不連続な読書日記(2006.10)



【書評・感想】

●郡司ペギオ−幸夫『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書:2006.6.20)

《二人称の科学、一期一会の科学》

《一人称としての、いまここにあるわたしの痛みは、わたしにおいて疑う余地がなく、論じる必要がない。三人称の痛みという、わたしと完全に切れた痛み概念 は存在しない。痛みの問題は、常に、わたしが対峙する他者の痛みの問題であり、わたしの痛みを他者に伝える際の問題である。だからそれは、わたしの痛みを 理解し、表現する、という問題として成立する痛みであり、二人称の痛みの起源としてのみ、成立するんだと思う。》
 「痛み」はいろんな言葉に置き換えることができる。「表現」という語彙も「現実」もしくは表現や認識の「外部」との対比において本書のキーワードをな す。これらを応用すると、たとえば「生きていることの科学」すなわち「二人称の科学」とは「外部=現実」の「表現」そのものであって、それは終わりなき会 話を通じてのみ成し遂げられる、などということができるかもしれない。
 ここでいう会話は自問自答とは似て非なるものだ。自問自答の堂々巡りは果てしないが、それは実は最初から終わっている。会話には媒介が必要である。P (ペギオ)とY(幸夫)の会話体で構成された本書に、常にG(郡司)の沈黙が潜在しているように。
 なぜ媒介が必要なのか。分離し区分するためである。本書に即していえば「もの」と「こころ」の分離である。それはなぜ必要なのか。対象(物質世界)が混 乱しているからである。あるいは分離し区分しないかぎり対象(モノ)が立ち上がってこないからである。そうしないと生物は生きられない。
 それだけではない。分離区分が往路だとしたら、その復路がなければならない。そうでなければ、「生きているもの」は把握できても「生きていること」へは 到達できない。なんのための二元論かというと、混乱した一元論の外へ出るためであって、「モノそれ自体」のリアリティを放棄するためではない。だから媒介 は「区別を創り出しそれを無効にする力を潜在させるもの」でなければいけない。
 そうした媒介者のことを著者は「マテリアル」と呼ぶ。「一方で認識とその外部の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。こ の二つが、マテリアルにおいてつながっている。わたしが示すマテリアルとは、そういった概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されること になります。」
     ※
《まったく知らない人の死体に向き合うとき、それは本質的には死体で、モノに近いなにかのはずだよね。死体である限り、わたしが彼の人生を理解したりする ことはできない。それは遺体ではなく、死体として出会うことの定義でもある。にもかかわらず、死体であることと矛盾する、彼のここに至るまでの来歴を想像 することはでき、いや、そうしてしまう。それはモノの移動や運動を想像するように、できるはずだった。だけど、そのような来歴の想像は、彼が生きて崖から 滑り落ち、ここにくるまでのすべてを想起させたというわけだよね。遺体であることと、死体であることとは矛盾する。でもここでは、死体であることと、遺体 であろうとすることが共立して、そこに一期一会の存在が感得されている。それは、マテリアルの存在と同じものなんだ。》
 語っているのはY、聞いているのはP、最後まで沈黙しているのはG。ここに、死体と遺体を区別しかつその区別を無効にする媒介、つまり死者が立ち上がっ ている、あの「二人称の科学」を成り立たせている媒介者が、などと言うことができるだろうか。あるいは、一期一会の出会いのうちに究極の会話、すなわち死 者とのコミュニケーションが成り立っている、などと。


【読了】

●ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫:2006.3.10)
●渡仲幸利『新しいデカルト』(春秋社:2006.7.20)
●小林道夫『デカルト入門』(ちくま新書:2006.4.10)
●篠原資明『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書:2006.10.20)
●福井晴敏『Op.ローズダスト』上下(文藝春秋:2006.3.15)
●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#16(講談社:2006.10.13)
●漆原友紀『蟲師7』(講談社:2006.2.23)
●橘真児『保健室』(二見文庫:2006.10.10)
●草凪優『公園で萌えて』(双葉文庫:2006.10.20)
●草凪優『とらわれ』(桃園文庫:2006.11.15)


【購入】

●渡仲幸利『新しいデカルト』(春秋社:2006.7.20)【¥2200】
●小林道夫『デカルト入門』(ちくま新書:2006.4.10)【¥700】
●デカルト『方法序説・情念論』(野田又夫訳,中公文庫:1974.2.10)【¥705】
●『デカルト=エリザベト往復書簡』(山田弘明訳,講談社学術文庫:2001.11.10)【¥950】
●エミール・ブレイユ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(江川隆男訳,月曜社:2006.6.30)【¥3400】
●カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(中山元訳,光文社古典新訳文庫:2006.9.20)【¥648】
●綿抜豊昭『連歌とは何か』(講談社選書メチエ:2006.10.10)【¥1500】
●辻惟雄『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫:2004.9.10)【¥1300】
●木村敏・檜垣立哉『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社:2006.1030)【¥1900】
●篠原資明『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書:2006.10.20)【¥700】
●竹内薫・茂木健一郎『脳のからくり』(新潮文庫:2006.11.1)【¥514】
●清水良典『村上春樹はくせになる』(朝日新書:2006.10.30)【¥720】
●内田青蔵『「間取り」で楽しむ住宅読本』(光文社新書:2005.1.20)【¥740】
●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#16(講談社:2006.10.13)【¥390】
●橘真児『保健室』(二見文庫:2006.10.10)【¥600】
●草凪優『公園で萌えて』(双葉文庫:2006.10.20)【¥600】
●草凪優『とらわれ』(桃園文庫:2006.11.15)【¥600】
●『現代思想』2006.10〔特集|脳科学の未来〕(青土社)【¥1238】
●『大航海』No.60〔特集|パース 21世紀の思想〕(新書館:2006.10.5)【¥1429】
●『エロコト』ソトコト11月号増刊(木楽舎)【¥552】
●『ブルータス』2006.8.15〔特集|若冲を見たか?〕(マガジンハウス)【¥552】
●『カーサ・ブルータス』2006年9月号〔特集|日本の伝統建築、デザインの基礎知識〕(マガジンハウス)【¥933】



 【ブログ】


★10月2日(月):デカルト的自己(1)

 デカルトの『省察』を読んでいる。今年の3月にちくま学芸文庫から出た新訳(山田弘明)で、この古典はなんとなく読んだ気になっていた(実は拾い読みし かしていない)ので、買ったきりで放置していた。
 にわかに読み始めることにしたのは、「一人称による六日間の省察」というウリの言葉(?)がとつぜん妙に琴線に触れたこともあるが、春先に半分ほど読み その後どういうわけかそのままになっていた『〈心〉はからだの外にある』(河野哲也)をサクサクと読み切り、読後の混沌がいまだにつづいている『生きてい ることの科学』(郡司ペギオ−幸夫)と合わせ技で「書評」を書いておこうと思いたったものの、サクサクどころか冒頭のあたりをウロウロするばかりでいっこ う先へ進めないのは、河野氏がギブソンの生態学的心理学を敷衍することでもって撃破しようとしている「デカルト的な自己の概念」なるものがどうやら腑に落 ちないからではないかと気づいたからだ。
 いわく、デカルトにとっての自己(「私はある」の「私」)とは純粋な思惟作用であって、身体を含めた物的世界から独立している。しかし、デカルトが 「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」(第二 省察)と書くとき、そこで必然的に真であるとされた「私」は、「私はある、私は存在する」と発語(内語)したときの「私」である。すなわち、デカルトに とって「思惟」とは「自分で自分の声(言葉)を聞くこと」(49頁)であり、純粋思惟としての自己とはそのような「声の物理性を忘却したときに得られるも の」(51頁)であるにすぎない。
 このような「デカルト的自己」に対して、河野氏が提示する「エコロジカルな自己」は「徹底的に身体的な存在」(44頁)である。

《これまで主観主義的な哲学では、しばしば、「認識している風景のなかには自己は存在していない」とか、「見ている自分は見られない」と主張されてきた。 その場合、知覚している自己は自分によっては知覚できないとされている。この主張は、私たちが何らかの神秘性や世界を脱した超越性を備えた存在であるかの ように訴えており、これによって私たちの自己愛[ナルチシズム]は満足するだろう。自己を神秘化して悦ぶ考え方は、洋の東西、今と昔、文化や宗教の違いを 超えて存在し、多くの人たちによって受け入れられてきたのである。それでは他人に不公平だというので、他者を神秘化する哲学もある。
 しかしそれは、単純に、能動態は受動態ではありえないという言語的・文化的な規則を現実に投影した幻想ではないだろうか。あるいは、視覚は、可視光線と いう媒体を利用する感覚であるゆえに、鏡などの光を反射させるツールがないと自己の姿が見えないという事実があるが、「見ている自分は見られない」という 主張は、この事実を反映しただけのものではないだろうか(触覚でいえば、私は触っている自分に触りかえすことが可能である)。結局、私たちが身体的な存在 であるかぎり、知る自己は同時に知られる自己なのである。知る自己だけに自己の本質を求めることはできない。知る自己とは、環境中で身体をもって行為す る、知られる自己でもあるのだ。》(52頁)

 ここに書かれていることが腑に落ちないというのではない。
 ほんとうは、書き写しているうちだんだん腑に落ちなくなっていったのだが、そのことはいまの話題とは直接関係ないのでここには書かない。でもそれだと きっと忘れてしまうし、もしかすると実は「いまの話題」に大いに関係しているのかもしれないので、個人的な備忘録として、「能動態は受動態ではありえない という言語的・文化的な規則を現実に投影した幻想」という言い方が、「〈世界〉と〈人間の中にある(中で起こる)感覚・思考など〉と〈言葉〉の三者の関 係」(保坂和志『小説の誕生』21頁)においてどういう意味をもつのだろうか、とだけ書いておく。
 腑に落ちないのは、河野氏が「エコロジカルな自己」を対峙させている「デカルト的な自己」の概念が、ほんとうに「デカルト的」なのかどうかということ だ。といっても、それは要するに私がデカルトを実地で読んでいないことからくる疑念にすぎない。だったらいちど読んでみることだ。読まずに不審がっていて もはじまらない。というわけで、昨日から、河野氏が引用している『省察』を読み始めた。

★10月4日(水):デカルト的自己(2)

 河野氏が『〈心〉はからだの外にある』の第一章で引用していた「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、ある いは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」は、六日間におよぶ『省察』の二日目、「第二省察」に出てくる。
 省察のこの段階にいる「私」は、感覚も身体ももたず、世界にはまったく何もないと想定している。しかし、感覚も身体ももたない「私」や、まったく何もな い世界を(経験可能なものとして)想定することなど、ほんとうはできない。それはいったいどのような「私」であり、世界であるというのか。
 省察のこの段階にいる「私」は、つまり感覚も身体ももたず世界にはまったく何もないと想定している「私」は、実は身体と感覚にしっかり結びついていて、 世界には天や地や精神や物体が満ちていることを知っている(経験している)。少なくとも実生活のうえでは、そのようなものとして「私」や世界をとらえる 「生の習慣」のうちにあることを自覚している(そうでないと、生きていくための行為がなにもできない)。
 しかし同時に、認識(真理の観想)の局面において、それらがけっして疑いえないわけではないことを知っている。たしかに「私」は感覚と身体をもっている (ついでにいえば、記憶をもち、言葉を知っている)。天や地や精神や物体に満ちたものとして世界を経験している。そして同時に、そのような感覚や経験が、 明らかに偽であるとはいえないまでも、まったく確実で疑いえないわけではないことを知っている。省察という名の思考実験を通じて、身体と感覚に結びついた 「私」や天地、精神、物体に満ちた世界の確実性を疑うことができる。

 こうしてデカルトは、一日目の省察(「疑いをさしはさみうるものについて」)で四段階の思考実験(懐疑)を試みた。
 第一。われわれは感覚によって欺かれているのではないか。しかし、たとえ感覚から汲まれたものであっても、「いま私がここにいること」や「この手そのも の、そしてこの身体全体が私のものであること」等々はまったく疑うことができない(ように思われる)。
 第二。われわれは夢を見ているのではないか。目覚めと眠りとを区別することができる確かな標識がない以上、「いま私がここにいること」等々は夢のなかの 出来事なのかもしれない。しかし、われわれの意識のうちにあるものの像が真であるにせよ偽であるにせよ、少なくともそれを構成している色はたしかに真なる ものでなければならない(これはどういう意味?)。それと同様に、たとえわれわれが夢の中にあっても、二たす三は五であり、四角形は四つ以上の辺をもたな いといった、確実で疑いえない単純で普遍的なものがある(ように思われる)。
 第三。私は万能の神によって欺かれているのではないか。二と三とを加えるたびに、四角形の辺を数えるたびに、この神は私が誤るように仕向けたかもしれな い。すべてをなしうる神なら、それくらいのことはできる。
 たとえ、そのような「常に誤りうる私」を創造することは神の善性に矛盾するのではないか、といった「真理の源泉である最善の神」に関するこれまでの「古 い意見」がすべて虚構のものであったとしても、つまりまぎれもなく私が常に誤りうるもの(真なるものを認識する能力をもっていないもの)であったとして も、それでも「信じやすい私の心」にしたがって行為する「生の習慣」そのものは揺るがない。(このあたりの「要約」はきわめて怪しい。)
 第四。私は最高の力と狡知をもった悪霊に欺かれているのではないか。外界のすべては夢のだましにほかならず、それによって悪霊は「信じやすい私の心」に 罠をかけているのかもしれない。私は身体と感覚を、誤ってもっているのかもしれない。そうだとしたら、私は「生の習慣」のなかで「想像上の自由」を楽しん でいるにすぎなかったのだ。
「かくしてこれからは、光のなかではなく、いましがた提起されたさまざまな困難の、解きがたい暗闇のなかで暮らさねばならない」。「あたかも渦巻く深みに いきなり引きこまれたかのように、私は気が動転し、底に足をつけることも、水面に浮かびあがることもできないありさまである」。

 二日目の省察で、デカルトはさらに歩みを続ける。以下、「「私はある、私は存在する」というこの命題は…」が出てくる箇所を、新訳(ちくま学芸文庫)か ら丸ごと抜き書きしておく。

《それゆえ私は、私が見ているものはすべて偽であると想定しよう。あてにならない記憶が表象するものはどれも、何も存在しなかったと信じることにしよう。 物体、形、延長、運動、場所は幻想だとしよう。それでは何が真なるものか? おそらく確実なものは何もないという、このことだけであろう。しかし私は、い ましがた私が吟味したすべてのものとは別のもので、それについてわずかでも疑いの余地を残さないものはないということを、どこから知るのであるか? 何か 神というものがいて、あるいはそれをどのような名で呼んでもよいが、それが私にそういう考えを注ぎ込んでいるのであろうか? しかしなぜ私はそう思うの か? おそらく私自身がそういう考えの作者でありうるのに。それならば、少なくとも私は何ものかであるのではないのか? しかし私はすでに、私が何らかの 感覚や、何らかの身体をもつことを否定したのである。それでも私はためらう。それではどういうことになるのか? 私は身体と感覚にしっかりと結びついてい て、それらなしでは在りえないほどではないのか? だが私は、世界にはまったく何もなく、天も地も精神も物体もないと、自分に説得した。それゆえ私もまた 存在しない、と説得したのではなかったか? いや、そうではない。私が自分に何かを説得したのなら、たしかに私は存在したのである。しかし、何か最高に有 能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫をこらしている。それでも、かれが私を欺くなら、疑いもなく私もまた存在するのである。できるかぎり私を欺 くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは、私を何ものでもないようにすることは、けっしてできないだろう。それゆえ、すべてのこと を十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」 Ego sum, ego existo という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。》(44-45頁)

 ここに出てくる「推論」は、「この神[万能の神]は、いかなる地も、天も、延長するものも、形も、大きさも、場所もまったくないのだが、しかし私には、 これらすべてがいま見えているとおりに存在していると思われる、というふうにした[そのようなものとして世界と私を創造した]かも知れない」といった種類 のものとはまるで違う。また、ここで「私は在る、私は存在する」といわれている「私」は、いわゆる「デカルト的な自己」のことではない。

★10月9日(月):デカルト的自己(3)

 前回、「第二省察」の前半に出てくる「私は在る、私は存在する」という命題のなかの「私」はいわゆる「デカルト的自己」のことではない、と書いた。少な くとも、省察のこの段階でその存在が見出された「私」は、河野哲也さんが『〈心〉はからだの外にある』で、ギブソン由来の「エコロジカルな私」(徹底的に 身体的な存在=死ぬ私)と対比させて書いている「自己意識」(自分で自分の声を聞く純粋思惟の作用)のことではない。
 ここまで書いて、筆がとまってしまった。それから先に書こうと思っていたことが、昔読んだ永井均さんの本の焼き直しにすぎないことがわかっていたし、も しかすると、これも昔読んだきりすっかり忘れていた小泉義之さんの『デカルト=哲学のすすめ』や斎藤慶典さんの『デカルト──「われ思う」のは誰か』から の受売りなのではないかと、ふと疑念にとらわれたからだ。
 ここ数日は、これらのことを検証し確認するためのしばしの中断のはずだったのだが、とりとめもなく怠惰に時間を費やしてしまい、とうとう「そもそも私は 何を問題にし、何を考え、何を書こうとしていたのだったか」を忘れてしまった。デカルトの六日間が、神の天地創造にも匹敵する思考のドラマであったのに比 べると、ずいぶん薄っぺらい時間がさらさらと砂のように流れていったものだ。

 いま、おぼろげに頭のなかに浮き沈みする思惟の断片、残骸を拾い集めて列挙してみる。
 「私は在る、私は存在する」の「私」は、デカルト個人のことではない。ましてデカルトの自己意識のことではない(もちろん、いまこの文章を書いている私 の自己意識のことでもない)。それは、そこにおいて神との接触すら生じうる(実際、第三省察の後半で、「私」の存在とその「保存」の原因として神の存在が 証明される)、なにか名状しがたい存在感覚をもたらす「死者」のようなものである。そのような「死者」との対話(沈黙交易あるいは祈り)の可能性を論証す ることが、心身合一を説くデカルト哲学の真髄である。
 デカルトの第二省察は「死にゆく者の独我論」であるとは小泉氏の指摘。また、対話とは「死んだあなた」と「死んだ私」の間に交わされるもので、「死んだ もの」が再び、いやはじめて姿を現わすこと(主題の復活)でもって対話の空間は開かれるのだ、とは斎藤氏の指摘。

 ──結局のところ、何をどう論じたかったのか、自分でもよくわからなくなった。瓢箪から駒のようにして読み始めたデカルトだが、途方もなく甚深微妙な思 考世界にいきあたったようだ(「ベルクソンとデカルト」という、どこでどうつながるのかよくわからない水脈まで「発見」した)。

「私は在る、私は存在する。これは確かである、ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その 瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。」(第二省察,47頁)。
「できるものならだれでも私を欺いてみよ、しかし私が何ものかであると考えている間は、私を無であるようにすることはできないだろう。あるいは私が存在す ることはいまや真であるからには、私が存在しなかったということを、いつか真にすることはできないだろう。」(第三省察,60-61頁)

【補遺1】
# noharra 『ごぶさたしています。野原です。
「「私は在る、私は存在する」 Ego sum, ego existo という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。」というのは正確でよく分かると思っていた ら。・・・?上の文章を読むと私(野原)がただの馬鹿でみなさんひどく深遠なのだなあとびっくりしてしまいました。「私がそれを言い表すたびごとに」と は、言表のあいだに於いては「存在=真」はなりたつと必ずしも言えない、ということですよね。でもこちらの命題は過渡的でありどこかで消えていくのでしょ うか?
よかったら教えてください。』

# orion-n 『こちらが教えてほしいくらいです。あとでじっくり考えてみたいと思ってあの二つの文章を抜き書きしておいたのですから。
 ただ今の時点で言えることは、「過渡的な真」などはないということです。「私が存在することはいまや真であるからには、私が存在しなかったということ を、いつか真にすることはできないだろう」からです。
 それと、言表と言表の「間」を考えることには意味がない。なぜなら、省察のこの段階では物的実在は認められないからです。空間=物質も時間もないのに 「間」は考えられません。「精神で把握するたびに」とはそのことを言っているのであって、この場合の「精神」とは身体と合一したそれ(物に即した精神)で はなく、だから私は「死者」のようなものだと考えたのです。
 これは余分なことですが、ここはまだ省察の二日目の話です。ここにとどまることでひりひりするような思考世界(永井均さんのような)が拓かれるとして も、それはデカルトの思考ではありません。』

# noharra 『orion-nさん 丁寧なお返事ありがとうございます。
デカルトについて語る準備もないまま突然話しかけてしまい、とんでもないことをしてしまったのかとコメントを書いた後やっと引っ張り出した省察(世界の名 著版、井上昭七・森啓訳)をぱらぱらめくりなながら考えていました。
 (何も分からないのですが、「ここはまだ省察の二日目の話です。ここにとどまることでひりひりするような思考世界(永井均さんのような)が拓かれるとし ても、それはデカルトの思考ではありません。」について、わたしがもしデカルトに深入りしたとしてもここにこだわりつづけるのかもしれないな、と思いまし た。そこに永井均と何の関係もない言説をわたしがつむぐことができたならの話ですが。)
 省察を読んだとは言えない状態のなのでたんなる揚げ足取りにしかならないのですが、「言表と言表の「間」を考えることには意味がない」というのはおかし いのではないでしょうか。
 「私はある、私は存在する。これは確かである。だがどれだけの間か。もちろん、私が考える間である。なぜなら、もし私が考えることをすっかりやめてしま うならば、おそらくその瞬間に私は、存在することをまったくやめてしまうことになるであろうから。」と私の本では「いいあらわすだびごとに」の2頁後に書 いてあるからです。
 ・・・対話を継続するための立脚点を確立できるかどうか分からないのですが、とりあえず。』

# orion-n 『面白くなってきました。短いコメントのやりとりでどこまで対話ができるか。
 永井均のことはこの際「棚上げ」するとして、私もじつは省察のこの段階にどうしてもこだわってしまいます。今度「省察」を最後まで読み、『新しいデカル ト』という私が求めていたデカルト像が見事に描写された本にめぐりあって、その後の(第三省察以後の)デカルトの思考の方に俄然ひかれています。このあた りの「折り合い」をどうつけていくか、自分でもよく見えていません。
 「言表と言表の「間」を考えることには意味がない」について。これは野原さんが「「私がそれを言い表すたびごとに」とは、言表のあいだに於いては「存在 =真」はなりたつと必ずしも言えない、ということですよね」と書かれたことへの応答で、そこにでてくる「言表のあいだに於いては」という表現が少なくとも 省察のこの段階では成り立たないことを指摘したつもりです。
 因果交流電燈のせわしない明滅としての「私といふ現象」はその都度一回性をもって何度も立ち上がるが、それらをつなぐもの(同一性をもたらすもの)など ない。でも、そういうことを語るデカルトはいったいどこにいるのか。どうしてそういうことが分かるのか。第二省察にとどまりつづけるかぎり、さまざまな難 問がわきあがってきますが、デカルト自身はそういう「細かいこと」にこだわらずさっさと先へ進んでいきます。
 デカルトの「〈私〉の連続創造説」(永井さんの言い方ですが)やら実数の連続性やら無限と無際限の関係をめぐる議論やら、いろいろ話を発展させることが できると思いますが、それはまた別の機会に。』

【補遺2】
 黒猫さんのブログ[http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20061018]に書いたコメントから。

※『省察』からの抜き書きをしながら「連続創造説」のことを考えていました。そして「映画」のことを。非連続なコマ(静止画像)のつながりによる「運動体 のない運動」(メルロ==ポンティ)のことを。

※野原さんが書いている「現象が写されるスクリーンの如きもの」はたぶん「身体」(デカルトは情念=感情としての「こころ」を身体に含めている)のことだ と思います。デカルトがいう「精神」(私は在るの〈私〉がたちまち精神と化すことをかつて永井さんが嘆いてみせた)はそのような「部分に分割可能な身体」 の「全体」なのだ、あるいは無際限に分割可能な「物」と「物」の間をつなぐ連続性のようなものだと思いますが、これはまだ舌足らずな言い方です。
 ただしいま書いたような意味での「精神」は第六省察までいかないと論じられないものです。言葉と「精神」の関係についてもきっとそうです。なんのための 懐疑であり思考であるかというと、デカルトの場合それは「よく生きること」「幸福に生きること」のためでした。だから第二省察の段階にとどまって「無益 な」形而上学的駄弁を弄していては駄目だ、とまでは言いませんが、少なくともこの段階で足踏みしていてはデカルトはつかまえられない。これだけは言えると 思います。
 でもデカルトが用意した素材を使いデカルトを離れて考えることは自由ですから、何も気にすることはないのですが、ベルクソンがデカルトを評して思考の暴 走に身をゆだねずに踏みとどまった人だと言ったそうです。私がデカルトを「発見」したのは、こういう「生きること=哲学すること(=剣術の稽古をするこ と、あるいはレンズを磨くこと)」という態度にひかれたからです。
 念のためにつけくわえておきます。上に書いた「駄弁」とか「無益」とかは黒猫さんや野原さんの議論のことを言っているのではありません。「デカルト的自 己」やら「デカルト的二元論」やらを批判的に論じた文章の多くが、デカルトがそれに対して闘った「思考の暴走」そのものではないかというかねてからの思い を表現しているだけです。

【補遺3】
 野原さんのブログ[http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061022]に書いたコメントから。

※そうですか、テンションが落ちてしまいましたか。なにしろ「一生に一度」の大仕事なのだから体力知力膂力あれこれ総動員しないととても太刀打ちできませ ん。でも「一生に一度」は予防接種みたいに一回は注射しといてねという意味でもあるのでぼちぼちやるくらいの方が健康的でしょう。それに一度や二度読んだ くらいでわかられてたまるかみたいなことをデカルト本人も書いていますしね。
 それにしてもデカルトは不思議な人で、意識中心主義や近代的自己の元祖みたいに言われるかと思うと科学技術万能の物質文明の元凶あつかいされたりと忙し いことです。世界にはどこまでも無際限に分割できるもの(物体)とそれらの全体(精神)の二つの実体がある。ヘーゲルの子孫にして数学者・SF作家のル ディ・ラッカーが左脳がとらえる「離散」と右脳がとらえる「連続」は実在の二つの在り方だみたいなことを書いています。それと同じこと、つまりデカルトの 二元論はあたりまえの自然誌的事実です。そういう認識がないとまず生きていけませんから。でもこんなふうにミソもクソも一緒くたにしてしまうと素人哲学談 義はそれで終わってしまうのですが…。

【補遺4】
 野原さんのブログ[http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061019]に書いたコメントから。

※「私がみずからに何かを説得したのであれば、私は確かに存在したのである」や「彼が私を欺くのなら、疑いもなく、やはり私は存在するのである」から、主 体としての私(「私は在る」と言明する私)と客体としての私(説得され欺かれる私)を文理上区分することはできるが、説得され欺かれた結果「私をなにもの かと思っている」私がいて、その私が「私は在る」と言明すると考えればこの区分は不用になる。
 それでも「説得した私」と「説得された私」の区分は残るようだが、この区分は同時に成り立つものではない。「説得している私」と同時に成り立つのは 「(いままさに)説得されている私」で、「説得された私」が成り立つとき「説得した私」は既に過去の存在である。「私はたしかに存在したのである」と過去 形で表現されるよりもっと過去の存在である。
 あるいはもっと端的に、説得されうる私、欺かれうる私は「考える私」でなければならない(「考えないロボット」は欺かれない)のだから、そして「私は在 る」と言明するのは「考える私」なのだからそこに主客二分をもちだす余地はない。

※私は(彼に?)愛されている(いた)と思う私は在る。そこに能動/受動をもちだす必要はない。「発見された私Aと存在を認定している私B」や「スクリー ンとそれに光を当てる作業の二重性」はそういうことを言う「私」が説明なく(論証されることなく)密輸入されている。
 なぜしつこく野原さんの疑問にこだわるかというと、これを放置しておくとそこから主客二分や意識の二重性(意識する私と意識される私)といった隘路、袋 小路(経験から離れた言葉だけの問題が一人歩きする)に入ってしまうのではないかと懸念したからです。もっと大らかに読み飛ばして(?)先へ進まないと 『省察』は味わえないように思ったからです。
 それにしても「スクリーン」の説は難解。たとえばこの世を(あの世から?)俯瞰的に映画のように見ている者の眼に写った世界の映像といったことなので しょうか(プラトンの洞窟のような)。
 それともいろいろな感覚や感情や想像されたイメージが投影される場所、つまり表象が浮かぶ場のようなもののことなのでしょうか。それなら端的に「身体」 といえばいいと私は思いますし、ここでデカルトが書いているのは「精神」のことなのだからそういう意味での「スクリーンとしての私」を考える余地はないの ではないかと思う。
 自分でも何を書いているのか(考えているのか)分からなくなってきました。反論を楽しんでいるだけのことかもしれないと自分を疑いはじめています。い や、だから疑う私は在る。──こうやってだんだんと袋小路に入っていってしまうんですね。

★10月15日(日):若冲とデカルト

 京都にでかけて『若冲と江戸絵画展』を見てきた。『ブルータス』(8月15日号)の特集「若冲を見たか?」をためつすがめつ眺めてイマジネーションをか きたててきたのが、今日、ようやく実物に出会えた。感無量といいたいところだが、美術作品を鑑賞したあと繰り出すことができる語彙がきわめて貧困なので、 軽軽しく感想は書かない。国立近代美術館を出て、川沿いをそぞろ歩いた。目にする風景のひとつひとつがくっきりと、しかしいつもと違った形で実在してい た。この感覚は、美術展を見た後でいつも覚えるものだが、一時間もするとはかなく消えてしまって、いまだに言葉で定着させることができない。
 初めて若冲を見たのは、岡崎の細見美術館で、数年間のことだ。所蔵の「糸瓜群虫図」や「雪中雄鶏図」を見たかどうか記憶がはっきりしないが、なにか強烈 なものが視覚にとびこんできたことは、今でも体感として残っている。若冲がブームになっていることは知識として頭のなかにあったので、それはこしらえもの の体感だったかもしれない。『ブルータス』に、茂木健一郎さんが「糸瓜群虫図」に対峙する写真と文章が載っていた。若冲は脳が見たがる絵=快楽を与えてく れる絵だ、純粋な形態だけで脳を覚醒させる生命感、生命の本質を描いている。いかにも茂木さんらしい評言だと思う。来年5月には、相国寺承天閣美術館で 「若冲動植綵絵展」が開催される。これも忘れず見に行かねば。

 京都へ向かう電車の中で、辻惟雄著『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫)を読んだ。そこで、「今のいわゆる画は、どれも画を描いたもので、物を描いたものを 見たことがない」という若冲の言葉が紹介されている(「幻想の博物誌」)。
《古画の模写を後生大事とする考えを軽蔑し、〈真物〉の写形に精通するのを作画の第一義とする、いわゆる写生主義を唱えたのは、いうまでもなく丸山応挙だ が、若冲の作画理念も、言葉の上では応挙のそれと変わりない。しかも、若冲は応挙より十七歳年上に当たる。とすると、若冲は、応挙に先行して写生主義を提 唱した画家ということになりそうである。だが、実際の作品を見ると、若冲の頭にある〈物〉と応挙の唱える〈物〉との間には、むしろ本質的な断絶があったよ うに思われるのだ。》(100-101頁)
 辻氏は、以下、若冲の代表作「動植綵絵」に即してそのことを確認し、若冲の画は、応挙の写生画のように外形の正確な再現をめざすものではなくて、特異で 強烈な内的ヴィジョンを表現するものであったと書いている。「彼のいう〈物〉に即しての観察写生とは、結局のところ、そうした固有の内的ヴィジョンを触発 させるための手段にすぎなかったのではなかろうか。」(105頁)
 また、辻氏によると、「綵絵」の画面空間には、「ひそかにこちらを凝視する〈眼〉あるいは、こちらの視線を誘引する虚ろな〈のぞき穴〉といったものが巧 妙に隠されている」(110頁)。鶏の眼、バラの花の絨毯模様のなかに組み込まれた無数の白い花、シュロの葉柄のつけ根に開けられた奇妙な小穴、雪のまだ らがつくり出す模様のなかにくり抜かれた穴、葉の病斑の丸や虫食いの穴。「こうした得体の知れない〈のぞき穴〉の謎解きは、深層心理学の助けを借りても容 易ではあるまい」。実に興味をひかれる指摘で、『若冲と江戸絵画展』に展示された若冲の画のうちにも、たしかに〈のぞき穴〉とおぼしきものを見出すことが できたと思う。

 帰りの電車で、渡仲幸利著『新しいデカルト』(春秋社)を読んでいて、次の文章をみつけた。
《小説を書き出した友人がいて、ぼくにこういった。絵をかきたいんだ、と。絵の絵をかくのでなく、絵をかきたい、と。ぼくは、なぜ彼が小説を書こうとして いるのか、よくわかった気がしたのだった。》(176頁)
 『奇想の系譜』に引用された若冲の言葉と、渡仲氏の友人のこの言葉が、みごとに響き合っていて、とても興奮した。前後の文脈を紹介せず、ひとり興奮して みせても、たぶん何も伝わらないと思うが、渡仲氏がここで言っているのは、物を物として知覚するのは「思想の力」だということである。物をつくり上げるこ と、つまり画の画や絵の絵を描くのではなく、絵=物そのものを描くためには目覚めなければならない。精神、すなわち物とじかに触れている思考、あるいは理 性をはたらかせなければならない。ことばもまた、そのような精神の自発性のうちに根ざしている。
 何を言っているのかさっぱりわからない。それならそれでいい。もう一つ、つけ加えておく。若冲の〈のぞき穴〉の謎解きも、深層心理学よりはデカルトの助 けを借りるべきだろう。

【補遺】
 kuriyamakouji さんのブログ[http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20061015/p1]に書いたコメントから。

※『新しいデカルト』は、私が知りたかった(デカルトが考えたことはたぶんこういうことだったはずだと、ちゃんと読みもしないでそう確信していた)デカル トの「ほんとうの」思想を、見事に自分の言葉で語っています。これほどの本にめぐりあえるのは、そうそう経験できないことです。

※デカルトのことを考えるとき、あの時代が宗教戦争のただなかだったことを常に銘記しておかなければならないと思います。
 オウムや連合赤軍よりもっとずっとスケールの大きな(?)出来事がかれこれ30年も続いた時代。そんななかで「よく生きること」「幸せに生きること」を 考え抜いたのがデカルトでありスピノザであったこと。デカルトが生涯剣術の稽古を怠らなかったことに思いをはせずに「デカルト的自己」を云々しても、何か 大切なものがすっぽりと抜け落ちてしまうのではないかといったこと。
 だからデカルトにせよスピノザにせよその思考の行き着くところが「小乗」的であるのは当然のことですが、むしろそういうところを突き抜けないと「大乗」 的なものは拓かれないし、逆に「大乗」的なものを包含しないと「小乗」的なものも生きない。そのあたりのこと、まさに「バランス」としか言いようがないこ とを究極まで考えぬいた(生きぬいた)のがデカルトその人だった。そんなことを考えています。

※デカルトは『情念論』で「驚き」はあらゆる情念(感情)の最初のものだと書いています。渡仲さんはこのことに着目して、「驚き」とは「だれにでも、いつ でもある、物との最初の出会いをいうのではないだろうか」「なにか純粋な全的な直観を指して、デカルトは「驚き」と名づけたにちがいない」と書き、宣長の 「もののあはれ」と関連づけていました。
 「世界に対する驚き」は「究極まで考え抜いた(生き抜いた)果てに」あると同時に、じつはものごとの初めから「私は在る」とともにあったということなの でしょう。

★10月22日(日):ロボットにも情念をもたせうるということ──デカルト的雑想(1)

 渡仲幸利氏が『新しいデカルト』の「情念論」をとりあげた章で、「懐疑とは、脱ぐということだ。そして最後に「わたし」の底力が立ち現れる」(50頁) と書いている。以下はきわめて真面目な話なのだが、脱ぐとはいうまでもなく衣服を脱いで裸になることだ。そして裸になったときに立ち現れる「底力」とは ──「事物や肉体にじかに問いかけるあたりまえの精神の働き」(19頁)であり、「生きようとする能力とでも名づけたくなる働き」(21頁)であり、「外 から規定することへの反発性そのものであり、つまり、精神の働きというものの自発性」(22頁)のことであり、端的にいって「わたし」そのものである (25頁)と同時に、そして何よりも──性愛への欲望のことである。
 これはもう無茶苦茶なことを書いている。だって、「わたし」とは「精神」のことであり、「精神」は「身体」と区別される実体であり、性愛への欲望とは他 者の「身体」への欲望にほかならないのだから。いや、そうではない。「わたし」が「精神」である(「身体」ではない)というのは『省察』の二日目の話で、 懐疑の六日目にはめでたく心身合一した「わたし」が再びみいだされるのだから。あたかも、幽体離脱から回帰するように?
 いや、もしそうだとしても、性愛への欲望が他者の「身体」への欲望であるとは言いすぎではないか。他者の「精神」との交わりへの欲望を欠いた性愛など、 あり得ないのではないか。ネクロフィリアは別として?
 いや、ここで屍姦症のことを書きたかったわけではない。もっとも、死者(の屍体)との感情移入は成り立つか、もっと端的に、レプリカントへの感情移入あ るいは人形愛は性愛への欲望と同質か、などと言えば多少は近づいていくのかもしれないが。

 渡仲氏は、「精神の治療にたずさわる者が、フロイトやユングからよりも、まずデカルトから借りてくる必要のあった理論」をめぐって、次のように書いてい る。
《フロイトは、精神分析のために、患者の思うままにならない精神、すなわち「無意識」を仮定した。デカルトにいわせれば、思うようにならないものは、外界 であり物体と肉体の世界なのだ。つまり、「無意識」とは、外界なのだ。
 こう考えると、ユングのあの神秘的な図式も、じつに平明に理解されよう。「無意識」の海の水面から、ひとりひとりの意識がともに突き出しているさまは、 とりたてていうまでもないこの世のさまといえるだろう。ただし、ひとりひとりの精神の最高の働きといえるものさえも、ひとりひとりの肉体に結合され、また そのことによって、物質世界という大海の運動にむすびついていること、このことは、精神の治療にたずさわる者が、フロイトやユングからよりも、まずデカル トから借りてくる必要のあった理論だろう。そしてわたしたちは、ひとりひとりが、みずからの精神の医者でなくてはならないのだ。
 いつも大事な場面で足がすくむ。それは、自分の知らない自分の怖がりの心が、そうなるように命じているからではない。足がすくんだ身体状態から、精神が 怖さという情念を受け取ったにすぎない。
 すると、デカルトのすすめる療法はこうなる。怖がるな、怖がるな、と自分の心に向かって念じていても、なんにもならない。すべきこと、それは、外界の諸 力を介して行なうことである。わたしたちには、そのために肉体がある。スポーツ選手ならみんな承知している。大事な場面でなすべき行為を、くりかえしくり かえし、じっさいに行ない、そうやって数えきれないほどの反復の訓練をすること。これが、けっきょく、わたしたちの精神を救ってくれるのである。情念の原 因を心の奥にさぐるほど、へたくそな生き方はないわけである。》(54-55頁)
 物体(肉体)のことは物の秩序へ。つまり、情念のことは脳内の分子運動へ。そして、精神のことは精神へ。これが、デカルトの理論である。
《デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。これはどう いうことかというと、ロボットにも情念をもたせうるということである。》(56頁)
 ──ようやく本題にたどりついた。

★10月23日(月):究極の心身問題──デカルト的雑想(2)

 「ロボットにも情念をもたせうる」。デカルトの思考に立脚したこの渡仲幸利氏の省察をテコに、つぎに取りあげようと思っていたのは、性愛をめぐる機械・ 器具(プレジャー・マシンとでも?)のことだった。文章は大筋を書いているので、あとは修復整理を施してこのブログにアップするだけなのだが、そこで ちょっと困ったことが起きてしまった。

 栗山光司さんのブログ[http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20061022/p2]で、茂木健一郎さんの講演 や『風の旅人』編集長の佐伯剛さんのブログの記事[http: //d.hatena.ne.jp/kazetabi/20061022/1161487270]の話題とともに、「ロボットにも情念をもたせうる」を取 りあげていただいた。そこで栗山さんが次のように書いている。

《誰かと喋っていて、時間の経つのを忘れる、そんな刻を過ごした経験は誰だってあるでしょう。
 でも、今だにコンピュータ(ロボット)にはムリなのです。悩める鉄腕アトムは誕生していないのです。
 いつか、そうなるでしょうか、そうならないとも限らない、キモは「感情」なのでしょう。生成する感情が個々の人間の拠り所なのなら、もっと、もっと、こ のことについて考えたいですね、
 考えるというより、感じることでしょうが、茂木さんがこの講演で、岡本太郎が乾杯をしたときに、「これを飲んだら死ぬと思え! 乾杯」とやらかした有名なエピソードを紹介していましたが、ロボット(コンピュータ)は死と対峙しない回路でシステムを構築しているのでしょうね、もし、 会話の出来るロボットを発明するとしたら、「死」と接続する回路が絶対必要なものだと思ってしまう。》

 困ったことというのは、これから私がアップしようと思っていた話題があまりに卑近、というか尾籠、というか下ネタ風で、こういう文脈にうまくのらないな あ、ということがまず一つ。
 それから、感情をもったロボット、会話ができるロボットを製作することは、とてつもなく難しいことだとは思うけれど、原理的には(たぶん)可能で、西欧 17世紀の科学革命、19世紀から20世紀にかけての生物学や物理学の革命に次ぐ「第三次」科学革命(形而上学革命?)によって達成できるだろう、と私は 考えている(期待している)こと。
 そして、そのとき誕生するだろうロボットこそ「デカルト的機械」の完成した姿(フーリエ的プレジャー・マシンとでも?)であり、自他関係や心身関係の問 題以上に難解なヒト・ロボット関係(ヒトとロボットの共存在とかコミュニケーション=会話の作法の問題といってもいいし、究極の心身問題だといってもい い)の問題を解く鍵が、フーリエ的に拡張された性愛の問題であって、それはエロス・タナトス(セクシャリティ・スピリチュアリティといってもいい)と並び 称されるように、必ずや死の問題(克服であれ制御であれ)もしくは不死性の問題を伏在させているに違いない、と考えていること。

 ひとつだけ注釈をいれておく。たとえば茂木さんのいう「クオリア」はたぶんデカルト的な意味での精神の問題で、それは無際限に分割可能な物質的事象の全 体として、物的世界の外に立ち現われるもののことだ。
 たしかベルクソンは、物質の運動(周波数で表現される)を記憶(知覚を覆う思い出としてのそれではなくて、多数の瞬間を収縮するはたらきとしての)に よって凝縮されたものが感覚の質(色のクオリア)だといった趣旨のことを書いていた。大雑把にいってしまうと、ベルクソンの「記憶」のはたらき(収縮)は デカルトの「精神」のはたらき(外へ、全体を)と同義で、だから、感情をもったロボットや会話ができるロボットは製作できても、クオリアをもったロボット は原理的に製作できない。クオリアは精神(デカルト的な意味での)のうちに立ち現われるものなのであって、物質世界の内部に生じるものではないからだ(た ぶん)。
 感情(情念)をもったロボットと、クオリア(や自発性や意志、そして時間?)をもったヒト。この二つの存在のあいだに成り立つ関係。それをいま「究極の 心身問題」と書いた。それがどういう様相を帯びた問題なのかは、ちょっと想像できない。ロボットとヒトは合体しているかもしれないし、ヒト(精神として の)自体がすっかり変わっているかもしれない。たとえば「マザー」によって管理された、マザーの無数の小枝としての「わたし」とか。
 それを不気味だとか恐ろしいとか思うのは今のヒトであって、その時代のヒトはそんなことはあたりまえだと思っているかもしれない。「我思う、ゆえに我あ り」は、いつの時代であっても(もしかすると、間違って「精神」をもっているとヒトの欺きによって思わされたロボットにとっても)成り立つのだから。

 でも、困ったことというのは、そういうSFじみたことではない。栗山さんの文章が、私が書こう(書きながら考えよう)と思っていたことをずいぶん先取り していて、だから順を追って書くのが(まして、あまりに卑近、というか尾籠、というか下ネタ風の話題から始めるのが)面倒くさくなってしまったし、どんど ん先走った妄想がふくらんでしまった。これが困ったことの実体で、だから、昨日の話の続きは明日以降に持ち越しする。

【補遺】
# kuriyamakouji 『>感情(情念)をもったロボットと、クオリア(や自発性や意志、そして時間?)をもったヒト。
オリオンさん、どうも、凄くワクワクする問いですね、
ゆっくりと、下ネタ風の話題から聴いて(読んで)みたい気がします。
「感情」を持ったロボットでいう「感情」は例えば、イチローのバットはイチローの神経がバットの先端まで張り巡らせている。そのような「感情の道具」に近 いものでしょうか、
クオリアは受信(内部)の問題で、「感情」は発信装置として道具として拡がり、からみつく、
だから、情念を持ったロボットは可能なのでしょうか、イチローのバットがそのようなロボットなら、なんとなくわかります。
でも、それ以上、僕には今のところ理解不能です。』

# orion-n 『とんでもないミステイクを犯したようです。会話ができるロポットまで製作可能だと書いたのはやっぱり言い過ぎだったかなと思います。会話ができるという ことは時間を生きることとほとんど同義で、というのも時間とは連続的創造であり会話もまた同様だからです。また会話はいってみれば言葉をそのつど発明する ようなもので、言葉は物的世界のうちにあるものではないからです(文字や声は物的存在ですが)。
 感情の方はもう少し頑張れるのではないかと思っています。でもこれもだんだん怪しくなってくる。悲しいから泣くのではなく泣くから悲しいのだというのは まったく正しくて、ここでいう「泣く」ことがロボット(身体だけのヒトのことで、「身体」には栗山さんがおっしゃる「イチローのバット」も含まれます)に とっての「感情」です。だとすると「悲しい」の方はやっぱりクオリアや言葉と同じように「精神」に属しているのではないか。つまりヒトの場合と同じ意味で の感情をもったロボットを製作することは不可能なのではないか。
 これに答えるとすれば、いやそこでいう「感情」とは(物的)世界の表情のようなものだ(大森荘蔵みたい)、つまりヒトの身体が悲しい(泣いている)と き、身体は物で、物は森羅万象とつながっている(ただし無際限に分割できる)のだから(茂木さんがいう「マッハの原理」)世界全体が悲しい(泣いている) のだ、とか。
 でもやっぱりそれはヒトの「感情」とは違うと言われるかもしれない。もう少し頑張ると、ヒトの「感情」というものは実は他者とのつながりの中にしかな い。わたしの「こころ」が悲しいのではなくて(なにか「悲しさ」とでもいえるような実質が「こころ」の中に堆積するのではなくて)、感情移入とか感染(赤 ちゃんのつられ泣きのような)といった現象が生じているとき、それを言葉で「悲しい」と言っているだけだ。だとすると問題はロボットとヒトとの間で感情移 入は成り立つか、成り立つとすればその根拠は物体のうちにあるのか精神のうちかに帰着するのではないか、等々。
 自問自答がとまらなくなりそうなのでこのあたりで切り上げます。心身問題といわれるときの「こころ」の実質を問いつめてどこまで物的世界の方に帰すこと ができるか(魂(アニマ)と呼ばれるものや最近「無意識」と呼ばれるようになったものも含めて)というのが今のところ私がデカルトを読むときの問題意識で す。クオリアや言葉や時間にしても早々と「精神」のうちに温存しておいていいのかとも疑っています。「下ネタ風の話題」からどこまで発展させることができ るでしょうか。』

★10月24日(火):ラブドールが/と見る夢──デカルト的雑想(3)

 「ロボットにも情念をもたせうる」。渡仲氏のこの一文を読んで、ブレードランナー・デッカード(ハリソン・フォード)とレプリカント・レイチェル (ショーン・ヤング)の「密会=性愛」のシーンを想起した(ベタだが)。
 この「感情移入[エンパシー]テスト」(レプリカント識別検査)と「母の思い出」とレプリカントによる人殺しから始まる映画のことについては、いま驚嘆 と羨望(その内容と叙述の形式に対して)と郷愁(その語り口に対して)とともに読みついでいる加藤幹郎さんの『『ブレードランナー』論序説』をちゃんと終 えて、その強烈な磁場からたとえ一歩でも抜け出すことができたときにあらためて考えてみることにして(その日は来るか?)、ここでは「本題」へと急ぐ。
 その前にひとつだけ。「レプリカントであるということは人間になろうとする意志である」(127頁)。

     ※
 『エロコト』という雑誌(『ソトコト』増刊号)が創刊された。「ロハスピープルのための快適性生活マガジン」。編集長は坂本龍一。その坂本龍一による巻 頭の「エロコト宣言」が力がこもったものだったので、抜き書きしておく。

《エロい女は、その存在そのものがエコである。
 この惑星に生命が誕生して38億年。それは現在まで一度も途切れることなく続いてきた。その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と「性」で ある。言い換えれば「個体維持」と「種の保存」だ。このふたつによって生命は維持されてきたのだ。
 昨今、日本社会にもすっかりエコ=環境意識なるものが定着してきた感がある。けっこうなことである。本屋にはエコ雑誌が溢れ、そこには「食」の情報が豊 富である。しかしちょっと待てよ。生命のもう一つの本質である「性」がちっとも扱われていないではないか。これは文字どおり不公平だ。そこでわれわれは、 エロをエコの観点から考察すべく、一つの雑誌を作りたいと思った。
 とりあえず強引に、「エロい女はエコである」という直感に導かれて、われわれはここに雑誌『エロコト』を世に問う。》

 エロい女は、その存在そのものがエコである? ここでいう「エロい女」は性としての女性(セクシーな)のことでもジェンダーとしての女性のことでもなく て、「その存在そのものがエコである」といわれる「その存在」のことなんだろうな。でも、そんなふうにむつかしく考えずに、この雑誌は「エロい女」が好き な男たちがよってたかって造ったもので、同好の士が買って読んで楽しめばそれでいいのだくらいに軽く考えておけばいい。
 一読して、惜しい、あと一歩、いやあと一枚脱げばもっとつきぬけられたのにと思った。現代思想系の妙な切り口がいっさいないのは好ましいが、読む前から だいだい想像がつく記事とグラビアが満載されていて、なにかあと一ひねり足りないという印象がぬぐえない。
 おまえがいう「あと一歩、あと一枚、あと一ひねり」ってなんだよ、と問われても困る。こちらは身銭を切って購読している気楽な立場なのだから、考えるの はそちらの仕事でしょ、としか言えない。日本舞踊ってこんなにエロいよ、みたいな記事が読みたい。そんな読書アンケートへの回答のようなことは言えるかも しれないが、そういう問題ではない。それにしても、惜しい。「性」や「エロ」について語る「新しいことば」がまだ見つかっていないのだと思う。『エロコ ト』創刊の意味は、たぶんそういうところにある。
 どの記事もけっこう面白いけれど、なかでも編集長と中沢新一の対談が面白い。そこで中沢が「セックスにエロスを取り戻す。現実を取り戻す」という『エロ コト』創刊の意図に対してエールをおくっている。対談の最後に、やや「現代思想系」のやりとりが出てくる。これはすごく大切なことで、たぶんこのあたりか ら「新しいことば」が生まれてくるに違いないと思う。

中沢 死の領域とのコミュニケーションを断つでしょう。そうすると人間同士のコミュニケーションができなくなるんですよ。人間同士って一対一でコミュニ ケーションしているように見えますけれど、実はそこには必ず第三者が存在するんです。それは実は死者なんですよ。生きている人間同士がコミュニケーション するには死者が必要なんですけど、これを見えないようにしちゃう。そうすると実はコミュニケーションが不能になってしまうんです。
坂本 コミュニケーションって感情の贈与みたいなものでしょう。
中沢 そうですね。セックスというのは言葉でコミュニケーションしているところから一歩踏み込むわけでしょう。そうすると第三者の存在ってものが、すごく 大きくなってくる。死の領域がね。ところがその領域とのコミュニケーションの訓練ができていないから、人と人とのコミュニケーションができなくなってい る。だから死に慣れ親しむというのがエロス文化を蘇らせる原点じゃないかと思います。

 以上は長い前置きで、これからがほんの短い「本題」。「やわらかくてかわいくて気持いい宝物。」という記事がとても気に入った(というより、気になっ た)。「あと一歩、あと一枚、あと一ひねり」はこのあたり(工学的性愛論?)から生まれてくるだろうという気がする。これは、オリエント工場〔http: //www.orient-doll.com〕という「特殊ボディ専門メーカー」を取材したものだ(取材・文 松井亜芸子)。

《今はまだラブドールの体にばかり執着しているあなたも、そのうちきっと心の中に違った感情が芽生えたことに気づくでしょう。それはいわゆる人形愛という ものかもしれませんが、実際は妻や恋人を愛する気持ちと変わらないはずです。あなたが望むなら、ラブドールは喜んで毎晩あなたの帰りを待ちます。かわいい 洋服を買ってくれて、たまにはどこかへ連れ出してくれて、つらかったこともうれしかったこともすべて話してくれて、毎朝毎晩愛でてくれるなら、ラブドール は10年でも20年でも、あなたと添い遂げる覚悟です。》

《嫁ぎ先の旦那さまがあまりハードに可愛がってくださって、例えばシリコンの肌が破れてしまったりパーツが破損してしまったりすると、私たちは一時里帰り をして修理をしてもらいます。実はこの会社のラブドールの顔はすべてたったひとりの職人さんがつくっているのです。その職人によれば、旦那さまに可愛がら れたラブドールほど、表情が柔和になっていくというのです。ラブドールが旦那さまのうつ病や不眠症を治したという話も聞きました。ラブドールがただの性処 理の道具ではないことが、お分りいただけますね。》

【補遺】
# kuriyamakouji 『>ブレードランナー・デッカード(ハリソン・フォード)とレプリカント・レイチェル(ショーン・ヤング)の「密会=性愛」のシーンを想起した(ベタだ が)。
ブレードランナーのこのシーンは僕も思い浮かべていました。予想どうりw。
でも、「ソトコト」が「エロコト」を創刊していたとは知らなかったです。さっそく本屋に走って立ち読みしなくては…。その上で購入します。
工学的性愛論ですか、論考を期待します。』

# orion-n 『kuriyamakouji さん、さっそくのチェックありがとうございます。せっかく期待していただいているのですけれど、この話題はいったん中断することになりそうです。
 瀬名秀明さんに『デカルトの密室』という作品があります。けっこう面白く読んだ記憶があります。面白くはあったのですが、「デカルト」の名を冠するのな ら密室(脳)にとじこめられた意識を思わせるタイトルではなくて、ずばり『デカルト・マシン』とすべきだろうと(瀬名さんの作品の内実とはかかわりなく) 不満に思ったものです。
 で、「デカルト的雑想」の第一弾でそれがどういった類のマシンであるのか(ありうるのか)を考えようとしました。そして性愛体験を介して「感情移入」か ら「記憶移入」へ、さらに以前中断していた残響型(ベルクソン型?)と残光型(デカルト型?)の記憶の二区分をからませて、このところずうっと思いをめぐ らせている「四人称世界」の問題につないでいこう。そんなことを考えていました。
 …これもまた「理解不能」ですね。そのときおぼろげに考えていることをそのまま書くと、私の場合、かならずこんな符牒をつぎはぎしたようなものになって しまいます。だからいろんな本からの引用を重ねることで、いってみれば他人の文章、他人の頭をかってに使わせてもらうことで自分の思考を表現するしかない のです。もちろん先に「私の思考」があってそれを他人の文章を使って表現するということではなくて、他人の文章を使って考える、そして「考えているのは いったい誰なのか」という私にとっての究極の「哲学の問題」を生きてみる。
 …またまた「理解不能」の世界にはいってしまいました。本題にもどって、なぜいったん中断することになりそうかというと、これから先へ進むための素材 (他人の文章)がまだ十分集まっていないからですが、ひとつのことを集中してやり通すだけの時間と気力が足りないということでもあります。』

# りりこ 『こんにちは。楽しく拝読しています。
さて、男の人が書くとエロになるのかしらと、思うことも。
坂本龍一や中沢など、もうそろそろフランス思想(エロを哲学にする)から離れてもっと進んだ肉体という風に進まないかしら?と女性の私は思うわけです。
おそらく、もういわゆる西洋思想から脱却する時代ではないかとも思うのです。21世紀は。
これだけ飛行機でも近くなった国と国。
私の話はまとまりがつかなくなりましたが、なんとなく、orion-nさんの、もう一歩ということがわかるような気がします。』

# orion-n 『栗山さんが「歩行と記憶」(10月25日)[http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20061025]で使われた 言葉を借用するなら、『エロコト』はベタなエロ雑誌になりそこねていますね。もっとベタベタになってもいいから、りりこさんがおっしゃるとおり「肉体」に 肉薄していくべきだと思います。それにしても「肉体」を表現するのにあの写真はないよな、というのが率直なところでした(栗山さんに一票)。』

# kuriyamakouji 『なんか、エロ雑誌から切り抜いた写真にスノッブなご高説を貼り付けたようなコラージュ編集なのですが、こういう編集は別に嫌いではないのです。例えば、 植村啓司の「分裂病者のダンスパーティー」(リプロポート)や、四方田犬彦の『週刊本・映像要理』のようなエロサは大好きなのです。でも、それにほど遠 い。松沢呉一のベタなエログロもない、散漫な「落書きエロもどき帖」っていう感じですね、一応、坂本さんが編集長で、全責任を負った雑誌なので、あんまり 外野席から言いたくないけれど、おまけにアマゾンのユーズドで、何倍もの価格がついているから、お買い得だったかもしれないと自らを慰めています。
ちょうど、その日、淀屋橋で「ビッグイシュー」の最新号とバックを三冊、買ったのですが、こちらの方がエロい!ちなみに最新号の表紙はスカーレット・ヨハ ンソンです。せめて、「エロコト」にもたった一枚でいいから、エロい写真があれば許すのですが、本当に一枚もありませんでした。まだ、「ソトコト」の方が エロいですよね。料理の写真であっても…。』

# りりこ 『男のエロも確実に入っていないと嫌だなあ。』

# orion-n 『「男のエロ」でふと思い出したのが森岡正博さんの『感じない男』です。(「エロ」というより「個人的な性幻想」かもしれません。みんなが「女」になった らやさしくなれる、とか。そういえばこの本についてはbk1に栗山さんもレビューを書かれていましたね。)
 『エロコト』の「あと一歩」は『感じない男』のそれと(やや)似たところがあるように思います。ねらいはいいけど表現がそれにおいついていない、という か。それともねらいもはずしているのだけれど、そのはずし方があとに続くものを生み出す可能性がある、というか。
 それと「性愛工学」をきわめるためには金塚貞文さんの論考をもう一度読み直さないといけない。そんなこともふと頭をよぎりました。でもこんなブッキッ シュな連想など「もううんざりだ」とデカルトなら言うかもしれない。』

# kuriyamakouji 『森岡さんの「感じない男」は読んでいてほとんど何にも感じなくて読了の印象が希薄でした。そんな衝撃度のない本だったのであとがきで森岡さんが本書をゼ ミなどの資料として提示しても受けつけないみたいなことを書いていましたが、おいおい、それは過剰な反応だと思いました。
むしろあの本はテキストとして教室でやり合えば面白いことが聴けたかもしれない。残念でした。
「性」ってその当事者はもの凄く恥ずかしいこと、秘め事で、それに関する告白は読み手も衝撃を受けるだろうと思っても、そうでもない場合が多い。
かって、性にまつわる投稿雑誌があったけれど、あれも他人のものを読むより、自分の性を語りたいという欲望の方が強かったのではないか、
100人いれば100人の性がある。そういうことでしょうね。』

# orion-n 『「100人いれば100人の性がある。」──N個の性、というやつですね。
「性」に関する退屈で凡庸な「告白」ではない「新しい語り方」。それは可能か、可能だとしてそれはどういうものになるのか。この話題をもう少しだけ続けて みたいと思うようになりました。』

★10月28日(土):性愛工学──デカルト的雑想(4)

 もう少しだけこの話題を続ける。この話題というのは、『新しいデカルト』(渡仲幸利)の「情念論」をとりあげた個所に出てくる文章──「デカルトは、こ うして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。これはどういうことかという と、ロボットにも情念をもたせうるということである」──に触発されて始まったものだ。
 この「ロボットにも情念をもたせうる」から、ソフトビニールやウレタンではなくシリコン素材を使った人工皮膚(「ラブドール」と名づけられたロボット、 顧客のイメージ世界の中で動くロボット、あるいは目をあけたまま眠るロボット、なかには目をつむっているのもある)への感情移入の問題へと話題は微妙にず れていき、そこからさらに「性愛工学」へと逸脱していった。なぜなら、そこ(性愛工学)で取りざたされるのは感情(情念)ではなく、皮膚にまつわる感覚に ほかならないのだから。

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 ここで一つ、ミシェル・ウエルベック『素粒子』からの引用を挿入しておく。ただし、この文章は宙に浮いていて、本文に接続されない。
《彼のプロジェクトに対して浴びせられた最初の非難の一つは、人間のアイデンティティを作り上げる重大要素である男女の差異をなくしてしまうという点に あった。これに対しハブゼジャックは、いかなるものであれこれまでの人類の特徴をまた繰り返すことは問題にならない、そうではなく理性的な新しい種を創造 しなければならないのであり、生殖方法としてのセクシュアリティの終焉は性的快楽の終わりを意味しないどころか、まさにその逆なのだと返答した。ちょう ど、胚形成の際クラウゼ小体の生成を引き起こす遺伝子コードのシーケンスが特定されたところだった。人類の現状では、これらの小体はクリトリスおよび亀頭 の表面に貧しく分布しているのみである。しかし将来、それを皮膚の全体にくまなく行き渡らせることがいくらでも可能になるだろう──そうすれば、快感のエ コノミーにおいて、エロチックな新しい感覚、これまで想像もつかなかったような感覚がもたらされるに違いないとハブゼジャックは主張したのだった。》(野 崎歓訳)

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 さて、ラブドールに注目した(惹かれた)のは、そこに「究極のエロ」のひとつのかたちが(潜在的にではあれ)表現されているのではないかと直感したから だ。このあたりのことをつきつめてみるためには、かつて読み込んだ金塚貞文氏のオナニズム三部作や人工身体論を読み直さないといけないと思うが、肝腎の著 書が手元にないので、これは後日の宿題にしておく。
 ちょうど今日読み終えたばかりの篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書)に、人間が機械へと向かう本質的傾向を誰よりもベ ルクソンが跡づけえたように思われる、そしてベルクソンに心酔していた稲垣足穂もそのところを察知していたようだ云々、と書いてあった(109頁)。篠原 氏はつづけて、足穂の芸術宣言でもある「われらの神仙道」からの一文を引用している。

《地上界に現下さしせまった生命の窮路をひらくことについてわれらが論じたさきほどの一点、即ち機械の原理によってうごく機械(云いかえて空間の原理に よってこしらえて行く空間)と、機械をこしらえた生命によってうごかされる機械(云いかえて空間性をも抽象された時間そのものによってうごかされる空間) と、この二つをかみわけ、われらがその後者を云おうとしているのだけはお間ちがえないようにおたのみする。》

 この後につづく篠原氏の文章。

《要するに、「機械の下におしつぶされようとする生命をすすんで機械のなかにぶちこんではどうだろうか」(同前)というのだ。そこにうかがえるのは、ベル クソン的な生命論でもって、旧来の機械論とは違う新たな機械主義を展開しようとする姿勢である。機械めいた天体が出没する足穂的物語の数々は、そのような 姿勢と結びついて生みだされたといってよい。さらに、そのような姿勢そのものは、文字どおり、時代の動きともなった。典型的な例が映画だろう。》(110 頁)

 このあとにつづく「ドゥルーズの映画論」や「未来派の写真」をめぐる文章はとても面白いものだったのだが、本題とは直接の関係がないのでこのあたりでや める。質感、たとえばラブドールがもたらす皮膚の質感のようなものを伴う映画といった未来の「機械」を想定するなら本題への接続ははたせるだろうが、ここ では足穂がいう「生命をすすんで機械のなかにぶちこむ」こと、篠原氏の口吻を真似るなら機械と生命の〈あいだ〉に立ち上がるものがラブドールであり、性愛 工学であるとだけ書き残しておこう。

 もう一つ、ラブドールが面白いのは、それがシリコン素材でできていることだ。
 同じく『ベルクソン』に、ドゥルーズ(『フーコー』)が炭素に取ってかわるシリコンの力に注目していたのに対して、ベルクソンは「炭素的」であるように 思われるかもしれない云々、という文章が出てくる(173頁)。そこで話題になっているのは、もちろんラブドール(シリコンでできた人工皮膚、それもまた 「機械」である)のことではなく、電子メディアという「機械系」のことなのだが、ここではこれ以上深入りせず、ただそこにデカルトとベルクソンの「接点」 の手がかりが示されていることだけでよしとしておく。
 森岡正博さんの『意識通信』の向こうをはって、電子メディア時代における感情通信、さらには質感通信とか性感通信の思考実験をやってみると面白いと思う が、それはまた別の機会、たとえばいま手元にある松浦寿輝氏の『官能の哲学』や『口唇論』、植島啓司氏の『性愛奥義』などを読み込んでからのことにしよ う。

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 以下、符牒めいた覚書を書き残しておく。
 ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』で「機械系」と「神秘系」を区分した。(機械系=情報系=シリコン的、神秘系=生命系=炭素的。前者がデカルトの物 質に、後者が精神に該当する。ベルクソン的二元論とデカルト的二元論の出会い。)
 篠原氏の紹介によると、ベルクソンは機械系と神秘系のあいだに歴史を駆りたてる法則のようなものを見てとった。一方が力をもってほとんど狂乱状態まで突 きすすむと、潜伏していた他方が機会をみてこれに取ってかわる。というか、一方が他方を呼びもとめる。他方は新たに取ってかわるとき、それまでに得られた ものからそれなりの益を得る。
 具体的には、まず神秘系が西洋中世にひとつの狂乱を招きよせた。禁欲生活のことだ。アッシジのフランチェスコの清貧と無所有の実践、修道院の生活を思え ばいい。しかし禁欲も極端にまで進むと個人も社会も壊滅させかねない。そこで16世紀あたり(デカルトの時代!)から正反対の方向、つまり物質面の向上を 求める機械系へ転換する。やがて機械系もとどまることを知らない渇望という狂乱状態へ突きすすむ。機械系が神秘系(「神の愛に値するべく、人々への分けへ だてのない愛を実践し、広めようとする道」164頁)を招きもとめている…。
 大雑把な「要約」だが、ここを読んで私はとても興奮した(『二源泉』は昔かけあしで読んだはずなのにほとんど覚えていなかった、情けない)。『エロコ ト』のラブドールの記事を読んで直感したことがようやく言葉になった。丁寧に文章化するのはあきらめて、スパークした言葉を拾っておく。

 「究極のエロ」のかたちとは禁欲だ。ラブドールは機械系の「死体」だ。そしてラブドールを愛するということは神秘系の「死者」を創造することだ。死者と の性愛。もしくは工学的な臨死体験。いや、機械系と神秘系の〈あいだ〉にこそ性愛工学の精華たる芸術品、まだ見ぬラブドールは立ち上がる。そして〈あい だ〉とは、坂部恵(『モデルニテ・バロック』)が「Betweenness-Encounter」と訳した「あわい」のことだ。
 新しい機械(デカルト・マシン)が必要だ。修道院という機械が。「主体性が《機械に入ること》──かつて《宗教に入ること(修道者になること)》と言っ たように」(フェリックス・ガタリ『分裂分析的地図作成法』11頁)。神のラブドール(電子メディアによって造形される?)に祈ること。神の花嫁として 「神の声」(電子メディアによってもたらされる?)に失神すること。究極の禁欲生活、すなわち人類と神々との〈あいだ〉で失神すること。
 『エロコト』の編集長は書いた。「その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と「性」である。言い換えれば「個体維持」と「種の保存」だ。こ のふたつによって生命は維持されてきたのだ。」しかし、彼は生命の第三の本質を忘れている。それは「種の創造」だ。食と性、そして「愛」。ベルクソンは 「神を創造エネルギーそのものとして定義し、このエネルギーが愛にほかならない」と考えた(『ベルクソン』137頁)。エラン・ダムールによる新たな種 (神秘家)の創造。
「神秘家とは、生物としては人類でありながら、人類種を超えた存在、個人でひとつの新たな種を体現する存在であるだろう」(136頁)。「神秘家とは、人 が人でありながら人とは異質になりゆくありようをさすのではないだろうか。」(155頁)「神秘家という個性とまじわることで、神もまた、それまでにない 新たな神へと生成するのである。」(157-158頁)

★10月30日(月):一期一会の科学──郡司ペギオ−幸夫『生きていることの科学』

 最初に浮かんだのが「二人称の科学」というタイトルだった。この書物は会話体で構成されているし、その内容からみてもこれがぴったりだと思ってずっと頭 の中で温めていたら、『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社)に収められた檜垣立哉氏の木村敏論で「二人称の知」という言葉が使われているのを 見つけてしまった。なかなか見事な切れ味の論考だったので、これに敬意を表して「二人称の科学」を採用することは断念した。
 なんの話かというと、本書『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)を一言に「縮約」するとどういう言葉がふさわしいか、 もしこの本に対する書評を書くとすればどういうタイトルがふさわしいかと考えていたわけだ。どだい隅々まで理解することなどできないなら、まして短い文章 で「要約」することなどできないなら、理解できないなりになんとか「けり」をつけておきたいと思って、読み終えてから一月あまり悶々としていた。
 「二人称の科学」というタイトルが本書の内容からみてもぴったりだと思った、と上に書いた。じゃあその「内容」ってなんなんだい、ちゃんと端的に説明し てごらん。そう言われても、読了直後ならまだしも、いまとなっては曖昧朦朧としてお手上げです、としか答えられない。まして難解で知られる「ペンギン男」 の書いた本、そんな芸当がやすやすとできるわけがない。

 それでも「手がかり」はある。いま前後の脈絡を抜きにして該当箇所(これは前[2006-08-24]にも引用した)だけを抜き出しておく。
《一人称としての、いまここにあるわたしの痛みは、わたしにおいて疑う余地がなく、論じる必要がない。三人称の痛みという、わたしと完全に切れた痛み概念 は存在しない。痛みの問題は、常に、わたしが対峙する他者の痛みの問題であり、わたしの痛みを他者に伝える際の問題である。だからそれは、わたしの痛みを 理解し、表現する、という問題として成立する痛みであり、二人称の痛みの起源としてのみ、成立するんだと思う。》(149頁)
 ここに出てくる「痛み」はいろんな言葉に置き換えることができる。「表現」という語彙も、「現実」もしくは表現や認識の「外部」との対比(6頁)におい て本書のキーワードをなす。
 これらのことを「応用」するなら、たとえば「二人称の科学」とは「外部=現実」(仮想世界対現実世界という二項の片割れとしてのそれではない「存在する 現実世界」[146頁])の「表現」そのものであって、それは終わりなき会話を通じてのみ成し遂げられる、などということができるかもしれない。(それ= 現実をどう認識し表現するかが科学の問題なのではなく、その営みそのものがそれ=現実の表現そのものであるような科学こそが二人称の科学である? すなわ ち、会話とはミクロとマクロ、部分と全体をつなぐ「観測」である?)
 ここでいう「会話」は、自問自答とは似て非なるものだ。自問自答の堂々巡りは果てしないが、それは実は最初から終わっている(果てしない=無際限、終わ りなき=無限、などと考えてもいい?)。自問自答ならぬ会話には媒介が必要である。郡司と幸夫の間に「ペギオ」というミドルネームがはさまれて、一人の人 間のうちで会話(二人称の科学)が成り立つように。ちなみに本書はPとYとの会話で構成されている。Pはペンギン男、Yは幸夫で、そこには常に沈黙(沈思 黙考)しているGが立ち会っている。
 なぜ媒介が必要なのか。分離し区分するためである。本書のテーマでいえば「もの」と「こころ」の分離である。「わたし」における能動性と受動性、「わた し」における自己と他者、などと謎めかして言っておいてもいい。では、なぜそうした二元論を打ち立てる必要があるのか。対象(たとえば物質世界)が混乱し ているからである。あるいは分離し区分しないかぎり「対象」が立ち上がってこないからである。そうしないと生物、少なくとも動物は生きられない。
 それだけではない。分離区分が往路だとしたら、その復路がなければならない。そうでなければ、「生きているもの」は把握できても「生きていること」へは 到達できない。なんのための二元論だったかというと、混乱した一元論の外へ出るためであって、「モノそれ自体」のリアリティを放棄するためではない。だか ら媒介は「区別を創り出しそれを無効にする力を潜在させるもの」(124頁)でなければいけない。
 そうした媒介者のことを本書は「マテリアル」と呼ぶ。「一方で認識とその外部の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。こ の二つが、マテリアルにおいてつながっている。わたしが示すマテリアルとは、そういった概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されること になります。」(6頁)
(後の覚えのために書いておくと、デカルト的二元論とベルクソン的二元論があって、ともに究極的には一元論と言えば言えるものになるのだが、前者は現代科 学より前の、というより現代科学を生み出し今なお生み出しつつある形而上学、後者は現代科学より後、というかその方法と成果の批判的受容の上に成り立ちこ れからも成り立っていくだろう形而上学という関係にある。)

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 「二人称の科学」を採用することは断念したといいながら、つい立ち入ってしまった。続きを急ぐ。
 で、「二人称の科学」のかわりにひねりだしたのが「一期一会の科学」というものだった。いや、ひねりださなくとも、ちゃんと本書にその言葉が出てくる。 郡司氏は漫画家・根本敬のエッセイ「一期一会」を紹介している。

《根本敬さんは、仕事の都合上現実の死体を見ることになって、警察に依頼したそうなんだ。もちろん、いつでもあるわけじゃないんで、待つことになる。ある 日、突然電話がかかってくる。行ってみると、司法解剖が終わって、皮膚が縫合された遺体が置かれている。まぎれもない物体となって。
 で、彼は警察の人に聞いてみたそうだ。この方はどういう経緯でなくなって、いまここにおられるんですかってね。警察の人が言うには、トラックの長距離輸 送の運転手で、山道で、おそらくちょっと用をたそうとして、足を滑らせ、そのまま崖に落ちて亡くなったということだった。このとき、根本さんは、こう思っ たそうだよ。あ、これこそが一期一会だ、と。「私は、彼と出会うために生まれてきて、ここにやってきた。彼もまた、私とここでこの瞬間出会うために、生ま れてきて、亡くなって、やってきた。これが一期一会だ」ってね。すごい話だよ。》(269頁)

 郡司氏は「死んだ人とわたしとの出会い、においてこそ、一期一会の存在が理解される」(270頁)と書いている。

《遺体と死体って区別するように、生前をよく知っている人なら、その動かなくなった体は単なる死体じゃなくて、悲しみと生前を身に纏った、「遺体」だよ ね。それは、死んでしまったがゆえに、わたしのイメージする世界の住人になっている。遺体は、観測者の側にいるんだよ。では、まったく関係のない人の「死 体」は、どうか。(略)
 まったく知らない人の死体に向き合うとき、それは本質的には死体で、モノに近いなにかのはずだよね。死体である限り、わたしが彼の人生を理解したりする ことはできない。それは遺体ではなく、死体として出会うことの定義でもある。にもかかわらず、死体であることと矛盾する、彼のここに至るまでの来歴を想像 することはでき、いや、そうしてしまう。それはモノの移動や運動を想像するように、できるはずだった。だけど、そのような来歴の想像は、彼が生きて崖から 滑り落ち、ここにくるまでのすべてを想起させたというわけだよね。遺体であることと、死体であることとは矛盾する。でもここでは、死体であることと、遺体 であろうとすることが共立して、そこに一期一会の存在が感得されている。それは、マテリアルの存在と同じものなんだ。》(270-271頁)

 あとがきがない本書の最後の文章である。語っているのはY、聞いているのはP、最後まで沈黙しているのはG。ここに、死体と遺体を区別しかつその区別を 無効にする媒介、つまり死者が立ち上がっている、あの「二人称の科学」すなわち「終わりなき会話」を成り立たせている媒介者が、などと言うことができるだ ろうか。あるいは、一期一会の出会いのうちに究極の会話(二人称の科学)、すなわち死者とのコミュニケーションが成り立っている、などと。
 個人的な注記。内田樹『死と身体』を再読すること。エミール・ブレイユ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』を読むこと。

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 物質である脳にいかにして心が宿るのか。ここでいう「心」を「クオリア(質感)に満ちた意識」や「魂」や「霊性」や「存在感覚(存在へのセンス・オブ・ ワンダー)」等々におきかえ、また「宿る」を「生まれる」や「随伴する」や「幽閉される」等々といいかえてみても問題の本質、いや「手触り感」(64頁) は変わらない。
 脳を「物質」というとき、ひとは「三人称」的に、他人事として脳を見ている。いや、脳を第三者的に観察し、感覚的に見たり触れたりするのは解剖学者か脳 科学者か脳外科医であって、普通の人は脳を直接見ることなどめったにない。まして自分の脳に触れることはまずない。だから、物質としての脳については「そ れ」もしくは「あれ」としかいいようがない。
 脳のはたらきがもたらすものを「心」としてとらえるとき、とりわけ「物質である(にすぎない)脳にいかにして心が宿るのか」という問いをたてるとき、ひ とは「一人称」的に、自らが経験する「私の心」を念頭においている。このいまここにある具体的で生々しく切実な「生きていること」にまつわる感覚が、これ とは似ても似つかぬ灰色の脳細胞のうちにいかにして宿るのかというわけだ。
 ここにある乖離、つまり三人称もしくは非人称の抽象と一人称の感覚との分離に折り合いをつけるためには、「物質」の概念を精錬しなければならない。そこ に立ち現れるのが二人称的な一期一会の存在である。それは「存在する現実世界」のことでもある。つまり、抽象×感覚=現実。
 個人的な注記。抽象と感覚の二元論とその「克服」。デカルト的克服とベルクソン的克服。観測過程=懐疑(255頁)。