を制す(悪をもって悪を浄化する)といったことが、村上春樹の物語には生 じている。

★ 5月21日(水):「怪物」の力を解き放つこと――『古代から来た未来人 折口信夫』

 中沢新一著『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書)。

 折口信夫は「古代人」だった。たとえば、『古代研究』冒頭の「妣が国へ・常世へ」に出てくる次の一節。

《十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の突端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此 をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)と して、現れたものではなからうか。》

 この文章をめぐって、著者・中沢新一は次のように書いている。
 日本人のルーツのひとつは南方の海洋世界にある。一万数千年前、インドネシア海域に没した大陸スンダランドの高度な新石器文化が島づたいに日本列島に渡 り、縄文文化の基礎を築いた。この民族的な集合記憶が、長い休眠状態から隔世遺伝(atavism)のごとく突然めざめ、間欠泉のように、折口信夫という 近代人の心にほとばしり出たのだと。
 そして、「作家」としての折口信夫が表現したいと思っていたのは、自らの内なる古代人の思考を近代のまっただなかによみがえらせるという、前例のない精 神的冒険だったのであり、折口信夫の思考と文章をとおして、日本語というローカルなことばの全能力が開かれ、思考のことばの深みで思考を超えた「存在の 根」になまなましいほどの感触をもってふれる「奇跡」が実現されているのだと。
 しかも、この古代人の思考は、日本人という民族に特殊なものではなく、原生人類(ホモ・サピエンス)、すなわち技術とことば、宗教と芸術をもつ人類に共 通する普遍性をそなえたものだったのだと。

 こうして、古代人・折口信夫の「奇跡的な学問」の精髄が一気に開示される。
 人類普遍の「存在の根」に通じる他界(あの世)からの来訪者、すなわち精霊(スピリット)としての「まれびと」論。その末裔として、生と死を一体のもの と考える古代人の思考をそのままに生きようとした中世の芸能の民をめぐる論考。
 以上が本書の前半で、後半になると、「未来人」としての折口信夫の(敗戦後の)思考が開く途方もない深さと広がりが解き明かされる。
 いわく、『死者の書』以来、折口信夫が取り組んだ未完の宗教学は、「民族の自然智(Natural Wisdom)の茫漠たる集合体」としての神道に、ユダヤ教やキリスト教の特徴である一神教としてのひとつの明確な組織と体系を与えようとするものだっ た。
 それは、「あらゆる宗教の誕生以前にあり、またあらゆる宗教の終焉の後の世界に生まれるであろう知性の形態」であり、「歴史の中でどこでもまだ実現され たことのない、ひとつの理念の構造」であった。

 このあたりにくると、本書の叙述はもはや折口信夫の「解説」の域を超えている。いや、そもそもこの書物は折口信夫の思想と学問を「解説」するために書か れたものではない。それはむしろ、折口信夫という古代人の思考を自らの内によみがえらせたシャーマン・中沢新一自身の語りである。
 たとえば、折口信夫が注目したムスビの神の内部では物質と生命と魂の三つが協同し、この三位一体構造はキリスト教の父と子と聖霊の三位一体に組み込まれ た聖霊の働き(増殖)と深い共通性を持っている。
 これなどは、まさに中沢新一の未完の宗教経済学が切り開きつつある世界を告知するものである。
 また、芸能史を取り上げた章では、金春禅竹の『明宿集』や折口信夫の『翁の発生』にふれ、この世とあの世、人間と人間ならざるものとの境界面でおこなわ れた芸能の不穏な力を論じた最後に、こう書いている。
《あらゆる芸能が、本質においてはみな怪物(モンスター)なのである。折口信夫は怪物としての芸能を誉めたたえ、怪物だからこそ好きだと語り続けた。折口 の学問の精神をよみがえらせることによって、わたしは日本の芸能をふたたび怪物として生まれ変わらせたい、と願っている。》
 これもまた、中沢新一の芸術人類学がこれからつき進もうとしている方向を予告している。
 怪物・折口信夫の思考にひそめられた未発の力を解き放すこと。それこそ、中沢新一が構想しているもう一つの「奇跡的な学問」の夢なのである。

 それにしても、「折口信夫の著作を前にしたときほど、わたしは自分が日本語の使い手であることを、しみじみと幸福に感じたことはない」と、これほどまで の賛辞を捧げられる対象をもつことは、ほんとうに幸福な生だと思う。
 こういう書物を、もっと若い時分に読んでおきたかった。