不連続な読書日記(2007.2)




【書評・感想】

●M・ビュトール『時間割』(清水徹訳,河出文庫:2006.12.20)

《断片のまま放置された記憶》

 読み終えたばかりのミシェル・ビュトール『時間割』の感想文でも書くかと思ったけれど、この五部構成の作品は記憶語り(過去の月日の浚渫作業、時間割の 綿密な再構成)の五つの方法によるカノン(輪唱)の形式をとっていて、それらが錯綜していくにつれてそこで書いているのはルヴェルなのかブレストンなの か、書かれているのはルヴェルのブレストン滞在一年間の個人的な記憶なのかブレストンという中世都市の血塗られた歴史なのかが濁った牛乳まじりの陽光のよ うにしだいに曖昧になっていく──と思いついたところでそんなことはとっくに作者自身が自作解説のなかで明かしている(と訳者の解説に書いてあった)し、 第一、小説の「時間構造」や作品世界の礎石のところにしつらえられた二つの神話(旧約聖書のカインとギリシャ神話のテセウスの物語)や作中にしつらえられ た推理小説(『ブレストンの暗殺』)とのつながりの構造などを暴いてみせたところでそれはそれだけのことで、五つの記憶語りがオーバーラップする最終章は かなり難渋したものの総じて読み進めていくことの愉悦を与えてくれた(ゴダールの『勝手にしやがれ』のようなタッチで全編ルヴェルのモノローグつきの映画 にしたら面白いだろうと思った)この作品の「時間構造」や構築された(あるいは断片のまま放置された)物語世界のなかでどういう体験をしたかを我と我が身 を抉るようにして書いてみないと何も書いたことにはならない。

●永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2006.11.30)

《哲学を伝えること=独立に哲学をすること》

 西田哲学の核心の上に、これとは「区別することはできない」永井哲学(独在性の〈私〉をめぐる形而上学、もしくはその論理−言語哲学ヴァージョンとして の開闢の哲学)の核心を重ね描いた西田=永井哲学の「解説書」。
 言葉と独立にそれだけで意味を持ちうる生の事実と、そうした事実とは独立にそれだけで意味を持ちうる言葉という、二つのものがある。「生の事実」は、じ かに体験される生々しい感じ、すなわちクオリアを伴う直接経験のことで、「言葉」は、たとえば「われ思う」や「われあり」という表現のなかで語られる自己 意識が、自己言及という形式的性質にすぎないように、クオリアをつかむ概念とその論理的な連関(推論)のことである。
 でも、実のところ、その二つのものは、そんなふうに綺麗に分けられるものではない。つまり、生の事実と言葉、意識(クオリアを伴った直接的意識)と自己 意識(志向性を持った概念的規定)は、私たちの日常の経験のなかでは重なっている。
《自己意識なき意識が可能なのと同様、意識なき自己意識もまた可能なのである。しかし、通常、この二つはあいともなって現れると考えられている。それはな ぜか。そこには実はかなり複雑な事情が介在しているのであって、本書は、西田哲学の解釈を通して、この事情の解明を目指している。》
 西田哲学の解釈を通して、永井氏が遂行した「かなり複雑な事情」の解明は、それは実に鮮やかなものだ。しかし、その実質は、実地に直接体験することでし か伝わらないと思うので、ここでは、いわゆる「デカルト的コギト」から、西田的な「自己意識なき意識」(「赤の赤たることが即ち意識である」)とウィトゲ ンシュタイン的な「意識なき自己意識」(「われあり」と正しく判断することはできるロボットかゾンビの)が分岐していく、とあくまで骨組みを提示するにと どめておく(第一章)。
 このような構図の上に、二つの問題が浮かび上がる。まず、西田のように「直接経験の事実は、ただ、言語に云い現わすことのできない赤の経験のみである」 と語る哲学者が、それでは自分の哲学をどうして言葉で語れるのか。この問い対する永井氏の回答は、西田がいう「純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内 部構造を内に宿していたから」というもので、その内部構造(クオリアと概念が地続きとなる)は、「場所」という論文の解釈を通じて示される(第二章)。
 第二に、西田は、「私と汝」のなかで、他人と私が「言語とか文字とかいう如きいわゆる表現を通じて相理解する」と書いているが、そもそも直接に結合して いない私と他人がなぜ「相理解」できるのか。これに対する永井氏の回答は、西田がこの問いに答えることに成功したとは思わないが、少なくとも、「個人の成 立」に関する問いに答えることで、問いの意味を深めること、すなわちそれがなぜ哲学的な問いであるのかということの意味を深めることに成功していると思う というもの(第三章)。
 以上が、本書のおおまかな骨組みである。もちろん、こんなものを示したところで意味はない。そもそも哲学書を、それも永井均が書いた本を要約することな どできない。まして、多くは註のかたちで随所に挿入された永井哲学の、生の感触が伝わらない。そんなことは百も承知で、今後、私の心の琴線に触れた細部の 叙述のいくつかに着目し、「独立に哲学をする」ための、いわば踏切台として仮設した。


【読了】

●M・ビュトール『時間割』(清水徹訳,河出文庫:2006.12.20)
●川端康成『美しい日本の私 その序説』(講談社現代新書:1969.3.16)
●文・吉家世洋/監修・丸山直樹『日本の森にオオカミの群れを放て──オオカミ復活プロジェクト進行中』(ビイング・ネット・プレス:2004.4.8)
●東野圭吾『使命と魂のリミット』(新潮社:2006.12.5)
●草凪優『マンションの鍵貸します』(双葉文庫:2007.2.20)


【購入】

●川端康成『雪国』(新潮文庫:1945)【¥362】
●川端康成『みずうみ』(新潮文庫:1960)【¥324】
●川端康成『美しい日本の私 その序説』(講談社現代新書:1969.3.16)【¥660】
●『文豪ナビ 川端康成』(新潮文庫:2004.12.1)【¥400】
●福田和也『日本人の目玉』(ちくま学芸文庫:2005.6.10)【¥1200】
●『芸術新潮』2月号〔特集|おそるべし!川端康成コレクション〕【¥1333】
●アンリ・ベルクソン『物質と記憶』(合田正人・松本力訳,ちくま学芸文庫:2007.2.10)【¥1300】
●伊藤邦武『パースの宇宙論』(岩波書店:2006.9.8)【¥2000古】
●夏目漱石『文学論(上)』(岩波文庫:2007.2.16)【¥860】
●『群像』3月号【¥876】
●東野圭吾『使命と魂のリミット』(新潮社:2006.12.5)【¥1600】
●中村真一郎『女体幻想』(新潮社:1992.12.10)【¥500古】
●中村真一郎『色好みの構造──王朝文化の深層』(岩波新書:1985.11.20)【¥300古】
●草凪優『マンションの鍵貸します』(双葉文庫:2007.2.20)【¥600】
●『サライ』2007/2/15〔特集|落語完全ガイド+「般若心経」を唱える、聴く」〕【¥619】
●『男はつらいよ 翔んでる寅次郎』(第23作),『男はつらいよ 寅次郎春の歌』(第24作),『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(第30作),『男は つらいよ 幸福の青い鳥』(第37作),『男はつらいよ 寅次郎の休日』(第43作),『男はつらいよ 寅次郎の告白』(第44作)【¥3000】



  【ブログ】

★2月1日(木):クオリアとペルソナ(備忘録1)

 12月7日〔http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20061207〕に挙げた本のリスト12冊のうち、とにかく読み終えたの はたったの3冊。当初の予定では、これらを全部読み込んでから「コーラ」への寄稿文の第1回目を書くつもりだったので、これではまだ足りないはずだが、年 明以来、想像がたくましくなって、とうとう「クオリアとペルソナ」という連載のタイトルとだいたいの骨格、方向まで決まってしまった。
 なにが楽しいといって、想像をたくましくしてなんらかの理論めいたものを考案するときが一番わくわくする。夢中になる。ところが、「理論」の枠組みがほ ぼ見えてきたとたんに、(たとえそれが見当違いのものであったとしても)、それまでの高揚が急速に萎んでしまう。手あかにまみれた「理論」に飽きがきて、 気分が散漫になり、また次のオモチャがほしくなる。
 できれば数年、「クオリアとペルソナ」で遊びたいと思っている。そのためには、もし飽きがきたとしても、そのつどたちかえって確認できる原点(生まれた ての「理論」の臍の緒のようなもの)を記録しておかなければいけない。判読不能になりつつあるノートに書きなぐった符丁のような文字や図式、そしていま頭 のなかを遊弋しているものどもを、そのすべてはとても無理だろうけれど、せめて文字にできるものだけでも「救済」しておかないと、ことごとく無明の世界に 没してしまう。
 そういうわけで、以下、忘却を未然に防ぐためのものではない、必ずや到来する忘却に備えるための記録(備忘録)を残しておく。

     ※
 理論めいたものを考えるとき、あるいは「理論」の面影を思い浮かべるとき、昔から物事を四つに区分して整理する癖がある。
 かつて、「私たちの社会」と「この私の世界」の構造と稼働の原理を「四」でもって解明しようと試みたことがある。「社会」についての粗描[http: //www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY/SYAKAI/YOUYAKU/MOKUZI.html]ができたところで作業が 止まったままになっていて、「私」についても、その後、「魂の四学」をめぐる夢想[http://www17.plala.or.jp/orion- n/ESSAY/TETUGAKU/27.html]と妄想[http://www17.plala.or.jp/orion- n/ESSAY/TETUGAKU/35.html]をでっちあげたところで行き詰まっている。昨年秋の「四人称世界」[http: //d.hatena.ne.jp/orion-n/20061101]をめぐる考察も、その流れのうちにあるものだった。
 今回の「理論」もまた「クオリア」「志向性」「言語」「ペルソナ」の四つの項で組み立てられている。
 実は、「志向性」と「言語」がいまひとつ気にくわない。たとえば「ヒュポスタシス」と「ロゴス(ラチオとしての)」、もしくは「ピュシス(ウーシア)」 と「ヴェルブム」といった語に置き換えたい(それが「理論」的に可能であればの話)。西洋由来の語彙ではなくて、「有」「無」「虚」「空」といった和風、 東洋風の言い方も考えてみたい(同様)。そう思うのは勝手で、どうぞご随意にというところだが、いずれにしても「四」なのである。

 中沢新一の『バルセロナ、秘数3』に、西欧思想史には、プラトン、デカルト、ニュートン、アインシュタインなどの「3の信棒者(トリニタリアン)」と、 ピタゴラスやカント、ゲーテ、ショーペンハウアーといった「4の信棒者(クォータナリアン)」の二つの流れがあるという議論がでてくる。(「たがいに内包 しあう否定機能にもとづく「縁」の関係にあるリアリティ」などという言い方を目にすると、クォータナリアンの末席を汚していると思いたくなるが、トリニタ リアンの説明がやや平板でコクがないのが気になる。)

《トリニタリアン的思考は「否定」の機能を(+、−)の対立として、考えようとする。つまり対立を、極性―対立(polar opposites)としてとらえ、論理表現化しようとするのだ。これにたいしてクォータナリアン的思考は、論理における否定の機能を相補的対立 (complementary opposites)と考える。運動量(p)と位置(q)のふたつを同時に確定することができないように、おたがいが相手を内包しながら否定しあっている ような関係である。
 「否定」の機能(これは最終的には、言語の象徴機能の問題である)には、はっきりとふたつのタイプが存在して、思想におけるふたつの流れをつくりだして きたのだ。古典科学やその方法をバックアップしたデカルト的合理論は、その表現のなかに(+、−)タイプの対立だけを認めようとした。これにたいして、量 子力学は別のタイプの「量子論理」にしたがって、物理的リアリティを表現しようとしてきた。(略)
 量子論理(Quantum Logic)は、通常の(+、−)論理に比較すると、おそろしく複雑な構造をもっている。これは量子論理が、アリストテレス的論理学の因果律 (Causality)にしたがうことなく、たがいに内包しあう否定機能にもとづく「縁」の関係にあるリアリティを論理化しようとこころみていることに関 係がある。その意味でも、これは東方的な超論理学(中観仏教、聖グレゴリオ・パラマスによって大成されたギリシャ正教神学、イスラムの天使学など)と、深 い内在的関係をもっているのである。》(『バルセロナ、秘数3』[http://www17.plala.or.jp/orion- n/NIKKI/64.html])

 補遺。以前に書いた文章[http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY/TETUGAKU/26.html]からの 自己引用。
 ──これは鎌田東二著『身体の宇宙誌』(講談社学術文庫)の「まえがき」で仕入れた知識なのだが、出口王仁三郎は「ひ」(一、日、火、霊)が増殖・成長 して「ふ」(二、増、殖)となり「み」(三、身)となり「実」をみのらせ「よ」(四、世、節)を形成すると語った。そうすると『三四郎』(夏目漱石)の 「三」は「身」に「四」は「世」に通ずることになりそうだし、さらに悪乗りを重ねるならば「三」は「産」に「四」は「死」に通じ、いずれも「父母未生以前 本来の面目」の問題(『門』)あるいは「生命記憶」の問題につながる?

     ※
 では、なぜ「四」なのか。それはたぶん「五」という秘数に到達したいがためだと思う。(では、なぜ「五」なのか、なぜ「五」が秘数なのか。それは判らな い。四肢より五感といった類のことではない。三次元空間に四点を等距離に配置することはできるが、五点ではできない。そういった類のこと。)

 「零」を考えると、そこに零という一つのものが認識される。すると「一」になる。「零」は静で「一」は動である。
 「一」は自ずから、もしくはそこに外圧が加わって「二」に分割される(「二」が流出する、と考えることもできる)。そして、ある一つのもの、もう一つも の、それら二つのものの関係という「三」が生まれる。「二」は静だが「三」は動である。
 正反合の弁証法のように、正が反を経て合に移行する。そこから次の「三」の運動が始まる。そう考えてもいいが、それだと動から動への堂々巡りでしかな い。「三」の運動の中に組み込まれた合は、所詮もう一つの「一」でしかないからである。
 正反合であれなんであれ、三項が成り立つこと自体、高次の『一』の立ち上がりを告げている。
 高次の『一』とその分割によって生まれる『二』が、「四」に至る二つの道をひらく。すなわち、「三」+『一』(三位一体)と「二」×『二』(二つの二項 対立の重ね描き)。いずれも静である。動を内包した静である。
 前者(三位一体)のうちに孕まれた高次の動(『一』)から高次の静(『二』)が生まれ、この静のうちに低次の静が重ね描かれた結果が後者(二項対立の自 乗)である。(永井均の表現を借りると、「開闢」から「開闢の奇蹟が開闢の内部の一つの存在者として位置づけられている」状態へ。)そう考えることもでき る
 ところで、『二』は『三』を生み、この『三』からより高次の〈一〉が生まれる。そして「三」+『一』+〈一〉もしくは「四」+〈一〉で「五」が生まれ る。以下、無限につづく。(このあたりまでくると、何を書いているのか判らない。それは秘数の世界だからである。)
 「四」に話をもどす。「四」には「動(三)+動(高次の一)」と「静(二)×静(高次の二)」の二つの相があった。
 ここで、「クオリア─志向性─言語─ペルソナ」を「動+動」の相でみると、クオリアと志向性から言語が立ち上がり、そうした言語誕生のプロセスそのもの を内包したペルソナが立ち上がる、などと解析することができる。
 あるいはこれを「静×静」の相でみると、たとえば「実証思考─抽象思考」と「実存─本質」の二つの二項対立の重ね描きで四項を整序することができる。す なわち、「クオリア=実証+実存」「志向性=抽象+本質」「言語=実証+本質」「ペルソナ=抽象+実存」(これらの規定は、まだ「仮止め」のものにすぎな い)。

★2月2日(金):クオリアとペルソナ(備忘録2)

 説明や論証や例証抜きの抽象的な議論がつづく。

     ※
 昨日の文章の最後に出てきた「立ち上がり」(クオリアと志向性から言語が立ち上がり…)と「重ね描き」(二つの二項対立の重ね描きで四項を整序す る…)、言い換えれば動的アプローチと静的アプローチによる解析・整序を通じて、たとえば神言もしくは真言としての言語(「動+動」の相のもとで)、言語 としての自然科学(「静+静」の相のもとで)といった二つの言語のあり方が炙り出される。それらがともに「四」において共在する。そこからより高次の 〈一〉が生まれ、「五」が生まれる。そう考えてもいい。
 しかし、「五」は所詮、秘すれば花の世界であって、より高次の〈一〉(花)はふたたび「四」のうちに繰り込まれる(内在的超越)。たとえば「ペルソナ= クオリア」の等式を成り立たせる「導管」として活用される。
 ここに出てきた「炙り出し」(C:入不二基義[http://www17.plala.or.jp/orion- n/NIKKI2/146.html])や「繰り込み」も、「立ち上がり」(C:保坂和志[http: //www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI3/286.html])や「重ね描き」(C:大森荘蔵[http: //www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/46.html])とともに、「四」の存在と認識と実践をめぐる「推論」にかかわ るキーワードである。

     ※
 上の文章で、導管と推論を括弧書きで記したことについて。
 ここでいう「推論」は、存在の理法であり、認識の方法であり、実践の形態である。何度でも繰り返し引用するが、パースは『連続性の哲学』[http: //www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/69.html]で、「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求し ようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前 提されている」と書いている。
 導管については、ジェイン・ジェイコブズが『経済の本質 自然から学ぶ』[http://www17.plala.or.jp/orion- n/NIKKI/53.html]で、生態系や都市を「エネルギーが通過していく導管」と表現している。これをもじっていえば、推論がそこを通過していく 理路もしくはフィールド(伝導体、透過体、統合体、機能体、等々)が導管である。
 推論が通過する…。つまり、推論から独立した主体、推論に先立つ主体といったものはない。推論は力であり、構造である。「運動体のない運動」(メルロ= ポンティ『見えるものと見えないもの』)としての推論?

 かねてから五つの推論というものを考えてきた。帰納[induction]、演繹[deduction]、洞察[abduction]、生産 [production]、そしてそれらを包括する第五の推論、原理的には最も古いものかもしれない推論のもうひとつの導管[duct]を指し示している 伝導[conduction]。
 それらの本質をめぐって駄弁を弄することには意味がない。その実存をめぐる饒舌には、たぶんきっとうんざりする。以下は、思いつくままの仮説であって、 いずれも語尾に疑問符がつく。

○帰納と演繹が存在の理法、洞察と生産が認識の方法、そして伝導が実践の形態にかかわる。
○「帰納─演繹─洞察─生産」は「立ち上げ─重ね描き─炙り出し─繰り込み」に関係している。
○五つの推論は「表象─模倣─解釈─記憶」の四つの作用にも関係している。
○ここでいう「表象」は物質と生命の界面で立ち上がるクオリアに、「模倣」は生命と精神が重ね描かれる界面での志向性に、「解釈」は精神と意識の界面で炙 り出される言語に、「記憶」は意識と物質の界面に繰り込まれるペルソナに、それぞれかかわってくる。
○ここでいう「意識」は、古代ギリシャ的プシューケー(魂)と中世キリスト教的プネウマ(霊)、東洋的思考における「心」や「無」「空」や「霊性」等々の アマルガムである。

     ※
 導管について記述した上の文章の丸括弧のなかで、無造作に使用した「伝導体」「透過体」「統合体」「機能体」について。
 これらはまだ未整序な概念の種子のようなもので、これまでに記録した事柄との関連性はおろか相互の関係でさえいまだ釈然としない。また、これら以外にも 蒐集考案すべき「体(フィールド)」があるかもしれない(多様体とか駆動体とか散在体とか集蔵体とか)。だから、ここでは後の考察のための仮説すら提示で きない。ただ、そういう話題もあったという後の検索のための付箋程度のことを記しておく。そこからなにかが発展するかもしれないし。

 1.「伝導体」については、以前書いた文章[http://www17.plala.or.jp/orion- n/ESSAY/TETUGAKU/31.html]のなかでとりあえずの「定義めいた規定」を考えてみた。

《伝導体とはさしあたり言語(的)構造物類似の何ものかであり、オリジナル(一回性)とコピー(複数性)、無限の論理と有限の論理、大域の法則と局所の法 則、連続性と離散性、潜在性と顕在性等々の相互引用(パラレリズム的な?)にかかわるそれ自体としては空虚な触媒的メディア──私の語感に即していえば媒 質的メディア――として作用しつつ、リアリティ(すなわち時空構造そのもの?)の製造や貯蔵、変換や消失=消費にかかわる演算の集合体として──あるいは ヴォイスやテンスやアスペクトやモダリティといった文法学的諸概念の錯綜体として、もしくはアレクサンドリアからコンスタンティノーブルへと継承されて いった文献学(魂の文献学?)的精神や写本と祈りの修道院的精神を保存し伝達する機構、というより図書館や文書庫といった物質的な場所そのものとして── 自らを形成する働きであるなどと定義めいた規定を与えておきたいと思うのだけれど、それにしてもそれは概念というには曖昧にすぎる。たとえば伝導体と生命 体との異同といった根本的な事柄についてさえ私には結論が出せない。ただ生物個体あるいは自己増殖・複製体もしくは自己体(そういう言葉があるとして)は 伝導体とはまったく異なる種類の実在で、だから身体は半ば伝導体であるが半ばそうではないと考えているのだが、これもまたずいぶん要領を得ない朦朧とした 物言いだ。》

2,「透過体」の出典は、鈴木一誌の『画面の誕生』に収められた「透過体──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』」。
 たとえば、「透過体として見られる二枚のコマは一枚に溶けあうのではなく、二枚のまま近づき遠ざかる。コマが重なり、その重なりを映像的な肉体としなが ら、重なりきらない滲みが運動を湧出させる」(108頁)といったかたちで言及される。一回性の体験の復活、生の複製、夢と通底するもの、生者と死者の重 ね描き、歴史。

《投げだされた映画は、スクリーンによって受けとめられ、観客の網膜に映り、複数のシステムの複合であるだろう「見るしくみ」によって、観客に届く。この 過程全体を映画と呼ぶならば、映画は実体としては存在しない。映画体験は、一回性を身にまとい、上映のつど誕生する。映画はつねに復活するほかない。》 (『画面の誕生』98頁)

《…映画は、生きかえる運動をとおしてしか死者を描けないのかもしれない。(略)写真の静止した時間は、映画の動きによって喚起された、と言えようし、写 真の静止性が、映画に動きや音声、さらに色彩をとり込ませ、「生の複製」性を高めさせたとも考えられる。(略)写真の表層は、遠さへと向かう。写真は、死 者の圏域にあるメディアであるのかもしれない。写真は死者を死なしめ、映画は死者を死なしめない、これが実感に近い、写真と映画ふたつのメディアのちがい であるように思われる。
 いっぽう映画は、時間の面的な表象であるはずのコマ相互を重ね、透過し、位置の変化を読みとることで成りたつ。面と面は接近しようとし、密着した結果の たがいのずれが見られる。そのずれが視覚に運動を発生させるのだが、コマの記憶としては見る者に残らない。面であることは観客のうちに吸収されてしまう。
 生者と死者の区別がつかない点で、映画は夢と通底する。(略)夢のなかではすべてが死者なのだ、と書き手は目覚めながら言うこともできる。》(同104 -105頁)

《あらたな文字を書くためにもとの文字を消した羊皮紙パランプセストや、マジック・メモの消去は、忘却のためにではなく、忘却しないための行為だ。重ね描 きによってこそ、記憶は維持される。(略)他者は不在であり、不在は死者性をともなう。映画は、そのことを現在的に描くのだ。忘却の装置としてではない、 重ね描きの歴史としての映画。映画の目は、いかに自身をまなざすことができるのか。》(同122-123頁)

3.「統合体」の出典は、八木誠一の神学啓蒙書。
 「互いに異なり、それゆえ相互否定的な一面を有する複数の個が、同時に相互否定媒介的にのみ成り立ち、しかも全体としてひとつのまとまりであるようなも の」(『キリスト教は信じうるか』120-121頁)。たとえば音楽。また、精神と肉体との統合体としての人格において成り立つものが「心」である。

《心は肉体からも他者からも切り離された精神のことではなく、何か純粋思惟のようなものでもない。心は対象との関係なしには成り立たない。[略]精神の本 質は統一である。それに対して心の本質は統合[精神と肉体の統合、他の人格との統合:引用者註]なのである。だから厳密にいえば、心と精神は区別すべきな のである。統一を本質とする精神の働きは、本来統合を求める心の働きの一部、一面なのである。》(同148-129頁)

4.「機能体」の出典は、フェリックス・ガタリの『分裂分析的地図作成法』。
 ガタリはそこで、「リアルなものと可能的なもの」「アクチャルなものとバーチャルなもの」の二組の対概念を考え、それらを交叉させた「四つの機能体」を 導き出している。すなわち実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的で現実的 (re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的「テリトリー」(T: Territoires)。

★2月3日(土):クオリアとペルソナ(備忘録3)

 いくら「理論」にかかわることだとはいえ、あまりに抽象的な話ばかりで、書いていて面白くなくなってきた。これではいつまでたっても「クオリア」や「ペ ルソナ」にたどりつけない。そろそろ具象的、というか(抽象との対比でいえば)感覚的な事柄に即した話題に議論を移す。
 その前に、昨日の最後の文に出てきたフェリックス・ガタリの四つの機能体に関連して、もう少しだけ(抽象的で自己言及的な)記録を残しておく。

     ※
 自分のホームページを「ガタリ+機能体」で検索すると、四つの項目[http://www.google.co.jp/search?q=%83K% 83%5E%83%8A%81@%8B@%94%5C%91%CC&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&hl= ja&domains=www17.plala.or.jp&sitesearch=www17.plala.or.jp]がヒットした ので、順番にペーストしておく。どうせ、これ以上のことはいまの時点では考えられないだろうし。

◆私自身は、アクチュアル=エネルゲイア、ヴァーチャル=デュナミスと置き換えたり、アクチュアルで可能的なものを知覚世界での「物自体」に、ヴァーチャ ルで可能的なものを想起世界での「過去自体」になぞらえて考えてみたり、デイヴィッド・ドイッチュに倣って、四つの区域をドーキンスの進化論やテューリン グの計算理論、ポパーの認識論やエヴェレットの多宇宙論になぞらえて考えようとしているのだが、これらはいまだ喃語の域を出ていない。

◆アリストテレスの『心とは何か Peri Psyches/De anima』(桑子敏雄訳,講談社学術文庫)を、懇切丁寧な訳注や適切この上ない訳者解説に導かれ繰り返し読んでいるうち、いま少し掘り下げて調べたり想 像をたくましくしてみたいと思う「論点」がいくつか出てきた。
 たとえば、アリストテレスは「質料は可能態[dynamis]であり、形相は終局態[entelechia]である」とし、プシューケー (psyche:桑子訳で「心」)を「可能的に生命をもつ自然的物体[ソーマ:soma]の第一の終局態」と定義している(第二巻第一章)。桑子氏の訳注 によると、エンテレケイアはエネルゲイア(energeia:桑子訳で「実現態」)とほぼ同義だというのだが、ここに出てくるエネルゲイアとデュナミスの 対概念は、ラテン語の actualitas と virtus に、そして現代語の、たとえば英語では actuality と virtuality にそれぞれ対応している。
 また、アリストテレスがプシューケーの能力として掲げる栄養摂取・生殖能力、感覚能力、思惟能力、運動能力のうち、感覚と思考の間にあるものとされた ファンタシア(phantasia:桑子訳で「心的表象」)はラテン語の imaginatio やドイツ語の Einbildungskraft (カント哲学の文脈で「構想力」)につながるものだろうし、デカルトが使った realitas obiectiva ともあやしげな関係がありそうに思えてくる。[*]
 そうだとすると、希羅仏独英の五つの言語が交錯する概念のポリフォニーもしくは思考的「倍音」を腑分けした結果、ファンタシアは reality と possibility の対概念に関係づけて考えることができるかもしれないし、さらに、先のエネルゲイア・デュナミスの対概念と組み合わせるならば、フェリックス・ガタリが 『分裂分析的地図作成法』(訳書50頁)で示した「四つのカテゴリーの交叉行列」── actuel と virtualite'、re'el と possible の二組のカテゴリーの組合せによって四つの「機能体」の構成法則を示したもの──にもつながっていくと思う。

* ハイデガーの『現象学の根本問題』に準拠した木田元氏の解説によると、デカルトのこの〈realitas obiectiva〉は「スコラ哲学においてと同様、心に投影[オブイエクテレ]された事象内容、単なる表象作用のうちで思い描かれただけの事象内容、つ まりある事象の本質を意味し、〈可能性〉と同義である」のに対して、ラテン語とドイツ語の違いはあれ言葉の形はそっくりな「カントの〈objective Realitat〉は、客観のうち現実化された事象内容を意味し、〈現実性〉と同義である」。《デカルトにあってカントのこの概念に対応するのは、むしろ 〈realitas actualis〉の方で、これは現実化された(actu)事実内容を意味する。》(『ハイデガー『存在と時間』の構築』159頁)

◆仮面は知覚世界と想起世界の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)──そして顔は、それぞれ知覚世界と想起世界の双方にまたがる現実世 界と理念世界(=論理世界=可能世界?)の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)
◎ガタリ『分裂分析的地図作成法』の四つの機能体によって与えられる区域。──実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の 「門」(Φ:Phylum)。実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)。潜在的(virtualite')で現実 的なものの実存的「テリトリー」(T:Territoires)。潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)。
◎ここでたとえば、知覚世界:actuel、想起世界:virtualite'、現実世界:re'el、理念世界:possible、と対応させることは できるだろうか。そして、知覚世界と想起世界を媒介する仮面は時間に関係し、現実世界と理念世界を媒介する顔は空間に関係する、などということはできるだ ろうか。さらに、前者からは心身問題の、後者からは他者問題の「解明」の手がかりが得られる、などといえるのだろうか。
◎いまひとつの(謎めいた)思いつき。その一、顔の解析学。──力の「流れ」を堰き止めつつ解放(微分)する「門」。そして「テリトリー」(土地)を高次 元で造形(積分)すると「世界」が得られる。──その二、仮面のトポロジー。「世界」と「門」をめぐるカフカ的寓意性。そして「流れ」と「テリトリー」 (土地の名?)をめぐるプルースト的単数性。(あるいはジョイス的複数性やバタイユ的過剰性、等々。)
◎ところで‘Univers’すなわち宇宙とは、自らに折り返したもの(universe=unus[one]+vertere[turn])である。そ れこそ「虚ろな器」の造形原理ではないか!──盤にせよ碗にせよ壷にせよ、そして管にせよ、いずれも「自らに折り返したもの」なのだから。(かくして仮面 的なものは「時間問題」「心身問題」に加えて「自己(意識)問題」にまでかかわっている?)
◎あるいは(ジンメルが準拠している?)ショーペンハウアーの世界の四区分に対応させること。──たとえば、表象としての世界とは知覚世界であり、意志と しての世界とは想起世界である、そしてイデアとは現実世界を積分する(すなわち possible な)表象であり、物自体とは理念世界を微分する(すなわち re'el な)意志である、などということができるのだろうか。

◆ガタリの四つの機能体とは、実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的で現実的 (re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的
「テリトリー」(T:Territoires)、潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)のことなのですが、これでは何 のことやらさっぱりわかりません。私自身は「リアルなもの=実」「可能的なもの=虚もしくは無」「アクチャルなもの=現」「バーチャルなもの=空もしくは 夢[む]」と訳して、現実だとか空虚だとかの概念を導き出せないかと考えをめぐらせてはいるのですが、これもまた夢現の類でしかありませんし、だからどう なんだと自分でも思います。

     ※
 自己引用した上の文章以外にも、たとえば「世界の界面」[http://www17.plala.or.jp/orion- n/ESSAY2/9.html]でガタリの四つの機能体をとりあげていた。斎藤慶典著『フッサール 起源への哲学』への「書評」[http: //www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI2/120.html]にも関連する記述があった(アクチュアリティ=生き生き感、 リアリティ=ありあり感とか、‘intentionality’=導きといった魅力的な訳語が出てくる)。
 まだまだ探せばみつかるだろうが、きりがない。以下は、後日の作業へ向けた自己註めいた覚書。

◎「アクチュアル=エネルゲイア」「ヴァーチュアル=デュナミス」の系譜が、中世スコラ哲学における概念のアマルガムを経て、「アクチュアリティ=実存= 永劫回帰」「ヴァーチュアリティ=本質=力への意志」につながっていったことは、どうやら確からしい。
◎しかし、これを「アクチュアル=知覚世界」「ヴァーチュアル=想起世界」に置き換えて考えるのは、少なくとも等号で結ぶのは間違っているような気がす る。カテゴリーが違っているような気がする。(でも、エネルゲイアとデュナミスの系譜から中世スコラ哲学を経て、ベルクソン、メルロ=ポンティ、そしてア フォーダンス理論へとつながる導管があるようだから、このアイデアを早々に葬り去るわけにはいかない。實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』〔http: //www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI3/262.html〕参照。)
◎一昨日の「備忘録1」で、「実存/本質」と「実証思考/抽象思考」の二つの二項対立の組み合わせで「クオリア」や「ペルソナ」を整序した。この線でいく と、「実証思考/抽象思考」が「リアル/ポッシブル」に対応することになりそうだが、それも違うような気がしないでもない。

 余談を挿入。今日の冒頭、「具象的、というか(抽象との対比でいえば)感覚的」と書いた。これは、昨年の1月15日[http: //d.hatena.ne.jp/orion-n/20060115]に引用した養老孟司(『無思想の発見』)の定義──感覚世界と概念世界の重なりが 言葉である、言葉は「同じであって、違うものだ」、云々──を念頭においている。
 何が言いたいのかといえば、「実証思考/抽象思考」は「感覚世界/概念世界」に対応しているということ。これが「リアル/ポッシブル」に対応していれ ば、一昨日の記述は的を射たものになる。(的を射ているかどうかはどもかく、ガタリの四つの機能体につないでいくことはできる。つながったからどうなん だ、と問われても、答えはない。)
 余談をもう一つ。「実証思考/抽象思考」のペアも養老孟司(『日本人の身体観』)から採った。西洋における「自然科学/キリスト教神学」に相当する日本 の「実証思考/抽象思考」は「歌論/仏教思想」である。このことも、昨年の1月5日[http://d.hatena.ne.jp/orion- n/20051005]に書いた。
 少し先走って書いておくと、ここに出てきた日欧精神史を関係づける四項目のうち「キリスト教神学」が「ペルソナ」に、「歌論」が「クオリア」に関係して くる。

◎「実存/本質」のペアは「現実世界/理念世界」と(言葉の響きだけ聞くと)親和的で、だとすると「リアル/ポッシブル」のペアと(同様に)親和的であ る。
◎そもそも「リアル/ポッシブル」は「リアル/イマジナリー」の方が響きがいい。等々。

 混乱している。混濁している。困惑している。あらゆるものを「四つの機能体」に集蔵しなければ気がすまなくなっている。考え方を修正しておく必要があ る。
 「四」のなかに「四」が入れ子式に繰り込まれているのかもしれない。あるいは、「四」から「四」が立ち上がってくるのかもしれない。「四」が「四」に重 ね描きされているのかもしれない。「四」から「四」が炙り出されるのかもしれない。

★2月4日(土):川端康成のこと・その他──クオリアとペルソナ(備忘録番外)

 にわかに川端康成への関心が高まっている。
 きっかけは、このところ専念している「クオリアとペルソナ」をめぐる考察を、島崎藤村の『夜明け前』と川端康成の『雪国』の、いずれもよく知られた書き 出しの文章の比較から始めようと思いつき、そのためには『雪国』をきちんと読み直さなければいけないと、殊勝にも新潮文庫を買い求め読み始めてみたら意想 外に面白い、どころかこれはとんでもない作品だと気づいたことにある。
 読み直す、と今書いたけれど、この作品を本当に読んだことがあるのか、それはいつのことなのか、記憶がはっきりしない。『伊豆の踊り子』だって、読んだ かどうか記憶がさだまらない。確実に言えることは、大学生になった年、川端康成のガス自殺の報に接して、唐突感(その自死にはなんの必然性も物語性もな い、遺書さえない)と違和感(あまりに散文的、というと散文家の死を形容するのに妙にアイロニカルな響きがともなうが)を覚えたこと、数年前に『山の音』 〔http://www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/39.html〕を読みいたく魅了されたことくらいで、私の川端体験 はいかにも貧弱だ。
 とにかく『雪国』はすごい小説で、通りすがりのように冒頭だけ取り上げて適当な思いつきを書いてすますのは軽率きわまりない。ではいったいどこがどうす ごいのか、川端作品をひとあたり読み込む作業へと迂回しながら、いちど自分なりに言葉にしておかないといけない。そう思いたって、たまたま『芸術新潮』の 2月号が「おそるべし!川端康成コレクション」を特集していたのでさっそく買い求め、福田和也と高橋睦郎の対談「本人もコレクションもおそろしい」に目を 通してみたら、いきなり福田和也が「大学の修士に行ってフランス文学を読み込んだ後、なにかのきっかけで『雪国』を読んだら、これはとんでもない小説だと 驚いた」と語っていた。

《ヨーロッパの世紀末文学の理想、ボードレールやワイルド、リラダンが求めて果たさなかったデカダンの理想を実現してしまった作品です。
 デカダンスにはいろいろな見方があると思いますが、近代的人間性を徹底的に否定するインヒューマニティ、その残酷さが持っている美を極限まで押し進める とあの小説の世界になるのだと思いますね。主人公の設定もそうですし、それから自然の描写ですね。人間性をはっきり拒絶したところから出てくる自然を描い ていて、メタリックといってもいいような突き抜けた力があって、ニヒリズムすら必要としない無情さが溢れている、これは本当におそろしい作家がいるという 感覚を持ちました。》

 「メタリックといってもいいような突き抜けた力」や「ニヒリズムすら必要としない無情さ」といった言い回しに導かれて『日本人の目玉』(ちくま学芸文 庫)を購入し、そこに収められた福田の川端論「いつでもいく娼婦、または川端康成の散文について」を読んでみたら、川端康成は「射精を恐れない」とか、川 端康成の「無感覚」といった、蠱惑的な言い回しが出てきた。

《翻って言えば、川端的な視点に立つのならば、文章を書くという事は、何らかのメッセージを、情報を、受け手の理解にむけて伝達することではない。そのよ うな営為を通して、地平なり枠組みなり世界なりを虚構することではない。書くことは、何よりもこの流れ〔「滅びても滅びない」ものの「寂しい流れ」〕を、 受け手と投げ手、意図と理解を等しなみに押し流して露呈するけじめのない、魔界の広がりに呑み込んでいくことにほかならない。自分が他人であり、他人が自 分であるようなけじめのない場所を作り出すこと。
 谷崎潤一郎的な、近代的な散文が、射精にむけて、つまり伝達や理解といった絶頂に向かい、その迂回と遅延を巡って形作られているとするならば、川端のそ れは、射精といく事が過ぎた後の、自他を溶かし不分明にしていく太々しい持続を原基としている。》(287頁)

《最早、引用という事をしたくないので、どのような作品でもいから、川端の文章を手にとって欲しい。そうすれば、その文章が、常に語られる感受性の豊かさ によってではなく、むしろ無感覚によって成り立っていることが分かるだろう。主体と客体、自分と他者、現在と過去、原因と結果というあらゆるけじめを押し 流すアパシィによって川端の文章は成り立っており、その文がなすのは、伝達ではなく、露呈であるという事があきらかだろう。
 日本の山河を魂とするという川端の誓いは、いった後の睦言の冷えの中で、書く事は何よりも、意味やイメージを伝えるのではなく、あらゆるけじめのない広 がりを共有し侵食することだと囁き続ける。「あなたはどこにおいでなのでせうか」(「反橋」)。》(290頁)

 ここまで言われたら、読まずにはおられない。で、『雪国』とあわせて『文豪ナビ 川端康成』(新潮文庫)まで買って読んでいる。

 もう一つ書いておこう。先日、古本屋めぐりをしていて、ふと目にした中村真一郎の『女体幻想』(新潮社)がどうしても欲しくなって、いったん帰りかけた のにまた戻って入手した。ずっと以前から、『四重奏』四部作(「仮面と欲望」「時間の迷路」「魂の暴力」「陽のあたる地獄」)など中村真一郎の官能小説 (性愛幻想小説というべきか)に惹かれていて、いつか読みたいと思っていた。
 それが川端康成とどう関係してくるのかというと、新潮文庫の『みずうみ』の解説を中村真一郎が書いているといった程度のことではなくて、もっと深いつな がりがあるに違いないと(山勘で)思う。
 これもまたどうでもいい話題だが、ウィキペディア〔http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D% 91%E7%9C%9F%E4%B8%80%E9%83%8E〕に、中村真一郎が「福永・堀田善衛とともに「発光妖精とモスラ」という作品を合作し、これ が映画『モスラ』の原作になった。ただし、彼らに原作料はわずかしかはいらなかった」と書いてあった。

     ※
 福田和也の「ヨーロッパの世紀末文学の理想、ボードレールやワイルド、リラダンが求めて果たさなかったデカダンの理想を実現してしまった作品」という 『雪国』評を読んで、なぜか藤原定家を想起した。どうせ、丸谷才一経由の「王朝和歌=モダニズム文学説」あたりからの連想なのだろうが、新潮文庫の『雪 国』の解説(竹内寛子「川端康成 人と作品」)の次の文章などを読むと、なかなかどうして深く暗い導管が透けて見えてくるような気がする。

《私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍さ せたりする谷崎潤一郎の文学と較べてみると、少なくとも一つのことははっきりするように思う。それは,谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端 文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋がっているということである。 (略)谷崎潤一郎の、自国の文学享受が、王朝と江戸と西欧との混淆というかたちで生かされているのに対し、この作家の場合は、王朝と中世と西欧とが重なっ ていてこれ又独自であり、その中世では、軍記物語のたぐいよりも歌と歌論、つまり詩と詩論のたぐいに、より積極的な関心の厚さが見えるのも注目されてよい ことと思われる。》

 「射精を恐れない」川端文学が「本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋がっている」。面白い。「モノローグ」が和歌につながる点 にはひっかかりを感じるが、それはドラマのダイアローグとの比較でいわれていることなのだし、また、和歌という宴のうちにやどる孤心(大岡信)というもの もあるのだから、まあよしとしよう。
 新潮文庫の『雪国』には、伊藤整の「『雪国』について」という文章も付いていて、そこでは『雪国』という「抒情小説」が『枕草子』から俳諧へという流れ のうちに位置づけられている。

《『枕草子』にある区別と分析と抒情との微妙な混淆を、どこの国にもとめることができよう。
 『雪国』はその道を歩いている。『枕草子』の脈は、私は俳諧に来ていると思う。それは和歌の曲線を不正確として避けた芭蕉、いなそれよりももっと蕪村に 近いあたりをとおり、現代の新傾向の俳句の多くにつながる美の精神である。そして、突如、泉鏡花において散文にほとばしり、それ以後散文精神という仮装を して現われた物語文学に押しのけられ、押しつぶされて消えそうになりながら消えず、文学の疲労と倦怠の隙間ごとに明滅していたが、川端康成において,新し い現代人の中に、虹のように完成して中空にかかった。》

 『雪国』は和歌なのか、俳句なのか。どっちでもいいといえばいえようが、実は、『夜明け前』と『雪国』の書き出しの文章を比較して、「木曾路はすべて山 の中である」は俳句で、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は和歌だ、それはそこに時間が織り込まれているかどうかによる(運動が織り込まれて いるかどうかによる、というのとどう違うか、そのことはいつかドゥルーズの『シネマ』を読んでから考えよう)、といったあまり根拠のない決めつけでもって 論考をはじめようと目論んでいた。それはもう断念したこととはいえ、

「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる 谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」

と、こうやって書き出しの最初の段落を抜き書きしてみると、要するに『雪国』は和歌か俳句か、やっぱり気になってくる。

     ※
 『雪国』の主人公(といっていいのかどうか)島村について、川端康成は、「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子をうつす 鏡のようなもの、でしょうか」と語っている。
 先走って、しかも説明抜きで書いておくと、私はこのことを知ったとき、やはり『雪国』は四人称で書かれた小説だったのだと思った。「鏡」としての島村 は、まさにカメラ・アイにほかならず、だからこれは死後の世界、死者たちの世界の物語なのだと思った。なにが「だから」なのかよく分からないが、「川端の 作品では、死者が平気で登場人物として現れる」(福田和也『日本人の目玉』275頁)。これに対して『夜明け前』は文字どおり、生前の物語なのだ(これも よく分からない)。
 補遺。四人称に関して、最近、小田マサノリという人に「見よぼくら四人称複数イルコモンズの旗」(『現代思想』03年2月号)という論考があることを 知った〔http://www.godard.jp/ourmusic/ourmusicbakuretsutalkshow3.htm〕。

 ところで、新潮文庫の注解に、上の川端の言葉を受けて「能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか」とある。ちょっとこれはどうかと思う。だいい ち、能のシテは死者と相場が決まっている。死者はむしろ島村ではないか。「男としての存在ですらない」島村は、少なくとも男としては死んでいる…。でも、 「西行桜」では桜の精がシテで、西行がワキになっている…。駒子は動物の精で、葉子は植物の精で…。ますますわけがわからなくなってきた。

     ※
 「内田樹の研究室」の2006年06月18日の記事「死をめぐる二つの考察」〔http: //blog.tatsuru.com/archives/2006_06.php〕を思い出した。「死者とのコミュニケーション」について書かれた部分 がここでの話題に関係しそうなので、ペーストしておく。何度読んでも痺れる。

《土曜日は大阪の朝日カルチャーセンターで釈先生と「現代霊性論」のシリーズ三回目(このシリーズは去年の後期に大学の講義でやった話の続き。四月から六 月まで大阪、七月に東京でやってとりあえず打ち上げ)。
喪の儀礼、死者とのコミュニケーションという重い問題を最後に取り上げる。
複式夢幻能という演劇形式が精神分析のセッションと同型的な構造を持っているということはよく指摘される。
前シテが分析主体(患者)で、ワキが分析家(医師)である。
ある「痕跡」をワキがみとがめて、そこに立ち止まる。
そして、「ここでいったい何が起きたのだろう?」という問いを発する。
その問いに呼応するように「影の薄い人間」(前シテ)が登場して、歌枕の来歴について説明を始める。
説明が続いているうちに、しだいに前シテは高揚してきて、やがて「ほんとうのことを言おうか?」というキーワードをワキに投げかける。
ワキがそれに応じると同時に舞台は一転して、「トラウマ的経験」が夢幻的に再演される。
後ジテが「死者」としてそのトラウマ的経験を語り、それをワキが黙って聴取することによってシテは「成仏」する(しない場合もある)。
「成仏」というのは要するに「症状の緩解」ということである。
能のこの構成はおそらく喪の儀礼の古代的形態を正しく伝えている。
そこには二人の登場人物が出てくる。
「痕跡」(症状)を見て、そこでかつて起きたこと(トラウマ的経験)をもう一度物語的に再演することを要請する生者。
その要請に応えて、その物語をもう一度生きる「死者」。
この物語は「演じるもの」と「見るもの」がそのようなトラウマ的事実があったということに合意署名することで完了する。
時間を遡行できない以上、その物語が事実であったかどうかを検証する審級は存在しない。
ということは、その物語は事実であっても嘘であっても、コンテンツは「どうでもいい」ということである。
手続きだけが重要なのだ。
それが「儀礼」ということである。
能の前シテが「影の薄い人物」であるということも重要である。
それはただの通りすがりの「誰でもいい人」(Mister Nobody)である。
あるいは、そんな人物はそこに通りがかりさえしなかったのかもしれない。
というのはほとんどの場合、ワキは長旅で疲れ果てて、人里離れたところで呆然と立ちつくしているところから物語は始まるからだ。
これは「入眠幻覚」にとって絶好の条件である。
前シテも、後ジテも、ワキが出会ったと思っている人はもしかするとはじめから最後までそこにはいなかったのである。
もしかすると、ワキは疲れ果てて短い夢を見ていただけなのかも知れない。
重要なのは、「それでよい」ということである。
むしろ、「そうでなければならない」ということである。
それが死者とのコミュニケーションの正統的なかたちなのだ。
たぶん死者が私たち生者に告げようとしているメッセージも、彼らが語る驚くべき物語も、生者が無意識的に構築したものなのである。
ラカンがただしく述べたように、分析においてもっとも活発に活動しているのは分析家の欲望だからである。
私たちは「自分の欲望」をつねに「死者からのメッセージ」というかたちで読む。
自分の欲望を「私はこんなことをしたいです」とストレートな文型で表白しても、そんなものには何のリアリティもありはしない。
そんなものは小学校の卒業文集の「将来なりたい人間」に書いた文章と同じように、私たちが自分自身についてどれほど貧しい想像力しか行使できないのかを教 えてくれるだけである。
私自身の貧しい限界を超えるような仕方で「私の欲望」を解発するためには、どうあってもそれは「他者からのメッセージ」として聴き取られねばならない。
そして、あらゆる他者のうちでもっとも遂行性の強いメッセージは死者からのそれである。
「死者からのメッセージ」はその定義上「書き換え不能」だからである。
そして、「死者からのメッセージ」として読まれたときに「私の欲望」はその盤石の基礎づけを得ることになる。
ラカンはこう書いていた。
「言語活動において、私たちのメッセージは『他者』から私たちのもとに到来する。それも、逆転した仕方で」(dans le langage notre message nous vient de l’Autre, et pour l’e´noncer jusqu’au bout : sous une forme inverse´e) E´crit I, Seuil, 1966, p.15
私たち自身の欲望の表明を、私たちは「他者」からの「謎のことば」として聴き出す。
それが「喪の儀礼」の本質構造である。
それは私たちが「自分のことば」をもってしては決して語ることのできない「私の欲望」を言語化する唯一のチャンスなのである。
喪の儀礼とは「死者は私たちに何を伝えたかったのだろう?」という問いを繰り返すことである。
そして、この問いこそが「私の欲望」を解錠し、私が私の限界を越えて生きることを可能にする決定的な鍵なのである。
人類が他の霊長類と別れるきっかけになったのは、たぶんこの問いが念頭に浮かんだその瞬間だからである。》

★2月5日(月):クオリアとペルソナ(備忘録4)

 一昨日の「備忘録3」で、西洋における「自然科学/キリスト教神学」に相当する日本の「実証思考(感覚世界)/抽象思考(概念世界)」は「歌論/仏教思 想」で、「キリスト教神学」が「ペルソナ」に、「歌論」が「クオリア」に関係してくる、と書いた。
 もしそうだとすると、例の「クオリア─志向性─言語─ペルソナ」の残り二項のうち「志向性」が「仏教思想」に、「言語」が「自然科学」に関係してくるこ とになる。と、無理やり考えてみる(「関係してくる」とは、曖昧な物言いだが)。
 これらのことと、「備忘録1」の最後に書いたこと──「クオリア=実証思考(感覚世界)+実存(エネルゲイア)」「志向性=抽象思考(概念世界)+本質 (デュナミス)」「言語=実証思考(感覚世界)+本質(デュナミス)」「ペルソナ=抽象思考(概念世界)+実存(エネルゲイア)」──を重ね合わせてみ る。
 その上で、たとえば歌論は「クオリア(物の心)」と「言語(表現された心)」との関係を「志向性(歌の姿)」や「ペルソナ(歌の心)」を媒介として探求 するものであり、仏教思想は「志向性(言語道断、不立文字の不思議界=実相)」と「言語(現象界=諸法)」との関係を「ペルソナ(空)」や「クオリア (色)」を媒介として探求するものである、等々のまことしやかな「仮説」をでっちあげてみる。
 自然科学(自然現象を法則=数学言語で表現)やキリスト教神学(初めに言葉ありき)についても、同様の思いつきをいろいろと考案してみる。
 さらに、歌論を基点に連歌論や俳論、芸能論、とりわけ能楽論へと視野を広げ、リアルな身体(老体・女体・軍体)とイマジナリーな仮面(ペルソナ)、アク チュアルな生者(ワキ)とヴァーチュアルな死者(シテ)の四項をめぐる「複式夢幻」モデルを打ち立ててみる。
 仏教思想や自然科学やキリスト教神学についても、同様の思いつきをいろいろと考案してみる。
 無茶苦茶なことを書いているのは重々承知で、それでも、そんな概念の積み木遊戯を繰り返しているうち、ひょっとしたら誰も考えたことのない「問題」が炙 り出されてくるかもしれないし、本物の「理論」が立ち上がってくるかもしれないと思う。それだけはやってみなければわからないではないか。

★2月11日(日):脳もまたイマージュである

 「クオリアとペルソナ」の方は、先週いっぱいかかって、第1回「哥とクオリア」の三分の一ほど書いたところ。予想外に長くなってしまって、といっても半 分以上は引用か祖述、残りの半分は言い訳か予防線かせいぜい伏線のようなゴタクばかりで、書いていてもまるで気分が紅葉、いや高揚してこない。第一、発見 がない。
 永井均著『西田幾多郎』の議論を歌論にひきつけて読むという趣向なのだが、だからどうなの、という声が自分のなかから聞こえてきて嫌になる。だから「備 忘録」の続き、抽象理論篇に対する実証篇(素材蒐集と問題集)もまるで書く気になれない。だからしばらく中断して英気を養うことにした。そのまま終わって しまうかもしれないが。

     ※
 ちくま学芸文庫から『物質と記憶』の新訳が出た。前作『意識に直接与えられたものについての試論』に続いて合田正人氏が、今度は「若手のペルクソン研究 者」松本力氏と組んでの共訳。
 ベルクソン独り読書会の方は、ドゥルーズ編集の『記憶と生』が昨年の8月以降中断したままになっている。読むのが嫌になったわけではないが、アンソロ ジーだといまいち乗れない。やはりこの本は主著をひととおり読んでから取り組むのがいいように思う。
 ベルクソン熱はいつまでも冷めない。この間、「ベルクソン研究家」の渡仲幸利氏が書いた『新しいデカルト』を読み、また篠原資明著『ベルクソン──〈あ いだ〉の哲学の視点から』を読んで、ますますその気持ちが募っていく。恋心のようなものかもしれない。だから週末を迎えると、いまでも心が騒ぐ。あの『物 質と記憶』を毎週末に熟読玩味していた頃の幸せな時間をとりもどしたいと切に願う。
 だったらもう一度読めばいいようなものだが、白水社全集版は、二種類の色の蛍光ペンでマーカーを引きまくっているし、その上に鉛筆で線を引いたり強調 マークをつけたりびっしり書き込みをしたりしていて、とても汚い。装丁もぼろぼろになりかけていて、持ち歩いて読むには適さない。かといって岩波文庫版は 復刊されたのを買い忘れたし、それにあの活字の組み方ではでは眼にきつい。
 そんなこんなで欲求不満をためていたところに、ポータブルな文庫本で新訳が刊行された。「今日、心脳問題への関心の中で、その重要性がいっそう、高まる 主著」とカバー裏に書いてある。「脳もまたイマージュである/心身問題の画期的展開」と腰巻に書いてある。それはそうかもしれないが、『物質と記憶』を心 身問題や心脳問題への関心だけで読むのは、ミスリーディングだとまではいわないけれども、あまりに矮小化しすぎでもったいない。
 じゃあ、『物質と記憶』をどう読めばいいんだ、と問われても答えはない。つい、気持ちが高ぶってそう書いただけのことなのだから。その答えは、もう一度 あたまからじっくり読み込んでからみつけることにして、まずは共訳者による解説とあとがきにざっと目を通して、かつての熟読体験(恋愛体験のような)を思 い浮かべることから始めるか。

★2月12日(月):ミシェル・ビュトール『時間割』その他

 好天気に恵まれた三連休がさっさと素通りしていった。とりとめのない雑然とした印象しか残っていない。
 永井均『西田幾多郎』の三度目の通読を終え、ためいきをつき、中村真一郎『女体幻想』の「1乳房」と『坂部恵集1』の月報(柄谷行人と鷲田清一)と「人 間学の地平」の序文を読み、ためいきをつき、『物質と記憶』の解説とあとがきと『サライ』の落語特集を読み、付録のCDで落語を聴き、図書館で借りてきた 伊藤邦武『パースの宇宙論』と富岡幸一郎『悦ばしき神学──カール・バルト『ローマ書講解』を読む』とベンジャミン・リベット『マインド・タイム──脳と 意識の時間』と内田樹×三砂ちづる『身体知──身体が教えてくれること』の背表紙を凝視し、ためいきをつき、ようやく本箱に整理できた「蔵書」を眺め、た めいきをつき、川端康成『美しい日本の私 その序説』英訳つきと中村真一郎『色好みの構造──王朝文化の深層』を買い、ハンナ・アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』と藤枝守『増補 響きの考古学──音律の世界史からの冒険』は買わずに、今度こそ書こうと決めていた確定申告の書類は放置したまま三連休は静かに死んでいった。

 読み終えたばかりのミシェル・ビュトール『時間割』の感想文でも書くかと思ったけれど、この五部構成の作品は記憶語り(過去の月日の浚渫作業、時間割の 綿密な再構成)の五つの方法によるカノン(輪唱)の形式をとっていて、それらが錯綜していくにつれてそこで書いているのはルヴェルなのかブレストンなの か、書かれているのはルヴェルのブレストン滞在一年間の個人的な記憶なのかブレストンという中世都市の血塗られた歴史なのかが濁った牛乳まじりの陽光のよ うにしだいに曖昧になっていく──と思いついたところでそんなことはとっくに作者自身が自作解説のなかで明かしている(と訳者の解説に書いてあった)し、 第一、小説の「時間構造」や作品世界の礎石のところにしつらえられた二つの神話(旧約聖書のカインとギリシャ神話のテセウスの物語)や作中にしつらえられ た推理小説(『ブレストンの暗殺』)とのつながりの構造などを暴いてみせたところでそれはそれだけのことで、五つの記憶語りがオーバーラップする最終章は かなり難渋したものの総じて読み進めていくことの愉悦を与えてくれた(ゴダールの『勝手にしやがれ』のようなタッチで全編ルヴェルのモノローグつきの映画 にしたら面白いだろうと思った)この作品の「時間構造」や構築された(あるいは断片のまま放置された)物語世界のなかでどういう体験をしたかを我と我が身 を抉るようにして書いてみないと何も書いたことにはならない。

★2月18日(日):非人格的な感情/感覚質の宇宙/精神の結晶

 図書館で借りて、読まずに継続を繰り返しているうちに予約が入ってしまったので、伊藤邦武著『パースの宇宙論』(岩波書店)を購入。新品同様のものを、 古本屋で800円引きの2千円で買った。とりあえず、プロローグ「ヴィジョンとしての多宇宙論」とエピローグ「素晴らしい円環」を駆け足で眺めた。この本 をまともに読み始めたら、たぶん数ヶ月はパース一色で染め上げられてしまう。
 パースの三つのカテゴリー論(伊藤氏はこれを三つの基本的エレメント、「三大」と呼ぶ)など、いま苦しんでいる「哥とクオリア」のテーマそのものだし、 プロローグに引用されていたパースの次の二つの文章は、破壊的なまでに面白い。

《無限にはるかな太初の時点には、混沌とした非人格的な感情があり、そこでは連絡もなければ規則性もなかったがゆえに、現実存在というものもなかったと考 えられる。この感情は、純粋な気紛れのなかで戯れているうちに、一般化の傾向というものの胚種を宿し、それには成長する力がそなわっていたのであろう。こ うして習慣化する傾向というものが始まり、そこから、他の進化の原理とともに宇宙のあらゆる規則性が残存し、それは世界が絶対に完全で、合理的で、対称的 な体系になるまで存続することであろう。精神もその無限に遠い未来において、最終的に結晶するのである。》(「理論の建築物」)

《われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体から遺され た残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖堂や寺院が壮麗な 全体をなしていたことを証言しているのと同じである。しかし、その広場が実際に建立される以前にも、その建築を計画した人の精神のうちには、ぼんやりとし て不十分な現実存在があったことであろう。まさしくこれと同様に、わたしはあなた方に、存在の初期の段階には、現在のこの瞬間における現実の生と同じくら い実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだと考えてもらいたいと思う。この感覚質の宇宙は、それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものに なる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していたのである。》(『推論と事物の論理』,『連続性の哲学』(岩波文 庫)第6章「連続性の論理」257頁)

★2月25日(日):概念のポリフォニー

 ラテン語のペルソナは、三位一体の神の三つの「位格」(父・子・聖霊)を示す語として採用されるはるか以前から、劇場での仮面や劇中の人物、文法上の人 称などの意味をもつ語として使用され、キケロ以降、法的人格や社会的役割、人柄、さらに抽象的な「人間」(英語の person につながる)など、その意味を広げ今日に至っている。これは、坂口ふみ著『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』からの受け売りです。
 ところで、この書物には、東方ギリシア語圏のキリスト教神学では、神の三つの位格を示す語として「ペルソナ」ではなく「ヒュポスタシス」が使われていた ことが記されています。この、プロティノスが好んで使った語は、「下に立つ」という意味の動詞から生じた名詞(ラテン語 substantia の語源)で、その古い意味に「液体の中の沈澱物、固体と液体の中間のようなどろどろしたもの」があります。このことを踏まえて、坂口氏は、「ヒュポスタシ スは比較的新しいヘレニズム・ギリシア語で、存在のアクチュアリティー、実存、といったニュアンスをもち、動的はたらき、流動のうちのいっときの留まり、 という性格をもつ」と書いています。
 では、これらまったく出自を異にするする二つの語が、西方キリスト教神学においてなぜ等置されたのか。『〈個〉の誕生』は、古代ギリシャから中世キリス ト教世界へと響き渡る微細な「歴史の倍音」の聴き取りを通じて、ギリシャ語のヒュポスタシス(沈澱・基礎)とラテン語のペルソナ(仮面)の等置という「概 念のポリフォニー」が生じるに至った経緯を、余すところなく描ききっています。その詳細に立ち入ることはできないので、ここでは、ヒュポスタシス=ペルソ ナという多義的な概念が孕むことになった、豊饒かつ多様なその後の思想的展開に説き及んだ一節を、長くなるけれども加工や省略の手を入れずにまるごと抜き 書きしておきます。

《なぜ沈澱イコール仮面なのか? それはさきに述べたように、「沈澱」は流動する存在の流れのうちのいっときの留まりであり、仮面は舞台と劇のうちの一役 割であり、共に交流の一結節として存在をもつものであり、しかも共に、この時代には「個存在」の意味をもつ語であったからだということは、すでに述べたと おりである。これは静と動を併せ、個存在と交流を併せる、矛盾と多様をうちに含む概念であった。さらにその「動」「静」「交流」「個」はヒュポスタシスで は存在的・宇宙的なもの、ペルソナでは社会的・人間的なものであった。このようにして、この概念ほど包括的なものはまたとないような概念が生じてきた。
 広義な概念はいくらでもある。しかし、うちに矛盾を含むことをその中核とする概念というのはめずらしい。ヒュポスタシス=ペルソナという概念はまさにそ ういう概念である。しかしこれは、その由来、つまりキリストという複雑で逆説的な存在を言いあらわすために生じてきたということを考えれば、当然なことで ある。そしてこの、矛盾を本質とする、しかも、人間的・宗教的要請の筋金で一本太く貫かれている概念が、キリスト教を母体とするヨーロッパの思想の営みに (意識的・無意識的に)与えてきた影響は絶大なものがあると思われる。ヨーロッパ思想の胚種、原動力、ストアなら種子的理性〔ラチオ・セミナーリス〕とで も言うだろうものが、この名で呼ばれているのである。
 この概念はまったくの空虚とも解されうるし、また逆に存在と生の充実そのものとも解されうる。「本質」や「構造」を人間の内実と見る立場からは、どうし てもそれに解消されきれない残渣、どうしても本質からは説明できない存在性という、理論にとっての必要悪、じゃまなものであり、学問の枠からはみ出る傍若 無人な、計算できない厄介者である。
 他方逆の立場からは、それは世界の存在の根源であり、人間の人格性や自由の源であり、理性的・情意的なあらゆる活動の源でもある。アウグスチヌスによっ て、内省のうちにあらわれる「わたくし」ととらえなおされたこのものは、デカルトのコギトを通して、カントの空虚な先験的主観の統一のはたらきにもなって いった。これはヒュポスタシス=ペルソナの一つのすぐれた解釈と言えよう。フッサールの「超越論的主観性」もこれを受けつぐものであることは言うまでもな い。
 人間の芯であり、全存在の芯でもあるこのものは、ポジティヴに見ればあらゆる限定を超え、あらゆる限定を統合・包括するもの、「存在の充溢」でもあり、 ネガティヴに言えばまったくとらええぬもの、「無」「空虚」「残渣」でもある。
 「わたくし」の主観の集約をもたらしたこのものは、また、「非−わたくし」的な、私の意識を完全に超える、意識的、または無意識の、宇宙的な生と存在の 流動とも解されうる。したがってこれは個別者とも考えられるし、全体とも考えられる。ネオプラトニズムのヒュポスタシスはまさしくそのようなものであり、 キリスト教のヒュポスタシスもその色を濃く保っている。とくに東方ではこの傾向が強かったことも、何回か述べてきた。
 さらにこの生と存在の流動も、一方では欲望や欲求やリビドーの流れとも解されうるし、他方ではエラン・ヴィタールのようにも解されうる。人間を動かし、 支え、生むものとして、ヒューマニズムの根にもなりうるし、理性的で意識的であるはずの人間の本質とは異なる、形なき流動として、反ヒューマニズムの根を 形づくることもできる。
 同様に、自でもあり他でもあるこのものは、レヴィナスのような「絶対的他者への開け」の考えを支えることもできるし、逆にすべてを呑みこむ同一的なエネ ルギーの思想を生むこともできる。「わたくし」として一回きりの顔をそなえたものでもあり、また顔なきエネルギーとも解されうる。理性を生み、まず理性と 結びつくものとも考えられる──理性の普遍性・交流性をペルソナのそれの中心をなすものとしたトマスのように。しかしまた、多くの近代の生や物質や欲望の 哲学のように、理性に反するもの、理性をあやつる力とも考えうる。
 それぞれ細かく差異化され、時には正面から対立するようにみえるこれらの諸思潮に、しかしきわめて大まかに見れば共通の構図が一つないだろうか? その ときどきの限定と制約と固定化への異議申したてという「ビザンツ的インパクト」がそこに働いていないだろうか? そのインパクトはしかし、「本性」や「構 造」や機構を否定的に超えると共に、それらを自ら創り出すものでもある。それはすでにネオプラトニズムの体系がそうだった。キリスト教の神も、もとよりイ デア世界・物質世界の創造者であり、キリスト教はこのとらえがたい個の概念を基本にして、あれほどのスコラの体系と、強大な教会の制度・組織を造ったの だった。》(280-282頁)

 これほどまでの壮大さと射程の奥深さをもった文章を目にしたら、あとはもう、ただひたすら反芻・玩味・検証し、沈黙のうちに撤退するしかなすべきことは ないのかもしれませんが、あえて言葉を紡ぎ出すとすれば、ここには、クオリアをめぐる問題と同型のものが、とりあえずは「主体」の成立と呼んでおいてさし つかえのない事象をめぐって、生じているのではないか。すなわち、「キリストという複雑で逆説的な存在」あるいは「とらえがたい個の概念」(ヒュポスタシ ス=ペルソナの概念)という、言葉を超えた暗号をいかにして言葉(ロゴス)のうちに捕捉するか、という困難な課題が潜んでいるのではないかと思うのです。 (「哥とクオリア」から)

★2月26日(月):哲学を伝える(解説する)こと=独立に哲学をすること──永井均『西田幾多郎』

 西田哲学(絶対無の哲学)の核心の上に、これとは「区別することはできない」永井哲学(独在性の〈私〉をめぐる形而上学、もしくはその論理−言語哲学 ヴァージョンとしての開闢の哲学)の核心を重ね描いた西田=永井哲学の「解説書」。

 言葉と独立にそれだけで意味を持ちうる生の事実(体験)と、そうした事実とは独立にそれだけで意味を持ちうる言葉(概念)という、二つのものがある。
 ほんとうは、「二つのものがある」などと言葉で表現するとおかしなことになる(言葉とは独立の生の事実を「言葉とは独立の生の事実」と言葉で表現するこ とは、そもそも意味をなさないし、一方で、生の事実とは独立した言葉の意味としての「生の事実」は、結局のところ言葉なのだから、そこに「二つものがあ る」わけではない)のだけれど、それをいっちゃあおしまいなので先を急ぐ。
(また、この二つもののうち、生の事実の方が「〜がある」こと、つまり現実存在=実存にかかわり、言葉の方が「〜である」こと、つまり本質存在にかかわっ てくる。そして、存在をめぐるこの分岐が古典ギリシャに端を発する西洋形而上学の諸思考を産み出し、その極点において、それぞれが永劫回帰と力への意志に 行き着く。というのが、木田元経由で私が理解しているハイデガーの考えなのだが、だからどうなの、と質されてもそれ以上の応答ができないので、この話題は ここまでにしておく。)
 話をもとにもどして、その二つのもののうち、前者の「生の事実」は、じかに体験され、意識される生々しい感じ、すなわちクオリアを伴う直接経験のこと で、後者の「言葉」は、たとえば「われ思う」や「われあり」という表現のなかで語られる自己意識が、自己言及という形式的性質にすぎないように、クオリア をつかむ概念とその論理的な連関(推論)のことである、と定義することができる。
 でも、私たちの日常の経験に即して考えてみればすぐに判るように、実のところ、その二つのものは、そんなふうに綺麗に分けられるものではない。つまり、 生の事実と言葉、意識(クオリアを伴った直接的意識)と自己意識(志向性を持った概念的規定)は、私たちの日常の経験のなかでは重なっている。
《自己意識なき意識が可能なのと同様、意識なき自己意識もまた可能なのである。しかし、通常、この二つはあいともなって現れると考えられている。それはな ぜか。そこには実はかなり複雑な事情が介在しているのであって、本書は、西田哲学の解釈を通して、この事情の解明を目指している。》(41頁)
 西田哲学の解釈を通して、永井氏が遂行した「かなり複雑な事情」の解明は、それは実に鮮やかなもので、私は、繰り返し本書を読み返しては、何度でも初め て体験する「哲覚」的興奮に身を浸している。でも、その実質は、実地に直接体験することでしか伝わらないと思うので、ここでは、いわゆる「デカルト的コギ ト」から、西田的な「自己意識なき意識」(「赤の赤たることが即ち意識である」)とウィトゲンシュタイン的な「意識なき自己意識」(「われあり」と正しく 判断することはできるロボットかゾンビの)が分岐していく、とあくまで骨組みを提示するにとどめておく。
 一方に、言葉なんて人工的仮定にすぎず、存在するのは主客分離以前の純粋経験だけだ(「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描い たものでもよい。元来、物と我と区別のあるのではない」)、つまり「体験が言葉と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている」確信犯の西田幾多郎がい て、他方に、「驚くべきことに、言葉が体験と独立にそれだけで意味を持ちうると信じている」もう一人の確信犯、ウィトゲンシュタインがいて、「そうとは知 らずに、その[西田幾多郎とウィトゲンシュタインの]信仰が可能な道を切り開いた」過失犯、つまり「体験と言葉がなんの問題もなく相即することを疑おうと もしなかった」デカルトがいる。
 デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」に出てくる「思い」の二重性(直接経験の事実としての思いと、言語的な思いの二重性)から、「思う、ゆえに、 思いあり」の西田的な響き(永井氏の創作)と、「「われ思う」と語る、ゆえに、「われあり」と語るわれあり」のウィトゲンシュタイン的な響き(私の創作) が分岐し、それらは、デカルトのものも含めて、「彼思う、ゆえに、彼あり」(永井氏の創作)という人称的世界のうちにあって、それを食い破るものとして語 られる(第一章)。
(西田幾多郎とウィトゲンシュタインのほかに、永井氏がその「解説書」を書いたもう一人の哲学者に関する創作を加えると、そのような体験と言葉、実存と本 質、あるいは、これらとはニュアンスが異なる、思いと実在、独在性の〈私〉と単独性の《私》、私と汝、等々の「相互包摂」的な関係の外部に突き進んでいっ たニーチェの場合であれば、それは「思いと思いと……(以下、無限に続く)……と、われありとわれありと……(以下、無限に続く)……とあり」となる。)
 このような構図の上に、二つの問題が浮かび上がってくる。第一の問題。西田のように「直接経験の事実は、ただ、言語に云い現わすことのできない赤の経験 のみである」と語る哲学者が、それでは「自分の哲学をどうして言葉で語れるのか」。この問い対する永井氏の回答は、『善の研究』で西田がいう「純粋経験そ れ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたから」というもので、その内部構造(クオリアと概念が地続きとなる)は、『動くものから見るもの へ』に収められた「場所」という論文の解釈を通じて示される(第二章)。
 第二の問題。西田は、「私と汝」(『無の自覚的限定』所収)という論文のなかで、他人と私が「言語とか文字とかいう如きいわゆる表現を通じて相理解す る」「音とか形とかいう物的現象を手段として相理解する」と書いているが、そもそも「直接に結合していない私と他人がなぜ「相理解」できるのか」。(これ は西田とウィトゲンシュタインに共通する問題で、デカルトとニーチェの場合は、そんなことは端から問題にならない。いや、もちろん問題にはなるのだが、デ カルトとニーチェではまったく異なった意味合いで、問題としては実感されなかった。ただし、この丸括弧内の書き込みは、私の議論であって、永井氏の議論で はない。)
 これに対する永井氏の回答は、「西田がこの問いに答えることに成功したとは思わない(成功した人は今のところ誰もいないが)」、しかし、少なくとも、 「個人(あるいは「人物」とか「人格」とか訳される英語でいう person)の成立」に関する問いに答えることで(「彼思う、ゆえに、彼あり」の成立に介在した「かなり複雑な事情」を解明することで)、「問いの意味 を深めること」、すなわち「それがなぜ哲学的な問いであるのか、そのことの意味を──ひょっとすると誰よりも──深めることに成功している思う」というも の。このことは、「私と汝」の解釈を通じて示される(第三章)。

 以上が、本書のおおまかな骨組みである(小骨と、少なからぬ贅肉が付着しているが)。もちろん、こんなものを示したところで、概要説明にもなっていな い。そもそも哲学書を、それも永井均が書いた本を要約することなどできない。いや、論旨をかいつまむことはできるけれど、そんなものに哲学的な意味はない (たぶん)。まして、多くは註のかたちで随所に挿入された永井哲学の、生の感触が伝わらないのは百も承知のうえで、私の心の琴線に触れた細部の叙述のいく つかに着目し、「独立に哲学をする」ための、いわば踏切台として仮設した。

(ここで、余録を一つ挿む。先にその名が出てきた西田幾多郎の三つの作品、『善の研究』と「場所」と「私と汝」は、ちょうどこれと同じ順番で、『〈私〉の メタフィジックス』と「他者」(『〈私〉の存在の比類なさ』所収)と『私・今・そして神―─開闢の哲学』という、永井均の三つの作品と響き合っているので はないか。
 また、「後期の西田は、場所の哲学を、「動く」と「見る」の区別がない、それらが一体である方向へ発展させた。後期の「行為的直観」をめぐる議論は、 『善の研究』の「知即行」以来の西田哲学の本来の姿に戻った」という指摘は、これから現れるだろう「後期の」永井哲学の方向を、たとえば〈私〉と〈他者〉 の区別がない、あるいは西田哲学との区別がつかない永井哲学の「本来の姿」を、あらかじめ予告しているのではないか。などと、ふと思いついたのだが、もち ろんこれでは何もいっていないのと同じで、いま書いたことになにほどかの意味があるかどうかを含めて、これは今後の宿題。)