不連続な読書日記(2006.01)




【書評本】

●養老孟司『解剖学教室へようこそ』(ちくま文庫:2005.12.10/1993)

《養老人間科学の原点》
 自然(人体)と学問(科学的思考)と歴史(解剖史)をめぐって、平易簡明な物言いだが、実は理解=体得するには難解な養老節が炸裂する。
 人は何のために解剖するのか。人体を言葉にするためである。切れないもの(自然)を切るためである。自然を言葉でできた世界におきかえること。それが学問である。
 アルファベットを使う民族にとって、世界は階層でできている。単語の下につねに一つ下の階層(アルファベット)を見るからである。人体も階層でできている。その単位(アルファベット)は細胞である。
 細胞は細胞からつくられる(自己複製)。細胞はウチとソトを区切る。細胞は運動し、死ぬ。この三つの性質をもつことによって、細胞は生物の基本単位である。
 ここに、「情報」と「システム」の養老人間科学が胚胎する。
     ※
 養老人間科学の「方法」を仏教思想の語彙に翻訳し、その視線に「死せるキリスト」のマンテーニャのそれと同質のものを見てとった南直哉(みなみ・じきさい)氏の解説が見事。
《…人は理解した「事実」だけを語る。理解しなかったことは語れない。当たり前である。その「理解したこと」を「事実そのもの」だと思い込む態度を、仏教では「妄想分別[もうぞうふんべつ]」と言い、「無明[むみょう]」と言う。》
《…自分が事実そのものを見ることはできなくとも、どのように事実を見ているかを可能な限り明確に書くことで、先生はその先の事実の在り処を示そうとする。
 その事実を、先生は「自然」と言い、それは「切れていない」と言う。この簡単な物言いは恐ろしい。仏教が「如実知見[にょじつちけん](ありのままに見ること)」と称して見ようとしたのは、このことだ。》
《先生は本書の最後で、例によって簡潔明瞭に言う、「心は、からだがあって、初めて成り立つのである」。この「事実」を仏教は、「諸行無常」と言う。》

●ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界──見えない世界の絵本』(日高敏隆・羽田節子訳,岩波文庫:2005.6.16)

《豊饒な思想的広がりをもった古典的名著》
 生物は機械ではない。主体である。生きた主体なしには空間も時間もありえない。たとえばダニにとっての瞬間(最短の時間の断片)は十八年であり、人間にとってのそれは十八分の一秒である。
 生物は「環世界 Umwelt」という閉じたシャボン玉によって永遠に取り囲まれている。純粋な自然の設計(プラン)によって支配されている。すべてを包括する世界空間とはフィクションである。
 環世界は主観的現実にほかならない(カントの学説の自然科学的活用)。下等動物の知覚世界・作用世界から形と運動という高度な知覚世界を経て人間の環世界へ。ユクスキュルの叙述は、本来見えない世界を鮮やかに、そして平明に解き明かす。
 実に豊饒な思想的広がりをもった古典的名著である。とりわけ12章「魔術的環世界」と13章「同じ主体が異なる環世界で客体となる場合」が素晴らしい。聞き囓りのアフォーダンスの理論や、今読み進めているベルクソンの思索にダイレクトにつながっている。ハイデガーの「世界内存在」への隠蔽された回路は、木田元氏の本でつとに紹介されている。本邦の今西進化論も想起させられる。
 なによりファーブル(昆虫)やダーウィン(ミミズ)や養老孟司(人体)の観察につながっているのが楽しい。科学することの歓びがあふれている。前二者は本書にその名が出てくる。養老孟司の名は、本書と同時に『解剖学教室へようこそ』を読んだがゆえの連想だが、本書末尾の次の文章は養老人間科学における「実在(感)」や「自然」の定義そのものだ。
《このような例[天文学者や深海研究者や化学者や原子物理学者や感覚生理学者や音波研究者や音楽研究者の環世界がそれぞれに異なること]はいくらでもある。行動主義心理学者の見る自然という環世界においては肉体が精神を生み、心理学者の世界では精神が肉体をつくる。
 自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみようとしたら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つのものによって育まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされたその世界のすべての背後に、永遠に認識されないままに隠されているのは、自然という主体なのである。》

●養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書:2005.12.10)

《早すぎる遺言》
 思想のない社会はない。歴史のない社会はないといっても同じことだ。歴史とは思想だからである。著者はそう語る。同時に、西欧の有思想に対する日本の無思想を論じる。これって言葉遣いがおかしいんじゃないの? 思想=歴史をもたない日本に「社会」はない?
 そうではない。日本には「世間」という社会がある。「世間」という思想がある。西欧社会は「思想は現実に関係する」あるいは「言葉で表現されない思想は思想ではない」という思想の上に成り立つが、日本の社会は「思想は現実=世間とは無関係である」という思想、つまり言葉で「これだ」と示すことのできない「無思想という思想」でできている。
 オレは近いうちにこの社会(世間)からいなくなる。どういうわけか、日本のことが心配で仕方がない。だからこの本を書いた。云っても判らないかもしれないが、これだけは云っておく。後は自分で考えてくれ。
 ──以上が、夥しい著書群のなかで、養老孟司が本書に書き込んだ「思想」のエッセンスとそれにかけた思いである。いわば早すぎる遺言。
     ※
 木の心は木に訊け。松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。養老孟司の「思想」は、宮大工や俳諧師の教えに帰着する。それを一言で表現すれば「手入れの思想」ということになる。「意識ですべてはコントロールできない、できるのは手入れすることだけである」(『スルメを見てイカがわかるか!』)。本書で次のように書かれているのは、手入れの思想(無思想という思想)の応用である。
《中国に対して、なにをするか。靖国参拝の是非なんか議論したって、そんなものは空である。それをめぐって喧嘩したところで、人類の未来に裨益するところは、なにもない。私が思いつくことは一つしかない。北京政府がなにをいおうと、ひたすら中国に木を植える。(略)中国から黄砂が飛んでくるなら、日本は緑をお返しすればいい。無思想であるなら、有思想に対して、感覚世界で対応するしかないはずである。木は思想ではない。》
 手入れの思想のもう一つの応用が「自分で考えろ」ということである。それを言い換えれば「自分で自分を変えればいい」になる。あるいは、身体に訊け。考えているのは「意識」ではない。意識とは「変わらない私」のことであって、そんなものは実体としては点でしかない。
《「私は私、個性のあるこの私」「本当の自分」を声高にいうのは、要するに「実体としての自分に確信がない」だけのことである。「本当の自分」が本当にあると思っていれば、いくら自分を変えたって、なんの心配もない。だって、どうやっても「変えようがない」のが、本当の自分なんだから。それを支えているのは、なにか。身体である。自分の身体はどう変えたって自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。もう意識の話は繰り返さない。ここまでいっても「意識こそが自分だ」と思うなら、そう思えばいい。ほとんどの人はそう思っているんだから。それでなんだか具合が悪いとブツブツ文句をいわれても、私の知ったことではない。勝手にそう思ってりゃ、いいのである。》
 養老孟司は大宅壮一、司馬遼太郎、山本七平といった、本書にもその名が出てくる「無思想」の思想家の系譜に属している。憂国者の系譜といってもいい。人は保守思想と呼ぶかもしれない。反動と呼ぶ人もあるだろう。そんなラベルはどうでもいい。守るべきものは「変わらない日本」ではないからである。動かすことが変わることではないからである。
 

【読了本】

●養老孟司『解剖学教室へようこそ』(ちくま文庫:2005.12.10/1993)
●ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界──見えない世界の絵本』(日高敏隆・羽田節子訳,岩波文庫:2005.6.16)
●養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書:2005.12.10)
●紀野一義『名僧列伝(一) 明恵・道元・夢想・一休・沢庵』(講談社学術文庫:1999.8.10)
●飛浩隆『象られた力』(ハヤカワ文庫JA:2004.9.15)
◎宮下誠『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書:2005.12.20)
●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#14(講談社:2006.1.13)
●アルフレッド・ヒッチコック『汚名』『白い恐怖』『バルカン超特急』『海外特派員』『山羊座のもとに』
 

【購入本】

●養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書:2005.12.10)【¥720】
●養老孟司『解剖学教室へようこそ』(ちくま文庫:2005.12.10/1993)【¥640】
●養老孟司『身体の文学史』(新潮文庫:2001.1.1/1997)【¥400】
●飛浩隆『象られた力』(ハヤカワ文庫JA:2004.9.15)【¥740】
●紀野一義『名僧列伝(一) 明恵・道元・夢想・一休・沢庵』(講談社学術文庫:1999.8.10)【¥900】
●藤原和博『人生の教科書[家づくり]』(ちくま文庫:2005.11.10/2001)【¥840】
●藤井良広『金融で解く地球環境』(岩波書店:2005.12.22)【¥2800】
●レヴィナス『全体性と無限(下)──外部性をめぐる試論』(熊野純彦訳,岩波文庫:2006.1.17)【¥860】
●J.B.モラル『中世の刻印──西欧的伝統の基礎』(城戸毅訳,岩波新書:1972.11.22)【¥100古】
●茂木健一郎『プロセス・アイ[PROCESS A.I.]』(徳間書店:2006.1.31)【¥1800】
●末木文美士『日本仏教史──思想史としてのアプローチ』(新潮文庫:1996.9.1)【¥590】
●草凪優『純情白書』(双葉文庫:2006.1.20)【¥648】
●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#14(講談社:2006.1.13)【¥390】
●アルフレッド・ヒッチコック『山羊座のもとに』【¥476】
●『男の隠れ家』2006.2[特集|愉悦の読書空間 156人の384冊]【¥648】
●『BRUTUS』No.586(2006.2.1)[特集|Garden Love]【¥524】
●『芸術新潮』2006.2[特集|古今和歌集1100年 ひらがなの謎を解く]【¥1333】
 

【ブログ】

★1月1日(日):2005年に読んだ本(その1)

 2005年・私のベスト3というものを「発表」しようと思って作業を始めたら収拾がつかなくなり「1次選考」で頓挫した。(永井均『私・今・そして神』と内田樹『他者と死者』は当確だが、これはむしろ2004年版に分類すべきもの。)そこで、昨年中に読み終えたか「書評」を書いた本のうち心に残ったものをジャンル別に、しかし順不同で並べてみることにした。もっと絞り込みをかけたいけれど、それを始めるとまた混乱する。6回シリーズの予定。

◎永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書:2004.10)
 本書の平易で丁寧で率直な語り口は、これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださなければならないほどに分かりやすい。それなのに、肝心なところでいまひとつ分かった気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分からなくなる。それが、そういう経験を「思い出す」ことが、永井均の本を読むということの意味だと思う。
◎内田樹『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』(海鳥社:2004.10)
 昨年『死と身体──コミュニケーションの磁場』に続いて読んだ内田樹の『他者と死者』は、これまでに読みえたレヴィナス本やレヴィナス関連本のなかでも群を抜いたとびきりの面白さだった。私の年間ベストどころか、もしかすると生涯にわたるベスト作品の候補にノミネートされるべき本かもしれないと思う。
◎大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫:1994.7)
 大森荘蔵の文章を読むたび、その理路に圧倒され、かつそこに「無理」を感じる。言葉や概念が少しずつ「人間的な」意味を剥奪され、言葉以前、概念以前へ、古代のギリシャ人が「ピュシス」と呼んだものの方へとなだれこんでいく。本書には「自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである」と書かれているが、そこには「一体感」を感じる私はもういない。もちろんそのような私(「私の心」)などいなくなってもいいのだが、人は論理でもってそのような境地には導かれない。
◎古東哲明『他界からのまなざし──臨生の思想』(講談社選書メチエ:2005.4)
 骨太の叙述。すなわちクリプトグラム(墓碑銘・暗号記号)としての哲学書。ほとんど詩(古代ギリシャの哲人の訥弁で語られたな叙事詩)と見紛う文体で綴られたこの書物には、しかし実質的なこと(古東哲明の思想)は何も書かれていない。読み終えて何も残らない。幸福な充填と愉悦に満ちた空虚(密儀としての読書)。
◎上野修『スピノザの世界──神あるいは自然』(講談社現代新書:2005.4)
 考えているのは自然(事物)であって、私(精神)ではない。本書のキモは次の文章のうちに凝縮されている。「スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まなければならない。」
◎湯山光俊『はじめて読むニーチェ』(洋泉社新書y:2005.2)
 この本は第二章が圧倒的に素晴らしい。湯山さんはそこで、ニーチェが発見・発明した三つの概念(アポロンとディオニュソス・永遠回帰・力への意志)と二つの心理学(ニヒリズム・ルサンチマン)と四つの文体=方法(詩・アフォリズム・キャラクター・系譜)を、ニーチェの生理と生涯とその著作に、そしてデリダやドゥルーズやアドルノなどに関連づけて解説している。わけても文体論が画期的に素晴らしい。この本のハイライトをなすと同時に、その叙述のいたるところに湯山さんの独創がちりばめられている。
◎木田元『ハイデガー拾い読み』(新書館:2004.12)
 この本はけっして読み急いではいけない。木田元の名人の域に達した語り口にゆったりと身をゆだね、逐行的に細部を味わいながら読まなければいけない。「〈実在性〉と〈現実性〉はどこがどう違うのか」とか「「世界内存在」という概念の由来」とか「古代存在論は制作的な存在論である」とか、これまでから木田元の著書で何度も何度も繰り返し取り上げられてきた話題が延々と続く。落語の十八番のように。読むたび新しい刺激を受ける。物覚えが悪くなったのを嘆くより、何度でも愉しめることを歓ぶべきで、これも「生きる歓び」の一つだろう。
◎野矢茂樹『他者の声 実在の声』(産業図書:2005.7)
 大森荘蔵の『流れとよどみ』にかかわった編集者に声をかけられて生まれた本だという。本書に収められた「「考える」ということ」というエッセイに次の文章が出てくる。「なめらかな言語ゲームの遂行において思考を見て取ろうとしたウィトゲンシュタインはまちがっている。われわれは、思考を論じるにあたって、むしろ目を言語ゲームのよどみへと向けねばならないのではないだろうか」。この「言語ゲームのよどみ」において聞こえてくるのが、「言語の外」から届く野生の他者(「意味の他者」=たとえば哲学者)の声であり実在の声なのである。「私に意味を与えよ」。「さあ、語り出してごらん」。「言語の外」は語りえない。しかし語りうる世界(言葉の内=論理空間の内部)は変化する。この語りの変化のうちに他者の姿は示される。だから「語りきれぬものは、語り続けねばならない」。これが野矢茂樹のテーゼである。哲学的問題の感触の残り香に身を浸した読者もまた、こうして読み続けることになる。
◎坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』(哲学書房:2005.4)
 名著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の続編ともいうべき本書は、西欧日本を通底する千年単位の精神史的水脈のうちに近代日本のモデルニテの帰趨を位置付け、来るべき日本哲学の可能性を一瞥する誘惑の書である。本書には多くの謎と挑発が仕掛けられている。無尽蔵の刺激と創見が言い切られることのない断片隻句のうちに鏤められている。

★1月2日(月):2005年に読んだ本(その2)

◎内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書:2005.1)
 こんなに難解でひねくれて謎に満ちた書物を「若い人」に読ませるのはとんでもない。もったいない。秘伝書の中身をこれほどあけすけに語ってしまっていいのか。いいんです、そこに慈愛があれば。内田樹ほど「近所のおじさん」にぴったりの慈愛の人はいない。
◎前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書:2001.3)
 生の究極の目的は、決して忙しがらずに美味いトンカツを揚げること、毎日白木のカウンターを磨き上げながら自分の死を育てていくことである。──この言葉に説得されるだろうか。「在るものを愛すること」という言葉は在るものを愛することへと人を動かすだろうか。もしそうであれば、ここにひとつの奇跡が成就したことになるだろう。著者の綴る言葉は熟成したソース(倫理の原液)に浸された芳醇な料理としてさしだされる。
◎森岡正芳『うつし 臨床の詩学』(みすず書房:2005.9)
 心理臨床の現場で起こっていること、つまりクライアントとセラピストの対面・会話の場がひらく「中間世界」における言葉と感情の重なり合いと変様の推移を丹念に綴った書物。著者の紡ぐ言葉は美しい。それにしても 後味のいい本だった。透きとほった静謐感。しんしんと降り積もった透明な雪片が、まるで無数の倍音をはらんだ音の粒子のように、自らの抽象的な重みと戯れている清涼な沈黙のざわめき。
◎木村敏『関係としての自己』(みすず書房:2005.4)
 木村敏の文章にはつねに既読感を覚える。実際、書かれている事柄はこれまでから何度もくりかえし著書でとりあげられてきたものがほとんどだ。微妙な言い回しや使用された概念の風味のようなものの違いはあっても、そしてアクチャリティとリアリティの概念の差別化など、その論考がしだいに精緻・精妙化され事の実相に肉迫する迫力は冴えわたっていくとしても、そのライトモチーフとバッソ・オスティナート(通奏低音)はつねに変わらない。木村敏における主題と変奏、差異と反復。それを一言で表現すれば「界面の思考」となろうか。
◎森岡正博『感じない男』(ちくま新書:2005.2)
 語りえないセクシャリティ(のねじれ)をめぐって、もっと豊かで多様な語り方はないのか。たとえばジョン・ケージが『小鳥たちのために』で語った「キノコの性」のように。あるいは、本書の最後に記された「他人を欲望の単なる踏み台にしないような多様なセックスのあり方」という森岡の性幻想を直接に語ること。
◎ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳,紀伊國屋書店:2005.4)
 四か月かけて読んだ。最初の興奮はしだいに薄れていったけれど、一字一句おろそかにせずに、それでいて自由気儘に、連想、空想、妄想の類の跳梁を楽しみながら読み続けた。実に面白い書物だった。仮説形成による推論(C・S・パースの「アブダクション」)の醍醐味を存分に味わった。
◎本村凌二『多神教と一神教──古代地中海世界の宗教ドラマ』(岩波新書:2005.9)
 人類の文明史五千年のなかで、じつに四千年は古代なのである。あとがきに刻まれたこの一文に、著者の古代地中海世界に寄せる思いが込められている。淡々とした筆致で綴られたこの古代の民族や社会の概念と感性の歴史、神々と言語の物語を手にして、単なる知識や情報の入手に汲々とするのはもったいない。できればゆったりとした時間の流れとともに、この小冊子の紙背から漂うエキゾチックな香を心ゆくまで堪能し、はるかな土地と時の人々に思いをはせてみたい。
◎辻信一『スロー・イズ・ビューティフル──遅さとしての文化』(平凡社ライブラリー:2004.6)
 気温の変化に合わせて森は一年間に五百メートルまで移動できる。この書物はそのような生物時間、地質学的時間に寄り添いながら、ゆっくりと読まなければならない。スローネス、つまり遅さ、慎み、節度をもって、そして過去への畏れと未来へのノスタルジーをもって、ゆっくりと読まなければならない。
◎中沢新一『アースダイバー』(講談社:2005.5)
 泥をこねて形象をつくること。あるいは、形象のうちに泥をイメージすること。王朝和歌の歌人のように。あるいはサイコダイバー、ドリームナビゲーターのように。それが中沢新一の方法、つまりイメージ界のフィールドワークである。松原隆一郎さんが朝日新聞の書評で「文学的想像力」とか「遊び心」といった言葉を使っている。まことに適切な評言だ。

★1月3日(火):2005年に読んだ本(その3)

◎養老孟司・玄侑宗久『脳と魂』(筑摩書房:2005.1)
 この二人は呼吸が合いすぎている。養老さんがしだいにべらんめえ調(ビートたけし風?)になっていくのがおかしい。細胞=システム=空(=器)、遺伝子=情報=色(=道)。人間は空であり、言葉は色である。養老システム学と玄侑の仏教がつながる。玄侑「先生はやっぱりあれですよね。科学の立場だから、口が裂けても「魂」とは言いたくない。」養老「いや。だから言いたくないっていうよりも、魂の定義が出来ないんです。僕の場合はそれなりに定義するんですよ。だから、システムとしか言いようがないんですよ。」
◎茂木健一郎『脳と創造性──「この私」というクオリアへ』(PHP:2005.4)
 良いソムリエは、素人の客との会話の中で「客に合わせてそれまでにないワインについての語り方を生み出すことができる」。第4章「コミュニケーションと他者」にそう書いてある。「よいソムリエというのは、客が何かを言った時に、その場で口から出任せを発することができるクリエーターなのである」。この「口から出任せ」こそ会話がもつ創造性の基点であって、「私たちは脳から外に言葉を出力してはじめて、自分が何を喋りたかったのかが判るのである」。けっして難しくはない茂木さんの議論に隠れた意味や展開があるのではないかと思えるのは、たぶんこの本が「口から出任せ」的な思考と発想の生の躍動とライブ感を伝えているからだろう。
◎ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表象』(松野孝一郎他・青土社:1999.7)
 細部にちりばめられた話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだかまり、跳梁し跋扈してしだいに内圧を高めていく。それと同時に、ここで論じられていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。こういう心理状態を物狂いとでも呼ぶのだろうか。しばらく寝かせ、機をとらえてもう一度読み込む。あるいは座右に常備し、折節拾い読みをしては読後の興奮を宥めつつ、混沌を身のうちに飼い慣らす。処方箋ははっきりしているのだが、しばらくは呆然と余韻を楽しみたい。
◎マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』(冨永星訳,新潮クレスト・ブックス:2005.8)
 惜しみながら読み継いでいった。途中でリーマン予想の内容がよく判らなくなったが(いや、そもそも最初からよく判っていないが)、そんなことはこの書物を味わう上ではまったく関係がない。実に心地よい読中感は最後まで失われることはなかった。それにしても美しい書物だ。
◎川崎謙『神と自然の科学史』(講談社選書メチエ:2005.11)
 「アヒル‐ウサギ図」というものがある。アヒル文化人(古代ギリシャ人の方法で考える西洋人)はこれをアヒル(ネイチャー=神の被造物)と言い、ウサギ文化人(「ことあげせぬ国」の日本人)はこれをウサギ(自然=無上仏)と見る。ネイチャーという書物に隠された神の創造の秘密を読み解き、自然「を」学ぶアヒル文化人。「われわれに隠されているものはなにも存在しない」と考え、自然「に」学ぶウサギ文化人。後者にとって実験とはエクスペリメントではなくエクスペリエントであり、観察するとはオブザーブではなくコンテンプレートである。
◎加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(みすず書房:2005.6)
 片脚を骨折した冒険好きのカメラマンが裏窓越しに目撃した殺人事件は、はたして本当にあったことなのか。カメラマンはファッション業界人の美しい恋人の求愛をなぜ、またいかにして拒絶しようとするのか。本書には、ヒッチコックの傑作『裏窓』から著者が切り出してきたこの二つの謎の提示から始まる三つのスリリングな論考が収められている。映画はヒッチコック以後、『サイコ』以後のヴィジョン(黙示録的世界)を全うしていない。映画のヒストリーはいまだミステリーのままである。その意味で、本書の冒頭で提示された二つの謎はまだ解かれていない。
◎岡田暁生『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書:2005.10)
 西洋音楽史を「私」という一人称で語り、「私」という語り手の存在を中途半端に隠さないことに徹しようとする志が素晴らしい。歴史はたんなる情報や事実の集積ではない、事実に意味を与えるのは結局のところ「私」の主観以外ではありえないとする断念が潔い。音楽と音楽の聴き方(「どんな人が、どんな気持ちで、どんなふうに、その音楽を聴いていたか」)とを常にセットで考え、だから西洋クラシック音楽を、たとえそれが世界最強のものであるとしても徹頭徹尾「民族音楽」として、つまり音楽を聴く場に深く根差した音楽として見るその視点に惹かれる。
◎北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』(平凡社:2005.11)
 壮大な見通しのうちに人類がこれまで音楽との間に結んできた関係の総体がコンパクトに凝縮された入門書で、その細部を精緻に拡大し、実際の音響体験と著者の深甚な学殖とでもって本書に記載されなかった情報と知見を補填していけば、途方もない書物が完成するであろう。ウェーベルンとアルヴォ・ペルトにこよなく惹かれる私の個人的な関心をいえば、20世紀初頭の「革命」後、「いったんモノに還元した音は、だが二つの方法によって意味の伝達を可能とする」と書かれているところをもっと噛み砕いて解説してほしかった。
◎宮沢章夫『チェーホフの戦争』(青土社:2005.12)
 宮沢章夫は本書で「チェーホフの劇作法として特徴的な、「舞台上に起こっている出来事と、その外部で発生している出来事」との関わり」について考えた。その「読解」の結果、宮沢章夫が見出したものはチェーホフ的な「醒めた目」であり、「メタレベルで演劇を見ているチェーホフの視線」であり、「空虚を表現として出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法」であった。「メタレベルで演劇を見ている」のは作家チェーホフであり、同時に批評家宮沢章夫である。その「メタレベル」においてこそ、桜の木に斧を打ち込む「遠い音」がバブル経済の槌音と響き合い、妊娠した女優に向かい「女優だったらその窓から飛び降りてみろ」と言い放つ演出家の言葉にこめられた演劇集団の生‐政治性が浮かび上がり、47歳のワーニャの鬱が同年齢の宮沢章夫や石破防衛庁長官(イラクへの自衛隊派遣当時)の身体性(の欠如)と通じあい、未来の戦争の予兆に苛まれた「作家の鋭利な知覚」がはたらく。

★1月4日(水):2005年に読んだ本(その4)

◎松岡心平『宴の身体──バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫:2004.9)
◎松岡心平『中世芸能を読む』(岩波セミナーブックス:2002.2)
 連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は「文芸における「一揆」的場」であった(『宴の身体』)。ここで「一揆」は、武装・戦闘集団のことではない。中世的な新しい人間結合のあり方を示す本来の意味、「人々が、一味神水という神前の儀式により一切の社会的関係(有縁)を断ち、なんらかのシンボルのもとに平等の支配する自律的な無縁の共同体を形成すること」をさして使われている。また、連歌は和歌の「本歌取り」から生まれた。松岡心平はそこに「役者的想像力」のはたらきを見てとる。本歌取りを支えるのは、虚構の主体に転位し、その身になってその経験の中で歌を詠むという役者的想像力である。この想像力による「古典変形の連続という和歌の詠作法をより集団的に、よりダイナミックに味わえる場が連歌の場」なのであって、「そこでの大きな位相の変化は、連歌が集団的であるということ」だ(『中世芸能を読む』)。
◎梅原猛『美と宗教の発見──創造的日本文化論』(ちくま学芸文庫:2002.10)
 梅原日本学の原マグマとも言うべき処女論文集。文庫カバー裏にそう書いてある。第一部「文化の問題」に三篇、第二部「美の問題」に四篇、第三部「宗教の問題」に三篇、あわせて十篇の論文が収められている。実に面白く刺激的。なによりも文章に勢いがある。 鈴木大拙や和辻哲郎、柳宗悦、丸山真男といった権威に挑み、否をつきつける気迫がこもっている(第一部)。歌に縫い込まれた感情の襞に分け入り、論理をもってそのエッセンス(感情の論理)を摘出する研ぎ澄まされた感性がきわだっている(第二部)。霊性ならぬアニミズム的生命感覚に裏うちされた日本的宗教心性を鋭い論理の刃でもって腑分けし、しなやかで強靭な感性の投網でもってその実質を掬いあげている(第三部)。
◎丸谷才一『新々百人一首』上下(新潮文庫:2004.12)
 ほぼ一日一首のペースで読み継ぎ、道半ばにして中断しかけたものの、突如おそわれた歌狂いの風にあおられふたたび繙き、読み始めるととまらなくなり、でも一日にそうたくさん読めるものではなく(読めないことはないがしっくりと心に残らない)、もうすっかり丸谷才一の藝と技のとりこになって、世にいう枕頭の書とはこのような陶酔をもたらしてくれる書物をいうのであろうかと、頁を繰るたびいくどためいきをついたことか。
◎丸谷才一『綾とりで天の川』(文藝春秋:2005.5)
 文藝という言葉がこの人ほど似つかわしい現役作家、評論家、書評家、エッセイスト、要するに物書きはいないと思う。本書は『オール読物』連載のエッセイを集めたもの。掲載紙のキャラクターに応じて自在に文体を変えながら、その実頑固なまでに文章の骨法を揺るがせない。凛とした姿勢と柔らかな息遣いが素晴らしい。(まことに手放しの絶賛につぐ絶賛でわれながら気持ちがいい。)
◎加藤典洋『僕が批評家になったわけ』(岩波書店:2005.5)
 批評とは何か。それは日々の生きる体験のなかで自由に、自分の力だけでゼロから考えていくことだ。本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシで勝負ができること。批評とはそういう言語のゲームなのである。だから、批評はどこにでもある。「あることばを読んで、面白いと感じること。それはそのことばのなかに酵母のように存在している批評の素に感応することなのだ」。こうして著者は批評の原型としての『徒然草』にいきあたる。本書は来るべき批評の酵母の見本帖、すなわち加藤典洋版の「徒然草」である。
◎石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書:2005.6)
 圧倒的に細部が面白い。村上龍=ガイドの文学とか保坂和志=村の寄り合い小説とか村上春樹=ノワールといった作家論も新鮮だが、なにより個々の作品に切り込んでいく批評の切っ先が実にイキがよくて鋭く「ナイス」だ。本書はあくまで「コラム集」なのだ。一瞬の鮮やかな輝きを放って潔く消えていく、そのようなコラムに徹すること。コラムとコラムを(共同性なき共同作業=「物質的コミュニケーション」を介して)一つの結構をもった書物のうちにつないでみせること。それこそが本書の魅力のほとんどすべてなのである。
◎保坂和志『小説の自由』(新潮社:2005.6)
 『小説の自由』と『カンバセイション・ピース』は姉妹編である。本の造りとデザインがそっくりなのだ。だからというわけではないが、この二冊の書物の読後感(というより読中感)は驚くほど似ている。保坂和志の言葉を借りるならば、それぞれを読んでいる時間の中に立ち上がっているもの、すなわち現前しているものが家族的に類似しているのだ。「私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな」。小説家・保坂和志はそう言っている。この本をひたすら読みつづけ、「現前性の感触」に身を浸すか、それとも「この保坂和志という他者の言葉は私(読者)の言葉である」というところまで引用しつくすか。その二つしか途はない。
◎三浦雅士『出生の秘密』(講談社:2005.8)
 「出生」の秘密には二つの次元がある。その一は未生以前の物質から生命へ、その二は動物としてのヒトから言語を獲得した人間へ。そのそれぞれの界面のうちに「秘密」は潜んでいる。ラカンの概念を使って、前者は現実界から想像界へ、後者は想像界から象徴界へと言い換えることができる。本書を支えている理論的骨格がこの三組みの概念で、パースのイコン・インデックス・シンボルがこれと不即不離の関係でからんでいく。そのもっと奥にあるのがヘーゲルの『精神現象学』。以上が『出生の秘密』のいわば舞台と書き割り。全体のほぼ三分の一の分量を費やした漱石が圧巻。ヘーゲルと漱石のあやしい関係を執拗低音とする長い叙述をくぐりぬけ、アウフヘーベンとは「僻み」である、ヘーゲルの弁証法は「僻みの弁証法」であると規定する。

★1月5日(木):2005年に読んだ本(その5)

◎丸谷才一『輝く日の宮』(講談社:2003.6)
 一年半遅れで読んだ。このタイム・ラグがちょうど頃合いの熟成期間となった。熟したのはもちろんこの作品に対する読み手(私)の思いの方なのだが、作品そのものも一晩寝かした饂飩かなにかのように微妙だがくっきりとした旨味を醸しだしていた。読み始めたらやめられない。どうしてこれほど面白いのかよくわからない。
◎村上龍『半島を出よ』上下(幻冬舎:2005.3)
 自分自身がその中に身を置くシステムの外に出ることなど誰にもできない。自らの経験そのものを成り立たせている根拠を離れると、経験のリアリティそのものが変質してしまうからだ。たとえシステムや根拠が、その内部にいる者たちが生存のために共同で制作した虚構でしかないとしても。現実を超えたところで起動するリアリティなどない。それは現実という観念に替わるもう一つの観念でしかない。上巻「フェーズ2」の第1章で、西日本新聞社会部記者の横川茂人が高麗遠征軍のハン・スンジン司令官に「どの国の法律が適用されるのか」と、政治的危険分子逮捕の法的根拠を問うシーンがある。以後充分に展開されることのないこの場面にこそ、「現実を超えるリアリティ」ならぬ「現実を制作するフィクション」の壮大な可能性が潜んでいる。
◎村上龍『空港にて』(文春文庫:2005.5)
 素晴らしい短編集だった。猥雑透明な精神の緊張が漂っている。(個人的な感想でいえば、開高健以来の感興を味わった。)「空港にて」は、僕にとって最高の短編小説です。by 村上龍。帯にそう書いてある。日本文学史に刻まれるべき全八編。カバー裏にそう書いてある。これらの言葉はけっして誇張ではない。(日本文学史、偉大なる田舎者の系譜。)小説は描写がすべて。「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった」と作家は(書かずもがなの)あとがきにそう書いている。「他人と共有することのできない個別の希望」を描写することは、たぶん小説にしかできないことで、同時に小説にできることの限界を超えている。
◎レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ『魂を漁る女』(藤川芳朗訳,中公文庫:2005.4)
 国枝史郎の『神州纐纈城』とか白井喬二の『富士に立つ影』の虚構世界を思わせるゾクゾクする書き出し。ドラコミラとアニッタ、この二人の対照的な女性をめぐるツェジムとソルテュクの(古代的と形容したくなる錯綜した)三角関係は、どこかゲーテの『親和力』に出てくる二組の男女の(古典的な形式美を漂わせた)交差恋愛劇を連想させる。たぶんそれは、「ゲーテの『親和力』」のベンヤミンをめぐる数冊の書物を介して、『魂を漁る女』を『神の母親』とともに「マゾッホの最も美しい小説」にかぞえあげたジル・ドゥルーズにリンクを張りたいという無意識の願望がしかけた連想だろうと思う。
◎村上春樹『東京奇譚集』(新潮社:2005.9)
 短編集としては『神の子どもたちはみな踊る』の完成度が高いように思うが、村上春樹らしい軽く浅い陰影が忘れ難い読中感を醸しだす小品集だった。ここには五つの断面が描かれている。異界へとつながる通路・裂け目、あるいは実と虚、生と死、男と女の「あわい」、村上春樹的形象でいえば「耳」または三半規管。これらの断面における奇譚的出来事との遭遇がもたらす知覚(平衡感覚)と記憶(時間)の変容の五つのかたちが描かれている。
◎堀江敏幸『熊の敷石』(講談社文庫:2004.2)
◎堀江敏幸『雪沼とその周辺』(新潮社:2003.11)
 堀江敏幸の作品を読むという経験は、それが収められた器である一冊の書物の造本や装幀や紙質、活字のポイントや配置、行間、上下の余白、等々にはじまって、どのような生と思惟と感情の履歴をもった読み手がいつどこでどういういきさつで、またどのような場で、さらにはいかなる身体の構えでそれを読むのかに大いにかかわっている。しかしそれでいながら、そうした特殊で個別的な読書体験がもたらす堀江敏幸固有の作品世界は、たとえそれを読む人が一人としていなかったとしても最初からそこにひっそりとしかし確かな感触をもって存在していただろうと思わせる普遍的な質を湛えている。それこそ言葉という、人が生み出したものであるにもかかわらず人を超えた実在性を孕みながら自律的にそこにありつづける媒質の生[なま]のあり方というものだろう。

★1月6日(金):2005年に読んだ本(その6)

◎漆原友紀『蟲師』1?6(講談社:2000.11?2005.6)
 生死、雌雄分岐以前の生命の根源的な記憶と彼此両界にわたるコミュニケーション・ルートにアクセスしつつ、あまつさえエンターテインメントしての結構を備えた稀にみる傑作。
◎二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#1?#13(講談社:2002.4?2005.9)
 このマンガの面白さは「読んでいる時間の中にしかない」(c.保坂和志)。二ノ宮知子がつくりだすキャラクターの面白さも、読んでいるマンガの中にしかない。とりわけ面白いのは演奏会の情景を描いた箇所──たとえばシュトレーゼマン指揮、千秋真一演奏のラフマニノフ・ピアノ協奏曲2番(#5)とか、千秋真一指揮のブラームス交響曲1番(#8)など──で、当然そこに音は響いていない。しかし沈黙の紙面のうちにたしかに音楽が流れている。それも音楽の表現のひとつのかたちである。これはちょっと比類ない達成なのではないか。
◎萩尾望都『バルバラ異界』2?4(小学館:2003.7?2005.10)
 バルバラの謎が明かされる最終巻を読んでいる間、とりわけ夢先案内人・渡会時夫の記憶が上書きされていく場面では、私自身の脳内過程が二重化されたかのような眩暈に襲われ、軽い頭痛と嘔吐感をさえ感じた。読み終えた刹那、一瞬のことだったけれど、目に見える部屋の情景が夢の世界の出来事のように思えた。北方キリヤへのトキオの思いが切なく迫ってくる。自我の孤独と「ひとつになること」。
◎諸星大二郎自選短編集『汝、神になれ鬼になれ』『彼方より』(集英社文庫:2004.11)
◎星野之宣自選短編集『MIDWAY 歴史編』『MIDWAY 宇宙編』(集英社文庫:2005.11)
 新宮一成は『夢分析』で「ある種のマンガには、通常の成人が表現できないような太古の感覚の残滓が描き出されることがある」と書いている。諸星大二郎の短編にはまぎれもなく「太古の感覚の残滓」が色濃く漂っていた。個人的な好みでいえば星野之宣の画と着想に惹かれる。
◎岡野玲子・夢枕獏『陰陽師13 太陽』(白泉社:2005.10)
 読み終えてしばし言葉を失う。「あとがき」に綴られた文章を読むにつけ、岡野玲子はとりかえしのつかない時空の彼方にとんでいってしまった。この作品は白い光と化した音楽をかたどっている。

★1月7日(土):書き初め──名僧とヒッチコック

 正月休みがあけて、まったくストレスの無い状態で三日ほどたらたらと仕事をして、今日からまた三連休。このブログもしばらく「溜め記事」でうめて、今日が今年の書き初め。年末年始に読んだ本や雑誌、買った本や雑誌のこと、この間考えたこと・やったこと、念頭のあいさつ・誓い・一句、今年の「読書計画」など、いくつか話題のタネが思い浮かぶも、そういういつに変わらぬ行いが面倒くさくなって、一日ぼんやり、とりとめもなくすごした。

 昨年の暮れ、梅原猛著『美と宗教の発見』にいたく感銘を受けた。この本を手にとったきっかけは、そこに歌論・能楽論をめぐる文章が収められていたからだが、読み進めていくうち、「美」より「宗教」の方により強く惹かれるようになっていった。具体的には、国語教育に関連して述べられた、「かつて日本人の教養の中で、大きな位置を占めていた仏教の教養はどうなったのだろうか。たとえば、雄大な思想を比類なく雄渾な文体にもった見事な空海の文章、一言一句が無常な人生の前にたつ緊張感にふるえるかのような源信の文章、あるいは、内面の深い罪のうめきを、執拗に追いかけるような親鸞の文章、そして、無類の宗教的情熱を、断定的な命題に託した日蓮の文章、それらの文章は、日本のもっともすぐれた人間が達することの出来た、もっとも深い精神の表現だ」というくだり。
 石川忠司著『現代小説のレッスン』に、阿部和重をめぐる「ペラい日本語」論が出てくる。これを読んで、加藤典洋著『僕が批評家になったわけ』を想起した。そこにこう書いてあった。──あるとき、本居宣長や荻生徂徠を読んでいてとても気持がよかった。その譬えとか、物の言い方が実に過不足がないという気がしたからだ。日本のことばは明治になった後、まだ平静を取り戻していない。ということはまだ平熱を回復していない。日本のことばは完成していない、云々。
 これらのことが綯い交ぜになって、今年は、歌論・連歌論・能楽論・俳諧論の類とともに、日本の仏教思想にかかわる古典を繙いてみたいという思いが高じていった。日本語による哲学制作や思想の語り方について、なにか手がかりが得られそうな気がする。それも歌論と並行させることで、思考や表現について深い認識に達することができるかもしれない。
 でも、何を読むか。空海でもいい。これまでほとんど関心のなかった浄土宗に関係するものでもいいし、禅でもいい。法然、親鸞、道元、日蓮、蓮如といったビッグネームが綺羅星のごとく明滅して、何から手をつけていけばいいのか、皆目見当がつかない。だいいち、この気持ちがいつまで続くか知れたものではない。などと、年末年始にかけてあれこれ逡巡していた。今日、久しぶりに近所の図書館に出かけて、寺内大吉著『法然讃歌──生きるための念仏』(中公新書)を借り、本屋で、紀野一義著『名僧列伝(一) 明恵・道元・夢想・一休・沢庵』(講談社学術文庫)を買った。まずは入門書代わりに、名僧の生涯と思索をめぐる文章をいくつか読んで、どのあたりに自分の関心が傾くか、見定めることにしよう。

 しばし『法然讃歌』と『名僧列伝』、それから読みかけの桑子敏雄著『西行の風景』を拾い読みしたあと、録画していた「NHKニューイヤー・オペラコンサート」を眺めながら午睡をとり、ヒッチコックの『汚名』と『白い恐怖』を観た。この二つの映画に出演しているイングリッド・バーグマンの美貌に痺れた。精神分析による殺人事件の解明をあつかった『白い恐怖』が面白かった。犯罪場所と真犯人特定のきっかけとなる夢のシーンは、サルバドール・ダリが担当したもの。
 なぜアリシア(バーグマン)はデヴリン(ケーリー・グラント)の提案を受け入れ、諜報活動に従事したか(『汚名』)。なぜコンスタンス(バーグマン)は殺されたエドワード博士を自称する男(グレゴリー・ペック)に惹かれたのか。あとでスラヴォイ・ジジェク監修『ヒッチコックによるラカン』の該当個所に目を通した。ひどいものだった。というか、よく判らない。

★1月8日(日):『物質と記憶』(第20回)

 今年最初の『物質と記憶』独り読書会。先週休んだのと(あまり関係はないが)年があらたまったのとで、ウォーミングアップがてら昨年暮れに読んだ第四章冒頭を「逐行的に」読み返した。読み込めば読み込むほど、ベルクソンの議論の面白さと周到さがじわっと浸透してくる。今回、一つ「発見」があった。ほんとうはもっとたくさんの「発見」があったのだが、ここでは一つだけ記録しておく。

 「心身結合の問題」について、ベルクソンは書いている。「すべての学説におけるこの問題の困難さは、私たちの悟性が一方で延長と非延長との間に、他方で質と量との間に設ける二重の対立からきている」(202頁)。ここから「非延長+質=精神」と「延長+量=物質」の二項が帰結され、後者が前者を導出すると称する唯物論と、後者は前者の構築物であるとする観念論の対立が生じる。
 これに対してベルクソンは「通俗的二元論」を極端まで(つまり「純粋知覚」=物質と「純粋記憶」=精神の二分にまで)徹底することで、非延長と延長、質と量との間に接近の道を用意する。まず、脳(行動のための器官)を知覚から切り離し、知覚を事物そのものの中へ置きもどす「純粋知覚」の理論を通じて。「純粋知覚の分析は、ひろがり extension という観念の中に、延長と非延長の可能な接近をほのめかしたのである」(203頁)。
 ついで、記憶を物質から(したがって脳の働きから)切り離し、精神の側に置きもどす「純粋記憶」の理論を通じて。《さてもしすべての具体的知覚が、どんなに短い場合を仮定しても、すでに、相継起する無数の「純粋知覚」の記憶力による総合であるとすれば、感覚的諸性質の異質性は、私たちの記憶作用におけるそれらの収縮に由来するものであり、客観的諸変化の相対的等質性は、それらの自然な弛緩から由来するものと考えるべきではなかろうか。そうすると量と質との隔たりは、ひろがりの考察が延長物と非延長物の距離をせばめたのと同じように、緊張の考察によってせばめられうるのではなかろうか。》(204頁)
 すこし端折りすぎたが、今回「発見」したのは、引用文の最後にでてくる「ひろがり extension」と「緊張 tension」の対になる語が、実を韻を踏んでいたということだ。だからどうだと問われても困るが。(これに「内包 intension」がどうからんでくるのか。それは今後の目の付け所の一つだろう。)

 引用文に書かれている、純粋記憶の収縮と純粋知覚の弛緩とでもって現在の具体的知覚が合成されるというくだりを読んで、第三章の冒頭を「逐行的に」再読した。ここもまた読み込めば読み込むほどに面白い。
 あと数か月で読了する『物質と記憶』独り読書会のあとのことを考えて、この正月、岩波文庫の『創造的進化』と『道徳と宗教の二源泉』を「書庫」から引っ張り出してきて、『思想と動くもの』とあわせて三点を本箱に揃えている。でも、ようやくその面白さが身に染み込みはじめた『物質と記憶』をそんなに簡単に手放していいものかどうか。(悩むのは、とにかく最後まで読み終えてみてからにしよう。)

★1月9日(月):養老孟司のロジック

 正月明けに関連本を読んで以来、すっかり養老節にはまってしまった。最新刊の『無思想の発見』(ちくま新書)はまだ冒頭の二章を読んだだけだが、茂木健一郎さんいうところの「独特の、ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」(『脳の中の人生』)が存分に発揮されていて、一字一句おろそかにできない。気楽に読み流すこともできないわけではないし、本の造りはむしろそうされることを前提にしているようだが、しかしそれだと床屋談義に終わってしまう。

 たとえば靖国問題について、養老孟司はこう論じる(23-24頁)。──首相が靖国に参拝すると、ジャーナリストが「公人としてか、私人としてか」と問う。私が首相だったら「個人です」と答えるであろう。「俺個人が靖国に参拝しようが、オウムに入ろうが、それは俺の勝手だろうが」ということを憲法は許しているはずなのである。ところが、そんなことを考えたこともない人が多い。あろうことか、公のために都合が悪いから、首相は参拝を我慢せよという論評まで出る。公のために都合がよかろうが悪かろうが、個人の思想・信教の自由を妨げてはいけない。公が困るというなら、むしろますます個人としての参拝を禁じてはいけない。それでなきゃ、信教の自由なんて憲法の規定は、そもそも不要ではないか。

 この「ロジック」はまったく正しい。最近の首相発言は、もしかするとこの論に立っているのかもしれない。あなた個人としてはそれでいいとしても、あなたの振る舞いを中国や韓国の国民はどう思うか。一国を預かる政治家としては戦略性もしくは政治的・外交的センスがなさすぎる。あまりに軽率ではないか。この批判は「あなた個人としてはそれでいい」と言ったとたんに無効である。問題は「個人」だからである。憲法問題としてはそれで終わりである。(しかし日本国憲法は「天皇」という例外を認めている。天皇に思想・信教の自由が認められるかどうかよく知らないが、少なくとも参政権は認められない。また、皇室典範第10条には「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」とある。婚姻の自由が認められない皇族男子がはたして「個人」といえるか。)
 養老孟司の議論は、実は「日本の世間における、私というものの最小の「公的」単位、それは個人ではなく、「家」だった。日本の世間は「家という公的な私的単位」が集まって構成されていた」(22頁)という「結論」の応用問題としてなされている。だから、靖国問題をめぐる養老孟司のロジックは二枚腰なのである。養老さん、あなたは小泉首相の靖国参拝を認めるんですか。あなたは昔の家族制度に戻るべきだとおっしゃるんですか。そんな質問から始まる議論を床屋談義という。そこには結論はあってもロジックはない。

     ※
 昨年から継続的に『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)を読み進めている。今日も「仏教における身体思想」と「中世の身心」の二つの論考を収めた第?章「中世の身体観」を読み返した。何度読んでも面白い。歌と神(仏)、歌論・連歌論と日本仏教思想という、このところ強烈に惹かれているテーマにストレートにかかわってくる。それとは別に、今回読み返して、養老孟司の「ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」の由来に思いあたった。「仏教における身体思想」に、抽象思考と実証思考の対になる語がでてくる。これは以前にも引いた文章だが、大事なところなのでもう一度引用する。
《要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそうだとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教という抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意される。》(『日本人の身体観』231頁)

 最後のあたりが『無思想の発見』につながっている。それはともかく、この表明されない実証思考に対する抽象思考が「ロジック」にかかわる。つまり、養老孟司のロジックとは抽象思考の徹底なのである。日本国憲法は「個人」を「公的な私的単位」と規定した。公権力に枠を嵌め、公が私に干渉してはならない範囲を人権として定めたのである。だから首相が「個人として」靖国に参拝することは憲法が認めている。(養老孟司はそう書いていないが、憲法の原理を徹底するなら、天皇家という存在は認められないだろう。)
 小泉首相がそう考えているかどうかは知らないが、靖国参拝を批判するなら、まずこの憲法原理をどう考えるか。「あなたは小泉首相の靖国参拝を認めるんですか」。そう問うあなた自身はどう考えているのか。憲法原理としての「個人」を認めないというのか。(養老孟司はそう書いていないが、そんなことは時と場合による、では原理の名に値しない。)それでは、それに代わる原理を示されたい。改憲をいうなら、第九条ではなく、根本は民法に関わる部分であろう。「あなたは昔の家族制度に戻るべきだとおっしゃるんですか」。そんなところに戻れなんて思っていない。こちらはまもなく死んでいく身だ。皆さんどうお考えですかと、こんどはこちらが訊く番だ。天皇家も、お茶の表千家も裏千家も、その他の宗家も、相変わらず続いている。小泉首相は政治家として三代目である。「それをどう思っているのだろうか。最後は再びその辺に落ち着いたとしても、なにか具合の悪いことでもありますかね」(『無思想の発見』32頁)。

 これだけではない。養老孟司のロジックの凄みは、抽象思考がもつ凄みでもある。レトリックとロジックを腑分けするのが面倒なので、そのあたりの経緯がよく示されている箇所をまるごと引用しておく。
《大家族の家単位だった私的空間が、憲法上つまりタテマエ上は、個人という実質的最小単位まで小さくなってしまったのが、戦後という時代である。そうなると、実質とタテマエをなんとか工夫してすり合わせるのが日本人だから、どうなったかというなら、「大きい」家族を、「小さい」個人のほうにできるだけ寄せるしか手がない。その折り合い点が「核家族」になったんでしょうが。/「ひとりでに核家族になったんだろ」/たいていの人はそう思っているはずである。冗談じゃない。そんな変化が「ひとりで」に起こるものか。「ひとりでに」というのは、/「俺のせいじゃない」/と皆が思っているというだけのことである。だって憲法のせいなんだから。》(『無思想の発見』29頁)

     ※
 養老孟司の文章は一字一句おろそかにできない。慎重にロジックを腑分けしながら読み進めないと、結論を見失う。というより、性急に結論を求める床屋談義に陥ってしまう。言われていることはしごく簡単なことであるはずなのに、腑に落ちさせるのに難儀する。そこに「思想」を読み込もうとしても、しかと掴めない。「養老孟司の思想」と呼ぶべき実質は、たぶんない。そこにあるのは、ロジックと実在感だけだろう。あるいは、抽象思考と実証思考が切り結ぶ「表現としての思想」の解剖学。
 今日、『日本人の身体観』と同時期に雑誌連載された『身体の文学史』(新潮文庫)を入手した。かつて読んだ養老本のなかでも『唯脳論』と並んでもっとも刺激を受けた本。『無思想の発見』とあわせて、当分はこの三冊を熟読玩味してみよう。養老節に浸りきることでしか、そこから抜け出すことはできそうにない。

★1月10日(火):今年最初に読んだ本──『解剖学教室へようこそ』

 年末から年始にかけていくつかの雑誌、本を手にしたが、最後まで読み終えたのは二冊だけ。
 その1.養老孟司『解剖学教室へようこそ』(ちくま文庫)。養老人間科学の原点。自然(人体)と学問(科学的思考)と歴史(解剖史)をめぐって、平易簡明な物言いだが、実は理解=体得するには難解な養老節が炸裂する。
 人は何のために解剖するのか。人体を言葉にするためである。切れないもの(自然)を切るためである。自然を言葉でできた世界におきかえること。それが学問である。アルファベットを使う民族にとって、世界は階層でできている。単語の下につねに一つ下の階層(アルファベット)を見るからである。人体も階層でできている。その単位(アルファベット)は細胞である。細胞は細胞からつくられる(自己複製)。細胞はウチとソトを区切る。細胞は運動し、死ぬ。この三つの性質をもつことによって、細胞は生物の基本単位である。ここに、「情報」と「システム」の養老人間科学が胚胎する。
 養老人間科学の「方法」を仏教思想の語彙に翻訳し、その視線に「死せるキリスト」のマンテーニャのそれと同質のものを見てとった南直哉(みなみ・じきさい)氏の解説が見事。
《…人は理解した「事実」だけを語る。理解しなかったことは語れない。当たり前である。その「理解したこと」を「事実そのもの」だと思い込む態度を、仏教では「妄想分別[もうぞうふんべつ]」と言い、「無明[むみょう]」と言う。》
《…自分が事実そのものを見ることはできなくとも、どのように事実を見ているかを可能な限り明確に書くことで、先生はその先の事実の在り処を示そうとする。/その事実を、先生は「自然」と言い、それは「切れていない」と言う。この簡単な物言いは恐ろしい。仏教が「如実知見[にょじつちけん](ありのままに見ること)」と称して見ようとしたのは、このことだ。》
《先生は本書の最後で、例によって簡潔明瞭に言う、「心は、からだがあって、初めて成り立つのである」。この「事実」を仏教は、「諸行無常」と言う。》

★1月11日(水):今年最初に読んだ本──『生物から見た世界』

 その2.ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界──見えない世界の絵本』(日高敏隆他訳,岩波文庫)。
 生物は機械ではない。主体である。生きた主体なしには空間も時間もありえない。たとえばダニにとっての瞬間(最短の時間の断片)は十八年であり、人間にとってのそれは十八分の一秒である。生物は「環世界 Umwelt」という閉じたシャボン玉によって永遠に取り囲まれている。純粋な自然の設計(プラン)によって支配されている。すべてを包括する世界空間とはフィクションである。環世界は主観的現実にほかならない(カントの学説の自然科学的活用)。下等動物の知覚世界・作用世界から形と運動という高度な知覚世界を経て人間の環世界へ。ユクスキュルの叙述は、本来見えない世界を鮮やかに、そして平明に解き明かす。
 実に豊饒な思想的広がりをもった古典的名著である。とりわけ12章「魔術的環世界」と13章「同じ主体が異なる環世界で客体となる場合」が素晴らしい。聞き囓りのアフォーダンスの理論や、今読み進めているベルクソンの思索にダイレクトにつながっている。ハイデガーの「世界内存在」への隠蔽された回路は、木田元氏の本でつとに紹介されている。本邦の今西進化論も想起させられる。なによりファーブル(昆虫)やダーウィン(ミミズ)や養老孟司(人体)の観察につながっているのが楽しい。科学することの歓びがあふれている。前二者は本書にその名が出てくる。養老孟司の名は、本書と同時に『解剖学教室へようこそ』を読んだがゆえの連想だが、本書末尾の次の文章は養老人間科学における「実在(感)」や「自然」の定義そのものだ。
《このような例[天文学者や深海研究者や化学者や原子物理学者や感覚生理学者や音波研究者や音楽研究者の環世界がそれぞれに異なること]はいくらでもある。行動主義心理学者の見る自然という環世界においては肉体が精神を生み、心理学者の世界では精神が肉体をつくる。
 自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみようとしたら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つのものによって育まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされたその世界のすべての背後に、永遠に認識されないままに隠されているのは、自然という主体なのである。》

★1月12日(木):年の初めから読んでいる本──『象られた力』

 昨年の暮れ、読み終えた本、読みかけの本、雑誌などを段ボール箱三つに詰め込んで「書庫」に送った。(「書庫」というのは、高校の頃まで暮らしていた部屋のことで、いまは乱雑にたくさんの書物が埃を被って棲息している。梱包されたまま数年放置されたままのものもある。いわば私の「無意識」の場所で、いつかここを整理整頓したいと永年思ってきた。そのために家を建てようかとさえ考え始めている。)
 それでも常備本以外に多くの読み残し本が年を越えて、いつか持ち主に繙かれる日を恨めしげに待っている。鬱陶しいが、一冊一冊手にとってみると、やっぱり「書庫」送りの刑に処するには忍びない。計画的に読むことは不得手なので、結局、これまで通り無造作に本箱に平積みになる。そのうちパニックに襲われて、怒濤の一気読みに突入するかもしれないし、またまた越年の憂き目をみることになるかもしれない。
 整頓はされなくても整理された本箱を眺めていると、気分が一新する。そこで、新しい年をむかえ、読み囓り本(たとえば、年末年始に読破するつもりで結局ほとんど読めなかった『小林秀雄対話集』や『柳田國男文芸論集』)はこの際いったんわきへおいて、新しい本を三冊、同時進行的に読み始めた。その一つが養老孟司著『無思想の発見』で、この本のことはすでに書いた。あとの二冊(SFと脳科学の本)について、今日と明日の二日にわけて書く。書くといっても、いずれも精読モードに入っていて、いつ読み終えるか検討がつかないので、途中報告の域を出ない。

     ※
 SF小説はめったに読まない。幻想小説、伝奇小説、ファンタジーもほとんど手にしない。読めばきっと強く心惹かれ、深く感銘を覚える作品がゴロゴロころがっていることは(実は)よく知っているのに、なぜだか手が出ない。たぶん余裕がないのだと思う。なにを焦っているのかは知らないが、今はとても腰を据えて読む時間がないと思い込んでいる。(きっと読み始めたら、なにもかも放り投げて熱中し我を喪うことが判っているから、それを警戒しているのだと思う。)それでもSFはたまに読む。
 ここ10年ばかりの間に読んだもののなかで心に残っている作品を思いつくままに挙げてみる。グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』と『女王天使』と『火星転移』。グレッグ・イーガンの『祈りの海』と『しあわせの理由』。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』。この三人の作品は別格で、ルーディ・ラッカーの『ホワイト・ライト』やオースン・スコット・カードの『消えた少年たち』もかろうじて記憶に残る。マンガでいえば、星野之宣の『ブルー・ワールド』や自選短編集『MIDWAY』二編、藤子・F・不二雄の「少年SF短編集」と坂口尚の『VER SION』と萩尾望都の『バルバラ異界』など。(SFはよくできたマンガで読む方が濃い印象が残る。)

 この正月明けから久しぶりのSFに没頭している。読んでいるのは飛浩隆著『象られた力』(ハヤカワ文庫JA)。表題作のほか「デュオ」「呪界のほとり」「夜と泥の」と4つの中編が収められている。第26回(2005年)日本SF大賞受賞作。だから読み始めたわけではなくて、この作品のことは(実は)以前からよく知っていた。読まなくても凄い作品であることは知っていた。このあたりの勘は冴えている。これでも中学、高校の頃まではSFファンだったのだから、勘ははずさない。
 まだ表題作の途中までしか進んでいないが、とても面白い。エンブレム文字、文様文字、要するに図形言語。その多彩な装飾文様は数十の基本図形に分類される。それらが組み合わさって、そのひとつひとつが抽象的な意味や寓意、神秘的な役割を担う「エンブレム」を構成する。それだけではない。情動、感情の動きを人間の内部から吊り出してくる。
《百合洋[ユリウミ]のエンブレムが感情を抽き出す具体的なメカニズムは解明されていない。しかし大ざっぱに言えば、情動は人間が進化の過程で環境に最適化するために作り上げたツール、機械的な仕組みだといえる。人間の内部にセットされたそのツールを、外部から呼び出したり制御したりするコマンド、それを言語の組みあわせで開発しようというのが詩や演劇や小説といった文学システムだったわけだが、感情じたいがそもそも機械的なものなら、もっと別なコマンドを──たとえば図形の形で──開発することも可能なのではないか。図形化したコマンドを光学読み取りさせて、人間というシステムに指令を出す……どこにもふしぎはない。》(「象られた力」260頁)
 このアイデアがすこぶる面白い。そういえば、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』にも、表題作に出てくる非線形書法体系や「七十二文字」に出てくる真の名辞による単為生殖といった秀逸なアイデアがあった。(カバラの例をもちだすまでもなく、文字や言語をネタにしたSFは無尽蔵に可能なのではないか。ジェラール・クランという作家に『こだまの谷』があって、この作品には「音響化石」のアイデアが出てくるらしい。いつか読んでみたいものだ。)
 手練れの書き手を思わせる部分と、生まれて初めてSFを書いた人の初々しさを思わせる部分とが同居している。この文体やストーリーの語り方(たぶんネタは早々と割れる)も、どこか稚拙さとすれすれの懐かしいところがあって、それがかえって新鮮に感じられる。なかなかいい。(飛浩隆氏の「Shapesphere 「棚ぼたSF作家」飛浩隆のweb録」[http://d.hatena.ne.jp/TOBI/]を覗いてみると、ジョン・ファウルズの『魔術師』が「オールタイム・ベスト」だと書かれていた。この作品もいつか読みたいと思っていた。)
 これまで読んだなかで、これだけは抜き書きしておきたい一文がある。「「かたち」とは数学的で、抽象的なものである一方、それと同じくらい身体的で肉体的なものだ」(「象られた力」291頁)。これは深い。

★1月13日(金):年の初めから読んでいる本──『感じる脳』

 心脳問題や脳科学関係の本の在庫がたまっている。「書庫」送りにできず、もう何年も本箱の棚で順番待ちのまま「熟成」している。
 いま目につくものをざっと書き出してみると、ペンローズ『心の影──意識をめぐる未知の科学を探る』をはじめ、チャーマーズ『意識する心──脳と精神の根本理論を求めて』やヴァレラ他『身体化された心──仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』、信原幸弘『心の現代哲学』などは、もうかれこれ5年以上は積ん読状態のまま。ラマチャンドラン他の『脳のなかの幽霊』もそうで、去年はこれに続編『脳のなかの幽霊、ふたたび──見えてきた心のしくみ』が、さらにカトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか──ニューロサイエンスとグローバル資本主義』が加わった。サクサクと読むつもりだった池谷裕二『進化しすぎた脳──中高生と語る[大脳生理学]の最前線』も未読。(ふと気になって確認すると、同じラインアップを前にも書いている[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20051122]。よほど気にしているのだ。)
 そのほかにも、機会さえあれば(積ん読本を読み終えて心の負担が軽くなれば)買っておきたい関連本が山積みで、ダマシオの『生存する脳──心と脳と身体の神秘』や『無意識の脳 自己意識の脳──身体と情動と感情の神秘』など気になる本はやたらと多い。今年こそはこれらの購入本、未購入本を腰を据えて読み破り、心脳問題に自分なりの決着をつけておきたい。決着がつかないまでも(つくはずがない)おぼろげな見通しをつけておきたい。そう思っている。これは毎年思っている。

 で、年の初めから、昨年の11月衝動的に買い求めたダマシオの『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』(ダイヤモンド社)を読み始めた。例によって、全7章のうちまだ第2章の途中までしか読んでいないが、結構いけそうな気がする。何よりもスピノザのことが書いてあるのが嬉しい。情動と感情の本質、心と身体の関係という問題に関して、スピノザは今日の研究者のアイデアを予示している。ダマシオはそう書いて、次の五つの点を指摘している(30-33頁)。
 第一に、スピノザは感情のプロセスと情動のプロセスを区別した。第二に、スピノザはネガティブな「アフェクトゥス」は理性によって誘発されるより強力でポジティブな「アフェクトゥス」によってのみ制限し無効にすることができるという考え方を示した。この「アフェクトゥス」、英語で「アフェクト」には「情感」という訳語があてられている(50頁)。第三に、スピノザは心と身体を同じ実体の平行的属性であるという考え方を示した。第四に、スピノザは「コナトゥス」の考え方を示した。第五に、スピノザは善悪、自由と救済という概念をアフェクトゥスや生命調節と関連づけた。(ただしこの最後の点については、桜井直文氏によって批判されている。)
 いまのところ、興味深いのは第一の点で、ダマシオによると、情動(エモーション)は身体という劇場で演じられ、感情(フィーリング)は心という劇場で演じられる(51頁)。《情動とその間連反応は身体と連携しているのに対し、感情は心と連携している。思考がどのように情動を誘発し、身体的情動がどのようにしていわゆる「感情」という種類の思考になるのかを研究すれば、それにより、心と身体という、シームレスに編まれた一個の人間有機体の明らかに異質な二つの側面についての特別な見解がもたらされるはずだ。》(25-26頁)
 情動は生命調節の基本的なメカニズム(ホメオスタシス機構)の一部である。感情も生命調節に貢献するが、それはもっと高いレベルにおいてである。「感情は現在の命の状態を心の言語に翻訳しているのだ」(120-121頁)。
 面白いのは、情動を含むホメオスタシス機構が「入れ子式」であるという指摘だ。ダマシオは「小さなアミーバから人間にいたるまで、すべての生物は命の基本的な問題を〈自動的に〉──つまり、適切な推論をいっさい必要としないで──解決するようになっている装置を備えて生まれてくる」(54頁)と書いている。そして、代謝調節、基本的反射、免疫反応、苦と快の反応(接近反応や退避反応)、動因と動機(欲求と欲望)、固有の情動という低次(単純)から高次(複雑)にいたる「自動化された生命調節」をひとわたり概観し、そこに「ある興味深い構築プラン」が見えてくると書いている。「つまり、単純なものを複雑なものの中に「入れ子式」に配置していることだ」(62頁)。
 この「入れ子式」つまりフラクタル原理は、養老孟司が「仏教における身体思想」(『日本人の身体観』)で、古い仏教の身体思想の論理的な面を「自己相似」つまり構造的アナロジー観念と指摘したことと響き合っている。このことは、いつかまたじっくりと考えてみよう。

★1月14日(土):感情の論理

 年の初めから読んでいる本、『無思想の発見』(養老孟司)と『象られた力』(飛浩隆)と『感じる脳』(ダマシオ)。これら三冊の本には共通項がある。これはいま思いついたことだ。それは偶然ともいえるし、牽強付会のこじつけとも思えるが、共通項とは「感情」である。『象られた力』の表題作に出てきた図形文字は、人の情動や感情を抽き出すものだった。『感じる脳』は、まさしく情動と感情をめぐる神経生物学の書である。
 『無思想の発見』の第2章に「同じ」と「違う」をめぐる議論が出てくる。養老人間科学の基本の部分にあたる議論だと思う。情報とシステム、抽象思考と実証思考、概念世界と感覚世界、脳(意識)と身体。いまここに並べた対になる語の前者が「同じ」、後者が「違う」の系列に属する。『無思想の発見』では、この「同じ」と「違う」をめぐる議論が、養老孟司のかねてからの主張である「個性」論につながっていく。個性(違い)が刻印されるのは身体であって、意識や心に個性(違い)があるわけではない。「同じ」だからこそ理解できるのである。それは「感情」だって同じことだ。「感情は共感である。共感されない感情ほど不気味なものはない。感情はおそらく通常の論理回路を経ないで相手に伝わる。私はそう思っている。怒りも悲しみも笑いも、あきらかに伝染するからである。それならそこにも個性はない。」(『無思想の発見』61頁)

 感情の論理という言葉がある。梅原猛の『美と宗教の発見』でも見かけた。感情は数学的論理や「通常の論理回路」は経由しないかもしれないが、人に伝わる以上、そこに論理を見出すことはできる。というか、何かが伝わるとき、その何かが伝導される通路、回路のことを論理といえばそれまでで、これは定義の問題である。
 調べてみると、ベルクソンの『創造的進化』の2年前にリボーという人の『感情の論理』という本が出版されている。最近では、ルック・チオンピという人の書いた『感情論理』と『基盤としての情動―フラクタル感情論理の構想』が出ている。いずれもよく知らないが、そそられる。とりわけ「フラクタル感情論理」には興味がつのる。感情システムをオートポイエーシス・システムとして論じたものらしい。
 それはともかく、養老孟司のいう「通常の論理回路を経ないで相手に伝わる」共感としての「感情」が「言葉」にかかわってくる。(明日に続く。)

★1月15日(日):養老孟司のロジック(再び)

 昨日の話題の続き。──「同じ」と「違う」の一つのヴァージョンに「概念世界」と「感覚世界」がある。『無思想の発見』での養老孟司の定義によると、「五感で捉えられる世界をここでは感覚世界と呼び、それによって脳内に生じる世界を概念世界と呼ぶ」(120頁)。この本来交わることのない二つの世界の界面に、というより重ね描きのうちに「言葉」がスーパービーンする。
《感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である。言葉という道具は、この二つの世界を結ぶ。感覚の世界は「違い」によって特徴づけられる。概念の世界は、他方、「同じ」という働きで特徴づけられる。説明はこれで終わりだが、いくらなんでも簡単すぎるかもしれない。ここで大切なことは、言葉自体は「同じであって、違うものだ」ということである。だから言葉は、「違う」という感覚世界と、「同じ」という概念世界を結びつけることができる。》(120-121頁)
 以下、私がいう「ネコ」とあなたがいう「ネコ」は「違う音」だが、言葉の上では「同じネコという言葉」として把握される。文字についても事情は等しい、と議論が続く。さらに、概念世界がなぜ「同じ」なのかというと、「脳の中ではすべては神経細胞の興奮、つまり電気信号だから」と答えるしかない。これに対して、感覚世界の「違い」は、耳で光は捉えられない、目で音は捉えられない、といった入力器官の違いに基づく。「そもそも大脳、中脳、後脳という脳の大区分自体が、進化的には嗅覚、視覚、平衡覚(後に聴覚が加わる)に関係している。そこから生じる「違いの」世界を、右に感覚世界と呼んだ」(122頁)と続く。
 そして、概念世界にも「違い」はある。「馬」と「白馬」の違いは概念世界に属し、「あの馬」「この馬」の違いは感覚世界に属する。中国人が「白馬は馬にあらず」といった区別を持ち出す理由は、中国語に定冠詞、不定冠詞の区別がないからだ、と発展する。(この中国語の話は、以前「鎌倉傘張り日記」に書いてあった[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20050922]。)

 このあたりの議論は、養老節の典型例だと思う。そもそもからして、概念世界と感覚世界に「重なり」があるというのは乱暴にすぎる。ミソもクソも一緒くたにした議論である。いや、ミソとクソはどちらも物質だから混合させられる。だったら、頭の中のリンゴと目の前のリンゴに「重なり」などあるか。養老孟司の議論は面白いが、こういうところでいつも躓く。要は「唯脳論」が心底判っていない。
 「同じ」と「違う」の系列では、「概念世界」は「思想」に、「感覚世界」は「現実」に対応する。この「思想」が「現実」とは関係ない、というのが「書かれない思想」(142頁)としての「日本人の思想」であり、言葉で「これだ」と示すことのできない「無思想という思想」(188頁)である。
 ところで「唯脳論」の立場からいえば、「思想」も「現実」も「どちらもじつは脳の中じゃないか」(70頁)ということになる。概念としてのリンゴと感覚としてのリンゴが重なるのはじつは脳の中だ、といっても同じことである。このあたりでいつも混乱をきたす。養老孟司がいう「脳」とはいったいなんだ。池田晶子のように「私は氏が「脳」と言うとき、常に半分は〈魂〉の意で、聞いている」(『魂を考える』)などと言ってみたくなる。
《文科系の人が、こうした言い方を嫌うことはわかっている。/「そもそもお前のいう脳の意味はなんだ」/と訊くからである。意味もクソもない。脳そのものを、われわれは直接に五感で捉えることができる。/「それとあんたの思想は深く関係しているよ」/私はそういっているだけである。それは身体があなたを成り立たせているというのと、同じことである。》(70頁)
 ここで大切なことは、「同じ」と「違う」は反対語ではないという指摘だろう。《…感覚で吟味すれば、事物はすべて「違ったもの」である。それを概念化すれば「同じもの」になる。(略)それ[同じであること]を確認するためには、なんらかの「測定」をするしかない。測定は感覚の世界の話である。つまり「同じ」と「違う」は、反対語というより、補完的なのである。》(42頁)
 これと同じことが「思想」と「現実」、「ある」と「ない」についてもいえる(71頁)。だとすると、ゼロに「数字のなかの一つの数字」と「とりあえずそこには数がない」の二つの意味があるように(114頁)、養老孟司の議論はつねにダブルミーニングなのである。だから、脳内の概念世界や思想と、脳に入力される感覚世界や現実という「次元が違う」ものが重なったり、「どちらもじつは脳の中じゃないか」といわれたりする。
 そもそも「脳」という言葉自体、五感で捉えられる身体であると同時に、そのはたらき(とはたらきによってもたらされるもの)との二つの意味で使われている。(これと同じことが、茂木健一郎の「脳内現象説」にもいえる。)脳を五感で捉えている人(たとえば解剖学者や脳科学者)と、その脳のはたらきによって言葉を紡ぎだしている人(物書き)との「違い」が(電気信号のうちに)ぬりこめられている。AとBの違いや対立が実は同じAと呼ばれるものの中で成り立つ。こういう事態を身をもって生きることを「超越論的」態度と呼ぶのだと思うが、それもまた概念世界(文科系)のたわ事であろう。(明日に続く。)

★1月16日(月):階層構造と入れ子

 年の初めから読んでいる三冊の本(『無思想の発見』『象られた力』『感じる脳』)には共通項があって、それは「感情」である。そして「感情」は「言葉」にかかわってくる。この一昨日以来の話題からどんどん離れていくが、気にせず先へ進むことにする。

     ※
 昨日、養老孟司が「感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である」と書いているのを、「この本来交わることのない二つの世界の界面に、というより重ね描きのうちに「言葉」がスーパービーンする」と書き換えた。感覚世界と概念世界が「重なる」ことに納得がいかなかったからだ。
 唯物論でも観念論でもない唯脳論(もしくは脳内現象説)が了解できていれば、こんな書き直しなど無用のことだろう。それはともかく、この「重ね描き」というのは大森荘蔵のキーワードの一つで、スーパービーン(supervene)という語は、たとえば次のように使われる。「一般に、下位レベルでの物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に(現代風に言うなら)上位の個物ないし個体特性がスーパービーン(併発)している」(上野修『スピノザの世界』116頁)。
 ここに出てくる下位レベルや上位という語は、階層を思わせる。『無思想の発見』で養老孟司は、日本人は階層を考えるのが苦手だという議論を展開している。目の前のリンゴ二個とナシ二個は感覚世界では「違うものが四つ」となるが、意識(「同じという強いはたらき」)の世界では「同じ」「同じ」を繰り返して世界が単純化される。リンゴとナシ(二つ)、果物(一つ)、食物(一部)と概念が順送りに大きくなり、果ては数学的帰納法よろしく唯一絶対の神に至る(199頁)。
《つまりこの場合、「同じ」で括られる階層を、順次「上に登っていく」のである。「思想なんかない」といって、「思想をただちに現実に変換する」のは、この場合、「下に向かっていく」ことである。現実が下で、思想が上だからである。それもあって、日本人は階層を考えるのが苦手である。現実から思想へ、思想から現実へと、現実と思想の一段階を往復して、それで終わってしまう。(略)
 日本人が階層を考えるのが苦手なのは、文章に関係節がないからだという意見もある。関係節があるということは、一つの文章のなかに階層があることを意味する。主文と副文という表現自体がそれを示している。かなり簡単な文章にもそれがあるということは、アイという語が「実存的主体としての私」を暗黙に導くのと同じように、階層をつぎつぎに積み重ねることが「当然だ」という暗黙の前提を生む。だから西欧ではよく階層構造を示す図を描く。
 生物学の世界でもそれは当然で、リンネの分類体系は典型的な階層構造になっている。(略)/この図はじつは「同じ」で次々に括られる概念の世界を示しているわけで、つまり脳ミソのはたらきを示している。それを、/「世界がそうなっている」/といって「外に押し付ける」のが西洋なのである。自分の頭を外に押し付けて、客観的、論理的に世界はできている、それは神様の仕業だという。欧米ではそれを「思想がある」というのである。》(200-201頁)
 以下、「この「同じ」世界の唯一の解毒剤は、感覚世界である」という議論が続く。『日本人の身体観』に収められた「仏教における身体思想」では、抽象思考(キリスト教)の「解毒剤としての実証思考」(自然科学)が論じられていた。

 このあたりのところは、川崎謙著『神と自然の科学史』と密接にかかわってくる。それ自体は無意味な世界である「素材の世界」が、思考の枠組み(言語のなかに織り込まれた世界観)のはたらきによって屈折する。西洋にあっては、ロゴス(言葉=神)の枠組みの中で展開された形而上学と自然科学(自然哲学)によって、「素材の世界」は「ネイチャー」(神の創造物)としての意味と秩序が与えられる。日本にあっては、道元によって日本的に変容された諸法実相の枠組み(五感にふれる万物にカミの霊性の「活らき」をみる神道的心情)によって、それは「自然」(無上仏)として認識される。
 言語の中に織り込まれた世界観。定冠詞や不定冠詞、関係節の有無、その他人称や時制(tempus)、法(modus)、相(aspect)、態(voice)といった文法的概念と思考、認識との関係。これらのことについては、いずれ別の機会に腰を据えて考えることにしよう。(できれば、「日本語による哲学制作の可能性」といった問題を、中世の歌論や連歌論、能楽論の類の読解を通じて、それも日本における抽象思考すなわち仏教とからめて考えてみるという、このところしだいに大きな「プロジェクト」に発展しつつあるテーマとともに。)
 ここでは、日本において西洋の階層構造に対応するものはなにか、ということを考えてみたい。それはすなわち「諸法実相」の枠組みであり、ひらたくいえば「入れ子式」の構造なのではないか。
 『感じる脳』でダマシオは、生命のホメオスタシス機構は「入れ子式」であると論じていた。それが、仏教の身体思想が「自己相似」(アナロジー)であるとする養老孟司の議論(「仏教における身体思想」)と響き合っているのではないかということはすでに書いた。要するに、「AとBの違いや対立が実は同じAと呼ばれるものの中で成り立つ」場合、ここに二度出てくる「A」なるものが実は「同じ次元」に属するという事態をさすのではないか。漠然とそう考えているのだが、これでは「それのどこが『要するに』なのだ」と問われても仕方がないだろう。(明日に続く。)

★1月17日(火):余談二つ

 なかなか本題にたどりつかない。そのうちなにが本題だったかわからなくなる。どうでもよくなっていく。
 一昨日、言葉が生まれる場所とその働きをめぐる養老説を引用した。いわく、感覚世界と概念世界の重なりが言葉である。言葉は「同じであって、違うものだ」。だから言葉は「違う」という感覚世界と「同じ」という概念世界を結びつけることができる。『無思想の発見』には、言葉と意識(「同じという強いはたらき」)を同一視するような記述も出てきて混乱するが、それは養老孟司特有のダブルミーニングもしくは簡略表現なのであって、どちらも正しい。

 一つ余談というか懐旧譚を挿入する。言葉が感覚世界と概念世界の重なりだという指摘を読んで、瀬戸賢一著『レトリックの宇宙』(海鳴社)を想起した。瀬戸氏はそこでヤ?コブソンによる「換喩」(metonymy)と「隠喩」(metaphor)の比喩の二区分を批判して、大要次のように論じていた。昔書いた文章を転用する。
《ヤ?コブソンによれば換喩的な言説を支えるのは隣接関係であり、隠喩的な言説を支えるのは類似関係である。
 ところで瀬戸賢一はこのヤ?コブソンによる隣接性の用法が「倒錯的」であるとし、これを重層的な現実世界(仮想された世界を含む)の時間的・空間的な隣接関係に基づく転義と概念操作の領域である意味世界での「類?種」の包含関係に基づく転義とに分割し、前者を換喩、後者を提喩(synecdoche)と定義している。瀬戸は「提喩と換喩は、互いに異なった世界に属しているために、直接的な交渉を持つことができず、もし交渉を持つ可能性があるとすれば、隠喩を経由した間接的なものにならざるを得ないのではないか」とし、隠喩が意味世界と現実世界の境界上に存在し両世界の橋渡しをするものであることを指摘している。
 ここで明らかにされたのが「言語表現およびその基礎となる私たちの認識を支える上でもっとも重要な役割を果たす三つ組を構成する」三種の比喩の位置関係(トライアド)であり、瀬戸はさらにパースの記号の三分法と組み合わせて「換喩=指標記号(index)=隣接関係」「提喩=象徴記号(symbol)=包含関係」「隠喩=類似記号(icon)=類似関係」という対応を導き出している。》
 ここに出てくる「現実世界」が感覚世界に、「意味世界」が概念世界に属する。パースの三記号のうち「インデックス」は感覚世界、「シンボル」は概念世界、「イコン」はその両世界の境界にそれぞれ属する。つまり「言葉」とはイコンであるということになる。
 瀬戸氏がその後自説をどう展開されたのか、あるいはどう修正・撤回されたのかは知らないが、私はかねてから、そこに第四の記号を付け加えることができるのではないかと考えてきた。言葉遣いはまだ精錬されていないが、イコンが現実世界と意味世界を具象的でアナロジカルな類似関係に着目してつなぐ働きをもつのだとしたら、これと対になるかたちで、つまり抽象的でアイロニカルな相互否定関係(あるいは逆喩[oxymoron]的関係)に着目してつなぐ記号があるのではないか。そしてそれは「マスク」とでも名づけられるものなのではないか。つまり「仮面の記号論」。
 この未完の理論が完成したあかつきには、「言葉」とは「イコン=マスク」の複合体である、という命題が成り立つことになる。

 パースの名が出てきたついでに、もう一つ余談をはさむ。中島敦の「文字禍」に、単なるバラバラの線の交錯にすぎない文字に音と意味をもたせる「文字の霊」の話が出てくる。「魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。」
 ここに出てくる「線」や「音」が感覚世界に、「意味」が概念世界に属する。前者をラカンの想像界に、後者を象徴界に関連させ、そこにパースの記号論をからませた議論が三浦雅士著『出生の秘密』に出てきたはずだが、この本は昨年の暮れ、段ボールに梱包して「書庫」送りにしたままなので詳細を確認できない。(明日に続く。)

★1月18日(水):言葉とクオリア

 言葉は「同じであって、違うものだ」から感覚世界(差異性)と概念世界(同一性)を結びつけることができるという、養老孟司(『無思想の発見』)の指摘は実に刺激的である。これを読んで三つのことを連想した。

 その1.ダマシオの『感じる脳』で、情動(エモーション)は身体という劇場で演じられ感情(フィーリング)は心という劇場で演じられる、と書いてあった。仮に「身体という劇場」が感覚世界に、「心という劇場」が概念世界に相当すると考えることができるなら、「情動と感情の重なりが言葉である」という命題の系が成り立つことになる。
 なお、飛浩隆の『象られた力』に出てきた「「かたち」とは数学的で、抽象的なものである一方、それと同じくらい身体的で肉体的なものだ」(291頁)という一文が、情動(身体的・肉体的な「かたち」)と感情(数学的・抽象的な「かたち」)の関係と大いにかかわってくる。

 その2.養老孟司は「仏教における身体思想」で、「おそらく宗教の根幹をなすのは、ある種の存在感、とくに自己という「内的世界」と、いわゆる「外部世界」の一致である」と書いている。
《考えようによっては、両者ともにわれわれの「内部」にある。ふだんわれわれは、外部世界を、われわれとは異なったものとして、外部に「おしやろう」とする。しかし、外部世界は、われわれの内部に映された世界の像という意味では、同時に内的世界でもある。ある不思議な状況で、両者は渾然一体となるように思われ、そこに世界の統一感が生じる。だから、自己のアートマンが、世界霊魂となるのである。個人の存在を徹底的に揺り動かすような、強い情動がそこに伴う。これはもちろん、宗教家だけに起こるわけではない。デカルトが、疑う自分の存在は疑えないという結論に至ったときも、アルキメデスが風呂から飛び出したときも、状況は似ていたであろう。この存在感は、身体の存在感におそらく還元する。それがインド哲学の紹介を通じて言いたかったことである。》(『日本人の身体観』239頁)
 この「内的世界」を感覚世界に、「外部世界」を概念世界に置き換えて考えると、宗教の根幹をなす「存在感」(「強い情動」を伴う「世界の統一感」)は言葉によってもたらされる。あるいは表現される。「初めに言葉ありき」である。しかし、この同じ「存在感」(「宗教的感情としての、天地と自己の一体感」252頁)は言葉では表現できない。「教外別伝 不立文字 以心伝心」である。
 言葉によって表現されると同時に言葉では表現できない。この矛盾を解消するのも言葉である。(こういう事態を「超越論的」と呼ぶのだと思うが、このことはこれ以上述べない。)感情=論理と情動=身体の重なりとしての言語によって、言葉で表現されることで初めて存在すると同時に言葉では表現できない存在感=統一感=一体感(強い情動を伴う宗教的感情)が「表現」される。感覚世界と概念世界が論理と身体の二つの回路でつながるのである。

 その3.言葉が「同じであって、違うものだ」としたら、クオリアもまたそうなのではないか。茂木健一郎は『脳+心+遺伝子 VS. サムシンググレート』(徳間書房)で次のように語っていた。
《…言葉の発話というのは一種の運動だから、脳の領野でいうと運動野の近くの補足運動野とか運動前野というところで司っているんですけど、そこで起きている無意識のプロセスに私の意識の志向性が向かっている。言葉を出すプロセスというのは、だいたいこんな感じのことを出そうかなというところを志向性がコントロールしていて、実際言葉を出すプロセスは無意識なわけです。…言葉の発話の場合には志向性は無意識の発話のプロセスに向かうわけです。このように考えた時に、どうもクオリアというのは私の中心にあるのではなくて、「私」と外の世界との境界にあるっていう感じだと思うんです。むしろ私の中心の方にあるのは、志向性の方であり、その志向性は私の中の無意識にも向かっている。》(201-2頁)
 ここで述べられたことが、最新の茂木脳理論(「メタ認知的ホムンクルス」のモデル)でも通用するのかどうか知らない。たぶん通用するのだろう。「クオリア」が感覚世界の素材であり、「志向性」が概念世界の基底にあるものであることは見やすい。この二つの要素が「脳内現象」として重なったものが言語である。一回性、唯一性、個別性をもった感覚質が、実は同一性、普遍性の成立にとって不可欠であるという逆説。
 やや飛躍するが、養老孟司によると「歴史」も「思想」であった。だとすると、一回性をもった歴史=五感で捉えられる歴史が「思想」として反復するわけである。物質という「思想」についてもこれと同じことがいえる。
 ところで上の発言に、「意識の志向性」が向かう「無意識のプロセス」という語が出てくる。このあたりのことはベンジャミン・リベットの『マインド・タイム──脳と意識の時間』(下條信輔訳,岩波書店)に関係してくると思うが、これはまた別の話だ。(明日に続く。)

★1月19日(木):感情と言語

 先週の土曜(14日)、「感情の論理」の項の最後次のように書いた。養老孟司のいう「通常の論理回路を経ないで相手に伝わる」共感としての「感情」が「言葉」にかかわってくる。そろそろこの話題に決着をつけておこう。
 感覚世界と概念世界、情動(身体的・肉体的な「かたち」)と感情(数学的・抽象的な「かたち」)、外部世界と内的世界、クオリアと志向性の重なりとしての「言葉」が「通常の論理回路」を経て相手に伝えるものが「意味」である。これに対して、共感としての「感情」は直接的に伝染する。いずれにしても相手に「伝わる」。これが「言葉」と「感情」の関係である。そうまとめてしまえば事は簡単だが、それだと面白くもなんともない。
 養老孟司(『無思想の発見』)の議論は、これとは違う。それは「気持ちはじかに伝わる」と題された第八章に出てくる。「通常の論理回路」など介在せずとも言葉は通じる。「聞いたとたんに、わかってんじゃないか」というわけだ。その論拠が「ミラーニューロン」の発見である。同じ動作を自分がやっても他人がやっても興奮する、一種のモノマネ細胞。これを意識に応用すると、妙なことになる。ポルノグラフィーをただ見ているだけなのに、身体が勝手に反応する。興奮しているのは、じつは意識である(191頁)。
《さらに進んだ議論は、ミラーニューロンの研究がもっと進んでからすべきだと、専門家は考えているであろう。しかし私は素人だから、つい先を考えてしまう。なにもミラーニューロンという神経細胞の存在に話は限らない。単なるニューロン、つまり細胞ではなく、同じようなはたらきを示す神経システムを想定することが、さまざまな機能について、論理的に可能である。現に、ミラーニューロンがあるのだから。/それなら、/「意識とは、本当に自分だけに留まっているのだろうか」/という疑問が生じる。/つまり人間の表現は、ひょっとすると相手に直達している可能性ができたといえる。いってみれば、一種のテレパシーではないか。外部に音として表出された言葉を聞き、その音を受け入れて、順次脳のなかで論理的な処理が進んで行く。こうして相手の言い分を理解し、次に自分の意見をいう。そうした順序にしたがって、言葉が使われていると、常識は見なしている。その常識は本当か、という疑いが生じる。いわば、/「聞いたとたんに、わかってんじゃないか」/といってもいい。途中にべつの論理回路を通らなくてもいいかもしれないのである。しかもそのほうが実感に合う。》(192-193頁)
 こういう議論が好きだ。論理的に可能で実感に合えば、どんどん先を考えていく。こういうのを「養老孟司のロジック」という。抽象思考と実証思考、概念世界と感覚世界が渾然一体となっている。超越論的経験論、実証的形而上学、その他むつしい言い方はいろいろあるだろうが、要するに「論理的に可能で実感に合う」議論。

 ついでにもう一つ『無思想の発見』から例を引く。昨日もふれたリベットの実験を踏まえて、自我(意識)は機能(はたらき)であってモノのような実体ではなく機能であることを論証するくだりである。
《念のためだが、あれだけ「個を主張する」アメリカ人でも、神経科学者のなかには、「自我なんてない」と考える人が増えてきている。その根拠は、脳機能が意識に先行する例が知られるようになったからである。たとえば、水を飲もうと「思って」、コップのほうに手を出すとする。じつはそう「思う」〇・五秒前に、「水を飲む」行動に対して、脳はすでに動き出している。いまではそうした測定が可能になった。それなら「水を飲もう」という意識は、「無意識である」脳機能の後追いなのである。意識は「自分が水を飲もうと思ったから」、「その思いがコップに向かって手を出させる」と「思っている」。それは逆である。心理学では、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」ということがある。常識的な意識は「そんなバカな」と思うだろうが、じつはその「常識的な意識」のほうが、たぶんウソなのである。(略)そういうわけで、自我を主体であり、実体であると考えるのは、所詮は無理である。ただし文化的伝統は抜きがたいもので、欧米人あるいは近代人がどこまでその点で意見を変えるか、私は楽観していない。》(40-42頁)
 リベットの実験から「自我なんてない」という結論を導き出すことが、はたして論理的に可能で、かつ実感に合うのかどうか。これはやはり『マインド・タイム』を読んでみなければならないと思う。このリベットの話は、木村敏著『関係としての自己』の序論にも出てきた。そこでの議論もずいぶん飛んでいた。ミラーニューロンの発見とリベットの実験。この二つのことから、私自身の論理と実感に照らして何が引き出せるか。これは挑戦してみる価値がある。

★1月20日(金):『無思想の発見』

 そうこうしているうちに、養老孟司著『無思想の発見』を読み終えた。実はとっくに読み終えていた。書店をのぞくと、新潮新書から『バカの壁』『死の壁』に続く第三弾『超バカの壁』が平積みになっている。この「壁三部作」(なのかどうか知らない)はなぜか読む気になれない。『無思想の発見』は『唯脳論』や『人間科学』に次ぐ養老学の基礎理論書かと思って、だから読んだ。

 と、ここまで書いて、ふと気になって過去の「読書日記」を検索してみたら、『死の壁』は読んでいた。感想文まで書いていた。
《「バカの壁」の向こうにはロマンがある(12頁)。なぜ人を殺してはいけないのか。人間は自然、つまり高度なシステムである。「そんなもの、殺したら二度と作れねえよ」(22頁)。近代化とは、人間が自分を不死の存在、すなわち情報であると勘違いしたことでもある(32頁)。──以下、養老節が続く。これは『人間科学』の「語り下ろし」版だと思って読んでいたら、あとがきにそう書いてあった。》
 読んだことを忘れるくらい、養老節が骨身に染みていたわけだ。というより、結局同じことしか書かれていない。木の心は木に訊け。「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」(『三冊子』)。「やってみなけりゃ、わからない」(『無思想の発見』あとがき)。養老孟司の「思想」は、宮大工や俳諧師の教えに帰着する。
 それを一言で表現すれば「手入れの思想」ということになる。「意識ですべてはコントロールできない、できるのは手入れすることだけである」(茂木健一郎との共著『スルメを見てイカがわかるか!』185頁)。『無思想の発見』で次のように書かれているのは、手入れの思想(無思想の思想)の応用である。
《中国に対して、なにをするか。靖国参拝の是非なんか議論したって、そんなものは空である。それをめぐって喧嘩したところで、人類の未来に裨益するところは、なにもない。私が思いつくことは一つしかない。北京政府がなにをいおうと、ひたすら中国に木を植える。(略)中国から黄砂が飛んでくるなら、日本は緑をお返しすればいい。無思想であるなら、有思想に対して、感覚世界で対応するしかないはずである。木は思想ではない。(略)
 …木は勝手に育つ。経済成長よりもはるかに確実に「成長する」のである。その確実さ、それが感覚世界のいいところである。共産主義だろうが、資本主義だろうが、木は育つ。》(225-227頁)

 手入れの思想のもう一つの応用は、「自分で考えろ」ということである。それを言い換えれば「自分で自分を変えればいい」(233頁)になる。あるいは、身体に訊け。考えているのは「意識」ではない。意識とは「変わらない私」のことであって、そんなものは実体としては点でしかない(35-36頁)。
《「私は私、個性のあるこの私」「本当の自分」を声高にいうのは、要するに「実体としての自分に確信がない」だけのことである。「本当の自分」が本当にあると思っていれば、いくら自分を変えたって、なんの心配もない。だって、どうやっても「変えようがない」のが、本当の自分なんだから。それを支えているのは、なにか。身体である。自分の身体はどう変えたって自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。もう意識の話は繰り返さない。ここまでいっても「意識こそが自分だ」と思うなら、そう思えばいい。ほとんどの人はそう思っているんだから。それでなんだか具合が悪いとブツブツ文句をいわれても、私の知ったことではない。勝手にそう思ってりゃ、いいのである。》(234-235頁)

 養老孟司は、オレの本がベストセラーになんかなるはずがないと思っている。本当に判っているのかと訝っている。だから、あとがきに「この本は売れない。売れないと思う」とわざわざ書かなければならないような本を書いた。
 私も、読者は養老孟司がほんとうに言いたいことをちゃんと判って読んでいるのだろうかと疑っている。「なにを偉そうに、そういうお前は判っているのか」と問われれば(問う人はいないだろうが)、「それがよく判らない」と答えるしかない。これは理論の書ではない。理論にかかわることも大いに書かれているし、養老ロジックも駆使されている。しかし、養老学の基礎理論書として読もうとしても整然と理路をおさえることができないのである。ここにあるのは養老孟司にとっての存在感とロジック、原理とその応用だけである。
 あとがきには、日本のことを大いに心配してこの本を書いたともある。いらぬお世話だと、人は言うだろう。「私の知ったことではない。勝手にそう思ってりゃ、いいのである」。養老孟司はソッポを向いてそう言うだろう。養老孟司は本書で、いやもうずっと前から、大宅壮一、司馬遼太郎、山本七平といった本書にもその名が出てくる「無思想」の思想家の系譜に属している。憂国者の系譜といってもいい。人は保守思想と呼ぶかもしれない。保守反動と呼ぶ人もあるだろう。そんなラベルはどうでもいい。守るべきものは「変わらない日本」ではないからである。動かすことが変わることではないからである。

★1月21日(土):休日の過ごし方──脳科学の勉強・その他

 朝10時頃に起きて、いつものように(昔ほんのわずかな期間モダンバレエの教室に通っていた時に教えてもらった)真向法とストレッチを組み合わせた体操を数分間やって、これもいつものようにざっと新聞の見出しを眺めながらパンとココアを流し込み、駅前のドトールで小一時間ほど本を読み、午後、待ち合わせて西宮北口にでかけ、帰りに本を二冊買って、ヒッチコック/バーグマンの『山羊座のもとに』を観て、そのあとまた本を少し読んで休日が終わった。

 午前中、時間潰しに読んでいたのは『感じる脳』(ダマシオ)第3章「感情のメカニズムと意義」の142頁から161頁までで、ここのところはとても面白かった。感情とは情動によって変化した実際の身体の知覚である。このウィリアム・ジェイムズの洞察がダマシオ自身をはじめとする脳科学者たちの実験によって確かめられつつある。脳内の身体知覚領域が感情の重要な基盤であるという考え方はもはや単なる仮説ではない。ダマシオはそう述べて、感情の基本的プロセスをめぐる四つの条件を提示している(150-152頁)。
 「第一に、感じる能力をもつ存在は、身体をもっているだけでなく、その身体を身体内部に表象する手段も兼ね備えた有機体でなければならない。」要するに神経系がなければ感情はないということ。「第二に、その神経系は身体構造や身体状態をマップ化し、ついで、そのようなマップの中のニューラル・パターンを、今度は心的パターンやイメージに変換できなければならない。」「第三に、言葉の伝統的な意味での感情[フィーリング]が生じるには、その内容[コンテンツ]が有機体に認識される必要がある。つまり、意識が必要条件である。」感情の機構は意識のプロセス、つまり「自己」の創出に一役買っている。
 「第四に、感情の基盤を構成している脳のマップには、その同じ脳の別の部位の指令のもとに実行された身体状態のパターンが表示されるようになっている。」「感情をもつことのできる有機体においては、脳は二重の意味で必要だ。まずもちろん、身体のマッピングを生み出すために脳はそこにあらねばならない。しかしそれ以前に、脳は、最後には感情としてマップ化されることになる特定の情動的身体状態を指示または構築するためにも、そこにあらねばならない。」
 最後に出てくる脳の二重の機能のうちの後の方に関してだと思うが、ダマシオは、身体感知領域以外の脳の領域が二つのやり方でマッピングのプロセスに干渉し「偽の」身体マップをつくることがあると書いている。二つの方法とは、フィルタリングによる現在の身体マップの変更と、ミラー・ニューロンによる模倣(感情移入)である。
《要点をまとめれば、身体知覚領域はいわば劇場を構成しており、そこでは「実際の」身体状態だけでなく、仮想身体[as-if-body]状態、フィルターにかけられた身体状態、等々、さまざまな種類の「偽の」身体状態も演じられる。仮想身体状態を生み出すための指令は、動物と人間のミラー・ニューロンに関する最近の研究が示しているように、種々の前頭前皮質からくるようだ。》(161頁)
 以上のことは図で考えるととても判りやすい。実際私は本に図を書き込みながら熟読した。いろいろ発想が広がった。ここに図を転載することができないのが残念だ。

     ※
 西宮北口にでかけたのは、昨年10月にオープンした県立芸術文化センターを一度見ておきたかったから。ついでに何かコンサートでもと思っていたら、チケットはとうに売り切れ。なかなか感じのいいホールだったので、今度はちゃんとチケットを入手してから来ることにしよう。その後しばらくタウンウォッチングで時間を潰して遅い昼食をとって帰った。西宮北口には結婚前にしばらく独りで暮らしていたことがあった。その時住んでいた家を探してうろうろ歩いたけれど、震災で壊れたかもともと古い住宅だったのでとっくに取り壊されたかで、どこに建っていたのか結局わからずじまい。
 神戸に帰って元町の「ちんき堂」に立ち寄った。この古本屋をのぞくのは初めて。このところ古書店めぐりの面白さにめざめはじめたところなので、一度この高名な店に顔を出しておきたかった。ドアをあけるといきなり聞こえてきたのが野坂昭如の「バージン・ブルース」。「あなたもバージン、わたしもバージン」のところで野坂昭如が会場に向かって、バージンの皆さんもご唱和をと語っている。このライブ盤のLPは持っている。プレイヤーが壊れれたのでもう聴くことができなくなったが、いまでも「書庫」のどこかで眠っているはず。懐かしい。
 棚に並んだ本もどこか懐かしい。澁澤龍彦本が一角を占めているのも嬉しい。まるで私の「書庫」が転居したような感じ。記念に一冊と、岩波新書のなるべく古いのを物色してJ.B.モラル『中世の刻印──西欧的伝統の基礎』(城戸毅訳)を百円で買った。たぶん読むことはないだろうと思うが、119頁以後にエリウゲナのことが書いてある。いつか買っておいてよかったと思う日が来るかも知れない。(家に帰ってメールチェックのためネットに接続して、「ちんき堂にっき」[http://d.hatena.ne.jp/chinkido/]を発見した。)

 もう一冊、茂木健一郎著『プロセス・アイ[PROCESS A.I.]』(徳間書店)を買った。この本のことは前々から予告されていて、刊行されたら速攻で入手して一気に読むつもりでいた。茂木さんがフィクションに手を染めていることは前々から知っていた。何年も前にクオリア日記(だったかな)に書いてあった。そうでなくても、この人はいつか小説を書くだろうと思っていた。文章家としての力量や才能には並々ならぬものを感じていた。
 意識の問題や心と脳の関係をテーマにした小説はいくつか読んできた。最近では瀬名秀明著『デカルトの密室』。いずれも隔靴掻痒、あと一歩というところで肝心なものをつかみ損ねた感じ。茂木さんが書くのだからと期待しているが、ちょっとこわい気もする。プロローグ「色とりどりの砂」が「北アフリカ、チュニジア」で始まる。チュニジアときけば、かの「色彩画家」パウル・クレーを想起する。『チュニジアの赤と黄色の家』。最近読みはじめた宮下誠著『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)がちょうどクレーの節を終えたところだった。これもなにかの符合なのかもしれぬ。早く読みたいが、その前に『象られた力』を終えなければいけない(この本を早々に読了して手放すのは惜しいけれど)。フィクション系だけは同時並行読みができない。

★1月22日(日):『物質と記憶』(第21回)

 『物質と記憶』第四章を読み終えた。先週の日曜日に前半、「二元論の問題」「従うべき方法」の二節と「知覚と物質」の途中まで読み、その続きと「持続と緊張」「延長とひろがり」「心と身体」の三節を今日一気に読んだ。二度目の陶酔(フィロソフィカル・ハイ)が到来した。最後の節の冒頭に、「このようにして私たちは、長い回り道をへて、本書の第一章でとり出しておいた結論に立ちもどってくる」(244頁)と書いてある。ここに出てくる「本書の第一章でとり出しておいた結論」とは、「私たちの知覚は元来精神ではなくむしろ事物の内に、私たちの内ではなくむしろ外にある」(同)というものだ。これはまさに、最初の陶酔を覚えた第一章四節「イマージュの選択」に書いてあったことそのものである。その節の最後に出てくる文章を抜き書きしておく。
 ──発光点Pからの光線が網膜の諸点a・b・cに沿って進み、中枢に達してからのちに意識的イマージュへと変換され、これがやがてP点へと外化される。しかしこの説明は科学的方法の要求に従っているだけのことで、全然、現実的過程をのべていない。《じっさいには、意識の中で形成されてのちにPへと投射されるような、ひろがりのないイマージュなどは存在しない。本当は、点Pも、それが発する光線も、網膜も、かかわりのある神経要素も、緊密に結び合った全体をなすのであり、発光点Pはこの全体の一部をなしていて、Pのイマージュが形成され知覚されるのは、他の場所ではなく、まさにPにおいてなのだ。》(49頁)
 ここに出てくる「全体」という言葉は、第四章「延長とひろがり」の節の「或る対象の視覚的知覚においては、細胞も神経も網膜も、そして対象そのものも、緊密に結びついた全体、すなわち網膜の像も一挿話にすぎない連続的過程を形づくっているということは、本書の冒頭で示したように真実ではなかろうか」(240頁)と響き合っている。さらに遡れば、「知覚と物質」の節に出てくる「問題はもはや、いかにして物質の特定の部分の中に位置の変化が生ずるかということではなく、いかにして全体の内で位相の変化が遂げられるかという点にかかわるであろう」(219頁)とか「なぜ私たちは、あたかも万華鏡を回転したかのように全体が変わるということを、そのまま端的にみとめないのであろうか」(220頁)とも響き合っている。
 このあたりのベルクソンの議論(茂木健一郎のいう「マッハの原理」を思わせる)にはアインシュタインの影を感じる。『物質と記憶』の刊行は1896年だから、その「影」は未来から投げかけられたものであろう。というか、ベルクソンもアインシュタインも同じ一つの時代精神のうちにある。そういう粗雑なことを喚いていても始まらないので、いまなお余韻がつづくフィロソフィカル・ハイの実質を丹念に「割って」いかなければならない。ほとんど「祖述」に近いかたちで語り直すこと。何度でも最初から語り直すこと。それが哲学書を読むという経験であろう。

★1月23日(月):『全体性と無限(下)』解説

 レヴィナスの『全体性と無限(下)』(熊野純彦訳,岩波文庫)を買った。第一刷発行の日付けは1月17日で、奇しくも阪神・淡路大震災11周年の日。先月、上巻の序文を読んだ日に「問題は、いつ読むかだ」と書いた[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20051205]。この問題は解消していない。つまりいまだ本編には手が、いや目が入っていない。
 章節が小刻みに区画されていて、それぞれにタイトルがふってある。いかにも少しずつ小分けして読むのに向いている。ここ半年ほど続けてきた『物質と記憶』の独り読書会にならって、ノートをつけながら読み始めてみようかと真剣に考えている。副読本はもちろん、これまた積ん読状態のまま塩漬けになっている斎藤慶典著『レヴィナス──無起源からの思考』。内田樹著『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』もいつか再読したいと思っていたことだし。
 とりあえず、熊野純彦氏の解説を読んだ。この二つの話題が記憶に残った。その1.『全体性と無限』(1961)に対するデリダの批判「暴力と形而上学」(1964)とこれによるレヴィナスの「転回」、そしてデリダその人へのレヴィナスの思考の反響。簡潔な叙述でもって要約される西欧思想のドラマ(旧約対新約?)。
 その2.『全体性と無限』ドイツ語版序文でレヴィナスは、フッサールとハイデガー(『存在と時間』)からの決定的な影響を告白した。この両者とならんで名を挙げている哲学者の一人がベルクソンである。そのベルクソンについてレヴィナスはある回想のなかで、ベルクソンの作品は「一篇の詩のように」すでに完成されたものであったと書いている。

★1月24日(火):環境金融

 藤井良広著『金融で解く地球環境』(岩波書店)を読んでいる。ときおりこういう種類の本が無性に読みたくなる。こういう種類の本とは、時事、政治、経済、公共政策にかかわり、次の時代のエッジをうかがい知ることができるもの。できればあまり厳密に学術的なものではなくて、世の中の生の動きに関する新鮮な情報がもりこまれた本。冷静沈着、客観的かつ理論的でありながら、鎧の下から熱い思いがほの見えるような文体であればなおよい。おのずから第一線のジャーナリストによる著書を手にすることになる。ふだんあまり熱心に新聞を読まないものだから、時折こういう種類の本を読んで飢えを癒し、情報不足を補わないといけない。その思いが高じて、勘をたよりに買ったのがこの本。
 金融については、ここ数年しだいに私的な関心が高まっている。金融システムのことがわからなければ世の中のことはわからない。思想もわからない。歴史も国際政治もわからない。直観的にそう確信している。といっても私の関心は、ジャネの理論は金利生活者的なメタファーに満ちている(中井久夫)とか、フロイトは株式市場で学んだ原理を無意識の欲動エネルギーの動きに見立て「リビドー経済」という画期的な理論を打ち出した(鹿島茂)とか、そういった偏ったところから始まったものだ。オーソドックスな金融システム論プロパーの本にはなかなか食指が動かなかった。これまで金融小説を時折読むくらいでごまかしてきたが、このあたりで腰をすえてみるか。
 それからもう一つ。これはろくに読まないで言うことなのでいい加減な話だが、これまでからコモンズの経済とかエコロジー経済、等々の環境経済論は思想臭が強すぎると感じてきた。いっそ「仏教経済論」を標榜するくらいの強かさがあれば別だが、思想(理想)を現実に織り込むための倫理的かつ「工学的」な技術論(つまり政策論)としては弱いのではないかと疑ってかかってきた。ジェイン・ジェイコブズの『経済の本質』やベルナルド・リエターの『マネー崩壊』などはとても刺激的だったが、それでも「じゃあどうするか」という局面で思考が止まってしまう(思考が止まるのはもちろん私であって、ジェイコブズやリエターではない)。その点、環境経済ではなく「環境金融」に焦点をあてた本書は、解毒剤として最適ではないかと思う(もちろん解毒剤が必要なのは私である)。
 著者は日経新聞経済部の編集委員。後で気づいたことだが、私はこの人の名刺をもっている。ある会合で何度かお会いして、言葉を交わしたことがある。まことに「冷静沈着、客観的かつ理論的でありながら、鎧の下から熱い思いがほの見えるような」人物だった。外連なく淡々と、しかしシャープに日本経済の現状を分析するその語り口は信頼できる。神戸出身だということで、勝手な親しみも覚えた。

★1月25日(水):最近読んだ雑誌

◎『クロワッサン』2006年1月10日号
 年末年始の休みに読んだ。特集が「女の住まい方、男の住まい方」。最近、といっても数年前からのことだが、「老後の住まい」ということをけっこう真剣に考えるようになった。きっかけは「書庫」にしまい込んだ書物たち(私の無意識)をきちんと整理整頓して、老後の仕事部屋に収蔵したいと思ったこと。でも、藤原和博さんによると、「本棚に囲まれた書斎」という「憧れの風景」のイメージは「吹き抜けが欲しい」とか「リビングにはゆったりとしたソファ」などと同様、映画やテレビや雑誌の世界からやってきた夢の「イコン」でしかない。「「書斎」を作れば“できるビジネスマン”になったり“充実した老後”を送れると考えることも、このような勘違いの延長だ」(ちくま文庫『人生の教科書[家づくり]』39頁)。これは賢者の言葉だ。「女の住まい方、男の住まい方」の記事にもそのような記号、「自分らしさ」といった実体のない夢をめぐるシンボルやイコンやインデックスがふんだんにしつらえられていたが、これはこれでよくできていた。それより、第2特集「小説家の小説案内」が面白かった。なかでも恩田陸さんの『春の雪』(三島由紀夫)をめぐる文章「ケレンと様式美、スター三島に酔いしれたい。」が出色。

◎『季刊チルチンびと』35号(2006 WINTER)[特集|新しい住まいの「和」]
◎『男の隠れ家』2006年2月号[特集|愉悦の読書空間 156人の384冊]
 この二冊も年末年始の休みに読んだ。いや眺めた。いずれも「幸福のイコン」に満ちた雑誌で、眺めているだけで愉しめる。和風の住居の写真もいいけれど、たくさんの書物の写真にそそられる。子どもの頃の切手蒐集を思い出す。倒錯している。どこか淫している。いっそ(お菓子の家ならぬ)本で造った家に住むか。

◎『BRUTUS』No.586(2006.2.1)[特集|Garden Love]
◎『GRAPHICATION』142号(2006.1)[特集|子どもたちは、いま…]
 結局、グラフィック雑誌は読まずにインテリアのように飾っておく。壁に掛けた絵画のように、時折ぱらぱらと表層を眺めて時間を潰す。雑誌の活字を読むという体験は、一般の書籍を読むときのそれとまるで異なっている。言葉が記号になって、自在に結びついていく。対談であっても、一般の書籍からの引用であっても、それは変わらない。切り取られた言葉が写真のキャプションのように、まったく違う相貌を見せている。雑誌を眺める時間というのは、何かとつながっている感覚とそこには何もないという空虚感がないまぜになっている。欲望が編集されていく。本を読む、マンガを読む、写真を見る、映画を観る、音楽を聴く、絵画を鑑賞する、スポーツを観戦する、雑誌を眺める。それぞれまったく異なる体験である。

★1月26日(木):最近読んだ雑誌(続)

◎『中央公論』2006年2月号
 日本文化再発見シンポジウム「伝統と美意識は永遠なり」を読む。語り手は辻井喬、小倉和夫、千宗屋、ドナルド・キーンの各氏。活字で読むと気が抜けたビールみたいな議論だが、会場で生身で聞くとそれなりにコクとキレがあるのだろうな。
 ドナルド・キーンが、日本の心は具体的に定義しにくいが、だいたい室町時代の東山文化は日本の心ではないかと語っている。「足利義政の築いた文化が、現在のほとんどの日本文化だと思います。お茶、生け花や墨絵もそうです。畳部屋や庭園も同じです。」これを受けて千宗屋が「いま和風と言われるもののほとんどは、まさに室町時代に生まれたと言ってよいと思います」と応じ、内藤湖南の説(応仁の乱でそれまでの日本文化は一度壊滅した)を引用し、「わび、さび、も昔は今で言うサブカルチャーだったのではないでしょうか」と続ける。「ですから、日本文化はクレオール文化という本質をもっていたのではないかと思うのです」と辻井喬。小倉和夫が「あらゆる文化は雑種文化」と応じ、ドナルド・キーンが「いろいろな文化が混じり合ったとはいえ、どこの国でも何か独特なものがあるのです」と流し、千宗屋が「文化の雑種性と言いますと、茶道はその最たるものだと思います」と受ける。
《結局、茶の湯が日本文化とされるいちばんの理由は何かと言うと、わび、さびに代表される『新古今集』的な「冷え枯れる」という和歌の美意識をお茶のなかに持ち込んだからです。さらに、「一座建立」という考え方も、連歌の席の即興性や瞬間性を茶のなかで重要視するようになったことから、取り入れられるようになりました。そうして、精神的、思想的な部分での受け入れ方において、茶の湯はどんどん日本化したのだと思います。》
 そのほか印象に残った発言を拾うと、辻井喬が紹介しているある数学者の言葉。「今後は、日本から数学の天才は出ないだろう、なぜかと言うと、美しい環境に育った人でないと数学の才能が開花しない、崇高なものに跪く精神がないと数学は無理、そして経済的なものよりも精神的なものを大切に思うという風土がなければいけないからだ」。ドナルド・キーンの『古今集』の部立ての話、千宗屋の型の話も面白かった。

 ◎『文藝春秋』2006年2月号
 三浦展の「下流社会 団塊ニートの誕生」を読む。『下流社会』の主役が団塊ジュニア世代などの若者だけであるとするのは誤解で、他の世代にも「下流」は存在する。現在の下流化した若者の意識の大本にあるのは、親である団塊世代の価値観である。三浦氏はそう書いている。「ちなみに下流とは、単に所得が低い人というだけでなく、コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学習意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い人々を指す。」三浦氏が腑分けした団塊世代の8つのクラスタのうち、男女とも全体の25%を占める「団塊ニートクラスタ」がまさにこの意味での「下流」の典型である。他に「貧乏文化人10.5%」と「ヒッピー6%」を加えた4割以上が「下流な傾向」を示す。
 多くの団塊世代は、無精ひげを伸ばし汚いジーパンをはき、何もせずに、ぶらぶらするだけ。きっと街がどんどん汚く、うるさくなるだろう。だって、そういう、何の役にも立たない無為で「下流」な生き方こそが、団塊世代の理想だったからだ。──『団塊世代を総括する』のあの小気味よい議論を思い出す。三浦氏が腑分けした8つのクラスタが面白いので、その要約を抜き書きしておく。
・ニューファミリークラスタ=高学歴、高所得、勝ち組で、消費好きな中流
・社会派クラスタ=高学歴、学生運動経験者多く、上流志向が強い
・団塊ニートクラスタ=低学歴、ややブルーカラー系、全体に意欲が低く、やや下流
・下町マイホームクラスタ=家族でアウトドアを楽しむのが好きな中流の自営業系
・スポーツ新聞クラスタ=ゴルフ大好き、ギャンブルも好きなオヤジ系
・アンノン族クラスタ=散歩とショッピングが好きな元祖アンノン族おばさん
・ヒッピークラスタ=元ヒッピーで古民家好きなサラリーマン
・貧乏文化人クラスタ=創造性を重視するが階層意識が低いアーチスト系

★1月27日(金):『名僧列伝(一)』

 紀野一義著『名僧列伝(一) 明恵・道元・夢想・一休・沢庵』読了。この本はひどい。明恵や夢庭や一休のどこがいったい「名僧」なのか、いくら読んでもまるで理解できないのだ。第一、著者はたとえば夢窓や一休を嫌っている。
 夢窓についてはこう書いてある。「乱世にあって、みごとに自派の教団の基礎を確立していったその力量と見通しのよさには驚嘆するほかない。…しかし、ついて行きたくなるような人であるかと問われたら、わたしは「否」と答えるほかはない。…夢窓国師は卓抜した禅僧ではあったが、庶民の師ではなかったし、もちろん、友などでは絶対なかった。…だからといって夢窓国師をけなすことはできない。国師は国師のようにしか生きられなかったのである。それが国師の弱さ、ひいては、人間のすべての弱さなのである。人は、その生まれついたようにしか、所詮生きられないものなのである。これも今日風にいえば、人の生き方はその人のDNAの促すままに決まってしまうのであろう。」(152-153頁)これだとまるで片田舎のお寺で、足の痺れをこらえた法事の参集者相手に得々と語る中身のないお説教のようではないか。
 一休についてはこう書いてある。一休禅師が雀の子を可愛がり、その死にあたって一山の僧侶に命じて葬式を出させたのは、雀の子の中にかつて父子の縁を切ったドラ息子の姿を見ていたのであろう。ふだんは立派な高僧が、こと子供のことになると見るもあわれな妄執に振り回される。そういう例をたくさんみてきた。哀れと思い、腹立たしくもあった。「しかし、それが偽らざる人間の本然の姿なのであろう。どうしようもない人間の本音なのである。わたしはこの事実に感動した。しかし、わたしはこんな一休禅師が好きではない。どこか屈折しているし、陰湿なところがある。しかし、あの剛毅果断な禅師でさえこうであったとすると、坊さまは子どもを持つべきではないなとしみじみ思う。」(184頁)思わずつっこみを入れたくなるボケのあとでしみじみ述懐されても困る。
 これでは、好きでもない「名僧」の話をよく人に話してきかせられるよな、と呆れるしかないではないか。それでも道元のことは尊敬しているらしい。『正法眼蔵』弁道巻で述べられた「さとりの深化の過程」をめぐって次のように書いている。
《これをやさしくいうと、ある人がさとると、まわりにいる者がみんな浄化されて次々にさとる。これらのさとった人のはたらきに助けられて、その坐禅人はさらに仏としての修業を積むようになり、遂にはまわりの自然界まで仏のはたらきをあらわすようになる。しかも本人はそのことを知らない。/こんな生きかたができたらどんなにすばらしいだろうか。自然までが変わってしまうような人間の生きかたを、こんなに明確に説明してくれたのは道元禅師だけである。日本の生んだ思想家の中で道元がピカ一だとわたしが思うのは、人間が生きてゆく上に一番大切なことを、この人が憎たらしいほどぴったりとくる表現でわれわれに教えてくれるからである。体の中にどすーんとくる言いかたで説明してくれるからである。道元禅師に教えられるというのではない。道元禅師を動かしている大いなるものの力に直接教えられているという感じである。こんな思想家はめったにあるものではない。》(103-104頁)
 これも結局は「思想家」として道元のすごさであって、「名僧」の話ではない。全編この調子なのだ。随所に挿入された禅問答の数々も、私にはその意味も意義もさっぱり判らなかった。いくどずっこけ、いくど絶句したことか。だったら読むのをやめたらよかったのに。自分でもそう思った。この本を少し読むたび、その「口直し」もしくは「毒消し」に『梅原猛、日本仏教をゆく』(朝日新聞社)を同量ずつ服用したくらいである。それでも最後まで読めたのは、基本的に著者に対する最後の信頼が失われなかったからだ。
 この人はウソは書いていない。DNA云々の勇み足はいくつもあるし、面白くもない私事や凡庸な私見がとつぜん挿入されて叙述が中断することも再々だが、それらはまあご愛敬ですましてもいい。自分に判らぬこと、理解できないことは書かない。名僧の「名僧」たる所以は、実地に接した人にしか判らぬ。文字で伝わるのはその残り香でしかない。そのような潔い断念が本書を救っている。それどころか、著者の私事・私見を濾過して得られる「名僧」の残像は、こういうかたちでしか伝えられないかもしれないのである。(副読本の場合だと、そこに梅原猛の思想が力強くたちこめてはいても、「名僧」の残像は数々のエピソードのうちに雲散霧消している。)
 著者は巻末の「原本あとがき」に、「この巻に収めた明恵・夢想・道元・一休・沢庵の五人の禅者の歩かれたところ、止住されたところはすべて実地に歩いて見た。その地に行ってはじめてこれらの禅者たちの生きざまが鮮明に知られるようになった」と書いている。
《紀州の明恵上人ゆかりの地をくまなく歩いた時の感激と驚き、出羽三山に沢庵禅師の配所を訪ねた時に鮮烈に浮かび上ってきた沢庵書翰の数々のこと、夢窓国師の造られたという庭をひとつひとつ探して歩いた時に、骨に応えてきた感銘の数々、それらは必ずしも皆、この書の中に書きとどめてあるわけではない。それらはすべて、行間に姿なき文字として書きとどめてある。願わくはその微意を汲んで頂きたいと思うものである。》(264頁)
 これは真実の言葉ではないかと思う。「行間に姿なき文字として書きとどめてある」ものは著者の個人的な感銘の数々ではなく、名僧の「名僧」たるゆえんであろう。しかし「本人はそのことを知らない」。『名僧列伝』は四巻まである。続けて第二巻を繙くかと問われれば、たぶん読まない。

★1月28日(土):『日本仏教史』

 仏教熱が高じてめらめらと白い火が熾っている。仏教そのものというより、日本仏教思想史への強烈な関心が沸騰しはじめた。歌論書はどうなる。心敬はどうする。内なる声が警告を発するが、この際無視する。『名僧列伝』では欲求不満が残ったので、運命の本というと大袈裟だが、この飢えを癒してくれる書物との偶然の出会いを求めて数日におよぶ書店めぐりを敢行し、ようやく一冊の本にたどりついた。末木文美士著『日本仏教史──思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)。
 まだ読みもしないであれこれ書くのもどうかと思うが、この本には今の私が求めているすべてがある。根拠のない決めつけだが、長年の経験から、こういう時の直感はたいがいあたると確信している。買ったのは先週の火曜日だが、諸般の事情からぜんぜん手がつけられない。「序章にかえて」だけ読んだ。そこに出てきた次の文章が目をひく。
《…一概にはいえないが、どうも仏教には定着しにくい一面があるような気がする。思想の次元でいえば、例えば、「空」という発想にはどうにも落ち着きの悪さがある。「空」は「有」として安定することへの絶えざる否定であるから、定着することをはじめから拒否している。その否定のエネルギーが、インドや中国という巨大な伝統をもつ文明においてさえ、一時期強烈な衝撃となるが、それがヴェーダーンタなり儒教なりの伝統思想のなかに吸収されることによって、はじめて安定した構造をもち得るのではないだろうか。まあ、これはいささか勝手な大風呂敷だが、日本の場合だって、それほど「日本」と「仏教」とは自明の調和関係にはないことは確かだ。》(13頁)
 定着しにくいということは、伝統になりにくいということである。それは「日本の思想」についてもいえることだ。定着しにくいもの同士が「日本仏教」としてくっついている。(いや、かつてくっつき定着したことがある。現在はどうか。それは知らない。)しかも「日本仏教史」である。定着しにくいものの歴史を語るとは、なんと難儀なことだろう。「序章にかえて」の冒頭で、著者は「日本では自国の過去の思想を思想史として定着させることができなかった」(9頁)と書き、丸山真男の『日本の思想』からの文章を引用している。

★1月29日(日):『いきなりはじめる浄土真宗』

 『物質と記憶』の独り読書会は今日はお休み。このところにわかに私生活が多忙をきわめるようになり、ろくすっぽ活字を読む時間がとれない。久しぶりの休日も、お持ち帰りの仕事が気になって、思うように時間を使えない。あと一月ほど、この状態が続く。せっかく「毎日更新」を継続しているこのブログも、いつまで持つかわからない。せめて百日まではがんばってみたい。千日行ならぬ百日行。それも危うい。

 昨日とりあげた『日本仏教史』の文庫解説を橋本治が書いている。「原因があってこその結果である」という考え方こそ仏教の根本だ。解説の最後に出てくる言葉だが、これは本当のことか。内田樹・釈徹宗両氏のネット上の往復書簡をまとめた『インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗』(本願寺出版社)を眺めていると、釈氏の次の言葉が目を引いた。
《仏教は因果律に基づいています。いかに仏教にバリエーション多しといえども、これだけははずすわけにはいかないっ、というほどの「仏教における基本的立脚点」です。因果律とは、「あらゆる現象や存在には、原因がある。原因があれば必ず結果がある」という原則です。この法則に例外はない、ということで仏教は成り立っています。因果律の立場もいろいろあるんですが、仏教の因果律は〈縁起〉という相互依存性を強調するところに特徴があります。》(14頁)
 これは、内田樹の問いかけ──「縁」とは「自由」の(反対概念ではなくて)「対概念」である、縁という宿命的なものに媒介されてはじめて人間は自由が何であるかを覚知するのだし、自由な人間しか縁を覚知することができない、こういう考え方について釈先生はどうお考えになりますか(11頁)──に応えたものだ。「縁は自由の対概念。この言葉だけでも、これからすごい話が展開されそうな予感がヒシヒシと伝わってきます。でも、なんか、もう、意外な出だしですねぇ」と釈氏のコメントあり。ほんとうに「すごい話」が展開されそうでワクワクする。

★1月30日(月):『はじめたばかりの浄土真宗』

 昨年どういうわけか読み損ねた本のなかで、『インターネット持仏堂』は最上級で気になっていたものだ。昨日、近所の図書館で二冊そろったのを見つけ、後ろめたい思いを殺して借りてきた。なぜ後ろめたかったかというと、内田樹が『いきなりはじめる浄土真宗』のあとがきの最後にこう書いていたからだ。「話が弾んで、一冊では収まりきらず上下二冊分冊となってしまった。ご散財かけますけれど、この続きもどうかよろしくお買い上げ下さい。」
 ヴァーチャル堂宇「インターネット持仏堂」[http://www.tatsuru.com/jibutsu/html/]はいまでもネットに残っている。「インターネット持仏堂の逆襲・教えて!釈住職」[http://www.tatsuru.com/jibutsu/]というものもある。本になればネットから削除するのはよくあることだが、内田樹がそんなケチな了見で、天下の往来で所場を張っているわけではない。だからタダで読みたければネットを検索すればいい。でも商品になったものは買って読まないといけない。ポータブルで「カジュアルな仏教書」(内田樹)を持ち歩いて手軽に読みたいなら、「散財」を惜しんではいけない。それがルールというものだ。図書館は重宝だけど、やっぱり現在出回っている本を貸し出ししてはいけない。第一、借りたものには気が入らない。投資をしないと身につかない。
 で、『インターネット持仏堂2 はじめたばかりの浄土真宗』をぱらぱらと眺めている。これはちょっと凄いことになっている。要点を箇条書きにしてみても何も始まらない。始まるかもしれないが、それだとお勉強モードになってしまう。つまみ食い的に「これは」と思う箇所を抜き書きして済ますことなどできない。できなくはないが、それは気の抜けた言葉の死骸にかぎりなく近い。たとえば、内田樹の次の言葉。「おのれがすでにおのれ以外の何かによって基礎づけられ、それに遅れて到来したという自己意識のあり方。/それを私はこの書簡の中で「宗教性」と呼びました。/真に知性的であろうとすれば、人間は宗教的にならざるを得ない。」(『はじめたばかりの浄土真宗』160頁)これだけ抜き出しても、たぶん何も伝わらない。
 この本の読み所は中身よりもむしろ言葉遣いにある。ネットで培われ、鍛えられてきた文体。それはまだ形成途上のものだと思うが、思想を語るまったく新しい語り口(『いきなりはじめる浄土真宗』「その1」のレヴィナスの注釈に出てくる「対話的エクリチュール」という語が近いか)がそこにはある。内田樹の文体については、いまさら指摘するまでもないと思う。面白いのは浄土真宗本願寺派如来堂住職の釈徹宗の言葉。なんだよくあるメール文じゃないかと言ってはいけない。
《えー、ところで、真宗は追善供養や慰霊や祈祷をしない、ということになっております。ええっ、そんなこといっても真宗でも葬儀・法要はやっているじゃないか、というツッコミ、ごもっともです(汗)。それは、死者のために供養したり、慰霊したりしているのではなく、仏の徳を讃える儀礼であり、その儀礼を機会に仏教の話を聞く「縁」を持つために行っている、と考えるのです。》(『はじめたばかりの浄土真宗』94頁)
 この往復書簡が縁になって、内田樹・釈徹宗の「合同講義というか、漫才形式の哲学=宗教学講義」[http://blog.tatsuru.com/archives/001248.php]が去年の9月から始まっているらしい。その講義録は「インターネット持仏堂3」として「本願寺出版社から出版される(かもしれない)」とのこと。

★1月31日(火):『芸術新潮』

 久しぶりに『芸術新潮』を買った。2月号の特集は「古今和歌集1100年 ひらがなの謎を解く」で、石川九楊の解説。これと似た趣向の特集では、「橋本治がとことん語るニッポンの縄文派と弥生派」(2003年10月号)、「磯崎新 日本建築史を読みかえる6章」(2004年6月号)、港千尋解説の「写真よ、語れ!」(2005年9月号)がある。いずれも常備している。ついでに『芸術新潮』のその他の常備本を書いておくと、「ケルトに会いたい! 魂の島アイルランド」(1998年7月号)、追悼特集「バルテュス なぜあなたは“少女”を描くのですか?」(2001年6月号)、創刊55周年記念大特集「フィレンツェの秘密」(2005年1月号)。これで常備本は七冊になる。
 躰が重たく、活字を追う気になれず、ただただ美しく撮影された書跡を眼でなぞっている。疲れが癒える。別冊太陽の常備本『白川静の世界 漢字のものがたり』をひっぱりだして併読する。気持ちが(少し)高揚する。末木文美士『日本仏教史』に、漢文訓読の(日本語の発想による)解釈が日本の仏教思想の自由な発想、もしくは恣意的な解釈をもたらしたことが、親鸞、道元の場合で例証されていた。言葉と思想の一筋縄ではいかない関係。
 姫路市立美術館で『デルヴォーとマグリット』展が始まっているらしい。広告が掲載されていた。これは忘れず出かけよう。