不連続な読書日記(2006.03)




【読了本】

●ブライアン・フリーマントル『知りすぎた女』(松本剛史訳,新潮文庫:2006.3.1)
●三好由紀彦『はじめの哲学』(ちくまプリマー新書:2006.3.10)
◎池井戸潤『金融探偵』(徳間書店:2004.6.30)
●ベルグソン全集第二巻『物質と記憶』(田島節夫訳,白水社:1965.8.5)
●睦月影郎『熟れどき淫らどき』(双葉文庫:2006.3.20)
 

【購入本】

●ブライアン・フリーマントル『知りすぎた女』(松本剛史訳,新潮文庫:2006.3.1)【¥857】
●三好由紀彦『はじめの哲学』(ちくまプリマー新書:2006.3.10)【¥760】
●ライプニッツ『単子論』(河野与一訳,岩波文庫:1951.9.25)【¥860】
●立川武蔵『聖なるもの 俗なるもの──ブッディスト・セオロジーT』(講談社選書メチエ:2006.3.10)【¥1500】
●ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫:2006.3.10)【¥1000】
●ちくま文庫編集部編『ちくま文庫解説傑作選』(ちくま文庫:2006.3.10)【非売品】
●ベルクソン『笑い』(林達夫訳,岩波文庫:1938.2.5)《¥230》
●福井晴敏『Op.[オペレーション] ローズダスト』上下(文藝春秋:2006.3.15)【¥1800×2】
●吉本隆明『カール・マルクス』(光文社文庫:2006.3.30)【¥476】
●睦月影郎『熟れどき淫らどき』(双葉文庫:2006.3.20)【¥619】
●石井敏夫『ベルクソンの記憶力理論──『物質と記憶』における精神と物質の存在証明』(理想社:2001.4.25)【¥2300】
●佐藤幹夫『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』(PHP新書:2006.3.31)【¥780】
●中沢新一『芸術人類学』(みすず書房:2006.3.22)【¥2800】
●中野昌宏『貨幣と精神──生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版:2006.3.10)【¥3000】
●丸谷才一『日本文学史早わかり』(講談社文芸文庫:2004.8.10/1984)【¥1200】
●エリザベス・キューブラー・ロス『死、それは成長の最終段階──続 死ぬ瞬間』(鈴木晶訳,中公文庫:2001.11.25)【¥800】
●堀江敏幸『河岸忘日抄』(新潮社:2005.2.25)【¥1500】
●高田明和『〈ハッキリ脳〉の習慣術』(角川oneテーマ21:2006.3.10)【¥686】
 

【ブログ】

★3月1日(水):『プロセス・アイ』

 茂木健一郎著『プロセス・アイ』を読了したのは、もう一月近く前のことになる。読後の印象を一言でくくると、「静かな火星年代記」。レイ・ブラッドベリの同名の名作SFは、たしか26の連作短編で編まれたオムニバス形式のもので、各編の登場人物も時代も異なる。茂木さんの作品は、オムニバスというよりはフラッシュバック。プロローグとエピローグを含めた17の章は、どこか語り尽くされない余韻を残しながら、それぞれの間隙に(後日譚としてしか語られない)出来事や事件をはさんで、主要人物たちの(日付を持った)言動と感情と思索の物語が淡々と静謐に継起していく。これが「静かな」と「年代記」の意味。
 「火星」は、意識や「私」をめぐる思考実験で「中国人」とともにポピュラーなものだ。この作品の素材に即していえば、むしろ「月」とするべきかもしれない。要は「無重力」の彼方に実在する仮想的で潜在的な時空。余談ながら、そのうち「火星へ行った中国人と猫」といった題名で、哲学と脳科学との界面に立ち上がる問題をめぐる思考実験の諸相を論じてみたいと計画している。

 この作品で茂木さんが与えた、心と脳の関係をめぐるハード・プロブレムに対する「解答」を取り上げる前に、「小説」の読者として気になったところをあげておく。断っておくと、以下に書くことは完全なあら探しでしかなく、私はこの作品を小説としても存分に楽しんだ。楽しんだのならそれでいいじゃないかと言われそうだが、やはり気になったので書いておく。
 第9章「クローン人間」から、二つ事例をあげる。その一。「ツヨは、そのような背景の中で、おそらくはぐさりと心に突き刺さっているはずのジャンの言葉を軽く受け流すかのように、微笑みさえ浮かべている」(218頁)。短い文章のうちに、人物の心理の屈折が二度も「説明」されている。これでは、人物のかたちがくっきりと造形されない。「年代記」にふさわしい叙述とはいえない。そもそも、小説の文体ではない。
 その二。「それに、実はグンジに、伝記を書いてくれと頼まれているのだとツヨは続けようと思ったが、ジャンの表情が余りにも険しいのでやめて、その代わりに次のように続けた」(221頁)。これは、前後の文脈を説明しないと何が問題なのかわからないだろう。実は、この場面の前後で、作者はツヨではなくジャンの心理の動きに焦点をあてている。読者はずっとジャンの内面の葛藤に寄り添いながら読み進め、ここにきて突然、ツヨの視点からジャンの心理を「険しい表情」として客観視することを余儀なくされるのである。この違和感を作者が意図しているとは思えない。そのような技巧をこらす必然性がないからである。だから、これも小説の文体ではない。
 これらはけっして些細な疵ではない。いま取り上げた箇所だけの問題でもない。この作品が、良質な余韻を残しながらも、読後の時間の経過とともに、その印象の総体がサハラ砂漠の乾いた砂粒のように粉々に砕け散り、しだいに不鮮明になっていくのも、こうした叙述のうちに見られる小さな疵がつもりつもってもたらす効果だったかもしれないからだ。

 さて、茂木さんが本書で与えた、心と脳の関係をめぐるハード・プロブレムに対する「解答」、すなわち「プロセス・アイ」の理論とは何か。これを書くと、ほとんど作品のネタばらしになってしまうのだが、それは「通常の言葉の意味を理解するようなやり方では決してその意味が理解できないような形」(301頁)でしか書き記すことはできない。ここには、鋭い思考が込められている。ほとんどすべての哲学的洞察や宗教的叡智に共通する「かたち」が表現されている。
 その理論は「ある特殊なやり方」をもってはじめて完成させることができる。しかも、その特殊な状況から離れると、自分が作り上げた理論を理解することができなくなってしまう。では、その「特殊なやり方」とは何か。それは、本書をまだ読んでいない人のためのお楽しみにとっておく方がいいだろう。
 「プロセス・アイ」の理論がもつ深さは、その完成をもたらす方法の素晴らしさにもとづくものではない。だから、その「特殊なやり方」は、本当はなんでもよかったのである。小説にとってはそうだが、しかし科学にとってはそうではない。実験的な方法が伴い得ない(あるいは、実験が禁じられている)理論は、たんなる夢想でしかないからだ。その意味で、本書の読み所は、理論の形より方法の考案にある。
 ヒントを一つ。「プロセス・アイ」の「アイ」は、もちろん「A.I.」のことだが、それは同時にプロセスとしての「私」を意味している。さらに、システムの全プロセスを俯瞰する「眼」、すなわち「私」(脳)を包摂するもう一つの「私」(脳)のことであり、後者による前者への「愛」をも含意している。

★3月2日(木):『はじめての〈超ひも理論〉』

 川合光著『はじめての〈超ひも理論〉──宇宙・力・時間の謎を解く』(講談社現代新書)を読んでいる。内井惣七著『空間の謎・時間の謎』の同時併読本として買ったもの。スーパーストリングの話は昔から好きだった。物質の究極とか、宇宙の起源や成り立ちとか、数学的概念の振る舞いといった事柄について書かれた書物を読むことは、昔から私の精神衛生法の一つだった。スーパーストリングにはそれらのすべてがつまっている。松岡正剛さんが「千夜千冊」の第千一夜目のお題にブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』を選び、中断をはさんでつごう5回、字数にして4万5千字におよぶ長大なエッセイを寄せていたことを想起する。
 まだ冒頭、第1章の途中までしか読んでいない。ここまでのところでは、超ひも理論以前のクォーク誕生をめぐる四つのステップの話が面白かった。その第三ステップが「クォーク・グルオン・プラズマ状態」と呼ばれるもので、それはクォークと反クォークがどろどろにくっつきあった「スープ状態」(53頁)のことである。この「プラズマ」や「スープ」という言葉には妙に惹かれる。クォークを「概念」にたとえると、「プラズマ状の概念」とか「概念のスープ」といったアイデアを導き出すことができる。グルオンすなわち「糊の粒子」という言葉にも惹かれる。『RATIO』に掲載されていた小泉義之との対談で、郡司ペギオ‐幸夫さんが語っていた「質料=夢=糊」という謎めいた概念[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20060228]を想起する。

★3月3日(金):脳が喜ぶ時空の問題

 内井惣七著『空間の謎・時間の謎』が、俄然面白くなってきた。いま、第T章「空間とは? 時間とは?」と第U章「ライプニッツとニュートンは何を争ったか」を読み終えて、ようやく第V章「ニュートンのバケツから相対性理論まで」に入ったところ。以下、第W章「マッハ流力学の行方」、第X章「宇宙と量子」と、魅力的な章名がつづく。いまだ読書脳が回復していなくて、実をいうと議論の細部が充分にフォローできていない。それでも面白いと思うのは、この本であつかわれている問題そのものが、脳を喜ばせているからだろう。時空の問題を考えることは、意識や善悪の問題を考えるより、よほど脳のはたらきの根っこのところにつながっている。生命の根源につながっていると言ってもいい。これほど具体的でありながら、かくも抽象的な問題は他に思いつかない。哲学的問題であり同時に科学の問題であり、数学や神学の問題でもあるようなものは他にないのではないかと思う。

★3月4日(土):ライプニッツおそるべし!

 昨日の話題の続き。『空間の謎・時間の謎』第U章では、時空の関係説(ライプニッツ)と絶対空間・絶対時間の理論(ニュートン)との対決が、後知恵をもって白黒をつける単純な裁定ではなく、それぞれが依って立つ科学観にまで遡って腑分けされている。議論の詳細はもうとうに忘れているけれど、時空をめぐる問題が実に奥深いものであったことと、充足理由律や予定調和の説、不可識別者同一の原理、モナドロジーといったライプニッツ哲学のキモになるアイデアが深甚かつ広大な射程をもつものであったことを、あらためて思い知った。(あいかわらず、言葉だけで内容のない文章がつづく。)
 なかでも、モナドロジーの情報論的解釈のくだりが刺激的だった。すべてのものはモナドの集まりからできている。モナドは部分を持たず、広がりも形も持たない。物理的現象は、いくつかのモナドが「知覚」する現象にすぎない。モナドは、それぞれの観点から他のモナドを自分のうちに表象する。このことが「知覚」と呼ばれる。モナドの知覚は刻々と移り変わる。モナドの知覚を変化させる内的原理は「欲求」と呼ばれる。著者は、この「知覚」を「情報」に置き換えてはどうかと提案する。そして「欲求」を「情報を変える」と翻訳する。モナドの形而上学を「情報の担い手を究極的な実体と見なし、宇宙の変化を情報の流れに着目して解き明かす」試みと解釈する。
 モナドの知覚(情報)には、判明なものとそうでないものの程度の差がある。ライプニッツの用語では、より判明でより完全なものが「能動的」で、逆が「受動的」である。人間の心(これもモナドである)による知覚は能動的で、道端の石の知覚(日に当たって熱くなるなど)は受動的である。しかし、能動的な知覚も、意識下の多数の受動的な情報処理プロセス(これも知覚である)からなるものである。人間の内に宿るモナド(心)による認識(知覚)は、モナドのある集合体から別の集合体への情報の流れ、ひいては宇宙全体の情報の流れのダイナミクスによって決定されている。
《空間と時間も(モナドの世界には物理的時空はない)、モナドの知覚の中ではじめて成立する概念である。このように、あるモナドと別のモナドが他方を「映す」(知覚する)とか、他方に「映される」という関係を基本に据えたのは、宇宙のすべてが互いに関係しあっていることを強調し、宇宙の変化を情報の流れから解明しようという野心的な試みのためだったことがわかるのである。また、電子や陽子など、「素粒子」と見なされた対象を、微少なひもの振動から生まれる現象だと見なす現代の「ストリング(ひも)理論」の発想は、ライプニッツが晩年にたどりついた思想の再現にほかならない。いまから三○○年も前にこのような発想をしていたとは、まさに「ライプニッツおそるべし!」。》(81頁)

★3月11日(土):最近読んだ本・買った本

 ここ1週間ほど、風邪と花粉症の症状に日替わりで悩まされ、やる気と根気が枯れはてて、集中力が続かない。脳力と記憶力が減衰して、はては社会性まで薄れていく。この状態をこじらせると、春先の軽い鬱につながっていく。もっとこじらせると、もっとやっかいなことになる。こういう時は、なにもせず、なにも考えず、なにも読まず、なにも書かず、ただひたすら体力と気力の回復を待つにかぎる。それが一番だとわかっているのに、あいかわらず本を買っては読み囓り、負荷をかけてはまた疲れ、堂々めぐりにおちいっている。気晴らしのしかた、休息のとりかたを忘れている。詩を読みたいとしきりに思う。詩ならいつでも読める。でもそれは活字を眺めているだけのこと。詩の読み方も忘れている。

 最近読んだ本。内田樹・釈徹宗『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』(本願寺出版社)。三好由紀彦『はじめの哲学』(ちくまプリマー新書)。ブライアン・フリーマントル『知りすぎた女』(新潮文庫)。池井戸潤『金融探偵』(徳間書店)。
 『はじめの哲学』がよかった。この人の詩を読んでみたくなった。「人間の唱える哲学はもう聞き飽きた/ぼくが聴講生になりたいのは/犬の認識論、樹の心理学、/そしてミミズの形而上学だ」(『生歌』)。著者が主宰する「紀元アカデミア」にも興味を憶えたが、ホームページ[http://www.kigen-acd.com/index.html]には見るべきコンテンツがない。信濃八太郎のイラストがとてもいい。この本については、元気になったらきちんと「書評」を書いておきたい。
 最近買った本。ライプニッツ『単子論』(河野与一訳,岩波文庫)。ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫)。立川武蔵『聖なるもの 俗なるもの──ブッディスト・セオロジーT』(講談社選書メチエ)。立川本は全5巻の予定。中沢新一のカイエ・ソバージュ全5巻を思わせる。

★3月12日(日):『物質と記憶』(第24回)

 巻末の「概要と結論」を最初から通読して、これで『物質と記憶』全編を読了した。ほぼ8ヶ月かかって、とりあえず所期の目的(判ろうが判るまいが、とにかく一度は最後まで読む)を果たしたわけだが、あまり達成感がない。ベルクソンの思索が身心のすみずみに浸透して、物の見え方、世界のあり方がすっかり更新されたという実感がない。
 最近読んだ『はじめの哲学』の中で、三好由紀彦さんがこう書いている。科学は人間の感覚や経験を前提としたものだ。つまり、科学は世界を説明するために、この世界を前提とせざるを得ない。だから、存在の世界の「いちばん最初の根っこ」(因果関係の糸の端っこ)をつかまえるためには、素粒子を観察する眼をさらに観察する眼をもたなければならない。見ることをさらに見ること。それこそ、哲学の仕事である。しかし、哲学もまた、あくまで経験できる世界のことしか論じない。論理的に証明不可能なこと、たとえば死後の世界の有無について論じるのは、哲学本来の目的ではない。宗教だけがこの無知を飛び越えるのだ。
 ベルクソンの純粋知覚(=物質)の説を徹底すれば、石にも知覚があることになる。それどころか、物質的宇宙そのものにも意識(知覚)はあることになる。同様に、純粋記憶(=精神)の説を徹底すれば、死後の生(記憶)はもとより、生前の生(記憶)も実在することになる。宇宙そのものの記憶を考えることだってできる。物質と精神がひとつながりのものになる。
 『物質と記憶』の議論は、精神と物質の合流点、つまり身体における知覚と記憶の接触の場面(行動の平面)に限られている。この限定が、『物質と記憶』という作品に一種の品格のようなものをもたらしていることは事実だ。そこから一気に記憶の存在論、精神の実在論がなりたつ場面(夢想の平面)にまで飛びたちたいと、私の思考がうずいている。しかし、そのための梯子が見あたらない。

★3月18日(土):最近読んでいる本・買った本

 あいかわらずの不調、不運が続いている。ホームに上がると、電車の扉がしまる。横断歩道では、信号が赤に変わる。街を歩いていると、人にぶつかる。たばこの火が服に落ちる。知人の名前が出てこない。本の題名を忘れる。数字が憶えられない。読みかけの本が山積みになる。どこまで読んだかも判然としない。

 この一週間は、とっかえひっかえ読みちらかすのをやめて、三冊にしぼった。河野哲也『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)。半分ほどまで読み進め、はじめの頃の「熱中」が醒めてきた。だらだらと断続的に読んでいると、議論の本筋が頭に定着しない。こういう本は、最初の勢いを借りて一気に読むにかぎる。吉本隆明・梅原猛・中沢新一『日本人は思想したか』(新潮文庫)。じわじわと面白くなってきた。ようやく「歌と物語による「思想」」の章に入ったところ。「地下水脈からの日本宗教」の章がこれに続く。昨年来の関心事である「歌と仏」(あるいは「性愛」と「霊性」)に、新機軸がもたらされるか。
 先週、『物質と記憶』を読み終えてから、日常座臥、ベルクソンの文章に浸っていたいと思うようになった。まるで、恋をしているような気分。ベルクソンの文章に接しているときだけ、心と躰のもやもやが晴れて、澄み切った気持ちになれる。外出先でも手軽にふれることができるよう、『思想と動くもの』(河野与一訳,岩波文庫)をつねに持ち歩くようになった。「緒論(第一部) 真理の成長。真なるものの逆行的運動。」を読んだ。「哲学は、エレアのゼノンがわれわれの悟性によって考えられているような運動および変化に固有な矛盾を指摘した日から始まった」(20頁)という、高名なくだりが出てくる。この人の文章は、早く読みすぎるとまるで面白くない。「コップに一杯砂糖水をこしらえようと思うと、どうしても砂糖が溶けるまで待たなければならない。この待たなければならないことが意味のある事実である」(26頁)。

 今週買った本。ベルクソン『笑い』(林達夫訳,岩波文庫)。いきつけの古書店でみつけた。ベルクソン自身もさることながら、久しぶりに林達夫の文章が読みたかった。石井敏夫『ベルクソンの記憶力理論──『物質と記憶』における精神と物質の存在証明』(理想社)。『物質と記憶』を「一冊の書物」として読むことに徹した論考。「序論」を二度読んだ。吉本隆明『カール・マルクス』(光文社文庫)。久しぶりの吉本隆明もさることながら、「あとにもさきにも、日本にもヨーロッパにも、これほど深いマルクス論に、私は出合ったことがない」と書く、中沢新一の解説「マルクスの「三位一体」」が読みたかった。
 そのほか、福井晴敏『Op.[オペレーション] ローズダスト』上下(文藝春秋)を買って読んでいる。『亡国のイージス』『ローレライ』に続く長篇。この二つの作品、とくに前者は傑作だった。映画もビデオで観たけれど、どちらも(とくに前者は)ひどい出来だった。福井作品の「本質」がわかっていないシロモノだった。たしか『ローズダスト』の新聞広告に、映像では表現できない、といったフレーズが出てきた。たとえば『亡国のイージス』に込められた「濃厚な感情」は、もともと文字でしか表現できないものだ。『ローズダスト』には、村上龍の『半島を出よ』を思わせるところがある。

★3月26日(日):単身赴任先で読む本

 今朝の「天声人語」で、無人島で読む本、独房で読む本の話題がとりあげられていた。孤島や獄舎でなく、自宅や通勤電車内でもなく、単身赴任先で読む本の選択に困っている。私事ながら、といってもこのブログで書いているのは私事ばかりなのだが、この4月から2年か3年ほど、同じ県内の郡部に「単身赴任」することになった。いま住んでいる神戸の垂水というところから、電車とバスを乗り継いで2時間ほどのところなのだが、わけあって「赴任」しなければならない。独り暮らしには向いていない躰と精神と生活習慣の持ち主だけに、いまから気があせって、あれこれもっていく生活備品選びや、あちらでの「生活設計」などに思いをめぐらせては時間をつぶしている。そういうわけで、ようやく身体的危機(花粉症)と精神的危機(怠け病)から抜け出せたと思った矢先の、社会的もしくは生活的危機におそわれて、このブログに向かう時間もこの先当分ままならない。
 で、単身赴任先に持っていく本(とりあえず、読む前に持っていかなければならない。なにしろ近くに本屋がないという土地だから)については、とりあえず『物質と記憶』(ベルクソン)と『記憶と生』(ドゥルーズによるベルクソン撰文集)は決定したものの、あとがなかなか決まらない。なぜたくさんの本を読むのか。それは再読本、愛読本をみつけるため、というのが「公式コメント」。単身赴任というのは、私にとって小さな死、独房生活のようなものだから、この際、かつて熱中した本を再読、三読するか。それともこれまで読めずにいた古典や長篇や全集をじっくり数年かけて読み込むか(『源氏物語』とか『ギリシア悲劇』とか『チェホフ全集』とか)。などと、千々に乱れているうち、ストレス解消の過食症ならぬ本の買いだめに走ってしまった。読み始めるととまらなくなった『カール・マルクス』(吉本隆明)や、ようやく物語の骨格が見え始め佳境に入りつつある『Op. ローズダスト』(福井晴敏)等々、読みかけの在庫本がいやになるほどたまっているのに。
 以下、最近(というか、今日)買った本の書名だけあげておく。結局、ほとんど読めず赴任先に持っていくことになると思う。──佐藤幹夫『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』(PHP新書)。中沢新一『芸術人類学』(みすず書房)。中野昌宏『貨幣と精神──生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版)。丸谷才一『日本文学史早わかり』(講談社文芸文庫)。エリザベス・キューブラー・ロス『死、それは成長の最終段階──続 死ぬ瞬間』(鈴木晶訳,中公文庫)。