不連続な読書日記(2007.3)




【書評・感想】

●高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋:2007.1.10)

《小説という場所》

 私たちがふだん使っている「散文」が生まれたのは明治、ツルゲーネフ「あいびき」が二葉亭四迷訳で世に出た時のこと。それはまた、「ニッポンの小説」の 誕生の時を告げる事件でもあった。
 なにを書くか、ではなくて、どう書くか。私が考えたことを文に書く、のではなくて、文体が考える。
《「ニッポンの小説」は、というか、ほとんどの「文学」は、言葉を、何かを召還するために、「存在」させるために用います。(略)
「リアリズム」とは、視覚的な何かに関するものです。「近代文学」は、「リアリズム」という、長い間欲してきた最良の武器を手に入れ、表現として最高のス テージに到達することができました。
 目に見えぬものすら、見えるように描くこと。それは、ほとんど全世界を手に入れるに等しいことでした。だから、彼らは、もしかしたら存在していないのか もしれない「死者」さえ、目に見えるように描こうとしました。彼らは、「死者」さえ手に入れようとした。》
 散文を生み出した張本人は、しかし、「ニッポンの小説」の文章に対して懐疑的だった。「真実(ほんと)の事は書ける筈がないよ。」
 その二葉亭四迷の懐疑について、高橋さんは、次のように書いている。
《フタバテイは、ロシア語と日本語を知っていました。(略)
 二つの言語を知る、ということは、言語の構造性に否応なく気づいてしまう、ということなのです。(略)
 おそらく、フタバテイは、日本語とロシア語の相違を通じて、言語そのものが持つ冷たい物質性を知ったのです。もちろん、フタバテイは、後世、人々が、そ れを言語の「構造性」と呼ぶようになることなど、知りませんでした。(略)
 言語の危機が訪れる度、フタバテイのような作家が、召還されます。言語の危機とは、言語の構造性の露出です。そして、それが、その言語によって生きる社 会の危機であることは、いうまでもありません。》
 高橋さんは、自らのうちに二葉亭四迷を召還し、「ニッポン近代文学」の幕引き役をかってでている。
 それは、本書の冒頭で、すでに予告されていたことだ。高橋さんは、そこで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』のラストシーンになぞらえて、「もしかし たら、わたしは、最後のアウレリャーノのように、無の中に消え去ろうとしている自らの一族の運命を記述するために、作家になったのではないだろうか」と 語っていた。
 しかし、高橋さんの文章は、懐疑と絶望を、ではなく、不思議な明るさと未来への希望をもって綴られる。
 ニッポンの小説の離陸に立ち会いながら、同時に、異和をも表明していた夏目漱石の『夢十夜』。自分の死の細部について書かれた作品であり、死者に近づく 文法の可能性を探った、言葉の真の意味で冒険的な作品である古井由吉の『野川』。暗喩が禁じられた場所で、厳密さと狂った文法を共存させた石原吉郎の詩。 あるいは、川崎徹や猫田道子や中原昌也の小説。
 それらの作品のうちに、高橋さんは、「言語というものを前にして、そこに、意味や物語を見出す前に、「構造」というものを感じてしまう自分自身」のひと つの系譜を見出している。言葉によっては、「リアリズム」というニッポン近代文学の武器によっては、召還されないもの(見えないもの、死者、無意識、等 々)とのコミュニケーションの可能性を見出している。
 そして、「およそ、言葉というもののふるまいの一切に、真剣に聞き入ることのできる場所、言葉というものがなにをしようとしているのか、言葉というもの が、にんげんになにをさせようとしているのかを見つめることのできる場所、つまり、小説という場所」に留まりつづけることを宣言して、本書を終える。

●橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書:2006.12.19)

《刹那刹那に創造される時間》

 なぜ時間には過去から現在へ、あるいは未来から現在へという「流れ」があるのか。つまり、「今現在」に依存する主観的な時間(マクタガートのA系列)は どこで生まれたのか。また、なぜ時間には先後関係という「向き」があるのか。つまり、歴史年表のような客観的な時間(B系列)はどうやって成り立ったの か。
 これらのことを解明するため、著者は、相対論と量子論の成果をもとに、次の前提条件を導き出す。ミクロな量子系に時間は実在しない。時間はマクロな相対 論的世界のどこかで生まれている。そこでは、事象は、過去・現在・未来といった様相や時系列のうちにあるのではなく、数列のように一覧表として並んでいる (C系列)。 
 このような「C系列一覧表世界」にあって、エントロピー増大の法則に反し、自らの秩序を維持するものが存在する。生命である。主観的時間は、この生命の 進化を通じて、刹那刹那──「生命個体が外部世界からの干渉を受けて、自らの行動を決断する、その刹那刹那」──において秩序を維持しようとする生命の 「意思」の力によって、創り出される。
 まず、エントロピー増大の法則による外の世界からの干渉(秩序を壊そうとする外部の圧力)が、すでにそこにある変更不可能な過去である。それに対して、 「意思」をもって、多くの選択肢の中から秩序維持という唯一の解を選ぼうとするのが生命である。「こうして、[結晶や竜巻のような]単なる自己増殖機械に すぎなかった初期の生命は、やがて本当に生きることになるのである。」また、明確な「意思」の存在が生命に、外圧に逆らって秩序を維持する自由、つまり未 来をもたらす。
 もし、この主観的時間を創造している刹那刹那の「意思」が、自分の意思決定を「記録」する手段をもつならば、一連の「意思」は、あたかも川の流れのよう に一つにつがることになる。「こうした記憶を得た生命は、誕生から死へとつながる一連の自己という意識をもつようになるだろう。」実際、人間の脳の記憶領 域には、これまでの「意思」の「記録」が順番に配列されている。この配列こそが、B系列の時間にほかならない。

 面白い本だった。第一章から第五章までの物理学を中心とした議論と、付録によるその補強、とりわけエントロピーの法則をめぐる叙述は、自然科学の啓蒙書 として抜群の面白さだった。参考文献解説も読みごたえがあった。ただ、本書のキモとなる第六章と第七章の議論での、C系列からA系列へ、A系列からB系列 へという時間誕生の理論は、なるほどと思わせられはしたけれども、心底説得されなかった。
 たとえば、刹那刹那の「意思」の力によって主観的時間(A系列)が創り出されるというとき、そのようなことを(自らに生じた体験として)語りうるのは いったい誰なのだろう。「意思」の「記録」がもたらす「自己という意識」がそれである、というのでは答えにならない。なぜなら、それはB系列の時間のうち にあるものなのだから。
 本書後半の議論は間違っているとか、欠陥があるといいたいのではない。時間の謎は、本書でもついに解明されなかった。謎は謎のまま残った。でも、時間の 謎がはらんでいた「驚異」の実質はより鮮明にされたのではないか、といいたいのある。
 途中の説明と論証抜きに極論を述べると、世界を説明する言葉の生成(自己意識)と、その言葉によって説明される世界の創造(記録)が切り離せない、その ような世界の実相(意思としての世界)に迫る途方もない議論が、ここから始まるかもしれない。

●立川武蔵『仏とは何か──ブッディスト・セオロジーV』(講談社選書メチエ:2007.3.10)

《変容する仏のイメージ》

 宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との区別を意識した合目的的行為である。すべての宗教行為は世界認識(世界観)、目的(目標)、手段(実践)の 三要素を含んでいる。
 本書では、マンダラという仏や菩薩の住む世界の中に示されている、仏教における行為の目的・目標が、「ホーマ」(バラモン教のヴェーダ祭式=護摩)や 「プージャー」(ヒンドゥー教の儀礼=供養)などの宗教儀礼、仏塔(涅槃のシンボル、世界=宇宙、ブッダの身体、立体マンダラの四つの意味をもつ)や仏像 といった宗教シンボル、そしてバクティ(帰依)等々の宗教行為をめぐる詳細な叙述を通じて、具体的に考察される。
 また、宗教には時代の状況に対処して進む自覚的な方法があり、それをセオロジカル(神学的)と呼ぶならば、仏教にもそういった自覚的な歩みがある。原始 仏教から、密教(世界の内なる仏=大日如来)や親鸞の浄土教(世界の外なる仏=阿弥陀仏)まで、ゴータマ・ブッダの悟りと思想を根底に据えながら、仏教 は、一つの生きものように「神学的」な歩みをおこなった。
 本書では、初期における偉大なる師としてのブッダから、ジャータカ物語(ブッダの本生物語=過去生物語)を経て、「ペルソナ」(人格)をそなえた神的存 在として人と交わる、大乗仏教における仏たち(阿弥陀と大日)に至るまで、仏のイメージの変容と、それをもたらした仏教思想の変革の過程を、仏教美術の変 遷や経典の読解を通じて、これもまた具体的に語られる。

 仏教の思想と実践をめぐる「セオロジー」の部分、とりわけ「ペルソナ」としての仏をめぐる議論に多大な関心と期待を寄せながら本書を読み始めたものだか ら、最初のうちは、時に煩瑣とも思われる事実の列挙に味気ない思いを拭えなかった。
 しかし、宗教という、個人的、集団的、いずれの相においても生々しい人間的営みについて考えるとき、数千年、もしくは数万年に及ぶ人々の思いと行いがか たちづくってきた具体的な歴史への敬意と洞察を抜きにして、空理空論の世界に遊ぶことなど無意味だろう。
 本書を読み進めていくうち、とりわけ第七章「ジャータカ物語と仏の三身」から第八章「大乗の仏たち──阿弥陀と大日」へと頁を繰っていくうちに、具体的 な相における比較と変遷を、繰り返しを厭わず淡々と綴っていく語り口に、すっかり魅了されていった。
 記憶にとどめておきたいことはたくさんある。三身仏の思想、もしくは「ブッダの三つの位態」をめぐる思想に関して、キリスト教の三位一体説(神の三つの 位格)と比較しながら述べられた箇所。
 浄土教に関連して、「『阿弥陀経』や『無量寿経』に描かれている浄土の様子は、すこぶる視覚的なものである」云々と、「神の図像化」もしくは「「聖なる もの」のヴィジュアル化」を論じた箇所も面白い。
 また、浄土(世界の外への遠心的方向=「脱自的方向」)とマンダラ(世界の内への求心的方向=「保身的方向」)を、空の思想における自己否定とその後の よみがえりに関係づけている、本書末尾の議論も面白い。このことは、宗教実践を主題とするシリーズ第四巻以降で述べられるという。刊行が待ち遠しい。

●鈴木一誌『画面の誕生』(みすず書房:2002.9.20)

《「メカニックな手つき」でデザインされたドキュメンタリー》

 鈴木一誌は、『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に収められ、後に単著『重力のデザイン』に収録された「重力の行方」を、こう書き始めていた。 「しごとを終えたあと、邦訳されたクロード・レヴィ=ストロースの著作を読むのが、二か月ほどのならいとなった。」
 その模倣というわけではないけれども、私もまたここ七か月ほど、鈴木一誌の『画面の誕生』をほぼ毎日一節ずつ、仕事と仕事の合間、たいがいは昼食後の午 睡の前に、読み進めるのをならいとしてきた。
「日課のようにその著述を読むのはふしぎな体験だった。これほどレヴィ=ストロースの文章は淡々としたものだったのか。……だが、魅力がないわけではけっ してなく、叙述の平らかさが飽きのこない読書体験をもたらし、信仰をもつ人間の枕頭の書とはこういうものかもしれない、と思わせる習慣性を到来させたのだ が、それにしても、行の意味は読む端から砂粒のようにこぼれ去っていく。」(「重力の行方」)
 この文中の固有名を「鈴木一誌」に置き換えると、それはそのまま、『画面の誕生』が私に与えてくれた読書体験の質をいいあてた文章になる。
 ゴダールの『映画史』とワイズマンのドキュメンタリー映画を論じた文章を双璧に、レヴィ=ストロースの写真集『ブラジルへの郷愁』やアニメ作品『攻殻機 動隊』、安彦良和の漫画『虹色のトロツキー』等々をめぐる文章群で構成されたこの書物は、それらの作品が著者の身体にもたらした体験の痕跡を、ショット (鮮やかな警句としての断言)とシークエンス(一つ一つ几帳面にタイトルを付された節)の正確無比な編集作業を通じて、読者の身体において、「生きられて いる体験」として上映されるドキュメンタリー作品へと、七年の歳月をかけて織り上げていったものだ。
 「重力の行方」には、また次のように書かれていた。
「レヴィ=ストースを読むことは、書き手の熱意や使命感によって問題が設定され、疑問がつぎつぎに繰りだされていき、記述を読み進めることが書き手と読者 の一体化であると錯覚させるような、線型の読書体験ではない。……このとき読み手の眼前にせり上がってくるのは、著者の「対比し、示す」、なかばメカニッ クな手つきだろう。レヴィ=ストロースの著作は、作者の〈器用しごと〉を見せるドキュメンタリーと見える。」
 鈴木一誌の文章がもたらす「メカニック」な感触と、それが最終的に「生きられている体験」へと沈降していくさまを、鈴木一誌よりうまく言葉にすること は、私にはできない。


【読了】

●高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋:2007.1.10)
●秋山駿『私小説という人生』(新潮社:2006.12.10)
●川端康成『雪国』(新潮文庫:1945)
●佐藤優『自壊する帝国』(新潮社:2006.5.30)
●橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書:2006.12.19)
●立川武蔵『仏とは何か──ブッディスト・セオロジーV』(講談社選書メチエ:2007.3.10)
●鈴木一誌『画面の誕生』(みすず書房:2002.9.20)
●河野哲也『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス:2006.2.25)
●草凪優『つまみ食い。』(徳間文庫:2007.3.16)
●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#17(講談社コミックスKiss:2007.2.13)
●漆原友紀『蟲師8』(講談社:2007.2.23)


【購入】

●ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』上下(小泉義之訳,河出文庫:2007,1,20)【¥1000×2】
●『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』(浅井健二郎編訳,ちくま学芸文庫:2007.3.10)【¥1500】
●『坂部恵集4 〈しるし〉〈かたり〉〈ふるまい〉』(岩波書店:2007.2.23)【¥4200】
●坂部恵『和辻哲郎──異文化共生の形』(岩波現代文庫:2000.12.15)【¥1000】
●石川忠司『極太!! 思想家列伝』(ちくま文庫:2006.11.10)【¥780】
●『ノヴァーリス作品集3 夜の讃歌・断章・日記』(今泉文子訳,ちくま文庫:2007.3.10)【¥1300】
●立川武蔵『仏とは何か──ブッディスト・セオロジーV』(講談社選書メチエ:2007.3.10)【¥1500】
●『大航海』No.62〔特集|中世哲学復興〕(新書館:2007.4.5)【¥1429】
●クロード・レヴィ=ストロース『神話論理U 蜜から灰へ』(早水洋太郎訳,みすず書房:2007.1.22)【¥8400】
●白川静『詩経 中国の古代歌謡』(中公文庫:2002.11.25)【¥952】
●『石川淳評論選』(菅野照正編,ちくま文庫:2007.3.10)【¥1500】
●レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳,早川書房:2007.3.10)【¥1905】
●草凪優『つまみ食い。』(徳間文庫:2007.3.16)【¥571】
●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#17(講談社コミックスKiss:2007.2.13)【¥390】
●漆原友紀『蟲師8』(講談社:2007.2.23)【¥590】
●『ケルティック・ウーマン ニュー・ジャーニー』【¥2381】



  【ブログ】

★3月5日(月):『ニッポンの小説』その他

 久しぶりに予定のない時間がぽっかりできたので、たまたま手元にあった高橋源一郎著『ニッポンの小説 百年の孤独』をぱらぱらと眺め始めると、これが めっぽう面白く、きりのいいところで止めるつもりが止められず、とうとう最後まで一気読みをして、おかげで眼精疲労と肩凝りで積年の、というと大袈裟だ が、このところ花粉症に痛めつけられ、知らぬ間に溜め込んでいたらしい疲れが、どっと吹き出した。
 気分転換に、自宅前の城のある公園を散歩していると、鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで天守閣の方から飛んできたが、フト柱を建てたように舞い昇ッ て、さてパッといっせいに野面に散ッた――ア、春だ! 誰だか園路の向うを通るとみえて、自転車の音が虚空に響きわたッた……

 と、いま書いたような「散文」が生まれたのは明治の頃、イワン・ツルゲーネフの「あいびき」が二葉亭四迷訳〔http: //www.aozora.gr.jp/cards/000005/files/5_21310.html〕で世に出た時のこと。(「私の訳文は我ながら 不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです」は現代文として、そのまま通用する。)それはまた、「ニッポンの小説」の誕生の時を告げる 事件でもあった。
 なにを書くか、ではなくて、どう書くか。私が考えたことを文に書く、のではなくて、文体が考える。
 高橋さんは「それは、文学ではありません」の中で、内田樹が『他者と死者』で触れているレヴィナスを援用しながら、次のように書いている。

《わたしの考えでは、「存在論の語法」とは、何ものかを「存在」させようという語法です。そして、「文学」における、そのもっとも有効なやり口を、わたし たちが「リアリズム」と呼びならわしてきたことは、あなたたちもご存知のはずです。
「ニッポンの小説」は、というか、ほとんどの「文学」は、言葉を、何かを召還するために、「存在」させるために用います。そして、わたしたちも、ふだん、 言葉を、そのようなものとして使うのです。
「リアリズム」とは、視覚的な何かに関するものです。「近代文学」は、「リアリズム」という、長い間欲してきた最良の武器を手に入れ、表現として最高のス テージに到達することができました。
 目に見えぬものすら、見えるように描くこと。それは、ほとんど全世界を手に入れるに等しいことでした。だから、彼らは、もしかしたら存在していないのか もしれない「死者」さえ、目に見えるように描こうとしました。彼らは、「死者」さえ手に入れようとした。
 それこそが、彼らの願いだったのです。
 そして、「死者」は出現し、「生者」の望むことをしゃべったのです。どんな言葉で?
 もちろん「生者たちの公用語」である「存在論の語法」で。》(211-212頁)

 高橋さんがいう「生者たちの公用語」(現代を生きる私たちが、日々書いている文章)を生み出した張本人は、しかし、自分が提供した「ニッポンの小説」の 文章に対して懐疑的だった。「書いていてまことにくだらない。子供が戦争(いくさ)ごッこをやッたり、飯事(ままごと)をやる、丁度そう云った心持だ。そ りゃ私の技倆が不足な故(せい)もあろうが、併しどんなに技倆が優れていたからって、真実(ほんと)の事は書ける筈がないよ。」(「私は懐疑派だ」 〔http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/382_22430.html〕)
 その二葉亭四迷の懐疑について、高橋さんは「エピローグ」の中で、中沢新一の『芸術人類学』を援用しながら、次のように書いている。

《わたしの考えでは、フタバテイもまた、優れた作家の一人として、自分の内部に、表現すべき「なにか」を見つけようとしたのです。だが、フタバテイは、用 心深く、すぐにその「なにか」に形や名前を与えようとはしませんでした。他の作家たちが、次々と、「なにか」を見つけ、勝利の雄叫びをあげている時も、フ タバテイは、じっと黙って、その「なにか」を見つめていたのです。
 フタバテイが、自らの内部を覗きこんで発見した「なにか」とは、簡単にいうなら、「イヤ」の一言でした。どんな根拠も、理由もない、ただの「イヤ」でし た。フタバテイは、そのことに気づいた時、困惑し、絶望したに違いありません。どこまで掘り下げても、そこにあるのは、たった一つの叫びだけだったので す。
 その「イヤ」という一言は、比喩的にいうなら、世界を合理的に考えようとする「意識」と、そのような「合理」に回収しきれない「無意識」、「芸術人類 学」でいう、「流動的な心」の接触面から、出てきたのではないでしょうか。
 その「イヤ」は、二つの心の接触面から生まれる、他のたくさんの感情、あるいは感覚と同様に、本来、絶えず言語化されていくものです。
 フタバテイ以外の作家たちも、みんな、「イヤ」を発生させていたはずです。だが、彼らは、それをたちまち、言語へと回収していったのです。
 フタバテイには、「イヤ」を言語へ、日本語に変換することができませんでした。なぜなら、彼は、ロシア語を知っていたからです。

 フタバテイは、ロシア語と日本語を知っていました。二つの言語を知る、ということは、ただ複数の言語を知っている、ということとはまったく違います。
 二つの言語を知る、ということは、言語の構造性に否応なく気づいてしまう、ということなのです。
 フタバテイは、日本語とロシア語は大きく違っていると感じました。しかし、逆説的なことですが、「大きく違う」と感じることは、共通性を深く感じる、と いうことでもあるのです。そもそも、理解を絶して異なるものに、「違い」など感じようがないのですから。
 おそらく、フタバテイは、日本語とロシア語の相違を通じて、言語そのものが持つ冷たい物質性を知ったのです。もちろん、フタバテイは、後世、人々が、そ れを言語の「構造性」と呼ぶようになることなど、知りませんでした。
 フタバテイは、そのように感じる自分を拒否しました。言語というものを前にして、そこに、意味や物語を見出す前に、「構造」というものを感じてしまう自 分自身にいたたまれなくなったのです。

 言語の危機が訪れる度、フタバテイのような作家が、召還されます。言語の危機とは、言語の構造性の露出です。そして、それが、その言語によって生きる社 会の危機であることは、いうまでもありません。
 では、「ニッポン近代文学」は、「ニッポンの小説」は、いま、どんな危機を招来しているのでしょう。
 そして、その危機には、どんな処方箋が考えられるのでしょう。
 ただ一つ確からしいのは、もし、危機があるとするなら、それは、フタバテイが直面したものと、同じ本質を持っている、ということです。なぜなら、言語と 人間をめぐる関係は、世界がどのように変化しても、同じ構造を持っているからです。
「起源」とは、言語と人間をめぐる関係の「起源」とは、単に、歴史的な起点を指すのではありません。それは、いまなお、日々、わたしたちによって、再生産 されているのです。》(415-417頁)

 高橋さんは、自らのうちに二葉亭四迷を召還し、「ニッポン近代文学」の幕引き役をかってでている。
 それは、「プロローグ」の中で、すでに予告されていたことだ。高橋さんは、そこで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』のラストシーン、無から生まれ、 また無の中に消え去る運命にあるエンディーア家の歴史が書かれた一枚の羊皮紙を解読する、一族の最後の子孫、アウレリャーノになぞらえて、「もしかした ら、わたしは、最後のアウレリャーノのように、無の中に消え去ろうとしている自らの一族の運命を記述するために、作家になったのではないだろうか」(22 頁)と語っていた。
 しかし、高橋さんの文章は、懐疑と絶望を、ではなく、不思議な明るさと未来への希望をもって綴られる。
 「ニッポンの小説」の離陸に立ち会いながら、同時に、異和をも表明していた夏目漱石の『夢十夜』。「自分の死」の細部について書かれた作品であり、「死 者」に近づく「文法」の可能性を探った「言葉の真の意味で冒険的な作品」である古井由吉の『野川』。あるいは、川崎徹の『彼女は長い間猫に話しかけた』や 猫田道子の『うわさのベーコン』。中原昌也の『名もなき孤児たちの墓』や『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』。
 それらの作品のうちに、高橋さんは、「言語というものを前にして、そこに、意味や物語を見出す前に、「構造」というものを感じてしまう自分自身」のひと つの系譜を見出している。言葉によっては、「リアリズム」というニッポン近代文学の武器によっては、召還されないもの(見えないもの、死者、「イヤ」、無 意識、等々)とのコミュニケーションの可能性を見出している。
 そして、「およそ、言葉というもののふるまいの一切に、真剣に聞き入ることのできる場所、言葉というものがなにをしようとしているのか、言葉というもの が、にんげんになにをさせようとしているのかを見つめることのできる場所、つまり、小説という場所」(446頁)に留まりつづけることを宣言して、本書を 終える。

 石原吉郎の詩について書かれた文章が、とりわけ印象的だ。「暗喩」が禁じられている場所、「木」が「木」であり、「死者」が「死者」であるような場所で 書かれた詩(「木のあいさつ」)。「狂った文法」で書かれていながら、同時に、ほとんど狂気に近いといっても過言ではない厳密さへの欲求をもって、これ以 上はありえないほど精密な書かれ方をしている詩(「像を移す」「契約」)。

《「厳密さ」と「狂った文法」の共存。そんなことが可能でしょうか。
 可能です。「暗喩」が禁じられている場所なら、「木」が「木」であり、「死者」は「死者」であり、それ以上の解釈が拒まれている場所なら、生者が「死 者」と共に歩むことのできる限界近くなら、そのことが可能であることを、この、現代詩にとって異類ともいえる詩人の作品は、我々に教えてくれるのです。》 (233頁)

 ここに出てくる「場所」は、本書の最後に出てくる「小説の場所」のことである。
 いや、そんなことを書くと、小説と詩の違いをめぐる議論──詩には「細部」など必要ないのかもしれないが、小説の仕事とは、要するに、「細部」を描くこ とにある(116頁)とか、あらゆる言語表現は、〈意味〉と〈価値〉の両方を所有しているが、最終的に〈意味〉が散文の本質であり、〈価値〉が詩の本質で ある(392頁)とか──に、いくども立ち返りながら、そして、詩人がニッポンの小説に対して発する言葉(荒川洋治『文芸時評という感想』)をずいぶん気 にしながら、話を前に進めていく高橋さんに対して失礼かもしれない。

 高橋さんがとりあげた石原吉郎の三つの作品のうち、「像を移す」を転記しておく。

私へかくまった
しずかな像は
かくまったかたちで
わずかにみぎへ移せ
像のおもみが銀となって
したたる位置で
したたるとき
私へやがて身じろぐのは
位置と位置との間〔あわい〕ではない
もはや時刻のかたむきである

     ※
 高橋さんが書いている「最終的に〈意味〉が散文の本質であり、〈価値〉が詩の本質である」というのは、吉本隆明の『詩学叙説』に拠るもので、暗喩が禁じ られた場所での厳密さと狂った文法の共存、云々で私が連想したのは、藤原定家の(「言語そのものが持つ冷たい物質性」を見据えた)歌論だった。
 というわけで、吉本隆明著『思想のアンソロジー』に収められた「感性の思想」を見てみると、西行と定家の歌に関する次の二つの文章が記憶に残った。(こ れはどうでもいいことかもしれないが、吉本隆明の文は、ふだん文章など書かない人のそれを思わせる、なんか変な感じの文章だ。)

《西行の短歌(和歌)を天才的な素人の歌とすれば、定家は和歌史上はじめての専門歌人だった。西行は生涯の行脚僧として眼にふれる風景や庶民の生活など豊 富だったので、それを自分の嘱目の自然と、自分の精神の動きとの接点での感慨をそのまま歌にした。「歌枕」など必要としなかった。夏の日、涼む木陰が欲し いと歌えば、その木陰がとうてい「歌枕」になるような勝景でなくても優れた歌にすることができた。これは当時として何でもない涼む木陰が欲しいというだけ で歌になりうることを考えも及ばなかったと言う意味で、稀有のことだった。
 反対に桐火桶を抱えて暖をとりながら「歌枕」の空想的な景物を詠んだ定家は、歌は体験心や見聞感で作るものでなく、「言葉」で作るものだという観念をは じめて定着させた非凡な専門歌人だったと言えよう。》(77-78頁)

《西行の自然と庶民とのあいだを行脚してあるく生活は、ひとりでに近代以後の言い方でいえば直喩の方法の原型ともいうべきものを生みだしたと言いうる。お なじように桐火桶を抱えてうそ寒い冬のさなかに歌の表現を苦吟して、何のために苦吟してまで歌を詠むのか。歌合せのあるときに「歌枕」を想像で詠み合って 和やかに遊べばいいと思われていた時流のなかで、定家は近代以後で「暗喩」とも呼ばれている概念をおぼろ気な形で作り出した。歌はたしかに実体験した自然 中心の生活を詠むものだという『万葉集』の短歌概念の外に、歌は「歌枕」のような架空の場所の自然や、想像上の架空の感慨で「言葉」だけで作ってよいとい う定家の理念と実行が、「暗喩」という近代西欧の詩概念に同じ方法を生みだしたと言ってよい。
 これは定家が「有心体」に重さの中心もかけた根拠であり、本歌取りを初学として肯定した根拠だと思える。簡単に言ってしまえば、「彼の眼は兎のように赤 い」という直喩の表現とおなじ意味内容は、「彼の眼は兎だ」という暗喩で言うことができる。
 定家は苦吟のすえ、それを見つけだした。定家の歌は人工的な作りものをそれらしく見せているだけだと思えば、それは好みの問題ということになってしまう が、はじめて苦吟が「暗喩」をつくり出したとみれば、さすがにほとんどお座なりも歌の表現はないことがわかる。
 詩歌の歴史が、原住民語の名残をとどめた古謡を切りすて、短歌(反歌)を主流として万世一系を保持し得たのはここまでだとおもえる。》(79-80頁)

     ※
 『ニッポンの小説』を読み進めるうちに、二葉亭四迷が面白くなってきた。
 秋山駿著『私小説という人生』に、『平凡』をとりあげた章がある。著者が、「『平凡』の中で、もっとも高揚した、精彩ある文章」と評している個所に、惹 かれた。

《好(い)い声だ。たッぷりと余裕のある声ではないが、透徹(すきとお)るように清い、何処かに冷たい処のあるような、というと水のようだが、水のように 淡くはない、シンミリとした何とも言えぬ旨味(うまみ)のある声だ。力を入れると、凛(りん)と響く。脱(ぬ)くと、スウと細く、果は藕(はす)の糸のよ うになって、此世を離れて暗い無限へ消えて行きそうになる時の儚(はかな)さ便りなさは、聴いている身も一緒に消えて行きそうで、早く何とかして貰いたい ような、もうもう耐(たま)らぬ心持になると、消えかけた声が又急に盛返して来て、遂にパッと明るみへ出たような気丈夫な声になる。好(い)い声だ。節廻 しも巧(たくみ)だが、声を転がす処に何とも言えぬ妙味がある。ズッと張揚げた声を急に落して、一転二転三転と急転して、何かを潜って来たように、パッと 又浮上(うきあが)るその面白さは……なぞと生意気をいうけれど、一体新内(しんない)をやってるのだか、清元(きよもと)をやってるのだか、私は夢中 だった。
 俗曲(ぞっきょく)は分らない。が、分らなくても、私は大好きだ。新内でも、清元でも、上手の歌うのを聴いていると、何だか斯う国民の精粋とでもいうよ うな物が、髣髴(ほうふつ)として意気な声や微妙な節廻しの上に顕(あら)われて、吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想い出されて、何とも言えぬ懐かし い心持になる。私は之を日本国民の二千年来此生を味うて得た所のものが、間接の思想の形式に由らず、直(ただち)に人の肉声に乗って、無形の儘で人心に来 (きた)り逼(せま)るのだとか言って、分明な事を不分明にして其処に深い意味を認めていたから、今お糸さんの歌うのを聴いても、何だか其様(そん)なよ うに思われて、人生の粋(すい)な味や意気な味がお糸さんの声に乗って、私の耳から心に染込(しみこ)んで、生命の髄に触れて、全存在を撼(ゆる)がされ るような気がする。》(『平凡』五十三〔http: //www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/3310_8291.html〕)

 この引用に続く、秋山駿の文章。

《二葉亭が、ここでは懐疑を捨てて、「声」を抱き締めている。歌声と一体化し、溶け合っている。つまり、心が、現実とか存在とかを抱いていかなる隙間もな い。心と現実とが溶け合うところに生ずるのが、精神であろう。精神の声であろう。前半の、声の抑揚というか生の響きを描くところは、絶品である。
 後半の、「国民の精粋」とでもいったものが、「吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想ひ出されて、」というところ、これは私にも実感がある。弱年の時 だった。私は道を歩きながら思わずハタと立ち停って動かなくなった。どこかの家から新内だか清元だかそんなことは知らぬが俗曲が聴こえてきて、それが、 「私の耳から心に染込むで、生命の髄に触れて、」という感を受けた。
 あれはいったい何だったのか? 引用の続きで二葉亭が、お糸さんの「体に俗曲の精霊が宿ってゐる、」「俗曲の巫女〔いちこ〕である、薩満〔シャマン〕で ある」と言っているが、私はときに美空ひばりの歌声を聴くと、あの弱年の感覚が甦る。》(148頁)

     ※
 以上に書いたことと、まるで関係ない話だが、佐藤優著『自壊する帝国』の「あとがき」の、『国家の罠』出版後、著者の身辺に起きた変化について書かれた 個所に、「現在は猫を膝に抱きながら、南北朝時代の南朝側の歌集『新葉和歌集』(岩波文庫、一九四○年)を読んだり、十五世紀の神学者ヤン・フス『教会に ついての論考』(MISTR JAM HUS, TRACTATUS DE ECCLESIA, PRAHA, 1958)を中世ラテン語から少しずつ訳している。」(412頁)とあった。

★3月11日(日):現に書いている時間にダイブすること、批評の瞬間

 本の読み方にはいろいろある。決まった方法や作法というものはない。昔、ある人から、背表紙を凝視することも一つの読み方で、三木清がそういう趣旨のこ とを書いていると聞いたことがあるが、この記憶はあやしい。
 本の読み方に各種の方法があるとすれば、感想、書評の類にも同様のことがいえる。読まずとも書評は書ける。これはたしか、書評特集を組んだ『ダ・カー ポ』の中条省平さんの文章に出てきた言葉だ。そういえば、最近、朝日新聞の読書欄に中条さんが書いた二本の書評([http: //book.asahi.com/review/TKY200701100160.html:title=ドゥルーズの『シネマ2』]と[http: //book.asahi.com/review/TKY200703060211.html:title=レヴィ=ストロースの『神話論理1・2』]) は、読まずに書いた書評の典型のように思える。中条さんがちゃんと読んで書いていたのだとしても、である。
 こう書いたからといって、読まずに書く書評のことを貶めたいのではない。熟読、精読の作業を経ないと書けない書評がある。それと同じで、読まないでおく ことでしか書けない(読まなくても書ける、ではなくて)書評というものもあるのではないか、といいたいのである。

 保坂和志さんが『極太!! 思想家列伝』(石川忠司著)の文庫解説に、こう書いている。「誰よりも本人が認めているとおり、石川忠司は書くことが遅い。というかほとんど書かない。そ れは「読む」に全力を傾けるからで、それゆえ彼はノイズまで聴き取って、書き手が持つ形のない核を掴み出す。」これは実作家から批評家に投げ返される言葉 としては、最高の部類に属するものだろう。
 保坂さんは、批評家、評論家は「読む」人ではなく「書く」人だ、つまり、自分が書きたいことを作家や作品に託して語るというスタイルを取るのが評論家 だ、という。だから、「読む」をそこそこにしておかなければ、評論家の「書く」が壊されてしまう。「すぐれた作品」を読むことは、急流に身を投げるような ものだからだ。「読む」という行為は「一回性の出来事」で、「小説家や思想家たちが現に書いている時間にダイブすること」である。「歴史や社会学や精神分 析を評論の根拠に置き、読んだ作品を自分が事前に持っていた知の枠組みの中で腑分けすること」や、「事後的に確認可能な論旨や筋の流れをただ追うことなん かでは全然な」い。
 保坂さんが書いていることは、正しい。批評の一形式としての書評についても、同じことはいえる。
 ただ、注意しないといけないのは、「評論家は読むだけでは収入が得られないがためにやむをえず書いているわけではなくて、自分が書きたいことがやっぱり あるから書く」というのもやっぱり正しくて(おそらく前半の冗談の部分も含めて)、それは、たとえ「自分が書きたいこと」が出来合いの「文学観・人間観・ 自然観・世界観……等々」であったとしても、つまり「自分が事前に持っていた知の枠組み」や「事後的」な後知恵であったとしても、やっぱり正しい。(その ような批評、評論が「すぐれた作品」であるうるかどうかは、この際、別の話。)
 保坂さんが批判している、というより嫌悪しているのは、批評家、評論家が保坂和志の作品をダシにして勝手なことを書いていること、つまりライセンス契約 もせずに勝手にキャラクターを使って商売していることではなくて(それもあるかもしれない)、「現に書いている時間」というものを抜きにして、「自分が書 きたいこと」が書く前から判っていると思っているに違いない、批評家、評論家の弛緩した精神の態度である。
 だから、批評家、評論家が、「(保坂和志が)現に書いている時間」にダイブすることはなくても、批評家、評論家自身の「現に書いている時間」に身を投げ 出して、ありうべき「保坂和志論」やもう一つの「『季節の記憶』論」を書きあげたとしたら、それが「すぐれた作品」であるかどうかは別として、少なくと も、保坂和志が「それは、保坂和志の『現に書いている時間』にダイブしていない」と批判することは筋違いになる。(ライセンス契約云々の問題は残るが。)
 批評家、評論家の書いた文章が「書き手(小説家や思想家)が持つ形のない核を掴み出す」ものであるとき、つまり「小説家や思想家たちが現に書いている時 間」にダイブして書かれたものであるとき、批評家、評論家と小説家や思想家との間には最高の(親和的な)盟友関係が成り立つ。一方、批評家、評論家の書い た文章が「読み手(批評家、評論家)が持つ形のない核を掴み出す」ものであったとき、つまり批評家、評論家自身が「現に書いている時間」にダイブして書か れたものであったとき、批評家、評論家と小説家や思想家との間には最高の(敵対的な)盟友関係が成り立つだろう。
 私が、「読まないでおくことでしか書けない(読まなくても書ける、ではなくて)書評というものもあるのではないか」と書いたとき、書物との間に、あるい はその著者(小説家や思想家たち)との間に、「最高の(敵対的な)盟友関係」が成り立つ場合を念頭においていた。
(中条さんが朝日新聞に書いた二本の書評が「読まずに書いた書評の典型のように思える」と書いたのは、これとは全然違う意味だ。「読まずに書く」というの は、酒は呑んでも呑まれるな、というのと同じ趣旨で、あんなとんでもない本に「読まれずに」書くことは、奇手、禁じ手を含めて、よほどの藝がないとできな い。)
 虚構の保坂和志や保坂和志が現に書いていない『季節の記憶』を、端的にいえば、現実の保坂和志とその作品をダシにして、それとは現実的なつながりのない まったく新しい作家や作品を、つまりいまだ世に現れていない書物を創作するような書評。そんな書評=批評は、『季節の記憶』や保坂和志の作品を「読む」こ と、「(保坂和志が)現に書いている時間」にダイブすることをしていては、とうてい書けるものではないだろう。書評家=批評家の「現に書いている時間」に 保坂和志の「現に書いている時間」を取り込むことでしか、書けないだろう。

     ※
 上に書いた「批評の一形式としての書評」は、『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』(ちくま学芸文庫)の「解説」(浅井健二郎)に出てきた言葉 で、そこにはまた、「「書評」という形式においては、批評の瞬間が、表現の比較的表層部に知覚されうるのではあるまいか」と書かれていた。以下、「批評の 瞬間」という魅力的な語彙が出てくる箇所を抜き書きしておく。

《優れた批評作品はすべて、ある神秘的な瞬間を、みずからの言語運動の原点として秘めている──すなわち、〈批評対象の本質が、批判的感性により、批評の 萌芽として直観される瞬間〉を。それが、本書に言う「批評の瞬間」である。ベンヤミンにとっての〈批評〉を最も簡潔に定義するならば、〈対象と言語的に関 わる哲学的な法方〉ということになるが、批評の瞬間における直観の内容をこの方法に則って構成的に叙述したものが、彼の〈批評作品〉である。そして、それ らの作品間に潜在する照らし合いを私たちの読みが発見するとき、それはすなわち、私たち内部への〈批評の瞬間〉の宿りにほかならない。》

★3月12日(月):自己投入(合体)と自己分裂(分身)、体験された現象

 『坂部恵集4』を買って、いつものようにあとがきと月報を読んだ。月報には池上嘉彦、吉増剛造、両氏の文章が掲載されていた。どちらも面白かった。(肝 腎の本文の方は、第1巻の「生成するカント像」をはじめから順を追って読み始めたものの、これに専念しているわけではないので、なかなか先に進まない。)
 吉増文は、あの独特の記法と独特の感覚(触覚、筆触、声調…)で綴られていて、よく理解できないところが多かったけれど、この人の文は、理解するとかし ないとかを超えて、ダイレクトに声として届いてくる。「わたしちは、この〈メロディーをそえて創り出すこと〉を、氏の哲学(フィロロギー=文学)の芯のほ とり or 辺りに、嗅ぎつけ、あたらしい、生の下草を摘みつづけて居ることは、ほぼ確実だと思われるところにまで、そんな柴折戸がかぜに揺れるところにまで、辿り着 いたようだ。」
 池上文「日本語の〈主観性〉と言語としての〈原初性〉」は、以前、木村敏でやったように〔http://d.hatena.ne.jp/orion- n/20070123〕、その全文を書きうつしておきたいくらいに刺激的だった。(永井均『西田幾多郎』の議論との接続線がたくさん引けた。)結局、ほと んど丸ごと抜書きしておく。

《〈認知言語学〉は〈話す主体〉の〈発話〉という営みに先行して行なう‘construal’(〈事態把握〉と訳されることが多い)という営みに注目す る。つまり、〈話す主体〉(sujet parlant,locutionary subject)としての〈ひと〉は、言語化の対象とする事態についてそのどの部分を言語化し、どの部分を言語化しないか、そしてそれらをどういう視点で 捉えるか、などを主体的に決める〈認知する主体〉(cognizing subject)として行動する(そして、その把握の仕方(construal)に沿って言語化の操作が進められる)という図式である。(ただし、その言 語化に際しては、把握された内容が把握された通りの形で細大もらさず言語に移し変えられるという保証はないというのも前提である。)
 日本語のように、とりわけ「こころ、ことばに余る」というのが常態であるような言語を扱う場合、このような図式が合うことは明らかであろうが、それは今 はさて措いて、一般に〈事態把握〉のレベルでは〈主観的把握〉と〈客観的把握〉と呼ばれる二つの類型のあることが認識されている。
 ここで言う〈主観的把握〉(subjective construal)とは、(日本語に翻案して言うと)〈主客合一〉の構図(つまり〈認知する主体〉が〈認知される客体〉の内に身を置くというスタンス) で事態把握が行なわれるという場合、〈客観的把握〉(objective construal)とは、〈主客対立〉の構図(つまり、〈認知する主体〉が〈認知される客体〉の外に身を置くというスタンス)で事態把握の行なわれる場 合である。例えば次に掲げる(1)は〈主観的把握〉に基づく言語化、(2)は〈客観的把握〉に基づく言語化である。
 (1)国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
 (2)The train came out of the long tunnel into the snow country.(直訳、汽車が長いトンネルから雪国へと出て来た。)
(1)(川端康成『雪国』の冒頭の文)は、主人公(ないしは、主人公に自らを同化させた語り手)が自らの体験を語る文──従って、独白のことばのようにも 読める文──である。主人公は自らの体験している状況の内に身を置いており、主人公を乗せて走る汽車は主人公の〈拡大エゴ〉となって、主人公自身の知覚の 対象として客体化されることなく、従って言語化されていない。これに対し、(2)(Edward Seidensticker による英語訳)では、語り手は汽車の外のどこかに身を置いて、トンネルを出て自分のほうへ向かってくる(‘came’という述語動詞を参照)汽車を知覚の 対象として客体化するという構図を採っているように読める。(この場合、語り手が汽車に乗っているということでも構わない。ただし、その際には、語り手の 分身が汽車から出て外のどこかに身を置き、そこから自らのもう一つの分身を乗せた汽車を知覚の対象として客体化しているという構図になる。)
 文学作品にまで行かなくとも、この種の類型的対比は日常のことば遣いにも容易に(そして十分豊富に)認められる。例えば道に迷った時、日本語の話し手な ら「ここはどこだろう」、英語の話し手なら“Where am !?”(直訳、「私はどこにいますか」)と言う。日本語では自己は観察の原点としてゼロ化、周囲の見える景色についてのみ問われている。英語では自己を他 者として(つまり、“Where is she?”と言う場合と同じ感覚で)客体化する。
 過去における自己(あるいは他者)の体験を語るという場合にも、違った形でではあるが同じ類型的な対比が出てくる。日本語の話し手の場合は、現在時にお ける語り手が自己を過去時における自己と合体させ、後者がまさに体験している折のスタンスで(従って現在時に妥当するような言語化の仕方で)語るというこ とを比較的容易にする。(従って、いわゆる〈歴史的現在〉としては律することの出来ない程の現在形の混入が起こる。)英語の話し手にとっては、過去の自己 は現在時における自己とは対立する客体として自然に扱うということですむわけである。日本語の話し手にとっては〈主客合一〉の構図を生む〈主観的把握〉が 原型的な事態把握の型のようであり、そのためには時空の隔たりを越えての〈自己投入〉も辞さない。他方、英語(そして多分、現在の西欧語一般)の話し手に とっては〈主客対立〉を演出する〈客観的把握〉が基調のようであり、そのためには時空の隔たりを創出する〈自己分裂〉もためらわない。そして注目しておい てよいのは、〈主観的把握〉では〈認知する主体〉(従って〈話す主体〉も)が〈ゼロ〉として言語化されるということである。日本語話者におけるいわゆる 〈主語省略〉の原点も、実はこの〈主観的把握〉への強い傾斜に見出すことができるはずである。
 (因みに、伝統的な日本語文法で〈現象文〉(「火事だ」、「雨が降ってる」など)と呼ばれるものが特別に取りあげられることのあるのは興味深い。この種 の文は、実は〈体験された現象〉を述べているのであり、〈体験文〉とでも呼んだ方がその本質に近いであろう。この種の文にしばしば認められる逆説的な性格 は、実は高度に〈主観的〉な描写そのものでありながら、高度に〈客観的〉な描写の文とも読めるということである。(1)の『雪国』の冒頭の文をも参照。)
 〈体験〉(つまり、身体を介しての直接の経験)を語るというのは、すぐれて〈主観的〉な営みであり、人間の言語使用のもっとも原初的な段階と想像され る。そこでは、言語はまだ人間の身体性と深く関わっていたわけである。そのような言語が次第に〈いま・ここ〉の制約から解き放たれていき、同時に独話的な 自己表出の機能を越えて対話を可能にするような間主観性を獲得し、一種の道具としての客観的な存在という地位に達する。この段階で、言語と身体の乖離も完 成する──このようなシナリオを考えてみると、日本語は人間言語の〈原初的〉な姿を比較的よく残しているように思えてならない。》

★3月13日(火):スコラスティック・レアリズム、トリニティ

 「中世哲学復興」の特集を組んだ『大航海』から、坂部恵×樺山紘一の対談「中世哲学のポリフォニー」と神崎繁×三浦雅士のインタビュー「翻訳が創造した もの」、パースの「観察の新しいクラスについて」(三谷尚澄訳)と訳者解題「スコトゥス的実在論者としてのパース」を読んだ。
 いずれも面白かった。(とりわけインタビューでの神崎繁の発言が、途方もなく刺激的だった。読んでいて興奮した。あまりに強烈だったので、猛烈な勢いで 一気に読んだ。だから、後にほとんど何も残っていない。)タイトルだけ眺めた他の論考も、読まずに済ますわけにはいかないと思ったが、今日のところは「記 念」に、対談とインタビューから二つの箇所を抜き書きしておく。

《坂部 とことんまでスコラ哲学者たちが突き詰めて考えたというのは、これは西洋だけではなくて、たとえば仏教の伝統でいえば、原始仏教とか小乗仏教より むしろ、唯識とかを考えるようになった頃から、突き詰めてとことん考えるというやり方が出てきた。それから密教の伝統の中では、それこそ八世紀の東ローマ 世界なんかの霊性に匹敵するものが密教に出てきますね。たぶん東西で交流もあったと思う。そういうものが日本でも盛んだったのは、道元とか、明恵とか、だ いたい鎌倉時代までです。こういうものに学ぶべき点が、私は確かにあると思うんです。網野さんのおっしゃる公界とかの世界とはまた別の話しとして学ぶ必要 がある。
 それからもうひとつだけ言わせていただくと、これは「大航海」の前々号で、三浦さんと伊藤邦武さんがパースについて対談していらして、パースが現代人と しては珍しく実在論に与したという話しがたくさん出てきます。あそこで言っている実在論、レアリズムとはスコラスティック・レアリズムとも言われるレアリ ズムです。われわれが考える社会主義レアリズムとか、観念論に対する実在論じゃないですね。要するに類が実在するという、一見われわれにとってはおとぎ話 のようなものです。パースはドゥンス・スコトゥスの議論が好きで、その実在論に与したということはいったいどういう視点がもとにあったのかは、いまだに私 にはもうひとつ分からないところなんです。
 それと、おもしろいと思うのは、パースより時代はちょっと後ですけれどもベンヤミンは『シュルレアリスム論』で。シュルレアリストはレアリストだと、ス コラスティック・レアリストだと言っているんです。あまりその、前後説明がないものですからどういう意味で言っているのかよく分からないんだけれど、前か ら気になっています。
 このようなことを聞いていつも思うのは、芸術の世界でいえば中世の装飾と現代の抽象芸術には、一種の類縁性があるんじゃないかということです。現代で抽 象芸術を展開した人たちが直接中世から影響を受けたとかいうことが、どれくらいあるか知りませんけれども、ただ、現象としては、とことんものを見て書くと かつくるとかをすると、やはり現代の抽象芸術みたいなものが出てくる。そういうところは案外と、それこそ地下水脈でつながっているのかもしれませんね。》 (73-74頁)

《三浦 プラトンやアリストテレスがもし生きていたなら、三位一体なんて馬鹿馬鹿しいということで終わったかもしれないけれど、その馬鹿馬鹿しさを必至に なって論証しようとしていたら、結局、人間存在の機微に触れることになってしまった。まさにそこからきわめて精密な人間存在論が生み出されることになっ た。
神崎 そうですよ。その三位一体説というのは、まさにヘーゲル、ラカン、パースじゃないけれども、何でそのトリアーデに……。
三浦 固執するんだろう。(笑)全員が三という数字にこだわるんですよね。
神崎 なぜ三という数に非常に強いものがあるのかということですね。それはもうある意味ではヨーロッパの思想史を決定してしまうわけですから。たとえば デュメジルが印欧祖語にまでその原型を探る「三機能仮説」とか、プラトンの「魂の三分説」とか。
三浦 ヨーロッパだけではないでしょうね。三という数字には超越論的なところがあって、人間の経験を超えている。情報の伝達は二で行なわれるわけですが、 そこに三という逸脱が登場して、この逸脱が結局、中枢を形成してゆくわけですね。神経細胞においてそうですね。人間は、一度会った、二度会った、三度会っ たくらいまでは言うけれど、五回会ったとか九回会ったとかは言わない。何度もという言葉になってしまう。どんな言語においても三が一種の分岐点になる。
神崎 言語構造からもそうかもしれませんね。「こそあど」じゃないけれど、私とあなたと誰それさんという三もあると思います。
三浦 おそらく何か発生上の問題があると考えたほうがいいのでしょうね。》(129頁)

     ※
 これは後から気づいたことだが、上に抜き書きした二つの箇所は、同じ日に読んだ中沢新一「映画としての宗教 第二回 映画はキリスト教である」(『群 像』3月号)の議論に関係してくる。で、これも「記念」に、さわりの一節を抜き書きする。

《イエスは神のエネルゲイアを人間の女性の身体で受けて、肉体的・物質的世界とのインターフェイス上にあらわれた現象です。これにたいして写真術は、外界 の光をフィルムの感光乳剤の上で受けて、それをイメージに定着させる印インターフェイス技術です。そう考えてみると、イエスの存在そのものが、写真術を呼 び寄せてしまうのかも知れません。処女マリアの身体から生まれた神の子として、イエスは超越的な神の本質を愛として理解したのです。そのとたんに、イエス のまわりには写真的・映画的概念にかかわるものごとが、いっせいに集まり寄ってくることになりました。イエスは写真術とアナロジカルな方法で地上にあらわ れ、死しては聖骸布という神聖写真術の被写体となった方なのですから、キリスト教の思想じたいにどこか写真や映画を思わせる特徴がひそんでいたとしても、 不思議なことではないでしょう。
 人間の論理的に思考する能力は、過剰性や放射性や増殖性をはらんだものを理解しようとするときには、かならずと言っていいほどに「トリニティ=三位一 体」的なモデルを利用しようとします。木を木と言い、山を山と言い、水を水と言い、この世界のあるものを記号的な意味情報として伝えようとするときには、 二元論のモデルで十分です。じっさい一切のものごとを情報化して記憶・計算・伝達するコンピューターは、0と1との二元論ですべての情報処理をすませてい ます。
 ところが、木がただの木ではなくなって、なにか詩的な意味を含蓄するようになるときには、それではすまなくなります。「意味」の平面から過剰しあふれ出 してくる「価値」の問題が、発生するからです。意味平面を垂直的に横断していく第三の力を考えにいれなければ、価値の問題は思考不可能です。そのために詩 学は、言語学とは違って、増殖を本質とする価値なるものを理解に組み込むために、三元論のモデルを採用することになります。》(221頁)

★3月14日(水):ノヴァーリスの断章

 古今東西、老若男女、聖俗貴賎を問わず、一番好きな作家は誰かと問われたら、たぶん迷わずノヴァーリスと答えるのではないかと思う。そんなことを訊ねる 人はいないだろうし、それに、きっと時と場合で答えは違ってくるだろうけれど、今のところはノヴァーリス。それも、断章。沖積舎の全集でも、断章、草稿、 研究ノートばかり収録した第2巻だけ買って常備している。
 ノヴァーリスにはもとから関心はあった。読書日記を繰ってみると、1999年10月、今泉文子著『ロマン主義の誕生──ノヴァーリスとイェーナの前衛た ち』(平凡社)を読み、いたく感銘を受け、2001年10月に、中井章子著『ノヴァーリスと自然神秘思想──自然学から詩学へ』〔http: //www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/82.html〕を読んで、決定的になった。特に、中井本にふんだんに引用された ノヴァーリスの断章群には圧倒された。
 ちくま文庫から作品集が出ているのは知っていたが、迂闊にも、沖積舎版全集の文庫化だと思いこんでいた。昨日、坂部恵さんの『和辻哲郎』(岩波現代文 庫)を探しに出かけた書店の新刊書コーナーで、第3巻「夜の讃歌・断章・日記」が目にとまり、胸騒ぎがしたのでて手にとってみてびっくりした。
 この作品集は、今泉文子さんが単独で翻訳した文庫オリジナルだった! しかも各巻の内容を見てみると、第1巻「サイス弟子たち・断章」にも、「断章と研 究 一七九八年」や「フライブルク自然研究(抜粋)」が収録されている!
 というわけで、『和辻哲郎』は見つからなかったので後日を期すことにして、『ノヴァーリス作品集3』を速攻で買い求め、ぱらぱらと頁を繰っては、幸福な 夜の時間を味わった。この際、『ベンヤミン・コレクション4』とあわせて腰を据えて読み込み、引き続き、ノヴァーリス作品集とベンヤミン・コレクションの 同時並行的読破に突き進むか。
 「記念」に一つだけ、任意に開いた頁から、ノヴァーリスの断章を書き写しておく。(ジョージア・サバスの『魔法の杖』みたいに、ノヴァーリスの断章との 偶然の出会いが、何かしらの出会いや啓示を与えてくれるかもしれない。「ビブリオマンシー(書物占い)」ならぬ「ノヴァーリス占い」。)

《もしかしたら、チェスに似たゲームに基づいて──象徴的な思考構築ができるかもしれない──昔の論理学的な弁論試合は、盤上ゲームとまったく似てい る。》(286頁)

★3月16日(金):橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』

 ようやく一つ、「棚卸し」ができた。
 読みかけのまま放置している本が一杯あって、気になってしようがない。『時間はどこで生まれるのか』の関連本では、去年の2月に同時に買って、いまだに 読み切っていないのが三冊ある。内井惣七『空間の謎・時間の謎──宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』と川合光著『はじめての〈超ひも理論〉──宇宙・力・ 時間の謎を解く』、それから、心身問題は時間問題の一ヴァージョンだとすれば、河野哲也『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』。
 心脳関係系の本だと、リストをつくるのがちょっとこわいくらい。その他にも、さくさくと読むつもりで買って、どういうわけか半分ほど読んでそのままに なっているのが、まだまだたくさんある。こつこつと、ヒマをみつけて「つぶして」いこう。

 本書に、相対論では時間は実数で空間は虚数だと書いてあった。これを見て、先日読んだ内田樹さんの「複素的身体論─無敵の探求」(『身体のレッスン3  脈打つ身体』)を想起した。
 合気道は敵を倒すものでも、敵の力を利用する術でもない。私と他者(敵)という図式ではなくて、私と他者(敵)が一つの身体となる境位を探求するもの だ。そのような身体を「複素的身体」という。
 それから、本書に出てくる「意思」は、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を連想させた。著者は、現代物理学をふまえた斬新な哲学的時間論 の登場を期待して本書を著した、と書いている。でも、その現代物理学は、ショーペンハウアーの哲学のうちにすでに胚胎していた。
 これらのことは、想起、連想にとどまって、その後の発展がない。

     ※
 なぜ時間には過去から現在へ、あるいは未来から現在へという「流れ」があるのか。つまり、「今現在」に依存する主観的な時間(マクタガートのA系列)は どこで生まれたのか。また、なぜ時間には先後関係という「向き」があるのか。つまり、歴史年表のような客観的な時間(B系列)はどうやって成り立ったの か。
 これらのことを解明するため、著者はまず、相対論と量子論の成果をもとに、次の前提条件を導き出す。ミクロな量子系に時間は実在しない。時間はマクロな 相対論的世界のどこかで生まれている。
 そこでは、事象は、過去・現在・未来といった様相や時系列のうちにあるのではなく、数列のように一覧表として並んでいる(C系列)。「われわれの宇宙 (時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには、空間的拡がりや時間的経過というものはない。」(116頁)

 このような客観世界(C系列一覧表世界)にあって、エントロピー増大の法則に反し、自らの秩序を維持するものが存在する。生命である。主観的時間は、こ の生命の進化を通じて、刹那刹那──「生命個体が外部世界からの干渉を受けて、自らの行動を決断する、その刹那刹那」──において秩序を維持しようとする 生命の「意思」の力によって、創り出される。
 まず、エントロピー増大の法則による外の世界からの干渉(秩序を壊そうとする外部の圧力、「意思」が進化するための自然選択の圧力)が、すでにそこにあ る変更不可能な「動かせない過去」である。
 それに対して、進化の結果である「意思」をもって、考えうる多くの選択肢の中から秩序維持という唯一の解を選ぼうとするのが生命である。「こうして、 [結晶や竜巻のような]単なる自己増殖機械にすぎなかった初期の生命は、やがて本当に生きることになるのである。」(126頁)
 また、明確な「意思」の存在が生命に、外圧に逆らって秩序を維持する自由、つまり未来をもたらす。「生命が時間性の中に生きるとは、そういう意味であ る。」(127頁)

《以上のことから、われわれが常識的にもっている時間概念[A系列とB系列]は、まずA系列から生まれたことがわかるであろう。
 それは、刹那刹那の「意思」が創り出すものなのである。
 もちろん、ここでいう刹那とは、点状の測定できないような短い瞬間のことではない。すでに見てきたように、ミクロの世界では、時間さえが実在ではなくな る。生命個体が外部世界からの干渉を受けて、自らの行動を決断する、その刹那刹那ということである。》(133-134頁)

 さて、もし、この主観的時間を創造している刹那刹那の「意思」が、自分の意思決定を「記録」する手段をもつならば、一連の「意思」は、あたかも川の流れ のように一つにつがることになる。「こうした記憶を得た生命は、誕生から死へとつながる一連の自己という意識をもつようになるだろう。」(136頁)
 実際、人間の脳の記憶領域には、これまでの「意思」の「記録」が順番に配列されている。「こうしてわれわれは、今現在の「意思」の中に過去の記録の配列 を見る。この配列こそが、B系列の時間にほかならない。」(136頁)

《実在とは何かは、われわれには不明のままである。しかし、われわれの理性(物理学)は、思考と実験の繰り返しの中から、この宇宙がミクロな様相はもちろ ん、マクロな様相においても、相対論的C系列の構造をもつことを見出してきた。C系列は一覧表であり、もっと比喩的にいえば一枚の絵である。宇宙は、ただ そのように存在するだけである。
 にもかかわらず、われわれ生命は、その絵の中に主観的時間を創造した。これはいってみれば、ただの絵の中に飛び込み、その刹那をこじあけ、そこに創造の 自由を得ることである。われわれは、ささやかではあるが、未来の宇宙をどうするかの自由をもつ。すなわち、われわれは宇宙の創造に参画しているのである。 これは驚異としかいいようがない。
 宇宙はただ存在するC系列なのに、われわれにとってはまだその絵が完成していないように見えるのは、不思議ではない。われわれの「意思」は刹那にしか存 在せず、しかもその刹那は誰とも共有できない、時空の一点の事象にすぎないからである。「意思」はその狭い刹那の時空に生きているのであり、そこには過去 も未来も、他の空間も存在しない。
 驚異なのは、そのような「意思」が誕生したことである。時間を創造し、そこに「生きる」という自由を得た存在が、現に存在することである。
 それゆえ、われわれはこう断言できる。
 時間の創造は宇宙の創造であり、われわれはそれに参加しているのだ──と。》(138-139頁)

     ※
 面白い本だった。上の「要約」ではほとんど取り上げなかった前半、第一章から第五章までの物理学を中心とした議論と、付録によるその補強、とりわけエン トロピーの法則をめぐる叙述は、自然科学の啓蒙書として抜群の面白さだった。参考文献解説も読みごたえがあった。
 ただ、後半、本書のキモとなる第六章と第七章の議論での、C系列からA系列へ、A系列からB系列へという時間誕生の理論は、なるほどと思わせられはした けれども、心底説得されなかった。

 たとえば、生命が自己の秩序を維持するのは「意思」の力によるもので、この「意思」の力は生命進化によってもたらされた、と著者は主張している。
 でも、それは、(結晶や竜巻のような物質=自己増殖機械が従う自然法則とは異なる法則のもとで)自己の秩序を維持する存在があって、それを生命と呼び、 そのような秩序維持をもたらす力とか構造のことを「意思」と呼び、そうした意味での「意思」をもった生命が生み出されてきたことを生命進化と呼ぶ、という のと変わらない。そこには、何も新しい知見や仮説や理論は含まれていない。
 また、刹那刹那の「意思」の力によって主観的時間が創り出されたというけれども、それもまた結局のところ、「自然選択の圧力が、機械から自由意思をもつ 存在へと、生命を進化させ」、「そうして、時間の向きや流れもまた、この進化の過程の中から生まれたに違いないのである」(119頁)という主張の言い換 えでしかない。「心は脳から生まれた」というのを、「心は刹那刹那のニューロンの結合から創り出された」と言い換えるのと同断である。
(ただ、これは後で述べることと関連するが、刹那刹那の「意思」の力によってA系列の時間が生まれ、その「記録」からB系列の時間が生まれるという考え方 は、進化論という理論自体が、そのようなプロセスを経た後に生まれてきたことを含意しているわけで、だとすると、著者の主張は、進化論が説明する世界の内 部に、当の進化論自体の誕生のプロセスが入れ子式に含まれている、ということに帰着する。「心は脳から生まれた」という議論自体が、刹那刹那のニューロン の結合から産み出されているのと同断だ。これは、とても面白い。)

 もう一つ加えると、刹那刹那の意思決定の「記録」が人間に「自己という意識」をもたらす、と著者は書いている。この「自己という意識」は、B系列の時間 概念のうちにあるもので、それに先立つところの、過去・現在・未来というA系列に属する「主観的」な時間概念(時間体験というべきか)が帰属するはずの 「意識」というものが考えられるはずだが、それはいったいどういうもので、また、いかにして生まれてくるのだろう。
 そもそも、刹那刹那の「意思」の力によって主観的時間(A系列)が創り出されるというとき、そのようなことを(自らに生じた体験として)語りうるのは いったい誰なのだろう。「意思」の「記録」がもたらす「自己という意識」がそれである、というのでは答えにならない。なぜなら、それはB系列の時間のうち にあるものなのだから。
 著者は、「われわれがこうして時間について考え、A系列、B系列、C系列などの時間を想起できるのも、その元をただせば、われわれが意識するとしないと にかかわらず、刹那刹那で時間を創造している「意思」とその「記録」のおかげなのである」(137頁)という。
 この「われわれが意識するとしないとにかかわらず」がくせ者だが、そこでいわれる意識は、おそらくB系列の時間が成立した上ではじめて成り立つもの (「自己という意識」の同類)のことだろう。そして、「A系列、B系列、C系列などの時間を想起できる」のは、そのような意味での意識においてのことだろ う。
 だとすると、ここに、原初のA系列と、B系列の上に成り立つ意識によって「想起」されたA系列の二つがあることになるが、その原初のA系列の時間を体験 する「意識」などというものはあり得ず、またそれをB系列の上に成り立つ意識でもって「想起」することなどできない、ということになりはしないだろうか。
(原初のA系列の時間を体験する「意識」というものがあって、それが実は「意思」なのだ、と考えることができるかもしれない。しかし、そのような意味での 「意識」もまた、生命進化の結果として生まれたものである。こうして、議論は振り出しに戻ってしまう。そして、ここにもまた、進化論をめぐる入れ子式もし くはウロボロス状の錯綜が発生する。面白い。)

 私は、本書後半の議論は間違っているとか、欠陥があるといいたいのではない。時間の謎は、本書でもついに解明されなかった。謎は謎のまま残った。でも、 時間の謎がはらんでいた「驚異」の実質はより鮮明にされたのではないか、といいたいのある。
 たとえば、本書後半の議論のうち、強く興味を引かれたのは、A系列における「過去」の定義(外界からの干渉、外圧)と、「意思」の「記録」というアイデ アだった。
 私はこれを、A系列の「過去」とは物質で、物質との界面(刹那)における行為によってA系列の「今現在」(永井均の表記法を使って〈今〉や〈私〉といっ てもいいし、〈クオリア〉といってもいいと思う)が生み出され、その「記録」を読み出すこと(記憶語り)を通じて「自己という意識」(同様に《今》や 《私》といってもいいし、《志向性》といってもいい)が生み出される、と読んだ。
 そして、著者(橋元氏)が論じたA系列の時間を永井均の「開闢」の世界に、B系列の時間を「開闢の奇蹟が開闢の内部の一つの存在者として位置づけられて いる」世界(進化論が説明する世界の内部に進化論誕生のプロセスが入れ子式に含まれている…)に関連づけて読んだ。
 途中の説明と論証抜きに極論を述べると、世界を説明する言葉の生成(「自己意識」もしくは「クオリア+志向性」)と、その言葉によって説明される世界の 創造(「記録」)とが切り離せない、そのような「世界の実相」(意思=意志としての世界)に迫る途方もない議論が、ここから始まるかもしれない。

★3月17日(日):立川武蔵『仏とは何か』

 立川武蔵著『仏とは何か』(講談社選書メチエ)を読んだ。
 講義録「ブッディスト・セオロジー」の第三巻。第一巻「聖なるもの 俗なるもの」と第二巻「マンダラという世界」は、昨年三月、四月と続けて刊行された際に買い求め、全五巻が出揃ってからまとめて読もうと思って、摘み読み もせずに大事にとっておいた。
 同じ選書メチエから出た、中沢新一さんの講義録「カイエ・ソバージュ」全五巻は破格の面白さだったけれど、なにしろ半年ごとの刊行だったものだから、欲 求不満が募った。こんどはどうやら毎月出るようだから、少し辛抱すれば、一気読みができる。そう思っているうち、一年がすぎた。
 今後の予定を見ると、第四巻「空の実践」が八月、第五巻「ヨーガと浄土」が来年の四月となっている。それまで待てない。長編小説を佳境に入ったところか ら読み始めるみたいで、ちょっとためらいはあったけれど、思い立ったが吉日、とにかく読んでみた。

 宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との区別を意識した合目的的行為である。すべての宗教行為は世界認識(世界観)、目的(目標)、手段(実践)の 三要素を含んでいる。
 本書では、マンダラという仏や菩薩の住む世界の中に示されている、仏教における行為の目的・目標が、「ホーマ」(バラモン教のヴェーダ祭式=護摩)や 「プージャー」(ヒンドゥー教の儀礼=供養)などの宗教儀礼、仏塔(涅槃のシンボル、世界=宇宙、ブッダの身体、立体マンダラの四つの意味をもつ)や仏像 といった宗教シンボル、そしてバクティ(帰依)等々の宗教行為をめぐる詳細な叙述を通じて、具体的に考察される。
 また、宗教には時代の状況に対処して進む自覚的な方法があり、それをセオロジカル(神学的)と呼ぶならば、仏教にもそういった自覚的な歩みがある。原始 仏教から、密教(世界の内なる仏=大日如来)や親鸞の浄土教(世界の外なる仏=阿弥陀仏)まで、ゴータマ・ブッダの悟りと思想を根底に据えながら、仏教 は、一つの生きものように「神学的」な歩みをおこなった。
 本書では、初期における偉大なる師としてのブッダから、ジャータカ物語(ブッダの本生物語=過去生物語)を経て、「ペルソナ」(人格)をそなえた神的存 在として人と交わる、大乗仏教における仏たち(阿弥陀と大日)に至るまで、仏のイメージの変容と、それをもたらした仏教思想の変革の過程を、仏教美術の変 遷や経典の読解を通じて、これもまた具体的に語られる。

 仏教の思想と実践をめぐる「セオロジー」の部分、とりわけ「ペルソナ」としての仏をめぐる議論に多大な関心と期待を寄せながら本書を読み始めたものだか ら、最初のうちは、時に煩瑣とも思われる事実の列挙に味気ない思いを拭えなかった。
 しかし、宗教という、個人的、集団的、いずれの相においても生々しい人間的営みについて考えるとき、数千年、もしくは数万年に及ぶ人々の思いと行いがか たちづくってきた具体的な歴史への敬意と洞察を抜きにして、空理空論の世界に遊ぶことなど無意味だろう。
 本書を読み進めていくうち、とりわけ第七章「ジャータカ物語と仏の三身」から第八章「大乗の仏たち──阿弥陀と大日」、そして、本書を総括しつつ第四巻 の主題(空の思想)へとつないでいく第一○章「浄土とマンダラ」へと頁を繰っていくうちに、具体的な相における比較と変遷を、繰り返しを厭わず淡々と綴っ ていく著者の語り口に、すっかり魅了されていった。

     ※
 記録しておきたいことはたくさんあるが、ここでは、三身仏の思想、もしくは「ブッダの三つの位態」(219頁)をめぐる思想に関して、キリスト教の三位 一体説(神の三つの位格)と比較しながら述べられた箇所を、抜き書きしておこう。

《三身の思想は、初期大乗仏教の時期、四世紀に確立されたと考えられます。三身とは、法身〔ほっしん〕、報身〔ほうじん〕、化身〔けしん〕というブッダの 三種の身体(身)をいいます。この三つの身体を有する仏は、それぞれ法身仏、報身仏、化身仏と呼ばれます。第一の法身仏とは、法そのものを姿としている仏 という意味です。法そのものにはすがた、かたち、さらには色や香りもありません。したがって、法身仏つまり「法を身体としている仏」とはいいますが、われ われの目に見えるような肉体を持ったブッダのことではありません。
 第二の身体、つまり報身仏とは、サンスクリットでは「サンボ−ガ・カーヤ」です。「サンボ−ガ」とは、享受のことであり、「カーヤ」とは身体です。「サ ンボ−ガ・カーヤ」とは「〔自らの修行の結果を〕享受するための身体」という意味です。修行をして、その修行の結果として悟りに至り、そして衆生を救うの ですが、その衆生を救う行為が、それまでの修行の結果を享受することと解釈されているのです。ブッダつまり覚者となった存在が衆生のために働いているすが たが、「修行の結果をわが身に受けるための身体(報身)」と考えられました。そのような身体を有する仏が報身仏(サンボ−ガ・カーヤ・ブッダ)です。誰か の恩に報いるというように読めますが、そういう意味ではなく、報いを楽しむための身体というような意味になります。「受用身〔じゅようしん〕」ともいわれ ますが、こちらの方が的確な意味を表しているかもしれません。この報身仏は、歴史的な肉体を持った仏ではありません。ただ、この仏には、すがた(イメー ジ)と働きがあります。
 第三の化身仏とは、歴史の中で肉体を持ったシャーキャ・ムニ(シャカ族の聖者)です。彼は歴史の中で実際に肉体を持つことのできた存在です。つまり受肉 したすがたを採ったブッダです。今日のチベット仏教における活仏という考えは、肉体を持ちながら法そのものを体現したという意味から生まれており、一方で 化身という言葉も用います。たとえば、ダライラマが観音の化身であるというのは、肉体を持っているというところにポイントがあるのです。
 いささか乱暴ないいかたですが、この法身仏、報身仏、化身仏は、キリスト教における父と子と精霊に相当します。天が法身に当たり、子が化身に当たり、報 身が精霊に当たると一応はいうことができましょう。(略)

 このような仏のイメージの典型を浄土教において見ることができます。つまり、法蔵菩薩(比丘)が修行の結果、阿弥陀仏となったという神話が『阿弥陀経』 や『無量寿経』という浄土教の経典に語られているのです。この神話はシャカ族の王子シッダールタが出家の後、悟りを開いたという歴史的事実を踏まえていま す。しかし、その阿弥陀仏にはシャカ族の王子であったという歴史的要素はすでにありません。阿弥陀仏とは、聖性の度合いをより一層強めた存在に昇るため に、あるいは乗せるために、シャーキャ・ムニの生涯における歴史的な個差を切り捨てた、すなわち、数学的にいえば微分をした姿であると考えられます。 (略)
 ……三〜四世紀以降、大乗仏教は、ゴータマ・ブッダのイメージを変化させ、阿弥陀仏(無量光、無量寿)などの多くのブッダの像を生みました。浄土教にお いては、一般にこの阿弥陀仏は報身と考えられております。報身は歴史的な存在ではありませんし、肉体を持ってはいませんが、イメージを持ち、働きを持つ ブッダと考えられているゆえに、仏のすがたの変容を考える際大きな役割を果たします。》(142-145頁)

 後段の浄土教について書かれた箇所に関連して、「『阿弥陀経』や『無量寿経』に描かれている浄土の様子は、すこぶる視覚的なものである」(171頁)云 々と、「神の図像化」もしくは「「聖なるもの」のヴィジュアル化」を論じた箇所も面白い。
 また、浄土(世界の外への遠心的方向=「脱自的方向」)とマンダラ(世界の内への求心的方向=「保身的方向」)を、空の思想における自己否定とその後の よみがえりに関係づけている、本書末尾の議論も面白い。このことは、宗教実践を主題とするシリーズ第四巻以降で述べられるという。刊行が待ち遠しいが、そ れまでに、第一巻、第二巻をちゃんと読んでおかねば。

★3月18日(日):信仰をもつ人間の枕頭の書、そして重力と舞踏

 鈴木一誌は、『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に収められた「重力の行方──レヴィ=ストロースからの発想」を、こう書き始めている。「しごと を終えたあと、邦訳されたクロード・レヴィ=ストロースの著作を読むのが、二か月ほどのならいとなった。」
 その模倣というわけではないけれども、ここ七か月ほど、鈴木一誌の『画面の誕生』をほぼ毎日一節ずつ、仕事と仕事の合間、たいがいは昼食後の午睡の前 に、読み進めるのをならいとしてきた。

《…日課のようにその著述を読むのはふしぎな体験だった。これほどレヴィ=ストロースの文章は淡々としたものだったのか。(略)だが、魅力がないわけでは けっしてなく、叙述の平らかさが飽きのこない読書体験をもたらし、信仰をもつ人間の枕頭の書とはこういうものかもしれない、と思わせる習慣性を到来させた のだが、それにしても、行の意味は読む端から砂粒のようにこぼれ去っていく。》(「重力の行方」)

 この文中の固有名を「鈴木一誌」に置き換えると、それはそのまま、私の読書体験の叙述になる。また、次の文でいわれていることは、優れたレヴィ=ストー ス論であると同時に、鈴木一誌の書き物について述べられた、おそらく最高の批評であると思われる。

《レヴィ=ストースを読むことは、書き手の熱意や使命感によって問題が設定され、疑問がつぎつぎに繰りだされていき、記述を読み進めることが書き手と読者 の一体化であると錯覚させるような、線型の読書体験ではない。レヴィ=ストロースは、読書の少し遅れた背後からやってくる。(略)…このとき読み手の眼前 にせり上がってくるのは、著者の「対比し、示す」、なかばメカニックな手つきだろう。レヴィ=ストロースの著作は、作者の〈器用しごと〉を見せるドキュメ ンタリーと見える。彼の手を経た神話の言説は、粒がととのえられ、ユニット化し、移動可能な感を深めるぶん、粒どうしの粘着性は弱まる。(略)…読者から すれば、レヴィ=ストロースの文章は〈遠さ〉としてあらわれる…。》(「重力の行方」)

 とりわけ「メカニックな手つき」という評言は、『画面の誕生』巻末の「ポスト・スクリプト」で明かされた、「地下室でモニタに向かい原稿を書いている」 鈴木一誌の「器用しごと」の成果が読者に与える感触を、見事にいいあてている。

《行番号が出るワープロ・ソフトまたはエディタをつかって、気がついたことを、一行一項目で、ことがらの大小を無視して書き連ねていく。その一項目が、百 字程度の記述になっていく。文章に織りこめていない項目が、いつも原稿の末尾にぶら下がっている。一行の字詰めを四○字に設定しておくと、一○行書けば、 四○○字原稿用紙一枚だ。五行くらいで段落の変更を意識しはじめ、原稿用紙五枚で節をあらためる、こう、書くことのなかに「標準」を見つけられないか、と いろいろと実験をしてしまうのも悪い癖だ。》(『画面の誕生』)

 ショット(鮮やかな警句としての断言)とシークエンス(一つ一つ几帳面にタイトルを付された節)の正確な編集(デザイン)を通じて、(「ポスト・スクリ プト」で使われた言葉や語彙を借用するならば)、「映画や漫画、写真集などの表現を受けとるという作品の体験」の「痕跡」(=「時間を失った点としてわた しの身体に残る」もの)を「原寸で描写」し、「傑作や感動と言ってしまうことで洩れおちてしまうもの」を「記録」(=「記譜(ノーテーション)」)するこ と。
 この、鈴木一誌自身による鈴木一誌の書き物についての自己規定は、「重力の行方」で、「レヴィ=ストロースの文章はドキュメンタリーだと言える」── 「ドキュメンタリーは、地球上のあらゆる生きものが甘受せざえうをえない重力を写すものなのではないか。…重力とともに生きるほかない存在として生きるも のを描きだす、これがドキュメンタリーを定義する最低限の基準だと思える」──と書かれていることと、響き合っている。

《レヴィ=ストロースは、…神話の根を切り、ショットやシークエンスへと単位化していく。このとき神話というテクストは決定的に重力をうばわれるのだが、 ショットやシークエンスに語らせながら構造を出現させるとき、構造は、土地に住むひとびとの無意識をなまなましく貫く。これを構造という運動と呼んでよい だろう。
「彼らは生きている」と読むものに思わせるこの事情を、モーリス・メルロ=ポンティは「客観的分析を生きられているものに結びつけること、おそらくはこれ こそが人類学のもっとも固有な仕事なのであ」ると書く〔「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」,『シーニュT』〕。分析が最終的に「生きられてい るもの」に沈降していく人類学的な事態が、構造が担っている「鈍重な意味」〔同〕なのだろう。「鈍重な異味」において、レヴィ=ストロースの著作はドキュ メンタリーである。レヴィ=ストロースの文章があつかう神話の内部でも、重力は、ひとびとにのしかかると同時に無化される。

全四巻の『神話論理』で、私は南北アメリカ大陸の神話群において下界の民と上界の民とのあいだの宇宙的規模の戦いは、料理の火をめぐって繰り広げられるこ とを示した。〔『やきもち焼きの土器づくり』「序」〕

 下界はひとびとの住まう重力の世界で、上界は神的空間だと理解してよいだろう。重力のある地平と無重力の場の往還、つまりは「天と地のコミュニケーショ ン」から神話の駆動力が生みだされている。》(「重力の行方」)

 「重力の行方」を収録した『重力のデザイン──本から写真へ』に、次の記述がある。

《ひとは、重力に抗して立ちあがるのだから、生きることは垂直という感覚を維持しつづけることだ、と言える。体内に天地方向の基準線が生まれ、その不可逆 のタテ感覚が鏡像を〔左右を逆転させるにもかかわらず〕天地には逆転させない…。》(「鏡と月──フレデリック・ワイズマンの重力」,『重力のデザイン』 128頁)

 これを読んで、私は舞踏を、そして川端康成の『雪国』を、あの悲しいほど美しい声をもった葉子の顔が鏡(車窓)に「映画の二重写し」のように映じている シーンに始まり、上映中のフィルムが発火した繭倉炎上のシーンを経て、「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」で終わる『雪国』 を連想する。
 その島村は、「ヴァレリィやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論」を翻訳し、また、洋書や写真、ポスターやプログ ラムを頼りに西洋の舞踊を夢想し、紹介文を書いているのだった。

《パイドロス 驚嘆すべきソクラテスよ、あなたの言葉がどれほど的を射ているか、ほらご覧なさい!…… 脈動する女をご覧なさい! まるで舞踏が彼女の? から炎となって吹き出してくるかのようだ!
 ソクラテス おお、〈炎〉よ!……
 ──あの娘はひょっとして愚か者なのか?……
 おお〈炎〉よ!……
 ──どんな迷信、どんな戯言が彼女のふだんの魂をかたちづくっているのか、知れたものではない。
 それでもしかし、おお〈炎〉よ!…… 生気ある神々しい物体!……
 だが、炎とはいったい何かね、わが友よ、瞬間それ自体でないとするならば? ──一瞬そのものの中にある気違い染みた、陽気な、並外れたもの!…… 炎 とは、大地と天空の間にあるこの瞬間の行為だ。おお、わが友よ、重々しい状態から精妙な状態へと移行するすべてのものは、火と光の瞬間を通過する……
 そして、炎とはまた、もっとも高貴な破壊の、捉えがたい、誇り高い形態のことではないか?》(ポール・バレリー「魂と舞踏」(松浦寿輝訳),渡辺守章編 『舞踊評論 ゴーチェ/マラルメ/ヴァレリー』228頁)

 とりとめのない「記録」になった。鈴木一誌の文章の「メカニック」な感触を、鈴木一誌よりうまく言葉にすることは、私にはできない。(そういえば、福田 和也が『雪国』について、「メタリックといってもいいような突き抜けた力があって」云々と語っていた。〔http: //d.hatena.ne.jp/orion-n/20070204〕)

★3月21日(水):神話論理・哥の勉強・その他とりとめのないこと

 前回とりとめなく書いたこと(鈴木一誌の文章の「メカニック」な感触のこと、『雪国』の島村が舞踊評論家だったこと)との関連で、いや関連しないけれ ど、もう少しとりとめのないことを書いておく。

◎クロード・レヴィ=ストロース『神話論理U 蜜から灰へ』(早水洋太郎訳)を買った。
 去年の5月から6月にかけて、『神話論理T 生のものと火を通したもの』(同)をヒッチコック/トリュフォー『定本 映画術』と同時並行的に読んでいた。結局、「序曲T」と「序曲U」を読んだだけで中断した。でも、この書物だけは全巻読んでおきたいと思っている。ただ読 むだけでいいと思っている。読まずには死ねない。そういう書物だと思っている。

◎川端康成の『雪国』と『美しい日本の私』を読み終え、つづいて『みずうみ』を読み始めた。
 新潮文庫の解説(中村真一郎)に、この作品は「意識の流れ」の描写の美しさを感じさせる、主人公の意識を舞台として多くの女性の思い出を混ぜ合わせてい る、その混ぜ合わせ方は「日本的超現実主義──中世の連歌における、「匂い付け」と呼ばれるような、不思議に微妙な連想作用」によって行なわれている、こ の小説の構成・映像・筋立て・後味は夢に似ている、云々と書いてあった。面白い。

◎岩波文庫で夏目漱石の『文学論』上下の刊行が始まった。
 できるかどうか、意味があるかどうかは知らないが、川端康成の小説群を夏目漱石の文学論を使って読解してみようと目論んでいる。どこからそんな発想が生 まれたのか自分でもよくわからない。準備に一年近くかかるのではないかと思う。

◎『石川淳評論選』(菅野照正編,ちくま文庫)と白川静『詩経 中国の古代歌謡』(中公文庫)をセットで買った。
 昔、石川淳の『夷斎筆談』(富山房百科文庫)を毎日筆写していたことがあった。写経のつもりだった。『夷齋小識』と金子光晴『マレー蘭印紀行』(ともに 中公文庫)の二冊はどちらも薄いもので、急な外出で選ぶ暇のないとき安心して携帯できる本としていつも手の届くところに常備している。あまり意識したこと はなかったけれど、私は石川淳のファンだった。
 『評論選』には「歌仙」とか「和歌押韻」とか「本居宣長」が収録されている。『詩経』と一緒に読むことで、そして図書館で借りてきた小松英雄著『みそひ と文字の抒情詩──古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』等々を併読することで、哥の勉強がはかどるのではないかと思った。

◎その哥の勉強では、尼ヶ崎彬著『花鳥の使』の再読が遅々として進まず、今日ようやく定家の章の途中まできた。
 いま「貫之現象学と定家論理学」というアイデアを育んでいる。というか、でっちあげようとしている。これは永井均著『西田幾多郎』に出てきた「西田現象 学」と「西田論理学」に触発されたもので、まだ中身は混沌としている。
 定家十体のうち「有心体」でいう「心」とは詞の意味としての心(哥に詠まれた心)ではなく、作者の心(作者の心中の思い)のことである。また「作者の 心」とは貫之の歌論にいう心、すなわち歌人が実体験している心情ではなく、俊成の歌論にいう心、すなわち詩的主観のことである。それは和歌の産出過程(詠 作時)においてのみ生じる虚構の、しかし動的な生命をもつ「詠みつつある心」であって、言語化以前の心的状態を指す。(以上は『花鳥の使』の大雑把な要 約。)
 物と心の界面にかかわる貫之歌論の「心」とは実は〈心〉(永井均の表記法)のことで、それは物への付託を通じて「ことのは」に生長する。その「ことの は」(詞)と心の関係をみすえる俊成歌論の「心」は自律的な言語世界に生息するペルソナのことで、それは死者とのコミュニケーション回路をひらく。そのペ ルソナ(詠みつつある心)と物のあわいに屹立する定家歌論の「心」は言語化以前の「冷たい物質性」のうちに立ち上がる。(以上は『花鳥の使』を使った勝手 な議論。)
 かなり言葉が舞い上がっていて自分でもとうてい信用できないが、だいたいそんな感じで考えていきたいと思っている。

◎これだけは「書評」のかたちで読書体験の実質を記録しておきたいと思う本がいくつかある。
 加藤幹郎著『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』と保坂和志著『小説の誕生』と篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』と 渡仲幸利著『新しいデカルト』の四冊。
 そのうち一冊、渡仲本に「決着」をつけようと思い、鉛筆でマークをつけた箇所をさくさくと読み始めたら止まらなくなった。この本はやっぱり名著だ。人生 の何たるかや日々の生き方や本の読み方、はては哥の勉強の仕方まで教えてくれる本だ。たとえば「デカルトと宣長」という文章の前半に出てくる次の文章。

《おしゃべりなど通用せず、じっさいに取りかかるほかないことがある。つべこべ言わずに、はじめなければならない。
 なのにわたしたちは、暇がないとか、才能がないとか、ごちゃごちゃ悩む。うまいやり方がないものか、とえらそうなことをいっては、なかなか実行しない。
 健康のために運動をしなければ、と考えながら、いっこうにはじめないし、文章を書きたいと思っているのに、ペンすらにぎらずに一日をやりすごしてしまう し、あこがれの文学全集を読み終わらないどころか、読みはじめようともしない。そのくせ、あれもやりたい、これもやりたい、休みがとれたらなあ、などと終 始つべこべ考えている。
 デカルトは、そんなしりの重いわたしが読んだ数少ない哲学者の一人だが、かれの著作のさわやかさは、宣長同様、かれが不言実行の人であることから来てい ると見て、まちがいないと思う。》(渡仲幸利『新しいデカルト』124頁)

★3月23日(金):ハードボイルドな心、高度産業社会を生きる技術

 河野哲也著『〈心〉はからだの外にある』は、二つの太い線で構成されている。一つは「デカルト的コギト」以後の主観主義(純粋自我の概念)への批判であ り、いま一つは政治的なものを心理学的なものに置き換える心理主義(反省的自己の概念)への批判である。
 この両者に共通するのは内面主義の発想であり、河野氏によれば、それは「私はある」の「私」を身体としての私ではなく、考える作用としての私であるとし たデカルトに発する。たとえば次の文章では、主観主義と心理主義対する批判が渾然一体となって記述されている。

《「内面に価値を置く」という心理状態は、本質的に自己が抑圧された状態であり、率直な自分の考えや感情の表現が押さえ込まれた状態である。それが、相手 のことを思いやっての抑制であるならば構わないだろうが、自己が不当に不利になる状況を忍従するための手段になってしまってはならない。私たちは、自分の 内部に価値を置いているときには、なぜそのような状態でいるのかを考え直す必要があるだろう。
 超越的な内面性を重視して、デカルト的な意識の存在を擁護しようとする人は、さまざまな手段を用いて首尾よく構築すべき「内部」を、最初から与えられて いると思い込みたいだけではないだろうか。それは、生態学的立場から見れば適切さを欠いた戦略なのである。》(140-141頁)

 そこで、河野氏が「生態学的立場」からデカルト的コギトに対抗して提示するのが、「私は思う」ならぬ「私は死ぬ」の原理に従う「エコロジカルな私」の概 念、端的にいえば環境の中で行動する身体である。ここで河野氏が立脚するギブソンの知覚論(アフォーダンス理論)の要諦は次のように要約できる。

1.アフォーダンス(動物にとっての生態学的環境の価値や意味、どのように行動すべきかに関する環境の特性)は環境の側に実在する特性であって、動物の側 にとっての主観的な価値や意味ではない。
2.私たちが知覚している世界は、人間の心(脳)が生み出した表象やイメージではなく、私たちは実在の世界そのものを直接に知覚している。知覚世界は私た ちの身体の外側に、まさしく見えているそこに存在している。

 ギブソンがいう環境は自然的なものだけではない。環境のアフォーダンスのうちもっとも精緻なものは、人間の場合、とりわけ他の人間によって与えられる。 心は、社会関係を含めた環境と身体的活動との関係性のなかで成立するという意味において、まさしく「身体の外にある」。これが本書のタイトルとなった。
 こうしたエコロジカルな自己観に基づく河野氏の心理主義批判──社会的有用性の観点からのパーソナリティ測定や個性(重視)主義、「障害=個性論」への 批判等々、つまり「本来は社会的・政治的であるはずの問題を、個人の問題へとすり替えて、問題を「個人化」する政治的なプロパガンダ」に対する批判──に は説得力がある。
 それを踏まえた「政策論」──個人ではなく環境(ニッチ)の適切な設定を主眼とした教育システム、官公庁や企業の不正・不祥事を個人の倫理観の欠如等で はなく組織構造の産物と見なすビジネス論理学の提唱等々──は現実的有効性をもっている。
 このあたりの「理論心理学」的な議論(心の科学をめぐるメタ理論的なサイエンス・スタディ)が本書の勘所だろう。本論末尾の次の括りに私は全面的に賛同 する。

《結論しよう。私たちは環境に埋め込まれた存在である。そうであるかぎり、自己のあり方を問うことは、自分の「内面」を問うだけではすまされない。内面と は、自分の周囲の環境を既存のものとして受け入れた後の残余にすぎないからである。自己への問いとは、私たちを取り囲む(自然的・人間関係的・社会的)環 境のあり方までを含めて、自己のあり方を問い直すことである。そして、そこには、それまでの環境設定への批判が含まれることであるかもしれない。私たちが なすべきは、心理主義にとらわれたままで、無自覚のうちに自己を既存の社会システムに過剰に適応させてしまう「自分探し」なのではなく、環境リテラシーを 通じて、自分(たち)自身で環境と自分(たち)との関係性をリデザインすることである。本当の自分探しとは、自分が充実して生きられる環境(ニッチ)を自 ら形成し、再形成してゆくことなのである。》(244-245頁)

 ただ、それらの議論の理論的もしくは哲学的な前提となる主観主義批判の部分が腑に落ちない。正確にいうと、デカルト「以後」もしくはデカルト「的」な自 己観や意識観に対する批判は妥当なものだと思うし、それが心理主義と密接不離なものであることにも得心がいくのだが、当の「デカルト」に対する批判が腑に 落ちないのである。
 この点が気になって本書を読み進められなくなり、たまたま新訳が出た『省察』を一読してみて、やはり河野氏のデカルト批判は一面的もしくはデカルトその 人の議論とは関係がないものなのではないかと思った。
 たとえば河野氏は、デカルトは「私はある」の「私」とは身体をもたない純粋な思惟作用であるというが、しかし「私はある」が必然的に真となるためには 「私はある」という命題は発語されなければならず、したがってその「私」は話す者でなければならない(音声を発するためには身体をもたなければならない) という。
 また、デカルト的コギトは詮ずるところ「知る自己」に帰着するのであって、だから純粋自我(純粋思惟)とは、能動態(知る自己)は受動態(知られる自 己)ではありえないという言語的・文法的な規則を現実に投影した幻想にすぎず、それが同一の存在でありつづけているのはむしろ環境が同一であるからだとい う。
 これらの議論は、デカルトへの言及抜きに述べられたものであるとしたら全面的に正しいと思う。でもそれは、デカルトの読み方として間違っているとまでは 断定しないが、少なくとも私自身が『省察』を読んだ体験からは出てこないものだ。河野氏の議論はほとんどそのままデカルトが容認するものであるとさえ私に は読めた。「だから私(デカルト)はそれとは違う問題をここ(『省察』)で考えているのだよ。」
 でも河野氏は『省察』をそのように読んだ。要はデカルトがそこで試みた「思考実験」は成り立たないといっている。私の異和感は、だから結局見解の相違に よるもので、河野氏と私は『省察』のうちにまったく違う「問題」を見出しているということなのだろう。

     ※
 ではお前が『省察』のうちに見出した「問題」とは何か、お前自身の見解を述べよと問いつめられると困る。まだ準備ができていない。というか、すでに述べ たように私は本書のデカルト批判を除く部分の議論とその帰結に全面的に賛同している。しかもそれは河野氏のデカルト批判に対する異和感があるにもかかわら ずそうなのである。だからここで延々と独自の見解を述べる必要はない。
 河野氏のデカルト批判と切り離してその心理主義=主観主義批判に賛同できるはずがない。もしそういう反論がありうるとすれば、これには真っ向から立ち向 かわなければなるまいが、残念ながらその準備がまだできていない。だから、以下に走り書きすることは本番のない予行演習のようなものでしかない。

 武術や芸能の達人、名人といわれる人はアフォーダンス理論を身をもって生きていたに違いない。宮本武蔵は剣術の極意を問われて敷居の上を歩いてみせた。 敷居を千尋の谷にかかる板に見立てたというのだが、これはだれかの漫画で読んだ話で、本当のことなのかどうかは知らない。
 そのどこがアフォーダンスにつながるのかと問われても説明に窮するが、要は、剣術とは身体の鍛錬を通じて心を錬磨すること、粘土をこねるようにして心を 造形していくことだ。言葉で書くとそうなる。問題はそこでいう「心」とは何かで、それを内面の問題と考えるから勘違いが起こる。
 剣術の達人は世阿弥の「離見の見」を実地に生きていた。つまり「心はからだの外にある」こと、千尋の谷(死)や相対する敵(他者)に直面して身震いする 「心」を、徹底的に身体と環境との相互作用の関係のうちに還元して思考した。「世界は私の世界であり、他人とは共有されないひとつの世界を構成している」 などと嘯いていると有無を言わさず斬り殺されるからだ。
 しかし前人未踏の境位を極めた達人にとって「世界は私の世界であり、他人とは共有されないひとつの世界を構成している」と、言葉の上では同じ事態が成り 立つ。だから剣術の達人は「天下無敵」なのである。(このあたり内田樹説の不完全な剽窃あり。)
 ところで、デカルトはオランダに隠棲し、新哲学への思索と著作にふけっているあいだも剣術の稽古を怠らなかったという。達人であったかどうかはともか く、中世と近代のはざま、戦乱の時代を生きぬいた剣士デカルトが、アフォーダンス理論を知らなかったはずがない。そもそもアフォーダンスの理論は西欧中世 以来の発想の枠組みのなかにある考えだという説さえある。

 ハードボイルド小説の主人公もまた一種の達人である。高度産業社会の卑しき街を行く誇り高き孤高の騎士。河野氏は「あとがき──心理学と探偵小説」で、 レイモンド・チャンドラーが描くフィリップ・マーロウはデカルト的コギト(純粋な観察者)そのものだと書いている。

《このように、探偵小説は、本質的に、「私とは誰か」という問い、すなわち「私を私たらしめている秘密とは何か」という問いに動機づけられている。探偵に よる捜査があきらかにしていくのは、主体とは引き裂かれた主体であり、その統一性は決定的に揺らいでいるという事実、言い換えれば、誰もがアイデンティ ティの危機に瀕しているという事実である。そして、探偵たちは、犯人をはじめとする登場人物たちの心の奥底に分け入ってその秘密を探るうちに、クラインの 壺のように、かえって心の外部へと出てしまう。探偵小説が示している近代的主体の逆説こそが、本書のモチーフであり、理論心理学のテーマである。》 (267頁)

 ここに出てくるクラインの壺的な「近代的主体の逆説」については、本文でも触れられていた。

《奇妙なことに、純粋な独我論的自己を指すように思われた「私」は、もっとも一般化され、もっとも普遍化された自己である。ここにひとつの逆説がある。第 二章で見たように、「真の私」や「私の本質」は、自己の個体的な行動特徴であるよりは、自分の行動を導いてくれる一般的な社会的規範のことを意味してい た。いわば、私の本質は、そもそもは私の外部にあった権力であったのである。ここでの独我論的自己(形而上学的自己)の探求も、同じような結論に達してし まう。単なる人物とは異なる「比類なき存在」であるはずの自己が、あらゆる特性が相対化された集合的な自己、すなわち、一人称代名詞で自らを呼ぶことので きる者すべてとなってしまうのである。結局、形而上学的自己なるものは、汎用的な一人称単数代名詞である「私」を実体化した以上のものではない。》 (184-185頁)

 このあたりの議論はデカルトというよりは永井均の議論を念頭においているのだろう。「形而上学的自己なるものは、汎用的な一人称単数代名詞である「私」 を実体化した以上のものではない」といって済むのだったら話は簡単で、やっぱりここでも河野氏の議論は(デカルトや永井均の「問題」と)すれ違っている。
 いやそういうことが書きたかったのではない。マーロウがデカルト的コギトで、そのデカルト的コギトによる純粋な観察の対象がクラインの壺だという河野氏 の指摘は面白い。間違っていると私は思うけれど、面白い。
 マーロウはカメラ・アイだと思う。映画的主体だと思う。河野氏が批判するような意味合いとしてではなく「世界は私の世界であり、他人とは共有されないひ とつの世界を構成している」と語る主体だと思う。そういう意味では、やっぱりマーロウはデカルト的コギトだ。
 何をいっているのか自分でもよく判っていないし、河野氏が批判する意味合いとは違う意味合いとは何かを説明できないけれど、そう思っている。
 加藤幹郎氏が『『ブレードランナー』論序説』で使った「形而上学的探偵物語」という語彙。それから今読んでいる村上春樹訳『ロング・グッドバイ』の冒頭 の次の文章(ここを「理解」できないと、チャンドラーにはまることはできない)。このあたりを素材にして、そのうち取り組んでみるとするか。(思い出し た。中断したままになっている「デカルト的二元論」シリーズでやろうと思っていたのがちょうどこの問題だった。[http: //d.hatena.ne.jp/orion-n/20061109])

《唇を噛みながらハンドルを握り、帰路についた。私は感情に流されずに生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かがあった。そ れがどんなものなのかはよくわからなかった。その白髪か、顔の傷跡か、礼儀正しさか。まあその程度のものだろう。私が彼と再び顔を合わせる理由もないだろ う。彼はただの迷い犬なのだ。あの若い女が言ったように。》(『ロング・グッドバイ』12頁)

     ※
 『他者のロゴスとパトス』(三井善止編著,玉川大学出版部:2006.10)に収録された河野氏の「他者問題とクオリア」の末尾に次のようにある。

《クオリアは主観的な幻想のようなものではなく、生態学的な世界の性質である。私たちが眼の前にしている知覚世界は、誰もがアクセスできるが、同時に変化 もしている生態学的レベルでの実在世界である。よって、知覚される世界も、個人が所有している閉じた内的世界ではなく、他人と共有されるものである。知覚 される世界が、各人に閉ざされたプライベートな世界であるという主観主義哲学やある種の心理学・認知科学が共有している想定は根本的な誤りである。人間そ れぞれが外部から接近不可能な内面を持っているというデカルト的な心の概念が成り立たないならば、私たちは他者問題や独我論に惑わされる必要もない。した がって、他人の心は根源的に隠されているという前提から生じる「他者と呼ばれている身体には、本当に心が備わっているのだろうか」とか、「自分以外に心が 存在するのだろうか」といった他者問題は擬似問題に他ならず、ここに他者問題は解消されるのである。》(『他者のロゴスとパトス』135-136頁)

 ここに書かれていることはたぶん正しいのではないかと思う。例によって「デカルト」云々の部分を抜きにしてのことだが。ただ、それが正しいからといって 「クオリア」や「他者」や「独我論」をめぐる「問題」が解決されたとは思えない。もっとも、何をもって「問題」と呼ぶかが実は問題で、その捉え方いかんで はそもそも問題などなかったということになるのかもしれない。少なくとも私は、引用文の中で河野氏がカギ括弧で書いているような事柄にはいささかの問題性 も感じない。
(実をいうと「他者問題とクオリア」は斜め読みしただけ。ちゃんと読まずに結論部分だけ引用するのはフェアではない。だから、ここに書いたことは今後の作 業のための備忘録でしかない。)