不連続な読書日記(2005.10)



★10月1日(土)

 講談社学術文庫の二冊、小西甚一『中世の文芸──「道」という理念』(もともと『「道」──中世の理念』の書名で現代新書から刊行されていたもの)と折口信夫『日本藝能史六講』を至急手元におきたくなって書店をはしごしたがみつからず、ふと目についた高橋睦郎『読みなおし日本文学史──歌の漂泊』【¥640】を購入。歌びとは神の代行者、神の言葉を語る口寄せとしての巫者の後裔であった。すなわち日本文学の原点は歌であり、歌とは本来神の歌だった。面白い。二年前に出た『十二夜──闇と罪の王朝文学史』もあわせて読みたい。
 

 以上は昨日の出来事で、今日、ある会合を抜け出し三宮駅前のジュンク堂に出向いて折口信夫『日本藝能史六講』【¥700】をみつけた。往復の運賃六百円余りかかったが気分がいい。荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅』とあわせて鞄のなかの常備本としてしばらく持ち歩くことになりそう。
 某会合からの帰り、交流会で少しきこしめした日本酒の勢いで、岡野玲子『陰陽師13 太陽』【¥886】と萩尾望都『バルバラ異界』2?4【¥505×3】をまとめて買った。いずれも完結。安心して読むことができる。

 『バルバラ異界』は二年前に第1巻を読み、いつかまとめて読むべしと我慢していた。第4巻の帯に茂木健一郎さんの推薦の辞が載っていた。いわく「読んでいると、ふわっと心地よく意識がゆらぐ。その波が、切ないラストまで一気に私を運んでいってくれた」。
 萩尾望都対談シリーズ「科学者とお茶を」[http://www.poplarbeech.com/kagaku/kagaku_001.html]で萩尾望都が語っている。「茂木さんが「ふあっと」と、おっしゃったけど、女の人の作品は境界(枠)が非常に曖昧なのです。特にコマとコマとの境界が、けっこう曖昧で、主人公がいきなりコマをはみ出して等身大で出てきても、アップで出てきても、あんまり読者は驚かない。男性の漫画は、むしろコマからはみだすほうが珍しくて、コマをきちっと割っていきます」
 石川忠司との対談(『群像』10月号)で保坂和志が「漫画って、コンセプトを伝えやすいよね。小説は、細かく書くと、自然、コンセプトがあやふやになるから」と言っていた。このことと関係するのかどうか分からないが、萩尾・茂木の対談に次のくだりがでてくる。

《茂木》さっきおっしゃってましたよね、漫画では「登場人物があって、背景では何か別のストーリーが流れている」と。登場人物だけを見るんじゃなくて、その背景でもまた別の出来事が起こっているのを読み取る――というのに相当することが、何かあるなぁ、と。だから萩尾さんの『11人いる!』も、ハードSFとしても読めるんだけど、読後感としてはストーリー・ラインの背後にある空気感、世界観といった感覚的なものが中心を占めている感じですよね。あらすじだけをまとめたら、本質的なものが抜け落ちてしまうと思う。これは他のジャンルでは見たことない気がします。というか、この感じは文字だと表せない、漫画じゃないと表せないんです、きっと。
《萩尾》ううん、すごい、そうなんですか。それは、マンガの評論の新しい方法として、見逃せないポイントですね。茂木健一郎著の、漫画はこう読む、誰も知らなかった新しい読み方、なんて本、読んでみたいですねえ。

 養老孟司・牧野圭一(京都精華大学芸術学部教授)の対談『マンガをもっと読みなさい──日本人の脳はすばらしい』が出ている。本屋でざっと立ち読みしてだいたいの感触はつかんだつもりだけれどほとんど思い出せない。茂木健一郎著『漫画とクオリア──漫画はこう読む、誰も知らなかった新しい読み方』が出たら、あわせて読み直そう。

★10月2日(日)

 『物質と記憶』。第一章八節「感情的感覚の本性」から十節「イマージュ本来のひろがり」まで熟読。十一節「純粋知覚」を素読。71頁から75頁にかけての「純粋知覚の理論」の手短かで図式的な要約はとても便利。第一章の議論はほぼこれで尽きている。以下は第二章へのつなぎ。ややドライブ感に欠けるのは読み手の側の事情か。
 「私たちの知覚は純粋な状態ならば、本当に事物の一部をなすことになる」(75頁)。この一節を読んで實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』を思い出した。實川氏は「意識革命」以前の西洋において意識は物質的であったと書いている。「こんにちでは、心のうちで、物質や肉体に近いと考えられているのは、意識よりは無意識である場合が多いだろう。しかしながら、西洋中世においては、いや「意識革命」の前までは、意識のほうが物質に近かったのである」(72頁)。
 これに続いて「十三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった」「このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている」(72-73頁)と書かれている。ここで註がついていて、「新しげなよそおい」の一例として「アフォーダンス」が挙げられている。それは「知覚を、環境との関わりの可能性ととらえる発想で、やはり可能態から現実態へという枠組みのなかにある」のであって、その「中身は、一○○年ほど前にフランスの哲学者ベルクソンによっても語られた考えで、五○年ほど前にはドイツのヴァイツゼッケル、フランスのメルロ=ポンティが、かなり洗練された形で示している」(233頁)。ここの箇所は何度読みかえしても刺激的。

     ※
 瀬里廣明氏が主宰する「幸田露伴研究所」[http://homepage3.nifty.com/rohan/index.html]の幸田露伴論(その114?116)に「仙書参同契とベルグソン」というエッセイが収められている。冒頭の一文が目をひく。「露伴とベルグソンとの関連を指摘していたのは、日夏耿之介であった。あの東洋的なあまりに東洋的と言われる「仙書参同契」にベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」の影を見た人である。」以下、末尾に添えられた「補説」をペーストしておく。
《日本近代の文学者で、ベルグソンから大きな影響を受けた人は小林秀雄であろう。戦後私が小林に会った時、彼は分析は嫌いです、私の文学は直観ですと即座に答えた。
 ベルグソン哲学の中核にある思想はエラン・ヴィタールだ。 これは生命の飛躍であり、根源的衝動である。これは持続の直観でしか捉える事ができない。即ち分析的加工的な知性では生命そのものを見ることは不可能である。神とはとどまることを知らない生命の流動であり活動である。それと合一するのが真の宗教である。露伴の「仙書参同契」は自然(人間もその一部)の中にある生命の根源的姿を描いた稀有の作品である。》

★10月3日(月)

 前田英樹『倫理という力』読了。プラトンは『パイドロス』で正確に考える人(知恵を愛する人)を「巧みな料理人」に譬えた(82頁)。ベルクソンはこの比喩を愛好した。著者もこれを愛好する。だから倫理を語る本書にトンカツ屋のおやじが登場した。「トンカツ屋のおやじは、豚肉の性質について、油の温度やパン粉の付き具合について随分考えているに違いない。いや、この人のトンカツが、こうまで美味いからには、その考えは常人の及ばない驚くべき地点に達している可能性が大いにある。このことを怖れよ。この怖れこそ、大事なものである。」(8頁)なぜか。「怖れることができるには、自分より桁外れに大きなものを察知する知恵がいる」(10頁)からである。
 著者もまた「巧みな料理人」として倫理という食材を捌く。その旨味、すなわち「潜在的道徳」(20頁)や知性でも本能でもない「第三の能力」もしくは強い大きなひとつの力としての「倫理の原液」(30頁)をひきだすために。倫理とは人間の業である。しからば人間とは何か。道具を使う動物である。言語を操る動物である。この最初の分割(捌き)が本書の基調(風味)をかたちづくる。

 道具は自然との接触において技術という知恵をうみだす。美味いトンカツを揚げる技とスピノザを註釈する技倆とが同じ価値で出会うような場所で成り立つ技術、その技術を継ぐことが同時に人間というものを継承することであるような技術(83頁)。それは木(自然)に学ぶ宮大工の棟梁の信仰と倫理学(152頁)につながっていく。「これは職人だけの領分ではない。生活の至る所に開けた自然への通路である。自然は私たちの知性に、ほんとうは何をさせたがっているのか、宮大工はどうやらそれを知っている。「物の心」、「人の心」を知る彼のやり方が、そのまま彼にその知恵を育てさせる。このような知恵が発する声に、私たちは耳をすませたほうがよい。その声の向こうにもっと低いもうひとつの声が聞こえる。それは、自然が知性に命じる声だ。道具を用いる知性が知性を超えて、ひとつの黙した倫理に達する路が、ここにある。」(160頁)
 言語は知性の発明品ではない。知性(個体の能力)が本能(集団の能力)から完全に分化したその地点に、言語は知性と共にすでに存在していた(114頁)。著者はそう考える。まず知性のエゴイズムから共同体を防衛するために、死後の世界や転生の物語を言葉や絵図で仮構する「静的宗教」が生まれた。しかし、宗教は知性に対する自然の防衛反応である以上にもうひとつの源泉をもっている。すなわち「エラン・ヴィタール」(ベルクソンではなく著者自身の言葉でいえば「倫理の原液」)。ある「特権的な魂」によって告げられる「あなたの隣人を愛せよ」というただそれだけの言葉のうちに集約される「動的宗教」。「静的宗教のなかに点火されて人類のなかに燃え続けてきた何か、消えかかっては再燃し、飛び火していった何か、宗教と呼ぶにはあまりに単純な言葉でしか表わすことのできない一つの力、私たちの社会を世界規模の危機から救うものは、まずこれだろう。これを動的宗教の本質と呼ぶかどうかはどうでもよい。この力は、黙していて、個体の知性の上に、知性以上の強い動力としてやってくる。」(129-130頁)

 こうして調理の仕上げの段階を迎える。自分より桁外れに大きなものへの怖れ。自然が知性に命じる声。知性が知性を超えてひとつの黙した倫理に達する路。個体の知性の上に、知性以上の強い動力としてやってくる沈黙の力。「私たちの生の目的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的と同じ方向を向いている。私たちの理性は、この目的が何なのかを問うことはできる。が、明確な答えを引き出すことはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。答えて、その目的に応じる行為となる。それなら、この答えがうまく出るような生への問い方を、私たちは絶えず工夫しているほうがよい。それが、他のどの動物でもない、人間として生きるということではないのか。」(185頁)
 生の究極の目的は、決して忙しがらずに美味いトンカツを揚げること、毎日白木のカウンターを磨き上げながら自分の死を育てていくことである。人はこの言葉に説得されるだろうか。「在るものを愛すること」という言葉は在るものを愛することへと人を動かすだろうか。もしそうであれば、ここにひとつの奇跡が成就したことになるだろう。著者の綴る言葉は熟成したソース(倫理の原液)に浸された芳醇な料理としてさしだされる。

★10月4日(火)

 坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』読了。「バロックとは…モデルニテと通底してひとつの時代のおわりに立ち会いつつある者の生と思考のスタイルにほかならず、一方でビザンチンや中世の水脈につながりそれらの見直しと再評価をうながすものとして、千年単位の歴史の展望と見直しへとおのずからわたしたちを誘うのです」(53頁)。名著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の続編ともいうべき本書は、西欧日本を通底する千年単位の精神史的水脈のうちに近代日本のモデルニテの帰趨を位置付け、来るべき日本哲学の可能性を一瞥する誘惑の書である。
 著者の眼差しはパランプセストのように重ね書きされたスピリチュアリティーとポエジー、そして形而上学的思索の歴史を垂直の次元で切断し、そこに出現する「あわい betweenness-encounter」を自らの身と感性と言葉でもってアクロバティックにつないでいく。エリウゲナと空海。ニコラウス・クザーヌスと一条兼良。『神曲』と『愚管抄』。あるいは「同時代人」としてのベンヤミン(1892?1940)と萩原朔太郎(1886?1942)、そして九鬼周造(1888?1941)。
《モダン・バロックのアレゴリーに深い理解と共感を寄せたベンヤミンのアレゴリー論と、朔太郎と九鬼におけるアレゴリーの位置づけを比較対照してみれば、そこに時代精神のありかたとその文化的伝統に応じての偏差というべきものが浮かび上がってくることでしょう。/ある意味でモダン・アレゴリーに対応するものとして、二人が興味をよせた「いき」も蕪村も、いずれも日本の文化史におけるバロック・タルディーフ、遅咲きのバロックと称するべき現象でした。日本のバロックを、よくいわれるように、室町から安土桃山にかけての時代に認めるとき、この領域にたいする二人の関心の欠如ないし薄さをどう理解すべきでしょうか? このあたりについて考えてみることが、「実存主義」の理解にはね返るとすれば、それは、どのような形をとってはね返るでしょうか?》(79-80頁)
 本書には多くの謎と挑発が仕掛けられている。無尽蔵の刺激と創見が言い切られることのない断片隻句のうちに鏤められている。

★10月5日(水)

 松岡心平『中世芸能を読む』読了。以前熟読した三章「連歌的想像力」はとばして、一章「勧進による展開」と二章「天皇制と芸能」と四章「禅の契機─バサラと侘び」を玩味した。天皇制と禅をめぐる部分はやや物足りない。というか、打てば響く実質が読み手の側にまだ備わっていない。何度も繰り返し熟読すべし。(天皇制については明石散人・篠田正浩『日本史鑑定──天皇制と日本文化』を参照すべし。明石散人の日本史鑑定シリーズは妙にそそられる。)
 とりあえず現時点で注目していること。禅と連歌に通底する「スピード感覚」について、二条良経(『筑波問答』)の「連歌は前念後念をつがず」云々をふまえ松岡心平いわく「連歌においては、前の意識と後の意識はつながらない。(略)それは、前後を切断して絶対の今を生きる、あるいは今から今へと非連続に一瞬、一瞬を充実して生ききろうとする禅の態度にきわめて近い。しかも、連歌は一句ごとに思わぬところへ転回していく…、連歌の世界は飛花落葉の、つまり有為転変の無常のこの世そのものを文芸として表現しているとみることができる」(171-172頁)。このスピード感、バサラの世界が「日本で最初に禅を芸能に取り入れた」(140頁)後期の世阿弥にいたるや「外に出さず抑制した中に芳醇を目ざす、逆説的な表現の美学」(191頁)に到達するというアクロバティックな逆説。

     ※
 小西甚一『中世の文芸』を探してジュンク堂三宮店へ。めあての本はみつからず、桑子敏雄『西行の風景』【¥920】と尾形仂(つとむ)『座の文学──連衆心と俳諧の成立』【¥980】を購入。昨日買った京阪神エルマガジン社の『ミーツ・リージョナル』11月号(特集「街の人はみな本好きだった。」)【¥400】を手引きに、いよいよ古本屋詣でを始めるか。

 『西行の風景』は前々からいつか読むべしと思っていた。『環境の哲学』を読み終えてからと思っていた。はじめにとあとがき、そして第一章を通読して、いまこそ読むべき時であると確信した。和歌即真言の思想。《空間とは「虚空」である。つまり、大空であるが、虚空は、西行が帰依した密教では、存在するものの真のすがたである。その虚空に出現する風景を心に映じたままに日本語で詠うこと、これが西行のもとめた「道」であった。このような西行の思想を一言でいえば、「空間と言語の思想」ということができるであろう。》(3-4頁)
 大岡信の解説「実証と想像力」によると、『座の文学』は重厚堅固な学の要塞で全部読み通すのに何日もかかる畏怖すべき著述である。「堅固きわまる実証と、それを背景とする奔放な想像力の跳躍、そしてその跳躍の必然性を納得させる新たな実証──尾形さんの学問の基本は、常にこの二つの力のダイナミックな交錯の上に成り立っている」(377頁)。ここでいわれる「想像力」の一例として大岡信が拾っているのが、夏目漱石『行人』の題名は芭蕉の「此道や行人なしに秋の暮」を本句どりした蕪村の「門を出れば我も行人秋のくれ」から採ったものではあるまいか、というもの。

 話は本題からはずれるが、実証思考と対になるのは(想像力ならぬ)抽象思考であるというのが養老孟司説。西欧におけるキリスト教と自然科学。日本における仏教思想と……。『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)の第四部「中世の身体観」に収められた「仏教における身体思想」に次のように書かれている。
《要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそうだとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教という抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意される。》(231頁)

 以下は私の仮説にすぎない。養老孟司さんがいう日本の実証思考は、歌論、連歌論、能楽論、俳論の類においてかろうじて「思想」として表明されているのではないか。例証(実証)その一。同じく「中世の身体観」に収められたもうひとつの論考「中世の身心」に、「私は、東洋の古い文献で脳を論じたものを知らない。「髄脳」ということばはある。しかし、これを表題にした書物は、要するに歌論書である」(266頁)というくだりがでてくる。『日本古典文学全集50 歌論集』(小学館)巻末の「歌論用語」に、髄脳(ずいのう)とは「詠歌の法則、心得、秘説、またそれらを記した書物」とある。『八雲御抄』には「五家髄脳」として『新撰髄脳』(藤原公任)『能因歌枕』『俊頼無名抄(俊頼髄脳)』(源俊頼)『綺語抄』『奥義抄』があげられているとも。

 先に引用した文章のすぐ後に「ところで中世の文献では、心ということばが頻出する」(267頁)とあり、養老孟司さんは続けて鴨長明の「あればいとふそむけばしたふ数ならぬ身と心との中ぞゆかしき」(「千人万首」[http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html]の通釈によると、「生きていればそのことを厭い、現世を背こうとすれば慕わずにはいられない。数にも入らないような我が身と、それを厭ったり慕ったりする心と――二つの間柄はいったいどうなっているのか、知りたいものだ」)が、そして「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」他の西行の歌が引用される。「心の艶」を連歌論の鍵語とした人物はその名も心敬という。

 例証その二。荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅』(知恵の森文庫)に歌合[うたあわせ]の判定をめぐる話題がでてくる。荒俣宏いわく「歌合とは、歌と歌をぶつけあう歌の相撲である」(40頁)。今日ならさしずめ「詩のボクシング」といったところだろう。ところで歌の良し悪しを判定するとはどういうことか。藤原清輔『袋草子』下巻「三十講歌合」に、赤染衛門の「かへるべきみちもとほきにかはづなくさはべにひをもくらしつるかな」に評者の藤原義忠朝臣が下した判定が記されている。蛙が夕暮れから鳴きはじめるものと知りつつ、沢辺に一日いたという。フィクションくさいので負け。
 荒俣宏いわく「研ぎ澄まされた美と雅の感性だけをもって、神のように「こっちが文学的にすぐれている」と託宣するのか、と思っていた。理屈というより師匠の趣味によって判定するものと信じていた。ところが実際は、歌の良し悪しを博物学的知識によって決していたのである」(42-43頁)。また「歌をつくるということは、まこと、文学である以上に理学に近い。数学や法律学に近い。そう、思った。そういうわけで、わたしは歌合の発見から、ようやく歌の理論すなわち歌学に興味をもつようになった」(45頁)。歌学は科学(博物学・理学)に通じる。

★10月6日(木)

 毎月6日の人社講の第二回目。神が宿るのではない、存在が神なのだ。宗匠の弁天さんの命題。この言葉を知ったことが第一の成果。第二の成果はケルト熱が再発したこと。
 坂部恵さんの「日本哲学の可能性」(『モデルニテ・バロック』)によると、西欧日本を通じた第一の精神史的転換期(9世紀、霊性の基盤)を代表する思想家はエリウゲナと空海で、この二人の並行性は多岐にわたるが、その一つはかれらの思想のなかに「民衆のメンタリティーのなかに生きてはたらく思想や霊性と通底するところ」があったこと。修業時代の空海が日本古来の山岳修業者の伝統とかかわりをもったこと。アイルランドに出自をもつエリウゲナの思索にケルトの想像力、構想力と通底するところがあったこと。ケルトの霊性と日本の霊性。このあたりのことは永久保存本、鎌田東二『宗教と霊性』を再読して確認しておこう。手元においておきたくて二冊買った坂部恵『仮面の解釈学』もあわせて読んでみることにしよう。

     ※
 田中優子さんのホームページで遊んでいて「連とは何か」[http://lian.webup.co.jp/tanaka/whatis/index.htm]のページをみつけた。これはずっと以前にも見ているはずだが、あまり記憶に残っていない。田中優子さんはそこで、日本の「連」(Forum)の起源は二つの方向から考えられると書いている。一つは連歌。歌垣や宴、歌合の例にみられるように古来から「集まって歌を作るのは自然なことだった」。いま一つの起源は農村の社会構造。ここは大事なところなので丸ごとペーストしておく。(歌論と農書の研究。このふたつが一つにつながった。)
《日本の村は「村」を最小単位とするものでなく、多数の小グループが複雑に交錯し合って村を形成していた。それらは機能によって「座」「講」「組」「結」「中」と呼ばれていた。その中の「講」は仏教の布教にともなってできた全国ネットワークをもつものであり、村は小グループによって外の村とつながっていた。また農村の「一揆」のグループと連歌のグループとは重なることがしばしばであった。町の運営の単位もこの構造に似せて作られていた。》
 ついでに先月末、半日ほどかけてインターネットで遊んだ「成果」の一端をペーストしておく。

 その一。「独人のささめごと」[http://urawa.cool.ne.jp/germanwada/index.html]というページに「心敬の連歌論について」の序論と第1章(「艶なる道」としての歌道)が掲載されていた。心敬は『さゝめごと』第三九段で「誠に世にみちてよりは、心たかく情けふかき道は絶え侍るにや。ひとへに舌の上のさへづりとなりて、胸の修行は跡なく侍るやらん」と書いている。和歌連歌同一、仏道歌道一如の説はここに由来する。独人氏は心敬の連歌論のキーワードを「(心の)艶」と定め、その解釈論を展開している。
《「心の艶」の「心」とは、<句の心><作者の心><鑑賞者の心>という三つの「心」において考えられるのだが、「まことに艶なる句」とは、これらが全て「艶」なるものであるとき初めて成立すると言えるだろう。まず<作者の心>は当然「艶」でなければならない。そうでなければなければ、色どりに囚われて「ざうきの入れこ」や「町あしだ」に憂き世を見出すこともないし、その場合には「胸のうち」の魅力として賞賛されることもない。そして「艶」なる<作者の心>から詠み出だされた句は当然「艶」なる<句の心>を持つことになる。この<句の心>は、「艶」なる<作者の心>の一事例としての具体化である。ところが、この両者の「艶」をまことに「艶」なるものとして理解できるのは、それを「艶」と見ることのできる「艶」なる<鑑賞者の心>のみである。即ち、「艶」なる<鑑賞者の心>によって「艶」なる<作者の心>が推し量られ、共有されるからこそ、「まことに艶なる句」は「まことに艶なる句」たり得るのである。その意味で「まことに艶なる句」とは、「艶」なる<作者の心>と「艶」なる<鑑賞者の心>とが一つとなることによって成立する、双方の「心の艶」の共鳴の産物と言えるのである。(中略)歌道はまさに「艶なる道」でなければならなかった。この「艶なる道」こそは、「艶なる歌人」が「心の艶」を共鳴し合い、「まことに艶なる句」を詠み交わす道として、心敬の求めるまことの道に他ならなかったのである。》

 その二。田中裕さんのブログ「プロセス日誌」に「プロセスの詩学─座の文藝に関する考察」という興味深い論考が掲載されていて、その四「連歌における相互主体性」に次の文章が出てくる[http://blog.goo.ne.jp/eigenwille/e/43c8bd3961707879fadf26e91b35b5f7]。
《連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに
 親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。
というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。
 心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。》
 同じく「連歌の美学的考察」[http://blog.goo.ne.jp/eigenwille/e/8d40c4f4a49e643c4dd67abc58f8a294]に「親句は教、疎句は禅」という心敬の言葉をめぐる考察があって、最後に三句切れ疎句表現の例として寺山修司の「マッチするつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」がとりあげられている。
《これは寺山の代表作ですが、上句はある雑誌に出ていた俳句を寺山が借用したというので問題になりました。私の見るところでは、この短歌はもとの俳句とは別のものとして鑑賞されねばなりません。この短歌の詩情は、上句だけにあるのでも下句だけにあるのでもなく、両者がある緊張をはらんで対峙している疎句付の関係にあります。 こういう種類の詩情こそ、連歌が追い求めているところのものに他ならないのです。》

 その三。親句・疎句を検索していて(こんな基本用語を知らなかった!)、小池正博という人の「連句から見た迢空と茂吉」[http://homepage2.nifty.com/masaoka/konisi.htm]に出合った。斎藤茂吉の魅力は疎句にある。たとえば「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」(『赤光』)。この歌をめぐる二つの評言。
《常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉氏の『赤光』の歌がわれわれを喜ばせたのはその歌の潜在的暗示に富むためであった。》(「俳譜の本質的概論」『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫)
《鳳仙花と上海動乱、このニ物衝撃、二者の意外な出会によって生ずる美的空間は、近代短歌の中でも、『赤光』一巻の中でも、瞳目に値しよう。はっとするくらゐ新しい、緊張と戦慄を伴った短歌など、かつて誰が予想し、誰が実践して見せてくれたらう。別にロートレアモンやブルトンを担ぎ出すことはない。しかし、短歌では、ふと彼らを想起したくなるほど画期的な作品ではあった。そして、今日見てもなほ、別の問題を提出してくれさうだし、少しも古びてはゐない。》(塚本邦雄『茂吉秀歌「赤光」百首』講談社学術文庫)

 親句の例。釈超空「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を 行きし人あり」(『海やまのあひだ』)。この作品に対する自注。
《山道を歩いてゐると、勿論人には行き遭はない。併し、さういふ道に、短い藤の花房ともいふべき葛の花が土の上に落ちて、其が偶然踏みにじられてゐる。其色の紫の、新しい感覚、ついさつき、此山道を通って行った人があるのだ、とさういふ考へが心に来た.もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訳ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌ったので、今も自信を失ってゐないし、同情者も相当にあるやうだが、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言った論理的な感覚を起し易いのである。》(「自歌自註」『折口信夫全集31』中央公論社)

★10月7日(金)

 瀬名秀明『デカルトの密室』で、「中国語の部屋」に幽閉された尾形祐輔が「これは機械の振りをするのではない、人間の振りをするのでもない。本当にぼくが人間であることを明示する戦いだ」「ぼくは文字情報だけで生身の人間であることを証明しなければならない」(100頁)と独り言を呟いている場面を読んでいて、チューリング・テストで検証される「AIの心」とは心敬が「艶」と呼ぶ「歌の心」と同じ種類のものなのではないかと考えた。
 歌の心、つまり文字で表現された作品の心。それは比喩ではない。心は物に即して語られる。心は物とともに在る。物を離れて心はない。心が物に宿るのではない、物の存在が心なのだ。(物来って我を照らす。)ここで昨日の会合でもう一つ成果があったことを思い出した。実験人文学というアイデア。それは自然科学の実験や社会実験とは異なる。価値を創り出すこと。文化、伝統、歴史、共同性その他、考究の対象を自ら創り出すこと。歌を詠む作者の心、作品そのものにあらわれた歌の心、歌を鑑賞しこれに句を付け評定する者の心。自らの身体のうちにこの三つの「心」のはたらきを見出すこと。実験神学。実験形而上学。

 詩人の富哲世さんから『イリプス』16号が届く。富さんとは先日、偶然に再会した。「移動」という詩が掲載されていた。「隧道横のバス停で/あふれる日差しに心まみれて/風の運ぶ海の落葉をぼんやり見ていた」。なにかが終わってしまって、世界は静謐な諦念のようなものにくるまれている。世界はじつは狂っているし、壊れているのだが、そのことに気づく人はいない。いや、気づいているのだが、なにに気づいているのかをだれもしらない。言葉は心とのつながりを失って、落葉のように、秋の日差しのように、ひらひら、キラキラと砕けていく。「仕方ないなぁ、わたしたちの/間違いさがし」。富さんの詩の言葉は、かつての自らの肉を切り刻んでいくような無邪気な凶暴さを失っている。屍肉が放つ死臭を帯びている。だが、その香は芳しい。

★10月8日(土)

 押井守の『イノセンス』と浦山桐郎の『キューポラのある街』を観た。『イノセンス』の映像にはしばしば息をのんだが、つづけて観た昭和37年封切の『キューポラのある街』の白黒の画像の前にすっかりかすんでしまった。くらべる方がおかしい。草凪優『桃色リクルートガール』【¥648】読了。この人の本は三冊つづけて読んだ。ちょうど睦月影郎と神崎京介の中間のテイスト。状況設定と物語の進行がナチュラルで新鮮。萩尾望都『バルバラ異界』の第1巻を再読。やっぱり完結している漫画は安心して読める。せっかくの三連休なので、あれもこれもと計画していたが、じっさいはこんなもの。

★10月9日(日)

 東京で見損ねた『ベルリンの至宝展』を神戸市立博物館に見に行く。明日が最終日。それなりに人が多くて、じっくり時間をかける余裕がなかった。「祭壇の浮彫:太陽神アテンとアクエンアテン王の家族 前1345年頃」「アプリア製渦巻型クラテル:巨人族との戦い(ギガントマキア) 前350‐前325年」「サンドロ・ボッティチェリ“ヴィーナス” 1485年頃」の三枚の絵葉書を買って、小一時間ほどで会場を出た。クルト・シュテーフィングの肖像画「フリードリッヒ・ニーチェ」(1894年)がよかった。

 萩尾望都『バルバラ異界』全4巻を読了。バルバラの謎が明かされる最終巻を読んでいる間、とりわけ夢先案内人・渡会時夫の記憶が上書きされていく場面では、私自身の脳内過程が二重化されたかのような眩暈に襲われ、軽い頭痛と嘔吐感をさえ感じた。読み終えた刹那、一瞬のことだったけれど、目に見える部屋の情景が夢の世界の出来事のように思えた。北方キリヤへのトキオの思いが切なく迫ってくる。自我の孤独と「ひとつになること」。
 記憶の「上書き」というと、ボードレールが『人工楽園』で人間の脳髄や記憶に準えた「パランプセスト」(書かれた文字を抹消して重ね書きされた羊皮紙)を想起する。夢と現実の重ね描き。ここで「夢」とは「未来」(死後の世界)のことで、エズラ・ストラディの語るところによると、「人間のもつ抽象思考能力は未来の出来事に影響をおよぼす いわばみる夢は──実現するのだ」(第4巻60頁)。この言葉はこの作品そのものの成り立ちを告げている。
 いや、漫画そのものがパランプセストなのだ(あるいは日本の藝能、文藝に通底するものとしてのパランプセスト)。岡野玲子の『陰陽師』と萩尾望都の『バルバラ異界』。同時期に完成したこの二つの作品世界を縦横に遊弋し、そこに重ね描かれた観念や形象を存分に論じきった批評を読みたい(書きたい)。とりあえず『バルバラ異界』については、先の抽象思考能力云々と死者の心臓に宿る記憶物質(福岡伸一『もう牛を食べても安心か』を参照すべし)、そしてケルトが手掛かりになる。「わたしの一族の発生は古い エルベ川ぞいで鉱脈をさがしながらヨーロッパを南下したケルトの古い末えいだ……男も女も早く老いた 20歳をすぎると老人になった 背も低く そう…「白雪姫と七人の小人」の物語の鉱脈堀りの小人のような ハハハ…」(同53頁)。

★10月10日(月)

 『ダカーポ』増刊「最新!サプリメント辞典」【¥476】と『週刊日本庭園をゆく2 京都洛北の名庭1 金閣寺・龍安寺』【¥238】を買った。龍安寺は石庭よりも鏡容池(きょうようち)周辺の散策に惹かれている。五月に拝観して紅葉の時期にもう一度訪れることにしていた。

 『物質と記憶』。純粋知覚の理論の要約(71-75頁)を再読し、十一節「純粋知覚」から十四節「物質と記憶力」までを通読。これで第一章を終えたことになる。
 「純粋記憶を脳の作用からひき出そうとするあらゆる試みは、分析すれば根本的な錯覚を露呈せざるをえないだろう」(85頁)。このことと第二章冒頭の「身体が過去の行動を蓄積しうるのは、運動の装置としてであり、また運動の装置としてにすぎない。そこからして、普通の意味での過去のイマージュは、別な形で保存されるものであり」(90頁)云々とを組み合わせれば、純粋記憶の理論のエッセンスが早々と述べられたことになる。純粋知覚の理論は権利上のものであって、だから実験的に実証することはできないのに対して、純粋記憶の理論は、それがもたらす結論には形而上学に属するものが含まれているにもかかわらず、経験的に検証可能である(87-88頁)。経験的形而上学もしくは実験形而上学。

     ※
 少し考えてみたいことがあるので書いておく。前田英樹さんの『倫理という力』に、物の学習と記号の学習という対になる言葉が出てきた。以下は私の勝手な議論なので、前田英樹さんの議論とはほとんど関係ないが、この「物」と「記号」を養老孟司さんがいう「情報」の仲間だとするとどういうことになるか。「情報」とはスルメやDNAのように停止し止まったもの、動かないもの、変化しないもののことだ。養老「人間科学」においてこれと対になるのが「システム」で、それはイカや細胞のようにひたすら動いて変化していく。
 では、物や記号と対になるもの、スルメに対するイカに相当するものは何かというと、それは物質、生命、精神である。なにか決まったこと、決着がついたことのように書いたが、これは私がそう考えているだけのこと。説明抜きの「考え」の羅列をつづけると、生命と物質の界面で立ち上がるものが「物」で、生命と精神の界面で浮かび上がるのが「記号」。立ち上がるとか浮かび上がるといった言葉の使い分けにはあまり意味はない。そもそもそういう言葉で表現できることなのかどうかも不分明だが、ほかの言い方や概念が思い浮かばないので仕方がない。
 話が複雑になるが、ここで生命というシステムを二つに分類する。集合的生命(種)と個体的生命(個)。気分としては、前者が物質システムとの界面に、後者が精神システムとの界面により多く分布している。太極図(白黒の巴がからまりあった円)を想像してもらえればいい。物質システムと集合的生命(より精密に言うと「集合的生命の濃度が高い生命システム」)との界面に立ち上がる物情報は「食」とか「性」にかかわる呪術性を帯びている。ラカンの想像界。あるいは王朝和歌。個体的生命(「個体的生命の濃度が高い生命システム」)と精神システムとの界面に浮かび上がる記号情報は「名」や「死」にかかわる抽象性を帯びている。ラカンの象徴界。あるいはアレゴリー。

 いったい何を書いているのか自分でもよく分からなくなってきた。ベルクソンの純粋知覚(物質過程)は物情報に、純粋記憶(精神過程)は記号情報に関係している。生命システムの二分類は、ベルクソンの進化論や宗教・道徳論に関係している。というか、そのように関連づけて考えようとしているのだからそれは当たり前のことなのだが、ここで挫けずもう少しがんばってみよう。
 物情報の「意味」(アフォーダンス)は物質システムと生命システムの界面に、すなわち「環境」のうちに立ち上がるものであって、その意味を固定する仕組みとして脳が設えるものが時空構造である。この時空構造を記号情報の局面に、つまり生命システムと精神システムの界面に浮かび上がる記号情報の意味(魂)にあてはめようとすると、そこに様々な形而上学的アポリアが発生する。たとえば、無限に分割できる空間や時間の観念。エレア派のゼノンのパラドクス。

 このあたり、養老孟司『日本人の身体観』からの剽窃あり。古い仏教の身体思想の論理が「自己相似」にあることを論じた「仏教における身体思想」に、ウパニシャッド哲学における絶対者は万有に遍在するというくだりがある。《これはキリスト教の神も同じである。万有に遍在するものとはなにか。私は脳しか認めない。それなら、脳が万有に遍在するとして認めるものはなにか。それは時空である。もっとも経験に明瞭なものは、空間である。空間は万有に遍在するからである。実際、神が遍在するというときには、一つには空間を意味し、もう一つには時間を意味している。神はどこの場所にも、どの時点を区切っても、そこに存在している。それが、「神の内容は時空だ」と私が言うことの意味である。》(236頁)
 神の概念は時空と結びついてわれわれの脳のなかにある。時空は「図」に対する「地」としての特徴を備えている。すなわち時空の無境界性と透過性(遍在性)。「時間も空間も、すべての物事を「通り抜けて」しまう。われわれの方が両者を通り抜けると感じる人もあろう。どちらにしても、さしたる変わりはない。」われわれの方が時空を通り抜けると感じる人はニュートンの絶対空間に共感し、時空がわれわれを通り抜けると感じるならアインシュタインが定式化した時空にリアリティを感じる。《こうして、時空の観念が強い存在感と結合して、神の観念が生ずる。時空の観念も、存在感も、生物が生きるためには基本的な観念と言わざるをえず、神の観念が人類に普遍的であるのは、そのためであろう。》(237-238頁)
 ここに出てくる「存在感」は、数学者にとって数学的世界は実在する、哲学者にとっては抽象思考こそ実在する、と言われるときの「実在感」と同義で、世の中に心に対して実在感を持つ人や脳が実在する人(唯脳論者)がいておかしくない。《心や脳の実在感が、心身論の紛糾の背後にあることは、間違いない。私はそう考える。しかし、学問はしばしば普遍性を要求するので、考えているのは本人の脳だということが、伏せられてしまう。こういう問題を議論するときには、正直なところ、理屈はともかく、本人の実在感はどうなのか、という問いを抜きにするわけにはいかない。》(「西欧の心身論」295頁)

 どこに行き着くのかほんとうに見えなくなった。「声」「顔」「身」につづいて「名」をめぐる(未完の)仮面考をいよいよしあげなければいけない。私の直観がそう告げている。仮面の素材や形態や機能には、なにかしら原始的とでもいうべき感覚に根ざした根源的な「記憶」が蓄えられている。「真正の」哲学的思考のうちには、そのような「仮面的なもの」が脈々と流れ、あるいは突発的に噴き出している。
 仮面的なものの原初的「形態」は、複数の穴をもった管(多孔体、たとえば笛や藁)や内部世界をもった器(たとえば洞窟や盤・椀・壷、壁面=表層=皮膚に刻印された動物系・植物系の装飾を含めて)であって、それらが「音=声」「顔=貌」「身=実」といった物質の三態に準えることのできる「機能」を備えた時、仮面的なものの原型がほぼ出来上がる。さらに物質の第四相、つまりプラズマに相当する第四の機能としての「名=徴」をめぐる「仮面の記号論」(パースのインデックス・イコン・シンボルに次ぐ第四の記号としてのマスク、あるいはイェイツの「仮面」をめぐる考察が拓く世界)が仮面的なものの実質と射程を余すところなく開示する云々。
 
 

★10月12日(水)

 このところ単行本では『西行の風景』と『デカルトの密室』、文庫では『「歌枕」謎ときの旅』と『日本藝能史』と『日本人の身体観』、新書では『読みなおし日本文学史』と『多神教と一神教』を日々取り替えながら読んでいる。
 その『多神教と一神教』に、前二千年紀半ば、楔形文字のメソポタミアとヒエログリフのエジプトとの狭間に群立する小都市国家においてはじまった「アルファベット運動」(「文字表記を簡素化し数少ない文字種で文章を表現しようという動き」85頁)と「一神教運動」(「神々の吸収合併」87頁)との関係を指摘するくだりがあった。
《そこ[カナンの地]には、ヒエログリフや楔形文字を生み出した文明にふれながら、ことさら自分たちの経験と記憶を書き記そうともがく人々がいた。/多種多様な神々が乱立する世界と多種多様な文字がちりばめられた世界。それらをできるだけ少なくすることに意をもちいる人々がいた。ひしめきあう神々のなかでもわが民の神を至高の存在とする意識と少ない文字種であらゆることを表記しようとする意識とは底流ではつながっているのではないだろうか。一神教運動というべきものがあるとすれば、それはアルファベット運動の精神と共鳴しあうところがあるのではないだろうか。まさしく「初めに言[ことば]があった。言は神と共にあった。言は神であった」(「ヨハネによる福音書」一・1)というわけである。》(87頁)

 ここを読んでいたく刺激を受けた翌日、『読みなおし日本文学史』の次の箇所に出会って刺激は累乗化された。
《わが国には遡って何時と数えることのできない悠久の過去から、歌は口頭で発せられ口承で伝えられてきた。歌は当然、神のものだった。そこに大陸から文字化された詩が、言い換えれば人間の詩が入ってきた。声で発せられる神の歌と文字に書かれた人間の詩とは、第一印象の上ではまるで別のものに感じられたろう。そのうち二つが同質のものらしいと意識されたのちも、歌と詩が同列に置かれることはなかったろう。先進文明の象徴である文字を伴った詩はかつて歌が坐っていた高みに上げられ、歌は時代遅れのものとして見下されていたろう。/ところが、歌が見直される時が来た。先進文明の官僚制度を徹底させるためには天皇の権威が不可欠になり、天皇の権威を確立するためには外来の人間の詩より土着の神の歌の方が有効だということがわかったのだ。そこで天皇はその祖先を歌を持つ神神に仰ぐことにした。祖先に仰いだ神神に歌がない場合には、他の神神から奪って祖先の神神の歌にした。こうして祖先の神神の歌の力によってこの世の神すなわち現人神となった天皇は、みずから歌を持つとともに他から歌を捧げられた。(以下略)》(51頁)

     ※
 高橋睦郎『読みなおし日本文学史』について、松岡正剛さんは「千夜千冊」第三百四十四夜に書いている。「日本の文学史はそもそも「歌」を内包した歴史であった…。ここで歌といっているのは和歌から歌物語や能楽をへて俳諧におよんだ文学をさしている。」「高橋さんは、ひとつの歌、ひとつの三味線、ひとつの踊りに、つねに二つのものが揺れ動くものを見ている。…その二つをきりきりと絞っていくと、それが、とどのつまりは「ますらお」と「みやびお」になるわけなのだ。…実はどんな芸術者の心身のうちにも、この二つに畢竟する何かの二つが揺れ動いているものなのである。高橋睦郎その人の生き方、また、その言葉の世界も、またそういうものである。それが言っておきたかった。」
 百人一首ならぬ「千夜千冊」で遊びはじめると時間がいくらあっても足りない。以下、こころみに「千夜千冊の小窓」から「心敬」を検索した結果を記録しておく。

◎第九夜:丸谷才一『新々百人一首』
「ああ、こういう仕事こそ自分もいつかは従事し、ひそかに堪能すべき仕事なのだろうと思った。」
「心敬の有心体からは何かと期待していたら、「世は色におとろへぞゆく天人の愁やくだる秋の夕ぐれ」であった。天人五衰の歌。選者はこの歌を正徹同様に、王朝和歌の弔いの歌として選んだようである。氷の艶はそこまで及んでいたか。」

◎第八十五夜:唐木順三『中世の文学』
「この最後の章で、唐木は次の主題を見出している。それは「無用」とは何か、「無常」とは何か、「無為」とは何か、ということだった。とくに連歌師・心敬への注目が、そのことを兆していた。」

◎第二百三十三夜:源了圓『義理と人情』
「義理人情は最初から措定されている心情なのではない。行ったり来たり、濃淡をもって動いている。おそらくは見て見ぬふりをしたいのに、それでも絡みついてくるものなのである。いわば風情の実感なのである。/そこを、むろんのこと学者は俊成や心敬のようには感覚的には書けないし、日本人である以上はベネディクトのように外からの粗い目でも書けない。ついついパターンにあてはめては、それを微妙に調整するようになる。しかし、そろそろそんなふうな見方だけでは“日本流”の説明は不可能なところにきているとも言わなければならない。固定的にとらえない日本人の心情というものも研究されるべきなのだ。」

◎第三百六十七夜:吉田兼好『徒然草』
「(言葉のチューインガムのように噛み、味噌汁や山葵醤油を噛んで味わうように読みたい本として)和歌俳諧は断然だが、それは省く。たとえば『伊勢』『枕』『明徳記』『風姿花伝』、心敬の『ささめごと』、『宗長日記』『西鶴織留』『五輪書』『徂徠政談』『茶の本』などがつらつら浮かぶ。素行の『聖教要録』、真淵の『語意書意』、それに兆民の『一年有半』もいいとおもう。いずれも短くて、濃くできている。文庫でいえばそれぞれ150ページをこえないだろう。」
 文庫でいえば150ページをこえない本というのはとても魅力的で、そのうちいつか坪内祐三『シブい本』のむこうをはった『ウスい本』をしあげたいものだと密かに目論んでいる。いま手元にある候補(都合により200ページ前後に拡張)をいくつかあげると、『三浦梅園集』(岩波文庫,148頁)、高木卓『露伴の俳話』(講談社学術文庫,180頁)、幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫,193頁)、金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫,171頁)、石川淳『夷齋小識』(中公文庫,180頁)、保坂和志『生きる歓び』(新潮文庫,164頁)。

◎第五百二十夜:村井康彦『武家文化と同朋衆』
「(同朋衆が登場してきた背景として)第3に、すぐれた批評、すなわち評価をする者たちが主として連歌師から生まれていった。正徹や心敬がその批評を代表するが、兼好法師や鴨長明、あるいは貴族や武家にもそのような評価を重視する風潮が生まれてきた。/ただし、これらの評価者は座の「外」で生まれたのではなかった。座の「中」に生まれたのである。ここが重要である。すなわちかれらは、座を取り仕切る者であって、かつその評価を文化にしていく者たちだった。」
 ちなみに「同朋衆が登場してきた背景」の第1は、「座」の社会が用意されていたこと。第2は、このような座を"サロンあるいはクラブの場"にしながら、そこで「寄合の遊芸」が尊ばれたということ。第4は、それとともに座のなかで「趣向」を重視する傾向が強くなってきたこと。これが「数寄」の心というものである。第5は、これらの「座の文化」をまるごとプロデュースし、パトロネージュする者があらわれたこと。

◎第九百七十九夜:中沢新一『対称性人類学』
「中沢の対称的思考は美しい。それはラカン的な鏡像過程をいかした思考を文体におきかえているからで、まさに『フィロソフィア・ヤポニカ』でいうなら西田幾多郎的ではなく田辺元的であり、フェリックス・ガタリ的ではなく、ジュリア・クリステヴァ的である。建築家でいうのならフランク・ロイド・ライトではなくミース・ファンデル・ローエ風だということになるだろう。/それだけではなく中沢の倫理思想は「正しさ」を求めているところがあって、バリティ(偶奇性)でいうのなら、いわば「偶」を完成するための思想なのである。連歌師にあてはめれば宗祇に近いというところだろうか。/これに反してぼくはといえば、「正しさ」に関心はなく、「奇」や「負」の本来こそ凝視したいほうなのだ。ライト的であって、西田的であり、連歌師ならば心敬に近いものがある。それだけでなく社会における人間思考の正当性の根拠律などよりも、人間がついつい逸脱してしまう「ほか」や「べつ」が大切だと思っている。中国水墨山水画の価値観でいうのなら、もともと「神品・妙品・能品」が絶賛されていたのだが、これに南の辺角山水が加わってからは「逸品」が自律してきたような動向にこそ、関心がある。/さらにいうのなら、「正解」よりもデュシャンの「誤植」のほうが好きなのだ。」

◎第九百九十一夜:松尾芭蕉『おくのほそ道』
「「櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ」は、櫓がきしる音を聞いていると体の奥まで寒さがしみわたるというほどの句意で、そう思えば、「腸氷」や「氷夜」といった造語はどこか心敬をさえ思わせる。」「「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。」

◎第千一夜:ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』
「今夜[千一夜目]は、源氏も心敬も啄木も白秋も一穂も三島も入らないし、デカルトもラシーヌもラフォルグもニーチェもドゥルーズも残余されたままになる。そのかわりに、今夜はとびきりの宇宙理論についての感想を、思いつくままに書いてみようと思っている。そうすることが、900夜くらいからずっと続いた東西古典回帰と日本イデオロギー議論をめぐる連打が体におぼえこませた残響を、ハウプトマンの沈鐘に変えてくれるだろうからだ。」

★10月14日(金)

 大阪での仕事を終え阪急東梅田商店街で一杯やって、紀伊國屋書店梅田本店で小西甚一『中世の文芸』と唐木順三『中世の文学』と岩波文庫の歌論集か歌合集を探したけれどどれも置いてなくて「これでも天下の紀伊國屋か!」と酔った勢いで毒づきながら、それでも何か一冊「記念」にと物色し、いずれ読むことになるだろうとふんでいたちくま学芸文庫の安東次男『完本 風狂始末──芭蕉連句評釈』【¥1700】を買い求めて、帰りの電車の中で「鳶の羽の巻」(『猿蓑』)の発句と脇句の評釈を読みしばし陶酔、其角の『猿蓑』序に「彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、声はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける」と反魂の法にふれた箇所があるのを知った。帰宅して日々の日課となった英語音読と丸谷才一『新々百人一首』、今宵は第53番、後鳥羽院「わたつうみの波の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞしぐるる」の註釈を読みしばし陶酔、我流の真向法のあと「きらきらアフロ」をみて寝た。

★10月15日(土)

 ユーラシア旅行社というところから出ている『風の旅人』15号(2005年8月1日)【¥1143】を買った。前々から気になっていた雑誌。なによりも写真が素晴らしい。執筆陣もけっこういい。近所の本屋に一冊だけ置いてあるのをみつけて買ったのだが、これは1号前の分で、いまはVol.16がでている。三宮のジュンク堂にバックナンバーが揃っていた。読んで気に入ったら順次買い求めていこう。佐伯剛編集長の「風の旅人は、心の旅に誘います」という文章をみつけたのでペーストしておく。
《前略、お忙しいなか、失礼致します。/昨年2003年の春、弊社は、『風の旅人』というグラフィック・マガジンを創刊致しました。2ヶ月に一度の発行で、この度第16号が2005年10月1日以降、全国の書店で発売されます。/『風の旅人』は、これまでの日本にはない地球規模の大自然や人間のドラマを取り上げる“心の旅の雑誌”です。毎号、桁違いの映像美と言葉の共演によって、世界との新しい関わり方を提示していきます。/情報が溢れ複雑怪奇に見える時代に、ヒトが生きることの原点にたち返りたいというのが、創刊の動機であり、編集の核です。/目の前を流れていく光景をただ何となく見てやり過ごすという、テレビ風の受け身の情報文化に慣らされた時代に、思いを籠めて対象を見つめ、しっかりと向きあっていく、能動的な媒体にしようと考えています。/単に時代の気分を匂わせるものではなく、何かの役に立つかどうかでもなく、未来につながっていく何かを、一人称できっちりと伝えていきたいのです。/日頃、ご多忙のことと思いますが、『風の旅人』で、しばし現実の向こう側に旅立っていただければ幸いです。》

     ※
 岡野玲子『陰陽師13 太陽』読了。読み終えて言葉を失う。「あとがき」に綴られた文章を読むにつけ、岡野玲子はとりかえしのつかない時空の彼方にとんでいってしまった。この作品は白い光と化した音楽をかたどっている。『music for 陰陽師』(ビクターエンタテインメント)の「覚書」に記された著者の言葉を引用しておく。(このCDには、『陰陽師』完結のあかつきにこそ聴かれるべき祝祭曲がたちこめている。)
《真の音楽とは、高等魔術である。そしてそれは、弾け散るような白い光の姿をしている。このCDに関わっていた一年の間、地球上に生まれたがゆえに、ダークサイドではあるが、誇り高い怨霊も、存在する。勝利の曲は勝利の喜びを知るものの手で作られ、勝利の喜びを知るものの手によって奏される。そんな言葉が頭の中を流れた。陰の極みと陽の極み両極に共通してあるものは、美と誇りと、存在することの祝福と、喜びである。雅楽の真髄は、強靱である。》

★10月16日(日)

 『物質と記憶』。先週読み飛ばした箇所を熟読したうえでこれまでの議論を反芻しておく予定だったが、気持ちが先へ先へと急くので過去をふりかえらず第二章一節「記憶力の二形式」を読んだ。(第一章にはいくつか熟考すべき論点や疑問点が残っている。最後まで読んでもう一度帰ってくることにしよう。)
 あるひとつの瞬間だけを考えるならば、身体は対象と対象の切断面に存在する伝導体であり、脳は(表象の器官ではなく)運動の器官である。以上が第一章の結論。これを流れる時間の中にもどしてみると、身体は未来と過去の動きつつある境界であり、私たちの過去がたえず未来へと推し進めるような動的先端である。この場合においても脳はあくまで運動の器官であり、だから脳の損傷は運動(記憶から運動への推移)を損なうが記憶そのものを損なうことはない。
 記憶には二つの形態がある。位置と日付をもった一回限りの出来事の表象と、身体に沈澱して運動機構のうちにうめこまれた記憶。前者(自発的もしくは人格的記憶心象)は思い浮かべるものであり、後者(学習された運動的記憶)は反復するものである。以上の議論を総括してベルクソンは次のように述べる。
《ひとはまず二つの要素、すなわち記憶心象と運動を分解し、しかる後にどのような一連の操作をへてそれらが本来の純粋性をいくぶん捨て、相互に融け合うようになるかを調べるかわりに、それらの癒着から生ずる混合的な現象しか考えないのだ。この現象は混合的だから、一面では運動的習慣の局面をあらわし、他面では多少とも意識的に局限されたイマージュの局面をあらわす。しかしひとは、これを単純な現象だと思いたがる。そこで運動的習慣の土台になる脳、脊髄あるいは延髄の機構は、同時にまた意識されたイマージュの基体でもあるということを、想定せざるをえないだろう。そこからして、脳の中に蓄積された記憶が、真の奇跡によって意識的になり、不可思議な過程によって私たちを過去へ導くという奇妙な仮説が生じるのである。》(103-104頁)
 ここにあるのは知覚と記憶の本性上の違いについて述べられたのと同じ論法である。質的分割。プラトン的な精神による分割の方法。巧みに肉を切ること(『パイドロス』)。ドゥルーズがベルクソンの「方法としての直観」の第二規則に掲げたもの、すなわち「幻想とたたかい、真の質的差異または実在の区別を見出す」こと。

     ※
 昨晩、『陰陽師』を読み終えて、箸休めではないが『孔子暗黒伝』を少し読み進め、結局、今日の昼下がり、『music for 陰陽師』(ブライアン・イーノではなくて伶楽舎の雅楽の方)を聴きながら一気に読み終えた。読後、眼精疲労と軽い頭痛に襲われた。文庫では活字が小さすぎる。描線が濃すぎる。少年ジャンプ掲載時に断片的に読んだ記憶があるが、もう少しのびやかな印象だった。奇譚、伝奇、異説(トンデモ)本としての面白さは格別だが、なによりマンガとしての出来が破格。どこか身心の歪みと時空のズレを内蔵した描画とぎくしゃくしたストーリー展開が読者の想像力をかきたてる。
 『孔子暗黒伝』を読んだら『暗黒神話』も読まなきゃダメ。だれかがブログにそんなことを書いていた。で、そのふたつを読んだら『西遊妖猿伝』も読まなきゃダメとも。で、諸星大二郎『暗黒神話』【¥600】を買った。続けて読もうと思ったが、眼と頭のことを考えてひかえた。

 『ミーツ・リージョナル』(11月号)に「街人の「イマヨミ」読本。」という特集があって、筆頭に内田樹さんの「脳内リセット故人伝」というインタビュー記事が載っている。そこにとりあげられた三冊の本のひとつが白川静『孔子伝』で、諸星大二郎『孔子暗黒伝』と酒見賢一『陋巷に在り』の知られざる原作本として紹介されている。「読んでびっくり、世界は「呪い」に満ちている。」ちなみに、他の二冊は『氷川清話』と『明治人物閑話』。
 古代社会において、呪い(呪術)とは政治である。この「呪い」でつながるのが、今日図書館から借りてきた丸谷才一『恋と女の日本文学』(講談社)。あとがきを読むと、著者は、詞華集を手がかりにして文学と共同体の関係を論じた『日本文学史早わかり』(1978年)が本の形にまとまったころ、三部作仕立ての日本文学史を書こうと思っていた。ケンブリッジ・リチュアリストたち(フレイザーほか)およびその弟子筋に当る折口信夫を参照して日本文学と呪術との関係をあつかう第二部。日本文学が恋愛と色情に特殊な関心を寄せていることに注目した第三部。第二部は『忠臣蔵とは何か』に、そして本書が第三部にあたる。
 講演をもとにした二編、「恋と日本文学と本居宣長」と「女の救はれ」が収められている。前者を読んでいると、王朝和歌でもっとも重きをなした恋歌の伝統が俳諧にもうけつがれ、「芭蕉の名声のかなりの部分は、恋の座の付けとその捌きとによるものであった」(45頁)ことの例証として、越人・芭蕉の両吟「雁がねの巻」(『阿羅野』)の話題が出てきた。「きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉/かぜひきたまふ声のうつくし 越人」。『完本 風狂始末』に評釈がある。

     ※
 中沢新一『アースダイバー』読了。ほぼ五ヶ月、手塩にかけて断続的に読み継いだ。以前、仕事で東京へ出かけた際、空き時間をつかった散策のガイドブックとして携帯したことがある。その時は、渋谷・明治神宮から東京タワーまで、全体のほぼ半分ほどの文章(「水と蛇と女のエロチシズム」と「死の視線」に彩られた土地とモニュメントの話題、とりわけ東京タワーをめぐる叙述は、後半の浅草をめぐる話題とともに本書の白眉)に目を通したものの、結局、実用書としては使えなかった。
 霊的スポット探索のための手軽な道案内としては使えなかったけれど、その後、折りにふれ読み進めていくうち、この白川静の漢字学やベンヤミンの『パサージュ論』にも通じる作品のうちに、「中沢新一の方法」ともうべきものがくっきりと輪郭をあきらかにしていることに気づいた。その方法とは、記憶や夢や観念の物質(アマルガム)、つまり「泥」をこねて「遊び」に興じることである。
(泥は存在のエレメントである。坂口ふみ『〈個〉の誕生』によると、ラテン語 substantia の語源となり、persona とも訳されたギリシャ語の「ヒュポスタシス」には古く「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの」という意味があった。また、折口信夫『日本藝能史六講』第四講によると、遊びは日本の古語では鎮魂の動作であった。)
 泥をこねて形象をつくること。あるいは、形象のうちに泥をイメージすること。王朝和歌の歌人のように。あるいはサイコダイバー、ドリームナビゲーターのように。それが中沢新一の方法、つまりイメージ界のフィールドワークである。松原隆一郎さんが朝日新聞の書評(7月31日)で「文学的想像力」とか「遊び心」といった言葉を使っている。まことに適切な評言だ。

《興味をひくのは、この語[ヒュポスタシス]のもっとも早期の意味に、液体の中の沈澱とか、濃いスープとか、膿というものが見られることである。沈澱とは流動的な液体が固体化したものを言い、おそらくそれから濃いスープや膿などの液体と固体の中間のようなどろどろしたものという意味が出てきたのであろう。そしてこの基本的な意味は、哲学的に用いられるようになっても、残りつづけていると思われる。ギリシア語の『七十人訳聖書』その他の、「存在を得る」という意味にも、非存在から存在が現われてくるという、動的変化のイメージがある。これは液体から沈澱が生ずる時のイメージと共通のものである。そしてレヴィナスが使うイポスターズにも、この「液体の中に固体が現われてくる」というイメージは生きている。》(『〈個〉の誕生』116-7頁)

 ほぼ日刊イトイ新聞に、中沢新一と糸井重里とタモリの鼎談が載っていた。以下、若干の抜粋。「中州産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 presents はじめての中沢新一。アースダイバーから、芸術人類学へ。」[http://www.1101.com/nakazawa/index.html]

◎第7回「資本主義が生まれる瞬間」から。
《タモリ》簡単な埋葬の時代と古墳を作る埋葬の時代は、死の認識が変わりますよね。
《中沢》根本的に変わるんじゃないですか。
《タモリ》変わりますよね。死の認識がはっきりするということは、おおきな意味でいえば、資本主義のもとがあるかもしれませんね。
《中沢》そのとおりですね。死の認識がなければ資本主義は動かないですからね。縄文時代は村があって、村は円環じゃないですか。その真ん中に、埋葬していたから死体は身近ですよね、夜になるといっしょにおどるわけで。それがやはり墓が離れると……資本主義になってきます。

◎第11回「なんか、皮がムケました」から。
《糸井》『アースダイバー』って、どのぐらいかかってつくったの?
《中沢》アースダイバーは一年。『週刊現代』の連載だよ?
《糸井》(笑)それもすごい。
《中沢》雑誌の中でも、だんだん、うしろにまわされてった(笑)。最終的には『特命係長只野仁』と『女薫の旅』にはさまれちゃった連載だよ。
《糸井》(笑)只野仁の隣にアースダイバーが連載されてたんだ!連載しようと思った人はえらいなぁ。(略)『只野』を読んでた人の心を冷まさないでくれという?(笑)
《中沢》(笑)そうそう。読者を冷まさないで、そのまま神崎さんの『女薫』に突入できるように。

★10月19日(水)

 半日仕事を休み、小西甚一『中世の文芸』(講談社学術文庫、もしくは現代新書の『「道」──中世の理念』)と唐木順三『中世の文学』と岩波文庫の『中世歌論集』と勝俣鎮夫『一揆』(岩波新書)を探して古本屋めぐり。三宮サンパルの2階で風巻景次郎『中世の文学伝統』(岩波文庫)【¥300】、3階(MANYO神戸三宮店)で小西甚一『日本文学史』(講談社学術文庫)【¥300】をゲットして退散。前著は昭和15年(ラジヲ新書)、後著は昭和28年(アテネ新書)の初刊本を文庫化したもの。風巻景次郎の名は『日本文学史早わかり』にも登場していた。いかにも国文学者らしい名。小西甚一本はドナルド・キーンが絶賛した「幻の名著」。文庫あとがきによると、1953年刊のキーン著“Japanese Literature”には『万葉集』が出てこない。もっと魅力的な作品を採りあげるために割愛されたのだという。「その「もっと魅力的な作品」が、なんと、連歌および俳諧なのである。」「畢竟の温泉宿」を特集した『サライ』11月3日号【¥600】を買って帰宅。部屋の本箱に久松潜一『中世和歌史論』(塙選書:昭和34年)が眠っていたのを発見した。

     ※
 丸谷才一『新々百人一首(上)』読了。昨年暮れに購入して以来ほぼ一日一首のペースで読み継ぎ、道半ばにして(関心が他へうつろいゆき)中断しかけたものの、突如おそわれた歌狂いの風にあおられふたたび繙き、読み始めるととまらなくなり、でも一日にそうたくさん読めるものではなく(読めないことはないがしっくりと心に残らない)、もうすっかり丸谷才一の藝と技のとりこになって、世にいう枕頭の書とはこのような陶酔をもたらしてくれる書物をいうのであろうかと、頁を繰るたびいくどためいきをついたことか。
 第3番・二条后「雪のうちに春はきにけりうぐいすの氷れる泪いまやとくらむ」や第60番・藤原俊成女「隔てゆくよよの面影かきくらし雪とふりぬる」の評釈など、超絶(饒舌?)技巧やらアクロバティックやらと形容する言葉もむなしくただただ痺れゆくしかない。王朝和歌の終焉・入寂の時を告げる第31番・正徹「沖津かぜ西吹く浪ぞ音かはる海の都も秋や立つらん」、第49番・心敬「世は色におとろへぞゆく天人[あまひと]の愁[うれへ]やくだる秋の夕ぐれ」に寄せられた文など絶品、逸品、畢竟の域に達している。
 丸谷才一が王朝和歌にかける思い──というか、俵万智との対談「百人一首腕くらべ」(下巻)で「僕は、ケンブリッジ学派の文化人類学的な芸術研究と折口学派の民俗学的な文学研究の影響を受けていて、文学を呪術から展開してきたものと捉えています」と語る丸谷才一の反アララギ的王朝和歌観──は、巻末に収録された林望との対談「王朝和歌は恋の歌」の次のくだりにあますところなく示されている。(ちなみに林望の「恋=(魂を)乞う」説は、たまたまいま読んでいる折口信夫「日本藝能史六講」の第四講にでてきた。「つまりそれは相手の魂を招きこふ動作、それがこひなのです。」)

《 林 》恋と王権の話に戻りますが、折口流の「色好み」という価値観からすると、天皇は日本最高の色好みとなる。(略)なぜわが国においてはそうなるのか。おそらく恋とは本来魂を「乞う」こと、魂を読んで鎮魂することだと考えられるからでしょうね。ですから国の統治のシステムとして天使が恋をするのは当たり前で……。
《丸谷》というか、積極的に恋をしなくてはならない。つまり、霊的なものと恋愛とが深く結びついているんですね。帝と后が恋をすることによって一切の動植物を刺激する。動植物の繁殖を促す。そういう霊的な力をもっているのが日本の帝であって、だからこそ帝が后に言い寄るときの恋歌が大事なものになる。日本文化においては呪術と言葉とが密接に結びついています。
《 林 》感染呪術[かまけわざ]、とそういうのを呼びますが、これぞ日本文化の根幹ですね。
《丸谷》歌に恋のファクターを読み取っていると林さんは指摘してくださったけれど、さまざまな形で恋を詠むのが王朝和歌全体の主題だった。あるいは基本的な性格だったと思っているんです。しかもその恋は単なる恋ではなく、宗教的行為や政治的行為に結びつく。そうした恋歌を中心に持つのが日本文化の基本なのですね。

★10月20日(木)

 瀬名秀明『デカルトの密室』読了。『BRAIN VALLEY』との比較でいうと、小説あるいは物語としては心底愉しめなかった。作者が考え抜いて仕掛けた(であろう)謎やパズルも、自力で解いてみたいという意欲がかきたてられない。他者の心が理解できない天才科学者フランシーヌ・オハラやクールな進化心理学者一ノ瀬玲奈といったキャラクターはけっこう魅力的だと思うが、車椅子のロボット学者兼作家の尾形祐輔やもう一人の天才真鍋浩也といった(やや生彩に欠ける)キャラクターが表にたって十全に造形されることはない。冒険譚の主人公ともいえるAIのケンイチは、わが子のように愛おしく思えない(当たり前だが)。
 登場人物に感情移入ができず、かといって、ユウスケと祐輔、レナと玲奈の場面ごとの書き分けや視点の移動、映画的手法を駆使した叙述、メタ・フィクションの企みのうちに巧みにはりめぐらされた(に違いない)ミステリーにも心底心が動かされない。要するに作品が性に合わなかった(たぶん私の小説観・物語観が頑なであったか古くさいものであったかのいずれかなのだろう)にもかかわらず、最後まで飽きずに(それどころかしばしばクールな興奮を覚えながら)読み進められたのは、やはり題材と趣向と素材に心をそそられたからだ。細部にちりばめられた「考察」が素晴らしかったからだ。これはもう小説や物語を読んでの感想からはかけ離れている。とりわけ印象に残った第三部の真鍋浩也と尾形祐輔との「対決」のシーンから、感銘をうけた箇所を抜き書きしておく。

《「人間は己の視点から決して逃れられない」真鍋が言葉を継ぐ。「なぜだと思う。物語こそが自意識であるからさ。なぜ人間には意識がひとつしかないのか。無意識の状態が存在しているのに、なぜ人間はそれを自分で知覚できないのか。自意識とはいったい何だと思う。ぼくが以前から考えていたことはこうだ。つまり自意識とは、身体という筐体を介して起き上がってくる物語なんだよ。人間は自らの身体という筐体をいったん潜り抜けることで、自らの意識を認識する。自分の意識を知覚するには、いったん身体を通らなければならないんだ。だがその意識は身体という物理現象を擦り抜ける瞬間、時間という要素を取り込んでしまう。そのプロセスは否応なしに人間の意識を物語化させる。自意識は身体を通り抜けた瞬間、“物語”というひとつの塊に収束してしまうんだ、まるで波動関数の振る舞いのようにね! それが人間の宿命であり、意識のハード・プロブレムの核心に他ならない。逆にいえば物語を受け入れる視点こそが自意識であり、その物語を紡ぐ鮮やかな質感の集合こそが〈私〉という存在なんだ。ではその鮮やかさとは何だ。それはどうやって獲得されるのか。身体機能を介した体験と自らの記憶との繋がり。そこには身体という檻の間を行き来する知覚作用が不可欠だ」》(430-431頁)

《「ぼくたちは物語の中に入り込むと、〈私〉が切り離される」ぼくは腹に力を込めて告げた。「物語の中に描かれた自分は、自分でないような気がする。喋った言葉が一字一句同じであっても、完璧で的確な描写であっても、正確に事実を伝えていたとしても、どこかでぼくたちはそこに書かれた自分に違和感を持つ。物語に書かれれば書かれるほど、ぼくたちの〈私〉は物語から切り離されてゆく。しかしさらにその状態が続くと、そのことさえも物語に取り込まれ、いくら抗おうとしても跳ね返され、やがてぼくたちは責任を呑み込んで、それでもよいのだと思い始める。そのときぼくたちの〈私〉は物語にようやく入り込む。(略)デカルトの“われ考える、ゆえにわれあり”が意識中心主義だと一般に批判されるのなら、フランシーヌは考えたに違いない、そこからさえも抜け出さなければならないと。彼女の瞳が力を持つその瞬間を見たぼくならわかる、デカルトの意識中心主義を最後の一点まですべて排し、自らを殺したとき、彼女の私が新しい〈私〉になるのかもしれないと……」》(432-433頁)

 小説を書くこと(ひとつの時空と世界観を立ち上げること)、物語を紡ぐこと、あるいは物語の中に入ること、物語という密室の中に他者を取り込み閉じ込めること。人工知能(ヒト型ロボット)をつくること、あるいは子どもを産み育てること、子どもが大人になること、子どもを世界観という密室の中に閉じ込めること。この二つの問題系が「本当に深い意義のあるお話」(『指輪物語』のサムの言葉)の中で渾然と一つに溶け込んでいく。
 物語とは、いや複数の物語(の可能性)を一つに収束させる小説とは、量子コンピュータのはたらきを夢見るための装置だったのかもしれない。ケンイチは小説を書くことを願いつづけた。あるいは『デカルトの密室』のうちにはケンイチが書いた小説が(尾形祐輔が書いた物語とともに)こっそりと挿入されていたのかもしれない。
 最後に、この作品の最深部にしつらえられた自由意志をめぐる問題系に関連して、本書の第三部を読みながら私の脳内にしきりに浮かんでいた言葉を記録しておこう。それはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の草稿(1917年1月10日)に綴った次の文章だ。「自殺が許される場合は、全てが許される。何かが許されない場合には、自殺は許されない。このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺はいわば基本的な罪だからである。」

★10月21日(金)

 茂木健一郎さんのブログで講談社文芸文庫版『小林秀雄対話集』がとりあげられていたのに刺激されて、いずれ入手することになろうと思っていた同本を買い求めるべく決意をかためて書店に出向き(といっても毎日立ち寄っているのだが)、でも心変わりして同じ文庫の『柳田國男文芸論集』【¥1400】を購入。収められた二十八篇のうち「歌と「うたげ」」を読んだ。ウタは本来ウタワルルものであったが、古今集と源氏物語のあいだで歌というものに対する考え方が一変した。「書いた文字によって古今集を味わおうという気持、これが古代と我々とを枳殻[からたち]の垣根の様に遮断している。」(172頁)それにしても柳田國男の文章は読みにくい。若い頃なんど挑戦し、いくど玉砕したことか。諸星大二郎『暗黒神話』読了。丸谷才一『恋と女の日本文学史』読了。睦月影郎『寝みだれ秘図』【¥533】読了。

★10月22日(土)

 神戸中央図書館で唐木順三『中世の文學』(筑摩叢書)を見つけた。「中世文學の展開」のすき(美的感性的段階)・すさび(形而上的段階)・さび(宗教的段階?)の弁証法的構造の説は面白い。あわせて塚本邦雄『新古今集新論──二十一世紀に生きる詩歌』と安藤礼二『神々の闘争──折口信夫論』と大澤真幸『思想のケミストリー』(「まれびと考──折口信夫『死者の書』から」が収録されている)を借りた。上崎書店ほかメトロ神戸の古書店街、三宮センター街のあかつき書房と後藤書店で本探し。あかつき書房の岩波文庫のコーナーで久松潜一編『中世歌論集』(八百円)をみつけたが、あまりの汚さと註の少なさに後込みしてパス。伊地知鐵男編『連歌論集』が上下揃いで千五百円、かなり美麗だったがこれもパス。坂本龍一の『/05』【¥2800】と『風の旅人』16号(2005年10月1日)【¥1143】を買った。

★10月23日(日)

 『物質と記憶』の独り読書会は休業。天外伺朗・瀬名秀明『心と脳の正体に迫る──成長・進化する意識、遍在する知性』を読了。実に面白い。無尽蔵に面白い。以下、いくつか話題を拾っておく。
 第3章「植物の意識を探る」での三輪敬之氏の発言は示唆と刺激に富む。「「場」は自身の内部に立ち現れてくる、情感を伴った空間で、対象化された物理的な空間ではありません。僕たちは、「今、ここ」において即興的に会話をしていますが、それが成立するためには、舞台が共有される必要があります。この舞台が「場」に相当します。[以下、清水博の「即興劇モデル」による「場」の説明が続く。]「場」は実体でなくて、働きなのです。」(71-72頁)
「「場」の研究に関連して、僕が今取り組んでいるのは、空間的に離れた場所間において、空間的な「間」、すなわち間合いを取り合って人々がコミュニケーションをすることができるシステムの設計です。/互いが「間」を取り合うためには、互いの異なる「場」が共通の一つの「場」へと統合される必要があります。そして、その統合された「場」に互いの存在を位置づけることになるわけですね。これにより間合いが生成すると考えられます。この間合いがうまく作られないと、タイミングが合った共同作業が困難になります。つまり、時間的な間の生成に先行して空間的な間が生成するものと考えられます。」(73頁)
 本書の底流にある「遍在する知性」というアイデアは、ベルクソンめいていてなかなかナイス。そのベルクソンについては、第11章「意識を科学する」の冒頭で話題になり、第13章「量子コンピュータで意識の問題は解決する」にも一度その名が出てくる。
《天外 ホログラムは三次元の情報を復元するよね。しかもそのフィルムの一部だけを取ってきても、全体を復元できるという特性がある。脳はまさに量子ホログラム復元装置かもしれない。そうすると、僕らのまわりにあるゼロ・ポイント・フィールドは巨大な記憶装置だというんだ。
 瀬名 それこそ「遍在する記憶」ということになる。ベルクソンの「純粋記憶」が、量子論と脳科学で蘇ってくるような感じですね!》(257-258頁)
 最後にもう一つ。「Aha!体験」は「抽象化能力」(人間の脳=能力の特徴の一つ)の最たるものだという天外伺朗の説は面白い(253頁)。

★10月24日(月)

 土屋恵一郎『正義論/自由論──寛容の時代へ』【¥1000】購入。第?部「リベラリズムの政治哲学」の第1章「ユートピア論的な開始」に、松岡心平著『宴の身体』(第三章「宴の身体」)と大岡信『うたげと孤心』に準拠した議論が展開されている。連歌会や一揆やカフェに見られる、無縁化(デラシネ化)がもたらす自律した「人工の共同性」のダイナミクス。面白い。
《「無縁化」といっても、けっして「無個性」ということではない。連歌の集団の歌の流れに和していながら、同時に、その流れに埋没することなく、機知に富んでいなければ、「連歌」は成立しない。》(16頁)
《むしろ、連歌会のおもしろさは、前の句との言語的トポスの重層性をしめしながら、その重層性を裏切って、まったく異なるトポスへと移行してしまうことのうちにある。それが、歌の機知というものである。/連歌は、かぎりなく物語の統一性を逸脱して、モザイク状の歌の連鎖になる。それが、連歌会という「無縁」のトポスにおける、歌の規則であり、歌のダイナミズムなのだ。》(20頁)
 ここに出てくる「機知」という言葉の使われ方は、たまたま読んでいた本で丸谷才一が言っていることと関連している。読んでいた本というのは『光る源氏の物語』の上巻で、丸谷才一はそこで、西洋十九世紀の個人主義的文学理論と民俗学応用の集団制作的文学理論の対立がエリオットの「伝統のメディアム[媒介、巫女、霊媒]としての個人の才能」という理論によって解消されたと語っている。

★10月29日(土)

 何度も何度も読みかけては、そのつど何らかの事情によって中断し、結局最後まで読み終えることができない書物がある。その事情がそれぞれのケースで異なるのは当然だが、そこに一定の傾向というものはあって、なかでも、それ以上読み進めるとただただそこに書かれ論じられている事柄を丸ごと無批判に受け入れ、最後には自分の頭で考えるのを放棄してしまいそうになる危険を感じ(要するに、その書物を読みこなすだけの力量や思考の総量がまだまだ足りないことに気づいて)書物を閉じた場合は、後々までその書物のことが気になって仕方がない。ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論──宇宙の意味と表象』は、その最たるものの一つだった。
 少し前から中断したままになっていた『パースの生涯』を再び読み始め、やはりこの訳文は日本語になっていない(同じ理由で中断しているジンメルの『貨幣の哲学』よりはまだましだが)と閉口して、口直しというわけではないがふと『生命記号論』を手にしたら、ついにこれまで何度試みても突破できなかった全十章中第三章の壁を乗り越えることができた。昨日、東京への日帰り出張の車中で一気に最後まで読み切るつもりだったが、どういうわけか体力が続かず今日に持ち越し、残り二章というところで集中が切れた。細部の議論の面白さは絶品だが、その面白さに翻弄されて全体の議論の輪郭を見失ってしまう。少し頭を冷やして完読は後日を期すことにした。全編読み終えたらもう一度最初からこんどは全体の輪郭を遠望しながら反芻してみよう。それにしても面白い本だ。

★10月30日(日)

 『物質と記憶』。先週休みをとった分も含め一気に第二章を読み終えてしまおうと意気込んでいたけれど、このところ体力と集中力を切らしていて途中で息切れ。いろいろとたくさん書いておきたいことはあるのだが、前回分とあわせてひとまとめに来週以降の作業に委ねることにした。だいたいからしてこの第二章「イマージュの再認について──記憶力と脳」そのものが純粋知覚(第一章)と純粋記憶(第二章)の中間・混合の段階を叙述していて、しかもその叙述のかたちが叙述の内容をかたどっているという「趣向」がこらされているものだから、読み手の方にもその気分が感染して、一字一句にこだわるよりは全体の輪郭をさっとたどることでよしとする傾向が強くなってしまう。
 要は気分が乗らない。月末恒例の「在庫処分」(読みかけ本に決着をつけること)はうっちゃって、昨日の『デンジャラス・ビューティ2』に続き『ミリオンダラー・ベイビー』を観てだらだらと半日を過ごした。『デンジャラス』はほぼ期待どおり愉しめたけれど、話の進行がちょっともたもたした感じ。『ミリオンダラー』は結末の苦みが後をひく(夢にまで出てきた)。数日遅れて深い感銘がこみあげてくる。ゲール語とイエィツの詩はよかった。映画は何を表現するか(映像として編集するか)ではなくて、何を省略するか(カットするか)が本質的なのだとあらためて実感した。

★10月31日(月)

 森岡正芳『うつし 臨床の詩学』【¥2600】を買った。昨日の朝日の書評欄で紹介されていた。何が書かれていたかはまるで思い出せないが、その中に坂部恵『仮面の解釈学』の名が出てきたことだけは鮮明に憶えている。先月の初め近所の本屋で見かけて以来、書名が心に残っていた。『仮面の解釈学』もちょうど再読しようと思っていた矢先だった。同時進行的に読み進めてみよう。こういうかたちでの本との出合いは、時として途方もない深みと広がりをもって後々まで残ることがある。
 インターネットで『仮面の解釈学』を検索したら、坂部恵さんの「精神の危機―ヨーロッパと日本」という短い文章がヒットした。どういう脈絡でいつどこに発表されたものか判らない。そのうち消えてしまうかもしれないので、丸ごとペーストしておく。

1.カント(1724?1804)のまだ思想形成途上の著作に、『視霊者の夢』(1766)という一風変った作品がある。同時代の神秘家・神智学者スウェーデンボリ(E.Swedenborg,1688?1772)の霊能や著作について、?霊界の存在を認める方向に傾く自分と、?物質的存在以外に存在を認めず視霊現象などは夢想にすぎぬと見なす自分、という両極の間を揺れ動く「危機的な」自分のありようをそのままにさらけ出して、最後には日常的な実践の立場で解決をはかったものである。わたくしはこの著作を、ヨーロッパの人間精神の深刻な(同一性の)危機を示す先駆的な著作とみなして、その独自の存在意義を認めてきた。『対話:ルソー,ジャンジャックを裁く』や『ラモーの甥』(ディドロ)などとならんで、この著作は次の世代に来るロマン派を超えて,はるかに20世紀の人間の危機的状況を先取りするものとみなされうるのである。

2.「おもて」という日本語は、素顔と同時に仮面を意味する。このことは、仮面が素顔の写しなのではなくて、むしろ逆に、素顔こそひとつの仮面であることを意味しないだろうか。ラテン語でもと仮面を意味した「ペルソナ」が後に「人格」の意味に転じた背後にも、同様の事態が透けて見える。わたくしが『仮面の解釈学』(1976)で、このような問題を取り上げたのは、現代の人間の危機的状況にたいする欧米の思想家たちのレスポンスをいわば横目で眺めながら、日本語によって、日本語に即して(従来の日本的共同体論に流されることなく)哲学的思考を進めてみたいとおもったからである。

3.日本語によって,日本語に即して考えることの先達として、わたくしの念頭にはつねに和辻哲郎、九鬼周造があり、この二人について一冊ずつの書物を公にしてきた。和辻については、晩年の『歌舞伎と操り浄瑠璃』(1955)に幼年期へのプルースト的回想が日本の伝統文化と交錯する独特の深層の心性を見届け、夢と現実の交錯する歴史のヴィジョンに探りを入れた。九鬼は、その代表作『「いき」の構造』(1930)によって、独特の屈折をはらんだ文化文政期のデカダンス・バロック的個人主義を今日に蘇らせ、60年代以降の文化状況にもなお多くの問題を投げかけていると考える。