不連続な読書日記(2007.10)



【書評】

●北野圭介『大人のための「ローマの休日」講義──オードリーはなぜベスパに乗るのか』(平凡社新書:2007.8.10)

《スクリーンのなかの身体》
「『ローマの休日』は、『裏窓』と同様に、五○年代という時点でハリウッドが蓄えてきていた、演技法のレパートリーをふんだんに盛り込んだ映像的身体の競 演といった側面をもつ傑作なのです。『ローマの休日』は、身体の映画であるといって間違いないのです。」
 第四章「足先のレッスン」の末尾に出てくるこの文章が、本書の魅力の在り処を語っている。
 そこにちりばめられた「映像的身体」や「身体の映画」といったキーワードが、第五章「フォトグラフィック、シネマティック」から第六章「スタイルの身 体、そして身体の戸惑い」へと続く、「スクリーンのなかの身体」をめぐる著者独自の映像詩学の開始を告げている。
 その極めつけは、著者が「存在論的アプローチ」と名づけた第七章「オードリーの三つの身体」の哲学的映画論であり、同様に「同時代批評的アプローチ」が 試みられた終章「陽の光、そして瞳のディアレクティケ」である。
 オードリー・ヘプバーンがマリリン・モンローやグレース・ケリーとともにスクリーンに登場した50年代は、視覚イメージをめぐる大きな転換期、すなわち 「フォトグラフィックの時代、ピンナップの時代、スタイルの時代」だった。それはまた、ポストモダンなイメージの戯れの先駆的な特徴があらわれはじめた年 代でもあった。
 こうした視覚イメージと時代の変化をめぐる考察を踏まえて、著者は、スタンリー・キャベルの議論に拠りながら、「フォトグラフィックであると同時にシネ マティックな」オードリーの三つの身体(生身の役者、シンボル化されたスター・イメージ、物語のなかの役どころ)について縦横に論じていく。
「映画(そして写真)という表現装置の核の部分には、人間の身体を、現実世界の時空間の真っ只中において写し取るという、ほかの表現手段ではけっして真似 ることの出ない特質がある…。その身体は、いやがおうでも、それが住まう、それが接する世界と一体となってイメージになるのです。大げさにいえば──実 は、大げさであるとは思っていませんが──、映画的身体の出現、これは、人類の表現行為の歴史のなかで、未曾有の出来事といえるのです。」
 前半の議論も素晴らしい。
 作品の成立事情や、映画史的なレファランスを豊かに刻み込んだその多面的な相貌を描く第一章「舞い降りてきた『ローマの休日』」。
 アンドレ・バザンに始まる作家主義的アプローチや、メロドラマをめぐる物語的想像力論などを踏まえた第二章「作品のかたち」。
 スター論的アプローチでもって、モンロー(セックス・シンボルにして女神)やケリー(彫刻のように結晶化されたクール・ビューティ)と対照させながら オードリーの魅力にせまる第三章「「妖精」と呼ばれたスター」。
 演劇の演技と映画の身体表現、舞台俳優と映画スターの比較を通じて、『ローマの休日』を「身体の映画」として捉える第四章。
 そのいずれも、ミニ映画史講義、ミニ映画批評史講義として抜群に面白い。しかし、それらにも増して、映画批評の最前線を切り拓いていく後半の議論が出色 の出来栄えなのだ。
 『ローマの休日』が湛える不思議な魅力に引きつけられて、スクリーンのなかのオードリーの身体が観客にもたらす「朗らかな明るさ」や「何か大きな肯定的 なもの」の実質に迫っていく、細部への理論的沈潜を抑制した躍動する筆遣いが見事である。

●中野昌宏『貨幣と精神──生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版:2006.3.10)

《アクロバティックなまでに複雑なモデル》
 ホッブス的秩序問題といわれるものがある。自由な個人が好き勝手に行動をとると、万人の万人に対する闘争に行き着くと思われるが、にもかかわらず社会に 秩序がもたらされうるのはなぜか、というものだ。
 そのような下からの秩序が「創発」するメカニズムを(部分的にであれ)いかに制御しうるか。著者が取り組んだのは、その前提として、「生きている構造」 とは何かを原理的に考察することである。
 著者が関心を寄せるのは、表層的には昨今のグローバリゼーションの流れであり、より核心においては、あたかも自動機械のように稼動する資本制そのものが 孕んでいる矛盾である。
 それは貨幣や人間主体の成立が孕んでいる矛盾と同型のもの、すなわち「特殊なものの普遍化がいかにして起こりうるか」という、すでにそれが起こってし まった後からその起源を問うときに立ち現われてくる矛盾である。
 この創発のアポリアを散文的・物理的に理解することも、逆に神秘的に理解することも無効だ。より複雑なモデルでもって、アクロバティックな仕方でこの矛 盾と折り合いをつけること。
 しかし、それはもはや机上の問題ではない。この世界のうちに、局所的なシステムの創発性を担う「私」を立ち上げ、システム全体を(下から)創発させるこ と。そうした実践のための最低限の「理論武装」を試みたのが本書である。著者はそう書いている。
 第1部では、秩序問題と同型性をもつ二つの問題のうち貨幣の起源をめぐる問いに、マルクスの価値形態論の読解を通じて取り組み、第2部では、主体の成立 をめぐる問いに、ラカンの理説(現実界・象徴界・想像界)を導入して取り組む。
 それらの論考の底流をなすのが、ヘーゲル哲学(否定と媒介)の時間論的読み替えともいえるもので、それは、創発をもたらす「力」を論理そのものから抽出 しようと試みた第3部で、著者がもっとも注目する内部観測の方法論へと接続されていく。
 目配りのきいたリサーチと手際よい要約。博士論文として出色の出来なのではないかと思うし、柄谷行人、大澤真幸の路線を踏襲する新人のデビュー作とし て、存分に力量を示しえているのではないかとも思う。(ある時期、ある局所的な社会のうちで流通していた言説群の整理、解説、総括、批評、継承の書として は、『構造と力』や『存在論的、郵便的』に匹敵する。)
 ただ、ここに示された理論なりモデルが充分に「複雑なモデル」たりえているかというと、それは疑問だ。少なくとも、これだけの「理論武装」でもって実践 に向かうことは危険すぎるだろう。
 「準備は整った。それでは、次のステップに進もう。」この言葉で著者は本書を締めくくっている。そこでいう「次のステップ」とは、もっとずっと複雑でア クロバティックなモデルをこしらえてみせることだろう。ラカンの思考の解説やマルクス、ドゥルーズ等々への接続から、ラカンの理説を存分に自家薬籠のもの として使いこなしてみせることへ。それが、中野氏が取り組むべき「次のステップ」だろう。
(その未完の著書は、ヘーゲルの『大論理学』のような世界を最初から創造し直すほどの力を湛えた抽象の殿堂か、あるいは、たとえばジンメルの作品のよう に、最も抽象的なものが最も具体的であるといった背理を生きる高純度の抽象物か。それとも想像を絶するまったく新しい世界をひらくものなのか。期待が高ま る。)

●山内志朗『〈畳長さ〉が大切です』(双書哲学塾,岩波書店:2007.9.5)

《哲学という最も畳長な営み》
 阪神・淡路大震災の後、リダンダンシーという言葉をよく耳にした。基幹道路一本で地域が結びつく都市構造は脆弱で、大規模災害に弱い。平時には無駄とも 思われる複数の交通アクセスを確保しておくことが、いざという時のバックアップ機能につながる。確かそういう趣旨のことだった。
 都市計画や建築物の構造といった分野だけではなく、暗号や情報理論やコンピュータ科学でもリダンダンシーは重要な概念である。たとえば『宇宙を復号する ――量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(チャールズ・サイフェ著)もリダンダンシーをめぐる話題から始まっている。
 一般に冗長性と訳されるこのリダンダンシーを著者は畳長性と呼ぶ。冗長性すわなち余贅、蛇足、冗漫といった否定的なニュアンスを打ち消すためである。冗 長どころか畳長性は人間の生き方をめぐる、いや生命そのものの、さらには世界における存在の基本原理ともいえる大切なものだからである。
 そういう意味では、畳長性はリダンダンシーの新訳語というより著者が始めて世に提示する独自の新しい概念であるという方が正しい。それもすでに出来上 がったものではなくて、これから磨き上げられていくべき概念である。
 だからなのだろう、この本はとてつもなく難解である。冗漫というと著者に怒られるが、畳長性をその形において示そうとしたらしいライブな語り口で叙述さ れた七日間の講義と長い補講からなる本書は、その細部の議論はとても面白いのだが、情報理論にコミュニケーション論にサイバネティクス、柳家小三治にベイ トソンにパース、等々と矢継ぎ早に繰り出される話題がうまく一つにまとまらない。
 安全性の確保や誤謬の自己訂正といった機能をもつ畳長性。コミュニケーションの可能性の条件としての畳長性。存在論や生命論にかかわる多様性の条件とし ての畳長性。それらの規定がバラバラなままでつながっていかないのである。
 圧巻は「畳長性とは何か――存在論からコミュニケーション論へ――」と題された補講だ。読者に判ろうが判るまいがもうどうでもいい。そういう些事にはか かわらず、著者はただ夢中になって創発途上の概念の輪郭と深層と有用性を描いていく。
 アッシジのフランチェスコの歌を踏まえていわく、畳長性とは受肉の別名である。キケロの修辞学を踏まえていわく、文章における畳長性を扱うのが修辞(詞 姿=フィギュール)であり、会話における畳長性を扱うのが表出である。等々。
 いわく、畳長性は偶有性である。またいわく、西欧中性の普遍論争における実在論は、普遍の実在性というよりも多様性(畳長性)の賛美に一つの中心を持っ ていた。(この普遍論争と畳長性との結びつきについて、著者は『存在の眩暈』という書物を予定しているらしい。刊行が待たれる。)またまたいわく、人間の 五感にも畳長性は見られるのであって、たとえばリンゴの「おいしさ」は畳長性なのだ。等々。
 そうした多様な(畳長な)議論を通じて「畳長性とは、創造性と多様性が潜在的なものとして宿り、集積している場所なのです」という定義が示され、はて は、畳長性とは現実を別の次元から見直す「藝」であって、その意味では哲学とは最も畳長な営みである、と見得を切る。
 この本が難解でつかみどころがないのは、出来合いの概念に寄りかかった解説本ではないからだ。まだ誰も考えたことのない未知の概念をつくりだそうともが いている哲学の現場がさらけ出されているからだ。だから読者も何かを勉強しようなどとは思わず、惜しげなく投げ出された概念の積み木を使って自分の哲学を 組み立てればいいのである。


【読了】


●中野昌宏『貨幣と精神──生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版:2006.3.10)
●ロバート・ウォード『四つの雨』(田村義進訳,ハヤカワ・ミステリ文庫:2007.8.25)
●織田正吉『『古今和歌集』の謎を解く』(講談社選書メチエ:2000.9.10)
●蔵本由紀『非線形科学』(集英社新書:2007.9.19)
●福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書:2007.5.20)
●山内志朗『〈畳長さ〉が大切です』(双書哲学塾,岩波書店:2007.9.5)
●チャールズ・サイフェ『宇宙を復号[デコード]する――量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(林大訳,早川書房:2007.9.25)
●『男はつらいよ 柴又慕情』(第9作)、『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(第13作)、『スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねえ』


【購入】

●入不二基義『時間と絶対と相対と──運命論から何を読み取るべきか』(勁草書房:2007.9.25)【¥3100】
●野矢茂樹『大森荘蔵──哲学の見本』(再発見 日本の哲学,講談社:2007.10.18)【¥1300】
●内田樹『村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング:2007.10.9)【¥1600】
●小松英雄『古典再入門──『土左日記』を入りぐちにして』(笠間書院:2006.11.21)【¥1900】
●紀貫之『土佐日記(全)』(西山秀人編,角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックス:2007.8.25)【¥590】
●『群像』11月号【¥920】
●庄司克宏『欧州連合――統治の論理とゆくえ』(岩波新書:2007.10.19)【¥740】
●チャールズ・サイフェ『宇宙を復号[デコード]する――量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(林大訳,早川書房:2007.9.25) 【¥2200】
●ロバート・ウォード『四つの雨』(田村義進訳,ハヤカワ・ミステリ文庫:2007.8.25)【¥760】
●『雨月物語』(溝口健二)【¥1000】、『東京物語』(小津安二郎)【¥1000】



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★10月1日(月):【貫之現象学】思いに形を与えること

 心と物の関係をめぐる紀貫之の歌論(古今集仮名序)を「現象学的歌論」と名付け、その実質を(永井均命名による「西田現象学」を参照しながら)考察す る、というか架設してみる。そんな試みに没頭している。貫之の歌論が「心と物の関係」をめぐるものであることの意味については、尼ヶ崎彬著『花鳥の使』に 収められた「心と物─紀貫之」の結びの部分に出てくる次の文章が余すところなく、しかも美しくかつ明晰に伝えている。

◎思いに形を与えること/思いが我々を捉えているのであって、我々が思いを捉えているわけではない/記号というレッテルから物という鏡へ/我を物思わせる 場の中に一片の象徴的な物を投げこむこと/〈物〉のイメージと〈思い〉の共喚起

《我々は、時に応じて様々の思いを抱く。恋の苦しみ、老の悲しみ、歓喜、屈辱、或いは憧憬。しかしその思いにただ浸るのみでなく、これを眼の前に置いて撫 でさすりたいとか、誰かと共に分ちあいたい、或いは後世の人に伝えたいと考える時、我々はこの思いに一つの客観的な形を与えねばならない。その思いを絵に 表し音楽に作るのも、形を与える一つの方法であろうが、中でも最も手近な方法と見えるのは、言葉でこれを捉えることである。しかし、我々は当の思いないし 気分の内に浸っているのであって、概念の如くこれを操作しうるものとして持っているわけではない。つまり、思いが我我[ママ]を捉えているのであって、我 々が思いを捉えているわけではない。それゆえ、この思いは元々捉え所がないばかりか、言葉の網を不用意にかければ、肝心の元の肌触りを全て失ってしまうこ とになる。例えば「悲しい」とか「恋しい」という記号を並べただけでは、人の胸を掴んで動揺させることはできない。これらの語彙は、ただ感情の種類を大ま かに分類するだけのレッテルでしかないからである。では、人を捉えるこの思いに形を与え、人がこれを捉えうるものにするにはどうすればよいであろうか。い にしえの歌人たちは、我を物思わせる場の中に一片の象徴的な〈物〉を投げこむ時、無形の水蒸気が一片の塵を核として雪に結晶するように、思いが凝固して一 つの形を得ることを発見したのである。〈物〉という鏡に映すことによって、〈思い〉は生きたままその姿を定着させる。読者は〈物〉のイメージを喚び起こし つつ、そこに映された〈思い〉をも喚び起こすのである。》(『花鳥の使』64-65頁)

★10月3日(水):【貫之現象学】言霊と歌の姿と私的言語をめぐるメモ

 貫之現象学の実質を「言霊と聲」「歌の姿(歌体)と共感覚」「哥と私的言語」の三つの切り口から考察してみる。おぼろげにそうした見取り図を作図してい る。その見取り図どおりに作業が進むかどうかは実際にやってみなければわからないけれども、なんとかまとまったらそのうち『コーラ』[http: //sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html]に連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」に書くことに なると思う。
 その「言霊と聲」については、永井均著『西田幾多郎』と尼ヶ崎彬著『花鳥の使』を基本に、富士谷御杖の歌論(尼ヶ崎本のほか、坂部恵著『仮面の解釈学』 でも言及されている)や大森荘蔵の「ことだま論」(『物と心』)、川田順造著『聲』、前田英樹著『言葉と在るものの声』などを参考文献として読み込み、そ こから抽出したアイデアを自在に(勝手に)使いまわすことで作業を進めるつもり。
 で、前田本の冒頭、第一章「物、心、言語の三つの関係について」の最初の3節分(「〈物〉が在ること」「〈心〉が在ること」「〈言語〉が在ること」)を 読み返していて思いつくことがいくつかあったので、忘れないうちにその残り香のようなものを覚書のかたちでここに記録しておくことにする。語彙や概念の使 用法について疑問、不満は残るが、その検証と精緻化は今後の作業に委ねる。

◎哥はギフトである。哥は神(カミ、迦美)からの授かり物であり、神への捧げ物である。(哥は啓示=預言であり、祈りである。)
◎中沢新一=ラカンの語彙を借用すると、哥は「純粋贈与(=聖霊)=現実界」の圏域に属する。だから、目に見えない。言葉で掴みとることもできない。(哥 は概念ではない。)
◎しかし、哥は実在する。哥は、潜在的(ヴァーチュアル)な次元で実在する。

◎潜在性としての哥の実在をその歌論の中核にすえたのが藤原俊成である。(貫之現象学。俊成系譜学。定家論理学。)

◎哥が歌(声)として詠み出されたとき、哥は実在する。哥が現働化されアクチュアルな次元で歌として実在するその現場において、哥は潜在性として実在す る。
◎詠み出された歌(声)は「贈与(=子)=想像界」の圏域に属する。たとえば贈答歌、屏風歌として。あるいは歌合の宴における題詠のかたちで。もしくは孤 独な心(孤心)の表出として。
◎詠み出された歌(声)の「効果」が言霊の力である。身体から身体への感情の伝達。共感情。
◎あるいは声振りとその想像(内後)の「効果」としての言霊の力。立ち現わしめる力。声は身のうち(大森荘蔵)。

◎哥と歌。聲と声。〈身〉と身体。〈顔〉と顔。〈物〉と物。〈心〉と心。〈思い〉と思い。詞と言葉。(ラングとパロール。もしくはクオリア憑きの言葉とた だの言葉。)

◎感情と感覚(クオリア)は詞のうちでつながっている。一つの身体のうちでの共感覚。異なる身体に宿る共感覚。
◎歌は「物」に付託して詠み出される(貫之)。尼ヶ崎氏の語彙では、哥は「一片の象徴的な〈物〉」に託して詠み出される。
◎「一片の象徴的な〈物〉」とは、端的にいって「言葉」のことだろう。だとすると、言葉で綴られた歌は「交換(=父)=象徴界」の圏域に属している。
◎詞華集の問題。一首の歌の意味(歌の心)はアンソロジー全体のうちに占める位置で測られる。(全体は一首の歌によって現働化される。)
◎あるいは「一片の象徴的な〈物〉」とはクオリアのことかもしれない。クオリア憑きの言葉としての歌。〈物〉としての歌。
◎尼ヶ崎は、「一片の象徴的な〈物〉」を「物という鏡」もしくは「〈物〉のイメージ」と言い換えている。「質量世界」へと架橋する歌。

◎「純粋贈与/贈与/交換」。「歌の姿(歌体)/言霊/言語ゲーム」。この二つの三組は構造的に相同である。「Q⇒P(q⇒p)」のかたちに表記できる。 「Q」:純粋贈与:歌の姿、「P」:贈与=言霊、「(Q⇒P)」:交換=言語ゲーム。ここで「(q⇒p)」の丸括弧内に出てくる「q」が私的言語である。

◎「実在」の軸を垂直に引く。下方(ヴァーチュアリティ)から上方(アクチュアリティ)への現働化の動きを内在させた軸。
 次に、「現実」の軸を水平に描く。左方(リアリティ)から右方(ポッシビリティ)への抽象化の動きを内在させた軸。
 そして、この二つの軸を直交させて四つの象限を得る。「質量世界」と「言語世界」に共通する構造。
◎この構造の第二象限(アクチュアリティ+リアリティ)を「言霊」(P)、第三象限(ヴァーチュアリティ+リアリティ)を「歌の姿(歌体)」(Q)、第四 象限(ヴァーチュアリティ+ポッシビリティ)を「私的言語」(q)と名づけ、第一象限(アクチュアリティ+ポッシビリティ)と第四象限との関係を「言語 ゲーム」((q⇒p))と名づける。
◎この「言語ゲーム」は西田現象学=貫之現象学の立場から見られたもので、(ニーチェ系譜学=俊成系譜学を経て到達される)ウィトゲンシュタイン論理学= 定家論理学の立場から見た「言語ゲーム」とは様相を異にしている。

★10月6日(土):高田純次のギャグ

 昨夜のテレビで、高田純次が、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか、それは親指を立てるとグラスが落ちるから」とギャグを飛ばして笑いを取って いた。このギャグのどこが可笑しいのだろうか。
 親指以外だったら、人差し指でも中指でも薬指でも立てられるのに、なぜことさらに人は小指を立てるのか、その理由を高田純次は答えていない。もっと厳密 にいうと、片手でグラスを持って床に落とさないようにするためには、親指とあと最低1本の指を使えばいい(親指以外の指を1本立てても、2本立てても、3 本立ててもいい)のだから、その組み合わせの数を計算すると、合計14通りの指の立て方がある。それだけの選択肢があるなかで、どうして人はことさら小指 を1本立ててグラスを持つのか、その理由を高田純次は答えていない。
 これに「グラスを片手で持つとき、指を立てない」という選択肢を含めると、「片手でグラスを持って床に落とさない」ための指の立て方の組み合わせの数は 合計で15通りになる。それだけの選択肢があるなかで、どうして人は……、というより、そもそも「なぜ人は片手でグラスを持つときに指を立てるのか、そし てその場合、なぜ小指を立てるのか」という二段の問いに、高田純次はまるで答えていない。
 でも、高田純次のギャグの可笑しさは、そういう論理的な穴や綻びにあるわけではない。人は、奇妙な論理におかしさを感じるけれども、それだからといって 思わず笑ったりはしない(意図的な冷笑や嘲笑は別として)。いや、あまりに破天荒な論理の飛躍には思わず笑ってしまうことがあるかもしれないが、高田純次 のギャグがそこまで飛んでいるとも思えない。
 「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」という問いは、そのような論理的な次元のものではない。また、人の指の筋肉の生理学的な構造や機能をめぐ る科学的な答えが求められているわけでもない。そのような問いを立てるとき、人はたぶん人間の心理や行動、社会の文化や慣習などをめぐる何か気の利いた答 えを望んでいる。しゃれた答えを提出した人に喝采をおくりそれを肴に会話がさらに弾んでいく、そうした効果が期待される場面でこそ、「なぜ人はグラスを持 つとき小指を立てるのか」などというどうでもいい問いが意味のある問いとして(会話を弾ませるバネのようなものとして)成り立つのだろう。
 高田純次がギャグを飛ばしたのは、まさに会話が弾むこと自体を目的としたテレビ番組の中でのことだった。出演者も視聴者も、そこで高田純次一流のギャグ が飛び出すことを期待していた。だからこそ「親指を立てるとグラスが落ちるから」という答えは可笑しかったのだろう。このギャグを笑った人は、笑いたかっ たから笑ったのだ。そういう意味では、答えは何でもよかったのだ。何も答えず、あるいは「わかりません」と答えても、もしかすると高田純次は笑いを取れた かもしれないのである。
 ただ、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」という人間の心理や行動、社会の文化や慣習に関連づけられた問いに対して、「親指を立てるとグラス が落ちるから」という物理学の法則に則った答えを出したところに、高田純次のギャグの冴えはあった(人間的なものの機械的なこわばり云々の議論をもちださ ないまでも)。

★10月7日(日):スクリーンのなかの身体──『大人のための「ローマの休日」講義』

 北野圭介著『大人のための「ローマの休日」講義──オードリーはなぜベスパに乗るのか』(平凡社新書:2007)を読んだ。とても面白い本だった。

《『ローマの休日』は、『裏窓』と同様に、五○年代という時点でハリウッドが蓄えてきていた、演技法のレパートリーをふんだんに盛り込んだ映像的身体の競 演といった側面をもつ傑作なのです。『ローマの休日』は、身体の映画であるといって間違いないのです。》(135頁)

 本書のちょうど中ほど、第四章「足先のレッスン」の末尾に出てくるこの文章が、(現代という時点で映画批評が蓄えてきていた、批評法のレパートリーをふ んだんに盛り込んだ)著者の議論がもつ魅力の在り処を語っている。
 そこにちりばめられた「映像的身体」や「身体の映画」といったキーワードが、本書の後半、第五章「フォトグラフィック、シネマティック」から第六章「ス タイルの身体、そして身体の戸惑い」を経て終章へと重層的に続いていく、「スクリーンのなかの身体」すなわち映画的身体をめぐる北野映画批評(「憧れ」の 映像詩学)の開始を告げている。
 その極めつけは、著者が「存在論的アプローチ」と名づける哲学的映画論が展開された第七章「オードリーの三つの身体」であり、同様に「同時代批評的アプ ローチ」が試みられた終章「陽の光、そして瞳のディアレクティケ」である。

     ※
 著者は、『ローマの休日』冒頭の夜会のシーンで、ドレスのなかにもぐりこんだカメラが映し出すアン王女の足先の動きに注目している。「王女は、左足がか ゆいらしく、右足を靴から出してその足先を、むずがゆい箇所にもっていく、と、次に右足を靴に戻そうとするけれども、肝心の靴が、見ることのできないドレ スのなかで、どこにあるのかみつからずうまくゆかない。そうこうしているうちに……」(112頁)。
 この「足先のレッスン」は、映画という「人類史上はじめて世界を機械的に再現してしまう視覚テクノロジー」が引き起こした身体意味作用の大転換が手なず けられ、操作可能になった段階で立ち現れ演出されたものである。「身体の小さな部位に、無意識の恥じらいまでも含めた、こころの表情──もしかすると、無 意識の襞まで含めて──を写し出させる感情の論理を、二○世紀中葉には、映画は演出可能なものとして自らの手中のものにしていたということです。」 (153-154頁)
 オードリー・ヘプバーン(『ローマの休日』[1953年])が、マリリン・モンロー(『ナイアガラ』[1953年])やグレース・ケリー(『裏窓』 [1954年])とともにスクリーンに登場した50年代は、そのような「視覚イメージをめぐる大きな転換期」(174頁)、すなわち「フォトグラフィック の時代、ピンナップの時代、スタイルの時代」(190頁)だった。
 それはまた、ポストモダンなイメージの戯れの先駆的な特徴があらわれはじめた年代でもあった。「性の営みも含め、あらゆる生活の局面がスタイルとして享 受されていく一方で、そのスタイルへの欲望をめぐってはてしなく深読みが繰り返されることで、周囲の世界の意味作用が重層化されていく時代。つまりは、人 間関係自体がゲームのように駆け引きの対象となっていく時代。」(188頁)
 こうした視覚イメージと時代の変化をめぐる考察を踏まえて、著者は、スタンリー・キャベル(『眺められた世界』)の議論に拠りながら、「フォトグラ フィックであると同時にシネマティックな」オードリーの、動きを含みもった身体のイメージについて縦横に論じていく。

《映画(そして写真)という表現装置の核の部分には、人間の身体を、現実世界の時空間の真っ只中において写し取るという、ほかの表現手段ではけっして真似 ることの出ない特質がある…。その身体は、いやがおうでも、それが住まう、それが接する世界と一体となってイメージになるのです。大げさにいえば──実 は、大げさであるとは思っていませんが──、映画的身体の出現、これは、人類の表現行為の歴史のなかで、未曾有の出来事といえるのです。》(203- 204頁)

《ある場所で起きてしまった何かの痕跡において、そこで起きてしまった事柄の生のリアリティをそのまま伝達してしまう、写真には、そのような残酷なまでの 記録性があります。それは、写真という表現媒体のもつ、底知れぬ潜在的な力を知らしめるものです。映画は、この写真の本質的な力の一部を引き受けつつ成り 立っている媒体です。『ローマの休日』の、あのときのあの場所のオードリーという点に関するかぎりは、写真性のなかのオードリーである、そういってもおか しくありません。
 しかしそれだけでは、『ローマの休日』の一番大事な何かが抜け落ちてしまう予感がします。
 幾層にも折り込まれた身体、それがそこにあるといえるからです。そこには、スターになりつつあったオードリーの身体でもあり、アン王女という役柄の身体 でもあり、また、あるときある場所でフィルムにその身体行為の痕跡をとどめてしまった一人の若い女性の身体でもある、そうしたいくつものイメージが折り重 なった映像が映し出されているのです。フォトグラフィックなかけがえのなさといいきって片づけてしまうには、いくつもの身体、いくつもの虚実、いくつもの 意識や想像力が折り重なりすぎているのです。》(208-209頁)

《この映画には、映画という表現媒体が抱え込む、分かちがたい三つの身体があるということです。すなわち、メカニカルな光学装置であることが起因となって 出来する、映像に痕跡として残留してしまう個的な生、それと、それを包み込む情景のあの時その場所にいたというとりかえ難き一回生の事実性が塗り込められ た身体があります。生身のオードリーの身体です。
 次に、役者もしくはスターとして伝承されていく、ある意味でシンボル化された身体のイメージの一部としての身体があります。さまざまな媒体が伝え、そし て、わたしたちが接し憧れてきたオードリーのイメージのはじまりを刻印した身体です。
 さらに、演じられている役柄が表現するところの、鑑賞され解釈される物語を紡ぎあげる登場人物の身体です。アン王女の身体、といっていいでしょう。
 もちろん、こうした、生身の役者、シンボル化されたスター・イメージ、それに物語のなかの役どころ、これら三つの身体は、どんな映画にも認められるもの です。しかし、『ローマの休日』においては、これら三つの身体が、どれもそれぞれに輝き、互いに損なわない仕方で存立し、緩やかに浸透し合っているのでは ないでしょうか。(略)
 この作品のわずか一部分を、いや、静止画写真のように切り取られたイメージをみてさえ、そこに、わたしたちは、俳優としての仕事を歩みはじめたばかりの 女性のかけがえのない一瞬、伝説の人物となっていく一大スターの足跡、さらには、観客が自らの人生を内省するきっかけとなるお手本としてのアン王女の物語 が喚起されてしまいます。
 フォトグラフィックとシネマティックは、ここにおいて、見事に交差するイメージ体験を生み出すこととなっているといってもいいでしょう。》(220頁)

 三つの身体が見事なバランスで溶け合ったとき、「特定の瞬間に留まることなく動き続けていこうとする躍動感が溢れんばかりの、運動性を全面に湛えた身体 イメージ」が実現している。

《そうした躍動感、運動性は、身体イメージに、観ている者のままざしを受けとめるというだけでない、観ている者を鼓舞する、勇気を与えてくれる力をまとわ せるものでもあります。(略)一介の一個の人間として観ている者を受けとめつつも、その躍動感と運動とにおいて、観ている者の身体を巻き込む、映画という 運動の表現媒体にふさわしい美しさ、それを『ローマの休日』の身体は驚くほどに体現しているのです。そして、オードリーのまなざしは、絵画の一方通行の優 しさではなく、一個の人間から一個の人間へと発された勇気の力を与えるものなのです。》(230-231頁)。

 しかし何ゆえ、オードリーの身体はわたしたちに勇気を与えてくれるのか。
 ここで著者は、『ローマの休日』の「真実の口」と「河畔のダンスパーティ」の間に挿入された「祈りの壁」のシーンに注目する。「オードリーはそこで、壁 づたいに捧げられた多くの花々の一角で、ひざを折って何かを祈る人々を目撃します。祈る姿を目撃してしまう行為、それは、当時の観客にとって、戦没者に対 してなされた祈りを想像させたといってもまず間違いありません。」(238頁)
 このシーンをめぐって、著者は、「生の現実を映し出す映像という映画イメージの在りかたは、目撃する者が映し出されるという卓抜な仕掛けが潜り込んでい たからこそのものである」(240頁)というジル・ドゥルーズの洞察を踏まえて、次のように書いている。

《オードリーの瞳は、わたしたちへ向かって、いや、このわたしに向かって開かれていて、誘い、語りかけてくるようです。大丈夫ですよと。勇気をもちなさい と。こころとからだの不安と戸惑いは、ここにもあったのだよと。
 戦没者を祈る女性のすがたをみつめた瞳がその責務を後世に伝えるがごとく、その同じ瞳で、オードリーはわたしたちを見つめ返してくれるのです。
 その、やさしく語りかけてくる──ディアレクティックな──瞳のイメージ、いくつもの祈りが折り込まれた瞳のイメージ。オードリーのそうした瞳がもつ誘 惑の勇気こそが、『ローマの休日』を織り上げている映像を慎ましくも凛として律動させている、朗らかで明るい映像のリズムである、そういいたくなります。 そしてそのリズムこそが、おそらくは、この映画における映像の詩学だと筆者は想うのです。》(245-246頁)

 本書の佳境をなす第七章と終章の論述には、掴みきれないところがいくつかあった。だから、上記の要約もしくは抜き書きからは、たくさんの大切な論点が抜 け落ちている。
 たとえば第七章の「劇行為の本当の意味」と小見出しが付された箇所。哲学的映画論の「哲学的」たるゆえんが語られているのだと思うが、うまく咀嚼するこ とができなかった。
 私自身の理解力不足ゆえなのか、著者の論述に穴があるからなのか。前者だと思うが、それでも、何か十全に語りきられていないものがある、もしくは、論述 を背後で支える理論が隠されていて、完全にその姿をあらわしていない。そんな感じがつきまとう。
 しかしこれは、物足りなさの表明ではない。「映画的身体の出現、これは、人類の表現行為の歴史のなかで、未曾有の出来事といえるのです」。この言葉に接 するためだけでも、本書を読む価値がある。

     ※
 前半の議論も素晴らしい。
 『ローマの休日』の成立に至る「奇跡」的な偶然の出来事の重なりや、映画史的なレファランスを豊かに刻み込んだその多面的な相貌を描く第一章「舞い降り てきた『ローマの休日』」。
 アンドレ・バザン(『映画とは何か』)に始まる作家主義的アプローチや、メロドラマをめぐる物語的想像力論などを踏まえて作品の構成分析がほどこされる 第二章「作品のかたち」。
 スター論的アプローチでもって、同世代の女優、マリリン・モンロー(セックス・シンボルにして女神)やグレース・ケリー(彫刻のように結晶化されたクー ル・ビューティ)と対照させながらオードリー・ヘプバーンの魅力にせまる第三章「「妖精」と呼ばれたスター」。
 演劇の演技と映画の身体表現、舞台俳優と映画スターの比較を通じて、『ローマの休日』を「身体の映画」として捉える第四章。
 そのいずれも、ミニ映画史講義、ミニ映画批評史講義として抜群に面白い。とりわけ、第三章から第五章にわたるモンロー、ケリー、ヘプバーンの三人の女優 の比較論やその作品論(『ナイアガラ』や『裏窓』)は実に刺激的だ。
 しかし、それらにも増して、映画批評の最前線を切り拓いていく後半の議論が出色の出来栄えなのだ。
 『ローマの休日』という「不思議な映画」がたたえる魅力に引きつけられて、ロラン・バルトが「ガルボの顔は、〈イデア〉であり、ヘプバーンの顔は〈出来 事〉なのだ」(「ガルボの顔」)と評した、スクリーンのなかのオードリーのイメージが観客にもたらす「朗らかな明るさ」や「何か大きな肯定的なもの」の実 質に迫っていく、(細部への理論的な沈潜を抑制し、個人的な生の感覚に即して論述しきった)著者の躍動する筆遣いが見事である。

 なお、人文書院のHPに北野氏の「映像論序説」[http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/eizom.htm]が連載され ている。著者いわく「本書の論述における理論的部分を抽出し、専門的に整理したもの」(256頁)。

★10月8日(月):アクロバティックなまでに複雑なモデル──『貨幣と精神』

 中野昌宏『貨幣と精神――生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版:2006)を読んだ。
 ホッブス的秩序問題といわれるものがある。自由な個人が好き勝手に行動をとると、万人の万人に対する闘争に行き着くと思われるが、にもかかわらず社会に 秩序がもたらされうるのはなぜか、というものだ。
 著者の問題意識は、人間集団においてそのような下からの秩序が生起・生成するプロセス、つまり「創発」のメカニズムを(部分的にであれ)いかに制御し設 計しうるかということであり、その前提として「生きている構造」とは何かという「古代ギリシャ以来の難問」を原理的に考察することである。
 「生きている構造」と呼ばれるものにはいくつかあるだろうが、著者が(具体的かつ実践的な)関心を寄せるのは、表層的には昨今のグローバリゼーションの 流れであり、より核心においては、あたかも自動機械のように稼動する資本制そのものが孕んでいる矛盾である。
 それは貨幣や人間主体の成立が孕んでいる矛盾と同型のもの、すなわち「特殊なものの普遍化がいかにして起こりうるか」という、すでにそれが起こってし まった後からその起源を問うときに立ち現われてくる矛盾である。
 この創発のアポリアを散文的・物理的に理解することも、逆に神秘的に理解することも無効だ。より複雑なモデルでもって、アクロバティックな仕方でこの矛 盾と折り合いをつけること。
 しかし、それはもはや机上の問題ではない。この世界のうちに、局所的なシステム(「生きている構造」)の創発性を担う「私」を立ち上げ、システム全体を (下から)創発させること。そうした実践のための最低限の「理論武装」を試みたのが本書である。著者はそう書いている。
 第1部では、秩序問題と同型性をもつ二つの問題のうち貨幣の起源をめぐる問いに、マルクスの価値形態論の読解を通じて取り組み、第2部では、主体の成立 をめぐる問いに、ラカンの理説(現実界・象徴界・想像界)を導入して取り組む。
 それらの論考の底流をなすのが、ヘーゲル哲学(否定と媒介)の時間論的読み替えともいえるもので、それは、「生きている構造」を立ち上げ稼動させる 「力」を論理そのものから抽出しようと試みられた第3部で、著者がもっとも注目する内部観測の方法論へと接続されていく。
 貪欲なまでに目配りのきいたリサーチと文献の読み込み、手際よい要約と考えぬかれた配列。博士論文として出色の出来なのではないかと思うし、柄谷行人、 大澤真幸の路線を踏襲する新人のデビュー作として、存分に力量を示しえているのではないかとも思う。
 ただ、ここに示された理論なりモデルが充分に「複雑なモデル」たりえているかというと、それはかなり疑問だ。少なくとも、これだけの「理論武装」でもっ て実践に向かうことは危険すぎるだろう。
(著者が挑もうとする資本制の側からは、よく勉強しているね、とねぎらいの言葉が投げかけられるかもしれない。これは皮肉をいっているのではない。ある時 期、ある局所的な社会のうちで流通していた言説群の整理、解説、総括、批評、継承の書としては、『構造と力』や『存在論的、郵便的』に匹敵する出来栄えだ と、私は心底感心し、驚嘆している。)
 「準備は整った。それでは、次のステップに進もう。」この言葉で著者は本書を締めくくっている。そこでいう「次のステップ」とは、いきなり実践(この世 界のうちに「私」を立ち上げること)に向かうことではなく、もっとずっと複雑でアクロバティックなモデルをこしらえてみせることだろう。ラカンの思考の解 説やマルクス、ドゥルーズ等々への接続から、ラカンの理説を存分に自家薬籠のものとして使いこなしてみせることへ。それが中野氏が取り組むべき「次のス テップ」だろう。
(そんなこと言われなくても、もうとうに次の作品に取り組んでいますよ、と著者の言葉が聞こえてくるような気がする。その未完の著書は、ヘーゲルの『大論 理学』のような世界を最初から創造し直すほどの力を湛えた抽象の殿堂か、あるいは、たとえばジンメルの作品のように、最も抽象的なものが最も具体的である といった背理を生きる高純度の抽象物か。それとも想像を絶するまったく新しい世界をひらくものなのか。期待が高まる。)

※2006年3月4日付けの「社会分析的ブログ」[http://nakano.main.jp/blog/archives/2006/03/04- 220425.php]に、ジュンク堂の書評誌『書標』に掲載された著者の文章が貼り付けてあった。

★10月13日(土):最近買った本・読んでいる本

 今日、三冊の本をまとめ買いした。
 入不二基義さんの新刊が出ていると知ったので、散歩の途中、明石のジュンク堂に立ち寄り、速攻で買い求めたのが『時間と絶対と相対と──運命論から何を 読み取るべきか』(勁草書房:2007)。個人的には、『相対主義の極北』と『時間は実在するか』(いずれも名著)の続編のつもりである、と「まえがき」 に書いてある。秋の夜長、入不二ワールドにしばし浸るのも一興と思うが、さて、いつ読むか。
 哲学思想のコーナーに、内田樹『村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング:2007)をみつけた。内田本は何冊か買ったまま読んでいないし、村上春 樹関連本も同様の状態だし、さてどうするかと、『時間と…』を片手にしばし逡巡しつつ、ふと隣の日本古典文学のコーナーに視線を泳がせると、小松英雄『古 典再入門──『土左日記』を入りぐちにして』(笠間書院:2006)が目に飛び込んできた。この本も以前ずいぶん悩んで、結局買うのをやめたことがあっ た。悩むほどのことでもない。ついでにまとめて三冊かかえレジに直行した。
 入不二本、内田本は、たぶんすぐに読み始めることはないだろうが、小松本は、いよいよ読むべき時を迎えていたようで、たまたま今朝、図書館で借りてきた 『日本語の歴史3 言語芸術の花ひらく』(平凡社ライブラリー:2007)や、一昨日、これは別の図書館で借りた大岡信『うたげと孤心 大和歌篇』(同時 代ライブラリー:1990)ともども、貫之現象学への道案内として格好の書物。摘み読みしかしていない『みそひと文字の抒情詩』の要約も織り込まれてい て、とても重宝。
 貫之現象学といえば、いま再読している前田英樹『言葉と在るものの声』(青土社)が直接につながっている。このことは前に書いた。今朝も少し読んで、前 田英樹のいう「声」とはクオリアのことで、それは貫之がいう「物」でもある、と手帳に書き込んだ。この前田本と中沢新一「映画としての宗教」をネタにして 貫之現象学の序説をしたてようと思っていたら、『群像』11月号に「映画としての宗教〈特別篇〉 洞窟の外へ─TVの考古学」が掲載された。で、いま読んでいる。
 鶴岡真弓『黄金と生命──時間と錬金の人類史』(講談社)も断続的に読んでいるが、なぜか気が乗らない。その他、蔵木由紀『非線形科学』(集英社新書) と加藤文元『数学する精神──正しさの創造、美しさの発見』(中公新書)、それから亀山郁夫『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(光文社新書)とロ バート・ウォード『四つの雨』(田村義進訳,ハヤカワ・ミステリ文庫)を通勤電車の行き帰り、とっかえひっかえ読んでいる。山内志朗『〈畳長さ〉が大切で す』(岩波書店)も読んでいる。

★10月16日(火):限界集落

 いわゆる「限界集落」の問題を考える会合に参加して、事例発表や参加者の発言を聞いて考えたこと。

◎まず、そこに住む「人」とその「生活」がある。健康、教育、消費(利便)、文化といった基本的な生活欲求が満たされなければいけない。資産管理、しご と、収入などの経済基盤が欠かせない。これらの要素がないと、人の生活は成り立たない。健康で文化的な最低限の生活は、憲法が保障している。
 次に、人々の暮らしを取り巻く「土地」、つまり「自然」や「環境」がある。「空間」といってもいいが、それは「時間」を内蔵した空間、あるいは「履歴」 をもった空間である。
 多自然居住といわれる地域には、国土保全機能をはじめ、そこに住む人にとってのものだけではない社会的価値がある。これらのうち、荒廃するに任せておけ ない部分については、社会全体で守っていかなければいけない。
 この二つのもの(人=生活と土地=空間)は、農山村部では、実は一つになる。農業であれ林業であれ、人々の「なりわい」はその土地から離れて営むことは できない。人々がそこで暮らし続けることが、その空間を維持することにつながる。
 この二つのものを媒介するのが「集落」である。生活の共同性となりわいの共同性を担う集落。それは、本来は目に見えないソフト技術の集蔵体である。 

◎人と土地と集落。限界集落を考えるとは、この三つの要素を同時に考えることである。それは、農山村部、多自然居住地域の問題を、いわば限界事例において 考えることである。
 人と土地と集落は、多自然居住地域の「経済体制」の三要素である。あと一つ加えるとすれば、集落内ではまかなえないサービス、たとえば医療を典型とする 専門的サービスに対する「アクセス」。具体的には、道路の整備や訪問サービスなど。
 この四つの要素を同時に考えることが、限界集落、ひいては多自然居住地域の問題を考えることである。たとえば、第四の要素を抜きにすることは、いわば自 給自足の経済体制を考えることである。
 限界集落の「経済体制」の特徴は、外部化に制約があることである。
 これが人口密集の都市部であれば、「集落」という要素は限りなく希薄化する。営利企業が参入できるからである。基本的な生活欲求の充足から経済基盤、冠 婚葬祭、地域行事にいたるまで、都市では、外部委託できないものはほとんどない。
 同時に、都市では土地(自然、環境、履歴をもった空間)も希薄化する。集落とともに抽象化される。
 貨幣と市場が集落という媒介にとってかわり、工場とオフィスと店舗が土地にとってかわる。
 集落では、外部へのアクセスの場面をのぞき、現金は本来必要がない。

◎限界集落をめぐる政策的対応を考える際、上記の四つの要素をトータルに考えないといけない。
 これまでの対応は、四つの要素をそれぞれ単体としてとらえてきた。たとえば福祉政策、農村政策、農業・林業政策、道路政策として。
 それは、都市の経済体制を前提にしたアプローチだった。全体を部分の総和と見る線形思考。つまり社会邸分業を前提にした政策論。
 だとすると、限界集落は、多自然居住地域の問題に対する限界事例であるだけではない。都市と工業を核とする近代社会、いや現代社会がかかえる問題に対す る限界事例でもある。
 新しい「経済体制」をつくりだすこと。かつて「都市と農村の結婚」ということがいわれた。それと似た、集落経済と都市経済の二つの体制の結合。NPOと 営利企業の、両方の要素を兼ね備えながら、そのいずれでもないもの、社会企業と呼ばれる主体による循環経済。その「土地」の富が、抽象的な外部へとかすめ とられない経済体制。「資本」の地域内循環。
 かつての「自然経済」の仕組みを復活することはもはやできないし、そうすることに意味はない。できることはまず保存すること、そしてそこから伝統知(ソ フトな技術)を抽出して、現代に生かすこと。

★10月21日(日):【大森荘蔵】ことだま論・第2節(その1)

 9月25日[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070925]に大森荘蔵「ことだま論」の第1節を取り上げた際、「第 2節はメモを取りながらじっくり読んだので、書いておきたいこと、それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われたことがたくさんある。こ のことは次回にまわす。」と書いた。その「次回」のことを忘れていた。
 あれから一月近く経ってしまったから、「それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われた」たくさんのことの記憶はもはや朧気でしかな い。けれどもさいわい手元にメモが残っているので、それを頼りにできるかぎり再現しておきたい。(もう一度「ことだま論」を頭から読み直せばいいようなも のだが、今日のところはそれをする時間がとれない。)

 その前に、昨日、本屋で野矢茂樹さんの『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社)を見つけて買い求めたので、そのことについてちょっと書いておく。
 これは「再発見 日本の哲学」というシリーズの一冊で、「今こそ、日本の近代思想を読みなおす!」というのがシリーズの謳い文句。既刊は廣松渉、佐藤一斎、石原完璽、続刊 予定に折口信夫、西田幾多郎、北一輝、小林秀雄、和辻哲郎の名が挙がる。こういった面々のなかに大森荘蔵の名が連なることに、なぜか異和感が拭えない。 「“日本の”哲学」というシリーズ名と大森荘蔵とがミスマッチなのかもしれない。
 それはともかくとして、野矢茂樹さんが大森荘蔵著作集第四巻に寄せた解説はとても見事なものだったので、この本には期待している。(でも、いつ読む か。)

     ※
 表象と対象(実在と現象)の二元的構図ではなく「立ち現われ」の一元的構図(「じかに」の構図)にあって「対象」はどう見てとられるか。賀茂川は幾度と なくわたしに立ち現われてきた。知覚的に、想起的(思い的)に、また想起の想起として。それぞれ異なるその幾つかの「立ち現われ」は「同じ賀茂川」という 「同一体制の下に」立ち現われている。事実そのように立ち現われている、というだけである。
 では、ただ一度、ただ一つの「立ち現われ」の場合はどうか。その一つの「立ち現われ」は、様々な他の「立ち現われ」と「同一体制の下に」立ちうるという 会得を含んだ相貌をもって、すなわち「持続する物」としての相貌をもって立ち現われる。「もの」が「じかに」立ち現われるというときの「もの」は、さまざ まな「同一体制」の会得を含んだ「立ち現われ」なのである。その「立ち現われ」の背後には「対象」なるものはない。(大森荘蔵「ことだま論」,著作集第四 巻,151-152頁)
 それでは、個別的ではなく、一般的な「もの」の場合はどうか。さまざまに異なるが、しかし同じ赤い色の場合はどうか。

◎端的な事実としての「似た色」の立ち現われ

《さまざまに異なるしかし同じく赤い色を、「赤い」という「同類体制の下に」あると言おう。……さまざまな赤が事実「似た色」として立ち現われる。それだ けである。「似ている」から同類体制の下に立ち現われるのでもなく、何かの特徴によって「似ている」のでもなく、「似た色」として事実立ち現われる、その こと自体を「似た色」と呼び、名付けるのである。……
 同一体制の場合に、さまざまに異なる「立ち現われ」の奥に、同一不変な「対象」を想定する必要がないことを述べた。それとパラレルに、同類体制の下に立 つさまざまな個別者の奥に、同一不変の「本質」、普遍者、「イデア」「形相」「スペチエス」、等を想定するのは不当であり不必要である、と言いたい。その 理由もパラレルである。赤鉛筆の色と、梅干の色は異なりながら「似て」立ち現われる。それは端的な事実であって、それを同一不変な「本質」その他を見てと ることによって「似ている」と判定する、といったような説明を必要としないからである。また、「類似性」を見てとることによって「類似する」のではなく、 「類似している」ものとして「立ち現われ」ている、それだけである。》(『大森荘蔵著作集第四巻 物と心』154-156頁)

 ウィトゲンシュタインの「家族的類似性(family resemblance)」を想起させられるが、この概念のことはよく覚えていないのでパスする。
 こういうときこそ常備本『事典 哲学の木』の出番なのだ。そう思い立って開いてみると、永井均さんがそのものずばり「家族的類似性」の項を執筆していた。そこに、「その家族を家族的に結 びつけているさまざまな特徴が挙げられれば、それらもまたふたたび家族的類似性によって結びついているのである。もちろん、それはどこかで、おそらくは 「端的にとにかく似ている」としか言いようのないどこかで、終っているはずである。しかし、それがどこなのか、われわれは知らないのである。言語ゲームの 根底には、このような家族がいる。」と書いてある。
(実は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(CONVERSATION PIECE)のことも想起したのだが、これはここの文脈とは完璧に無関係なので、これこそ本当にパスする。)
 その永井均さんの『西田幾多郎』に、いま抜き書きした大森荘蔵の文章と(たぶん)関連すると思われる記述があるので、以下に引用しておく。

《そこまで達すると、超越的主語面と超越的述語面とは一致する。それは、何ものの一例でもない。ただ端的にそうあるだけである。この場面でもし言葉が使え るとすれば、それは「こうである」と言えるだけである。「どうである」かは言えない。あえて分節するとしても、「これ(ら)は、このとおり、こうなってい る」と言えるだけである。いったい「どれ(ら)」が「どのとおり」に「どうなっている」のか、と問われたなら、ただ「これ(ら)が、このとおり、こうなっ ているんだ」と答えられるだけである。それでも一応そう言えるのは、超越的主語面が超越的述語面によって包摂され、そこに原初的な判断が成立しているから である。
 いや、そもそも判断はそこから始まるのだ。それは場所の自己運動である。具体的一般者は、具体的であってもやはり一般者なので、自己自身を限定し、有限 化していくための内部構造を内に宿している。具体的一般者は、それ自身の内部にいわば自らの判断化を推進していく(つまり主語─述語に分割し続けていく) 力と潜在的な内部構造を持っているのである。
 その具体的なプロセスは、たぶん、なぜか似たものが寄り集まって、自らなる分類が生成し、さらに、あるものとそれのもつ性質(すなわち主語と述語)とい う組織化がなされていく、といったことであろう。この「これ」はあの「これ」と同じ種類の「これ」であり、今の「こう」は少し前のあの「こう」とと同じ種 類であった、等々。つまり、この純粋経験は、抽象的一般者を作り出す力を初めから内に持っている。抽象的一般者とは、実は、具体的一般者がこのようにして 限定されたあり方なのである。(中略)
 かくして、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」は、「この色は、このように、赤である」、「この感覚は、このように、痛みである」等々へと、 自己を展開していくことになる(ただし、そこに「色」とか「赤」という記号があてがわれるのはまた別の過程である)。こうした判断においても、そこに働い ているのは場所の自己限定の働きであるから、真の主語は「この色」や「この感覚」ではなく、色という場所、感覚という場所、とつづく場所の系列である。
 この議論の肝は、色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである点にある。概念は外から質を規定するのではな く、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定していくわけである。すなわち、「分節化されていない音声」が一つの言語表現にな りうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化されていない音声を自ずと分節化させていく力と構造が、経験それ自 体のうちに宿っていることによってなのである。》(永井均『西田幾多郎』63-65頁)

★10月24日(水):映像化されたポアンカレ予想

 一昨日放映のNHKスペシャル「100年の難問はなぜ解けたのか〜天才数学者 失踪の謎〜」[http://www.nhk.or.jp/special/onair/071022.html]が面白かった。ポアンカレ予想の証明で フィールズ賞を受賞したグリゴリ・ペレリマンの謎の失踪をテーマにした「CGと実写の合成を駆使し、“天才の頭の中”を映像化する知的エンターテイメント 番組」。その内容はここ[http://ameblo.jp/cm115549901/entry-10052152328.html]に詳しく書いてあ る。
 ペレリマンの生い立ちやポアンカレ予想に取り組んだ天才数学者たちの物語にも心惹かれたが、なにより面白かったのはCGを使って映像化された天才アン リ・ポアンカレの頭の中の世界、つまりポアンカレ予想とは何か、それが証明されるとはどういうことかを映像イメージでもって直感的に理解できたと視聴者に 思わせるところ。言葉で記録することができないのが残念だ。
 宇宙のかたちを宇宙の外に出られない人間がいかにして認識できるのか。そういうことがポアンカレ予想に関係しているらしい。
 人間の頭が考えたこと(ポアンカレの場合はトポロジーという数学)が、実在する宇宙のあり方と深くかかわっている。人間の精神だって実在する宇宙の中の 事象だと割り切ればそれまでだが、こういうことにはいつもワクワクさせられる。数学は精神科学の粋だという岡潔の言葉を想起する。
 たまた読んでいた加藤文元著『数学する精神』(中公新書)の第4章「コンピューターと人間」に、計算する我とそれを反省するメタな我という二つの我があ り、後者があってはじめて数学的帰納法の原理に適用できるパターンが見出されるのであるといった議論が展開されている。そしてそのような「メタな我」つま り「パターン」を発見する我とは一体どのようなものかをめぐって、かの『科学と方法』に紹介されたポアンカレのアハ体験にふれている。
 この「メタな我」という言葉が、CGを使って映像化されたポアンカレ予想と響きあった。

★10月25日(木):哲学という最も畳長な営み――『〈畳長さ〉が大切です』

 山内志朗著『〈畳長さ〉が大切です』(双書哲学塾,岩波書店:2007)を読んだ。

 阪神・淡路大震災の後、リダンダンシー(redundancy)という言葉をよく耳にした。基幹道路一本で地域が結びつく都市構造は脆弱で、大規模災害 に弱い。平時には無駄とも思われる複数の交通アクセスを確保しておくことが、いざという時のバックアップ機能につながる。確かそういう趣旨のことだった。
 都市計画や建築物の構造といった分野だけではなく、暗号や情報理論やコンピュータ科学でもリダンダンシーは重要な概念である。たとえばいまたまたま読ん でいる『宇宙を復号する――量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(チャールズ・サイフェ著)という本もリダンダンシーをめぐる話題から始 まっている。
 一般に冗長性と訳されるこのリダンダンシーのことを、著者は畳長性と呼ぶ。冗長性すわなち余贅、蛇足、冗漫といった否定的なニュアンスを打ち消すためで ある。冗長どころか、畳長性は人間の生き方をめぐる、いや生命そのものの、はては世界における存在の基本原理ともいえる大切なものだからである。
 そういう意味では、畳長性はリダンダンシーの新訳語というより、著者が始めて世に提示する独自の新しい概念であるという方が正しい。それもすでに出来上 がったものではなくて、これから磨き上げられていくべき概念である。
 だからなのだろう、この本はとてつもなく難解である。冗漫というと著者に怒られるが、畳長性をその形において示そうとしたらしいライブな語り口で叙述さ れた七日間の講義と長い補講からなる本書は、その細部の議論はとても面白いのだが、情報理論にコミュニケーション論にサイバネティクス、柳家小三治にベイ トソンにパース、等々と矢継ぎ早に繰り出される話題がうまく一つにまとまらない。
 安全性の確保や誤謬の自己訂正といった機能をもつ畳長性。コミュニケーションの可能性の条件としての畳長性。存在論や生命論にかかわる多様性の条件とし ての畳長性。それらの規定がバラバラなままでつながっていかないのである。
 圧巻は「畳長性とは何か――存在論からコミュニケーション論へ――」と題された補講だ。読者に判ろうが判るまいがもうどうでもいい。そういう些事にはか かわらず、著者はただ夢中になって創発途上の概念の輪郭と深層と有用性を描いていく。
 アッシジのフランチェスコの歌を踏まえていわく、畳長性とは受肉の別名である。キケロの修辞学を踏まえていわく、文章における畳長性を扱うのが修辞(詞 姿=フィギュール)であり、会話における畳長性を扱うのが表出である。等々。
 いわく、畳長性は偶有性である。またいわく、西欧中世の普遍論争における実在論は、普遍の実在性というよりも、多様性(畳長性)の賛美に一つの中心を 持っていた。(この普遍論争と畳長性との結びつきについて、著者は『存在の眩暈』という書物を予定しているらしい。刊行が待たれる。)またまたいわく、人 間の五感にも畳長性は見られるのであって、たとえばリンゴの「おいしさ」は畳長性なのだ。等々。
 そうした多様な(畳長な)議論を通じて「畳長性とは、創造性と多様性が潜在的なものとして宿り、集積している場所なのです」という定義が示され、はて は、畳長性とは現実を別の次元から見直す「藝」であって、その意味では哲学とは最も畳長な営みである、と見得を切る。
 この本が難解でつかみどころがないのは、出来合いの概念に寄りかかった解説本ではないからだ。まだ誰も考えたことのない未知の概念をつくりだそうともが いている哲学の現場がさらけ出されているからだ。だから読者も何かを勉強しようなどとは思わず、惜しげなく投げ出された概念の積み木を使って自分の哲学を 組み立てればいいのである。

★10月28日(日):【哥の勉強】セルロイドの切れ端のような薄くて透明なもの

 というわけで、さっそく山内志朗著『〈畳長さ〉が大切です』を使って「哥の勉強」を進めてみることにしようかと思ったのだが、その前に、ついさっき『宇 宙を復号する』を読み終えたばかりなので、その中から印象に残った話題をひとつに限定して書いておく。
 EPR(アインシュタイン・ポドルフスキー・ローゼン)の思考実験が本書の要をなしていて、それがエヴェレットの多世界解釈によって解明される場面が本 書のハイライトをなしている。
 もちろんそんな単純な構成の本ではないし、いろいろと面白い話題はほかにもたくさんあるのだが、多宇宙(マルチ・ヴァース)の重ね合わせとその分裂とい う話題が、情報の伝達という観点から述べられているのがとりわけ新鮮で心に残ったのだ。(小松英雄氏がいう、平安前期の和歌や貫之の仮名序、土左日記など に見られる仮名連鎖の複線構造による多重表現の説と響き合っているようで、面白かった。あまりにベタな連想だが。)
 以下は、佳境に入るほんの少し前の箇所に出てくる文章。(ここに出てくる「セルロイドの切れ端のような薄くて透明なもの」を「仮名」と読みかえてみると いい。)

《多世界解釈のシナリオで何が起こっているのかを思い描くには、私たちの宇宙をセルロイドの切れ端のような薄くて透明なものと考えるといい。重ね合わせ状 態にある対象はその薄っぺらいものにうまい具合に載り、同時に二カ所に存在する。干渉縞ができるかもしれない。観測者がやってきて、たとえば電子に光子を ぶつけて跳ね返らせることで電子について情報を集めると、観測者は電子を、同時に右の位置にも左の位置にもではなく、そのどちらかに見つける。コペンハー ゲン解釈の支持者なら、波動関数はその時点で収縮するのだと言う。電子は、右にあるか左にあるかのどちらかを「選ぶ」というのだ。一方、多世界解釈の支持 者なら、宇宙が「分裂する」のだと言う。
 神のごとき存在がもしあって、宇宙の外からこの相互作用を見守っていたとしたら、突然、この電子がある(そして観測者がいる)セルロイド宇宙が一枚の シートではなく、シートが二枚くっついたものであることに気づくだろう。電子の位置について情報が漏れ出すとき、実は宇宙の構造についての情報がもたらさ れている。すなわちその情報は、宇宙が二重になっていることを示しているのである。電子は、この二つの宇宙の一方では右の位置にあり、もう一方では左の位 置にある。この二枚のシートがくっついているかぎり、右の電子と左の電子は同じシートにあるかのようだ。電子は同時に二カ所にあり、自分自身に干渉する。 しかし、電子の位置について情報を集めるという行為によって、二枚のシートは引き剥がされ、コスモスの多層的な性格があらわになる。つまり、二枚のシート は情報が伝達されたせいで分離するのだ。》(320-321頁)

★10月29日(月):狩野永徳の屏風絵

 先の土曜日(27日)、京都国立博物館の狩野永徳展に出かけた。
 会場に入るのに40分並び、洛中洛外図屏風を歩きながら見るのにも行列ができていたのでこれはパスして遠くで眺め、最後の部屋でゆっくり間近で唐獅子図 屏風と対面した。織田信長像と檜図屏風が強く印象に残った。
 会場出口の看板に、長谷川等伯展の2010年開催が予告されていた。
 その日の夜のTV番組「美の巨人たち」が永徳の唐獅子図屏風を取り上げていた。
 高さ2.2メートル、幅4.5メートルもの巨大な屏風がなぜ必要だったのか。
 答えは、これは本来屏風絵ではなかった。天下人秀吉の威光を示す壁絵として描かれたのを切りつめて屏風に貼ったものだったというもの。

 いま、紀貫之周辺の本をいろいろ漁っていて、屏風歌というものにいたく興味を持ち始めている。
 永徳の屏風絵にはどのような歌がふさわしいのだろうか。等伯の屏風絵に書き込まれた歌を想像できるだろうか。そんなことを漠然と考えている。
 屏風歌はフィギュールである。そもそも屏風絵がフィギュールである。そんなことも考え始めている。