不連続な読書日記(2006.04-05)



【書評・感想】

●三好由紀彦『はじめの哲学』(ちくまプリマー新書:2006.3.10)

《忘れていたことさえ忘れていた最初の問い》
 金森修さんが『ベルクソン』のあとがきに、「僕にとって、哲学書を読むというのは、ある種の生まれ変わり、ある種の若返りを体験することなのだろう」と書いている。生まれ変わりを体験するとは、いったいどういう体験をすることなのだろう。想像を絶する。若返りの体験なら、あるていどの推測はできるような気がする。でも、幼年期はもちろん、少年期の自分に戻るという体験もほんとうはちょっと想像を超えている。ガキの頃の自分が何を感じ、何を考え、何をどう見、聞いていたか。そんなことはいくらあがいても思い出せない。バタイユが、「文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか」(山本功訳『文学と悪』)と書いている。だとすると、哲学とはついにふたたび見いだされた胎児時、あるいは父母未生已然の生のことなのだろうか。
     ※
 三好由起彦さんの『はじめの哲学』を読み終えたのも、ずいぶん前のことだ。
 「世界がある」ということの神秘と謎めぐる八つの冒険でつづられた本書は、存在の国の広さの問題から始まる。やがて議論は、この世界にあるものすべてを説明してくれる「いちばん最初の根っこ」をめぐる冒険へ進み、素粒子を観察する眼をさらに観察する眼、見ることをさらに見ることができるような能力、すなわち意識の問題にたどりつく。そして、「あるもの」を知るためには「ないもの」のことも知らなければならないが、「ないもの」を知ることなど絶対に不可能であるという矛盾にぶちあたって、存在の国の外部、つまり「死」の問題へと屈折し、「この存在の国の中にあるものすべては、私たちが生きているからこそ、そこにある」という「結論」にいたる。そして最後の章で、死後の世界の実在をめぐる二つの「真理」の選択の問題が述べられる。
 存在の問題にほんとうの答えなどない。なぜなら、ほんとうの答えがみつかった段階で、最初の問題はもはや問題ではなくなってしまうのだから。なくなってしまった問題に対する答えなど、もう答えではないはずだ。生まれ変わった時、その人はもはや以前と同じ人ではない。だとすると、生まれ変わりなどなかったことになる。これと同じ構造だ。だから、哲学書を読むことの意味は、いやそもそも哲学するということ自体、最初の問題に何度でもたち帰ること以外のなにものでもない。忘れていたことさえ忘れていた最初の問いにたち帰ること。「クイちゃん」が発する問いに何度でも向き合うこと。
 『はじめの哲学』を読みながら、保坂和志の『季節の記憶』と『もうひとつの季節』を想起した。いずれも、クイちゃんの「哲学的問い」への「僕」(クイちゃんのパパ)の応答をもって小説世界がはじまっていた。「時間ってどういうの?」から宇宙の問題に話題が広がっていった『季節の記憶』。『もうひとつの季節』では、クイちゃんがおばあちゃんに「僕」がまだ一歳かそこらの時に猫と一緒に写った写真を見せてもらって、「猫はもう死んじゃった」と聞いて腑に落ちない思いをし、「パパにも赤ちゃんだったときがある」はわかるけれど「この赤ちゃんがパパになった」の方がどうしても納得できないところから小説世界がひらかれていった。
 たしか保坂和志さんの本にも挿絵がついていた。挿絵がこれほど強く記憶に残る本はめったにない。『はじめの哲学』もその希有な例の一つだ。

●金森修『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.9.20)

《ベルクソン哲学のランドマーク》
 金森修さんの『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』はずいぶん前に読んだ。端正な文章で叙述されたベルクソンの「常識離れ」した思考の急所、とくに「重々しい晦渋さ」に覆われた『物質と記憶』での「途方もない」議論のいくつかを、簡明かつ端的に紹介した好著だった。しかし、この簡明・端的さが、ベルクソン哲学への入門書としてはともかく、誘惑の書としての力を殺いでいる。
 著者は、ベルクソンの「すごさ」についてこう書いている。
《…重要で難しい問題について、なにかを考えて判断を下すとき、極端なことをドカッといってのけて、あとは平然としているという人がいる。そんな人は、威勢がいいだけにすごい思想家のように見えるものだけど、実はそれほどでもなくて、必ず一種の留保的な補足をためらいがちに述べておく人の方が、本当はすごいものなんだ。》
 ためらいがちに述べられるベルクソン的世界の「異説」は、じっさいにその著書に接し読者の多くが感じたに違いない退屈な常識的議論の果てにさりげなく挿入されたエピソードのようなものである。それをそれ自体としてとりだしてしまうと、あたかも砂糖水から砂糖を抽出すようなもので、蒸留してウォッカにしあげたり、樹液を濃縮してシロップをつくったりという、具体的で豊穣な「展開」の可能性が失われてしまう。
 とはいえ、本書で標本にされた「SF的」なベルクソンの思考のエッセンスは、やはり魅惑的である。知覚と記憶をめぐる第二章からその一端を、さらに圧縮したかたちで抜き書きしておく。
その1.「〈知覚の場所〉なるものがあるとすれば、それは当の知覚対象がある場所そのものだ」
その2.「知覚はもともと非人格的なものとして成立する」
その3.「もし君がA岬に行くのがまったくの初めてだったとしても、A岬の記憶心象が君の知覚を記憶で浸してしまう」
その4.「記憶は脳のなかにはない」
その5.「複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、というような、そんな感じの途方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。」
 ここに挙げた五つの命題を論証するために、あるいは「本当は最初から知っているはずなのに、忘れてしまっているものをもう一度見出す」ために、ベルクソンは7年の歳月をかけて『物質と記憶』を書き上げたのだ、といってもいいだろう。
 ほんとうはベルクソンの思考の「エッセンス」をコンパクトに抽出することなどできない。仮にできたとしてもそんな書物に意味はない。砂糖が水に溶ける時間のうちにしか哲学的思考の実質はないのであって、できあいの砂糖水をいくら分析してみてもそこに哲学はない。著者はそのことを十分わきまえた上で、「持続の相のもと」に展開されたベルクソン哲学のランドマークの所在を示したのだろう。

●入不二基義『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2006.5.30)

《同じ問題が何度でも変奏される》
 序章に『維摩経』の話題が出てくる。「不二の法門(さとりの境地)に入るとはいかなることか」。維摩が発した問いをめぐって、菩薩たちが自説を展開する。生と滅、幸福と不幸といった二分法的な概念から解放されることが「さとり」である。いや、そのような二項対立、すなわちPか非Pかという「動」だけではなく、そのどちらでもないという「不動」まで含めて「二」なのであって、だから「不二」とはいっさいをしないこと、すなわち「無作為」なのである。
 最後に文殊師利が発言する。ことばの本質的な働きは「二」(根元的な分割)である。だから、ことば自体を捨てること、すなわち「無語、無言、無表示」こそが不二の境地に入ることだ。文殊師利はそう説き、維摩自身の答えを求める。「維摩の一黙、雷のごとし」。文殊師利これを称えていわく、「そこには文字もなく、ことばもなく、心がはたらくこともない」。
 こうした三段階の議論を紹介した後で、著者は、維摩の沈黙が不二の実践(さとりの境地)であったか、ただの沈黙(呆け)だったか──「不二」をめぐる言語ゲームの「内」にあって、ことばでは到達不可能な「外」をことばの「内」へと巻き込んで働いているものであったか、それとも言語ゲームに巻き込まれている「外」よりもっと「外」にあるものだったか──は紙一重だと書きそえている。
 ここに本書の議論のすべてが、あらかじめ入れ子式に反復されている。『論理哲学論考』をとりあげた第一章では、「いわゆる独我論」の「私」(「世界」を包み込む「私」)と素朴な実在論の「私」(「世界」の中の「私」)の二項対立が、それぞれの「私」を純化していくその極限において反転・一致するダイナミックな思考のプロセスが叙述される。『青色本』等の考察を論じた第二章では、直接経験を非人称的なのものと考える「いわゆる無主体論」と、それらが「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのだと考える「ウィトゲンシュタインの無主体論」が比較され、後者における最強度の「私」が「私」の無化と接していること、すなわち「独我」と「無我」の一致へと至るメカニズムが摘出される。
 そして、『哲学探究』を扱う第三章では、私的言語の想定がはらむディレンマ──それが理解されることによって「われわれの言語」の圏内に回収され、あるいは逆に「われわれの言語」の圏内に位置づけられないならば端的に無意味である──の分析を通じて、私的言語は肯定も否定もできないから端的に「ない」のではなく、肯定も否定もできないまま言語ゲームに「潜行伴走」し続けること、すなわち「ある」ことと「ない」こととが紙一重である状況が描写される。
 第一の議論がメビウスの帯の構造(裏と表の一致)をかたどっているとしたら、第二の議論はクラインの壺のフォルム(内と外の通底)をまとっている。第三の議論の論理のかたち(「ある」と「ない」の紙一重の接近)を表現する図形の名を、私は知らない。たとえば五つの点が相互に等距離に位置する4次元多様体がその候補だが、おそらく次元がもう一段高いのではないかと思う。しかも、それぞれの議論のうちに実は全体が入れ子式に反復されていて、「同じ問題が、形を変えて何度でも変奏される」のである。そのような思考を図式化して理解することなど本来できない。とりわけ後半、一気に加速し、高密度・高次元の思考不能領域へと突入していく本書を「ことば」でもって理解することはできない。「遂行的に理解すること」。哲学とは、問いを問い続けること。問いを生きること。本書は、そのようなウィトゲンシュタイン=入不二哲学のエッセンスをみごとに造形している。

●リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社:2005.6.30)

《人の一生のうちでただ一度だけ起こること》
 だれでも一生に一冊、小説が書けるという。笑いや涙、感動や共感を誘う小説。誘わなくとも、読者の心の奥深いところ、情動にはたらきかける小説。ありのままの事実をただ書き連ねるだけでは、そのような小説は書けない。人生は小説ではない。ありのままの事実をありのままに書くことなど、並の力量ではできない。そもそも、ありのままの事実などどこにもない。ありふれた出来事などどこにもないように。ありのままの事実であれ、ありきたりの出来事であれ、それはそのような事実や出来事を生きる人の、当の事実や出来事に対する態度のうちにしかない。
 小説を書くということは、小説を書くという強い意識を伴う行為である。知らぬ間に小説を書いていた、などということはない。知らぬ間に書いた文章が、それを読む人の心の奥深いところ、情動に知らぬ間にはたらきかける、などということはもっとない。しかしそのあり得ないことが、人生に一度だけ起こる。それが書物として世に現れることは、もっともっと稀有なことだ。リリー・フランキーの『東京タワー』を読むということは、そのようなあり得ない稀有な出来事に遭遇することである。
 この人の文章はひどい。とても読めたものではない。しかし、そのような文章でしか表現できない実質がある。というより、ある実質がそのような文体を強いている。この作品を、たとえば堀江敏幸の文体で読むと、読者はより深い文学的感銘を受けるかもしれないが、それはもう『東京タワー』ではない。当たり前の話だが。リリー・フランキーは、堀江敏幸とは異なる次元で、小説には「いま」しかないということを作品を通じて表現している。この作品には、ほんとうは相互に無関係の異なる複数の「いま」が、それぞれの「いま」に固有の感情と体感にくるまれて息づいている。だから、この作品はけっして回顧譚ではない。読者はほんとうはそのことに気づいている。だから、リリー・フランキーにとってのかけがえのない「いま」が、だれにとってもかけがえのない「いま」としての輝きをもって表現されていることに愛惜の涙を誘われるのである。人の一生のうちでただ一度だけ起こる表現の奇跡に立ちあえたことに、深い感銘を覚えるのである。

●沢木耕太郎『杯〔カップ〕──緑の海へ』(新潮文庫:2006.5.1/2004)

《疲労の名前》
 日本と韓国をくりかえし移動しながら、日韓ワールドカップの主要なゲームを観戦する。なんと贅沢な「仕事」だったことだろう。羨ましさと妬ましさが入り交じった冷ややかな視線をもって読み始めた。
 沢木耕太郎の文章は「疲労」の影を深く濃くたたえていた。そこに混じっている感情の質も量も私のそれとは比較にもならないだろうが、この疲労感は私自身もたしかに経験したものだ。この一点を確認できたことで、このドキュメンタリーは、ある精神のかたちをめぐる優れた考察の書として、忘れがたいものとなった。
 リアルタイムでTVで見、ビデオで何度も確認しては、鈴木の初ゴール、稲本の勝ち越しゴール、中田のだめ押しゴールの感動をすりきれるくらいに反芻した。しかし、それらはすべて対トルコ戦の終了とともに凍りついたままだ。あの時の熱狂の疲労が、いまでも休火山の地底奥深くでとぐろをまいている。
《決勝トーナメントの初戦で敗れたことは間違いなく残念なこと、悔しいことだった。もしかしたら、私たちが、日本代表とともに、このワールドカップで手に入れることのできた最大のものは、敗北を受け入れるのではなく、敗北を無念なことと受け止める、この思いなのかもしれない。》(403頁)
 愛国心やナショナリズムといった言葉でくくってしまっては、その実質はとらえることができない。あの体験を名ざす言葉を、すくなくとも私はまだ手に入れていない。あれから4年経った。「臥薪嘗胆」にかわる新しい語彙を見つけることができるだろうか。


【読了】

●金森修『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.9.20)
●新谷弘実『病気にならない生き方──ミラクル・エンザイムが寿命を決める』(サンマーク出版:2005.7.20)
●リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社:2005.6.30)
●かわぐちかいじ『太陽の黙示録11』(小学館:2006.5.1)
●草凪優『おさな妻』(双葉文庫:2006.4.13)
●睦月影郎『はじらい吸血鬼』(双葉文庫:2006.5.20)
●アルフレッド・ヒッチコック『第3逃亡者』
●アルフレッド・ヒッチコック『私は告白する』
●アルフレッド・ヒッチコック『恐喝(ゆすり)』
●アルフレッド・ヒッチコック『疑惑の影』
●アルフレッド・ヒッチコック『見知らぬ乗客』
●沢木耕太郎『杯〔カップ〕──緑の海へ』(新潮文庫:2006.5.1/2004)
●入不二基義『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2006.5.30)
●吉本隆明『カール・マルクス』(光文社文庫:2006.3.30)
●柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書:2006.4.20)
●網野善彦『日本中世に何が起きたか──都市と宗教と「資本主義」』(洋泉社MC新書:2006.5.22)
●吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫:2002.9.10)
●渡辺公三・木村秀雄編『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』(みすず書房:2006.4.14)
●中沢新一『芸術人類学』(みすず書房:2006.3.22)


【購入】

●金森修『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.9.20)【¥1000】
●小泉義之『病の哲学』(ちくま新書:2006.4.10)【¥720】
●内田樹『態度が悪くてすみません──内なる「他者」との出会い』(角川oneテーマ21:2006.4.10)【¥721】
●三浦展編著『脱ファスト風土宣言──商店街を救え!』(洋泉社新書y:2006.4.21)【¥840】
●立川武蔵『マンダラという世界──ブッディスト・セオロジーU』(講談社選書メチエ:2006.4.10)【¥1500】
●川本敏郎『中高年からはじめる男の料理術』(平凡社新書:2006.4.10)【¥760】
●丸谷才一『挨拶はむづかしい』(朝日文庫:1988.6.20/1985)《¥200》
●ヘルマン・ヘッセ『知と愛』(高橋健二訳,新潮文庫)《¥300》
●かわぐちかいじ『太陽の黙示録11』(小学館:2006.5.1)【¥505】
●漆原友紀『蟲師7』(講談社:2006.2.23)【¥590】
●渡辺公三・木村秀雄編『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』(みすず書房:2006.4.14)【¥2600】
●朝日新聞be編集部『マニュアル不要のパソコン術──パソコンをもっと快適に使うひと工夫』(講談社ブルーバックス:2005.4.20)【¥1040】
●草凪優『おさな妻』(双葉文庫:2006.4.20)【¥629】
●柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書:2006.4.20)【¥740】
●熊野純彦『西洋哲学史──古代から中世へ』(岩波新書:2006.4.20)【¥820】
●河野与一『新編 学問の曲り角』(原二郎編,岩波文庫:2000.6.16)《¥330》
●クロード・レヴィ=ストロース『神話論理T 生のものと火を通したもの』(早水洋太郎訳,みすず書房:2006.4.14)【¥8000】
●吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫:2002.9.10)【¥1000】
●沢木耕太郎『杯〔カップ〕──緑の海へ』(新潮文庫:2006.5.1/2004)【¥590】
●網野善彦『日本中世に何が起きたか──都市と宗教と「資本主義」』(洋泉社MC新書:2006.5.22)【¥1500】
●仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠──アイロニカルな批評宣言』(ちくま新書:2006.5.10)【¥720】
●『ソトコト』6月号[特集|ロハス健康大百科]【¥762】
●『ナンバープラス』[ドイツW杯完全読本。]【¥838】
●『Windows Style』Vol.01(Windows 100% 2006年5月増刊,晋遊舎:2006.5.1)【¥762】
●アルフレッド・ヒッチコック『第3逃亡者』【¥300】
●アルフレッド・ヒッチコック『サボタージュ』【¥300】
●アルフレッド・ヒッチコック『私は告白する』【¥476】
●アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』【¥980】
●アルフレッド・ヒッチコック『めまい』【¥980】
●アルフレッド・ヒッチコック『ダイヤルMを廻せ!』【¥1286】
●アルフレッド・ヒッチコック『鳥』【¥840】
●アルフレッド・ヒッチコック『知りすぎていた男』【¥840】
●アルフレッド・ヒッチコック『救命艇』【¥428】
●アルフレッド・ヒッチコック『断崖』【¥428】
●アルフレッド・ヒッチコック『暗殺者の家』【¥428】
●アルフレッド・ヒッチコック『パラダイン夫人の恋』【¥428】
●アルフレッド・ヒッチコック『間諜最後の日』【¥428】
●アルフレッド・ヒッチコック『舞台恐怖症』【¥428】
●ヒッチコック/トリュフォー『定本 映画術(改訂版)』(山田宏一・蓮見重彦訳,晶文社:1990.12.10)【¥4000】
●小森陽一『村上春樹論──『海辺のカフカを精読する』』(平凡社新書:2006.5.10)【¥780】
●睦月影郎『はじらい吸血鬼』(双葉文庫:2006.5.20)【¥571】
●保坂和志『途方に暮れて、人生論』(草思社:2006.4.28)【¥1400】
●ピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』(若林真訳,河出文庫:2006.5.30)【¥880】
●田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書:2006.5.20)【¥760】
●入不二基義『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2006.5.30)【¥1000】


 【ブログ】

★4月23日(日):単身赴任先で読む本(続)

 あれからほぼ一月。新しい生活のスタイルはまだ確立できていないけれども、ようやくネット環境が整ったので、ぼちぼち読書日記を再開しようと思い立った。今日のところはリハビリを兼ねて、この間に買い求めた本をリストアップしておく。

・高田明和『〈ハッキリ脳〉の習慣術』(角川oneテーマ21)
・堀江敏幸『河岸忘日抄』(新潮社)
・金森修『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版)
・小泉義之『病の哲学』(ちくま新書)
・内田樹『態度が悪くてすみません──内なる「他者」との出会い』(角川oneテーマ21)
・三浦展編著『脱ファスト風土宣言──商店街を救え!』(洋泉社新書y)
・立川武蔵『マンダラという世界──ブッディスト・セオロジーU』(講談社選書メチエ)
・川本敏郎『中高年からはじめる男の料理術』(平凡社新書)
・丸谷才一『挨拶はむつかしい』(朝日文庫)
・ヘルマン・ヘッセ『知と愛』(高橋健二訳,新潮文庫)
・かわぐちかいじ『太陽の黙示録11』(小学館)
・漆原友紀『蟲師7』(講談社)
・渡辺公三・木村秀雄編『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』(みすず書房)
・朝日新聞be編集部『マニュアル不要のパソコン術──パソコンをもっと快適に使うひと工夫』(講談社ブルーバックス)
・草凪優『おさな妻』(双葉文庫)
・柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)
・熊野純彦『西洋哲学史──古代から中世へ』(岩波新書)
・河野与一『新編 学問の曲り角』(原二郎編,岩波文庫)

 このうち、ちゃんと最後まで読んだのは金森修さんの『ベルクソン』だけ。百頁ほどの小冊子で中身もとてもやさしく書いてあるのに、最後の頁までたどりつくのにずいぶんと時間がかかってしまった。活字が脳髄のうちに染み込んでいくのが実感できるようになるまで、スローかつ丁寧に、肝心なところはなんども反芻しながら読んだ。
 生活の環境が大きく変わって、本の読み方が徐々に変化しはじめたようだ。というか、わずかな時間でこれまでの本の読み方をすっかり忘れてしまって、だのにまだ新しいスタイルが身につかない。先月のはじめに読んだ三好由紀彦さんの『はじめの哲学』ともども、簡単な感想を書いておこうと思っていたけれど、こんどは文章の書き方を忘れている。
 本のほかには、ハルダンゲルヴァイオリニスト・山瀬理桜さん〔http://www.rioyamase.com/〕の『クリスタル ローズ ガーデン』を買って、いまも聴いている。今日、『かもめ食堂』を観た。

★5月20日(土):紙一重

 文庫本で吉本隆明の著書を二冊、同時に読み進めている。『カール・マルクス』(光文社文庫)と『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)。なんど読み返しても、咀嚼しきれない濃厚な残余が後を引く。思想家としての吉本隆明の凄さがようやく判りかけてきた。そんな気がする。中沢新一の解説(「マルクスの「三位一体」」,「二十一世紀へむけた思想の砲丸」)がついていて、どちらも力がこもっている。この二冊を存分に読み込めば、そこからヒントを得てなにか自分なりの思索を展開できそうな気がしている。けれども、それはまだ朦朧としている。今日のところはただ一点、二つの書物の冒頭にあたる箇所にでてきた共通する語彙をめぐって、前後の文脈をぬきにして抜書きしておく。

《ひとは、たれでもフォイエルバッハのこの洞察が、ほとんどマルクスと紙一重であることをしることができるはずだ。そういった意味では、この紙一重を超えることが思想家の生命であり、もともとひょうたんから駒がでるような独創性などは、この世にはありえないのである。
 マルクスにとっては、フォイエルバッハのように、〈自然〉は、人間と自然とに共通な基底ではなかった。それは〈非有機的身体〉と〈有機的身体〉として相互に浸潤しあい、また相互に対立しあう〈疎外〉関係であった。わたしのかんがえでは、フォイエルバッハが、あたかも光を波動とかんがえたとすれば、マルクスはそれを粒子という側面でかんがえてみたのである。それは、マルクスがギリシア〈自然〉哲学の原子説を生かしきったことを意味している。フォイエルバッハの〈共通の基底〉を、〈疎外〉にまで展開させたおおきな力は、この紙一重の契機であった。》(「マルクス紀行」,『カール・マルクス』41頁)

《けれど法然と親鸞とは紙一枚で微妙にちがっている。法然では「たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ」という言葉は、自力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。親鸞には、この課題そのものが信仰のほとんどすべてで、たんに知識をすてよ、愚になれ、知者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば、信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして、これが云いようもなく難しいことをよく知っていた。
 親鸞は、〈知〉の頂きを極めたところで、かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわっている。》(『最後の親鸞』17-18頁)

★5月21日(日):『記憶と生』(第1回)

 以前、「日常座臥、ベルクソンの文章に浸っていたいと思うようになった」と書いた。「まるで、恋をしているような気分」とも。「ベルクソンの文章に接しているときだけ、心と躰のもやもやが晴れて、澄み切った気持ちになれる」とも。あれからほぼ二ヶ月。ようやく今日、ベルクソンを少し読んだ。ドゥルーズによるアンソロジー『記憶と生』(前田英樹訳)に収録された77篇のテキストのうち、「持続の本性」のタイトルで括られた冒頭の5篇。昨年、『物質と記憶』でやったように、毎回ノートをとることにした。続くかどうかわからないが。
 で、ベルクソンが考えた「持続」の本性とはなにか。今日読んだところでは、『創造的進化』からとられたテキスト3「心理学を超えて:持続、それは全体である」が印象に残った。それは『物質と記憶』の最後に出てきた、「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなもの」であるという(驚くべき)規定につながる。つまり、「物質(の歴史)の持続」というアイデア。「宇宙は持続する。時間の性質を掘り下げるほど、いよいよ明らかになってくることは、持続とは発明であり、形態の創造であり、絶対的に新しいものの絶え間ない生成だということだろう。」(『記憶と生』20頁)この程度の抜書きでもって軽く通り過ぎていくことはできないと思うが、まだ始まったばかりなので、今日のところはこれでよしとしよう。

 それにしても『記憶と生』は素晴らしいアンソロジーだ。他人の著作群をバラバラに解体し、これを再編集して一冊の未完の著書をつくりあげる。各テキストにふられた註(「テキスト※参照」)に沿って他のテキストに飛び、また戻って読むといった作業を繰り返していくうちに、その未出現の書物が読者の脳髄のなかにかたちづくられていく。およそ思考というものが、なにもないところからは立ち上がらないものだとすれば、そうした思考のあり方そのものをこのアンソロジーはかたどっている。
 福岡伸一さんが、食べることつまり消化とは情報を解体することだと書いていた(『ソトコト』6月号)。ここでいう「情報」とはタンパク質のことで、情報の解体とはタンパク質(文章)をアミノ酸(アルファベット)に分解することである。
《体内に入ったアミノ酸は血流にのって全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなタンパク質に再合成され、新たな情報=意味をつむぎだす。つまり生命活動とは、アミノ酸というアルファベットによる不断のアナグラム=並べ替えであるといってもよい。/新たなタンパク質の合成がある一方で、細胞は自分自身のタンパク質を常に分解して捨て去っている。なぜ合成と分解を同時におこなっているのか? この問いはある意味で愚問である。なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ効果であるからだ。》(福岡伸一「食べることは情報を解体すること」,ソトコト連載「等身大の科学へ」)

★5月23日(火):宗教・経済・科学・芸術

 中沢新一さんの『芸術人類学』を断続的に読んでいる。3月に出た本だから、もうかれこれ二月あまり、ためつすがめつ眺めている。同じみすず書房から翌月刊行された『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に、『芸術人類学』にも納められた「『神話論理』前夜」が収録されている。だから、これらの本は星座状に関連しているわけだ。いうまでもなく、これもみすず書房から『森へ』と同日に出た『神話論理T 生のものと火を通したもの』がその中心に鎮座している。これら三冊の書物を、あたかも三本の鰹節を少しずつ削ってブレンドするようにして同時進行的に読み進めていると、途方もなく濃密なガスに覆われて、巨大な星雲のなかに閉じこめられたような気分になっていく。

 『芸術人類学』「はじめに」の冒頭の文章を抜き書きしておく。「芸術人類学」の基礎をなす「対称性人類学」について書かれたくだりだ。
《心の働きのおおもとの部分に、論理的矛盾を飲み込みながら全体的な作動をおこなう「対称性」と呼ばれる知性の働きを据えることによって、宗教から経済、科学から芸術にいたるまでの広大な領域でおこっている心の活動を、一貫した視点から再編成しなおしてみることを、この新しいサイエンスはめざしている。しかも私たちのめざしているのは実践的なサイエンスの構築である。新しい認識が新しい生き方の創出に結びついていけるような、現実の中でも効力を発揮できる実践的なサイエンスこそが、私たちの求めるものである。》
 「新しい認識が新しい生き方の創出に結びついていけるような、現実の中でも効力を発揮できる実践的なサイエンス」という言葉に強く惹かれて、この文章をチェックしておいたのだが、いま読み返すと、むしろ「宗教から経済、科学から芸術にいたるまでの広大な領域でおこっている心の活動」とさりげなく書かれた部分が興味深い。とりわけ「心の活動」のうちに「経済」を、それも「宗教」と組み合わせて書き込んでいること。また「宗教:経済=科学:芸術」とパラレルに読めるように書いてあること。「科学」と「サイエンス」の使い分けも含めて、このあたりは中沢・対称性人類学の根幹にかかわることだろうと思う。「はじめに」の最後にでてくる文章も興味深いので、ついでに抜き書きしておく。
《国家出現以来もたらされた意識変革がつくりだしてきた人類の心に、根本的な変化を生み出さす「複論理(バイロジック)」ないしは「対称性」を取り戻す必要があります。しかも、それを「具体的」に、社会の内部にセットできなければなりません。/そのためには、芸術には芸術家個人の幻想を越えた巨視的なヴィジョンが必要です。経済には贈与論的思考の復活がもとめられます。あらゆる宗教は「宗教をこえた宗教」への飛躍を模索しなければなりません。そして宗教を越え出た場所で、人類が出会うことになるのは、かつて人間と動物は兄弟であったと語る、あの神話の思考のよみがえりの現象です。しかし、そういう大きな理念の実現は、私たちの小さな日常的実践だけが可能にしていくものです。今日のエコロジー思想の実践は、未来に生まれるべきそのような思考の「先触れ」であったことを、未来の子供たちは知ることになるでしょう。》
 ここには「科学」という語が出てこないが、それは「神話」のうちに包含されていると見ていい。「かつて人間と動物は兄弟であったと語る、あの神話の思考のよみがえり」とか「未来に生まれるべき思考」といった言い方のうちに表現されている。

★5月24日(水):宗教・経済・科学・芸術(続)

 同時進行的に複数の本を併読していると、いろいろと面白い発見や過去の読書体験の蘇りなどがあって飽きない。昨日書いたことと関連して、気になっていることがあるので書いておく。

 最近、柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)と網野善彦『日本中世に何が起きたか──都市と宗教と「資本主義」』(洋泉社MC新書)の「回し読み」をやっている。この二つの書物を微に入り細に入り比較検証してみると、なかなか面白い。柄谷本の高次に抽象的な議論を網野本の猥雑なまでの具象性でもって解毒する、といったところ。吉本隆明の『カール・マルクス』と『最後の親鸞』をこの二冊と組み合わせて、バイロジカルな(?)回し読みをするともっと面白い。が、今日のところはそこまで話題を拡げられない。なにせ、まだ部分的に読み囓っているだけで、いずれも最後まで読破していないのだから。
 網野氏が「境界に生きる人々」と題した講演の中で、次のように語っている。
《かつて、私が、「無縁」と表現したことについて、中沢新一さんが、これは「資本主義」ではないかといったことがありますが、そう言われれば、商業、金融、技術、そして貨幣も「無縁」ということになるので、確かにこれはやがて資本主義として展開していく諸活動、諸要素であります。このことは逆に今まで資本主義の発達として経済学の分野からだけとらえられていた社会の動きを、もう一度、このように自然と人間の関係、宗教の問題の中で、根源に遡ってとらえ返してみる必要のあることを教えている、と私は考えます。》(『日本中世に何が起きたか』44-45頁)
 ここに出てくる四つ組の言葉、つまり「商業、金融、技術、そして貨幣」が、昨日とりあげた「経済・宗教・芸術・科学」と、いま並べ替えた順番で対応しているように私は思った。この順番は仮のもので、今後、思索の深まり(?)とともに修正されていくかもしれないけれど。
 気になっていることというのは、この対応の上に、柄谷氏がいう交換の交換様式、つまり「互酬(贈与と返礼)・再分配(略奪と再分配)・商品交換(貨幣と商品)・X」がどう関係していくかということだ。精確に書いておくと、どう関係づけたら面白いだろうかということだ。たぶんそれは、中沢新一風に言えば、高次元でバイロジカルにからみあっているのだと思う。そもそもそんな対応を考えること自体がおかしい、と言われればそれまでだけれど。

★5月25日(木):宗教・経済・科学・芸術(続々)

 『日本中世に何が起きたか』に、網野善彦・廣末保の対談「市の思想」が収録されている。そこで、廣末氏が「市というものは宗教的問題もあるし、交易の問題もあるし、芸能の問題もある」と語っている。
《近世になると、歴史のことはよくわかりませんけれども、商業的な場所というのはそれなりに自立してきます。それと同時に芸能とか、また売春的な要素を持っているもの、これは非常に未分化ですけれども、そういうものが悪所になってくる。市が分化していく過程を近世の中で見ていくと、悪所的なものと商業的なもの、それから宗教的なものと制度的なものに分けられていきますね。その中でぼくは、市の持っている超越性という性格が一番近世的な形で残っているのは悪所じゃないかという気がしているんです。
 その超越性の中には宗教的な要素と、それから天皇のように領主を超越した、ある意味で観念的な、普遍的なレベルのものともつながりがありますが、一方で交易という問題、商業とか交換とかいうものの持っている超越性というか、つまり村落的なものを超えて交換する場所では、交易そのものが人間の観念を変えてしまうということがある。》(83-84頁)
 ここにも「宗教・経済・科学・芸術」が登場する。ただし「科学」は、たぶん「歴史」をめぐる学のうちに包含されている(科学<歴史<物語<神話?)。ちなみに、ここに出てくる「芸能」について、網野氏は次のように語っている。
《中世の段階では、実際、商人も芸能民に入るんですね。商人だけでなく、呪術者、宗教人も手工業者もいまのような狭い意味ではなくて、ひっくるめて全部「芸能」という言葉でくくっている。博打なんかも芸能民なんですね。勝負師の世界というのは、近世ではそれなりに分化して独立した世界になるんでしょうけれども、中世では未分化なんですね。それが「芸能」という言葉で全部ひっくくられていることに一つの意味があるような気がするんです。》(91頁)

 宗教と芸能と交易。市場(市庭)という「無縁の原理」がはたらく境界的な場の問題系をかたちづくるこれら三つ組は、スティーヴン・ミズンが『心の先史時代』で述べた、ネアンデルタール人の「特化型の思考様式」を構成する三つの知能、すなわち博物的知能・技術的知能・言語知能を思わせる。
《現代人類の心への進化の決定的な一歩は、スイス・アーミー・ナイフのような構成の心から認知的流動性をもった心への切り替わり、特化した心から一般化した心への切り替わりだった。これにより、人間は複雑な道具を考え出したり芸術を創造したり、宗教的なイデオロギーを抱いたりすることができるようになった。(中略)一○万年前から三万年前にかけての特化型から一般型への心の切り替わりは、進化が選んだ驚くべき「一八○度転回」だった。そこにいたる六○○万年間の進化では、心の専門化がどんどん進んでいた。博物的知能、技術的知能、ついで言語知能が、現生の類人猿と人類との共通祖先[コモン・アンセスター]の心にすでに存在していた社会的知能に加えられていった。しかしさらに驚くべきことに、特化型の思考様式から一般型の思考様式へのこの新たな切り替わりは、現代人類の心への進化の途上でだけ起こった「一八○度転回」ではない。もし心の進化を、たかだか六○○万年のこの先史の中だけでなく六五○○万年にわたる霊長類の進化の中に位置づければ、専門化と一般化の思考様式の間を行ったり来たりする動きが見てとれる。》(松浦俊輔他訳)

 さらに引用を加えると、吉本隆明が「マルクス紀行」でマルクス思想の三つの旅程を論じている。すなわち「<自然>哲学の道」「宗教から法、国家へと流れくだる道」「市民社会の構造を解明するカギとしての経済学」。この文章が収録された『カール・マルクス』の文庫解説で、中沢新一はこれら三つ組をボロメオの輪のように結びつきマルクス思想の統一核をなす三位一体になぞらえ、それぞれをラカンの現実界・想像界・象徴界に対応させている。
《マルクスはいわば精神の底に、このような[人間の精神に内在する非幻想的な活動領域として理解されたエピクロス的な]霊魂の活動領域への通路が開かれていることを主張する古代の自然哲学者の所説のうちに、もっとも徹底した唯物論の萌芽を見いだしていたのである。つまり、自然哲学へののめり込みをとおして、若いマルクスは人間の幻想を突き破ったところに出現する、絶対的なリアル(現実的なもの)を、まず「自然」として発見したのだった。/そこからマルクスは「三位一体」の第二の環をなす、人間の幻想領域[宗教・国家・法]の研究に踏み込んでいくことになる。(略)
 幻想は「リアルなもの」を否定しようとする。しかし、その否定力そのものの根源は、非幻想的でリアルな「自然」の内部にひそんでいることになる。このように、「自然」と「幻想」はたがいに否定しあうようにしながら、ひとつに結びあっている。「三位一体」におけるこの環の部分は、だから簡単にほぐれてしまわないようにできている。そう考えてみれば、自然哲学から宗教・国家・法という幻想領域の研究に進んでいったマルクスの歩みには、深い理由があったわけである。
 しかし、個人の抱く幻想性は、共同生活の中でたわめられ、平準化されなければならない。人間はことばを語って、コミュニケーションをする。この言語習得の過程をつうじて、「幻想的・想像的なもの」は「象徴的」なものにつくりかえられ、共同生活を可能にしていく条件が整えられる。私たちは言葉をしゃべるようになり、共同性を身につけるようになってから、それ以前の自分の心を支配していた幻想性を思い返して、幻想性がことばのような「象徴的なもの」の効果として発生するように考えがちだが、ほんとうのところは、人の心にあってはまず幻想性の基体ができあがったのちに、それを否定的につくりかえるようにして、「象徴的なもの」とそれが生みだす心の秩序ができてくるのである。ここでも、「幻想的なもの」と「象徴的なもの」は、たがいに否定しあいながら、ひとつに結びあっている。(略)
 「経済的カテゴリー」はほかの「象徴的なもの」の諸様式、たとえば言語や記号によるコミュニケーションと多くの共通性をもつとはいえ、価値の増殖をおこなっていくという、きわだった特色をもっている。資本と呼ばれるものが、その価値増殖を実現している。『資本論』に結実したマルクスの研究は、この価値増殖の過程で、労働に内在している「自然」過程が、決定的な働きをおこなっていることをあきらかにしている。/つまり「経済的カテゴリー」と「自然」とは、ここでもひとつに結びあっているのである。》(中沢新一「マルクスの「三位一体」」)

 無縁の場にかかわる三つ組の問題系のうち「宗教」(あるいは霊性)は「自然=リアルなもの」に、「芸能」は「宗教・国家・法=幻想的・想像的なもの」に、「交易」は「経済的カテゴリー=象徴的なもの」にそれぞれ対応している。それでは、「科学」は?

★5月26日(金):思考を対象化すること

 レヴィ=ストロース『神話論理T 生のものと火を通したもの』の「序曲T」を読んだ。序章でも序文でも(序でに書かれた)たんなる序でもない。いかにも序曲と名づけるのがふさわしい、湿気をたっぷりとふくんだ濃密な霧がたちこめた文体。モーツアルトというよりは、ワーグナーを思わせる。出だしの文章が決まっている。
《生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民俗誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。》(5頁)
 続くパラグラフには、こう書いてある。
《わたしの実験室となる先住民の社会から借りてきたわずかな数の神話を使って、これからある実験をおこなうのであるが、それが成功した場合には、結果は普遍的なものになるであろう。この実験に期待しているのは、さまざまな感覚的なものに論理があること、そして感覚的なものの過程を跡づけ、感覚的なものに法則があるのを証明することだからである。》(5-6頁)
 感覚から抽象へといたる思考の過程を跡づけること。いや、そのような神話的思考を生きること。神話をもって神話を語ること。音楽でもって音楽を語るように。
《わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである。
 そしてたぶん、すでに示唆してあるが、さらに踏み込んで、主体というものを取り除いて、ある意味では、神話たちは互いに考え合っている、と想定すべきであろう。(略)神話それ自体を支えているのは二次的コードであるので(一次的コードは言語活動である)、本書が提供したいのは三次的コードの素描であり、素描の目的はいくつかの神話間相互の翻訳の可能性を手に入れることである。だからこの素描は神話であると思っていただいても間違いではない。それはいわば神話学の神話である。》(20頁)
 そして最後に、「人類学の究極の目的」は「思考を対象化し、思考と思考の仕組のよりよい理解に貢献することである」(22頁)とくくられる。思考を思考すること。繰り返し繰り返し読み込まれるべき文章。神話を繰り返し語り継ぐように。

★5月27日(土):「写真は、映画によってみずからの静止性を発明した」

 このところ毎晩のようにヒッチコックの映画を観ている。なるべく安いDVDの新品を探して、全部で53ある長篇作品をひととおり揃えようと、これまで少しずつ買いためてきたものを順不同で観ている。いま現在、25のタイトルが手元にある。一番安く買ったのは、百均のダイソーからでていた『第3逃亡者』と『サボタージュ』で、これはどちらも税込み315円で入手した。
 映画や音楽やスポーツについて語る語彙も発想も貧困なので、感想はなにも書けない。ただただ画面を眺めて時間を潰しているだけのこと。それだけで十分に楽しい。古い映画には、つねに新鮮な発見がある。(それを具体的にいうとどういうことか、と問われても困る。なにしろ映画の体験は、私の場合、言葉にならない。)トリュフォー・ヒッチコックの『映画術』など、関連の書物も徐々に買いためているが、なにか一つヒッチコック論か映画論でも書こうかといった野心があるわけではない(いまのところ)。
 DVDで映画を観るなど邪道だ、といわれるかもしれないが、別にいわれても構わない。それはもはや映画ではない。ならそれでいい。私は映画ではないものを観て愉しんでいるのだ。それに、映画館では味わえない楽しみ方もある。その一つが、静止画の取り込み。たまたま使っているソフトに、その機能がついていて、気になった画面をためしに切り取っているうち、やみつきになった。何度もDVDを止めて、ベストショットを撮影するのに時間をかけるようになった。2時間の映画を観るのに、うっかりすると3時間くらいかかるようになった。主に、女優の表情、都市の情景、その他、それがどういう訳か自分でもわからないが、とにかく気に入ったショットを蒐集している。1本の映画で最低でも20枚くらいはたまる。ためて、この後どう使うのかあてはない。あてはないが、映画を観終わって、切り取った画像を1枚1枚チェックしていくのが無類に楽しい。日本語字幕がついていたりすると、なぜかわくわくさせられる。

 上に書いたことと関係するのかどうかわからないが、『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に納められた鈴木一誌さんの「重力の行方──レヴィ=ストロースからの発想」という文章が滅法面白かったので、少しばかり抜き書きしておく。
 レヴィ=ストロースと音楽という、ありきたりといえばありきたりな切り口からではなく、写真や映画(鈴木氏はこれをひとまとめにして「非連続を生きるという意味で、写真と映画をともに写真メディアと言っておこう」と書いている:171頁)からレヴィ=ストロースを論じる。「映像を使用した人類学なのではなく、映像的な視角による人類学」(170頁)。しかも、それが最後になって、重力と無重力の対比を通じて、写真・映画と音楽と神話が同じ次元で論じられる。「写真が切りとる〈薄さ〉には、おそらく重力が写っていない。」(175頁)「物音は現実世界に根をおろし、いわば重力をもっているのに対し、「音楽以外のなにものも模倣しない」音楽をなりたたせる楽音には、重力がない。」(178頁)「重力のある地平と無重力の場の往還、つまりは「天と地のコミュニケーション」から神話の駆動力が生みだされている。」(177頁)
 なんの要約にもなっていないが、とにかく「重力の行方」はスリリングな論考だった。以下、とりわけぐっときた一節を引用しておく。
《映画監督ロベール・ブレッソンはこう書きとめている。/「トーキー映画は沈黙を発明した」/映画が音声をもつことで、表現としての〈沈黙〉が出現したのだと言う。サイレント映画における単層は〈沈黙〉をもちえなかったのだ。ブレッソンにならって言えば、写真は、映画によってみずからの静止性を発明したと思えるのだが、かといって、映画には運動があらかじめ与えられていたのではない。静止写真の集積にほかならない映画は、見る行為によって連続化され、運動を獲得する。静止写真の非連続性をつなぎえたことが、観客の「映画を見た」との達成感の基本にある。写真は世界の複写である、と言え、写真が世界の複製であるかぎりで、写真は世界へと連続している。対称に従属することなく、被写体の物語に誘引されずに、写真を、フィルムや印画紙上の感光材料や顔料にすぎない〈薄さ〉へと滞留させ、結果的に写真と世界のあいだに非連続をもちこむことが、写真を生きることにほかならない。》(170-171頁)
 ここに出てきた「物語」という語に関連して、もう一節、抜き書きしておく。
《ドキュメンタリーは、地球上のあらゆる生きものが甘受せざるをえない重力を写すものなのではないか。重力に抗いながら身体を動かす労働者や病者をドキュメンタリーがよく写してきたのはそのためだろう。多種多様なテーマがえらばれているにせよ、それとは別に、重力とともに生きるほかない存在として生きるものを描きだす、これがドキュメンタリーを定義する最低限の基準だと思える。対する劇映画は、たしかに役者は重力下にあるにしても、物語は、重力を無化する権限をもっている。スーパーマンやクンフー映画のように極端にではなくとも、殴り合いや殺陣においては重力が微細に省略されている。スローモーション撮影も重力感の操作の一方法だ。》(174-175頁)
 それにしても鈴木一誌さんの文章は刺激的で面白い。レヴィ=ストロースのゴダールの対比など、ひりひりするほど興奮させられる。以前、入手しかけてやめた『画面の誕生』を早速買い求めて読んでみよう。

 補遺として。「物語」について、中沢新一さんが『芸術人類学』で次のように書いている。
《神話はこのような思考空間の上を動くのである。対称性の知性をとおして世界をみつめ、宇宙の中の人間の位置や人間がそこに生きていることの意味を思考しながら、その思考を物語構造をとおして表現する。物語がここでは論理思考のための役目を果たすことになる。物語は時間の流れにそって語られるものであるから、がっちりとした継起性をもっている。それは「はじまり」をもち、「おわり」をもつ。しかし、論理的な語りとちがって、その語りはバイロジックの生み出しているものだから、内部に特徴のあるねじれをはらむのである。》(「神話公式ノート」76頁)
 ここに出てくる「このような思考空間」というのは、ペンローズの三角形[http://www.iaw.on.ca/~jspirko/gallery/penrosetriangle.jpg]のように、あきらかな論理的矛盾(ねじれ)をはらんでいるのに、その矛盾が図形の全体に存在していて、それを局所化して取り出すことができない図形、「いたるところにねじれが含まれていて、しかしそのねじれを全部集めてみると、どことなく変だが全体としてはもっともらしい顔をしている」、そのようなパラドキシカルな図形をつくりだす思考空間のことだ。

★5月28日(日):『記憶と生』(第2回)

 今日は手元に『記憶と生』がないので、先週読んだ「持続の本性」の周辺の話題を、別のテキストから拾っておく。別のテキストというのは、金森修さんの『ベルクソン』。ここで拾っておきたいのは、「純粋持続を探せ」の章名をもつ第一章の後半に出てくる「物[もの]的な持続」(46頁)をめぐる議論。

 ──「多少とも持続的なもの、つまり、そのものそれ自体がもつなんらかの性質によって、それが継続的に存在しているようなもの」(42頁)は、人間の意識だけではない。たしかに通常の物質は記憶を知らない。本当の意味での時間性を知らない。物質が変化を遂げても、物質自身は変化を変化と見届けられない。でも、先入見なく自然を観察すると、Aのあとには必ずBが起こるといった定型的なパターンの存在に気づくだろう。AからBへのつながりは、必然性を帯びているように見えるだろう。でも、AやBはただの物や事なのだから、自分が持続しているという意識はみじんももたない。
《にもかかわらず、AとBはつながっているという認識をもつ人間は、それが日常生活で便利だからそうするのだ、というだけではない。その対象自体がもつなんらかの性質によって、それらがつながっていると見なさざるをえないということに気づく。その事態を人間が形容する場合、より物[もの]的な世界のなかでは、Aが原因で、Bはその結果だというようないい方をするかもしれない。またより事[こと]的な世界のなかでは、Aは定理で、Bはその系だというようないい方をするかもしれない。/いずれにしろ、そこにはある種の必然性があり、しかもその必然性は、一種の〈展開〉として、文字通りの意味では一瞬には与えられないものとして、存在するのだ。》(43頁)
 持続、すなわちある種の必然性の一種の展開。──著者はつづけて、ベルクソンの次の文章を引用し、「このさりげない一文は、おそらくベルクソンが書いた文章のなかでも、最も深いものの一つだろう」と書いている。
《確かに、たとえ事物はわれわれのようには持続しないとしても、事物のなかにはなにかよくわからない理由があり、そのせいで、いろいろな現象は、すべてが同時に生起してしまうのではなく、継起的に出現するように見えるということを、われわれははっきりと感じている。》(『時間と自由』第三章)

 ここに記された思考のどこがどう「深い」のか、金森氏の記述はいまひとつ要領を得ない。物質界にも徐々に生起する継起というものはある、たとえば「もし私が一杯の砂糖水を作ろうとした場合、とにかく私は、その砂糖が溶けるのを待たねばならないのである」(『創造的進化』第一章)。そんな引用でお茶を濁している。
 私も「深い」と思う。『物質と記憶』ではさらに「物[もの]的な知覚」ともいうべき事柄をめぐる議論が展開されるのだが、こうしたベルクソンの思考の「展開」そのものも含めて、このあたりのことはベルクソン哲学の要石的なところではないかと思う。と、ここで止めておけばいいものを、物活論などをもちだすと、お里が知れるというものだ。でも、ベルクソンの議論は、アニミズムを含めた「神話的思考」と親和的である。中沢新一さんの「対称性論理」をもちだしてもいい。思考には質料(具体的な素材)が必要だ。そのような「感覚の論理」(レヴィ=ストロース)にのっとった具体的な思考(哲学的思考と言い切ってもいい)は、かならず物語のかたちをとる。

★5月29日(月):『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』

 金森修さんの『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』はずいぶん前に読んだ。端正な文章で叙述されたベルクソンの「常識離れ」した思考の急所、とくに「重々しい晦渋さ」(76頁)に覆われた『物質と記憶』での「途方もない」(88頁)議論のいくつかを、簡明かつ端的に紹介した好著だった。しかし、この簡明・端的さが、ベルクソン哲学への入門書としてはともかく、誘惑の書としての力を殺いでいる。
 著者は、ベルクソンの「すごさ」についてこう書いている。
《…重要で難しい問題について、なにかを考えて判断を下すとき、極端なことをドカッといってのけて、あとは平然としているという人がいる。そんな人は、威勢がいいだけにすごい思想家のように見えるものだけど、実はそれほどでもなくて、必ず一種の留保的な補足をためらいがちに述べておく人の方が、本当はすごいものなんだ。》(42頁)
 ためらいがちに述べられるベルクソン的世界の「異説」(79頁)は、じっさいにその著書に接し読者の多くが感じたに違いない退屈な常識的議論の果てにさりげなく挿入されたエピソードのようなものである。それをそれ自体としてとりだしてしまうと、あたかも砂糖水から砂糖を抽出すようなもので、蒸留してウォッカにしあげたり、樹液を濃縮してシロップをつくったりという、具体的で豊穣な「展開」の可能性が失われてしまう。
 とはいえ、本書で標本にされた「SF的」なベルクソンの思考のエッセンスは、やはり魅惑的である。知覚と記憶をめぐる第二章からその一端を、さらに圧縮したかたちで抜き書きしておく。

その1.「〈知覚の場所〉なるものがあるとすれば、それは当の知覚対象がある場所そのものだ」(78頁)
その2.「知覚はもともと非人格的なものとして成立する」(80頁)
その3.「もし君がA岬に行くのがまったくの初めてだったとしても、A岬の記憶心象が君の知覚を記憶で浸してしまう」(82頁参照)
その4.「記憶は脳のなかにはない」(86頁)
その5.「複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、というような、そんな感じの途方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。」(88頁)

 ここに挙げた五つの命題を論証するために、あるいは「本当は最初から知っているはずなのに、忘れてしまっているものをもう一度見出す」(23頁)ために、ベルクソンは7年の歳月をかけて『物質と記憶』を書き上げたのだ、といってもいいだろう。
 ほんとうはベルクソンの思考の「エッセンス」をコンパクトに抽出することなどできない。仮にできたとしてもそんな書物に意味はない。砂糖が水に溶ける時間のうちにしか哲学的思考の実質はないのであって、できあいの砂糖水をいくら分析してみてもそこに哲学はない。著者はそのことを十分わきまえた上で、「持続の相のもと」に展開されたベルクソン哲学のランドマークの所在を示したのだろう。

★5月30日(火):『はじめの哲学』

 金森修さんが『ベルクソン』のあとがきに、「僕にとって、哲学書を読むというのは、ある種の生まれ変わり、ある種の若返りを体験することなのだろう」と書いている。生まれ変わりを体験するとは、いったいどういう体験をすることなのだろう。想像を絶する。若返りの体験なら、あるていどの推測はできるような気がする。でも、幼年期はもちろん、少年期の自分に戻るという体験もほんとうはちょっと想像を超えている。ガキの頃の自分が何を感じ、何を考え、何をどう見、聞いていたか。そんなことはいくらあがいても思い出せない。バタイユが、「文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか」(山本功訳『文学と悪』)と書いている。だとすると、哲学とはついにふたたび見いだされた胎児時、あるいは父母未生已然の生のことなのだろうか。

     ※
 三好由起彦さんの『はじめの哲学』を読み終えたのも、ずいぶん前のことだ。
 「世界がある」ということの神秘と謎めぐる八つの冒険でつづられた本書は、存在の国の広さの問題から始まる。やがて議論は、この世界にあるものすべてを説明してくれる「いちばん最初の根っこ」をめぐる冒険へ進み、素粒子を観察する眼をさらに観察する眼、見ることをさらに見ることができるような能力、すなわち意識の問題にたどりつく。そして、「あるもの」を知るためには「ないもの」のことも知らなければならないが、「ないもの」を知ることなど絶対に不可能であるという矛盾にぶちあたって、存在の国の外部、つまり「死」の問題へと屈折し、「この存在の国の中にあるものすべては、私たちが生きているからこそ、そこにある」という「結論」にいたる。そして最後の章で、死後の世界の実在をめぐる二つの「真理」の選択の問題が述べられる。
 存在の問題にほんとうの答えなどない。なぜなら、ほんとうの答えがみつかった段階で、最初の問題はもはや問題ではなくなってしまうのだから。なくなってしまった問題に対する答えなど、もう答えではないはずだ。生まれ変わった時、その人はもはや以前と同じ人ではない。だとすると、生まれ変わりなどなかったことになる。これと同じ構造だ。だから、哲学書を読むことの意味は、いやそもそも哲学するということ自体、最初の問題に何度でもたち帰ること以外のなにものでもない。忘れていたことさえ忘れていた最初の問いにたち帰ること。「クイちゃん」が発する問いに何度でも向き合うこと。

 『はじめの哲学』を読みながら、保坂和志の『季節の記憶』と『もうひとつの季節』を想起した。いずれも、クイちゃんの「哲学的問い」への「僕」(クイちゃんのパパ)の応答をもって小説世界がはじまっていた。「時間ってどういうの?」から宇宙の問題に話題が広がっていった『季節の記憶』。『もうひとつの季節』では、クイちゃんがおばあちゃんに「僕」がまだ一歳かそこらの時に猫と一緒に写った写真を見せてもらって、「猫はもう死んじゃった」と聞いて腑に落ちない思いをし、「パパにも赤ちゃんだったときがある」はわかるけれど「この赤ちゃんがパパになった」の方がどうしても納得できないところから小説世界がひらかれていった。たしか保坂和志さんの本にも挿絵がついていた。挿絵がこれほど強く記憶に残る本はめったにない。『はじめの哲学』もその希有な例の一つだ。

★5月31日(水):『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』

 序章に『維摩経』第八章、入不二法門品の話題が出てくる。「さとりの境地(不二の法門)に入るとはいかなることか」。維摩が発したこの問いをめぐって、三十一人の修行者(菩薩)と文殊師利(マンジュシリー)がそれぞれの自説を展開していく。いわく、生と滅、幸福と不幸といった二分法的な概念から解放されることが「さとり」である。いや、そのような二項対立、すなわちPか非Pかという「動」だけではなく、そのどちらでもないという「不動」まで含めて「二」なのであって、だから「不二」とはいっさいをしないこと、すなわち「無作為」なのである。
 ここで文殊師利が登場する。「あなたがたの説いたところは、それもすべて二なのである」。ことばの本質的な働きは「二」(根元的な分割)である。だから、ことば自体を捨てること、すなわち「無語、無言、無表示」こそが「不二」(分割の未遂行)の境地に入ることだ。文殊師利はそのように説き、維摩自身の答えを求める。「維摩の一黙、雷のごとし」。維摩の沈黙の後、文殊師利は「これこそ菩薩が不二にはいることであって、そこには文字もなく、ことばもなく、心がはたらくこともない」と称える。
 こうした三段階の議論を紹介した後で、著者は、維摩の沈黙が不二=沈黙の実践(さとりの境地)であったのか、ただの沈黙(呆け)だったのか──言い換えると、「不二」をめぐる言語ゲームの「内」にあって、ことばでは到達不可能な「外」をことばの「内」へと巻き込んで働いているものであったか、それとも言語ゲームに巻き込まれている「外」よりもっと「外」にあるものだったか──は紙一重だと書きそえている。

 ここには本書の議論のすべてが、あらかじめ入れ子式に反復されている。『論理哲学論考』の独我論をとりあげた第一章では、「いわゆる独我論」の「私」(「世界」を包み込む「私」)と素朴な実在論の「私」(「世界」の中の「私」)の二項対立が、それぞれの「私」を純化していくその極限において反転・一致するダイナミックな思考のプロセスが叙述される。『青色本』等の無主体論と呼ばれる考察を論じた第二章では、直接経験・意識状態・心的体験等を非人称的で無主体のものと考える「いわゆる無主体論」と、それらが「超一人称的」「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのだと考える「ウィトゲンシュタインの無主体論」(言語内的な無主体論)が比較され、後者における最強度の「私」が「私」の無化と接していること、すなわち「独我」と「無我」の一致へと至る「類比的な移行(家族的類似)」のメカニズムが摘出される。
 そして、『哲学探究』の私的言語論を扱う第三章では、「その言語の話し手だけが知りうる直接的で私的な感覚を指し示し、他人には理解できない言語」という想定がはらむディレンマ──それが理解されることによって「われわれの言語」の圏内に回収され、あるいは逆に「われわれの言語」の圏内に位置づけられないならば端的に無意味である──の分析を通じて、「私的言語」「私的なもの」は肯定も否定もできないから端的に「ない」のではなく、肯定も否定もできないまま言語ゲームに「潜行伴走」し続けること、すなわち「ある」ことと「ない」こと(あるいは「さとり」と「呆け」)とが紙一重である状況(「ない」ままで「あり」続ける「私」)が導出される。
 第一の議論がメビウスの帯の構造(裏と表の一致)をかたどっているとしたら、第二の議論はクラインの壺のフォルム(内と外の通底)をまとっている。第三の議論の論理のかたち(「ある」と「ない」の紙一重の接近)を表現する図形の名は知らない。たとえば五つの点が相互に等距離に位置する4次元多様体「ペンタヘドロイド」がその候補だが、おそらく次元がもう一段高いのではないかと思う。

 ウィトゲンシュタイン=入不二の議論を、いくつかのキーワードを並べるだけで要約し尽くすことなどできない。実はそれぞれの章が全体の入れ子になっている。「同じ問題が、形を変えて何度でも変奏される」(68頁)のである。そして、何度でも同じ問いを問うことそれ自体がウィトゲンシュタインの思考のエッセンスであることを、本書全体が入れ子式に反復している。
 ウィトゲンシュタインにとって「思考」は、事実であると同時に超越論的であるという「二重性」をもち、「言語で表現される以前にそれだけで意味をはらむもの」であった(57頁)。そのような思考を平面的にであれ立体的にであれ図式的に要約して理解することなどできない。とりわけ後半、一気に加速し、強度を上げ、高密度・高次元の思考不能領域へと突入していく本書を「ことば」でもって理解することはできない。「遂行的に理解すること」(116頁)。問いを問い続けること。問いを生きること。本書は、そのようなウィトゲンシュタイン哲学の営みの実相を描写し、かつ「私」の語り方という入不二哲学の出発をなす問題(だと思う)に表現を与えている。

 正直言って、私は第三章の議論を「遂行的に理解」することができなかった。永井均さんの『私・今・そして神──開闢の哲学』を何度読んでも、私的言語論のところが判らなかった。あの時のむず痒さがよみがえる。書いてあることは理解できる(ような気がする)のに、そこでいったいなにが問題になっているのかが判らない。ウィトゲンシュタインにしろ入不二基義にしろ永井均にしろ、おそらく「ことば」にするとこのようにしか書けない究極の表現を与えているのだろうとは確信させられる(いずれも、それほどの強度をもった文章である)。でも結局私には理解できない。理解できないとはどういう事態なのかすら、実は判らない。
 おそらくそこに、ある問いが哲学的な問いであることを根拠づける「生の実質」のようなものが介在しているのだろう。そうした体験を欠いたまま、あるいはよく知っているはずなのに忘れたまま、問題が私の内に接ぎ木されていく。同じ問題が、形を変えて変奏されていく。だから本書は、すべての哲学書がそうであるように、何度でも最初から、そして初めて読まれなければならない。