不連続な読書日記(2008.1)



【書評】

●山口謠司『日本語の奇跡──〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書:2007.12.20)

《日本語を支えるシステムと情緒》
 『堤中納言物語』に、ある貴人からの贈り物への返礼として、カタカナで和歌を書き送った(虫めづる)姫君の話が出てくる。
 本居宣長の門人伴信友は、この一篇に寄せて、「さて其片仮名を習ふには五十音をぞ書いたりけむ。いろは歌を片仮名に書べきにあらず」と記した(『仮名本 末』)。和歌をカタカナで書いてはいけない。草仮名すなわちひらがなで書かなければならないというのだ。
 ここに、この本で書きたかったことの淵源がある。著者は、あとがきでそう述べている。
 伴信友がカタカナを五十音図に、ひらがなをいろは歌に対応させたことを敷衍して、著者は本書で、日本語を培ってきた二つの世界を腑分けしてみせた。すな わち、〈アイウエオ〉という「システム」(日本語の音韻体系)を支える世界と、〈いろは〉という「情緒」(言葉に書きあらわすことが出来ない余韻)を支え る世界。
 それは同時に、日本という国家を支えてきた二つの要素に対応している。外来の普遍的な思想(たとえば儒教、仏教)や統治制度(たとえば律令制)と、「国 語」としての日本語でしか伝えられない「実体」とでもいうべきもの(たとえば民族性、もののあはれ)。
 著者は「システム」と「情緒」を、空海の業績に託して、「情報」と「実」とも言いかえている。
《空海が持ち帰ってきたものは、情報より「実」とでもいうべき意識ではなかったか。言ってみれば、借り物ではない世界を実現する力である。
 むろん、それまでの日本に「実」というものがなかったわけではない。しかし、「世界」とは中国であり、「普遍の伝達」とは中国の模倣とイコールであっ た。「実」という意識はまだ薄かったであろう。(略)
 「実」という意識は、あるいは、芸術家が模倣を繰り返す修行時代を抜けだし独創の境地に立った地点と似ているとでも言えようか。模倣は本来、「実」を必 要とはしない。模倣によってあらゆる技術を身につけようとするときの条件は、いかにして「実」を捨てられるかである。しかし、捨てようと思えば思うほど、 目の前の壁となって「実」は大きく姿をあらわしてくる。そして、いかにして「実」を捨てられるかともがき続ける修行のなかで、最後の最後に幻のように残っ た「実」こそが、まさしく独創の足場となるのではなかろうか。
 折りしも日本では、本当の意味での独創が始まろうとしていた。日本語において、それは〈カタカナ〉と〈ひらがな〉へとつながってゆくのである。》
 こうして著者は、漢字伝来から(鳩摩羅什による仏典漢訳の方法に倣った)万葉仮名の創造を経て、漢字の簡略化によるカタカナの、また、そのデフォルメ (草書体)を利用したひらがなの発明へ、そして、十世紀前半と目されるいろは歌の誕生(作者不詳)へと説き及んでいく。
 また、空海によるサンスクリット語の伝来に端を発し、十一世紀後半を生きた天台僧明覚による(子音と母音を組み合わせた)日本語の音韻体系の解明から本 居宣長へ、そして「情緒よりシステムの構築を必要とした」明治時代、大槻文彦による五十音配列の『言海』と至る五十音図誕生の物語を語っていく。
《〈いろは〉と〈アイウエオ〉の両輪によって情緒と論理の言語的バランスを取ることができるこのような仕組みの言語は、日本語以外にはないだろう。あらゆ る文化を吸収して新たな世界を創成するという点で、それは曼荼羅のようなものだと言えるかもしれない。
 我々はそうした素晴らしい日本語の世界に生きているのである。》
 この末尾に記された言葉がどこまで真実のものでありうるのか。それは、千年をはるかに超える日本語探求の歴史の重みを踏まえた、これからの言語活動の質 にかかっている。

●入不二基義『哲学の誤読──入試現代文で哲学する!』(ちくま新書:2007.12.10)

《哲学の四つの門》
 著者はまえがきで、本書は現代文の受験参考書と哲学の入門書を橋渡しするものだと書いている。その橋を渡ること自体がすでにして哲学の門をくぐることで あるような一冊であると。
 この「哲学の門」という語彙に着目すると、本書の四つの章に描かれた哲学の構図のようなものが見えてくる。
 まず、哲学的思考がそこから立ち上がる「基底的情報源」としての端的な生の経験がある。見えている物は実在しているか。過去はいま記憶しているとおりの ものか。そういった問いがそこから浮上する。
 これらの問いに答えられないと、日常生活は破綻する。猛スピードで迫ってくる車の実在を疑う前に、身をかわさなければ命を落とす。過去は写真や証言や契 約書によって裏書きされる。
 ところが哲学では、問いは解けない。解けないどころか、考えれば考えるほど謎は深まっていく。そのような問いを立ち上げること(日常的経験の外に立つこ と)が、哲学的思考の出発点となる。これが第一の門。
 この解けない問いをめぐって、哲学的探求は果てしなく続く。そこで思考されているのは、たとえば生き方の問題ではなくて、むしろ「生の形式」の問題であ る。いかに生きるかではなく、いかに生きているか(生きていかざるを得ないか)である。
 それは、知覚や想起の脳内因果法則を明らかにする科学的探求とも違う。たとえ将来、科学者が解答を与えたとしても、それでもなお解けない問いを哲学者は 問い続ける。問いを問うことの意味を含めて、問いの答えようのなさ(形式)そのものを不断に語りつづけていく。
 そうした探求の彼方にある「不可能性」(本書の例では、たとえば「解釈学的な過去」に対する「考古学的な過去」)へ、つまり言葉や思考の「外」へ向かっ て、明晰な言葉でもって思考し続けること。
 この探求の終局するところに、第二の門が控えている。しかし、哲学的思考は無限の運動なのだから、それが終局することは原理的にあり得ない。だから、そ の本来あり得ない哲学の第二の門をくぐることは、(哲学への入門に対して)哲学からの出門と言うべきだろう。
 ただし、それは中断された哲学的思考の所産である「形而上学的妄想」に汚染されて日常生活に帰還することでしかない。たとえば、知覚の及ばない物自体と いう妄想、想起できない過去自体という妄想、等々。
 この紛い物の第二の門が哲学の第三の門で、実は、それこそが日常の経験そのものを可能にしている。
 哲学的思考の中断によって創られたものが、実はあらかじめ在ったものであるという転倒。日常生活の経験が既にして形而上学的妄想に汚染されていたという 転倒。それは言葉というもののうちに、したがって言葉を使ってなされる思考のうちに始めから仕込まれていた転倒である。
 こうして、言語批判・哲学批判としての(もう一つの)哲学的思考が立ち上がる。この思考の果てに控えているのが第四の門である。それをくぐることは、 (形而上学的妄想に汚染された)人生を降りることであり、(形而上学的妄想に汚染されていない)端的な生の経験へと帰還することである。
 だが、ここで再び問いが浮上する。いま述べた「端的な生の経験」は、それもまた(もう一つの)形而上学的妄想なのではないか。こうして、哲学的思考は尋 常ならざる深みへとはまっていく。


【読了】

●山口謠司『日本語の奇跡──〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書:2007.12.20)
●入不二基義『哲学の誤読──入試現代文で哲学する!』(ちくま新書:2007.12.10)
●川嵜克哲『夢の分析──生成する〈私〉の根源』(講談社選書メチエ:2005.1.10)
●『スミス夫婦』(ヒッチコック)、『下宿人』(ヒッチコック)
●『男はつらいよ』(第1作)、『続・男はつらいよ』(第2作)、『男はつらいよ フーテンの寅』(第3作)、『新・男はつらいよ』(第4作)、『男はつらいよ 望郷篇』(第5作)、『男はつらいよ 奮闘篇』(第7作)、『男はつらいよ 寅次郎恋歌』(第8作)、『男はつらいよ 寅次郎夢枕』(第10作)、『男は つらいよ 私の寅さん』(第12作)、『男はつらいよ 寅次郎子守唄』(第14作)、『男はつらいよ 葛飾立志篇』(第16作)、『男はつらいよ 寅次郎 純情詩集』(第18作)、『天然コケッコー』


【購入】

●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#18〜#19(講談社:2007.6.13,2007.11.13)
●山口謠司『日本語の奇跡──〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書:2007.12.20)【680】
●スタンダール『赤と黒 十九世紀年代記』上(野崎歓訳,光文社古典新訳文庫:2007.9.20)【¥762】
●佐々木孝次『文字と見かけの国――バルトとラカンの「日本」』(太陽出版:2007.12.10)【¥3200】
●クロード・レヴィ=ストロース『神話論理V 食卓作法の起源』(渡辺公三他訳,みすず書房:2007.9.21)【¥8600】
●『芸術新潮』2008年2月号「特集|源氏物語 天皇になれなかった皇子のものがたり」【¥1400】



  【ブログ】

★1月11日(金):詩はレトリックと音楽との同時的表現による快楽である

 この言葉は、毎日新聞の今年最初の「今週の本棚」で、第6回毎日書評賞を受けた『鶴見俊輔書評集成 全3巻』について書かれた丸谷才一さんの文章に出てくる。
 書評の名手はたくさんいるが、一冊の本として見ると、途中で退屈する。その点、鶴見さんの書評集は、何か心にゴソリと来るものがあって、その摩擦感、抵 抗感がすばらしい。もちろん不満もある。「日本の批評家にしては珍しく好んで詩を扱い、よく引用するけれど、その詩はおおむね政治的モットーや人生訓に類 するものであって、詩がレトリックと音楽との同時的表現による快楽であるという局面は関心の埒外にあるようだ。」
 詩はレトリックと音楽との同時的表現による快楽である。昨年来、紀貫之のこと、古今和歌集のことに思いを巡らせるなかで、おぼろげに掴みかけた古今集的 表現の実質をズバリと言い切った言葉として、心にゴソリと来た。
 以上、このブログを書くことを止めてしまったわけではないので、その気になった時に何か書いておこうと思って書いてみた。

★1月15日(月):システムと情緒──『日本語の奇跡』

 山口謠司著『日本語の奇跡──〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書)を読んだ。
 日本という国の歴史そのものでもある日本語の変遷の過程を、コンパクトな新書に収めきるのはどだい無理な話だ。「書き足りない」と著者はあとがきに書い ているが、それは当然のことだと思う。
 情報の圧縮には必ず残余が伴うのであって、読後、それが余韻というか残り香のように漂うようであれば、成功といってよい。しかし、通読後の第一印象は 「書きすぎている」もしくは「書き散らかされている」というものだった。
 初学者にとって充分すぎる情報が、必ずしも順序だてて整然と構成されているとは思えない叙述のなかに、飛び飛びにちりばめられている。だから、にわか仕 込みの断片的な知識が頭の中でとぐろを巻いて、鮮明な読後感に集約していかない。
 それに、本書の表題にいう「奇跡」の実質がいまひとつ掴めない。
 日本語はトルコ語、モンゴル語、朝鮮語の同類で、基本となる語に助詞や助動詞が付属して文法的な関係を示す膠着語に属する。これに対して、古来、文明を 創り上げてきた国々の言葉は、ギリシャ語、ラテン語といったヨーロッパの言語やアラビア語、インドのサンスクリット語など、語尾変化によって文法的な関係 を示す屈折語と、中国語のように語の配列の順序で文法的な関係を示す孤立語とに分類される。
 膠着語の特徴は、外国語(屈折語、孤立語)からの借用語の比率が高いことである。結果として、それは文明と文明とをつなぐ架け橋の役割を果たしてきた。 オスマン・トルコやモンゴルが東西の文化を融合させながら大きくなっていったように。ユーラシア大陸の東端に位置する日本語は、西から押し寄せるあらゆる 言語を吸収し、それを濾過しながら貯えていった(東大寺の正倉院はまさにその象徴)。そして、漢字という「借り物」を長い時間をかけながら昇華させ、自国 の文化を繊細に表現する日本語を、つまりひらがなやカタカナを生み出していった。

《〈いろは〉と〈アイウエオ〉の両輪によって情緒と論理の言語的バランスを取ることができるこのような仕組みの言語は、日本語以外にはないだろう。あらゆ る文化を吸収して新たな世界を創成するという点で、それは曼荼羅のようなものだと言えるかもしれない。
 我々はそうした素晴らしい日本語の世界に生きているのである。》(181頁)

 本書の末尾に著者はそう書いているのだが、これがいまひとつ琴線に触れない。なんだか、国学者風の自画自賛としか読めないのだ。
 ずいぶんひどい書き方だけれど、以上が本書を一読しての率直な感想。でも、読み終えて、久しぶりに「書評」めいたものを書いてみようと思い立ち、最初か らぱらぱらと眺め返し、キーワードの類をノートに拾い、それらの関係を図解しているうちに、すっかり印象が変わっていった。(やっぱり、本は最低でも二 度、できれば三度くらいは読まないといけない。)
 ノートに書き込んだ覚書のうち、とりわけ重要だと思うものをピックアップしてみる。

・言葉とは存在(=無数にある世界の実体)を記号に置き換えたものである。
・国家とは言葉である。あるいは「祖国とは国語である」(シオラン)。
・日本語は、「システム」としての五十音図(カタカナ)と「情緒」としてのいろは歌(ひらがな)によって培われてきた。
・システムと情緒は、空海における「情報」と「実」に対応している。(著者はそう書いていないが、おそらく本居宣長における「からごころ」と「もののあは れを知るこころ」がこれに対応している。)
・情緒を支える〈いろは〉は、「音が世界を支配する」(マクルーハン)原始性につながっている。能や狂言、和歌の世界が、詞章を音のイミテーションによっ て保持する「師伝」によって支えられているように。

 なかでも「システムと情緒」は重要。この対概念をベースにして本書を読み直してみると、最初から最後まで一本の筋が通っていたことが判明するのではない か。それどころか、いろいろな分野に応用が利く優れた概念だったのではないか。そう思えてきた。

     ※
 『堤中納言物語』に、ある貴人からの贈り物への返礼として、カタカナで和歌を書き送った(虫めづる)姫君の話が出てくる。
 本居宣長の門人伴信友は、この一篇に寄せて、「さて其片仮名を習ふには五十音をぞ書いたりけむ。いろは歌を片仮名に書べきにあらず」と記した(『仮名本 末[かなのもとすえ]』)。和歌をカタカナで書いてはいけない。草仮名すなわちひらがなで書かなければならないというのだ。
 ここに、この本で書きたかったことの淵源がある。著者は、あとがきでそう述べている。
 伴信友がカタカナを五十音図に、ひらがなをいろは歌に対応させたことを敷衍して、著者は本書で、日本語を培ってきた二つの世界を腑分けしてみせた。すな わち、〈アイウエオ〉という「システム」(日本語の音韻体系)を支える世界と、〈いろは〉という「情緒」(言葉に書きあらわすことが出来ない余韻)を支え る世界。
 それは同時に、日本という国家を支えてきた二つの要素に対応している。外来の普遍的な思想(たとえば儒教、仏教)や統治制度(たとえば律令制)と、「国 語」としての日本語でしか伝えられない「実体」とでもいうべきもの(たとえば民族性、もののあはれ)。
 国家を支える「システム」としての言葉の世界は、『論語』(政治と人倫の規範を説いたもの)と『千字文』(あらゆる存在=実体を千の漢字で書きあらわし たもの)によって、わが国に漢字が伝来したという伝説のうちに示されている。国家を支える「情緒」としての言葉の世界は、漢字伝来以後の、日本人の「独 創」を通じてかたちづくられていった。
 ところで、著者は「システム」と「情緒」を、空海の業績に託して、「情報」と「実」とも言いかえている。

《空海が[唐から]持ち帰ってきたものは、情報より「実」とでもいうべき意識ではなかったか。言ってみれば、借り物ではない世界を実現する力である。
 むろん、それまでの日本に「実」というものがなかったわけではない。しかし、「世界」とは中国であり、「普遍の伝達」とは中国の模倣とイコールであっ た。「実」という意識はまだ薄かったであろう。(略)
 「実」という意識は、あるいは、芸術家が模倣を繰り返す修行時代を抜けだし独創の境地に立った地点と似ているとでも言えようか。模倣は本来、「実」を必 要とはしない。模倣によってあらゆる技術を身につけようとするときの条件は、いかにして「実」を捨てられるかである。しかし、捨てようと思えば思うほど、 目の前の壁となって「実」は大きく姿をあらわしてくる。そして、いかにして「実」を捨てられるかともがき続ける修行のなかで、最後の最後に幻のように残っ た「実」こそが、まさしく独創の足場となるのではなかろうか。
 折りしも日本では、本当の意味での独創が始まろうとしていた。日本語において、それは〈カタカナ〉と〈ひらがな〉へとつながってゆくのである。》(76 -77頁)

 こうして著者は、漢字伝来から(鳩摩羅什による仏典漢訳の方法に倣った)万葉仮名の創造を経て、漢字の簡略化によるカタカナの、また、そのデフォルメ (草書体)を利用したひらがなの発明へ、そして、十世紀前半と目されるいろは歌の誕生(作者不詳)へと説き及んでいく。
 また、空海によるサンスクリット語の伝来に端を発し、十一世紀後半を生きた天台僧明覚による(子音と母音を組み合わせた)日本語の音韻体系の解明から、 日本無双の才人・一条兼良による(動詞、形容詞などの活用に着目した)「行」の考え方を経て、宣長による「国語学史上の一大発見」(「オ」と「ヲ」、 「イ」と「ヰ」、「エ」と「ヱ」の区別)へと至る五十音図誕生の物語を語っていく。

《「言葉」は記号である。言葉を研究すれば、日本という古代から連なる精神をも見通すことができるのではないかと、宣長は考えたに違いない。
 言葉しか遠い昔に書かれたものの実体を指し示すものはない。(略)
 しかし、言葉を追えば追うほど、見えないものが存在していることにも気づく。「あはれ」とは何であろうか。そしてそれを感じる「こころ」はどこにあるの かと、宣長は追及する。
 すべてのものに心がある……。動物や虫はもちろん、草木や石にだって心がある。(略)
 中国からの影響を受けて作られた国であったとしても、その心は残っている。その心はどのように伝えらてきたのだろうか。
 『古事記伝』のなかで宣長は「鳥獣草木、海山などの類、何にまれ尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏[かしこ]き物を迦微[かみ]とは言うなり」とい う。》(163頁)

 こうした千年をはるかに超える日本語探求の歴史の重みを踏まえて、「情緒よりシステムの構築を必要とした時代」であった明治になって、大槻文彦による五 十音配列の『言海』が完成したわけである。それは、かつて空海が唐から持ち帰ってきた「実」という意識につながっている。

《真言宗の世界観からすれば、「あ」[サンスクリット語の「a(阿)」は宇宙のすべてを生じる「種」を象徴する]から始まり「ん」[同様に「n(吽)」は 「宇宙の終息」を意味する]で終わるという日本語の辞書は、宇宙の元始から始まることによって無限の存在を生じ、そしていつか収束して再び芽となって新た な世界を創成する曼荼羅という世界観に基づいたものだと言える。
 言葉とは存在を記号に置き換えたものである。その記号としての言葉に言霊のような命があると考えるならば、真言宗における曼荼羅の世界がそのまま「あい うえお順」に並べられた辞書には表されていると言うこともできるだろう。》(178頁)

 最後に引用した二つの文章、宣長と空海に関するものが、本書の叙述の流れの中で浮き上がっている。これらをどう理解するか。システムと情緒という対概念 とどういう関係を切り結ぶのか。日本語の歴史のうちにどう位置づけるか。「日本語の奇跡」とは何かという問題とともに、依然、読後の作業として残ったまま だ。

     ※
 ここ三月ほど、まともに本を完読できず、まとまった文章を打ち込むことがなかったので、たったこれだけのものにつごう5時間もかけてしまった。5時間近 く苦しんで、(尾篭な話だが、便秘ならぬ)言秘からようやく解放されたような気がする。

★1月27日(日):哲学の四つの門──『哲学の誤読』

 入不二基義著『哲学の誤読──入試現代文で哲学する!』(ちくま新書)。著者自身があとがきで言うように、これはかなりユニークな本だ。
 大学入試の国語の問題に使われた四人の哲学者(野矢茂樹、永井均、中島義道、大森荘蔵)の文章を徹底的に読み解き、かつ設問に答えることでもって哲学す ること。
 その際、哲学の文章がいかにして誤読されるか(誤読されざるを得ないか、またそれはどのような種類の誤読なのか)を実例に即して検討し、哲学的な思考と は何かについてその輪郭を浮かび上がらせること。
 これだけでも十分ユニークだと思うが、それはまだ事柄の半面でしかない。
 この本の本当の面白さは、そうした趣向で読者の気を引きながら、いつのまにか日常的思考から哲学的思考へと、それも哲学一般の思考(そんなものがあるの かどうか判らないが)ではなくて、入不二哲学とでもいうべき固有の哲学的思考の奥深くまで引き込んでしまう叙述の構成(というか企み)にある。
 その意味では、入試現代文を素材にしながら、誤読によって哲学の輪郭を逆照射するという趣向が、ねらい通りの効果を発揮しているのは前半の二章、とりわ け永井均の文章を扱った第二章までで、そこで取り上げられる誤読は、哲学的問題や哲学的議論に対する誤解(哲学的問題に答えを求めること、哲学的思考を知 識や人生論の問題として読むこと、等々)である。
 これに対して、後半の二章で取り上げられる誤読は意図的誤読(理のある誤読)もしくは創造的誤読であって、むしろそれこそが哲学的思考の一つのかたちで ある。そこでは、入試問題の解説・解答などもはや余分なことに思える。

     ※
 著者はまえがきで、本書は現代文の受験参考書と哲学の入門書を橋渡しするものだと書いている。その橋を渡ること自体がすでにして哲学の門をくぐることで あるような一冊であると。
 この「哲学の門」という語彙に着目すると、本書の四つの章に描かれた哲学(入不二哲学)の構図のようなものが見えてくる。
 まず、哲学的思考がそこから立ち上がる「基底的情報源」(大森荘蔵の文章に出てくる言葉)としての端的な生の経験がある。平たく言えば、知覚や想起や対 人交渉といった日常の経験のことである。見えている物は実在しているか。過去はいま記憶しているとおりのものか。他人の心は本当にわかるか。そういった問 いがそこから浮上する。
 これらの問いに答えられないと、日常生活は破綻する。猛スピードで迫ってくる車の実在を疑う前に、身をかわさなければ命を落とす。過去は写真や証言や契 約書によって裏書きされる。他人の痛みがわからない冷血漢は生きていく資格がない。
 ところが哲学では、問いは解けない。解けないどころか、考えれば考えるほど謎は深まっていく。そのような問いを立ち上げることが、哲学的思考の出発点と なる。これが第一の門。
 この解けない問いをめぐって、哲学的探求は果てしなく続く。そこで思考されているのは、たとえば生き方の問題ではなくて、むしろ「生の形式」の問題であ る。いかに生きるかではなく、いかに生きているか(生きていかざるを得ないか)である。
 それは、知覚や想起の脳内因果法則を明らかにする科学的探求とも違う。たとえ将来、科学者が解答を与えたとしても、それでもなお解けない問いを哲学者は 問い続ける。問いを問うことの意味を含めて、問いの答えようのなさ(形式)そのものを不断に語りつづけていく。
 そうした探求の彼方にある「不可能性」や「無」へ(本書での例を挙げれば、「解釈学的な過去」に対する「考古学的な過去」、あるいは「過去の順序関係や 現在の心の状態に還元される未来」に対する「時間そのものが存在していない無としての未来」へ)、つまり言葉や思考の「外」へ向かって、明晰な言葉でもっ て思考し続けること。
 この無限の運動の終局するところに、第二の門が控えている。それをくぐることは、言葉の彼方へ(狂気もしくは悟りとともに)飛んでいってしまうことだろ う。
 しかし、哲学的思考は無限の運動なのだから、それが終局することは原理的にあり得ない。だから、その本来あり得ない哲学の第二の門をくぐることは、哲学 への入門に対して日常生活への出門と言うべきだろう。
 ただし、それは中断された(もしくは挫折した)哲学的思考の所産である「形而上学的妄想」に汚染されて(もしくは「哲学病」に侵されて)日常生活に帰還 することでしかない。たとえば、知覚の及ばない物自体という妄想、想起できない過去自体という妄想、実は現在の心理状態でしかない未来という妄想、等々。
 この紛い物の第二の門が哲学の第三の門で、実は、それこそが(哲学的な問いがそこから立ち上がる)日常の経験そのものを可能にしている。この門をくぐる ことで、(形而上学的妄想とは無縁の)端的な生の経験が(形而上学的妄想に汚染された)日常の経験として成り立つのだと言ってもいい。
 哲学的思考の中断(挫折)によって創られたものが、実はあらかじめ(哲学的思考に先立って)在ったものであるという転倒。日常生活の経験が既にして形而 上学的妄想に汚染されていて、そこでの思考が既にして擬似哲学的な(哲学病に侵された)思考であったという転倒。それは言葉というもののうちに、したがっ て言葉を使ってなされる思考のうちに始めから仕込まれていた転倒である。
 こうして、言語批判・哲学批判もしくは反哲学としての(もう一つの)哲学的思考が立ち上がる。そして、この(もう一つの)哲学的探求の果てに控えている のが第四の門である。それをくぐることは、(形而上学的妄想に汚染された)人生を降りること(生き方を変更すること)であり、(形而上学的妄想に汚染され ていない)端的な生の経験へと帰還することである。
 だが、ここで問いが浮上する。いま述べた「端的な生の経験」は、それもまた(もう一つの)形而上学的妄想なのではないか。こうして、哲学的思考は尋常な らざる深みへとはまっていく。