不連続な読書日記(2006.12-2007.1)




【読了】

●保坂和志『小説の誕生』(新潮社:2006.9.30)
●永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2006.11.30)
●阿部謹也『近代化と世間──私が見たヨーロッパと日本』(朝日新書:2006.12.30)
●堀田善衛『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫:1996.6.10/1986)
●尼ヶ崎彬『花鳥の使──歌の道の詩学T』(勁草書房:1985.10.20)
●草凪優『色街そだち』(祥伝社文庫:2006.12.20)
●睦月影郎『恋闇──かがり淫法帖』(廣済堂文庫:2007.2.1)


【購入】

●永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2006.11.30)【¥1000】
●ジェラルド・M・エーでルマン『脳は空より広いか──「私」という現象を考える』(冬樹純子訳・豊嶋良一監修,草思社:2006.12.7) 【¥1800】
●尼ヶ崎彬『花鳥の使──歌の道の詩学T』(勁草書房:1985.10.20)【¥2400】
●尼ヶ崎彬『縁の美学──歌の道の詩学U』(勁草書房:1985.10.30)【¥2400】
●野間俊一『身体の哲学──精神医学からのアプローチ』(講談社選書メチエ:2006.12.10)【¥1600】
●阿部謹也『近代化と世間──私が見たヨーロッパと日本』(朝日新書:2006.12.30)【¥700】
●橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書:2006.12.19)【¥660】
●M・ビュトール『時間割』(清水徹訳,河出文庫:2006.12.20)【¥1200】
●黒川信重『オイラー、リーマン、ラマヌジャン──時空を超えた数学者の接点』(岩波科学ライブラリー:2006.12.8)【¥1200】
●ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳,法政大学出版局:2006.11.15)【¥4700】
●小泉文夫『音楽の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー:1994.6.15)【¥200古】
●谷川健一『うたと日本人』(講談社現代新書:2000.7.20)【¥340古】
●『古今和歌集(一)』(久曾神昇訳注,講談社学術文庫:1979.9.10)【¥800】
●井筒俊彦『東洋哲学覚書 意識の形而上学──『大乗起信論』の哲学』(中公文庫:2001.9.25/1993)【¥686】
●廣松渉『もの・こと・ことば』(ちくま学芸文庫:2007.1.10)【¥1000】
●『坂部恵集3 共存・あわいのポエジー』(岩波書店:2007.1.10)【¥4000】
●『坂部恵集2 思想史の余白に』(岩波書店:2006.12.7)【¥4000】
●『坂部恵集1 生成するカント像』(岩波書店:2006.11.7)【¥4000】
●五味文彦『藤原定家の時代──中世文化の空間』(岩波新書:1991.7.19)【¥740】
●佐野洋子『ふつうがえらい』(新潮文庫:1995.3.1)【¥476】
●安田登『疲れない体をつくる「和」の身体作法──能に学ぶ深層筋エクササイズ』(祥伝社:2006.6.5)【¥1400】
●山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書:2007.1.20)【¥740】
●草凪優『色街そだち』(祥伝社文庫:2006.12.20)【¥600】
●睦月影郎『恋闇──かがり淫法帖』(廣済堂文庫:2007.2.1)【¥571】
●吉村英夫『完全版「男はつらいよ」の世界』(集英社文庫:2005.12.20)【¥724】
●『pen』No.190〔特集|いまこそ知りたい日本の伝統美。茶の湯デザイン〕【¥476】
●『群像』2007年1月号【¥1143】
●『BRUTUS』2007/2/1[特集|脳科学者ならこう言うね!](マガジンハウス)【¥476】
●『KADOKAWA世界名作シネマ全集18 ヒッチコックに愛を込めて』(角川書店:2007.1.25)【¥3314】
●ジャン・コクトー『オルフェ』,ジャン・ルノワール『大いなる幻影』,ハンフリー・ボガード/イングリッド・バーグマン『カサブランカ』,オーソン・ ウェルズ『第三の男』【¥476×4】
●ジャン・コクトー『美女と野獣』,ルキノ・ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』【¥380×2】
●『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(第17作),『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(第25作),『男はつらいよ 寅次郎恋愛塾』(第35 作),『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』(第36作),『寅次郎物語』(第39作),『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(第41作),『ぼくの伯父さ ん』(第42作)【¥2350古】


 【ブログ】

★12月7日(木):『コーラ』のために(0)

 ここ二週間、風邪が治らない。治ったと思ったら、その日のうちにまた体調がおかしくなって、新しい風邪をしょいこむ。そんなことの繰り返しが、春先まで つづくのではないかと、もうあきらめかけている。幸い熱は出ない。だから日々の生活をしのぐ最低限の気力と体力はあるのだが、まとまった文章を読んだり、 込み入ったことを考えたり、ブログを書いたり、仕事をしたり、引っ越しの準備をしたりすることが億劫でたまらない。
 今日、ようやく少しだけ珈琲が飲めるようになった。風邪をひくと、日に5杯くらいは飲んでいる珈琲の味がとても不味くなる。ほんとうは3杯以上飲んでは いけないと言われている。緑内障が進むから。ジョイスみたいになるのは格好いいようだが、たぶんとても不便だと思う。だから珈琲を飲まないのはほんとうは いいことなのだ。でも、煙草と珈琲なしでは何も考えられないし、まとまったことは何も書けない。
 まだあまり美味くはないが、一口、二口と啜っているうち、このブログのことを思いだした。先月のうちに終えるつもりだった「デカルト的二元論」の「連 載」が中途半端なままで中断している。このことの決着をつけないうちに、また新しい「連載」を始めるのは気持ちの負担になるが、どこかで制約を課しておか ないと、このまま春先までぐずぐずと崩れていってしまうような気がする。

     ※
 黒猫さんが『コーラ』という「アクチュアルでキュートな」Web評論誌(季刊)を創刊する[http: //homepage3.nifty.com/luna-sy/re32.html#32-1]。これを媒体にして、何かまとまったものを書いてみようか と思っている。春夏秋冬の季節ごとに一篇、3年つづければ一冊の本になる。新古今和歌集の部立(春・夏・秋・冬・賀・哀傷・離別・羈旅・恋・雑・神祇・釈 教)に即して書ければ言うことはないが、所詮は思いつき、そもそも最初の一歩がうまく踏み出せるかどうか自信はない。で、草稿や備忘録や素材蒐集整理の作 業をこのブログ上でやることにした。
 心脳問題をテーマにしたSF短編小説の連載、以前書いたものの解体修復再構築、等々、肝心の何を書くかでしばし逡巡した結果、いつもながらのやり方に落 ち着いた。つまり、今たまたま読んでいる本、読みあぐねている本、読む時間がとれず負担になっている本を何冊か同時並行的に読み囓り、それらからの抜き書 きをベースにして妄想をたくましくする。
 とりあえずは「歌論と心脳問題」もしくは「歌とクオリア」を仮のテーマにしておく。一回だけで終わるか、そこから発展して、歌と仏(神)と農と霊(貨 幣)をめぐる日欧の精神史=経済史的並行関係の考察へと及ぶか。それはやってみなければわからない。そもそもやれるかどうかもわからない。第一、風邪がま だ治りきっていない。二週間ぶりにディスプレイに向かって言葉を拾っていると、喉がおかしくなり、また新たな風邪に襲われる予感がたちあがってくる。

 今たまたま読みかけている本(最近買った本)でテーマと関連しそうなもののリストをあげておく。これらがうまく一つに収斂し、かつて読み感銘を受けたい くつかの書物と響きあっていくようだと、この試みを成就するのだが。

◎堀田善衛『定家明月記私抄』『定家明月記私抄 続篇』(ちくま学芸文庫)
◎尼ヶ崎彬『花鳥の使──歌の道の詩学T』『縁の美学──歌の道の詩学U』(勁草書房)
◎T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫)
◎綿抜豊昭『連歌とは何か』(講談社選書メチエ)
◎松岡正剛『日本という方法──おもかげ・うつろいの文化』(NHKブックス)
◎永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版)
◎ジェラルド・M・エーでルマン『脳は空より広いか──「私」という現象を考える』(草思社)
◎ダン・ロイド『マインド・クエスト──意識のミステリー』(講談社)
◎エミール・ブレイユ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社)
◎木村敏・檜垣立哉『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社)

★12月22日(金):心に残った本

 あれから二週間すぎて、とっくに風邪は治ったものの、あいかわらず低調な日々がつづいている。
 興奮して読み終え、書評めいたものを書いてきっちり「縮約」しておこうと心に誓ったまま放置している本がじわじわと増えている。鬱陶しい。読みながらい ろいろと思いついたことがあって、後から思い出せるようメモをとっているのがずいぶん貯まっている。メモをたよりにきちんと文章にしておかないと、そろそ ろ復元不可能になりつつある。忘却の淵に沈んだところでどうってことはないのだが、もしかするといったん失われると二度とひらめかないアイデアの種が宿っ ているかもしれない。そんな内圧が高まってきて、これも鬱陶しい。
 しばらく本は買わず、これまでに買いためた(わけではないけれど、サクサクと一気に読了することができず、かといって興味を失ったわけではないのになぜ か読みかけのまま山積み状態で放置している)本や、以前読んで感銘を受けた本をじっくり一冊ずつ仕上げていこう。そんな殊勝な気持ちが芽生えかけている。 だのに、ふと本屋に立ち寄るたび、あれこれ理屈をつけては新刊書を買い求める。鬱陶しさが募る。
 こうした気分を一掃して、晴れ晴れとした気持ちで新しい年を迎えたい。いよいよ年末に引越をすることになったので、これを機会に、大げさに言えば「書物 に対する態度」を改めたい。そんな思いだけが先行して、行動がついていかない。それがまたストレスになる。
 そこで、と言ってもなにが「そこで」なのかはよく分からないが、今年読んだ(読み終えた)本のうち、心に深く残ったものをリストアップしておこうと思い 立った。できれば「この一冊」とか「私の三冊」とか「ベストテン」といったかたちにまとめておきたいし、一冊ごとに簡単なコメントをつけておきたいとも思 うのだが、それは絶不調の身には荷が重い。

◎飛浩隆『象られた力』(ハヤカワ文庫JA:2004)
◎二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#14〜#16(講談社:2006.1.13)
◎ベルグソン『物質と記憶』(田島節夫訳,白水社:1965)
◎入不二基義『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』(NHK出版:2006)
◎吉本隆明『カール・マルクス』(光文社文庫:2006)
◎中沢新一『芸術人類学』(みすず書房:2006)
◎内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書:2006)
◎小島信夫『残光』(新潮社:2006.5.30)
◎三中信宏『系統樹思考の世界──すべてはツリーとともに』(講談社現代新書:2006)
◎郡司ペギオ−幸夫『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書:2006)
◎漆原友紀『蟲師7』(講談社:2006)
◎ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫:2006)
◎渡仲幸利『新しいデカルト』(春秋社:2006)
◎篠原資明『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書:2006)
◎加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(筑摩書房:2004)

 まだ読み終えていない本のなかで、どうしてもリストに挙げておきたいものがあるのでついでに書いておく。(永井均『西田幾多郎』とか堀田善衛『定家明月 記私抄』正続などもそうだし、『群像』で連載がはじまった中沢新一の「映画としての宗教」も面白いが、それらを書き始めると収拾がつかなくなる。)

◎鈴木一誌『画面の誕生』(みすず書房:2002)

★1月3日(水):初買いと初読み

 暮れに引越しをして、ダンボールに囲まれて新年を迎えた。まだ荷物が片付かないし、気持ちも身体も本の並べ方も定まらないが、今朝、読みかけの本を一冊 携え、家の前の公園を散歩して、駅前の書店で一冊買い求め、スタバで煙草ぬきの一時間少々をゆったりとすごした。
 今年最初に購入したのは、ミシェル・ビュトールの『時間割』(清水徹訳,河出文庫)。昨年の暮れに読み終えた『小説の誕生』で、保坂和志がまるで最高の 料理を味わうように、ずいぶんと自由に、気儘に、楽々と現代小説や哲学書を読みこんでいる(ように見えた、読めた)のに触発されて、なにか海外の長編小説 を時間をかけて未読したいと思っていた。
 プルーストやジョイスが読みかけのままになっているけれど、年も改まったことだし、この際、これまで縁のなかった作家のものを読んでみるのもいいだろう と思った。「謎とスリルに満ちた現代文学の最高峰!」とか「暗鬱な都市の迷宮に響く神話と記憶のカノン。ジョイス、カフカにつながる著者の代表作」とか、 謳い文句にもちょっと惹かれた。
 最初の数頁、ジャック・ルヴェルがブレストン(マンチェスターがモデルの都市)に到着した夜のことを七ヵ月後の翌年の5月に回想しているところを読んだ だけだが、このブレストンという架空の都市は、もうくっきりと私の脳髄のうちに区画された場所を占めはじめている。

 散歩に携えていた読みかけの本というのは、永井均の『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』で、この本はここ一月ほど繰り返し繰り返し最初から読み直して いて、たかだか100頁ほどの小冊子なのにまだ半分ほどしか読めていない。
 前著の『私・今・そして神──開闢の哲学』は、つごう5回読み返しても腑に落ちないところが残った。それどころか、読み返すたびに以前よく理解できたと ころ、納得や得心のいったところが曖昧になり、腑に落ちないところが逆に増えてきて閉口した。いや、けっして閉口したわけではないが、残読感とでもいうべ きものが後をひいて、いまだに気になって仕方がない。
 『西田幾多郎』の方は、それよりも抵抗感がきつい。抵抗感ではうまく表現できていないが、とにかく永井均の哲学が私にはとてもよく理解できる。理解でき るどころか、これはほとんど私が書いた(書くべきであった)書物ではないかとさえ思える。それは永井均が書いた(考えた)ことではなく、私(中原紀生)が 書いた(考えた)ことなのかもしれない。それらを区別することは「私には」できない。だから、何度読み返しても読み終えた感じがしないし、何度読み直して も読み終えられない。
 暮れの引越し荷物を整理していて、岩波文庫の「西田幾多郎哲学論集」三巻と『私・今・そして神』を見つけた。いま私には書斎らしき部屋が三つある。高校 の頃まで住んでいた家(書斎A)と今度引越した家(書斎B)と現住所(書斎C)に。西田本三冊と永井前著は書斎Aで発見したのを書斎Bに運び、そしてこれ から書斎Cに移動する。ややこしい。

★1月6日(土):初借り

 昨年の暮れ、マンションを衝動買いして、バタバタと引越した。家のすぐ前の公園の一角に県立図書館と市立図書館が並んでいて、新刊旧刊古本絶版本全集本 等々とりまぜて、手にとって眺めてみたいと思うほどの本はまあ大体のところが揃っている。それが衝動買いと突然の転居のほぼ唯一といっていい理由で、今日 やっとその本懐を遂げることができた。
 昼過ぎまで雑用をこなしたあと、近所の珈琲館でお茶して、公園をのんびり散歩して、図書館をはしごして、数ヶ月ぶりに本の貸し出しを受けた。国文学系三 冊、ベルクソン系二冊、伝記系一冊(思想家や文学者、芸術家の評伝をいつかまとめ読みしたいと常々思っていて、ラカンとかウィトゲンシュタインとかバタイ ユとか、いくつかあたりをつけている)、昨年出た本で気になっていたもの二冊、計八冊を借りてきた。
 一冊一冊、丁寧に味わい、なにか書き残しておくだけの時間はないが、手で重みを確かめたり、装丁を鑑賞したり、まえがきやあとがきを読んだり、ぱらぱら 眺めて摘み読みをしたり、本の読み方はいろいろある。リストにしておくだけのことでも、それは一つの方法だと思う。

◎加藤周一『『日本文学史序説』補講』(かもがわ出版:2006.11)
◎丸谷才一『後鳥羽院 第二版』(筑摩書房:2004.9)
◎高橋睦郎『十二夜──闇と罪の王朝文学史』(集英社:2003.11)
◎久米博他編『ベルクソン読本』(法政大学出版局:2006.4)
◎中村弓子『受肉の詩学──ベルクソン/クローデル/ジード』(みすず書房:1995.12)
◎エドワード・リード『伝記 ジェームズ・ギブソン──知覚理論の革命』(佐々木正人監訳,勁草書房:2006.11)
◎ハンナ・アーレント『思索日記U 1953-1973』(青木隆嘉訳,法政大学出版局:2006.5)
◎丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士『文学全集を立ちあげる』(文藝春秋:2006.9)

★1月7日(日):数学の夢

 先日、TVを観ていたら数学者の黒川信重氏が出演していた。なにか別の作業をしながら時折、漫然と画面を眺めていただけなので、内容はほとんど覚えてい ない。
 黒川氏の同級生で作曲家の倉本裕基氏も出演していたこと、ゼータの不思議な世界が話題になっていたこと、数学の伝道師・桜井進さんがオイラー賛歌を高揚 した声と面持ちで朗読していたこと、高木美保がなにか言おうとして仕切り役の渡辺満里奈に遮られていた(ように見えた)こと、そんな断片的な記憶しか残っ ていない。
 あとで調べると、番組は「たけしの誰でもピカソ」で、「数学でキレイになる!」の第三弾。迂闊なことに、そんな企画が進行していて、それが大好評を博し ていたとは知らなかった。リーマン予想のことが話題になるTV番組が、それも教養番組ではなく娯楽番組が放映されて、それが大好評を博する。そんな時代が やってきたのだと、信じられない思いが募って、ちゃんと観ておけばよかったと後悔している。
 で、今日、昨年12月に出た黒川信重氏の『オイラー、リーマン、ラマヌジャン』(岩波科学ライブラリー)を買った。『数学の夢──素数からのひろがり』 の改訂版で、この本はここ十年ほど、大げさに言えば「わが心の書」だった。読み始めるとなにも手につかなくなりそうなので、当分は護符のように持ち歩くこ とになるだろうと思う。
 「時空を超えた数学者の接点」という改訂版の副題にとても刺激を受けたのだが、このことはまた別の機会に──永井均が『西田幾多郎』の冒頭に書いている 「哲学を伝えること」、また尼ヶ崎彬がいう「歌の道」にも関連づけて──書くことにして、今日のところは、これまでに『数学の夢』をめぐって書いた文章を ひっぱりだしてきて自己引用しておく。

☆黒川信重『数学の夢 素数からの広がり』【1998/6】
 こういう本を探していた。数式の鑑賞でひとときを過ごした。

☆黒川信重『数学の夢 素数からのひろがり』【2001/10】
 朝日ワンテーママガジン44『あぶない数学』(1995年1月)に掲載された「ゼータは生きている──類体論から霊体論へ──」を読んで以来、著者の ファンになった。本書は3年ぶりの通読。この間なんども手に取り、目に馴染ませてきた。この本を読む(というより、ほとんど毎頁に繰り広げられている数式 を鑑賞する)ことは、私のストレス解消法の一つであり長年つきあってきた持病である。
 中田力著『脳の方程式 いち・たす・いち』の44頁と49頁と136頁にオイラー積の話が、そして50頁と138頁にリーマンとゼータ関数の話が出てき て、ゼータ関数が「数論と量子力学とを結ぶ接点として注目されている」などと書いてあったのを読んで、ゼータ狂いが再発してしまった。
 「1+2+3+……=−1/12」とか「1×2×3×…=2πの平方根」といった奇妙な計算には、リーマンの名とともに強烈に惹かれ続けてきた。その証 明が高校生向けの本書にきちんと書かれている。それどころか、すべてのゼータを統一して素数全体の空間の真の姿を研究する「絶対数学」の夢と、それがライ プニッツのモナド(生きている点)や宇宙の解明につながること、そしてこれらの夢が21世紀の中頃には完成するかもしれないことが書かれている。
 オペラ鑑賞と数論(とりわけリーマン予想)の「研究」を老後の楽しみにとっておこうと計画している私にとって、本書は恰好の入門書だ。

☆梅田亨・黒川信重・若山正人・中島さち子『ゼータの世界』【2001/10】
 ゼータ狂いが再発して、急いで『ゼータの世界』(梅田亨・黒川信重・若山正人・中島さち子著,日本評論社:1999.6)を購入して、夢中になって眺め ている。この本に収められた7つの文章はほとんど雑誌掲載時に読んだ記憶がある。もちろん中身はほとんど覚えていない。こんどこそ熟読玩味、詳細勉強の 上、老後に備えることにしたい。以下、その昔書いた文章を添付。
 ──「ζの世界」の特集を組んだ『数学の楽しみ』創刊号(1997年5月,日本評論社)に、「ζの世界は生物の世界によく似ている」(たぶん黒川信重氏 の言葉)とある。そこに多様性と統一があるからというのだ。そういえば、同誌に掲載された「ゼータの世界を眺めて」で中島さち子氏は次のように書いてい た。
《数学の真髄にはつねに素朴な人間の感覚があり、それは2000年前,いや人が人になる前から(?)流れている自然なものですが,それはより雄大な,世界 を統一する構造理念への準備であったかも分かりません.人が直観している最も原始的な宇宙の関数は何なのか──数学に哲学などの名を付けるのはあまり好き ではないのですけれども,もともと文学も医学も生物学も,すべて共存しうるのでしょう.この不確定で混沌に満ちた学問は,ゆっくり,最も原始の世界に同化 してゆく感じがします.》
 この実に気持ちのよくなる文章(筆者は現役の高校生なんですね)に出てくる「原始の感覚」とでもいうべきものは、「歴史の概念」について考える際の一つ の足場になるはずだ。

☆黒川信重『数学の夢 素数からのひろがり』【2004/9】
 『世界が変わる現代物理学』に素数という概念が理解できない鼠の話が出てくる。竹内薫はそこで「(素数がマウスの知性の限界を示しているのと同様の意味 で)人類の知性に限界があると考えるほうが自然なように思われてなりません」と書いていた(223頁)。
 『脳と仮想』に「私たちが現実と向かい合う時にそこにインターフェイスとして浮上してくる」仮想の「最たるもの」として数学的概念が取り上げられている (98頁)。茂木健一郎はこう書いていた。
《…数学を成り立たせているのは、徹頭徹尾、この世界にはどこにも存在しない仮想である。数学の歴史とは、そのような仮想の間の関係を、論理と整合性を保 ちつつ構築することであった。/そのような仮想によって構築された数式の世界に、現実の世界がなぜか従う。このことは、私たちの生が投げ込まれているこの 世界の持つ、きわめて不思議な性質の一つであると言わざるを得ないのである。》(102頁)
 これらの話題に触発されて『数学の夢』を手にした。この本に目を通すのはこれで何度目になるだろう。読むたびに新しい発見があり、なにかしらかきたてら れるものがある。(今回のそれは、ピタゴラスとライプニッツの「絶対数学」における符合ということだった。)
 ところで、竹内・茂木のコンビにはこれまでから共著『トンデモ科学の世界』や共訳『ペンローズの量子脳理論』などを通じて大いに触発されてきた。ペン ローズを読んだのもこの二人に導かれてのことだった。数学といえば、ペンローズ。その『心の影』に「プラトン的世界(数学的世界)」と「物理的世界」と 「心的世界」のウロボロスの蛇的三つ巴の関係図が出てくる(下巻228頁)。茂木氏は『脳と仮想』で、「プラトン的世界」は数学的秩序に限られていたわけ ではないと書いている。
《…およそ、私たちが意識の中で思い浮かべることができるものはすべてクオリアであるという現代の脳科学の出発点に立てば、それが数学的な概念であれ、美 や道徳といった一見曖昧な印象を与える概念であれ、すべて、この地上の物質的世界とは独立したプラトン的世界に属すると言ってもよい。》(121頁)
 ちなみに、茂木氏の頭のなかでは「現実=物理的世界」「仮想=心の世界」「潜在性=プラトン的世界」の三区分が立てられている。精確にいうと、現実=物 自体と仮想=(脳内)現象が対峙する世界と潜在性の世界の二区分。そして「クオリア」はこの三つないしは二つの世界にまたがっている。《実際、プラトン的 世界の中には、宇宙の歴史の中でまだどこでも現実化していないクオリアが、無限に潜んでいるに違いない。》(122頁)

★1月8日(月):シネマ2

 ジル・ドゥルーズの翻訳本はだいたい揃えている。揃えているだけで、最後まで読み通したのは『アンチ・オイディプス』くらいで、ほとんどが読みかけか手 つかずのまま、本棚に常備されている。
 冬弓社の2007年度刊行予定リストに、湯山光俊さんと中山元さんの共著『ドゥルーズのABC』(仮題)があがっている。この企画のことは数年前から耳 に(目に)していて、(蓮田攻さんの『よい子の社会主義』とともに)ずっと心待ちにしてきた。この本が出たら、それをきっかけにドゥルーズに没頭してみよ うかと思っているが、同様の常備本にパースとベンヤミンの翻訳本があって、収拾がつかなくなるかもしれない。
 ドゥルーズ翻訳本コレクションにもいくつか欠落がある。『感覚の論理』や『シネマ2*時間イメージ』も、あわてて買うことはないと、これまで気になりな がらも放置していた。昨日の朝日新聞の書評欄に、中条省平さんが『シネマ2*時間イメージ』について書いていた。「映画を論じることが、即、人間精神と世 界の深みを潜りぬけることに通じる稀有の書物であり、約20年前に書かれたが、世界が混迷を深めるいま、現代的な意義はかえって増している。」
 これを読んで、とうとう我慢ができなくなった。で、即効で購入し、宇野邦一氏による「訳者あとがき」を読み、目次を眺め、ぱらぱらとページを繰ってい て、次の文章を見つけた。「スチレン状の物質」とは何のことか知らないが、そもそもここで何が言われているのか判らないが、こういうドゥルーズ節にはどう しようもなく惹かれる。
《映画においては、「イメージのまわりで、イメージの背後で、そしてイメージの内部でさえ」何事かが起きるにちがいない、とレネはいう。イメージが時間イ メージになるときにそれは起きる。世界は記憶になり、脳になり、もろもろの年代あるいは頭葉の重なりになった。そして、脳それ自体は意識になり、諸年代の 継続に、つねに新しい頭葉の創造あるいは成長に、スチレン状の物質の再創造になったのである。スクリーンそのものが脳膜であり、そこでは過去と未来、内と 外が、定めうる距離もなく、あらゆる固定点からも独立に、じかにむかいあう…。イメージを基本的に性格づけるのはもはや空間と運動ではなく、位相[トポロ ジー]と時間である。》(173-174頁)

★1月11日(木):歌の発生と歌の道

 ここ数年、古書店めぐりが面白くなってきた。「ぞっき本」という言葉の正しい意味はいまひとつ明確につかめないのだが、新刊書が刊行と同時に廉価で売ら れている場合(どういう流通経路で出回るのかは不明)、新品同様の本が古書として売られている場合、店頭で雑多な書物が見切り価格で売られている場合、だ いたい以上の三つのケースをひとまとめにした「ぞっき本」あさりがだんだん面白くなってきた。
 稀覯本や初刊本などの値の張る書物には興味がなくて(「蔵書」とか「書物蒐集」といった言葉にはあまり惹かれないし、そもそも潤沢な資金を持ち合わせて いない)、安くてちょっと気をひく掘り出し品を見つけることが面白い。では、これまでにどんな戦利品があったのかと問われても、ここで披露できるほどのも のは見あたらないので、この話題はここまでにしておく。

 昨日、一昨日と二冊の古本を買い求めた。小泉文夫『音楽の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー)と谷川健一『うたと日本人』(講談社現代新書)。いず れも上に書いた志にかなうものではなくて、つまり、手に入れるだけでほぼ所期の目的が達成される類のものではなく、実際に読みたいと思って買ったものだ。
 小泉本はいま手元になくて、先に谷川本を読んでいる。その入り口のあたりで、著者はこう書いている。「私には『古今和歌集』や『新古今和歌集』などの勅 撰集に、日本の歌を代表させることを拒みたい気持ちがある」。「歌の本源は無名者が集団の中で口に出してうたう歌であった…。それは後れて発生した宮廷歌 人の伝統と別の流れを形成し、民間にながく伝承された」。「私は「うた」の始原を、草も木も石ころも青い水沫[みなわ]も「事問う」時代までさかのぼって 考えている」。
 宮廷歌人の歌の流れに強烈な関心を寄せている私としては、アニミズムの時代に歌の「発生」を見ようとする谷川説と紀貫之、藤原俊成、定家と続く歌論の世 界とを高次元で調停できないかと思っている。今様とモダニズムの不即不離の関係、アニマ(霊魂)と「歌の心」の不可思議な関係、生活者と創作者(職業歌 人)の二つの共同体の表裏一体性。
 でも、これはまだ譫言でしかない。とにかく谷川本と尼ヶ崎本(「歌の道の詩学」)をきちんと読み終えてから、あらためて考えてみよう。その時きっと、小 泉本が役に立つだろうと見込んでいる。

★1月12日(金):〈道〉という共同体、道を伝えること

 黒川信重著『オイラー、リーマン、ラマヌジャン──時空を超えた数学者の接点』の副題に関連して、尼ヶ崎彬著『花鳥の使──歌の道の詩学T』のあとがき に興味深いことが書いてあった。
 大学の研究室で六年間、著者は「日本美学の最良の遺産」である歌論を読みつづけた。そのきっかけは、藤原俊成の『古来風体抄』を読んである疑問にとらわ れたことにある。俊成は『摩訶止観』初段に記された釈迦以来の仏法相承の系譜について「尊さも起る」と書いている。このマタイ伝冒頭の「アブラハム、イサ クを生み、イサク、ヤコブを生み」云々と続くキリストの系図に似たうんざりとさせられる記述の何が俊成の感動を呼んだのだろうか。
「疑問は胸の底にわだかまったまま日が過ぎた。そしてある時、ふと思い当たったのである。俊成の考える〈歌の道〉とは〈仏の道〉と同じものではないのか。 それは、和歌という作品の集積であるよりも、世界を見る見方そのもののことではないのか。この時、私には、俊成がなぜ仏法の相承の系譜に感動したのかがわ かったような気がしたのである。」
 以下、下手な要約をほどこすより、原文を丸ごと抜き書きしておく。

《釈迦は世界の実相を見てしまう。その瞬間に彼は孤独となる。彼の外に誰一人、世界をそのように見ている者はないからだ。人々は〈世間〉の中を生き、釈迦 一人が〈出世間〉の人となって、異邦人の如く立っている。しかし真実を見てしまった者は見てしまった者であって、もう元に戻ることはできない。彼は自分の 見たものを人に伝えようとする。しかしその言葉は、たとえば「花は紅、柳は緑」というような不器用なものである外はなく、誤解の種を増やすにすぎない。伝 えるべきは、世界の新しい姿ではなく、世界を見る新しい眼でなければならない。しかし、この眼の伝承は、説法によっても訓練によっても、うまくゆかない。 真理を求めて弟子は数多く集まってくるが、彼らは師の言葉を〈世間〉の基準で理解して有難がるばかりである。禅門の伝えによれば、言葉に絶望した釈迦は、 ある日講壇でただ花を拈ってみせる。その時、聴衆の中の迦葉が、ただ一人彼に微笑を返したという。釈迦は、この時はじめて、自分がもはや孤独ではないこと を知った。少なくともここに一人、自分と同じ眼をもって世界を見る者がいるからだ。心は継承された。すなわち、〈道〉の成立である。同時に、迦葉には責任 が生じる。いかにして〈道〉を伝えてゆくか。彼は、自分の心と同じ心を持つ者を、少くとも一人は育てねばならない。釈迦にとってさえ困難であったこの仕事 が、彼に容易であったはずはない。しかし、とにかく彼は、阿難という同志をつくることに成功する。〈道〉は滅びなかったのである。そして、代々伝えて二十 三人、釈迦を含めて二十四人。この二十四人の名が伝わっていることは、殆ど不可能と見える心の伝承のために手を差しのべた二十三人の師と、それに応えてつ いに世界の真実を見ることに成功した二十三人の弟子との、一つの共同体が確かにあったことの証しである。そう思えば、この伝法の系譜を見て「尊さ」を感じ ないわけがあろうか。──俊成はそう考えたにちがいない。そして、彼にとって〈歌の道〉とは、まさにもう一つの〈出世間〉の心を伝える道であった。天才は 孤独かもしれないが、道の人は孤独ではない。同じ道を行く仲間がいるからである。ただ、この仲間は、必ずしも同じ時間と空間を生きているとは限らない。遠 く唐天竺のこともあれば、数百年を距てることもあるだろう。しかし〈道〉という共同体は、時空を超えて成立しているのである。道の友は、たとえ時代を距て ても、同じ心を分けもつ仲間であることを確信し、優しく微笑みを交すことができる。私は、俊成が、道の先輩の古人たちと、手をとりあってなか空を歩むイ メージを思い泛べていた。そして、なぜかそのイメージにたわいもなく感動していた。
 道を継いだ人は、道を伝える義務がある。俊成は、自らの心を誰かに伝えねばならない。しかし俊成は、「この心は、年ごろも、いかで申のべんとは思ふ給ふ るを、心には動きながら言葉には出しがたく、胸には覚えながら、口には述べがたく」と言う。つまり〈歌の道〉も、言葉によって語り伝えることのできぬもの である。しかし、遠からぬ死を予感しつつ、彼はこれを何とか語ろうとする。天台智が『摩訶止観』で試みたように。
 このように考えた時、『古来風体抄』は、私にとってその姿を一変した。一言一句にこめられた俊成の思い(皮肉・苛立ち・願ひ・訴え等)が、紙上から自ら 立ち上ってくるように思われた。そして「苔の袖も朝露繁きにつけて、する墨もかつ(涙で)洗はれ、老の筆の跡もいとゞ乱れながら記し終りぬるになん」とい う序文の結びに、確かに俊成の涙を見たように思ったのである。》(266-267頁)

 眼は自分自身を見ることはできない(認識主体は認識客体ではない、あるいは能動態と受動態は異なる)とは言い古された言い方だが、「世界の実相」(たと え不器用なものではあっても、それは言葉でもって語ることができる)をではなく、言葉には出しがたく口には述べがたい「世界の実相を見る眼(心)」そのも のをいかにして伝えるか、現に伝わってしまうのかという問題は、たしかに謎めいている。
 ここに出てくる「心」もしくは「眼」を「〈私〉」に、「仏の道」や「歌の道」を「哲学の道」(ハイデガーは死の数日前に「全集編集上の留意」として、 「道。著作ではない」(Wege-nicht Werke)という覚書を書き残した)に置き換えて、「哲学を伝えること」(永井均)の実相を考えてみる。それが現下の私の関心事である。

★1月14日(日):休日の過ごし方・三題

 今日、未体験の初釜に出かける予定が、お茶の先生のお宅にご不幸ができたので取りやめになり、何の予定もない休日が降って沸いたように訪れた。天気もす こぶるいいことだし、新しく住むことになった街をゆっくりと歩いて見てまわるのも一興かと思った。なにしろ「趣味は?」ときかれたら「散歩と映画」(これ に「料理」をくわえれば池波正太郎さんになる)と答えることに決めているくらいなのだから、街の歩き方についてはちょっとうるさいと言われるだけの研鑽を 積んでおかないと格好がつかない。
 でも結局、朝起きてだらだらと新聞を読み、郵便物を投函しにでかけ、駅前の本屋で本を買い、珈琲を飲みながらだらだらと読み、公園を歩いて図書館に顔を 出し、ホームセンターで買い物をし、パンと珈琲の昼食をとりながら借りてきた本をだらだらと読み、昼下がりに帰宅してパソコンに向かっている。いつもと ちっとも変わらない。
 時間がたっぷりあるのだから、一昨日に書いたことの続きを腰をすえて書いてみようかと思ったが、時間ができたらできたでこなしておかないといけない雑用 があとにひかえているものだから、今日のところはとりとめもない話題をだらだらと書くことにする(と、いったい誰に対して断っているのだろうか)。

 思いついたので書いておくと、「散歩と映画」というときの「散歩」は、健康のためのウォーキングや山歩きやタウン・ウォッチングのことではなく、本屋や 図書館、古書店街、さらに美術館や博物館といった場所を散策(検索)することを言う。
 また「映画」とは、映画を見たり映画の本を読んだりすることだけではなくて、およそ人類の精神的な営みや表現(夢も含めて)の根底にある「映画」的な構 造のようなものについて、物的形象(たとえば洞窟壁画)に即して思いをめぐらせることを言うのだが、このことについては中沢新一さんに先を越された。

     ※
 一昨日に書いたことというのは、黒川信重氏が『オイラー、リーマン、ラマヌジャン』のまえがきに「このように,時代も場所も違った3人の数学者に脈々と して流れているもの,それがゼータです.ピタゴラスにはじまった「素数解明の夢」が発展し「ゼータ統一の夢」としてオイラー,リーマン,ラマヌジャンへと バトンが受け渡されてきた様子をみてください.それは,さらに「絶対数学の夢」へと向かっています」と書いていることと、尼ヶ崎彬氏が『花鳥の使』のあと がきに「天才は孤独かもしれないが、道の人は孤独ではない。同じ道を行く仲間がいるからである。ただ、この仲間は、必ずしも同じ時間と空間を生きていると は限らない。遠く唐天竺のこともあれば、数百年を距てることもあるだろう。しかし〈道〉という共同体は、時空を超えて成立しているのである」と書いている こととは符合していて、さらにこの「数学者の夢」と「歌の道」が拓く系譜もしくは「共同体」は「仏の道」や「哲学者の道」が拓いていくそれらとも通底して いて、そのことを永井均さんの『西田幾多郎』に即して考えてみることが現下の私の関心事であるというものだった。
 で、昨日の朝、その『西田幾多郎』の第一章を精読していくつかメモを作ってみた(実はここ一月ばかり、ほとんど毎週同じ作業を繰り返している)のだが、 先に断ったように(誰に?)そのことについてはここでは触れない。だったら書くなよと言われるだろうが(誰に?)、昨日買い求めた本のことを書いておきた かったので、長々しい伏線を張ってみたわけである。

 井筒俊彦著『東洋哲学覚書 意識の形而上学──『大乗起信論』の哲学』(中公文庫)。井筒俊彦の本でこれまで最後まで通して読み得たのは『意識と本質』と『神秘哲学』の二冊くらい で、そのいずれからも強烈な感銘を受けた(後者が若き井筒俊彦による抒情歌集であるとすれば、前者は著者後年の歌論書に相当するとでも言えようか)。池田 晶子さんの文庫解説「情熱の形而上学」によると、本書は著者の最後の著作で、以後、唯識、華厳、天台と続き、さらにイスラーム、プラトニズム、老荘・儒 教、真言の各哲学へと展開される予定であったという。
 この本を買ったのは、たとえば「存在論の立場においては存在(=「有」)の絶対無分節態(=存在的「無」)であったものが、意識論的には、その背後に、 それを「無」の原初的境位に把持する寂然不動の意識を想定せざるを得ないことになるのであって、これがいわゆる意識のゼロ・ポイントにほかならない」 (67頁)といった記述のうちに、俊成と幾多郎を媒介し、さらに永井哲学の核心を逆照射する確固とした直観のようなものが垣間見えたからだ(と、まだ読ん でもいないのに大見得をきってみたところで、われながら説得力はない)。

     ※
 今日、駅前の本屋で買ったのが吉村英夫著『完全版「男はつらいよ」の世界』(集英社文庫)で、これはリーマンや俊成や幾多郎、井筒俊彦や永井均とは随分 かけ離れている。
 一昨年の夏から毎土曜、NHKのBS2で『男はつらいよ』全48作品が放映されている。たまにこの番組にチャンネルをあわせるのだが、たいがいの作品は 一度か二度、見ている。封切り映画館で、旧作を上映している場末の映画館で、ビデオでTVで、それと意識しないまま、結構見ている。昨晩も『寅次郎の縁 談』(第46作)を見ていて、これも前に見たことがあると途中で気がついた。
 ヒッチコックの全長編作品をDVDで見る。単身赴任先での夜の無聊をいやすために考案したのはこれだったのだが、最近では、中古ビデオを買い込んでほと んど毎晩『男はつらいよ』を見ている。いま手元に持っているのは、『寅次郎夕焼け小焼け』(第17作)、『寅次郎ハイビスカスの花』(第25作)、『寅次 郎恋愛塾』(第35作)、『柴又より愛をこめて』(第36作)、『寅次郎心の旅路』(第41作)の五作で、『ハイビスカス』などは三度見た。いずれ近いう ちに全作品を揃えることになりそうだ。
 寅さんと俊成等々がまったく別の世界の事象かというと、かろうじてつながる回路が一つある。といっても、それはたんなる思いつきの域を出ないものなのだ が、『男はつらいよ』と『源氏物語』はつながっている。たとえば第42作からはじまる「満男と泉」のシリーズは、いわば宇治十帖に相当する。その証拠に (?)、第41作『寅次郎心の旅路』で御前様が「元々、寅の人生そのものが夢みたいなものですから」と語る。吉村本に、「さくら=藤壺」説というものが紹 介されている(34頁)。
 また著者は「シリーズのマンネリズム」がもたらしたプラス面をめぐって、歌舞伎や能や落語、はては「ギリシャ悲劇を筆頭にシェークスピアやモリエールや チェーホフの上演だって同じだろう」(318頁)と書いている。このあたりの経緯も、『源氏物語』や王朝和歌につながっていくと思う。

《シリーズが洗練されていく過程に、文化芸術が様式化され芸術性を高めていく、要するに人類遺産としての古典となっていく様子が凝縮されているといってよ い。四半世紀で磨きに磨かれた。だから初期のごった煮的なものはなくなり、毒もなくなっていった。対立葛藤も非和解的ではない。次のシーンに何が映るかが 次第に観客に見えてくるようになった。
 一つの風俗的現象にすぎなかったものが本物の文化として生き残ることは、次から次へと新しい試みをして皮をむいていくことだけではない。あるいは新たな る部分や異質な要素を付け加えていくだけでもない。目新しいものを求めての試行が新しい文化を生む重要な側面であるのは言うまでもないものの、単なる流行 的現象を本物の文化に昇華させ結晶させるためには、創造者も享受者もふくめて協同的に磨きぬく試練を経なければならないはずである。本物の文化は人類が長 年月にわたって営々と築きあげてきた遺産を継承するところからはじまる。》(318-319頁)

     ※
 最後に、今日、市立図書館で借りてきた本のリストを書いておく。先週借りたもののうち、加藤周一『『日本文学史序説』補講』は拾い読みですませ、丸谷才 一『後鳥羽院 第二版』は「王朝和歌とモダニズム」が面白かったので継続。

◎佐々木幸綱編『日本的感性と短歌』(短歌と日本人U,岩波書店:1999.1)
◎アミール・D・アクゼル『デカルトの暗号手稿』(水谷淳訳,早川書房:2006.9)
◎吉永良正『『パンセ』数学的思考』(理想の教室,みすず書房:2005.6)

★1月15日(月):古いテクストを新しく読むということ

 井筒俊彦『意識の形而上学』第一部「序」に次の文章が出てくる。

《東洋哲学全体に通底する共時的構造の把握──それが現代に生きる我々にとってどんな意義をもつのであるか、ということについては、私は過去二十年に亙っ て、機会あるごとに繰り返してきたので、ここでは多くを語らない。要は、古いテクストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、読みなおす。古い テクストを古いテクストとしてではなく……。
 貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思考テクストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったっままにしておかないで、積極的にそ れらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志 向的、に読み展開させていくこと。》

 こういう言い方そのものは、井筒俊彦でなくても誰にだって口にできるお題目で、ついつい読み飛ばしてしまいがちだ。実地にやってみせてはじめて「古いテ クストを新しく読む」ことの意義、つまり「切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に 読み展開させていくこと」の実質があきらかになるのだから、前口上だけでは誰も恐れ入らない。それはもちろんそうなのだが、やっぱり井筒俊彦クラスの思索 家が書いた文章の中で目にすると、本編を読む前から、なにかしら深甚なことがそこで語られているように思えてくる。

 尼ヶ崎彬氏が『花鳥の使』に収められた「物狂への道」で、「定家の歌論は、多分、こんな風に語っているのではあるまいか」と書いている。

《「歌の道」が何であるかを知りたければ、父俊成の言ったように歌の姿を見て、自分で悟る他はない。しかし、どうすることが「歌の道」なのかときかれれ ば、こう答えよう。それは、「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることだ、と。》(『花鳥の使』133頁)

 以下、尼ヶ崎氏は定家の本歌取りの実例をあげて、「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることの実相を論じている。ここにも先の「古いテクストを新 しく読む」と同様の事情がうかがえるのであって、「ふるきことば」云々を他ならぬ藤原定家の言葉として耳にするとき(においてのみ)、やはりそこからは何 かしら深遠な世界がひらけていくように思えるのである。
 こういう類の言葉を私は「教えの言説」、ひらたく言えば「師の言葉」としてとらえ、そこからひらける言語ゲームもしく共同体の有り様を考察しかけたこと がある[http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY/SYAKAI/6.html]のだが、それはともかく、ここで は、井筒俊彦の「師の言葉」に触発されたいくつかの思いつきを記録しておくことにする。

     ※
 その一つは、古典的テクストを読むこと(古いテクストを新しく読むこと)を和歌を詠むこと(「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えること)との対比 で考え、和歌における本歌取りに相当する「伝統的思考テクスト」の読み方がありうるのではないかというものである。
 話はいきなり飛躍するが、本歌取りに相当する古典の読み方の究極の姿(本家取りとでも言おうか)は、おそらくテクストに封じ込められていた魂のようなも のが立ち上がり、それが読み手に乗り移り憑依・増殖する、つまり読み手の「心なき身」に魂が吹き込まれ、新しい語り手、書き手がそこに出現する、といった 事態のうちに表現されるものなのではあるまいか。
 これはなにやら預言者もしくは使徒のごときものを思わせる妄想だが、もしそうであるとするならば、そこからは「考えているのはいったい誰なのか」という 謎めいた問題がわき上がってくる。というのは、そこに、つまり「古いテクストを新しく読む」ことのうちに立ち上がっているのは、古典的テクストに記された 伝統的思考の内容そのものではなくて、むしろそれを思考する主体の方だからである。
 以前(1月12日)引用した尼ヶ崎彬氏の言い方を借用するならば、古典的テクストの読みを通じて伝わるものは「世界の新しい姿ではなく、世界を見る新し い眼でなければならない」からである。

 ここからさらに二つの思いつきが派生する。思いつきというよりは、腰を据えてじっくり考え抜いてみなければならない問題と言うべきで、それらはいずれも 思考の内容面にかかわっている。
 第一の問題は、「古いテクストを新しく読む」ことからは実は何も新しい思考は生まれてこないのではないかということであり、これと密接に関連する第二の 問題は、哲学的思考の「共時的構造」に対応する伝統的思考の「通時的展開」とは何か、新しい思考が生まれ得ないとして、それではなぜ思想史が必然的に成り 立ち得るのかということである。
 これらをひとまとめにして、哲学的思考における「差異と反復」の問題と括っていいかもしれない。「歌の道」においてもこれと同様の問題が生起するように 思う(「伝統と創造」)。あるいは、この世界でたった一回だけ生じる(生じた)ことの複数性・反復可能性の問題と表現してもいい。
 ここでも話は突然飛躍するが、この話題は、かのデカルトの第二省察に出てくる「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすた びごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」の新解釈(永劫回帰的解釈?)にかかわってくるのではないかと私は考えている。

★1月16日(火):古いテクストを新しく読むということ(補遺)

 昨日はいきなり、デカルトの省察(「私はある」は私がそれをいいあらわすたびごとに真である)をめぐる「永劫回帰的」新解釈という、特大の場外ファウル (?)を予告してしまった。このことについては、いずれ近いうちに「〈私〉という共同体、哲学を伝えること」といったタイトルで書くことにして(本気で考 えているのだと、われながら呆れるが)、今日のところは、昨日書き忘れたことを一つ書いておく。

 和歌における本歌取りと哲学的思索における「本家取り」の違いについて。前者が「ふるきことば」に「新しきこころ」を与えることであるとすれば、後者は 「ふるきこころ」を「新しきことば」に与える(祖述する、もしくは同じ思考を何度でもあたかも初めてであるかのごとく最初から思考する、等々)ことなので はないか。
 あるいは、本歌取りの究極のかたちにおいて「こころ」(生の生々しい事実、クオリア)が「ことば」(思考の約束事、観念もしくは論理の体系)のうちに融 けこんでいくのだとすれば、「本家取り」の行き着く果ては「ことば」のうちに「こころ」を反復すること(ただし、それは一回限りの事実の反復もしくは唯一 の思考主体の複数化といったあり得ない事態をさしている)なのではないか。
 何が言いたいのか、いまだに自分でもよく整理できていないので、ここでは二人の先達の「ふるきことば」をそっくりそのまま引用してお茶を濁すことにす る。

《言葉の全てが、ということは、人が物を考える時決して逃れることのできぬ枠組みとしての観念体系も、人が喜怒哀楽を汲み出す〈意味〉も、所詮は人間の仮 構にすぎない。こう考えた時、定家は〈言葉〉の呪縛から解放されたのではないだろうか。言葉は自明なものとしてあるのではない。それは既に仮構であり、そ れ故に、さらなる仮構を許すものである。そして、綿密に組上げられた〈古き詞〉の約束事と類型とは、詠歌を拘束するものというよりはむしろ、その現実離れ した仮構性を手段として、思うがままに〈新しい意味〉を創造する道を開くものではないか。
 「詞は古き歌にならひ、心はわが心より思ひょれるや、歌の本意に侍らん」(千五百番歌合)
 定家は、仮構である詩的言語の約束事[コード]を操作して、次々と新しい意味の形をつくり出す。しかし、もうそれは、現実とは少しも対応しない。彼は現 実にありうる或る〈型〉を命名することによってではなく、詩的世界の中の〈型〉を操作することによって、新たな仮構を行うだけだからである。例えば、 「花」と「紅葉」の語が担う無数の〈型〉の含みを利用して、「花も紅葉もなかりけり」と詠み、「宇治の橋姫」の本歌を利用して「月をかたし」かせたりする のである。
 従来の、現実を〈型〉に凝結させるような詩的言語を一次仮構と呼ぶとすれば、定家の、現実と直接関らず、一次仮構を素材として組立てられた言葉のあり方 を、二次仮構と呼んでもいいだろう。それは素材である一次仮構に精通しない者には理解不能な言語(達磨歌)である。またそれは、現実の場を決して凝結させ ることができないために、折に触れて詠歌されることも殆どない歌である(「彼の卿が秀歌とて人の口にある哥多くもなし」『後鳥羽院御口伝』)。》(尼ヶ崎 彬『花鳥の使』140-141頁)

《それなら、解説書や入門書のたぐいは無意味かといえば、そうともいえない。解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている場合だけ だと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからである。
 独立に哲学をしているのだから──驚かれるかもしれないが──本書の内容は、じつは西田幾多郎とは関係ない。正確にいえば、関係なくてもぜんぜんかまわ ない。いや、ものすごく関係がある。それどころか西田が言わんとしたことは本書で私が言ったようなことで、私は西田よりもうまく言い当てている、という可 能性はもちろんある。いや、少なくとも私には西田がそう読めるし、そう読まないとさっぱり意味がわからない。しかし、ほんとうにそうであるかどうかは、私 にとってはじつはどうでもいい。西田幾多郎の実態がどうであれ、本書にはそれとは独立の哲学的意義がある。ここで述べられていることは、西田幾多郎という 人物名を離れて、名なしで剥き出しの哲学的議論として提示されても、それ自体で意味があると思う。それが、独立に哲学をしているということの意味である。
 独立に哲学をするなら西田はいらないではないかと言われるなら、それはちがう。他人の哲学の解説がそれを使って自分の哲学をすることによってしかできな いように、自分の哲学のほうも他人の哲学の力で引っ張ってもらわないと進めないという面があるからだ。私はこれまでに、ウィトゲンシュタインとニーチェに ついても、解説書のようなものを書いたことがあるが、どちらの場合も、彼らに引っ張ってもらいながら、その勢いをかりて自分の哲学を勝手に進めさせても らった。そして、そういう点で、西田幾多郎の『場所の哲学』は、彼らの哲学に劣らず、素晴らしいものなのである。
 本書を読めば、西田幾多郎をまったく知らない方でも西田哲学の核心へとまっすぐに導かれる、と私は確信するが、それはじつは西田の確信ではなく私(永 井)の核心なのかもしれない。それらを区別することは私にはできない。》(永井均『西田幾多郎』7-8頁)

★1月17日(水):古いテクストを新しく読むということ(余禄)

 一昨日に書き残したことを、もう一つだけ書いておく。「古いテクストを新しく読む」ことからは実は新しい思考は生まれてこないのではないか、にもかかわ らず思考の「通時的展開」が成り立ちうるとすれば、それはいったいどういうことなのか、という二つの問題にかかわる素材の蒐集として。

 最近出た『BRUTUS』が「脳科学者ならこう言うね!」の特集を組んでいる。表紙にキャラクターになった茂木健一郎のイラストが載っていて、とてもか わいい。マスコット人形にしたら、売れるかもしれない。
 記事の一つに、中沢新一との対談が掲載されている。いろいろと興味深い話題が、対談特有の飛躍と省略と含蓄をもってぽんぽん出てくるので飽きないが、こ こでは一点、「起源問題」をめぐる部分を抜き書きする。

【中沢】茂木さん、『現代思想』で郡司ペギオ君たちとの鼎談で「進化的視点を入れないといけない」って。まさにその通りだと思います。今は今を作り出す長 いプロセスを見ないと、なんで僕らが今そうしているかということが見えやしないんですよね。
【茂木】起源問題を探るというか、古[いにしえ]にさかのぼる運動のほうが、どうも信用できますね。それが本当の創造性ということとつながっていくんじゃ ないかなっていう感覚があります。
【中沢】創造は最初のほうが完成形に近いんです。だんだん複雑化してきて、格好よくなってくるんですが、だんだん偽物になってくるんですよ。
【茂木】まさに心の起源問題を追っていったフロイトやダーウィンがそうであったように、未来に向かって生み出すというよりも、過去に向かって、それこそ起 源を暴くということが……。
【中沢】それが未来なんじゃないでしょうかね。アバンギャルドの概念も、前へ突き進んでいくように見えますが、実際には原点へ戻っていくことなんですか ら。それは正しいと思いますね。
【茂木】脳のメカニズムとしては、ある種の記憶の整理が起こり、その結果、何かが生成されるわけだけれども、その時のなぜ過去へさかのぼるという形でクオ リアが立ち上がるかが、非情に面白い問題なんですよ。
【中沢】人間の言語も記憶もみんなそういう構造で出来ていますよね。逆の方向へ行くんですよ。
【茂木】だから「父母未生以前の本来の面目」という夏目漱石が言われた禅の公案も出てくるわけですね。なんでそういうことが創造性へつながるのかなあ。不 思議だなあ。

 過去に向かって起源(未生以前の本来の面目)を追うことが、そのまま未来に向かう創造性へとつながっていくことの不思議さ。起源問題(あるいは「進化的 視点」の大事さ)とは時間問題の異称なのかもしれない。たとえば、先日(1月12日)引用した尼ヶ崎彬氏の「出世間の共同体」とは、マクタガートのC系列 に属する事柄だったのかもしれない、等々。
 というわけで、現在私が取り組んでいる「作業」は、永井『西田幾多郎』、尼ヶ崎『花鳥の使』、井筒『意識の形而上学』に加えて橋元淳一郎『時間はどこで 生まれるのか』(集英社新書)の四冊を当面の基本テキストとして進行している。
 そういえば、これと関連する議論が山内志朗さんの『天使の記号学』(「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因 として存在する」)や、ハンナ・アーレント『過去と未来の間』の冒頭に出てきたはずで、これも確かめておかなければいけない。

 一つ付言しておく。茂木発言に「クオリアが立ち上がる」とある。この「立ち上がる」という語は、保坂和志いうところの「現前性」とかかわってくる。
 古いテクストを新しく読むことを通じて、「ふるきこころ」が「新しきことば」のうちに立ち上がる。ここに立ち上がるのは実は思考内容そのものではなく、 むしろ思考主体の方なのではないかと私は考えているのだが、それはともかく、原初の立ち上がり(起源)が何度でも繰り返し反復される。そのそれぞれの「立 ち上がり」は一回限りの出来事である(生命がこの地球の歴史の中でたった一度だけ立ち上がったように?)。この複数の「立ち上がり」の間に先後関係や過 去・現在・未来の時制をあてはめてみても、一回限りの現前性をとらえることはできない。ここにもまた時間問題が立ち上がっている。

     ※
 「進化的視点を入れないといけない」という茂木発言は、「脳科学の未来」を特集した『現代思想』(2006年10月)の郡司ペギオ−幸夫、池上高志との 鼎談「意識とクオリアの解法」の冒頭に出てくる。(この鼎談は、途中まで読んで中断したままになっている。いろんなことが半端なままに放置されている。)

《僕は、最近は特に進化論的視点が大事であると思っていて、その中で、ダーウィンがやったようなタイプのアプローチが重要な意味を持つと思っている。つま り、抽象的なフォルマリズムで一刀両断の下に意識の問題が解決される、という可能性はもちろんあるんだけれども、その一方で、ダーウィンがやったように、 「自然誌」という立場から意識の問題を究明する必要があると思っている。つまり、現時点で意識について知られている経験的事実をきちんと押さえ、それらを 総合する視点が必要ではないかと考えてる。その上で、ダーウィンが到達した「突然変異」と「自然選択」に相当する、意識の起源を説明する第一原理を提出す る必要があるのではないかと考えている。》

 宇宙生成と推論のあり方をパラレルに考えるパースの(ヘーゲルの?)アイデアを踏まえるならば、自然誌として記述される経験的事実を総合する第一原理の 生成そのものが宇宙のプロセスのうちに組み込まれていて、それがクオリアであり意識であるといった言い方ができるかもしれない。
 さらに、ここで述べられているのと同じ事態が「ことば」の世界においても成り立っているのかもしれない。定家の歌論における一次仮構が「自然誌」である とすれば、二次仮構が「第一原理」である、といったかたちで。このあたりのことを腰を据えて考えてみようというのが、現在の私が取り組んでいる「作業」で ある。──共時的構造(第一原理)と通時的展開(自然誌)。創造と伝統。差異と反復。「こころ」(生の生々しい事実、クオリア)と「ことば」(思考の約束 事、観念もしくは論理の体系)。

★1月18日(木):宗教から芸術へ

 昨日とりあげた中沢・茂木対談で、『芸術人類学』冒頭に掲げられたレヴィ=ストロースの言葉が話題になっていた。

《どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。唯一失われるもの があるとすれば、それはこれらの千年、二千年が生みだした芸術作品だけである。なぜなら、彼らが生みだした作品によってのみ、人間というものは互いに異 なっており、さらには存在さえしているのであるから。木の像が木を芽生えさせたように、作品だけが、時間の経過のなかで、人間たちのあいだに、何かがたし かに生起したことの証となってくれるのである。》(クロード・レヴィ=ストロース『みる きく よむ』竹内信夫訳)

 このことに関して、茂木健一郎の問い──「人間は本来もっと潜在的能力に恵まれた存在だとしたら、それに対応させて芸術の振れ幅も広くする必要があるで しょう? その時、何を中心に構想されていくんですか」──に答えて、中沢新一が次のように発言している。

【中沢】無意識に直接触れているものですね。無意識の働きが表面化すると、パラノイアとかそういう精神病理の現象に近づきますが、それにある種のロゴスを 入れていくと、芸術作品が立ち上がってくる。人間の心の基盤である無意識を感知させてくれるものが芸術なんじゃないでしょうか。レヴィ=ストロースは、 1000年、2000年の歴史を全部取っ払ってみても、人間の本性の理解についてはほとんど損失がないが、その間に作られた芸術作品がもし消えると大きな 損失だと語っています。人間の本性である心の広大な大陸を垣間見させてくれるものが芸術作品だからだと言いたかったんだと思います。芸術には巨大な大陸が 背後に控えているんだと思いますね。

 レヴィ=ストロースの文章に出てくる「木の像が木を芽生えさせたように」は不思議な表現だ。「最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごと く、いやたぶん実際に原因として存在する」(山内志朗)という事態と響きあっているのかもしれない。引用文の前にどこかの部族の神話が紹介されていて、そ のことに言及されているだけなのかもしれない。
 無意識の働きに「ある種のロゴスを入れる」ことで芸術作品が「立ち上がってくる」、つまり「無意識を感知させてくれるもの」が芸術なんじゃないかという 中沢発言は、「芸術」を「和歌」に置き換え、「無意識の働き」を「こころ」に、「ロゴス」を「ことわり」に置き換えると、貫之・俊成・定家の流れのなかで の歌論につながっていく。
 あるいはまた、無意識の働きが表面化すると精神病理の現象に近づくという発言は、「「歌の道」は、俊成にとっては仏法の「悟り」に通じる道であった。し かし定家にとっては、「物狂ひ」に至る道であったのかもしれない」(『花鳥の使』158-159頁)という尼ヶ崎彬氏の指摘につながっていく。

     ※
 対談の中で、中沢新一は「もう宗教というものはいらない」と語っている。

【中沢】僕は宗教自体に関心があったわけではなく、宗教の中に保存されている人間のとてつもない力を扱う技術の部分に関心がありました。(略)もう宗教と いうものはいらないと思っています。宗教学をやめちゃおう、宗教はいらないって前面に出すとすると、それはある意味、日本人はこのままでいいじゃないか、 ということでもあるんです。
【茂木】要するに国際的な文脈における日本の最大の特徴は無宗教ですよね。
【中沢】ええ。(略)日本は、キリスト教の布教があまりうまくいかなかった数少ない国で、それは、キリスト教が「信仰」を説いたからなんですよ。日本人は 「信心」なんです。これは何かの実在性を信ずるということなんです。木の根元に祠があって、そこに行くとなんとなくすがすがしい気持ちになったり、小川の せせらぎを聞いたりすると、心が清められていくようになる、それが信心というもので、そういうものを日本人は大事だと思ってきている。だから宗教がない、 それはおおいにけっこうだと思っているんです。
【茂木】正確なマッピングではありませんが、いわゆる本居宣長の「漢心」「大和心」や日本をどう普遍化するかを考えた時に、生命論的、生命哲学的な文脈が いちばんふさわしいなと思っているんです。中沢さんの宗教から芸術へという標榜は、僕が感じていたこととまったく同じ、パラレルですね。
【中沢】同じですよ。茂木さんがクオリアで書いていることは、似ているところがとても多いんですよ。

 中沢発言に出てくる「人間のとてつもない力を扱う技術」は、「力もいれずして天地[あめつち]を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲を も和らげ、猛き武士[もののふ]の心をも慰むるは歌なり」(『古今和歌集』仮名序)とされる「歌」、「ウタは神に訴える言葉が韻律をともなうことによって 生まれたものである」(谷川健一『うたと日本人』44頁)といわれるときの「ウタ」という言語技術につながる。
 また「信仰」(宗教教義)と対比される「信心」(霊性感覚)は、「世の中に在る人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて 言ひ出せるなり」(仮名序)にいう「見るもの聞くもの」に、とりわけ「もの」(クオリア)にかかわってくる。
 クオリアという語を目にすると、いつもきまって思い出すことがある。ハイデガーが「フュシス」を「運命のもとにある神々自身」であるとしたこと、ロレン スが古代ギリシャの「神」をめぐって「古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて神であった」「これは決して単なる質ではな い、儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい」云々と書いていたこと[http://www17.plala.or.jp/orion- n/ESSAY2/9.html]。

 茂木発言の「生命論的、生命哲学的な文脈」は、歌の道、仏の道、哲学者の道のあり方に関係してくる。
 生命あるものは生命あるものによってのみ世に生み出される。そのような生命の系譜に相当するものが、「出世間の共同体」においても成り立つ。言葉は言葉 によってのみ世に生み出される(後世に伝わる)。しかしその系譜は世間で通用する時間の流れのうちにあるものではなく、それは彼らの言葉が世間の言葉とは そのあり様を異にしていることとパラレルである。

★1月19日(金):生命・記号・言葉

 昨日とりあげた茂木発言に出てくる「生命論的、生命哲学的な文脈」に関連して、もう一つの中沢新一の発言を、こんどは別の場所から拾っておく。

《無から有への転換がおこって、生命が出現する様子は、記号が生成するプロセスとそっくりです。記号はさきほど述べましたように、表現にむかって垂直に立 ち上がってくる力が、現実の世界を構成する平面にぶちあたるときに、発生します。つまりここでも、いわば無から有への転換がおきていると見ることができま す。そうしてみますと、生命増殖の現象は、洞窟の壁画に動物のイメージを描くときにおこる記号発生の現象と、まったく同じ構造をもっていることがわかり、 似ているもの同士を結びつけるアナロジー能力は、「動物のイメージを描くことが、動物の生命増殖につながる」と思考することになるでしょう。》(「映画と しての宗教」,『群像』1月号)

 生命の立ち上がりと物質的イメージ(記号)の立ち上がりはパラレルであって、それらの間にアナロジカルな関係が成り立つ。生命は自らの立ち上がりのプロ セスそのものを内部に保存し、それを不断に(永劫回帰的に?)かつ物質的に表現することで生命たりうる。記号もまた自らの立ち上がりのプロセスを自らのう ちに保存し、諸記号が織りなす平面のうちに不断に(永劫回帰的に?)自らを表現してこそ記号たりうる。ここにもアナロジカルな関係が成り立つ。
 それでは、非イメージ的な象徴力をもった言葉はいかなるプロセスを経て立ち上がり、また生命と記号、自然と仮構とどのような関係をとり結ぶことになるの か。
 生命や記号と同様に、言葉が言葉たりうる根拠のうちに言葉の立ち上がりのプロセスそのもの(起源もしくは開闢)が保存反復されているのだとしたら、そし てロゴス、推論こそ言葉が言葉たりうる根拠であるとしたら、推論のあり方とパラレルな関係をとり結ぶ宇宙生成のプロセス(物質の起源、時空の開闢、クオリ ア生成のプロセス?)のうちに言葉の起源(言語世界の開闢)を探求することができるのだろうか。
 あるいは、思考主体の立ち上がりにこそ言葉が言葉たりうる根拠があるのだとしたら、より正確には主体や客体等々の「思考の約束事」そのものの立ち上がり (とその永劫回帰的な反復)こそ言葉が言葉たりうる実質であるとするならば、言葉の立ち上がりと「私」(思考主体)の立ち上がりがパラレルで、しかも言葉 を使用することを通じて、かつそこにおいてのみ「私」(思考主体)が永劫回帰的に(永劫懐疑的に?)出現する、などということができるのだろうか。
 また、言葉と生命・記号との間には、「メタ・アナロジー」とでも名づけるべき関係が成り立っているのではないだろうか。アナロジーのアナロジー、関係の 関係、つまりロゴスの生成? 生命・記号・言葉と現実界・想像界・象徴界との関係は?

     ※
 いま「言葉を使用することを通じて、かつそこにおいてのみ「私」(思考主体)が立ち上がる」云々と書いたことに関連して、尼ヶ崎彬氏の文章(これはいず れきちんと取り上げたいと思っている)を一つ引用しておく。

《では、定家の「有心体」は、歌人の実体験している心情を詠むものであろうか(それなら紀貫之の歌論と同じになる)。いや、定家の恋の歌の多くが、女性の 心を詠んだものであるという一事をとっても、そのようなことはありえない。恋であろうが述懐であろうが、そこに詠まれているのは、実体験としての〈心中の 思い〉ではなく、常に虚構の〈心中の思い〉であった。しかもそれは、虚構でありながら、確実に定家の心中にある思いであり、そこから和歌を産出するような 「なやませる」過程である。
 つまり「有心体」にいう「心」の所有者は、現実に生活を送っている(生活世界の)歌人その人ではなく、ただ詠作時に、いわば虚像として生ずる「作者」 (詩的主観)にすぎない。そして「作者の心」とは、和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし動的な生命をもって「深くなや」むことのできる 「心」である。我々はこのような「心」をとりあえず〈詠みつつある心〉と呼び、「詞」の意味として表現された「歌の心」を〈詠まれた心〉と呼んで区別する ことにしよう。即ち、「有心体」とは、能産的運動としての〈詠みつつある心〉をもって、所産的内容としての〈詠まれた心〉を産出するような和歌の様式であ る。
 これを長明の歌論にあてはめれば、「中古の体」とは〈詠まれた心〉を明瞭に表現することを目指すものであり、「幽玄体」とは輪郭も定かでない〈詠みつつ ある心〉の運動を読者の心中に再現することを目指すものである、と言えるだろう。》(『花鳥の使』153頁)

 ここに出てくる「詠みつつある心」という概念は、どこか加藤典洋が『テクストから遠く離れて』で展開した「脱テクスト論」(テクスト受容空間における実 定的な「作者の像」の概念)を思わせるところがある。また、「歌人の心(実体験としての心中の思い)」と「詠みつつある心」と「詠まれた心」という広義の 「歌の心」を構成する三つの項が、引用文の最後に出てくる「読者の心」とどのような関係に立つのかも気になるところである。
 気になることは他にもいくつかあるのだが(「詩的主観」に対する「詩的客観」とは何か、等々)、それはともかく、ここで大切なのは「詠みつつある心」が 和歌の産出過程において「のみ」立ち上がっているものであること、すなわち、「詞」の意味としての「詠まれた心」を産出する「能動的運動」の相において 「のみ」それは立ち上がり、そしてそうであるからこそ、それは虚構世界のうちに「動的な生命」として立ち上がるということである。
 まわりくどい、しかし舌足らずな言い方しか今のところはできないが、ここには記号産出過程と生命産出過程がアナロジカルに重ね描かれている。そして論証 抜きに結論めいたことを書き加えるならば、そのような記号−生命産出過程そのものを自らの虚構世界のうちに組み込むことでもって「詠みつつある心」が、と はすなわち言葉(言語世界)そのものが立ち上がり、そしてそれは永劫回帰的な能産的運動を通じて無数の作者と読者(我と汝)を産出しつづける。

★1月20日(土):映画としての宗教

 『群像』1月号に掲載された「映画としての宗教 第一回 映画と一神教」で、中沢新一は、フォイエルバッハの唯物論的宗教論や旧石器時代の洞窟壁画のイ メージ群を素材にして、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつくりあげている構 造と、そっくりだという事実」──「映画は発明される以前から、すでに存在していて、ヒトの心にとって重大な働きをしてきた」「映画が発明される数万年も 前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めた」というヒトの心の本質とイメージの運動と宗教の発 生に関する考古学的事実──について語っている。以下、手短に要約してみる。

 イメージの興亡もしくはイメージの運動とその構造としての宗教をめぐる「映画的理論」は、次の三つの要素からなる。第一に、フィルムに喩えられるヒトの 心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。第二に、このフィルムに記録 されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)とし て投影される外部のスクリーン。
 また、イメージには次の三つのタイプがある。第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。そ れらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内 側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが 欠けている。
 第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の 物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群であ る。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。
 第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水 平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。 身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。
 これら旧石器の洞窟壁画に現われたイメージ群、とりわけ第二群(記号性)と第三群(幻想性)の層に属するイメージに基づいて、新石器の都市世界を中心に 豊かな多神教(物質性をまとったイメージ=偶像としての神々)の世界が造形されていく。
 物質イメージの魔力(そして偶像としての神々と結託した王権・帝国、すなわち幻想としての国家の呪縛)からの脱出(エクソダス)をはかったのがモーセの 革命である。すなわち非イメージ的なことばの象徴力に基づく一神教(モノティスム)の宗教思想であった。しかしイメージの魔力の上に立つ「メタ・イメー ジ」の方向に抜け出ようとした一神教は、かえって宗教を巨大な映画館にしてしまい、自らのまわりに物質的な力を呼び集めてしまった(ハリウッド映画はその カリカチュア)。
 イメージの魔力からのエクソダスには、これとは違う二つの道がある。その一は、イメージの第二群・第三群(観念的イメージ群)の働きを否定し、イメージ 作用の第一群(差異の運動がくりひろげられている裸の現実世界、唯物論的イメージ群)の方に向かう唯物論。その二は、ブッダの道。人間の本質である 「心」、その「心」の本体である流動的知性の無限の働きにたどりつくこと。身体を使い第一群のイメージの深い淵に踏み込んでいく実践を通して、流動的知性 に直接触れていくこと。(要約終わり)

 中沢新一の集中講義はまだ始まったばかりなので、この先どう展開していくかを見ないうちから軽々なことは言えないのだが、「映画の機構」もしくは「映画 的構造」に対する中沢新一の立ち位置がいまひとつつかみきれない。
 立ち位置というのは、まず肯定的か否定的かということで、それはそもそも考古学的・人類学的な「事実」なのだから肯定も否定もないとも言える。「映画」 と「映画の機構」とは違う、だからたとえばハリウッドの娯楽映画をどう評価するかとか、ヒトが宗教活動を通じて目指してきた探求を現代において引き継ぐ映 画作品とはどのようなものなのか、といった議論がここで展開されているわけではないとも言える。
 私がよくつかめないのは、音楽や演劇、舞踏、詩や小説ではなく、なぜ映画なのかということの方であるようだ。視覚的なイメージではなく聴覚的な音もしく は声、あるいは触覚的な感覚、等々、さらには言語技術に着目した宗教理論というものも考えられるのではないか。映画や音楽や詩といった個別のジャンルでは なくて、芸術一般に着目した宗教理論というものが。
 いや、イメージを視覚に限定して考えるからそんな愚にもつかない疑問が出てくるのであって、視覚イメージだけでなく、聴覚イメージ、触覚イメージ、等 々、さらに運動イメージや時間イメージ、はては意味イメージ──「「真如」とは言うけれども、この特定の語が喚起するような意味イマージュに該当する客観 的事態が実在するわけではない」(「言真如亦無有相(真如ト言ウモ亦タ相有ルコト無シ)」(『大乗起信論』)の井筒俊彦訳,『意識の形而上学』29頁) ──までをも考えて、それらを総じての「映画理論」なのだ。そう考えることもできる。
 いずれにしても、比較宗教学講義の連載は始まったばかりなのだから、もう少し先を見てから考えることにしよう。ただ、言葉とイメージとの関係だけは気に なる。貫之・俊成・定家・心敬・宣長の歌論の流れと仏教思想との関係を探ることで、もう一つの「映画理論」(たとえば、井筒俊彦の「意味分節・即・存在分 節」説の向こうをはった言語物質論のごときもの)をしたてあげることができるかもしれないし、そうはうまくいかないかもしれない。

★1月21日(日):映画としての宗教(続)

 「流動的知性(認知的流動性)」について、念のため「映画としての宗教」(『群像』1月号)から抜き書きしておく。それは、ホモサピエンスをネアンデル タールから分かつ「心の革命」によって発生した。

《おそらくニューロンの接合回路が組み替えを起こし、それまでブロックされていた認知領域の間に、横断的な行き来を可能にする組織換えがおきたからだろう と、推測されています。そこから、今日の私たちのものとまったく変わらない、いくつもの特徴ある心の活動がはじまりました。現在地球上で話されている言語 の種類はおびただしい数にのぼりますが、そのすべてが同一のモジュールでつくられていることがわかっています。この「ホモサピエンスの言語」では、アナロ ジー(喩、類比性能)が大きな働きをしています。異なる意味を重ね合わせて、新しい意味をつくりだす働きです。このアナロジーは言語のシンタグマ軸とパラ ディグマ軸の双方に働いて、メタファーやメトニミーを生みだし、豊かな表現を可能にしましたが、こういうことが起こるためには、心の内部に横断的に働いて いく流動的知性が発生していなければならなかったのです。
 それはまた、ホモサピエンスに特有の社会組織も作り出す力をもっています。違うものをまとめて上位のカテゴリーをつくっていく能力から、親族を分類する ための呼称の体系がつくられたり、それを用いてまるで代数の問題を解くようにして、結婚のシステムを制御していくやり方などが、発達するようにもなりまし た。数についての認識も、認知的流動性の働きなしには不可能だったことでしょう。ようするに、今も私たちが何気なく使用している知的な能力のすべてが、旧 石器時代に起こった根本的な「心の革命」をきっかけにして、ヒトの心に発生してきたのです(そして、革命はそのとき一回きりで、そのあとは進化も進歩もお こってはいません。旧石器人と現代人の心の構造は、完全に同一なのです)。
 このとき宗教が発生しました。宗教はほかのタイプの心的活動とはちがって、自分たちの心に起こった革命的飛躍そのものに向かおうとしました。ほかのタイ プの心の活動では、流動的知性を使って、つぎつぎと新しい開発が進められましたが、宗教は自分たちの内部で活動する流動的知性そのものに照準を定めた、独 特の活動を展開したのです。日常的な思考がおこなわれている場面では、流動的知性は表面にはあらわれてこないようになっています。(略)
 つまり、「心の革命」ののち、新しい世界がつくられるようになると、革命の最大原因をつくった流動的知性の活動そのものは、日常性の下に覆い隠されてし まって、意識されなくなってしまいます。
 ところが、この偉大な「革命の原点」にあくまでも踏みとどまり、革命の意義を伝達し続けていこうとする実践が、ホモサピエンスの心のうちには出現したの です。すなわち宗教の出現です。はじめて宗教活動をはじめたヒトは、その「革命の原点」の光景を、映画の機構をつうじて、自分らの眼前に映し出そうとしま した。映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めたのです。》

 これを読みながら、私は、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』に出てくる「アナログの私」という概念を思い出したりしていたのだが、それはともか く、ヒトの歴史のなかでただ一回だけ起きた根本的な革命(永井均のいう「開闢」?)が「ホモサピエンスの言語」を発生させ、その言語のなかで言語の起源と なった「心の革命」と完全に同一な事態が日々、ただし日常性の下に覆い隠されそれとして意識されないままに再現されている(開闢の奇蹟が開闢の内部の一つ の存在者として位置づけられている?)。
 たとえば、和歌という言語技術を駆使することでもって、「詠みつつある心」という思考主体が現前する(イメージとして眼前に映し出されるわけではな い)、つまり立ち上がるように。あるいは、「「私はある、私は存在する」という命題が、「それをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるた びごとに、必然的に真である」ように。

★1月22日(月):仮面考

 昨年暮れに始まり、先週の初め頃から本格的な段階への下ごしらえと素材蒐集に取りかかったこの名前のない「作業」(「歌とクオリア」もしくは「立ち上が る〈私〉」もしくは「〈私〉という共同体」等々)を通じて、私はそもそもいったい何をやろうとしていたのだったか。そして、それが今どこまで成し遂げら れ、あるいはまだやり終えていないのか。これらのことを中間的に整理・総括しておかないと、話が「佳境」もしくは「本題」に入る前にどんどん逸脱・拡散 し、いずれは無明の世界へあわあわと消え入りかねない。それだのに、また新しい書物を買い求めてしまう。退却不能なまでに、戦線が拡大していく。

 入手したのは、岩波から刊行中の『坂部恵集』第3巻「共存・あわいのポエジー」。ここには『仮面の解釈学』に収められた論考のほとんど(他に『「ふれ る」ことの哲学──人称的世界とその根底』のほとんどと『モデルニテ・バロック』の一部の論考)が収録されている。
 『仮面の解釈学』はつごう二冊所持している。二つにわかれた「書庫」(現在では三つになった)のいずこに収納したものか、いくら探しても見つけられず、 とうとう二冊目を買って読み始めたらすぐにみつかった。二冊も揃えているのに、この書物はどうしても読み通せない。あまりに眩い光を放ち、うかうか読み進 めると眼がつぶれる。新しい装丁と編集のもとで、今度こそ読み通せるかもしれない。
 とりあえず、あとがきと月報と単行本未収録の講演録「仮面の解釈学──時と影のたわむれ」に目を通した。もう眩暈の予感が漂っている。(たまらなくなっ て、既刊の著作集第2巻「思想史の余白に」、第1巻「生成するカント像」をつづけて買ってしまった。いずれもあとがきと月報を眺めただけだが、もう来月刊 行される第4巻が待ち遠しい。)

     ※
 私事を一つ。かつて、かれこれ7年ほど昔のこと、「仮面考」という論考に向けた下ごしらえと素材蒐集に夢中になったことがある。その顛末(というか残 骸)は、「音=声を通して」[http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY/TETUGAKU/19.html]「顔 =貌に面して」[http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY/TETUGAKU/21.html]「身=実を割い て」[http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY/TETUGAKU/22.html]の3回にわけてホームページ に残している。以下は、その中間的な総括から。

《仮面(的なもの)の第一の機能。──器の虚ろ(空洞、あるいは細川俊夫の「母胎空間」)に音が懐胎し増幅し、通い響きあい、そして穴を通して外へと発す る。無人称のものの声(根源語[Ursprache]、あるいは祈りの言葉)として?
 声は再び穴(あるいは我=割れ目)を通して侵入し、膜(鼓膜、皮膚、界面)を震わせ身に浸透する。人称をもったものの名=汝として?
 仮面(的なもの)の第二の機能。──変換作用そのものの媒介と境界の造形。仮面は自らを痕跡として可視化する。たとえば顔は虚ろな器=穴を原器とし、膜 =界面をもって形象化される。それは細胞膜のように、異なる浸透圧によって物質と魂を変換する?
 顔には無数の穴がある。(無数の隙間があいたスクリーンを通って、電子は自らに干渉する、歴史の痕跡をいっさい止めずに。)また、顔は身を積分する。身 は自らに折れ曲がった管=壺=椀=盤である。(マイクロ・チューブル[微小管]における量子干渉によって産出されるもの。)
 仮面(的なもの)の第三の機能。──自らに折り返した穴(虚ろ)は、器の表面を二層化する。そして虚ろによって型取られた(象られた)もの、すなわち虚 中の実として産出されるもの。脳、内臓、胎児、言語、イメージ、観念、概念、自我、自己、霊的物質、魂、意識、等々。
 生殖する身、食らわれる身、死にゆく身、腐敗する身、乱舞する身、変貌する身、仮面を被る身、浮遊する身、等々。》

《情報の変換器としての仮面の機能をめぐる、新たな考察のためのメモランダム。──生殖による情報の(再)物質化と、受肉による物質の更新(新生、創造) の違いについて。
 生体を死体へと脱魂する鎮魂儀礼としての能。死体(自動機械、人形)に生命的な力(獣性、霊性)を憑衣させ生体へと変貌させる芸能としての歌舞伎。── これらは、いずれも「第二の管」(内部世界をもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、内部世界(有限空間=知覚[実在]世界?)と外部世界(超空間= 無限空間=想起[仮想]世界?)との媒介=変換、あるいは生殖による(再)物質化と死による物質の崩壊。
 ここでの変換は、第一のレベルの管(笛)のメカニズム(声の発生)を介して遂行される。水平的変換、あるいは三次元的「厚み」での出来事。物質から生命 へ、あるいは生命から物質への変換。
 神の受肉(内在)と人間の神化(超越)。──これらは、いずれも「第三の管」(心的システムをもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、経験的世界 (=現実世界?)と超越的世界(=可能世界?)との媒介=変換、あるいは受肉による物質の更新(新生、創造)と神化による物質の廃棄。
 ここでの変換は、第二のレベルの管(弦、弓)のメカニズム(声の共鳴・合成と沈黙[=波動関数の収縮?])を介して遂行される。垂直的変換、あるいは四 次元的「深み」での出来事。物質から精神=歴史へ、あるいは精神=共同体から物質への、生命を媒介とした変換。
 しかし、ここでいう「物質−(生命)−精神」の変換プロセスは容易にその垂直性を喪失し、「物質−生命」の変換プロセスへと崩壊するだろう。というの も、受肉の思想は絶えざる緊張関係に支えられなければ、憑依の思想(というより憑衣感覚)や輪廻転生の思想へと推移する傾向にあるからだ。とりわけ精神 が、共同体意識に呪縛された霊性(≒生命)のレベルにとどまっている場合。
 ここで、第三の変換を考えることができるかもしれない。──精神を生命(≒霊性)のレベルではなく「意識」のレベルへと「高める」ことによって、物質と 精神を媒介する変換。すなわち、「第一の管」(二つの穴をもつ管、あるいは多孔体)のレベルでの出来事。第三のレベルの管のメカニズム(たとえば、夢?) を介して遂行される変換。(しかしここでもまた、それがいったいどのような変換なのかいまだ思考途上ゆえ、いまはこれ以上書くことができない。)》

 自分が書いたものなのに、ほとんど理解できない。判じ物のようだ。ただ、これらの文章を書いていた時の身体感覚(不可思議の実在の変幻極まりない動きに 今まさに触れているのだという確かな実感=妄想につきうごかされて、私がこれを書いているのか、そのものによって私が書かされているのかを区別することが 「私には」もはやできない、といった)の余韻のようなものは甦ってくる。
 仮面的なものをめぐる三つの機能は、言葉の働きを、言葉による表現が生み出すものを指向している。じっさい、仮面考第4回のタイトルは「名=徴を超え て」というものになる予定だった。それはまた、「仮面の記号論」という未完の(というより、未だ着手できていない)論考の仕上げへとつながるものであっ た。(さらには、言葉が物質そのものを産み出していく不可思議な表現(変換)の世界へと向かうはずだった。いまの私はそれを、そのような不可思議な事態を めぐる実証的考察のフィールドを、定家を極相とする歌論の世界に見いだしている。)

 ここまで思考をめぐらせたとき、『仮面の解釈学』が、もうとうの昔からそのはるか先に屹立していたことに思いあたった。迂闊なことだった。
 坂部恵の「仮面考」は、二重性の相のもとに造形されている。同じもの(同一と思われているもの)のうちにズレを生み出し、同時にこのズレを媒介するはた らきが仮面である。「共存・あわい」という著作集第3巻の副題が、そのことを示している。とりわけ坂部によって“Betweenness- Encounter”と英訳された「あわい」という語が、ことの実相をもののみごとに言い表している。
 それはまた郡司ペギオ−幸夫が『生きていることの科学』で論じた「マテリアル」の概念そのものでもある。私が「仮面的なもの」のうちに見ようとした機能 やその質量性そのものである。であるならば、何もつたない思索を重ねることはない。『仮面の解釈学』という書物に深く沈潜することでもって、言い換えれ ば、他者の言葉のうちに自らの思索を結実させてみること(あるいは他者の思索を幻聴の声として聞くこと?)で足りるではないか。こうして、私の「仮面考」 は中断し、今に至っている。

★1月23日(火):日本語で哲学するということ

 昨日は思わず私事に走ってしまった。本来の話題にもどす。本来の話題とは、すでに二冊もっている『仮面の解釈学』に収められた論考のほとんどを収録した 『坂部恵集』第3巻を購入したこと、とりあえず著者によるあとがきと月報と論考一篇に目を通し、軽い眩暈に襲われたことだった。
(いや、ほんとうの「本来の話題」は、当面の無名かつ無明の「作業」の着地点をみつけることだった。ところが、着地点を踏んだと思ったら、それが実はスプ リング・ボードで、さらに戦線が拡大してしまったというわけだった。未完の「仮面考」を組み込んだもう一つ先の着地点。それを「クオリアとペルソナ」とで も仮に命名しておくか。)
 あとがきに二人の人物の名が出てくる。林達夫と武満徹。林達夫について、坂部恵は「敬愛するこの「精神史」の先達」とか「今でも氏の「弟子」でありたい と念じつづけている」と書いている(林達夫熱再来の予感)。以下は、武満徹について書かれた文章。

《「〈おもて〉の解釈学試論」を書いている時から、わたくしには武満徹が音楽でしたことをことばの世界でしてみたいという思いがつねにあった。繊細な精神 と感覚で和学と洋楽を競い合わせ、並び立たせる武満の孤絶の営為には、日本語と西欧の哲学の最新の方法をつなぎ合わせるにあたって範とすべき無限のヒント がかくされているようにおもわれたからである。》

 著作集第2巻「精神史の余白に」のあとがきには、「わたくしのカント読解の歩みは、あえて僭越を承知でいえば、あたかもグレン・グールドの弾くバッハの ごとくに、従来の定型的なスタイルを思い切ってはずす破格な解釈の提示を目指して進められてきた」と書いてある。
 武満徹が音楽でしたことをことばの世界でする。グレン・グールドの弾くバッハのごとき破格な解釈を提示する。どちらも魅力的な言い回しだが、ここでは 「ことばの世界」での営為、つまり哲学に関して、第3巻の月報に木村敏が寄せた「日本語で哲学するということ」を取り上げる。
 この小文は実に見事なもので、坂部哲学の質感を生々しく伝え、あまつさえ発酵しつづける木村哲学のエッセンスの残り香を漂わせている。あまりに見事なの で、抜き書きではなく全文を引用する。

《哲学する、あるいは哲学的にものを考えるとき、ことばがそこで果たす役割について、すこしばかり考えてみたい。坂部恵さんという、西洋の哲学を学んで西 洋の哲学についての広い学殖をもつ哲学者が、意識的に日本語で哲学しようとする、その姿勢にわたしはかねてから大きな敬意を抱いていて、その坂部さんの著 作集に添える月報の話題としては、ことばの問題が一番ふさわしいように思えたからである。
 「哲学する」という言いまわしが、哲学という名の学問に従事するという以上の、むしろそれがなければ哲学が哲学にならないような基本的な姿勢を指してい ること、これはすでに言い古されたことだから、あらためて書くまでもないだろう。ただ念のために一言いっておくと、哲学するというのは、狭い意味での哲学 を哲学として成り立たせているだけでなく、もっと広い意味で、あらゆる知的な営為について言いうるような、思索的な態度のことである。たとえば医学におい ても物理学においても、建築についても音楽についても、ひとはすぐれた意味で哲学的にものを考えることができる。
 ものを考える場合に、ことばがどんな役割を果たすのか、考えた内容をことばで表現するだけでなく、なにかを考えるためにはすでにことばが必要なのか、こ とばで言い表せないような考えというものがありうるのか、そういった問題はすべて独自の哲学的な問題になっていて、古来、多くの議論が交わされてきたこと がらだから、門外漢のわたしが口を差し挟む余地はほとんど残されていない。精神科医としてのわたしが、これまでの議論ではおそらくほとんど取り上げられて こなかったであろう側面から、ことばと思考の関係について発言することも、無意味ではないだろう。
 統合失調症と呼ばれる精神科の病気がある。すこし前までは精神分裂症と呼ばれていた。この病気になると、健常者がふつうの日常生活では経験しないよう な、だから正常な論理では理解しにくい病的な心理現象がいろいろと現れる。そういった症状のひとつに、以前から「思考伝播」と名づけられてきたものがあ る。これはドイツ語の Gedankenausbreitung を訳したもので、英語だと thought broadcasting、フランス語では vol de la pencee' などと呼ばれたりする。この症状を持つ人は、自分の思ったことが、口に出してしゃべらなくても他人に伝わってしまう、だからいつも周りの人たちに自分の心 を見透かされている、テレビを見ていても、アナウンサーが自分の考えを知っていて、それを皮肉るようなことをいう、などという体験をわれわれに語ってくれ る。
 しかしそういう患者の話をじっくり聴いてみると、そこで自分の内部から抜け出して相手に伝わると彼が感じているものは、実はまだ言語的に分節された「考 え」になっていないらしいことがわかる。それはまだことばにならない、ことば以前の意向というか、こころの動きのようなものであるらしい。つまりこの症状 は、自分のすでに考えたことが相手に伝わるというのではなく、自分の言いたいこと、自分の考えようとしていることが、先回りして相手にそのまま漏れてし まっている、自分の「思い」を他人が先手を打って「考えて」いる、とでもいうより仕方のないような、説明の非常に困難な構造をもっている。
 自分の思いを他人が横取りしているというこの奇妙な構造は、統合失調症の代表的な症状である幻聴の場合にも認められる。他人が自分の行動をいちいち指図 したり、自分の意図を論評したりする声を幻聴として聞いている患者は、その声の主の言っていることがまさに彼の図星をついているという。もちろんこの指図 や論評は患者自身の意図が言語化されたものなのだから、図星をついているのは当然なのだが、問題は彼がこの言語化の発生する場所を、自分ではなく他人だと 体験している点にある。
 もうひとつ例を挙げると、本を読んでいるとき、いつもだれかが数語先を音読している声が聞こえるという人もいる。われわれは印刷された文章を読む場合、 それを文字言語として一語一語拾って意識する前に、それにいわば一瞬先だって、まずその意味だけを捉えてしまうのが普通なのではないか。すらすら読める文 章を校正して誤植を発見するのが難しいのも、そのためだろう。意味とことばとのこのズレ、この時間差が、自分自身の内部で起こるのでなく、自分と他人との あいだに起こったこととして意識されるのが、この症状である。
 精神病という極限状態では、ことばとその意味がこのように完全に乖離することがある。自分のものか他人のものかという、その所属が別々になりうるだけで なく、時間的にもそこに微妙な差異が発生しうる。意味がことばに先行するというのが原則なのだが、これも患者の話をよく聞いてみると、ことば以前に発動し ているこころの動きをそのまま意味と名づけるのは、早計に過ぎるのではないかとも思われる。幻聴で図星を指されたという患者のなかには、自分の真意を相手 の声によってはじめて教えられたと感じる人もいるからである。ことば以前のこころの動きは、意味以前であるのかもしれない。
 シニフィアン・シニフィエという言い方をすると、現在分詞の signifiant のほうが過去分詞の signifie' に先行している格好になっているし、事実、われわれがひとの話を聞いたり書かれたものを読んだりするときには、シニフィアンがまず与えられて、シニフィエ はそれについてくるものなのだが、自分の考えを話したり書いたりする場合だと、シニフィアンがそこから出てくる源泉のようなものが、シニフィエとは別の次 元に存在していると考えざるをえない。統合失調症の患者では、この源泉の自己所属性が不明確になって、それが──幻聴ではそれに伴ってシニフィアン自体も ──自分以外の場所で発生するかのように体験されるのである。
 フランス語でことばの「意味」ということをいうときに、sens とか signification とかのほかに、「言いたい」「言おうとする」という動詞をそのまま使った vouloir-dire という言い方があるのは、たいへん示唆に富む。ヴロワール・ディールというこの動詞は、まさにことばがそこから出てくる源泉として、シニフィアン・シニ フィエ複合以前のこころの動きを的確に表現していると思うからである。「思考伝播」で他人に洩れるもの、幻聴で他人に先取りされているもの、それはこのヴ ロワール・ディール以外のなにものでもないのではないか。
 哲学の勉強は、哲学の書物を読むことから始まる。日本で哲学といえばだいたいは西洋の哲学をさしているから、それを学ぶためには、ギリシア以来の西洋人 が日本語ではない外国語で書いてきた書物を読まなくてはならない。そこでわれわれは当然、辞書を引く。しかし辞書に書いてあるのは語義、 signification だけである。その著者がそこでなにを言いたかったのか、なにを言おうとしているのか、そのヴロワール・ディールは、全体の文脈から推測する以外にない。し かもこのヴロワール・ディールこそ、哲学者が哲学的にものを考える、その考えの切っ先になっているはずのものなのである。
 だからたとえばハイデガー以後の哲学者が Sein とか l'etre とか書いているのを読んだとき、これを一概に「存在」の語で置き換えて、この語の哲学事典的な語義だけでそれを理解することができるのか、それこそ大問題 だろう。その背後には、日本語だと「ある」と「いる」、「がある」と「である」。その他のさまざまなことばがそこから生み出されるような、あるいは「存在 するとは違った仕方で」「存在する」といわざるをえないような、そんなヴロワール・ディールが隠されているかもしれないのだから。
 しかし、ハイデガーが Sein ということばをあれほど執拗に、綿密に考えぬいたからこそ、われわれはそれに置き換わりうる日本語について、それがどのような意味で、どのようなヴロワー ル・ディールのときに使われるのかを教えられたともいえるだろう。ちょうど、幻聴の声を聞いてはじめて自分の真意を教えられたという患者の場合のように。 ヴロワール・ディールは、ことばがそこから語り出される源泉である。しかしそれは、ことばが語り出されてはじめて意味として限定されるような、本来無限定 で意味以前のものでもあるだろう。そしてこのヴロワール・ディールは、それが意味にまで限定されることによって、はじめてシニフィアンとしてシニフィエに 貼りついて、著者の真意を読者に伝える通路となりうる。
 われわれがどのようなこころの状態におかれたときに、どのようなヴロワール・ディールが発動されて、そこからどのようなことばが語り出されるのか、それ を日本語の、ごく日常的に用いられていることばのかずかずから読み解こうとする作業、坂部さんのこのお仕事は、哲学するということのもっとも基底的な作業 にほかならないだろう。》

★1月25日(木):他者の思考を幻聴の声として聞くこと

 一昨日、全文引用した木村敏の「日本語で哲学するということ」(『坂部恵集』第3巻月報に掲載)は、何度読み返してみても飽きることがない。実に使い勝 手がよくて、いくらでも応用がききそう(もしくは、この論考を安全基地として連想と妄想を恣にすることができそう)である。
 ただ、そこに書かれていること自体は、要約してしまうと実に簡単なものだ。以下、適当に言葉を継ぎ足し「補足」しながら、後々の汎用性を考えた勝手な 「縮約」(あるいは創造的誤読もしくは誤訳ならぬ想像的「誤約」とでも?)を施しておく。

【1】
 言葉と思考の関係は「ヴロワール・ディール(言葉による表現以前の無限定な思考)─シニフィアン(文字・音声記号としての言葉)─シニフィエ(言葉に よって表現=限定された思考)」であらわされる。
 通常シニフィアンとシニフィエは結合してシーニュ(記号)となるので、この「V−Sa−Se」の三項関係は正確には「V−Sa・Se」もしくは「V− S」の二項関係に、より厳密には(V以前とS以後を組み入れて)「ある心の状態─ヴロワール・ディール(Saがそこから生まれる源泉としての心の動き)の 発動─言葉の語り出し(Sa・Se結合の提示)─言葉を通路とする思考(言葉が語り出されて初めて意味として限定される真意=V)の伝達」の四項関係(拡 大V−S関係)に変換される。

【余録1】
 言葉による分節以前の思考(V)を「生命論的、生命哲学的な文脈」に置き換えると「父母未生以前」(もしくは「前世」?)になるのかもしれない。そうだ とすると、文字・音声記号としての言葉(Sa)は「子の身体」に、言葉によって表現=限定された思考(Se)は「子の心(魂)」にそれぞれ置き換えること ができるかもしれない。
 もしそうだとすると、上記の四項関係は「生命物質─父母未生以前─身心結合─心(魂)の伝達」となる? あるいは「絶対無─私と汝─私─死後の生」もし くは「物質─生命(霊性)─精神(言葉)─意識(魂)」となる?

【2】
 ところで、「V−Sa−Se」の三項関係のうちには時間のズレがある。言葉を書き話す場合、通常は「V→Sa→Se」、つまり思考(V)が言葉(Sa・ Se)に先行すると考えられている。しかし実際の体験としては、人は言葉を書き話すこと(Saに貼りついたSeを提示=意識すること)ではじめて自分の思 考(V)を知る(「Sa→Se→V」)。
 統合失調症の症状においては、この時間のズレに応じて言葉と思考をめぐる三項関係に歪みが生じ(「V−Sa−Se」⇒「Sa−V’」;ここで「V’」は 「Vと取り違えられたSe」のこと)、かつ、そのズレが自分自身の内部にではなく他者(自分以外の場所)との間に起こったこととして意識される。たとえ ば、思考伝播では他人に洩れるもの(V’)が他者に所属し、さらに幻聴においては、他人に先取りされるもの(V’)だけでなくそれに伴う言葉(Sa)まで もが他者に所属するものとして体験される。

【補遺1】
 言葉を読み聞く場合にもこれと同様の事態が生じている。(ただしこの場合、言葉と思考の関係は、思考Vが他者に所属するものであることから、「V−Sa −Se」が「Sa−Se−V」に変換される。Saは元来他者に発するものであるが、読み聞かれたとたん読み手・聞き手に所属する。Seについては微妙であ る。書き手・話し手、読み手・聞き手に両属する公共的なものと考えてもよい。この点は、言葉を書き話す場合と同断である。)
 言葉を読み聞く場合、通常は言葉(Sa)がその言葉によって表現された他者の思考(Se)の理解に先行すると考えられている。あるいは、表現された言葉 (Sa・Se)の全体の文脈から他者が本当に伝えたかった思考(V)を推測するものと考えられている。しかし実際の体験としては、人は言葉(Sa)を読み 聞くのに一瞬先んじて他者の思考(Se)を知る。あるいは、言葉(Sa・Se)による表現全体を見てとるのに一瞬先んじて他者の思考(V)をすでに知って いる(推測によらず他者の思考が伝わっている)。
 統合失調症の症状においては、この時間のズレに応じて言葉と思考をめぐる三項関係に歪みが生じ(「Sa−Se−V」⇒「Se−Sa」あるいは「V’− Sa」)、かつ、そのズレが自分自身の内部にではなく他者(自分以外の場所)との間に起こったこととして意識される。たとえば、「本を読んでいるとき、い つもだれかが数語先を音読している声が聞こえる」という症状の場合には、Saが他者(その言葉を書き話す他者であるとはかぎらない)に所属するものとして 体験される。それだけでなくSeもしくはV’(正確には、読み手・聞き手によって理解されたSeもしくは推測されたV’)までもが他者に所属するものとし て体験される症状があるかもしれない。

【補遺2】
 言葉を書き話すことと読み聞くこととの関係があやしくなってくる。言葉を書き話すとき、人はその言葉を読み聞いている(言葉を読み話すことで、人ははじ めて自らの思考をあたかも他者の思考であるかのごとく知る)。言葉を読み聞くとき、人はその言葉を書き話している(言葉を読み聞くより前に、人は他者の思 考をあたかも自らの思考であるかのごとく知っている)。言葉を書き話すことと読み聞くことは相互に入れ子になっている。自己と他者の区分が、思考の所属先 が定まらなくなっていく。
 個体発生と系統発生の関係になぞらえるならば、言葉を読み聞くこと(他者の思考を知ること)が書き話すこと(自ら思考すること)に先行している。人は他 者の言葉を読み聞くこと、とりわけ聞くこと──「神々の声」(ジュリアン・ジェインズ)であれ「他者の語らい」(ラカン)であれ(ただし、それはまだ「言 葉」ではない)──を通じて言葉の世界に参入するのであって、生まれながらにして言葉を書き話す(自ら思考する)主体ではないからである。釈迦のように、 誕生と同時に「天上天下唯我独尊」などと発語する人はいない。
 ただ、人は読み聞く主体(とりわけ聞く主体)として生まれるという言い方をすると、それは間違っている。読み聞くことは書き話すこととの(相互入れ子式 の)関係のうちにしか成り立たないからである。自己の思考と他者の思考との(相互入れ子式の)関係と「思考主体」の成立とはパラレルだからである。
 言葉を書き話すことと読み聞くことが相互入れ子式の関係を取り結ぶということは、言葉が言葉として誕生すること(人が日常生活において意味のある言葉を 使用できるようになること)と同断である。自己の思考と他者の思考とが相互入れ子式の関係を取り結ぶということは、思考主体が誕生すること(人が日常生活 において意味のある思考ができるようになること)と同断である。

【余録2】
 ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』で、意識は三千年前、幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二院制の心」(bicamerai mind)の精神構造の衰弱とともに誕生したという仮説を提示している。
 もしこの仮説が何らかの考古学的・人類学的な(もしくは生命論的・生命哲学的な文脈における)真相に触れているものであるとしても、そしてそこで言われ る「意識」が先に述べた「思考主体」と同義であるとして、それは言葉を読み聞くことと書き話すこととの相互入れ子式の関係が成立した後でしかそのようには 言えない。思考の所属先(これは自らの思考なのか他者の思考なのか、思考しているのか思考させられているのか)をめぐる相互入れ子式の関係、ひいては自己 と他者をめぐる相互入れ子式の関係が成立した後でしかそのようには言えない。
 ジュリアン・ジェインズの仮説は、ある思考主体(ジュリアン・ジェインズ)が、現に言葉として機能している言葉を使用して、思考主体そのもの、言葉その ものの誕生の経緯(思考主体と言葉の誕生以前の出来事)に言及している。実は、そうした自己言及的で自己包摂的な表現が可能になること自体が、言葉と思考 主体の同時多発的な誕生がもたらしたものである。

【余録3】
 統合失調症の症状に現れる、日常生活における「正常な論理では理解しにくい病的な心理現象」は、言葉と思考主体が誕生する以前の「心の状態」(意識と無 意識の対表現を超える「原−無意識」や「絶対無意識」、あるいは端的に「絶対無」とでも?)が、現にある言葉と思考主体による思考のうちに位置づけられた ものである。
 生命論的・生命哲学的な文脈において(もしくは考古学的・人類学的な事実として)、この「絶対無意識」の心的状態は現に経験される心的状態(「意識・無 意識」の二院制の心的状態とでも?)に先行する。また、それは「私と汝」の関係に出てくるそれとは異なる意味での「他者」(「原−他者」とか「絶対他者」 とでも?)に所属する心的状態である。
 ここで、さらに「原−思考」とか「絶対思考」とか「絶対無の思考」(「絶対無」の場所における思考、「絶対無」自身の思考)といった概念を提示すること ができるかもしれない。言葉や思考主体の誕生以前の思考。たとえば乳幼児の思考。受精卵の思考。物質の思考(=生命の誕生)。宇宙の思考(=現象界の誕 生)。「全ては虚空に浮かぶものから始まった」(ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』)。

【3】
 哲学することは、哲学の書物を読むことから始まる。それは他者の哲学的思考の結果(思考内容)を知ることではない。哲学書を読むとは他者の思考を幻聴の 声として聞くこと、すなわち自らの哲学的思考として聞くことである。他者の「哲学すること」を今ここに、自らにおいて立ち上げることである。それこそが哲 学するということの実質をなす作業、すなわち「古いテクストを新しく読むということ」(井筒俊彦『意識の形而上学』)にほかならない。

【補遺3】
 哲学書は言葉で書かれている。言葉の底には「意味カルマ」(井筒俊彦)が潜在している。自らの体験に根ざしながら言葉の底に深く潜行し、「意味カルマ」 の「現象化志向性」に促されること、すなわち言葉と思考主体の誕生のプロセスを自らのうちに反復すること、それが哲学するということのもっとも基底的な作 業にほかならない。

     ※
 以上の、脱線と逸脱に満ちた「縮約」(あるいは超訳ならぬ「超約」とでも?)のうちには、永井均著『西田幾多郎』の議論が見え隠れしている。このことに ついては、近いうちに着手予定の論考において取り上げる。それは、言葉と思考の関係をめぐる三項関係のもう一つのヴァージョンである「クオリア─言葉─ペ ルソナ」──あるいはこれに茂木健一郎の「志向性」の概念、中沢新一の宗教の映画理論における「フィルム」に刻まれたデータ(表現へと向かうヒトの心の深 部の構造、記号を生み出そうとする意志のプログラム)、井筒俊彦がいう「現象化志向性」、等々を取り入れた四項関係「クオリア─志向性─言葉─ペルソナ」 ──をめぐるものになるだろう。
 また、井筒俊彦著『意識の形而上学』の議論が、これは見え隠れどころではなく、その一部が説明不足のまま露出している。1月15日から始まった当面の 「作業」(基底的作業?)の一応の中間総括と、そこから始まる次の「作業」(実質的作業?)へのつなぎを急ぎたかったからで、以下、この後者に関連する部 分をもう少し抜粋しておく。

《我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵された無量無数の言語的分節単位それぞれの底に潜在する意味カルマ(=長い歳月にわたる歴史的変遷を通 じて次第に形成されてきた意味の集積)の現象化志向性(=すなわち自己実現、自己顕現的志向性)に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的な「無物」 空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の有意味的存在単位が、それぞれ自分独自の言語的符丁(=名前)を負って現出すること、 それが「分節」である。我々が経験世界(=いわゆる現実)で出遭う事物事象、そしてそれを眺める我々自身も、全てはこのようにして生起した有意味的存在単 位にすぎない。存在現出のこの根源的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。》(『意識の形而上学』29-30頁)

★1月27日(土):本のリストと若干の抜き書き──ペルソナ・ヒュポスタシス・その他

 一昨日までで、一応の構想がまとまった。「クオリアとペルソナ」というまだ仮称のタイトルのもとで、ここ十年あまり取り組んできた作業の集大成をやって みよう。何年かかるかわからないけれど、また、今の意気込みがどこまで続くかわからないが、とにかくやってみよう。そう腹をくくると、いわく言いがたい開 放感(解放感より開放感)のようなものが訪れてきて、とても気分がいい。新しいノートを買って、いろいろ書き込みをやっていると、なお気分がいい。それだ けでもう何事かを成し遂げた気持ちになってくる。
 まずは、永井均『西田幾多郎』と尼ヶ崎彬『花鳥の使』の重ね描きから始める。戦術は決めている。地道に一点集中、先走らず着実に。だのに、やっぱり気持 が先走る。あれこれ読みたくなる。「ペルソナ」に関連する書物を求めて、図書館に出かける。ドゥンス・スコトゥスのペルソナ論を取り上げた八木雄二『「た だ一人」生きる思想』〔http://www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI3/265.html〕は見つからなかったが、既 読、未読の関連本、無関連本を借りてきてしまった。気持ちが少し濁ってくる、というか拡散していく。

◎山田晶・責任編集『世界の名著20 トマス・アクィナス』(中央公論社:1980)
◎坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』(岩波書店:1996)〔http://www17.plala.or.jp/orion -n/NIKKI/10.html〕
◎八木雄二『中世哲学への招待──「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』(平凡社新書:2000)〔http: //www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/27.html〕
◎八木雄二『イエスと親鸞』(講談社選書メチエ:2002)
◎加藤隆『一神教の誕生──ユダヤ教からキリスト教へ』(講談社現代新書:2002)
◎檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学──ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』(講談社現代新書:2005)
◎『ハイデッガー カッセル講演』(後藤嘉也訳,平凡社ライブラリー:2006)
◎湯田豊『ツァラトゥストラからのメッセージ』(角川叢書:2006)
◎保坂俊司『宗教の経済思想』(光文社新書:2006)
◎正高信男『ヒトはいかにヒトになったか──ことば・自我・知性の誕生』(岩波書店:2006)

     ※
 トマス・アクィナスの『神学大全』第一部は、神をめぐる三つの考察からなる。第一に神の本質に属することがら(第2問〜第26問)、第二に神の三つのペ ルソナに関することがら(第27問〜第43問)、第三に神からの被造物の発出に関することがら(第44問〜第119問)。世界の名著『トマス・アクィナ ス』に訳出されているのは第一の考察で、第二の考察は残念ながら収録されていない。
 ただ、ペルソナという語彙そのものは散見される。たとえば、第15問第2項「複数のイデアが存在するか」に出てくる次の文章とその訳注。

《もしもそれ〔複数のイデア〕がただ被造物においてのみ実在するものであるとすれば、被造物は永遠から存在するものではないから、もしイデアがこのような 関連のみによって複数化されるとすれば、イデアの複数性は永遠からのものではないことになろう。またもしそれが神のうちに実在するとすれば、ペルソナの複 数よりほかの実在的複数性が神のうちに在ることになる。これは、「不生、出生、発出」以外には、神においてはすべてが一であるというダマスケヌスのことば (2)に反する。それゆえ複数のイデアは存在しない。》(『トマス・アクィナス』436頁)

《(2) 『正統信仰論』第一巻一○章。ギリシア教父第九四巻八三七。「不生」ingeneratio は御父のペルソナを、「出生」generatio は御子のペルソナを、「発出」processio は聖霊のペルソナを表わす。これについては、第二七問「神のペルソナの発出について」において論じられる。》(同440頁)

     ※
 なお、スンマ第一部第29問に言及した文章が坂部恵「人称的世界の論理学のための素描」(『坂部恵集』第3巻)に出てくるので、抜き書きしておく。

《また、その発展途上で、いわゆる「人格」や神の「位格」を、元来「仮面」の意をもつ「ペルソナ」の語でとらえ、それを「理性的本性をもつ個的実体」 (rationabilis naturae individua substantia)と規定した西洋哲学の思想が、こうして、実体あるいは基体(hypostasis)の概念を媒介として「ペルソナ」をとらえること によって、「ペルソナ」の概念がもともとそなえていた他者とのドラマチックなかかわりという本質的契機を追い追い欠落させて、自己完結的な実体あるいは今 日のことばでいえば一つの閉鎖系という側面のほうを逆に浮かび上がらせて、ひととひととのパーソナルなかかわりの世界をありのままにとらえる道をかえって 閉ざしてしまったというようなことが多少でもあるとすれば、これまた、奇妙なことではないのか。
 さきの個的実体としてのペルソナ規定から、デカルトの自己完結的な実体としての自我あるいは心の規定、ライプニッツの窓をもたぬモナドというかぎりでの 自己完結的な実体、あるいは純粋に形式的普遍的な命令にまで還元された内面の良心の声にみずからの自己同一性のあかしを見いだすカントの道徳的人格までの 道は、一見しておもわれるほど遠いものではない。》(169頁)

     ※
 ヒュポスタシスとペルソナの関係について、坂口ふみ『〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人びと』に刺激的な叙述がある。このことは、以前取り上げ た「仮面考」〔http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY/TETUGAKU/19.html〕のなかでふれたこと がある。ここでは、その昔、ヘーゲルの『大論理学』を読んでいたときのノート〔http://www17.plala.or.jp/orion- n/FILE/HEGEL31.html〕を思い出したので自己引用しておく。

◆三位一体論について。山田晶『アウグスティヌス講話』(新地書房)から。──
 父と子と聖霊の関係は、ニケア公会議(325年)においてギリシャ語を使って次のように定式化された。すなわち三者はウシア(本質)においては一である が、ヒュポスタシス(土台・基礎・実体[substance])においては三であると。
 ここに出てくる「ヒュポスタシス」はプロティノス哲学における重要な概念である。この哲学ではまず万物の根源・超越者としての一者(ト・ヘン)が在り、 そこから理性(ヌース)が、さらに理性から魂(プシュケー)が出てくるのだが、この一者・理性・魂がヒュポスタシスなのである。
 しかしギリシャの教父たちが父・子・聖霊をヒュポスタシスと名づけたとき、その内容はプロティノス哲学とは非常に異なったものになっている。すなわち、 プロティノスにおけるヒュポスタシスは「一者→理性→魂」と下方に流出し三者は無条件に同一のものではないのに対して、三位一体論におけるヒュポスタシス は──子と聖霊は父から発出するのではあるが──それぞれ独立の相互に区別された性格をもっているのである。このことを強調するために、父と子と聖霊は 「ウシア」において一であるとされた。
 ところで、西方教会では先の定式はラテン語で表記された。その際、ウシアはエッセンチァと、ヒュポスタシスはペルソナと訳されたわけだが、さらに聖霊が 父から発出する際に子がどのようにかかわるかという問題をめぐって、ニケア・コンスタンチノポリス信経の「父より出ずる聖霊」という表現に「および子よ り」(フィリオ・クエ)を付加した。
 一方、東方教会では聖霊は父から「子を通して」発出するものと解されていた。そこでは三つのヒュポスタシスが「父→子→聖霊」と直線的な発出の線をたど るのである。これに対して西方教会では、三つのペルソナは「父と子→聖霊」と逆三角形のかたちを取る。
<西方教会の三位一体論によれば、神は御自身を理解することにおいて御自身の似姿を御自身のうちに生み出します。かくて、神御自身のうちに生み出された御 自身の似姿が「みことば」であり、それは生み出された者であるかぎり「子」と呼ばれ、それに対して生み出す者としての神は「父」といわれます。…ところで このようにして神の「理解」のはたらきによって生み出された「子」と、それを生み出す神としての「父」との間には「愛」が生じます。「父」と「子」との間 に生じた愛が、すなわち「聖霊」です。>
 ──ヘーゲルは、個別性とは<個性と人格性の原理>であるといっている。訳文にいう「人格性の原理」がペルゼーンリッヒな原理、つまりペルソナ的な原理 をさしているのであれば、個別的概念としての普遍・特殊・個別が神の三つのペルソナに相当すると見ていいだろう。そして、純粋概念(普遍的概念)がウシア あるいはエッセンチァに相当すると見ることができるかもしれない。
 普遍的概念から特殊的概念へ、そして特殊的概念から個別へ、さらには概念の自己分割へと推移するヘーゲルの叙述は──中沢氏(『はじまりのレーニン』) がいうように──東方教会的な意味での三位一体論を下敷きにし、ヒュポスタシス(ペルソナ)の発出過程と相互関係を同時に示したものなのだろう。

◆和辻哲郎「面とペルソナ」から。──
<面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切り 詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つもので ある。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。
 ここまで考えると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。… しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペル ソナであり、地位、身分、資格もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと 言われる。>
 ──ここでいう面(顔面)は象徴ではない。概念もまたこのような意味での面(ペルソナ)である、といえるのだろうか。

     ※
 ついでに(何がついでか分らないが)、最近買った本のリストを書いておく。

◎廣松渉『もの・こと・ことば』(ちくま学芸文庫:2007)
◎五味文彦『藤原定家の時代──中世文化の空間』(岩波新書:1991)
◎『古今和歌集(一)』(久曾神昇訳注,講談社学術文庫:1979)
◎山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書:2007)

 廣松本と五味本は「クオリアとペルソナ」に関連してくる(『古今集』は、その第一回「歌とクオリア」に「仮名序」を取り上げるために入手)。山村本はそ ういう文脈のものではない。読み終えて「書評」を書かず放置したままになっている本がたまっていて気になって仕方がないので、敬愛する「狐」氏の文章に触 れて、滞貨一掃への勢いを得たいと思った。
 それこそついでに、きちんと「書評」を書いておきたい本をリストアップして内圧を高めておく。(河野哲也『〈心〉はからだの外にある』や熊野純彦『西洋 哲学史』を筆頭に、読みかけ本のリストアップもしておきたいが、それこそ心が濁ってしまうのでやめておく。)

◎檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学──ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』(講談社現代新書:2005)
◎福田アジオ編『結衆・結社の日本史』(山川出版社:2006)
◎柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書:2006)
◎吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫:2002)
◎阿部謹也『近代化と世間──私が見たヨーロッパと日本』(朝日新書:2006)
◎ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫:2006)
◎渡仲幸利『新しいデカルト』(春秋社:2006)
◎小林道夫『デカルト入門』(ちくま新書:2006)
◎篠原資明『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書:2006)
◎加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(筑摩書房:2004)
◎保坂和志『小説の誕生』(新潮社:2006)
◎堀田善衛『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫:1996)
◎永井均『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版:2006)