不連続な読書日記(2005.11)




★11月3日(木)

 昨夜、大阪で某懇親会に参加。ひさしぶりの談論風発を愉しみ、一晩ぐっすり眠って季節の変わり目の体調不良がすっかり恢復した(と思っていた)。ひさしぶりに丸一日なんの予定も入っていない休日の朝を迎えて気力充実、読みかけの本を一掃せんと意欲を燃やしたものの、結局読了できたのは高橋睦郎『読みなおし日本文学史──歌の漂泊』と荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅──歌われた幻想の地へ』と本村凌二『多神教と一神教──古代地中海世界の宗教ドラマ』とジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表象』の四冊で、いずれもこれまでに九割がたは読み進めてきたものを仕上げただけのこと。それだけですっかりくたびれてしまった。
 読み終えた本はそれぞれ面白かった。とくに『読みなおし日本文学史』と『生命記号論』は後を引く。いろいろ抜き書きしながら考えを深めてみたいことがあったけれど、どうにもその気になれない。星野之宣『宗像教授伝奇考』第一巻【¥571】を買って少し読み、昔入手してまだ一度しか、それも断続的にしか眺めていなかった『リバー・ダンス』をじっくり通して観て(根源的な感動というと大袈裟だけれど、躰の奥底にとどく深い感銘を受けた)なんとか心身の疲れを癒した。それにしてもなぜこうも疲れるのだろう。

     ※
 本村凌二『多神教と一神教』について。人類の文明史五千年のなかで、じつに四千年は古代なのである。あとがきに刻まれたこの一文に、著者の古代地中海世界に寄せる思いが込められている。淡々とした筆致で綴られたこの古代の民族や社会の概念と感性の歴史、神々と言語の物語を手にして、単なる知識や情報の入手に汲々とするのはもったいない。できればゆったりとした時間の流れとともに、この小冊子の紙背から漂うエキゾチックな香を心ゆくまで堪能し、はるかな土地と時の人々に思いをはせてみたい。それが同時に現代を生きる人々の、つまり私たちの心性のあるがままを遠眼鏡を通して見ることにもつながるかどうかは、また別の問題。
 本書の内容をかいつまんで紹介することなどできない。なにしろこの本自体が、紀元前一千年ごろを境に古代人の心性が大きく変化し、それとともに一神教への道が開いていったのはなぜかという一点を主題に、四千年におよぶ西洋古代の歴史を鮮やかにかいつまんでみせているからだ。

★11月4日(金)

 いくら疲れるといっても『生命記号論』についてはきちんと考えをまとめておかなければいけないと思う。たとえ考えをまとめることはできなくても、この書物から受け取ったものをなんとか自分の身から出てきた言葉で反芻しておかなければいけない。
 私はこの本を黄色いマーカーをつけながら読み進めていったのだが、ふりかえって見てみるとほとんどの頁が黄色く染まっている。それほどまでに細部の議論が魅力的だったということで、だからこれまでに何度も繙きながらそのつど過剰な刺激にたえられず、というか自分勝手な思考もしくは空想の世界に入り込んでしまってそれより先を読み続けられなかった。今回、かなり無理をして(体力的に)最後まで一気に読み切ってみると、予想されたことではあるが、それら細部にちりばめられた話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだかまり、跳梁し跋扈してしだいに内圧を高めていく。それと同時に、ここで論じられていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。
 こういう心理状態を物狂いとでも呼ぶのだろうか。しばらく寝かせ、機をとらえてもう一度読み込む。あるいは座右に常備し、折節随所を拾い読みしては読後の興奮を宥めつつ、混沌を身のうちに飼い慣らす。処方箋ははっきりしているのだが、そして今の私の気力と体力と脳力ではそうするしかないのだが、それでも後の日のために最低限の作業はやっておかなければならないと思う。

 「全ては虚空に浮かぶものから始まった」。著者は最終章の末尾(232-233頁)で本書全体を概観している。「まずは、私たちが自然法則と呼ぶ習慣がそこから生じて来る」。なぜなら、パースの形而上学の要点が示すように自然には習慣化する傾向があるからだ(54頁)。次いで「習慣が生命の出現をもたらし、生物に固有である予測能力がこの習慣から産まれて来た」。同時に予測間違いも生まれたが、もし間違いが多すぎなければ、生物は遺伝物質の中のメッセージの形で生き残ることができる。「それは現在の痕跡を未来へと取り込ませることを意味する。やがて、これらの痕跡は撚り合わされ、ますます洗練の度を増していくような洞察の基盤を形作る、関係のネットワークが生じて来る」。
 この記号論的なネットワークのことを著者は「記号圏」と呼ぶ(102頁)。頭脳と感覚器官の出現とともに記号圏は膨らみ、そして「最後に、この記号圏の真ん中で、完全な自意識を持った人間が出現した」。人間は「この世界に自意識ほど価値を持つものはない」と想像するようになったが、「こうした考えやその破壊的な副次効果は全て錯覚である」。なぜなら「私たちが意味を発明したのではない」からだ。「この世界は常に何かを意味しているのだ。世界がそれに気づいていないだけで」。

 以上のような「要約」を読んだところで、たとえそれが著者自身によるものであったとしても、それでいったい本書の何がわかるというのか。それだとまるで砂糖が水に溶けるの待たずに砂糖水を飲むようなものではないか(ベルクソンの引用)。『生命記号論』を理解するためには『生命記号論』を読まなければならない。小説を「理解」するためには小説を読まなければならないように。もっと精確に言えば、それを生きなければならないように。
 小説は読んでいる時間の中にしかない(保坂和志の引用)。というのも、そこで言われる小説とは生命だからだ。小説が生命をもつというのは比喩ではない。文字通り小説とは生命そのものなのだ。なぜならそこには「記号そのものを担う物質」と「記号によって表現されるもの」と「記号の解読者=翻訳者」という「パースの一般的な記号の三項関係」(43頁)が成り立っているからだ。
 このパースの記号論を踏まえた「生命記号論」は、生命現象そのものの稼働原理であると同時に、生命現象を認識し記述する方法でもある。もっと大雑把に言ってしまえば、物質と精神、つまり物の秩序・連結と観念の秩序・連結(スピノザの引用)、あるいは行為と認識の双方に通底する存在(生成)の論理である。
 記述すること、認識し理解すること、解読・翻訳し解釈すること。存在(生成)すること、行為すること、生きて死ぬこと。このふたつの推論過程すなわち「記号過程」が一致する。そのような事態──「自分も描き込まれている地図を描くこと」(西田幾多郎は「自覚に於ける直観と反省」でアメリカの哲学者ロイスの言葉を引きつつ、「例えば英国に居て完全なる英国の地図を写すことを企図すると考えて見よ」と、「自覚」において自己を現実化させる「働き」になぞらえた:檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』92頁)──を著者は見すえている。
 松野孝一郎氏は訳者あとがきに書いている。「少なくともこの地球上に出現した生命は現在に至るまでの約三八億年の間、一連の内部記述によって記述され続けて来た対象であった。ホフマイヤーが本書で明かしたのはこの内部記述の正体である。」

★11月5日(土)

 昨日の『生命記号論』からの引用のうち「全ては虚空に浮かぶものから始まった」はこれだけだと何が言いたいのか(後から読み返したときに)判らないと思うので補足しておく。ホフマイヤーがここで念頭においているのは言うまでもなくビッグバンのことだが、これは現実にあった出来事であるというより(実際だれかビッグバンを見た人がいるだろうか)むしろ論理的な区別、根源的な原‐分割ともいうべき事態をさしている。すなわち「ない」と「ある」の分裂。しかし、何もないこと、すなわち完全な虚空を考えるのは困難である。
《全てのものという抽象概念の反対概念としての虚空、すなわち論理的に心の中に描く以外の形では理解できない虚空の内に宇宙の始まりを置こうとする宇宙論は、私にとっては得心の行くものではない。もしそれを真剣に受け入れてしまうと、私たちが虚空を思い浮かべる度に、毎回、真新しい宇宙を持ち出すことになりかねないからである。なぜなら、虚空は心の内にだけあるからである。この考えは実に心を落ち着かせなくする。》(21頁)

 この第1章「宇宙の誕生・意味の発生 「なにもない」虚空からそこに浮かぶものへ」の議論は何度読んでも(実際なんど読んだことだろうか)刺激的で、ウィルデン(よく知らない)やベイトソンやラカンを引用してホフマイヤーが導きだす結論というか議論の出発点は途方もなく魅力的だ。以下、サワリの部分を加工編集して抜き出す。
 「?ない」は境界なのだ。この境界、ベイトソンの用語で言えば差異、は精神的な働きの中にある。その境界は「誰か」が「?ある」を認識しないかぎり、この世には存在しない。《そして、この「誰か」が、誰もしくは何であるかを問うことが、まさに本書が投げかける問題である。誰が虚空に浮かぶものを作ることができたのか。いつそれは始まったのか。そしてそれは何をもたらしたのか。》(28頁)
 しかし、「?ある」と「?ない」、AとAでないものの分割よりもっと奥深い分割がある。すなわち「ある」と「ない」(この「ない」は「?ない」よりもっと「ない」こと)の分割。《ウィルデンは、私たちは心の中で考えるときでさえも、AとAでないものの境界を引くことで、現実と非現実をともに含む全世界を二つの部分に分割している。その境界を設定するという行為は、少なくともAにも非Aにも含まれない一つの系あるいは領域を定義している。/この系こそが「誰か」である。》(29頁)
 この「誰か」は少なくとも忘れるという能力の持ち主でなければならない。それが(第1章に勝るとも劣らず刺激的な)第2章「失われるもの、生き残るもの 忘却の歴史と記号──忘却の弁証法」の話題である。と、この調子で続けていると全編を祖述することになってしまう。別にそうなっても構わないのだが、ここではビッグバン後七○万年の頃に始まる記号圏の物語を彩る三つの断絶をめぐる文章を引用してお茶を濁しておく。
《このようにして、三つの断絶がもたらされてきた。一つは生体とDNAの間の原理的なもの、二つ目は言語に伴う自己と自己のイメージの間の実存的な断絶であるが、三番目の個人と社会との間のものは少なくともつかの間は癒されることができる。私たちはこれらの断絶のうち、最初の一つは他の全ての生物と共有している。それはDNAの形でデジタルで記号化された生体の自己記述に関するものである。この断絶が生命の出現を導き、私たちが博物学と呼ぶ自然の歴史物語を創り出した。二つ目の断絶は、私たち人間が全て共有するものであるが、他の動物や植物には見られない。それは、私たちが自己意識を持つ主体であるという事実と関係するものである。この断絶が私たちを文化史と呼ぶ文化の歴史へと導いた。
 三番目の断絶は本質的に前の二つとは異なる。同時にこの二つの物語に関与しているという事実から来るものである。なぜなら、自意識を持つ主体となることで、私たちは自己本位な文化の迷宮に糸を繰りながら迷い込むこととなってしまった。そこでは肉体が残すねばねばしたカタツムリの這い跡のような痕跡はいとも容易に見失われてしまう。
 第三の断絶に対する治癒も、共感に対して真摯に耳を傾けることからもたらされると期待される。ここで必要なのは、人間同士の共感だけではない。地球に存在する生物全てへの共感である。私たちの祖先は模倣文化から石器文化へと至る境界のどこかで、自分を他者の心理の論理に従わせる方法を学ぶのに成功したに違いないと、これまでに述べてきた。心理の論理という言葉を、私はできごとや話を支配する物語の論理の意味で使ってきた。だから、私たちの先祖は、他の人間が占めていると思われるのと同じ物語、心理、関係を理解する術を獲得した。》(214-215頁)

 この文章だけでは第二番目の断絶(「経験の持つアナログの本性と言語の持つデジタルな本性の乖離」180頁)の中身がよく判らないと思うので、もう一つだけ抜き書きしておく。
《その時[ホモ=エレクトゥスの心のスクリーンに宇宙から切り離された孤独な存在としての自己の姿が浮かび上がってきた時]、世界に存在する事物を分割する線、「?ない」の基礎となるものが効力を発揮し始めたに違いない。それは、AとAでないものを区別できる「誰か」がカテゴリーの間の線引きを行うということ、そしてその言語を操る彼らもまたその「誰か」であり、それゆえ相いれないもの、世界の外にあるものであるという事実の認識を迫ることになる。なぜなら、世界の内部にいるためには、「誰か」は「誰か」であることを止めなければならないのだから。
 そしてこのことが、会話の発達をもたらす動機づけであることを、私たちに示すものだと私は信じている。(略)言語を持たない生物が自分自身の限られた環世界を頼りに生きるしかないのに対し、会話によって世界は象徴的に作り上げられた共有の居住場所となった。そして私たちの祖先が世界の神話を創るとき、彼らの周囲の世界を過度に捕まえたのである。ここに言語が立ち現れ、自走しだした。》(181-182頁)

     ※
 ホフマイヤーの虚空をめぐる議論を読みながら、しきりとヘーゲルを想起していた。『大論理学』の最初に出てくる「有」は概念にまで成長するはるか以前の朧気なもので、それはあくまで「無」と背中合わせのものである。あると思えばそこになく、ないと思えばそこにある。アウグスティヌスが『告白』(11巻14章)に綴った時間のようなものだ。「では時間とはいったい何でしょう。だれも私にそれをだずねないなら、私にはそれがわかっています。たずねられ説明しようと思うと、わからなくなるのです。」(山田晶訳)
 それが「有論」「本質論」「概念論」とつづく艱難辛苦と波瀾万丈の長旅を経て、強い内圧と濃度をもった概念に成長する。そしてついに種子がはじけて飛び散るように存在物を撒き散らし、『自然哲学』の圏域が産まれる。つまりビッグバン!(『生命記号論』にヘーゲルの影を見るのはけっして根拠のないことではない。ホフマイヤーが準拠するパースのうちにヘーゲルは濃い影を落としているからだ。)

★11月6日(日)

 『物質と記憶』独り読書会。第二章を冒頭からざっとおさらいして、訳書125頁から133頁まで、言葉の聴覚的再認のうち「自動的な感覚運動過程」をめぐる部分を少し気を入れて読んだ。いまここでその内容を自分の言葉で再現できるほどに身を入れて熟読したわけではない。そもそも本を読んで理解することと、それ(たとえば本に書かれている思考)を自分のものとして使いこなすこととは違う。
 第一章を読んでいたときのあのフィロソフィカル・ハイはいまや微塵もなく消失して、このところなかば義務的に頁を繰っている。気持ちは第三章の純粋記憶の議論へと向かっている。たとえば檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』に「ベルクソンがその「生」の思考を展開していく先である「純粋記憶」の議論は、西田の「場所」の議論と重なりあう部分が大きい」(32頁)と書いてあるが、これはほんとうだろうか。あるいはドゥルーズは『ベルクソンの哲学』第三章で、存在論的無意識(潜在的で即自的な純粋な記憶内容)と心理的無意識(現実化されつつある記憶内容)を区分し、『物質と記憶』全体がこの二つの記述のあいだで動いていると書いているが、これはどういうことなのだろうか。
 第二章に漂うこの退屈感は、たぶんベルクソンの議論が私の身体のうちに反復的に習慣化されていくプロセスを表現しているのだと、とりあえず考えておこう。いわば「型」を修得するための「修業」。いわば「ベルクソン道」。そういえば、第二章には読書をめぐる話題が頻繁に出てくる。「朗読の記憶」について(93頁?)。「読書の機構」にかんする実験について(119頁?)。そして今日読んだ箇所に出てきた「ある困難な運動を理解することと、それを実行できるということとは、それぞれ別な事である」(129頁)という議論も、読書に関連づけて考えることができる。読書における知覚と記憶、身体と精神。

 先に「訳書」と書いたが、かたわらに原書をおいてたえず眺めているわけではない。一応、インターネット経由で原文を入手しているが、大学で6年「勉強」した程度の語学力で読みこめるはずもない。
 また、型や修業や道という語彙が唐突に出てきたのは、このところ俄然結構面白くなってきた『日本人の身体観』の影響。そのあとがきに養老孟司はこう書いている(ちなみに、名著『身体の文学史』は本書と同時進行的にそれぞれ『新潮』と『仏教』に連載されていたらしい)。
《「日本人の身体観」の次の問題は、「修業─道─型」という主題になる。「型」は身体表現の完成したものであり、身体という無意識の表現と、ことばや芸術という意識的表現が、たがいにもたれあって、文化という一つの「表現」を形成する。社会の脳化つまり都市化は、意識的表現を拡大し、無意識的・身体的表現を徹底的に縮小するようにはたらいてきた。われわれはいまや、それをどうするかという問題に直面しているらしい。どうするもこうするも、問題を意識することが、解決のはじまりであろう。》

★11月7日(月)

 昨日、柳田邦男『言葉の力、生きる力』【¥438】を買った。「ケータイ・ネット時代に突入して以来、情報は怒濤のように駆けめぐっているのに、言葉はイマジネーションの膨らみを失って、痩せ細った記号と化し、かけがえのない沈黙の間合いさえ、ミヒャエル・エンデの暗喩をかりるなら、「時間貯蓄銀行」に収奪されてしまった。」「言葉の危機は、心の危機であり文化の危機だ。」巻頭に掲げられたこれらの言葉が、心に突き刺さってきた。
 このところちょっとした「心の危機」に襲われている。記憶力の急激な減退と体力の減衰、微細な感情表現の阻害、ささいなきっかけでの怒りの噴出、出口を失ってとぐろをまいた言葉の内攻。それらの徴候がじわじわと日々の時間の流れを淀ませ、感覚を鈍らせていく。「かけがえのない沈黙の間合い」を埋めるために活字や映像や音像を求めては、ますます深みにはまっていく。こういうことはこれまで数え切れないくらい経験してきた。その都度あくせくしては、結局時間の経過とともに恢復することの繰り返し。『言葉の力、生きる力』がそのきっかけになるかどうかは読んでみなければ判らないが、イマジネーションの膨らみを湛えた深くて豊饒な言葉、沈黙と測りあえるほどの言葉に飢えている。

 今日、ちくま学芸文庫版の梅原猛『美と宗教の発見──創造的日本文化論』【¥1400】を購入。梅原日本学の原マグマとも言うべき処女論文集。文庫カバー裏にそう書いてある。書店で拾い読みをしていて、収録された十編のうち第二部「美の問題」の「壬生忠岑「和歌体十種」について」と「世阿弥の芸術論」をじっくり読んでみたいと思った。巻末に収録された著作集第三巻のための「自序」にこう書いてある。《私がここに「美と宗教の発見」というものは、主として密教と『古今集』である。密教に目をつけることにより、禅と浄土を中心とした従来の日本仏教観を批判すると共に、『古今集』に目をつけることによって、万葉集中心の従来の日本文学観を批判しようとしたものである。》(393頁)
 「仏教渡来以前の古代神道」への造詣や、ますらおぶりの歌集からたおやめぶりを併せ持つ歌集への「万葉観」の深化という、その後の梅原日本学の展開のことは「自序」にも書かれている。密教と和歌というと「和歌即真言」の西行を連想する。桑子敏雄『西行の風景』がなかなか進まない。空海(の詩論・言語論)への関心もしだいに高まっていく。講談社学芸文庫の内藤湖南『日本文化史』上巻に空海をめぐる一章があった。気持ちが逸るが、ここで自戒の言葉。砂糖水が飲みたければ砂糖が水に溶けるのを待たなければならない。

★11月8日(火)

 『生命記号論』をめぐって先週書き残した話題を続ける。本書を読みながら、しきりに養老孟司『人間科学』を想起していた。(そういえば『人間科学』を読み終えたときも『生命記号論』の場合と同じ物狂おしい気持ちになったものだった。「養老孟司とはいつか決着をつけなければ」と威勢のいい言葉で始まる書きかけのファイルが今でもパソコンのデスクトップに置いてある。)
 たとえば、養老孟司は「細胞‐遺伝子」と「脳(社会)‐言葉」の二つの情報系を比較しながら、細胞と脳をひとまとめにして情報の翻訳・複製装置を含んだ「システム」と定義し、遺伝子と言葉という「情報(より正確には記号)」と対置させている。
《さてこのように定義したときのシステムと、情報の違いはなにか。じつはシステムは生きて動いているが、情報は固定している。そこがいちばんはっきりした違いである。細胞は生きて動いているから、おそらく二度と同じ状態をとることはない。脳あるいは脳を含む個体も、まったく同じである。脳は二度と同じ状態をとらない。》(『人間科学』37-38頁)

 これとほぼ同様の議論がジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』に出てくる。ニワトリが先か、タマゴが先か。「DNAは生体のデジタル化された自己記述である」のか、むしろ「生体の方がDNAのアナログ化された自己記述と見なされるべき」なのか。現在の知識ではこの二つの可能性のいずれも排除することができない。
《…私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、「自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。なぜなら、もしDNAがそれ自身のコピーに過ぎなかったなら、DNAの「メッセージ」は何の意味も持たず空虚なものであろう。逆に、もしDNAにその増殖が保証されていなければ、生体のメッセージについて語るべきものは何もない。カテゴリーと感覚認識についてのこの有名なねじれ現象はカントに負う。人はこれをカント哲学の問題と見るかもしれないが、私はそうではない。同じ問題が生き物一般の内にも認められる。/生命はこのデジタルとアナログの二つの形に託されたメッセージの間の記号論的相互作用に依っている。言い換えるならそれは記号双対性とも言うべきものである。生物の中ではこの二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己」である。人間における自己が肉体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原形質とDNAの両方から成る。》(『生命記号論』78-79頁)

 このほかにも「科学は何であれ、多かれ少なかれ、その科学に固有な現実を持つ」(14頁)という指摘や第6章「自己の定義」での免疫系をめぐる議論など、養老人間科学との接点はいたるところに見つけることができる。そもそも本書を購入したきっかけは、有限会社養老研究所主催の第1回養老孟司シンポジウムの記録を収めた『脳と生命と心』に四冊の必読本の一つとして掲げられていたのを見たからだった(たぶん)。だから養老孟司と『生命記号論』はもともと縁が深い。(他の必読本は茂木健一郎『脳とクオリア』と計見一雄『脳と人間』とラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』。これでようやく三冊目を読了したわけだ。ちなみに第2回養老孟司シンポジウムでの講演をまとめたのが野矢茂樹『同一性・変化・時間』)。

★11月9日(水)

 くどいが『生命記号論』の話題。この本の抜き書きをやり始めたら止まらなくなりそうなので、一つに限定しておく。第9章「意識の統一 意識 脳の中の肉体の統治者」で神経生物学者ガザニガが引用されている。「私たちの脳は、多くの知的システムが連邦と考えてよいようなものの中で共存する組織である。」(189頁)「人間の心は心理学的性質よりも社会学的性質を強く持っている。」(192頁)
 ホフマイヤーは、「もし私たちがガザニガを信じようとすれば、私たちの内部には場合によっては何千もの独立した脳のモジュール(考えるものの集団でもよいが)が働いていることになるが、それではどうして私たちは自分の意識を統一された一つの総体として感じることができるのであろうか」と疑問を提出し、自ら回答している。
《これへの明白な解答は、こうした脳のモジュールもしくは考える集団の成員全てが共同して働いており、一つの同じ身体と相互作用しているためである、とするものだ。肉体はいつでも一つの現実の命、一つの真実の物語に包まれている。私が言わんとしているのは、意識が神経学的現象だとしても、その単一性は肉体の持つ歴史的な一体性から生じているということである。意識とは脳内に座す肉体の統治者である。
 何が起きているかというと、人間の生活のそれぞれの瞬間において、身体は、それまでの人生に根ざした物語、更にはその瞬間にも当の個人を含む物語に即して、周囲の状況の解釈に影響を与える。この解釈のことを、私たちは意識と感じているのである。》(193頁)
 ここに「記号を表すもの=環世界」「その対象=意識」「記号の解読者=身体」という三項関係が成り立っている。すなわち「意識とは肉体によるその環世界の解釈である」(195頁)。

 このことに関連して(いるのかどうかよく判らないが)、大澤真幸の『思想のケミストリー』に収められた「巫女の視点に立つこと」を想起した。馬頭観音像で遊ぶ子供を咎めた別当が病んだ。巫女に聞いたところ、観音様が子供らと楽しく遊んでいたのをお節介したのが気にさわったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。この『遠野物語』に採録された説話を素材として、大澤真幸は、社会学をすることは共同体の中にあって巫女の視点に立つことであると言う。
 別当の病は、身体・行為の水準(観音様も楽しく遊びたいはずだ)と言語・意識の水準(観音像=超越性を粗末にしてはならない)の不一致を示す現象である。「〈社会学する〉ということは、つまり社会的な秩序を結節する経験の構成を認識するということは、まさにこの[マルクスの]「人々はこれを意識しないが、しかし、これを行う」と言われるときのその行っていることを見ることにほかならない。」(246頁)
 大澤真幸の議論はまだつづくがこのあたりで止める。『生命記号論』とどう関連している(と私は思った)のかよく判らなくなった。松野孝一郎の訳者あとがき「記述の限界とそれへの開き直り」に出てくる「内部記述」に結びつけて何か考えたかったのだろうと思うが、これはまた別の機会に。

★11月11日(金)

 玄有宗久『御開帳奇譚』【¥467】と黒沢美貴『ふしだらな左手──ルージュマジック』【¥495】を購入。『ふしだらな左手』を読了。睦月影郎はすこし飽きてきたし、草凪優の新刊もでていたが新しい書き手を開拓したいと思った。作者はたぶん女性だと思う。お気軽でバカっぽい設定と後をひかないストーリー展開がとてもさわやかで新鮮。
 『御開帳』は官能小説と間違って買ったのではない。文春文庫の解説を茂木健一郎が書いているから買ったのだ。茂木健一郎の解説「揺れ動き、見えた光」は上手すぎる。この人の文章が達者なのは昔から知っていたが、ここまで上手く書かれるともう何も言うことはない。何も言わなくていいのだが、あまりにプロっぽい文章は過不足がなさすぎて、評言がぴしっと決まっていて、絶句するほかない。易々と消化されてしまって後に何も残らないので困るのだ(何も残らなかったわけではないが)。文学論『クオリア降臨』(11月)とファンタジック・エンターテインメント『プロセス・アイ』(12月)の刊行が予告されている。ファンとしては待ち遠しいが、少しこわい。
 玄有宗久の小説を読むのは初めて。この人の『禅的生活』は『俳句的生活』(長谷川櫂)とともに読まずに大事にとってある。読まずに常備しておくという読み方もあるのだ。そうはいっても、もうそろ読んでもいいかなと思いはじめている。機が熟しているかどうかは読んでみて判断すればいい。まだ早いと気がついたらその時点で止めればいい。現代作家の小説はあまり読まないので、誰か人を決めてなかば強制的に読み込んでみようかといつも思っている。それで阿倍和重の『ニッポニアニッポン』を買ったが手がついていない。玄有宗久を読んで面白かったらつづけて読んでみよう。

★11月12日(土)

 ほとんどの新書、いくつかの文庫、選書、叢書の新刊は毎月書店で実物をチェックしている。たとえば三浦展『下流社会』など立ち読みで即買と判断したものはやはりその場で買っておかないと、いつの間にかベストセラーになって内容がすっかり世に知れ渡りとうに読んだ気になってしまっていまさら買い求めるのが億劫になる。購入したとしても諸般の事情で後回しにしているうち自腹を切った勢いというか元を取るという意欲が失せて、読めばきっとハマルと判っているのにどういうわけだかバリアが高くなってしまうものもある。最近では講談社選書メチエの今村仁司『抗争する人間』(3月)や斎藤慶典『レヴィナス』(6月)などが恨めしげに本箱に並んでいる。
 この選書メチエは毎月新刊をチェックしているものの筆頭格。中沢新一の「カイエ・ソバージュ」をはじめ名作が目白押しで、昨年読んだ實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』などあまりにベタなタイトルに一瞬怯んだものの、メチエの後光の後押しをうけて資料を買い込むつもりで入手したらこれが大変なヒットだった。川崎謙『神と自然の科学史』【¥1500】も一度は見送ったものの、もしかしたら實川本の再来かと突然ひらめき購入し、ざっと全体を眺め勘所と思われる箇所を摘み読みしてみたら予想通り、いやそれ以上の刺激・感銘が期待できそうな本だった。

 著者の専攻は教育学部の理科教育講座で、本書執筆の動機は、西欧自然科学と「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っているわけではない)とを歴史的眺望のうちに置いて比較し、これら異文化相互の会話を促すことにある。(比較のためには共通の視点が必要だが、著者が依って立つのは文化現象を言語に還元するという意味での「構造主義」、とりわけ丸山圭三郎の言語哲学である。)
 それ自体は無意味な世界である「素材の世界」に意味や秩序をもたらすもの、逆にいうと意味や秩序をもったもの(西欧における「ネイチャー」や日本における「自然」)として世界を認識させる思考の枠組みが「ロゴス」(西欧)であり「諸法実相」(日本)である。ロゴスは「世界[ネイチャー]は数学的に記述されなければならない」(198頁)と要請する。これに対して諸法実相は、とりわけ「実相[イデア界]は諸法[現象界・物質界]なり」とする道元以来の枠組みのもとでは、自然は「人智ノ察慮・量測スルコト能ハザル」(安藤昌益『刊本・自然真営道』に寄せた門弟の序:114頁)ものとされる。
 ロゴスの枠組みのもとにある西欧自然科学を著者は次のように定義する。《西欧自然科学とは、創造主である“Logos”がその心の内なる観念(“Logos”によってのみ認識可能なイデア)によって創造し、本質的にはイデア(数=“Logos”)によって秩序付けられた万物を、理性である“Logos”によってのみ認識されるイデアとして表現する知的営み。》(87頁)
 これに対応する「日本自然科学」の定義は、本書を一瞥したかぎり明示には与えられていない。日本語を母語とする自然科学的思考の歴史とその現代における(再生もしくは制作の)可能性。著者の意図はそこまで及んでいないように思える。これらのことは今後の熟読を通じて確認し、必要に応じて考察してみることにしよう。とりわけ関心をひくのが、西欧自然科学のもとでの実験(創造主の秘密の直知=ひらめき)と諸法実相の枠組みのもとでの実験(自分で実際にやってみる)との相違だ。

★11月13日(日)

 『物質と記憶』の第二章を読み終えた。軽いハイが訪れた。この本は音楽の様式で構成されているのではないか。全四楽章の交響曲。冒頭に三つの仮説(「記憶力の二つの形態」「再認一般について。記憶心象と運動」「記憶から運動への漸次的推移、再認と注意」)を提示し、順次この見取り図にそって叙述を進めていく第二章はさしずめ組曲か。いや、三つの仮説が微妙な言い換えもしくは漸次的深化を通じて運動[第一章]から記憶[第三章]への移りゆき(135頁)を段階的に進行させていると見れば変奏曲か。
 そんな連想がはたらいたのは、このところにわかに「音楽の秘密」への関心を高めているからということもあるが、それよりもなによりも第二章の後半の叙述のそこかしこで音楽の比喩が頻繁に用いられているからだ。ここで主題的に論じられているのが「聴覚の印象」(125頁)であり「語の聴覚的記憶」(144頁)であり「精神的聴力」(147頁)であるというのだから、それも当然のことなのかもしれないが、いま前後のつながりを無視して言葉だけを拾うと、「前奏曲」(133頁)「ある主旋律の個々の音調」(135頁)「巨大な鍵盤」「無数の音符」(146頁)「無数の弦」(147頁)「内的鍵盤」(148頁)「序曲」(149頁)といったぐあいである。
 そうした表面的なことだけでなくて、たとえば「反省的知覚は直線ではなくて閉じた回路である」云々の議論のところで、対象Oの上方に知覚がかたちづくる複数の円環(伸縮自在な記憶力はそこにはいりこむ)と対象Oの下方(背後)に潜在的記憶がかたちづくる複数の円環の図(121頁)が出てくるが、これなど倍音と残響の効果に彩られた音楽体験そのものを図解したものなのではないかと思う。あるいは、「それは空虚な器であり、その形によって、流れ込む液体の向かっていく形を決定するのだ」(139頁)と言われる「運動的図式」とは、音楽(液体=記憶心像としての聴覚的イマージュ)を聴き取るときの身体の構えのことなのではないかと思う。

 とりわけ興味深いのが、聴覚的知覚(印象)と聴覚的イマージュ(記憶心像)と観念(「記憶の奥底からよび起こされる純粋記憶」143頁)という「三つの項」(140頁)をめぐる議論である。聴覚体験とりわけ「言語的イマージュという特殊なイマージュ」(148頁)をめぐる「純粋な経験」(140頁)について、世の人は一般に「知覚⇒記憶⇒観念」という進行を想定するがこれは間違っている。
《すでにのべたように[133-134頁]、私たちは観念から出発し、運動的図式にはまり込みながら聞こえる音に重なっていく力をもつ聴覚的記憶心像へと、その観念を発展させる。そこには、観念の雲が判明な聴覚的イマージュへと凝縮していき、聴覚的イマージュはなお流動的であるにしても、ついには物質的に知覚される音響と癒着して固まろうとする連続的な進行がある。》(139頁)
 音楽とは純粋記憶(観念)である。いや、『物質と記憶』そのものが音楽のことを論じている。だとすると、音楽とは生体の活動そのものである。音楽とは、ジェスパー・ホフマイヤーが『生命記号論』で言うところの記号過程である。音楽とは、また「物語の論理」である。筆が上滑りしているのは承知の上で、もう一言書いておく。ベルクソンの「三つの項」をホフマイヤーが引用する「パースの一般的な記号の三項関係」にあてはめるとどうなるか。「記号を表すもの=観念,その対象=知覚,記号の解読者=記憶」と「記号を表すもの=記憶,その対象=知覚,記号の解読者=観念」のいずれかなのだろうか。

     ※
 前後の脈絡は省くが、『生命記号論』に「物語の論理」(215頁)という言葉がでてくる。これを読んだとき、物語(の論理)とは音楽のことを言っているのではないかと考えた。物語とは音楽のことである。音楽とは記号過程である。これだけだと何を言いたいのかまるで判らない。実際、閃いた(というほどのことかどうか)のはもう十日も前のことなので、当の本人にとっても何のことやら曖昧模糊・意味不明になっている。
 同時に、物語=音楽=意識といった連想(たぶん木村敏がしばしばとりあげる合奏の比喩の影響)も働いていたように記憶しているし、臨床とは輪唱であるといった使い道のない命題(たぶん森岡正芳『うつし 臨床の詩学』の影響)も浮かんでいたのだが、それも今となっては不分明・不鮮明だ。幸い(というほどのことかどうか)簡単なメモを残していたので、それを頼りに『生命記号論』の関連箇所から素材を抜きだしておく。いずれも比喩にすぎないと言ってしまえばそれまでのことだが。

◎指揮者のいないマタイ受難曲──あるいは発生は発声である
《本書の初めの方で、私はDNAの暗号を料理の本に書かれたレシピにたとえた。だが、もっと適切な比喩は大編成の合唱曲の譜面に見ることができる。胚発生は実際、同時に遺伝子を読み上げる、多数の「声」によって遂行される。ここの発声を互いに調整し、全体を合唱の形に統一させるのがこの発生過程である。そうであるからこそ、遺伝子の解釈に荘重さが現れて来る。
 胚発生では、個々の組織は正確に調律されており、組織間の統合は絶妙な協調効果によってもたらされる。要するに、個体発生過程において、指揮者に当たるものは見つからない。個々の「歌手」あるいは「演奏家」は組織ごとに、私たちがまだおぼろげにしか分かっていない相互伝達過程を通して、その全体調整を行う。いずれにしろ、ゲノム(遺伝物質の総体)はただの譜面にすぎず、どうひいき目に見ても指揮者にたとえられはしない。いずれにせよ、それは指をぱちんとならしただけで全てが調整されるようにはなっていない。聖マタイの情熱(Saint Matthew Passion)の合唱演奏の場面を思い出していただきたい。》(76-77頁)

◎意識は物語である・意識は記号過程である
《私の示唆するものは、脳のモジュールと身体の間に私たちの身体の機能を一秒ごとに面倒を見ている記号過程のループと全く同じものが、意識的な統一の中にも入り込み、私たちの環世界の断片を意識に換える際の選択過程を担っているということだ。(略)意識の一定の流れを作り出すことで、あるいは身体が私たちの環世界を解釈すると言うことによって、私は当然、身体は一つの群れ集まった実体、記号過程を行う身体‐脳システムの全体であると考えている。私たちが私たちの身体で考えているという事実は、意識(そして言語)は物語でなければならないことを意味する。肉体の活動、あるいはそれと等価な基本行動が、私たちの知性や意識の源泉なのである。
 そこで私は意識を純粋に記号過程による関係として見ることを提案する。意識とは身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものである。
 しかし、もし意識をこのように想像上の物語として精神空間の内に配され、そこで意味のある繋がりが為され、絶え間ない自己言及によって構成されるものであると見なすなら、この意識はどうやって私たちの思考や行動に影響を与えることができるのだろうか。答えは簡単だ。意識はいわばオン、オフの切り替えをするスイッチとして働くのだ。》(195-196頁)

◎意識のキーボード・神経ペプチドの音色
《内なる記号圏におけるコミュニケーションの手段のうち最も興味深いものは…神経ペプチドである。人間の知性が集団からもたらされるとするこの議論の結論を述べるうえでの例として、神経ペプチドについてみていこうと思う。簡単に言うと、神経ペプチドは小さなシグナル分子で、それと結合するレセプターを持った細胞によって認識されるが、この種のレセプターは身体‐脳全体を通じてたくさん存在し、それが脳と免疫系を統合するインフォメーション伝達のネットワーク、精神身体ネットワークの基礎を作る。
 もし私たちがここで、脳が意識のキーボードの旋律を常に監視し、身体や脳の特定の腺や部分にメッセージとして伝えられるオン/オフの指令のパターンを解釈していると想像すると、神経ペプチドはこれらの指令を履行するためにデザインされた多くの楽器のうちの一つと見ることができる。例えばこれは、体内の特定の部分における、神経ペプチドそのものの量(ボリューム)とそれとは異なった種類の神経ペプチドの種間関係に変更をもたらすことになる。 …アメリカの生化学者ルフはこの身体の神経ペプチドへの備えに対し、「神経ペプチドの音色」という表現を使い、ある考えを展開した。神経ペプチドは個人の気分や感情的な状態を決定するのに部分的な役割を持つと考えられているので、生化学的なレベルにおける特定の精神状態は身体‐脳における特定の神経ペプチドの音色に関連していると認めうる、というのがその骨子である。
 このことから意識、神経系、神経ペプチドの音色の間の関係は…[「記号を表すもの=意識」「その対象=神経ペプチドの音色」「記号の解読者=神経系」という]…三項関係を伴う記号として描くことができる。》(201-202頁)

★11月15日(火)

 ようやくブログ[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/]を立ち上げた。年初めに『超簡単! ブログ入門──たった2時間で自分のホームページが持てる』という本を買って(5分の1ほどしか読んでない)、4月から日記を書く「練習」もして、あちこちに予告して、ようやく今日立ち上げた。デザインや趣向を充分練って、準備に時間をかけて、開会の辞のようなものも考えて、たっぷり四股を踏んでおもむろに始めるつもりだったのに、今日、突然思い立ち、たった5分で立ち上げた。これからコンテンツを書きます。「過去分」も追々アップしていくつもり。

     ※
 ひさしぶりに『ソトコト』12月号【¥762】を買った。チビコトが二冊、CDも二枚ついている。最近買いそびれていたのは、(ローハスではなく)ロハスロハスとまるで本家争いに興じる新興宗教かなにかのように騒いでいる(失礼)のがうるさく感じられるようになったことと、「内田樹の研究室」(2005年10月19日)に『下流社会』の「愉快な人物類型」が紹介されていたのを読んだからだ。愉快なのでその部分をまるごとペーストする。
《ロハス系は「比較的高学歴高所得」であるが、出世志向は弱い。/「自分の趣味の時間を増やしたいと考えているが、とはいえ忙しいので、それほど趣味の時間が多く取れるわけではない。よって、雑誌、本などを見て代償する日々が続く。雑誌でいえば『ソトコト』『サライ』を愛読するタイプ。会社の仕事だけでなく、社会活動、NPOなどにも関心があり、環境問題についてのセミナーなどにも個人的に参加するようにしている。」(78頁)/なるほど。/「消費面では、有名高級ブランドには関心が弱いが、ひとひねりしたそこそこのものを買うのが自分らしいかなと思っている。外車が好きだが、ベンツやBMWではなく、できればジャガーやプジョーがよいと思っている。」/わかるねえ。/「品質、製造方法、伝統、文化などについての蘊蓄があるものを好む。よって無印良品もやや好き。(・・・)古本、骨董、真空管アンプ、中古家具、古民芸など、やや古めかしいアナログ趣味の世界に浸るのも好き。」/書いている人(三浦展さん)は明らかに「誰か」身近な人をイメージして書いてるね、これは。》
 ここにある「雑誌でいえば『ソトコト』『サライ』を愛読するタイプ」につい構えてしまったのだ。でも、やっぱりこの雑誌はいいし、今月号の特集「森と音楽のロハス的楽しみ方」が気に入ったので買うことにした。このところ(もしかすると『のだめカンタービレ』にはまって以来かも)音楽についてよく考えている。音楽は考えるものではなく聴くものだ。それはそうなのだが、音楽っていったい何なんだと、そういうことが気になってしょうがない。音楽の楽しみって、いったい何を楽しんでいることになるのだろう。
 本屋で平凡社の北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』を見つけた。ランダムハウス講談社から「ピュタゴラス・ブックス」というシリーズが出ていて、店頭に並んだ四冊のなかに『ハーモノグラフ──音がおりなす美の世界』があった。今日のところは買わずにおいたけれど、いずれ買って読むことになるだろう。

★11月16日(水)

 今日も音楽のことを考えている。考えているといっても、最近の私の(哲学的)確信は「考えているのは私ではない」だから、どこかから「考え」が到来するのを辛抱強く待ちながら他人が書いた文章を読んでいる。『ソトコト』に載っていた福岡伸一さんの「音楽の起源」が面白かった。この人の書くものはいつも面白い(『もう牛を食べても安心か』はとびきり面白かった)。「等身大の科学へ」の連載だけは欠かさず、『ソトコト』を買ったらいつも最初に(時にはそれが最後になることもある)読んできた。
 福岡さんは、コマドリやナガスクジラやギボンたちの求愛の歌が「音楽の初源的な形態、作曲の先駆けだったのではないか」とするライアル・ワトソンの進化論的な考え方に「徒労感」を覚えるようになったと書いている。私たちが音楽に求めるものは、進化論的なコミュニケーションの行方に思いを馳せることではなくて、もっと個人的なことのはずではないかと。いい文章なのでまるごと引き写す。
《そこで私は思い至る。私たちは音楽から感得するその呼吸と脈拍と起伏は、まさに自分自身の呼吸と脈拍と起伏そのものではないか。つまりリズムである。生命はリズムの循環に支配され、かつ駆動されている。肺の規則的な収縮、心臓の鼓動、筋肉の収縮、鼓膜のバイブレーション、神経のインパルス、セックスの律動。これらはすべて生命を刻むリズムであると同時に、私たちのいのちの実在性を確認させる音でもある。/つまり、音楽とは、私たちが外部に作り出した生命のリズムのリファレンスなのだ。》
 いい文章だ。とくに「肺の規則的な収縮、心臓の鼓動、筋肉の収縮、鼓膜のバイブレーション、神経のインパルス、セックスの律動」はまるで詩文のようだ。こんな文章をくりかえし読んでいると、それはいつか私の「考え」になっていく。(福岡伸一さんと茂木健一郎さんは、そういう、私にとってのいい文章を書く科学者の双璧。)
 しばらく『ソトコト』から離れていたとき、そのかわりに購読していたのが『風の旅人』で、「人間の命」を特集した15号に「ことばのルーツとしての音楽」が載っていた。霊長類研究学者・正高信男さんの連載「ことばの起源」の後編。人間の感覚性言語中枢の情報処理は、音楽をベースにしている。だから人間の言語学習は、ことばを音楽として知覚するところからスタートする。前後の文脈は忘れたが、この結論部分だけは印象深く残っている。
 音楽は深い。で、北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』【¥2200】を買ってきて、さっきからずっと目次を睨んでいる。音楽における宇宙論の復活といった話題が最後に出てくるらしい。いまBGMに流している細川俊夫(『観想の種子』)の名もちらと見える。本を読む前のこの一瞬がいつもとても好きだ。もうずいぶん久しく行っていないコンサートの開演を、パンフレットを眺めながら薄暗い観客席で待っている時の感覚を思わせる。

★11月17日(木)

 森岡正芳『うつし 臨床の詩学』読了。後味のいい本だった。透きとほった静謐感。しんしんと降り積もった透明な雪片が、まるで無数の倍音をはらんだ音の粒子のように、自らの抽象的な重みと戯れている清涼な沈黙のざわめき(なんのことだか)。読み終えたのは先の日曜だから、もう四日経っている。すぐに感想を書かなかったのは、この作品の本歌の一つ、坂部恵『仮面の解釈学』を一瞥しておきたかったからだ。
 『仮面の解釈学』は実に面白い。その昔、読み初めて早々、叙述のあまりの深甚精妙ぶりにすっかり興奮し舞い上がってしまったことがある。まだ機が熟していない。私自身がもう少し熟成しなければ、この本に呑み込まれてしまう。その時はそう思って、わずか数十頁で封印した。以後、大切に保管していたはずがいつの間にか行方不明になり、二冊目を買って常備しておいた。今度は、終章「しるし・うつし身・ことだま」から読み始めた。実に面白い。あまりの刺激に我を失いそうになる。なにもかも放り投げてこのまま読み耽ってしまいそうになる。耽ってもいいのだが、そのまま揮発してしまいそうでこわくなる。度数の高い酒を飲みこなすには体力が要る。
 ほとんど酩酊状態で「しるし」の五節分を読み終えて、『うつし』の多層性を帯びた構造がくっきりと浮き彫りになった。この本は序と五つの章からなるのだが、それが「しるし」の五節、つまり「わたしたちの生死往来の場である、しるし(兆・徴・験・記・印)と著[しる]きあらわれ[現象]のことなり[差異・事成り]の境位を、究極のところで領[し]るもの」(『仮面の解釈学』176頁)の五つの相転移の様をかたどっている。
 未読の「うつし身」も五節で構成されている。これを読むともっと深く冥い世界を覗き込むことになるかもしれない。そのまま帰ってこられなくなるかもしれない。いまこのままで『うつし』に決着をつけておくか、もう少し『仮面の解釈学』を読み込んでからそうするか。にえきらないままに時間が過ぎていく。

★11月18日(金)

 三日坊主という言葉がある。何事であれ三日も続けばたいがいは全うできる。そういう意味だと理解している。禁煙だって三日もてば立派ということ(これは違うか)。せめて三日は連続更新しようと腹をくくってブログを立ち上げ、満願成就したので今日は一休みするかと思っていたけれど、やはり書きたい。ブログを書くために本を買ったり、無理に読んだり、なにか感想をでっちあげるのは本末転倒。でも、よほどのことがないかぎり毎日いくらかは活字を読み、あれこれ思いをめぐらせたり思いを見失ったりして過ごしているのだから、書き残しておくことは、けっして誇張ではなく無尽蔵にある。(黒猫さんの「ブログ中毒」警報、栗山さんの「日々更新依存症」注意報がいよいよ現実味を帯びてきた。それにしても、こういうことを書くのは、われながら初々しい。)

     ※
 仕事帰りの行きつけの本屋で新刊本を漁っていて、講談社から出ている『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』【¥2000】を見つけた。「死後42年たって新発見された幻の日記」「真の信仰を希求する魂の記録」「“隠された意味”は何か!?」。腰巻きに綴られた大仰なコピーを見て、迂闊にもウィトゲンシュタインをダシにした安手のフィクションだと思ってしまった。「イルゼ・ゾマヴィラ編 鬼界彰夫訳」。この聞いたことのない編者の名や、いかにもつくりものめいた訳者の名(と、仕事疲れの頭で粗忽にも思ってしまった)を見て、ますますその確信が高まった。
 ウィトゲンシュタインが登場するフィクションというと、テリー・イーグルトン『聖人と学者の国』やジョン・L・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』や山田正紀『神狩り』を思い出す(というか、私が読んだのはこの三冊だけ)。いずれもウィトゲンシュタインのある一面だけを誇張してとりあげていたように記憶しているが、フィクションとしてはそれなりに、イーグルトンのものは変則的な思想書としてとても面白かった。(「ある一面だけ」などと知ったようなことを書いたが、ウィトゲンシュタインの複数性に通暁しているわけではない。)
 とにかく、装幀の印象もふくめて、新手のフィクションと勝手に思い込み、それでも気になって手に取ってみて、ようやく勘違いにきづいたわけだ。鬼界彰夫といえば、あの傑作『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の著者だった! 私の部屋の蔵書数を限定した(あまりたくさんの本を収納できない)本箱に、二冊だけ常備している現代新書のうちの一冊がこの本だ(他の一冊は、入不二基義『時間は実在するか』)。
 そういうわけで、ひさしぶりの速攻買い、別名衝動買いで手に入れて、家に帰ってぱらぱら頁を繰ってみると、この日記の解読を通じてウィトゲンシュタインという新たな哲学者が(鬼界さんの前に)登場したと書いてある(318頁)。この「日記が後期ウィトゲンシュタインの宗教性という、拙著[『ウィトゲンシュタインはこう考えた』]においてすっぽり抜け落ちていた部分に関して決定的な内容を持っていることを知」(321頁)ったとも。巻末には「隠された意味へ」と題された40頁ほどの訳者解説もついている。気持ちが騒ぐ。(でも、いつ読む?)

★11月19日(土)

 季節の変わり目の浅い鬱に身心の困憊を覚えはじめ、なにか心を清らかにしてくれる文章を読みたくなり、森岡正芳の『うつし 臨床の詩学』を買ったのが先月末のこと。体調を崩して「風邪をひきました」と医師に告げ「病名を決めるのは医者の仕事だ」と説教されたことがあるが、「季節の変わり目の浅い鬱」などと素人診断をくだすと臨床心理士や精神科医に叱られるかもしれない。でも、人は誰でも自分の心の専門家(本書にそういった趣旨のことが書いてある)なのだから、他人にとやかく言われることはない。この本を読み終えた頃にはすっかり気持ちと身体が元気になっていたとしても(実際そうだった)、それはたまたま自然恢復と重なっただけのことかもしれない。たとえそうだとしても、浅い鬱におそわれた時にどういうことをすればいいのか、どのような本を読めばいいかは、私にしか判らないことだ。

 心理臨床の現場で起こっていること、つまりクライアントとセラピストの対面・会話の場がひらく「中間世界」における言葉と感情の重なり合いと変様の推移を丹念に綴った書物。そこに立ち上がる発生状態の主観性と自己性、そして「他者の私の生」(21頁)を「飼いならし」ながら、受動相(pathema)から行為相(poiema)へと転換していく様を「うつし」という語の多義性──写し、映し合い、移し換え、移りゆき、あるいは転移[うつし:52頁]、再現[うつし:183頁]、制作[うつし:209頁]、等々──に寄り添いつつ詩的に、繊細に、理[ことわり]と感[うご]きが同じ一つの糸で縫い込まれた断章の積み重ねを通じて記録した書物。
 とりわけその叙述のスタイルが素晴らしい。一続きの論述を微細に分節し、優れたセラピストの合いの手を思わせる印象的な節名や見出し(たとえば「話しかけるとき私はそこにいない」)を付しながら、概念(精神性)の独り歩きを慎重に退け、同時に感情(生命性)の自閉を解きほぐす。感情を湛えた概念と概念を孕んだ感情。概念は瑞々しさを失わず、感情は十全に物語られる。
 この叙述のあり様そのものが、「飼いならす」という本書のキーワードにつながっていく。そして、本書の基調をなす「うつしの構造」(西谷啓治「空と即」から著者が切り出したもの)をかたどっている。──人と人、人と事物、概念と感情の出会いの局面において「AがBに自らをうつすとき、それはBのうちでAとして現象するのではなく、Bの一部として現象する」(20頁,162頁)。
 それと同じことは、人と本との出会いにおいても生じる。すなわち「私がその文章を読むのではなく、その文章において私があらわれる[本のなかに私が書き込まれている]」(145頁)という主客反転の感覚。そこにおいて私があらわれる本とは、たとえば「記憶」であろう。玄侑宗久は「御開帳綺譚」で「我々僧侶が供養しているのは、結局のところ記憶ではないのか」(文春文庫『御開帳綺譚』50頁)と書いている。この「供養」のことを森岡正芳は「共有体験[シェアリング]」と呼ぶ。臨床とは輪唱である。
《過去の記憶を過去のものとしてふりかえるだけでは人は癒されない。それを誰かに語り、再現する。そこに十分につき添う他者との再現[うつし]の場が必要である。再現[うつし]をそれがある場において探求し、その道行きに他者が参加し共体験すること。このような再現[うつし]の力を借りることが必要である。
 思い出を語るという想起のあり方は、語られながらそこで語られていることを生きているようにみえる。語っている時間と語られている思い出のなかの時間が重なり合う。一つ一つの出会いやふれ合いを再創造する。このような再創造は過去遡及的であるが同時に、今この場において未来への見通しをあたえてくれる。そのような時間のなかで、その人がどこかに追いやっていた「私」が動き出す。》(183頁)

 著者の紡ぐ言葉は美しい。とりわけ感銘をうけた「対話的倍音」と「中間世界」の語が出てくる文章を抜き書きしておく。(「対話的倍音」は「概念のポリフォニー」や「連歌的想像力」に、「中間世界」は坂部恵の「あわい betweenness-encounter」にそれぞれ重ね合わすことができる。)

《私たちは理解しようとする相手の発話の一語一語の上に、自分が答えるはずの一連の言葉を積み重ねる。相手の言葉に対して、話者がさらに声を重ね合わせていく。新たなイントネーションが付け加わっていく。また相手の言葉との衝突を通じて、話者によって強調点の置き換えや省略、意味の付け加え重ねあいが生じるのである。
 このような対話関係のなかで──声と声が重なり共鳴しあい、あるいは衝突するなかで──新たな意味や連想が生まれてくる可能性を「対話的倍音」(dialogical overtone)と呼ぶことができる。(略)
 話者は相手の言葉を引用しつつ、そこに新しい意味を含ませながら、なおその意味がすでにもっていた意味を保持しておくということもできる。言葉はいくつもの言葉の交錯であり、その言葉のなかに対立する感情も同時に包含することができる。》(119-120頁)

《セラピーの場面には、多様かつ根源的なうつしの営みが含まれている。それは生命性と精神性の相克、あるいは創造的な交叉という問題に集約される。生命性のもつ直接的で一次的な持続は体験の下地を支えるものであるが、人間の精神は必ずしも生命の方向性と一致しているとはかぎらない。うっかりすると、生命性からの解離に精神が加担してしまう。また心身に負荷のかかるストレスや外傷的事象に接すると、体験の下地は荒らされてしまう。セラピーで対応が求められる状態の背景の多くにはこの問題が潜在するようだ。
 その回復への手がかりは生命性の世界にもどるということ、自然のあるがままを受け入れるということなのだろうが、そう簡単なものではない。その探求にあたっては「うつし」という言葉の多義性そのままに、生活や文化の多面的な様相に入り込む必要が出てきた。人ともの、心と身体の交叉するところ、生命と精神、覚醒世界と眠りの世界の交錯するところ、生活世界と夢や空想イメージ、仮構物の交互作用の生じる場がある。さらに自己と他者が交感する接触面、そしてある出来事とそれとはまったく別の系列の出来事の交錯するところ、過去をふりかえり語るとき、今この場に似たものがふたたび現れたり、生きた体験がテクスト世界に転換[うつ]されたときに新たな意味世界へと跳び越えたりと、これら中間世界の魅力は限りないものがある。このような場に生じるうつし合いを通じて、人はそれまでとは違った意味空間に移りゆく。それは日常世界のなかに詩的瞬間を胚胎するところとなる。》(215-216頁)

★11月20日(日)

 『物質と記憶』独り読書会。いよいよ第三章「イマージュの残存について──記憶力と精神」。今日は冒頭の二節、「純粋記憶」と「現在とはなにか」を読んだ。ここに書かれていることは、実はもうすでに知っている。ベルクソンの叙述の進め方そのものが、叙述の内容をかたどっているからだ。《まずそれは私の過去にくい入っている。「私が語っている瞬間は、すでに私から遠ざかっている」からだ。またそれは未来にもくい入っている。未来へこそ、この瞬間は傾くのであり、未来へこそ、私は向かうのであって、もし私にこの不可分の瞬間、すなわち時間の曲線の無限小を、確定することができるものならば、未来をこそそれはさし示すであろう。だから、「私の現在」とよぶ心理的状態は、同時に直接的過去の知覚でもあり、直接的未来の限定でもあるのでなくてはならない。》(156頁)。

 ベルクソンは「これほど簡単で明白な、つまるところ常識の思想にすぎない真理を、どうしてひとは見誤るのだろうか」(157頁)と嘆き、「いさぎよくあきらめることが肝心である」(159頁)と「ひと=大方の心理学者」に最後通告をつきつけている。感覚(知覚)と記憶との本性上の違いを見極めよというのである(これと同様の異議申し立ては、実はすでに第一章で、実在論と観念論に共通する錯覚、すなわち知覚と思弁的関心=純粋認識との質的同一視に対して差し向けられていた:32頁)。
《しかし、記憶と知覚との間に程度の差しか設けないという幻想は、たんなる連想説の帰結より以上のもの、哲学史上の一偶発事より以上のものである。それは深い根をもっている。それは、根本においては、自然と外的知覚の対象にかんする偽りの観念に基礎をおいているのだ。ひとは知覚に、純粋な精神のためのたんなる教示しか見ようとせず、これをまったく思弁的な関心をもつものとのみ見なそうとする。ところで、記憶はもはや対象をもたぬ以上、それ自身、本質上、この種の認識であるところから、ひとは知覚と記憶との間に程度の差しか見いださず、知覚は記憶を押しのけて、ひたすら強者の法律により、私たちの現在を構成するようになる。しかし、過去と現在との間には、たんなる程度の差より以上のものがある。私の現在は私の関心を占めているもの、私にたいして生きているもの、要するに私を行動へと促すものであるのに、私の過去は本質的に無力である。この点にとくに注意しよう。私たちが「純粋記憶」とよぶものの本性は、現在の知覚とそれを対比することで、すでにずっと理解しやすくなることだろう。》(154-155頁)
 これを読んで私は、中島義道さんの『時間を哲学する』を想起した。《いきなり宣誓しますが、私は知覚ではなくむしろ想起こそ「心身問題」のモデルだと思っております。それをみな知覚の場面で論ずるから、答えられないことになる。心身問題の原型は想起、すなわち「刻印」というブラック・ボックスにおける現在と過去との関係なのですが、知覚をモデルにしたとたんに心身問題を引き起こす張本人である「時間」は消去されてしまい、大脳の〈ウチ〉に想起の「場所」を求めるというあたかも空間論のようなかたちをとってしまうのです。》(101-2頁)

 今日読んだところは上に引用した文章に尽きているが、二、三思いあたったことを書いておく。
 その一。流れと切断について。「私の現在は、本質上、感覚=運動的なのである。これはつまり、私の現在が、私の身体についてもつ意識にあるということである」(156頁)。この命題を提示したあとで、ベルクソンは(伝導体としての)身体をめぐってこう書いている。「現実そのものである生成のこの連続の中で、現在の瞬間というのは、流れていく流体に私たちの知覚が行なうほとんど一瞬の切断からなるものであり、この切断こそまさに私たちが物質的世界とよぶものなのだ」(157頁)。これを読んで、木村敏さんの「一人称の精神病理学へ向けて」(『関係としての自己』)を想起した。たとえば次の文章([]内は引用者)。
《時間性という観点から観れば、ヴァーチュアルで非人称的な自他未分の状態は、いわば時間以前の相のもとにある。一方リアリティとしてノエマ化された[三人称的な]自他分立の状態は、そのつどすでに分離の成就した現在完了的なあり方を示す。そして前者から後者への移行そのものであるアクチュアルな[一人称的な]発生期状態は、つねに瞬間的かつ現在進行的という一見矛盾した時間性格をもっている。このアクチュアルな生成過程が、ヴァーチュアルで前時間的な状態からリアルな完了態[物質的世界]へのそのつどの移行であるかぎり、それは、このヴァーチュアルな状態からつねに一瞬遅れて経験される。》(『関係としての自己』257頁)

 補遺。『関係としての自己』の最後に収められた「未来と自己」に、ヴァイツゼカーの「プロレプシス(Prolepsis)」という概念が紹介されている。それはあらゆる生きものが非意識的で身体的・生理的な仕方で未来を先取りする機能を指している。冒頭に書いた「ベルクソンの叙述の進め方そのものが、叙述の内容をかたどっている」にも関連してくると思うので、抜き書きしておく(本を書く=読むことと生きること)。
《有機体の感覚運動機能によって環境世界との生命的な関係が一貫して維持されている状態を、ヴァイツゼカーは「相即」と呼ぶ。有機体と環境との物理的な関係は絶え間なく変化しているから、相即はそのつど新たに作り直す必要がある。有機体が相即の中断という「危機/転機」をそのつど乗り越えて、環境世界との関係を維持しているかぎり、有機体は「主体」として環境世界と対峙して生き続けることができる。そしてこの相即は、有機体が過去をそのつど現在に組み入れてゲシュタルトを構成するアナムネシスと、絶えず未来を先取りするプロレプシスの機能によって維持されている。》(『関係としての自己』277頁)

 その二。数学について。「すでに流れた時間は過去であり、時間が流れつつある瞬間を、私たちは現在とよぶ。しかしここで問題なのは、数学的点ではありえない。なるほど、たんに考えられるだけの観念的現在というものもあって、過去と未来とをへだてる不可分な境界をなしている。しかし現実の、具体的な、生きられる現在、私たちが過去の知覚について語るときに語っている当のもの、これは必然的に持続を占めるものだ」(155頁)。
 ここに出てくる「数学」という語が気になる。数学とはマテーシス、つまり「誰でも知っていることを間違いのないはっきりとしたことばで語ること」である(中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』からの受売り)。だとすると、数学には二種類あるのではないか。数直線上の点としての現在(「観念的現在」)にかかわる数学と「常識の思想」が教示する現在(「持続」)にかかわる数学。「流れ」の数学と「切断」の数学。具体的な数学と抽象的な数学。ベルクソンと数学は、『物質と記憶』独り読書会の中心的テーマの一つだ。

 その三。純粋という言葉について。純粋知覚や純粋認識をはじめ、「純粋認識」(32頁)から「純粋感覚」(158頁)まで、『物質と記憶』には純粋という言葉がいたる箇所に出てくる。このことに関連して、檜垣立哉さんが『西田幾多郎の生命哲学』序章の「西田の思考の世界的同時性」をめぐる文章(22頁?29頁)のなかで、19世紀から20世紀のはじめにかけて生じた「世界水準での思考の転換」を徹底化もしくは「生を、経験を、事象を「純粋」にとらえる衝動」と規定していることが参考になる(同趣旨の議論が、土屋恵一郎さんの『社会のレトリック』にも出てきた)。檜垣さんはそこで、純粋化とは「哲学を純粋に、はじめから再開しようという企て」であり「純粋な何かに帰還して、世界をはじめから語りだすという発想」であると書いている。しかし、そうした企てや発想は「いずれそれら自身の問題設定の素朴さや意地不可能性を反省せざるをえないだろう」とも。ベルクソンの批判的継承者としてのドゥルーズ。

★11月21日(月)

 木村敏の『関係としての自己』と『偶然性の精神病理』(岩波現代文庫)を読了。『関係としての自己』を買ったのが5月末のこと(副読本として『偶然性の精神病理』を買ったのは7月の頭)だから、もうかれこれ半年ちかくかけて読み終えた。じつに濃厚な時間だった。木村敏の文章には、つねに既読感を覚える。実際、書かれている事柄、臨床事例にせよ、ヴァイツゼカーやブランケンブルクやニーチェの引用せよ、木村独自の思索展開にせよ、それらの話題はこれまでから何度も何度もくりかえし著書でとりあげられてきたものがほとんどだ。微妙な言い回しや使用された概念の風味のようなものの違いはあっても、そして、アクチャリティとリアリティの概念の差別化など、その論考がしだいに精緻・精妙化され、事の実相に肉迫する迫力は冴えわたっていくとしても、そのライトモチーフとバッソ・オスティナート(通奏低音・執拗低音)はつねに変わらない。

 木村敏における主題と変奏、差異と反復。それを一言で表現すれば「界面の思考」となろうか。鷲田清一が『偶然性の精神病理』の文庫解説で「差異の思考、〈あわい〉の思考」(239頁)と呼ぶものがそれである。坂部恵が『モデルニテ・バロック』で「betweenness-encounter」と訳した「あわい」。そこにおいて関係が関係それ自身に関係するところの「あわい」=界面。そこから立ち上がるもの、浮かび上がるもの、あるいはそこにおいて現象するものが「自己」であり「主体性」であり「時間」であり「クオリア」である。これらのことを見事に表現し、さらには『偶然性の精神病理』から『関係としての自己』への導管の所在を的確に指摘した鷲田清一の文章を引く。
《ところで、〈偶然性〉は contingence/contingency という。con-tangere、つまり「ともに‐ふれる」ということである。そうするとこれは、偶然性と触れ(接触であり触覚である)の関係という問題、そして「ふれる」とは触れるであり振れる(気がふれるというときの、そう「こころの病」としての「ふれ」)でもあることになる。木村氏は、〈いのち〉というものを、生命一般が個々の生存へと個体化されてゆく過程で、それとそれでないものとの「界面」として現象すると考えようとしている。ちょっとこみ入った言い方をすれば、そういう界面の生成そのものを、自己表象として自己を隔てる意識の出来事と、自己触発として自己にふれてゆくより根源的な身体の出来事との緊張関係のなかで問いただそうとしている。本書の議論の向こうには、〈偶然性〉をめぐるそんな問題が広がってもいる。》(鷲田清一「〈偶然性〉の思考」,『偶然性の精神病理』242-243頁)

 「あわい」としての界面。それは森岡正芳(『うつし 臨床の詩学』)がいう「中間世界」につながっていく。そして形而上学と生物学が出合う界面は、木村臨床哲学がよって立つ場所(臨床)であり、同時にその行き着く先を指し示しているだろう。『関係としての自己』の最後におかれた文章を引く。
《従来の「古典的」な西欧の哲学は、プラトンのイデア論とアリストテレスの形而上学の流れを継承して、ある意味で「唯心論的」あるいは「観念論的」な立場を堅持してきた。デカルト主義的な二元論も、哲学固有の形而上学的営為から物質的自然の法則性についての探求を分離する効果しかおさめなかった。現象学的哲学ももちろんその例に洩れない。これに対して近年の神経科学・認知科学に定位する科学哲学は、意識的・精神的な現象のすべてを脳・神経機構に還元することによって、「唯物論的」な一元論を指向している。「心」や「自己」は物質過程の淡い影にすぎないということになる。
 これに対してわれわれの立場は、意識に代表される心的・精神的な事態も、脳に代表される身体的・物質的な諸過程も、いずれも人間が個別的な生を「生きる」ために「生それ自身」という最終的な審級に根ざしているという事実から派生した二次的な現象にすぎず、デカルト的二元論の真の克服は「生の一元論」によって達成する以外ない、というものである。二元論はそれ自体、「生きている」という原初的な事実が物心両面の現象界に投影された幻影にすぎない。
 となると、ここであらためてメタピュシカとピュシカとの、形而上学と自然(科)学(それはわれわれの場合には生物学ということになるだろう)との再接合が求められなくてはならないのではないか。真実はこの両者の「あいだ」にこそあるのではないか。》(『関係としての自己』299-300頁)

     ※
 まだまだ書いておきたい事柄が残っている。汲めども尽きない。汲み上げて、共感であれ違和感であれ、その実質を自分なりの言葉で考えたいテーマは無尽蔵といっていいほど残されている。ここではその一つ、これだけは見逃せない指摘を取り上げる(ただし、取り上げるだけ)。それは、もう一人の「偶然性」の思考者パースについて書かれたものだ。
《語の意味が記号としての語そのものにアプリオリに含まれているのでなく、話し手と聞き手の相互関係という〈場〉において多様に解釈されうるという経験は、パースの三項関係の記号論を連想させる。パースは周知のように、記号とその指示対象を一対のものとする従来の二項関係とは違い、この両者にそれを媒介する「解釈」という第三項を考えた。パースによると《記号、もしくはレプリゼンタメンとは、何らかの点で、あるいは何らかの能力において、誰かに対しある何ものかを表意するものをいう。それは誰かに話しかける、つまりその人の精神のなかにそれと同等の記号、または多分もっと発展した記号を生む、それが生むそのような記号のことをわたくしは最初の記号の解釈内容と呼ぶ。その記号は何ものか、その対象を表意する》。パースに依れば、《たがいに理解できる共通の意味または解釈思想──すなわち第三項の媒介──がなければコミュニケイションは成立しない》のであって、彼はこの媒介 mediation のことを「中間性」betweenness つまりわれわれの言い方では「あいだ」とも呼んでいる。
 ただパースとわれわれとの大きな違いは、彼がこの第三項を第一項、第二項といわば同一平面上で考えていることである。したがって彼のいう解釈項は、《それ自体がまた新しい記号となってそれと対処をつなぐもう一つの解釈項を生み、それはまた新しい記号となって更に次の解釈項を生んで、……記号と対象と解釈項という三項関係が無限に生ずる》(有馬道子)ことになる。これに対してわれわれのいう〈あいだ〉は、語やその標準的な意味内容(ないし指示対象)とは位相の異なった次元にあって、それ自体がさらなる記号となることは絶対にない。むしろ、公共的・三人称的に固定された「位相差」(これをハイデガーにならって「存在論的差異」と呼んでもいい)を見失わないことこそ、現象学的精神病理学にとってはその死命を制する要務なのである。》(「〈あいだ〉と言葉」,『関係としての自己』139-140頁)

 これと同趣旨(かどうか)のことが、フロイトの「タナトス・エロス二元論」に関連して書かれていた。これらについては、いつか必ずまとめて決着をつける(つもり)。
《このフロイトの「死の欲動」論の最大の問題点は、彼がわれわれのいう「生命論的差異」を考慮しなかったことにある。タナトスがそれを取り消して生誕以前の状態にまで復元しようとする個体の生命とは「死すべきもの」としてのビオス以外のなにものでもない。だから「死の欲動」は、自分自身のビオスに向けられるだけではなく、「破壊欲動」「攻撃欲動」として、他人のビオスにも向けられる。これに対して、「性の欲動」であるエロスが、それぞれ異なったビオスである「二個の胚細胞の融合」を通じて継続しようとする不死の生命とは、ビオスとなまったくその存在次元を異にするゾーエーにほかならない。それはヴァイツゼッカーが、「生それ自身は死なない」と述べた「生それ自身」の領域に属している。》(「生命論的差異の重さ」,『関係としての自己』196頁)
 ちなみに、パースをめぐる文章にでてきた「同一平面」すなわち水平的な関係性と、存在論的差異であれ生命論的差異であれ垂直的次元との関係性をめぐって、関連する箇所を(前後の脈絡を抜きにして)引いておく。このあたりの議論を、たとえば坂部恵の「しるし・うつし身・ことだま」(『仮面の解釈学』)や梅原猛の『美と宗教の発見』第二部「美の問題」を参照しながら、いつか王朝和歌の美学の問題に接続させていきたいと思う。
《「主体」は環境世界との──いわば「水平」の関係における──「出会いの原理」としてそのつど成立するのだが、そのような主体はその可能性の条件(つまり「主体性」)を、有機体と「生それ自身」との──いわば「垂直」の関係における──「根拠関係」のうちにもっている。生きものを生きものたらしめている「根拠それ自体」は、「対象となりえない」。ということは、それはもはやリアルな「もの」ではないということである。しかしこの根拠それ自体は(あるいはこの根拠との根拠関係は)、「一定の具体的かつ直観的な仕方で」──アクチュアリティとして──経験される。》(「未来と自己」,『関係としての自己』279-280頁)

★11月22日(火)

 昔、夢日記をつけていたことがある。幼い頃住んでいた家や地域の風景など繰り返し同じ夢を見ることが多くて、それが本当にそうなのか、それとも何度も同じ夢を見るという想い(体感)とともに一つの夢を見終わっただけのことなのかを確かめたいと思った。結局、確かめることはできなかったが、夢日記をつけるのは、同じ文章を書く経験でも昼間の冴えた頭(あくまで睡眠時との比較の話で、私の頭がふだん冴えているといいたいわけではない)で書くのとはまるで違う。躰の奥底に沈殿している発生期の言葉を、それにまとわりつく具体性を帯びた観念群や微妙な体感とともにまるごとサルベージしていくこと。それがうまくいったときの快感はくせになる。(また始めようか。「不連続な夢日記」とか。)
 夢は脳が記憶を編集している時に見るものらしい。根を詰めて文章を読み書きし、ほてった頭のままで眠ると、活字が出てくる夢を見ることがある。先日の夜など、一篇の短編小説のあらすじを悪戦苦闘して考えていた。退職間際の高校の漢文教師。妻には十年前に先立たれ、一人息子は幼い頃に亡くした。貿易商をやっている恰幅と実入りのいい友人がいる。「女友達」の有閑未亡人と画策して、男にある女性を紹介する。独身の書道塾師範。初老の男女の合コンというわけだ。なかなか進展しない漢文教師と書道師範。友人とその女友達の誘いを受けて、四人で鎌倉に一泊二日の旅行に出かける。その夜、男は女にその半生を語る。女は……。
 また別の日の夜中、もどかしい身体感覚とまとまらない言葉とがからまりあった奇妙な夢にうなされ、身もだえしながら目覚めた。何かの文章を懸命に考えているのだが、「ナダ、ナダ、ナダ」と不気味な音がどこかから響いてきて、思考がまとまらないのだ。この「ナダ、ナダ、ナダ」には出典があって、その前日に読んでいた柳田邦男さんの『言葉の力、生きる力』にヘミングウェイの短編「清潔で、とても明るいところ」からの一文が引用されていた。「おれは気づいている、そう、すべては無[ナダ]、かつ無[ナダ]にして無[ナダ]、かつ無[ナダ]なのだと。無[ナダ]にましますわれらの無[ナダ]よ、願わくは御名の無[ナダ]ならんことを……」(“nada”はスペイン語で虚無を意味する)。この二つの夢は実は私の中では一つにつながっているのだが、これはあまりに個人的な事柄なので省く。

     ※
 ナダつながりではないが、先の土曜、JR灘駅の南方にある兵庫県立美術館に『オランダ絵画の黄金時代 アムステルダム国立美術館展』を観にでかけた。ここ数年、コンサートやスタジアムやシネマに出かけることはほとんどないけれど、(時おり招待券を入手する細いルートがあることもあって)各地の美術館にはほぼ季節ごとに出むいている。
 アムステルダム国立美術館は現地で訪れたことがある。仕事で北欧にでかけた際に立ち寄り、一日のオフを最大限活用して、風車、国立美術館、ゴッホ美術館、コンセルトヘボー=コンサートホール(残念ながら出演は「王立アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団」ではなかった)と歩き回った。スピノザの生家(ユダヤ人街)にも立ち寄りたかったが、事前の調査不足ゆえ断念。
 美術館に出かけるとき、ジャケットの内ポケットにしのばせて往復の車中で読む薄い本(150頁から200頁程度の文庫本)の選択に迷い、スピノザの『エチカ』(岩波文庫の上巻)にいったんは決めたけれど、最後で別の本にとりかえた。『オランダ絵画の黄金時代』はよかった。たった1枚だけのフェルメールや数枚のレンブラントもよかったし、肖像画や風景画もよかったけれど、とにかく静物画がよかった。じっと見入っていると心があらぬところにいってしまいそうになる。あまり長時間見入っていると、帰ってこれなくなる。で、小一時間ほどでさっと一通り眺め(会期中、あと2回ほどは観ることになるだろう)、美術館の近所にあるJICAの食堂で遅い昼食をすまし、サンパルにあるMANYOで古本二冊と三宮のジュンク堂で新刊書一冊を買って、元町の大丸で一目見て気に入ったハーフコートを買って、あたたかい気持ちで帰宅した。

     ※
 美術館の帰りに買った新刊書というのが、アントニオ・R・ダマシオの『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ[Looking for Spinoza]』【¥2800】。(ほんとうはマテ・ブランコの『無意識の思考──心的世界の基底と臨床の空間』を買うつもりだったのだが、見つからなかった。)この本のことは『現代思想』の2月号で桜井直文さんが紹介していた(「身体がなければ精神もない」)。詳細は忘れてしまったけれど、「結局のところ、ダマシオはスピノザを、自分とおなじような者(「原‐生物学者」!)とみなしてしまっている」とか「かれ[ダマシオ]の求めているスピノザはそこ[『感じる脳』]にはおそらくいない」といった批判がとても説得力をもっていたことを憶えている。
 だから翻訳が出ても読むことはないと思っていたのに、そしていつ読むのかあてもないのに、発作的に買ってしまった。チャーマーズの『意識する脳』やペンローズの『心の影』をはじめ、ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』ほか二冊、マラブーの『わたしたちの脳をどうするか』、ヴァレラの『身体化された心』、はては池谷裕二の『進化しすぎた脳』等々、心脳関係本が読みかけのままになっている。いつかまとめてと思っているうちにだらだらと数年がすぎ、負債がふくれあがっている。(こうやって思い出すたびに書いておけば、いずれ内圧が高まって決壊することだろう。)
 ダマシオの本はまだ読んだことがないので、これをきっかけに『生存する脳[Descartes' Error]』と『無意識の脳自己意識の脳[The Feeling of What Happens]』に遡ってみたいと思う。それもこの本を買った動機、というか言い訳の一つだが、ほんとうのところはスピノザ関連の本が久しぶりに読みたくなった。数年前に田島正樹さんの『スピノザという暗号』を読んで興奮し、最近では上野修さんの『スピノザの世界』を読んで刺激を受けた。何しろスピノザは私が哲学系に関心を寄せるきっかけになった大切な人物だから、定期的にその世界にふれておきたい。ダマシオの本がその欲求を満たしてくれるかどうかは、読んでみなければ判らない。

★11月23日(水)

 昨日につづきダマシオ/スピノザのことか、美術館からの帰りに買った古本のことを書こうと思っていたけれど、茂木健一郎『クオリア降臨』【¥1619】を少し読んで気になったことがあるのでそのことを書く。私は『脳とクオリア』以来の茂木健一郎ファンだが、茂木さんの文章を読んでたくさんの刺激を受けつづける一方、哲学系、文学系に説き及んだ箇所ではいつも微妙な違和感を感じてきた。そのあたりのことは片目で読み、細かいことは気にせず素通りし先へ進んでいっても、脳科学者兼サイエンスライターとしての茂木健一郎の文章は充分以上に面白かった。
 たとえば『脳と仮想』も小林秀雄や漱石をはじめ文学系、芸術系、哲学系にかなりの頁を割いていたが、あの本には茂木脳科学の理論的問題意識がしっかりと装備されていたので、安心してびしびしと伝わってくる刺激を受け止めることができた。
(そこでの茂木さんの関心は、リアリティ(ありあり感)とアクチュアリティ(いきいき感)との関係、そしてヴァーチュアリティ(普遍性)とアクチュアリティ(個別性)との関係という、ベルクソン/ドゥルーズ流の問題の脳科学的解明ということだったと思う。しかし読後1年以上経つので、このことは、いまいちど『脳と創造性』とともに再読し確認しておかなければならない。私の直観が告げるところでは、それらの問題は無限と有限という意匠をまとって西欧中世哲学において神学的な思考様式のもと徹底的に考え抜かれ、もしかすると中世日本の文藝や古代インドの宗教においても別の仕方で根柢的に思考され抜いたことである。)

 でも『クオリア降臨』は勝手が違う。「脳のなかの文学」のタイトルで『文學界』に連載された16回分の文章を収めたこの本は、まぎれもない文学論の書だからだ。まだ最初の二つ「世界を引き受けるために」「クオリアから始まる」とあとがき「クオリアが降りてきた夜に」を読んだだけで軽々な評言を繰り出すべきでないことは重々承知の上で、それでもこの本をこれから先も読み進めるかこの時点で放棄するか(たぶん、いやきっと最後まで読むだろう、なぜなら私は茂木健一郎ファンだから)見極めるためにも、山のように押し寄せてくる疑問符の内実をできるかぎりきっちりと書いておきたい。(ニーチェの名が唐突に出てくるところ(13頁)やスコラ哲学との関係でのデカルトの取り上げ方(42-43頁)など、哲学系の疑問点もあるのだが、それは措く。)

     ※
 遅れてきた文学青年が、ただ「オレはこの小説が好きだ、痺れた」という体験ひとつを根拠に、あれこれ口騒がしく姦しく批評的言辞を弄する「プロ」を相手に必死に噛みついている。その姿は初々しくかつ痛々しい。自分のことは棚に上げて書いているのだが、いまのところこれが率直な読後(いや読中か)の感想だ。
 文学青年が「人生とは…」と抽象的な悩みを悩んでいるうちは罪がない。そんなものはガキの麻疹みたいなものだからだ。ここで「人生」とは「精神(生活)」のことだと気づくことから真正の文学青年は生まれる。そのきっかけとなる「切実な体験」のことを茂木さんは「クオリア」に見立てている。切実で痛切な、筆舌に尽くしがたい、一回かぎりの、他に置き換えのきかない、固有の体験と、それに伴う感覚・情動・感情の質。端的にいえば、特定の異性(もしくは同性)を志向するある時期における性欲のようなものだ。あるいは、ある時期ある特定の文学作品を読むことで得られる魂が震動するような感動。
(ほんとうは「クオリア」の概念はもっと深いもののはずだ。あるいはもっとありふれている。それは基本的に非人間的で、個体を超過している。それはまさしく「降臨」もしくは「降誕」するものだ。あるいは降臨するものとして、脳内に現象(降誕)するもののことだ。茂木さんの「脳内現象」の説は、そのようなクオリアの概念と真っ向から取り組むことを通じて形成されつつある未完の理論である。だからこそ、それは注目し瞠目して見守るべき現在進行形の思考だった。)
 「精神とは…」とその実質を問い、その成り立ちと構造と稼働原理を問うなかで、精神は表現のうちにしか表現されないと感得する。あるいは精神を生むのは精神である、要するに文学を生むのは文学であるという(無意識裡の)認識に至る。だから文学青年は小説を書くことを夢想する。小説を書くのではなく小説を書くことを夢想する。構想するのではなく夢想する。己の「切実な体験」がそこにおいて十全に表現された文字列を妄想するのだ。
 しかし、精神の実質を問うことはこれとは別の道にも通じている。たとえば神学、たとえば哲学、たとえば数学、たとえば記号論、たとえば人類学、たとえば歌学、たとえば脳科学。すでにそこに実存している個別の生からではなく、その生の裂け目を通じて覗き見られるより広大で深遠なもの(あるいはより微細で軽やかなもの)の方へ、あるいは「集団(アンサンブル)」(14頁)、あるいは伝統の方へと向かい、そこではたらくロゴスやパトスを見極めつつ、個別の生を規定するからくりを身をもって生きる知性というものもある。そこでは文学もまた、茂木さんが想定しているようなパスカル的な「文学の神」(24頁)とは異なる(多神教的)様相を帯びているかもしれない。

 茂木さんは、記号論や構造主義や精神分析や言語学による意味づけ・文脈づけの理屈にまみれた現代の文学・芸術をめぐる言説のうちには、小林秀雄の「印象批評」のうちにあった生命の躍動(エラン・ヴィタール)が忘れ去られていると書いている(43頁)。私は読まず嫌いでよくは知らないのだが、それでも茂木さんがいう「現代の言説」の多くが乾燥してひからびたつまらないものであるだろうとは思う。
 しかしそれは、小林ほどの書き手が現代には(いや、小林の時代にあっても)希有であるという事実をいうだけのことであって、問題は記号論や構造主義云々の理論にあるわけではない。記号論や構造主義云々には記号論や構造主義云々をもってしかアプローチできない固有の問題があり、たとえ記号論や構造主義云々の理論的意匠をまとっていたとしても、小林秀雄の批評文に匹敵する力をもった批評もあるはずだ。少なくとも「批評は、常に作品自体の持つクオリアのピュアさに負けてしまう」(32頁)などと素朴に言うことはできない。

     ※
 茂木健一郎が遅れてきた文学青年だという意味は二つある。一つは、「文学は、あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、世界の全体を引き受ける普遍学としての可能性を志向する」(18頁)といったその文学観にある。茂木さんは、小学校五年の時に読んだという『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』をはじめ自分がこれまでに読んで感銘を受けた小説を念頭において、そういう(一回性が普遍性につながる「切実な体験」を表現した)小説を自ら書きたいと思っている。たぶんいくばくかのフィクションに手を手を染めているに違いない(近く最初のフィクションが刊行されるらしい)。
 要するに、自分が好きな(書きたい)文学はこれだといっているだけなのだ。それが茂木流の「印象批評」だとして、そのような趣味の上になりたつ「文学論」は、茂木さんの書いたものならなんでも読んでしまう(私のような)ファン以外には通じないのではないか。「文学にとって統計ほど遠い存在はない」とも茂木さんは書いているが、文学はそんな了見の狭い営みではないはずだ。「個の体験の特殊性」など歯牙にもかけない文学的伝統もある。いっそ「あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、世界の全体を引き受ける普遍学」としての脳科学をうちたてるための捨て石に文学や芸術や哲学をつかうと言い切ってほしかった。

 二つ目の意味は、実は一つ目のそれと同じことなのだが、自然科学者としての茂木健一郎の文学や人文系へのコンプレックス(劣等感という意味ではない)にある。ここで二つの文章を引く。最初のものは、書かれていることには共感を覚える。が、「個別を生きる切実さ」や「意識という主観的体験の個別」が「文学が従来扱ってきた領域」であるとする文学のとらえ方は狭い。後者は、書かれていることの意味が判らない。(これだけだと「茂木健一郎が遅れてきた文学青年だという意味」の説明にはならない。でもこれ以上言葉を重ねると、書きたくない言葉を綴ってしまいそうなので、このあたりで止めておく。)

《私は、ここで、科学的アプローチでは生の実相をとらえきれないと言いたいのではない。科学と文学が対立するものであると主張したいのでもない。科学が示すのは、宇宙の峻厳たる事実である。どんな生きものも、進化論が記述する淘汰の圧力と無縁では、存在し得ない。個別を生きる切実さが、統計的法則の冷酷と併存していることにこそ、生命の真実がある。個別の生が特定の様相を帯びることの背後にある科学的真理を了解することは、文学の扱う個別的体験の味わいを深めこそすれ、薄めはしない。科学の最良の部分は、文学の最良の部分に接近する。球体の上で離れていくと、ぐるりと回って元の場所に戻る。ちょうどそのように、最良の科学は、最良の文学に接近していく。
 実際、物質である脳から意識という主観的体験の個別が生まれるミステリを解明しようとしている現代科学は、徐々に、文学が従来扱ってきた領域に接近しようとしている。その、科学と文学の汽水域の中に、科学の未来も、そして恐らくは文学の未来もある。》(18-19頁)

《相対性理論、量子力学、そして今、超ひも理論を経た科学にとって、この世で怖いものなどそんなにありはしない。精神分析や構造主義など、コアの科学が積み上げてきた世界観の完成度に比べれば未だ発展途上である。》(38頁)

     ※
 文章は自律的に自らをかたちづくる。最初は微かな違和感だったものが、書いているうちに肥大化して独り歩きしてしまう。上に書いていることは、少しばかりオリジナルな思いを超過している。少しばかりではないような気もする。ほんとうにそうなのか。ほんとうに(私は)そんなことを考えたのか。このことを確認するためにも、引き続き『クオリア降臨』を読まなければなるまいと思う。

★11月24日(木)

 今日、兵庫県立美術館で催事があって、夜、館長の木村重信さんも含めた懇親の機会があった。岩波新書の『はじめにイメージありき──原始美術の諸相』はかつての愛読書で、ぜひ著者のサインをいただきたいと思っていたのだが、あいにく手元においてなかった。かわりに中公新書の『ヴィーナス以前』を持参したけれど、まだ読んでいなかったのでこれは遠慮しよう。と思っていたけれど、結局サインをいただいた。「これは力を込めて書いた本なんですよ」とのこと。(書名を『ヴィーナス誕生』と言ったような気がする。酔っていたのでよく憶えていない。)

 先週の土曜、その美術館からの帰りに買った古本というのが、小学館の『日本古典文学全集50 歌論集』と『日本古典文学全集51 連歌論集 能楽論集 俳論集』【¥1500×2】の二冊。歌論、連歌論の類を収めた古典全集をいくつか実地に手にしてみて、一番読みやすそうなので選んだ(現代語訳がついているのが決め手)。「後鳥羽院御口伝」や「正徹物語」が収められていないのは残念だが、たとえ収録されていたとしてもそうそう読めるものではない。まずは心敬の「ささめごと」をしっかりと読み込んでみよう。それすらいつ果たせるかわかったものではない。
 各集の解説(歌論集・藤平春男、連歌論集・伊地知鐵男、能楽論集・表章、俳論集・栗山理一)をざっと読み、あらい相関図を作った。国学の本居宣長や俳諧の芭蕉(去来)は省略。この図にどういう意味があるのか(とくに歌論の二つないし三つの系列)。たぶん数日もすれば忘れてしまうだろう。その時はまた解説を読み直せばいい。初学者には復習あるのみ。

【歌論】
  源俊頼[1055?-1129]──藤原俊成(幽玄)[1114-1204]──藤原定家(有心)[1162-1241]
  後鳥羽院[1180-1239]──正徹[1381-1459]──心敬
  西行[1118-1190]
【連歌論】
  二条良基[1320-1388]──心敬[1406-1475]
【能楽論】
  世阿彌──金春禅竹

★11月25日(金)
 

 京都に紅葉狩りに出かけた。JR山崎駅を降りて、山崎宗鑑句碑(「うずききてねぶとに鳴や郭公」)と霊泉連歌講跡碑を片目に、アサヒビール大山崎山荘美術館への坂道を急ぐ。本館で『益子 濱田窯三代 庄司・晋作・友緒』展を観て、テラスで珈琲を啜り、安藤忠雄設計の新館「地中の宝石館」でモネの「睡蓮」やルオーの絵などを見て、庭園を散策した。少し電車で移動して、西国二十番札所の善峯(よしみね)寺、別名松の寺の境内を参拝。「野をもすぎ山路にむかふ雨の空よし峯よりも晴るる夕立」。松と紅葉、武家と王朝貴族の対比が面白い。奥の院薬師堂に向かう山路から見下ろした紅葉は絶景。こういう風景を目にすると、形容する言葉が思い浮かばない。また山崎にとってかえして、サントリー山崎蒸留所を訪ねる。樽出原酒15年ものを試飲し、イルミネーションの点灯を見届け、すっかりできあがって帰宅。一年分の紅葉を堪能した。

     ※
 丸谷才一『新々百人一首』(新潮文庫下巻)読了。四季歌をあつかった上巻を読んでいた時は、連日、陶酔に次ぐ陶酔だった。下巻に入って、恋歌[こいか]のあたりで王朝和歌の遊戯性が薄っぺらなものに感じられるようになった。(唐木順三の『中世の文学』を読み囓ったことも影響したか。)言葉の多義性と呪術性をとことん活用し、二重三重に意味の層を重ね描いていくパランプセストとしての王朝和歌。それが薄っぺらだと感じるのは、読み手の言語感覚が硬直していたからだろう。読み手の側の心のありよう、というか身体のありようがそこに反映していたに違いない。
 丸谷さんは遊戯性を必ず社交性とセットで取り上げている。「呪術としての詩はやがて社交の具としての詩となり、さらには藝術としての詩へと進化する──もちろん呪術といふ要素を幾分かは残したまま」(113頁)。この「社交性」は、松岡心平さんが『宴の身体』で連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は文芸における「一揆」的場であったと書いていたことにつながる。(森岡正芳『うつし 臨床の詩学』の「対話的倍音」や坂口ふみ『〈個〉の誕生』の「概念のポリフォニー」にもつながる。)会話が弾んで、何を言っても聞いてもおかしくておかしくて、笑いがこみあげてとまらなくなることがある。「天使が通る」とか「三人寄れば文殊の知恵」という言い方があるが、その時その場にたちこめている言葉は、私の言葉でも座を共にする相手の言葉でもない。非人称、無人称、多人称の次元から響いてくる、もしくは洩れてくる言葉に酔っている。躰が言葉に動かされていく。王朝和歌の「社交性」とは、たとえばそのような体験のうちに今も息づいているのかもしれない。
 薄っぺらに思えた王朝和歌がほんの数日でもとの輝きをとりもどし、その後は最後まで一気呵成に愉しめた。丸谷才一の文筆の冴えは恐ろしいまでの域に達している。源実朝の「いつもかく寂しきものか葦の屋に焚きすさびたるあまのもしほ火」をとりあげ、「現代短歌はこの一首にはじまる」と記す(221頁)。「もともと和歌は単にテクストを読むだけでは充分でなく、そのテクストをマージン(欄外、余白)のやうに囲み込む作歌事情まで視野に入れるとき、はじめて十全に理解できるたちのものであつた」。なぜか。第一に、和歌が極端に短い詩形だからであり、第二に、和歌が「やがて文学となつたものの、それでも相変らず呪文および社交の具といふ性格を捨てなかつたせいであつた」(261-262頁)と喝破する。以上、とりわけ印象に残ったフレーズ。
 さて毎夜の慰めを失って、これからどうやって就寝前の無聊を癒すか。最初から読み返すのもいいが、それは後の日の愉しみにとっておこう。さいわい、安東次男の『完本 風狂始末──芭蕉連句評釈』(ちくま学芸文庫)が手元にある。まずは「狂句こがらしの巻」(『冬の日』)から、おもむろに頁を繰るか。

     ※
 もう少し余韻にひたりたくて、行きつけの図書館から借りてきた『後鳥羽院』をざっと眺める。筑摩書房の日本詩人選第10巻。丸谷才一王朝和歌論の原点ともいえる書。「あとがき」で明かされる、中世歌論(正徹による定家の分析)とジョイス=エリオットとの丸谷才一的出会いの瞬間、野坂昭如との隠岐行といった「思い出話」が無類に面白い。「記念」に引用を二つ。いずれも、本書の中心をなす「歌人としての後鳥羽院」に添えられた二つのエッセイの末尾の文章。前者は「へにける年」から、後者は「宮廷文化と政治と文学」から。

《わたしに言わせれば、後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって実は近代を超え、そして定家は最初の近代詩人となることによって実は中世を探していた。前者の小唄と後者の純粋詩という、われわれの詩の歴史における最も華麗で最も深刻な(そして最も微妙なとつづけてもいい)対立はこうして生れ、そのゆえにこそ二人は別れるしかなかったのである。それとも、彼らはこうならざるを得ないほど互いに相手を、そして自分を、確認したのだというべきだろうか。しかし、このへんのいきさつを詳しく考えるためには、後鳥羽院と定家を当代の文学史ではなく、もっと広く、日本文学史全体のなかに位置づける試みがなされなければならない。》(258頁)
《…詩人の精神のいとなみがその基盤としての具体的な場を持たないという不幸は、長く日本文学の悩みとなった。詩は孤独なものに変じ、孤独を埋めるだけの力は詩人になかったのである。そう考えるとき、芭蕉の歌仙は詩の場所を持とうとしての恐ろしい新工夫としてわれわれに迫ることになるであろう。彼は草庵において宮廷をなつかしむことを一つの儀式として確立した。あるいは、西行においては個人の感懐ですんだものが、彼においては儀式の力を借りなければならなかった。そして俳諧が粋に洒落のめしながら衰弱して行ったとき、芭蕉と並ぶもう独りの天才は、宮廷と和歌との密接なかかわりあい方それ自体のパロディを作った。言うまでもなく蜀山人であり天明狂歌である。宮廷文化が存在せず、それにもかかわらずその美しさが心をとらえるとき、打つ手はただこれしかないと彼は観念していたにちがいない。ここで宮廷文化としての日本の短詩形文学は、その余映をもって江戸の空をあかあかと染めたことになる。
 しかしこういう後日譚に属することは、さしあたりどうでもよかろう。いま大事なのは、後鳥羽院が宮廷と詩との関係を深く感じ取っていて、宮廷が亡ぶならば自分の考えている詩は亡ぶという危機的な予測をいだいていたに相違ない、と思われることである。それは彼にとって文化全体の死滅を意味する。彼はそのことを憂え、詩を救う手だてとしての反乱というほしいままな妄想に耽ったのではなかろうか。承久の乱はその本質において、文芸の問題を武力によって解決しようとする無謀で徒労な試みだったのではないか。わたしにはどうもそんな気がしてならないのである。「おく山のおどろが下も踏みわけて」世にしらせたいと彼が願った「道」とは歌道であり、あるいは歌道を中心とする文明のあり方であった。そして定家はもはやそのような幸福があり得ないことをよくわきまえていたのである。》(291-292頁)

★11月26日(土)

 最近買った本。その1。ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(柴田元幸訳)【¥300】。仕事帰りにほぼ毎日立ち寄る行きつけの古書店でみつけた掘り出し物。定価2千円が新品同様で3百円。たぶん一度は書店に並び返品されたもの。あなたの好きな作家は誰ですか。そう聞かれたら(めったに聞かれることはないが)、たぶん今なら保坂和志と村上春樹とオースターと答える。エッセイであれ何であれ新刊が出れば必ず買うのは保坂和志(と茂木健一郎)で、小説だけなら村上春樹。オースターは、NY三部作と『孤独の発明』と『ムーンパレス』と『偶然の音楽』(と『ルル・オン・ザ・ブリッジ』と『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』)以外のフィクション系は未読。まだ摘み読みしかしたことのない『空腹の技法』とあわせてこの「自伝的エッセイ」を(いつか)読み、未読の小説『最後の物たちの国で』『リヴァイアサン』『ミスター・ヴァーティゴ』に(そのうち)進むことにするか。
 その2。山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)【¥476】。昨日、サントリー山崎蒸留所・ウィスキー館のファクトリーショップで、樽用オーク材で作ったシャープペンと一緒に買った。20代から30代にかけての愛読書が開高健だった。『輝ける闇』『夏の闇』『花終る闇』の闇三部作は何度読んだことか(『花終る闇』は読んでいなかったかもしれない)。『夏の闇』は英訳まで読んだ。川端康成賞受賞作「玉、砕ける」を収めた『ロマネ・コンティ・1935年』(文春文庫)は、いまだにこれを超える短編集をしらない(『神の子どもたちはみな踊る』くらいか)。エッセイ集『白いページ』は一種のバイブルで、釣りなどまったくしないのに『オーパ!』や『オーパ、オーパ!!』、『もっと遠く!』や『もっと広く!』まで愛読した。その開高健が「やってみなはれ──サントリーの七十年・戦後篇」を書いている。昭和44年「小説新潮」掲載のものだから、開高健四十歳前の文章。
 その3。星野之宣自選短編集『MIDWAY』の歴史編と宇宙編の二冊【¥638×2】。同じ集英社文庫から出た諸星大二郎自選短編集がとても心に残ったので、二匹目のドジョウを期待した。『宗像教授伝奇考』第一巻(潮漫画文庫)がまだ終わっていない。ついでに(星野之宣とは関係ないが)ヒッチコック『バルカン超特急』【¥476】も買った。これでヒッチコックの廉価版DVDは3枚目。つづけて買ってつづけて見るつもり。そのほか、斎藤晃司『女たちの絵画サークル──淫らな絵画教室』(マドンナメイト文庫)【¥543】というのも買って読了。これはブログには書かない。

     ※
 最近読んだ本。その1。マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』読了。惜しみながら読み継いでいった。途中でリーマン予想の内容がよく判らなくなったが(いや、そもそも最初からよく判っていないが)、そんなことはこの書物を味わう上ではまったく関係がない。実に心地よい読中感は最後まで失われることはなかった。それにしても美しい書物だ。
 ピタゴラスによる「天空の音楽」(数学と音楽の基本的な関係)の発見。基音とすべての倍音を加えた「調和級数」(ゼータ関数にx=1を入れたときの値:121頁)に発するオイラーのゼータ関数研究。そして、著者によって「数学界におけるワーグナー」(21頁)と形容されるリーマンの登場。第四章のエピグラフがすべてを語っている。「素数は音楽に分解できる、ということを数学的に表現するとリーマン予想になる。この数学の定理を詩的に述べると、素数はそのなかに音楽を持っている、ということになる。ただしその音楽は、近代概念では捉えきれないきわめてポストモダンなものである。」(マイケル・ペリー)
 このあたりまでは、これまでから何度も数学啓蒙書でたどったことがある。本書はそこから先が素晴らしい。謎の人ラマヌジャンを経て、コンピュータ・エイジにおける素数と暗号、そして「世界の両端の洞窟でまったく同じ旧石器時代の絵を発見した考古学者の驚きにも通じる」(406頁)量子物理学とリーマン予想の驚きの出会い、さらにはグロタンディークの狂気へと、非人間的な美しさを湛えた素数の物語は進んでいく。失われたリーマンの「黒いノート」(230頁)は、たぶん人間の言葉では書かれていない。
 引き続き、カール・サバー『リーマン博士の大予想──数学の未解決最難問に挑む』を読んでいる。『なっとくするフェルマーとオイラー』(小林昭七)も常備している。今日届いた海鳴社の葉書に、オイラーの『無限解析序説』がついに完訳された(訳者:高瀬正仁)と書いてあった。生まれ変わったら数学者になりたい。

 その2。玄有宗久『御開帳綺譚』(文春文庫)読了。この人の作品を読むのは初めて。標題作では、無状と夕子の交合の情景描写がいい。《それはもう、夕子ではなかった。無状もなぜか自分でないような気分で女を布団に押し倒し、光を背後から受けながら、その光の届かない部分に誰か解らない男を挿入した。瑠璃色に染まってきた部屋が一瞬闇に戻り、そしてまた瑠璃色をとりもどした。なんの記憶も甦らず、ただ自分という輪郭も決壊してしまったような気分のなかで、男は女の今を味わい、女も男を全面的に受け容れていた。女は混沌を求める男の動きに応じ、男の願いを感じとりながら慈悲深く包みこみ、そして自らの内なる混沌を増幅してゆく。願いなど、無くなってしまった時だろうか、女が聞いたことのない声をあげて閉じながら開ききり、男は止まりつつもその中へ皆ながら入ってしまった。収縮する瑠璃色の混沌に包まれながら男は、女も自分のなかへ入ってきたのだと、初めて思った。》(「御開帳綺譚」,102-103頁)
 併録の「ピュア・スキャット」では、週に三日透析を受けている「あたし」の宇宙的な生命感覚の叙述がいい。《そしてあたしは拡がりながら、あたし自身の濃度を取り戻すんだ。/カリウムもナトリウムもマグネシウムもカルシウムも、もちろんアルミだってリンだってそうだけど、この地球という星の圧力や温度で生成されることはありえない。全部太陽の三倍から八倍もあるような巨大な星の中心部で作られ、その星の死とともに宇宙に飛び散ったものだ。その星屑から、地球もあたしもできてるんだ。血の中の鉄分なんて、もっともっと巨大な星じゃないとできなかった。中性子星って呼ばれるらしいけど、一立方センチの重さが十億トンって云われても全く見当もつかない。だけどそんな星の爆発のおかげで、あたしの中にもこうして赤い血が流れてる。あたしも無数の星屑からできてるんだ。》(「ピュア・スキャット」,135-136頁)

 その3。柳田邦男『言葉の力、生きる力』(新潮文庫)読了。この人の文章を読むのは『犠牲』(文春文庫)以来。あの本にも書かれていた、次男の自死という痛切な体験を踏まえた「二・五人称の視点」がいい。星野道夫をとりあげた文章もいい(文庫カバーに星野道夫の写真が使われている)。《そうなんだ。私は気づいた。えもいわれぬ音をとらえているのだ。風の音、雪崩の音、動物の鳴き声、吠え声、足音──そういったはっきり識別できる音はもとより、情景の奥底から伝わってくるささやきとも響きとも感じられる不思議な音が惻々と伝わってくるのだ。/いままで数々の写真家による様々な動物や自然界の写真に魅せられてきたが、一枚の写真に虜になるほど見入ってしまい、そこに秘められた音まで感じたのは、はじめてだった。/グスタフ・マーラーの交響曲第三番ニ短調を聴くと、マーラーは絶対音感以上の霊的な音感で、森や花たちや風や動物たちや小鳥たちのすべてのざわめきや鳴き声はもとより、天使たちの深い愛のささやきや天上の音楽までをも聴き分けていたに違いないと思わざるを得ない。星野氏の場合は目で霊感的にそういう自然界のポリフォニー(多声音楽)なささやき、ざわめき、響きの神秘を聴き取っていたに違いない。私はそう思わないではいられないのだ。》(「ガイアの声が聴こえる」,155-156頁)

★11月27日(日)

 『物質と記憶』。第三章の三節「無意識について」を読む。「私たちは問題の核心にはまだ立ち入らないで注意だけしておきたい」(159頁)とベルクソンは冒頭に書いている。ここでベルクソンが注意を促しているのは、意識とは存在の同義語ではなく、現実的行動や直接的有効性の同義語にすぎぬということだ。意識が存在の同義語でないというのは、ひらたくいえば意識がなくても人(行動するもの)は生きている(行動している)ということである。意識は思弁や純粋認識に向かうものではないという、第一章の議論がここでもむしかえされている。それでは「問題の核心」とは何か。以下、本節の要点のみ(誤読をおそれず)列記する。

 無意識には空間に由来するもの(物質宇宙のまだ知覚されていない部分=物自体)と時間に由来するもの(過去の生活の現に認められていない諸時期=過去自体)の二種類がある。それらは、前者(空間の中で同時的に段階づけられる諸対象の系列)の表象の秩序が必然的、後者(時間の中で継起的に展開される諸状態)のそれが偶然的という相違はあるものの、基本的には実益や生活の物質的要求にかかわる区別にすぎない。程度の違いはあれ、いずれも意識的把握(意識への現前性)と規則的連関(論理的あるいは因果的関連性)という経験の二つの条件を満たしている。
 しかし、それが人の精神の中で形而上学的区別の形をとる。つまり、前者は外的対象へ、後者は内的状態へと分解される。いわゆる心脳問題の発生。「存在するけれども知覚されない物質的対象物質的対象に、少しでも意識にあずかる余地を残すことや、意識的でない内的状態に、いささかでも存在にあずかる余地を残すことは、そのために不可能になってしまう。」(167頁)その結果、空間からとられた比喩(容れものと中味の関係:168頁)にとらわれ、記憶がどこに保存されるのかということを問題にせずにはいられなくなる。過去の記憶が身体(脳髄)に貯蔵されるという幻想をいだいてしまう。事の実相はそうではなくて、いったん完了した過去(蓄積されたイマージュ)はそれ自体で残存するのである。
《過去がそれ自体で残存するというこのことは、したがって、どんな経ちにせよ、免れるわけにはいかないのであり、それを考えるのに困難を感ずるのは、私たちが時間における記憶の系列に、空間中で瞬間的に認められる諸物体の総体についてしか真でないいれることとはいることとのあの必然性[容れものと中味の関係は、私たちがいつも眼前に空間をひらき、背後に持続を遮断せねばならぬという必然性から、その明らかさと見かけの普遍性を借りている:168頁]を帰するところからくるのだ。根本的な幻想は、流れつつある持続そのものに、私たちの切断による瞬間的断面の形式[私たちの脳=身体は、物質的宇宙のすべての他の部分とともに、宇宙の生成の絶えず新しくなる切断面を構成している:168頁]を移し及ぼすということにある。》(169頁)

 星野之宣自選短編集『MIDWAY 宇宙編』冒頭の「残像」(1980年)という作品に、感光性ガラスに焼きつけられた2億年前の地球の写真のアイデアが出てくる。二酸化ケイ素や酸化カリウム等を含む特殊な隕石が月を直撃する。「散乱した熱い破片が急速に冷却され…… 球状のガラス物質に固まるその一瞬──その一瞬だけ 無数に散りばめられたそれらは感光性ガラスとして 一種のフィルムと化す! そしてしっかりと焼きつけるのだ 満点の星座を圧して煌々と輝く地球光を──数十億年にわたってそれは ひそかにくり返されてきた 天然の写真メカニズムだったに 違いない」。無意識の知覚。

★11月28日(月)

 茂木健一郎『クオリア降臨』を半分ほど読んだ。文学論としてはやっぱり疑問符だらけだが、とにかくこの人は文章が上手いのでそのあたりのことはあまり気にせず読める(読み流せる)し、細部の議論はいつもながらに面白い。「可能性としての無限」の章に「古代ギリシャでは、具体と抽象の意味するところが、今日のそれと逆転していたと聞く」(55頁)と書いてある。「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界こそが具体であったのかもしれない。文学が、有限の文字列で限りなき仮想の世界を構築する営みであるとすれば、おそらくはその世界こそが、人間の精神にとっての本来の具体なのかもしれない」と続く。
 ここを読んで、同時並行的に読み進めている川崎謙『神と自然の科学史』の議論を想起した。「異文化」としての西欧自然科学の特徴は、ガリレオ以来の「認識の技術化」にあると著者は書いている。認識とは本来原因を問うものであった。原因が特定できてこそはじめて「分かった」と言えるはずだ。「しかし、技術化が完了した西欧自然科学での「分かった」は、「その原因が何であれ」数学的記述の完成と等価である、とされた」(34頁)。数学的表現ができることは「やった、できたぞ」という技術習得の過程で得られる状態と等価ではあっても、何かを認識する過程での「そうか、分かったぞ」とは違う。
 この議論が「古代ギリシャでは、具体と抽象の意味するところが、今日のそれと逆転していた」こととどうつながるのか。そこに、瀬名秀明との共著『心と脳の正体に迫る──成長・進化する意識、遍在する知性』での天外伺朗の発言が介在している。天外伺朗はそこで、人間とコンピュータとの違いに「瞬時に何かが出てくる体験」があり、その一つに「Aha!体験」があると述べた後で次のように語っている。
《「Aha!体験」っていうのは、言い換えれば抽象化の最たるもの。抽象化の中でもオン・オフ、イエス・ノーの一番根幹のところが先に出てきちゃう。そのあとで、それを紐解くわけだから、コンピュータじゃ絶対にできないね。特に、逐次的に処理するより仕方のない、現在普及しているフォン・ノイマン型コンピュータじゃできないだろうね。(略)「Aha!体験」は一種の統合で、単なる統合より抽象度が高いから、なかなかニューロンの発火だけ調べていても解明は困難だろうね。》(253-254頁)

 この「Aha!体験」は、どこかで美的体験に通じている。茂木さんは「豊饒の海を夢見て」の章で、生死が交錯する場所における(三島由紀夫的な)美とクオリアを重ね合わせて論じている。
《飯沼勲[『奔馬』]が末期の眼で見た赫奕たる日輪と、国家のことや自分の使命のことなど考えもしなかったであろう幼少期に見た夕陽は、同じ「赤」という認知的安定性によって結びつけられている。そこに、意識というものの単なる生命原理を超えた凄まじさがある。意識は、生の営みとは関係のない結晶世界にその起源を持つのである。/クオリアは、柔らかにダイナミックに変化する脳の生命作用を支える、結晶化作用である。全ての「美しさ」の体験の背後に、その体験を構成するクオリアという基盤がある以上、美しさは、生命の作用に起源を持ちながら、どこか生命と遠い鉱物標本の輝きと同じような表情を見せるのは当然のことである。/だからこそ、剥き出しの生など美しくも何ともないのだろう。生の真昼の絶頂の中、意識の流れの中にあらわれる様々なクオリアのプラトン的輝きの中に、私たちはすでに死の国の気配を感じ取っている。美とは、おそらくは生きていながら垣間見る死の世界のことなのである。》(88-89頁)
 また「生きた時間はどこに行くのか」の章では、クオリア(私たちの意識的体験を織りなすマテリアル:108頁)とは一種の「縮小写像」(105頁)であり、「結晶的表象」(106頁)だと書いてある。これらのことを総合すれば、クオリア(古代ギリシャ人が「テオス=神」と読んだもの:ロレンス『黙示録論』)は「抽象」であると結論づけることができそうだが、そうすると「具体」とは、つまり古代ギリシャ人にとっての「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界」とは、マテリアル(物質)ならぬヒュレー(質料)あるいはコーラのことなのだろうか。

 「Aha!体験」もしくは「ユーレイカ(われ発見せり)体験」は、茂木さんがしきりに使う「エラン・ヴィタール」(生命の躍動)の概念と密接不可分なものだと思う。ベルクソン/ドゥルーズ/木村敏流に言えば、ヴァーチュアリティからアクチュアリティへ、普遍的生命(ビオス=死)から個別的生命(ゾーエー=生)への流れが物質的世界(リアルなもの)と出会う界面において立ち上がるもの、それが「クオリア」であり「Aha!体験」であり、それらは「抽象」である。
 ただし、この言い方では、茂木さんの「クオリア」の概念が孕んでいる反生命的な、精確には反「個別的生命」的な質がうまく表現できない。もっともっと吟味する必要がある。
 また、古代ギリシャでは(今日のそれと逆転して)イデア的なものが具体であったというときの「具体」は、限りなく「実在感」に近いと思うが、実在(現実に存在すること)と実在感とは違う。一般に使われる「実在感」は、物質的なものにかかわるリアリティ(ありあり感)と生命的=主体的なもの(エラン・ヴィタール)にかかわるアクチュアリティ(いきいき感)のいずれか一方、もしくはその両者が綯い交ぜになっている。
 たとえば、茂木さんが「ゼウスやアポロンなどの人格神の活躍する仮想の世界」というときの「仮想」、すなわちイマジナリーなもの(『脳と仮想』のタイトルの英訳がそうなっていた)に伴う実在感はアクチュアリティであってリアリティのことではない。イマジナリーなもの(想像物)はリアルなもの(現実存在)の反対語だからだ。これに対して、一般に「仮想現実」という時の「仮想」はヴァーチュアルである。たとえばキリスト教の「神の国」はヴァーチャルなものであってイマジナリーなものではない。
 いずれにせよ、具体・抽象と個別・普遍、そしてそれらと実在(感)の関係は込み入っている。「クオリア」や「Aha!体験」を「単なる統合より抽象度が高い」統合という意味で「抽象」というとき、そこにありありとした、もしくはいきいきとした「実在感」が随伴しているかぎり、それらは「具体」である。

 ところで養老孟司は『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)に収められた「仏教における身体思想」で、「現在の日本の自然科学者が言う実証性とは、西洋から輸入された科学と、われわれの文化が本来持っていた実証性との、不思議な融合らしい」(227頁)と書いている。「西欧におけるキリスト教の教義が、それに対する「解毒剤として」、結局は自然科学思考を産み出したように、仏教もまた、わが国固有の「実証思考」を産み出しても不思議はない。」(229頁)
《要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそうだとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教という抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意される。》(231頁)
 養老孟司がいう「日本の実証思考」を知るためには、歌論、連歌論、芸能論の類を読むにかぎる。私はそう思って、最近にわか勉強に励んでいるのだが、それはともかく、ここでいわれる「抽象思考」と「実証思考」は、古代ギリシャにおける抽象・具体とどう関連づけられるのだろうか。また、カントの時代では、主観と客観の意味するところが、今日のそれと逆転していたと聞くが(ハイデガー/木田元)、それとの関係はどう考えたらいいのだろうか。これらのことは、今後の宿題。

★11月29日(火)

 梅原猛『美と宗教の発見』(ちくま学芸文庫)が面白い。第一部「文化の問題」に三篇、第二部「美の問題」に四篇、第三部「宗教の問題」に三篇、あわせて十篇の論文が収められている。1967年初刊で、梅原猛の(単著としての)処女作。生年が1925年だから、40代に入ったばかりの著者の「青雲の志」がたたきこまれた書物である。実に面白く刺激的。なによりも文章に勢いがある。鈴木大拙や和辻哲郎、柳宗悦、丸山真男といった権威に挑み、否をつきつける気迫がこもっている(第一部)。歌に縫い込まれた感情の襞に分け入り、論理をもってそのエッセンス(感情の論理)を摘出する研ぎ澄まされた感性がきわだっている(第二部)。第三部はこれから読むところだが、霊性ならぬアニミズム的生命感覚に裏うちされた日本的な宗教心性を鋭い論理の刃でもって腑分けし、しなやかで強靭な感性の投網でもってその実質を掬いあげているに違いない。
 「国学者たちは、ナショナルな日本の特徴を、歌道と神道に見た。この国学者たちの直観は正しいように思われる。なぜなら、明らかに歌は日本文化の中核に位し、神は日本の宗教の根源に存在しているように思われる。歌と神がどうなっているかを見ることにより、その時代の文化の大方の傾向を知ることが出来る。」(111-112頁)第一部の第三論文「美学におけるナショナリズム」に記された文章である。以下、「それゆえ私は、歌が、一体、明治ナショナリズムにおいてどういう姿を現わしたかを問うことによって、明治ナショナリズムの精神の実体を明らかにしようと思うのである」と続く。正岡子規批判が始まる。ここに出てくる「歌と神」が本書全体のテーマを要約している。万葉集ではなく古今和歌集、禅や浄土教ではなく密教を基軸にした日本精神史。また「明治ナショナリズム」の語が、第一部のテーマを集約している。廃仏毀釈とともに始まり、宗教的痴呆状態に陥り、歌(王朝和歌の美学=感情の論理)を忘れた近代日本文化に対する痛烈な批判。

《存在論としての日本文化を見るとき、われわれはそこに自然生命的存在論ともいうべき存在論を見る。ヨーロッパの存在論は、主として人間だけがもつ観念、あるいは精神を中心に一切の存在するものを見る存在論、すなわち観念論、あるいは物を中心として、一切の存在するものを見る存在論、すなわち唯物論かどちらかである。しかし日本の神道は、存在するものをすべて生命あるもの、生きとし生けるものとして見、この生命あるものを規範として山川から人間までの一切の存在するものを見ようとするのである。このような自然生命的存在論は、神道ばかりか、密教にも存在し、この存在論を中心にして神道と仏教が結びつくのである。われわれはこのような自然生命的存在論の伝統が、いかに深く日本の文化に浸透しているかを知らねばならないであろう。》(70頁)
《もしも人間の精神の発展段階を、意識、自己意識、悟性、理性というふうに考えるならば、日本の詩歌の発展史の中に、このような精神の発展段階が見られるであろう。大まかに言えば万葉集において意識の段階に立った精神は、『古今集』における自己意識と悟性の段階を経て、『新古今集』において理性の段階に達したといいうるであろう。ここで精神は、初めて永遠なもの、曰く言い難きものの前に立つのである。このように一応発展の頂点に達した精神は、もはや、より以上発展すべき道を見失うのである。定家の歌と歌論が、美の永遠の規範として徳川末期まで伝えられたのは、国学者が言うように、定家の子孫が秘伝の形で歌を私したというところにあるばかりではなく、むしろ定家において、一応、歌の精神は発展の頂上に達したからなのだろう。/子規はこのような定家の形而上学にたいして、何も知らない。》(146頁)

 20年以上前のことになるが、レヴィ=ストロースを招き京都で開催されたシンポジウムで「日本人のあの世観」をめぐる梅原猛の講演を聴いたことがある。梅原猛が語っているのか、梅原猛にとりついた憑物が歌っているのか、ほとんど神懸かり状態の語り、歌と神が渾然一体となったパフォーマンスだった。『美と宗教の発見』にもその片鱗、というか先触れの雰囲気が濃厚に漂っている。(梅原猛の語りに酔ってはいけない。陶酔しているだけでは駄目だ。私もまた「若き」梅原猛にならって、この巨人と対決しなければならぬ。)この世とあの世、具体と抽象、しるしとしるされるもの、象徴と象徴されるもの、等々。梅原猛の論理=語りはこれらの二項を同時に包みこんで稼働していく。このことはいずれ、歌体論をあつかった第二部をとりあげる際にあらためて考えてみよう。

★11月30日(水)

 『新々百人一首』につづき『完本 風狂始末』(安東次男)の評釈を夜毎、一句もしくは二句ずつ読んでいる。幸田露伴、折口信夫らの諸注を「これでも学問かと云いたくなるほどひどい話で、気分で解釈はできぬものだ」(48頁)とバッサリ切りって捨てるその舌鋒は痛快極まりなく説得力に富んでいる。といいたいところだが、ここは私ごとき初学者が軽々に口をはさむべき世界ではない。軽妙にして深甚。
 丸谷才一が『恋と女の日本文学』に「芭蕉の名声のかなりの部分は、恋の座の付けとその捌きとによるものであった」と書いている。(このことは前にふれた。)
 たとえば「狂句こがらしの巻」初折(しょおり)・裏入の「わがいほは鷺にやどかすあたりにて」に「髪はやすまをしのぶ身のほど」と応じる。この野水・芭蕉の付合(つけあい)を「男女の問答体」と読み取ることが安東次男の評釈の勘所なのだが、鷺からアマサギ(尼鷺)を連想し、尼の還俗を発想するなど、そもそも「髪はやすま」を「髪生やす間」と読むことすらできなかった未熟者には到底かなわぬこと。まして芭蕉の「恋の座の付けとその捌き」を鑑賞するなど身の程知らぬの所業である。が、ここはまあゆったりと構えて、日々の蓄積がもたらす奇跡に期待することにしよう。

 蕉風を極めることを断念したわけではないが、前々から一度読んでみたかった萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』(岩波文庫)【¥460】を買った。全151頁の「薄い本」。坂部恵の『モデルニテ・バロック』や三浦雅士の『出生の秘密』に朔太郎についての印象的な叙述が散見されたこと、昔読んだ山城むつみの『転形期と思考』に蕪村をめぐる刺激的な論考が収められていたことなどが頭にあった。
 芭蕉の美のイデアは「老」であり、蕪村の詩は「若い」。しかし「蕪村の本質は、冬の詩人とさえ言わるべきだ」(21頁)。「俳句は抒情詩の一種であり、しかもその純粋の形式である」(24頁)。蕪村の詩のポエジイの実体は「時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった」(27頁)。面白い。