不連続な読書日記(2005.9)




★9月2日(金)

 瀬名秀明『デカルトの密室』【¥1900】を買った。『パラサイト・イヴ』から10年。あの瀬名秀明が、新たなる「脳と心」の謎に挑む!──三日前このキャッチ・コピーを書店で目にした翌日、飲み会の会場に一番乗りしたけれどまだだれも来ていなくて時間つぶしに店の近くの本屋に出向き買い求めた。AIものと聞くとグレッグ・ベアの『女王天使』だとかリチャード・パワーズの『ガラテイア2.2』だとかを想起する。最近読んだ関連作品では山田正紀の『神狩り2 リッパー』も想起する(この作品だけは文体が好みに合わず閉口した)。旧作『BRAIN VALLEY』(「人類最後の秘境、脳とは何か。日本エンターテインメントの金字塔!」)も近く文庫化されるらしい。
 あとがき(謝辞)を見ると「本作を書くことができたのは、私が二○○二年から参加している「けいはんな社会的知能発生学研究会」での有益な議論のおかげである」と書いてある。昨日、今日と「けいはんなプラザ」で泊まりがけの会議に出席していた。これもなにかの縁というものだろう。同研究会編『知能の謎──認知発達ロボティクスの挑戦』が読みかけのままになっている。あわせて読むべし。

 その「けいはんなプラザ」からの帰り、三日前の書店の新刊書コーナーで『デカルトの密室』の横に並んでいたマーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』【¥2400】を買った。7周年を迎えた新潮クレスト・ブックスの新刊。これまでに読んだのはベルンハルト・シュリンクの『朗読者』とジョン・L・キャスティの『ケンブリッジ・クインテット』とアリステア・マクラウドの短編一つだけ(ジュンパ・ラヒリの『停電の夜』は文庫で読んだ)だが、このシリーズの造本と装幀はとても気に入っている。本を読む愉悦、それも上質の文学作品に溺れる快楽がかたちになっている。保坂和志(『小説の自由』)の言葉を借りれば「読んでいる時間」──「新潮クレスト・ブックス7周年記念ベスト・セレクション」というパンフレットに掲載されていた鼎談での、いしいしんじの言葉を借りれば「読んでいる時間の特別さ」──そのものが凝縮されてかたちになっている。
 『素数の音楽』は小説だと思って買ったら数学ノンフィクションだった。「素数」と名がつけばなんだって手にしてしまう。そこに「リーマン」の名が見え隠れしていたら見境なく速攻で買ってしまう。昨年暮れに衝動で買ったカール・サバーの『リーマン博士の大予想』とあわせて三日くらいかけて玩味できたら最高の休日になるだろう。望みどおり生まれ変われるとしたら、作曲家か数学者、それも数論で食っていきたい。

     ※
 数学といえば、野矢茂樹が『他者の声 実在の声』でその「妖しい魅力」について書いていた。──論理は数学における中心的な能力ではない。なぜか。「思考は本質的に非論理的だ」からである。数学者にとってもっとも重要な能力は直観力である。
《そこ[数学という別世界]で要求されることは、その世界に「住む」ことである。その抽象的な世界を生き生きと感じ取り、そこで手足を伸ばし、その空気を呼吸すること。そのとき、具象の現実世界に対する五官とは別の感覚器官のようなものが育ち、その抽象的な関係と構造の世界を直観することができるようになる。私はけっきょくそこの住人になりそこねたわけだが、数学を好きになり、数学を美しいと感じるようになるということは、けっきょくそういうことだろう。それは論理ではない。むしろ感覚の一種なのである。》(264頁)

 これはほとんど「読んでいる時間の中にしかない」小説という別世界について書かれた文章そのものだ。保坂和志は、小説における表現=現前性についてこう書いている(『小説の自由』68-74頁)。
 「音楽ではまずメロディが思い浮かぶ」というセンテンスを書くことは、「小説とはまずストーリーである」というセンテンスを書くのと同じくらい、私(保坂)にはありえない。音楽について書きながら私(保坂)の頭をかすめていたのは音の質感の方で、音楽が表現しているものは、メロディや歌詞(メッセージ)なのではなく、楽器の編成それ自体だ。特定の楽器編成による一つの曲が演奏されたときに、それによって何かが表現されることになるのではなく、それ自体がすでに表現なのだ(「特定の楽器編成による一つの曲」をたとえばカフカの『城』におきかえれば、ここで言われていることは小説にもそのままあてはまる)。
 音楽や美術の場合、現前性をそのまま物質性と言い換えてもまあかまわないぐらいだから、現前性=表現であることが了解しやすいだろうが、小説という文字の表現の場合、すべてがいったん抽象化されて物質性を失っているので、現前性ということが了解されにくくなる。小説における表現=現前性は、漢字、ひらがな、カタカナといった見た目の印象や韻文における響きなどではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて立ち上がるものだ。
《その現前性を持続させて何かを伝えたり考えたり表明したりするのが小説だが、何よりもまず現前していることが小説であって、伝えたり考えたり表明したりする方は小説でなくてもできる。/だから小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきり別の物資だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない。》

 以上は『小説の自由』前半のキモ「4 表現、現前するもの」からの抜粋だが、中盤のキモ「9 身体と言語、二つの異なる原理」(そこで言われていることは、小説家は身体・言語という二つの異なる原理もしくは身体・言語・記憶という三つの異なる原理にまたがって文章を書いているのだが、やはり小説は「融通のきかない自律性」をもった言語でなく身体、それも「一般化される以前の個人としての身体」が起点となっているといったことで、もちろん保坂和志のくねくねと迂回に迂回を重ねる思考のエッセンスをそんな一言で片づけるわけにはいかないし、読んでいて面白いのはむしろ「2 私の濃度」や「5 私の解体」につながる「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」の方だ)を経て、後半というより本書全体のキモ「13 散文性の極致」になると、保坂和志は「事実/虚構」といった単純な二分法をこえたところで小説が小説として(事実でも虚構でもない第三の領域=フィクションとして)立ち上がる現場を、小説という概念が生まれる以前の場所(アウグスティヌスの『告白』)における「小説の始源のありよう」(297頁)のうちに探っている。
 『告白』を注意深く読み進めてきた読者は、ある時間(読書体験)の集積を経て「アウグスティヌスとはこういう人だ」という理解に達する。その時そこにおいて「まさに小説として一人の人物の立ち上がりが完成したのだ」(335-336頁)。しかしそこで言われる「アウグスティヌス」という「一人の人物」は物質性ではなく精神性、言い換えれば論理の組み立てや思考の組み立てのことだ。「アウグスティヌスには思考の手順しかない」(336頁)のである。小説とは「人間が文字という形で書いていくことが世界そのものとどういう関わりがあるのか」という「問い、ないし、問い以前の形のない何かを持ちながら、思考の手順を動員することによって思考を推し進めようとする散文なのではないか」(308頁)というわけだ。

 そのような意味での小説(感覚の運動・思考の手順)と数学の違いは、そこに「人物」が登場するかどうかである。ここにきてようやく先の野矢茂樹の引用につながった。保坂和志は、小説と『デカメロン』や『カンタベリー物語』との違いのひとつは人物がしっかり描かれているかどうかだと書いている。そして「人物がしっかり描かれている」というのは、その人物が「書かれていることをフィクション=「記憶するに値する」「忘れることができない」「信じざるをえない」ものとするメカニズムとか媒体になるということ」(297頁)だと書いている。
 数学と『デカメロン』とではまるで違うが、野矢茂樹が言うように(文字を使わず思考する)数学者にとって直観力こそがもっとも重要な能力なのだとすると、(文字を使って思考する)小説家にとって大切なのはあくまで「思考の手順」としての文体=散文性で、そこで立ち上がるのが「人物」だ。「人物が媒介者となって「信じざるをえない」ものとしてのフィクションという次元が完成する」(297頁)。「「実例を使って考える」のではなく、「実例が考える」、アウグスティヌスはそういう思考法に乗って書いている」(318頁)。

 以下は備忘録。──1.頭の中だけで考える作業と文字を使って考える作業の違いについて、『小説の自由』の318頁から319頁にかけて書かれていることは実に面白い。野矢茂樹は思考とは「雨乞い」のようなものだと書いている(『他者の声 実在の声』257頁)が、これは保坂和志の分類によると頭の中で考える思考のことだ。2.『小説の自由』の176頁、264頁、335頁に『フェルマーの最終定理』の話題が出てくる。ここのところもなかなか味わい深い。3.「書くことは前に進むことだ」。『小説の自由』の329頁に出てくるこの言葉(あるいは315頁の議論)は、野矢茂樹のテーゼ「語りえぬものを語りえぬままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない」(『他者の声 実在の声』234頁)と響き合っている。

★9月3日(土)

 野矢茂樹『他者の声 実在の声』読了。読み残していた数篇の文章を読み飛ばした。哲学系の本でこういう読み方はよくないのかもしれないけれど、よく分からないところや細部の論証にあまり逐一こだわらず、一気に通読してこそ伝わる哲学的問題の感触というものもある。(もちろん、分からないところに出くわしたら「前後もあわせて繰り返し読む。ときに、ほんとに詰まってしまうこともある。ため息をついて、しばらく別のことをして、でもどこかでそのことを考えていて、また読む、いいでしょ、こんな読書。贅沢だよね」(281-282頁)といわれる読み方もある。野矢さんにとっての『論理哲学論考』がいまの私にとっては『物質と記憶』で、それはたしかに贅沢な読書体験だ。)
 先月読み終えた保坂和志の『小説の自由』とあわせて「書評」を書きMMを発行する予定だったがその気になれず、阪神・横浜戦と『笑の大学』を観て一日をやり過ごした。(『笑の大学』はラストでこけた。検閲第一日目から五日目までの単調で退屈な反復が六日目の高揚を生み出し、突然の暗転で一気に超絶的な笑いへの期待が高まるが、七日目の無惨な結末で作品は凡庸のうちに終結する。検閲官役の役所広司は達者だが、この役はもう少し無骨な味わいの役者が演じる方がよかった。)

 せっかくだからどんな「書評」を書くつもりだったか、若干のアイデア(の種)だけでも書き残しておこう。『他者の声 実在の声』は大森荘蔵の『流れとよどみ』にかかわった編集者に声をかけられて生まれた本だという。「「考える」ということ」というエッセイ(第3章)に次の文章が出てくる。《なめらかな言語ゲームの遂行において思考を見て取ろうとしたウィトゲンシュタインはまちがっている。われわれは、思考を論じるにあたって、むしろ目を言語ゲームのよどみへと向けねばならないのではないだろうか。》(36頁)
 この「言語ゲームのよどみ」において聞こえてくるのが──意識の内と外をめぐる哲学的誤謬の「獣道」(28頁)もしくは出口のない「洞窟」(191頁)を抜け出たところにひらかれる──「言語の外」(192頁)から届く野生の他者(「意味の他者」=たとえば哲学者)の声であり実在の声なのである。「私に意味を与えよ」(44頁)。「さあ、語り出してごらん」(194頁)。言語の外は語りえない。しかし語りうる世界(すなわち「論理空間)の内部)は変化する。この語りの変化のうちに他者の姿は示される。だから「語りきれぬものは、語り続けねばならない」(118頁)。

 ところで『小説の自由』に「文章としてのなめらかさ」(57頁)をめぐる話題が出てくる。志賀直哉の文章は完成されていて「このまま映像に置き換えられそうな文章だが、しかしこれは逆で、私たち自身がふだん文章を読むように映画を見ているということなのではないか」(53頁,46頁)。このことは「何かを考えるとき、つまり思考するとき、私たちはほとんどの場合、視覚のように思考を組み立てている。あるいは、思考をなかば視覚化している」(262頁)のだが、しかし「視覚化した思考でなく本当の思考[「脳の中で遂行される思考」(270頁)]が小説の理解には求められる」(268頁)という後に出てくる主張の伏線になっている(たぶん)。
 ここで思い出したことがあるので挿入しておくと、編集者や書評家や評論家が「うまい」とか「心地よい」と褒める「こういう文章[ここで保坂和志が考えた例文は省略]を読める人は精神が眠っているだけだ」、「言葉の内側にこもってただ練り上げていくだけのこういう文章は、別に村上春樹がはじめたというようなことではなくて、日本の近代文学の歴史を通じて流れつづけてきたものではないか」(174頁)と批判されているのも「なめらかな文章」のことなのだろう(たぶん)。
 それでは「言語ゲームのよどみ」に相当するものを『小説の自由』に求めることができるのかというと、それはできる。最終章で延々と引用されるアウグスティヌスの文章、つまり「小説の始源のありよう」(297頁)のうちに示されているものが「よどみ」(=散文性)である。この「よどみ」は「神」(284頁)や「宗教性」(304頁)につながっていく。つまり論理空間と同様、小説世界もまた変化していく。だから「書くことは前に進むことだ」(329頁)。

 さて『小説の自由』は「小説をまず書き手の側に取り戻すために」(226頁)書かれた。しかしこのことと「小説は読んでいる時間の中にしかない」(74頁)という本書の基本テーゼとは一見食い違っている。小説の「書き手の側」と小説を「読んでいる時間」とは別の次元に属することだからだ。しかし実はそこに矛盾はない。なぜなら「小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる」からである。つまり「小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ」(165頁)。
 これに対して「批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読者として読んだと言えるかどうか疑わしい」(74頁)。さらに引用を続けると、「小説は外の何ものによっても根拠づけられることのない、ただ小説自身によってのみ根拠づけられる圧倒的な主語なのだ。/本当の自由とはここにある」(278頁)。ここまで書かれたらもう言葉がありません。要は「私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな」と保坂和志は言っている。この本を、というよりこの小説(C:高橋源一郎)を「書評」などするなということだ。ひたすら読みつづけるか、つまり「現前性の感触」に身体をさらしつづけるか、それとも「この保坂和志という他者の言葉は私(中原)の言葉である」(145頁参照)というところまで引用しつくすか。その二つしか途はない。

     ※
 『他者の声 実在の声』と『小説の自由』についてはまだまだ書いて(引用して)おきたいことがある。ここでは先月書き忘れたことをひとつだけ取りあげる。──「言語は自律している、この洞察が後期ウィトゲンシュタインを導いて行ったのである」(『他者の声 実在の声』30頁)。こういうフレーズを洒落て気の利いた言い回しか何かのように読み流してはいけない。ここで言われているのはかなり凄いことなのだ。
 言語は脳のはたらきを通じて生み出されたものである。その言語が自律している。脳から離れて自律している。個体の生理活動や心的活動や心身の履歴から離れて自律している。言語がそこに(どこに?)あって、自らを組み立て編成している。だから言葉の「意味」は言語の中にある。脳のはたらきを通じて意識のうちに立ち上がる、もしくは浮かび上がるものではない。しかもそれは他と置き換え可能な一つの言語観なのではない。ウィトゲンシュタインはそのような言語観を抱いたのではなく、生きたのである。言語が自律した世界を生きたのである。「あなたは言語とはコレコレだと思っているが、実は言語とはシカジカなのだ」といった知識や信念の話ではないのである。言語が自律している世界を生きるのは、そんな生やさしいことではないのである。

 私のメモはここで終わっている。その後に「考えているのは私なのか」「それは私の思考なのか」と走り書きが残っている。この覚書きを書いていた時に立ち上がっていたもの、もしくは浮かび上がっていたもの、つまり現前していたものの感触は今はもう残っていない。だからここに再現することはできないが、その時書こうと思っていたこと(私の場合それは「考えようとしていたこと」「引用しようと思っていたこと」と同義である)の残骸だけは収集しておくことができる。いちいち本にあたって確認するのが面倒になったので、以下はほとんどうろ覚え。
 残骸の一。先に「引用問題」に関連して引用した保坂和志の原文は「この新宮一成という他者の言葉は私(保坂)の言葉である」となっている。これはラカンの「他者の語らい」や「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」といった議論と結びついている。それはまた『他者の声 実在の声』の「言語の外」から聞こえてくる(他者や実在の)誘惑の声、あるいは『神々の沈黙』のかつて右脳から聞こえてきた神々の声とも結びついている。
 残骸の二。その『神々の沈黙』に「意識は言語に基づいて創造されたアナログ世界」(87頁)であると書いてあった。『出生の秘密』では、ヒトは言語を獲得して(象徴界に入って)人になるといった趣旨のことを論じている。この二つの書物をひとまとめにして「書評」を書き、次々回のMMのネタにしよう。

★9月4日(日)

 『物質と記憶』の(独り)読書会7週目。先週に続き第一章四節「イマージュの選択」を精読した。最初の陶酔を覚えた。この節はここだけ読んでも独立した哲学作品になっている。冒頭の「神経系は表象をつくり出さない」(衝撃的な仮説!)から末尾の「対象Pのイマージュが形成され知覚されるのは(脳の灰白質においてではなく)まさにPにおいてなのだ」(大森荘蔵!)まで、寸分の隙のない論理に導かれて(ベルクソンの思考でも私の思考でもない「純粋思考」とでもいうべき)思考が進んでいく。まだ二度読んだだけだが、読むたびに世界を覆う薄皮がはがれ落ち(けっして隠されていたわけではない)世界の実相が剥き出しにされていく。

 冒頭と末尾のこの二つのテーゼをつなぐのが、イマージュと純粋知覚のそれぞれについての二区分と相互の関係をめぐる議論である。イマージュ(物質界)には「現存するイマージュ」(あること=客観的実在)と「表象されたイマージュ」(意識的に知覚されてあること)の二つがあって、後者は前者が「減少」したものである(つまりこの二つのイマージュには程度の相違があるだけで、本性の相違はない)。知覚には「無意識的知覚」(無意識な物質の一点のもつ知覚=万物の可能的知覚)と「意識的知覚」の二つがあって、後者は前者のうちからフィルター(不確定=選択可能性の領域)を通じて浮き上がったものである。
 これらは結局同じ一つのことを言っている。物質(イマージュの体系)から「生気を呈するすべての性質」をはぎとると、そこに意識に属する「表象=物質の幽霊」と科学に属する「物質=空間的広がり」(たとえば脳)との二区分が生まれ、いわゆる「心脳問題」(物質である脳からいかにして主観的表象=意識的知覚が生じるのか)が発生する。ことの発端は物質(イマージュ)を二つに断ち切ったことにある。断ち切ったから、これを「縫い合わせなければならぬ」と錯覚するのだ。
《知覚がそこ[脳]から出てくることはありうべくもない。脳は他のイマージュと同じく一個のイマージュであり、大量のイマージュに包まれているわけで、容器から中味が出てくるということは、理屈に合わないからである。(略)意識的知覚と脳の変化は厳密に照応している。したがって、この二項のいわゆる相互依存は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることからくる。》(46-47頁)

 こんな要約ではとても汲み尽くせない。豊かな哲学的思考の種子が惜しげもなく蒔かれた沃土。──続けて五節「表象と行動の関係」を通読した。前節を受けて「私たちはこのように事態を考えることによって、たんに常識の素朴な確信に復帰しているにすぎない」。この節には「伝導体」(51頁)という蠱惑的な語彙が出てくる。「物質が神経系の協力なしに、感覚器官なしに知覚されうるということも、理論上は考えられぬことはない」(51頁)とか「内部と外部」の概念は「全体と部分」のそれに帰着するだろう(54頁)といった魅力的な議論が展開されている。来週が待ち遠しい。

     ※
 上に引用した「容器と中味」のくだりを読んでいて(くどいが)保坂和志の議論を想起した。たしか『小説の自由』の中に容器と中味云々という言葉が出てきたように記憶していたのだが、いくら探してもみつからない。みつからなくてもいい。意識的知覚と脳の変化、意志の不確定の三項関係は、保坂和志が書いている精神性と物質性とフィクション(第三の領域)の三項関係とほぼ相似形の関係にある。
 それは私の脳が勝手にそう思うだけのことにすぎないが、ついでに書いておくと、保坂和志がよく言及するチェホフの「学生」(部屋の本箱にかれこれ十年近く置きざらしにされたままで、そろそろ全集読破作業を再開しなければと思っていた矢先の中公版全集の第9巻では「大学生」となっていて、巻末の解題によると、チェホフの同時代人は二段組の中公全集版でたかだが5頁のこの短編を「もっとも完成された作品」とみなし、チェホフ自身も自作の中で「いちばんぼくの好きな物語」と語った)の過去と現在を結びつける鎖の話──「いっぽうの端に触れたら、もういっぽうの端がぴくりとふるえた」──は、ベルクソンがやがて導入する記憶の議論に関係してくる。物的知覚物と身体を結ぶ「ロープ」(ウィリアム・ジェイムズ)。過去と現在を結ぶ「鎖」。
 もう一つついでに『エックハルト説教集』から。《ある師は、目が歌とは関係なく、耳が色と関係がないように、魂はその本性においては、この世界のすべてのものと関係がないのであると言っている。それゆえに自然学の師たちは、魂が体の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだと言っている。ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである。》

 三項関係というとパース。いま断続的に読み進めている三浦雅士の『出生の秘密』が「六 記号の階梯」を終えてパースとラカンの妖しげな関係を取り上げた「七 鏡のなかの私」にさしかかったところ(佳境)なのだが、パースとベルクソンというテーマもとても面白い。「パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふたりの思想は完全に重なり合うものである」(ジェイムズ『純粋経験の哲学』)。ついでに書いておくと『小説の自由』の「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」に「子どもたちの実父問題」(149頁)という話題が出てくる。

 もう一つついでに書いておくと、茂木健一郎『脳の中の小さな神々』巻末の「特別講義」に「対象─脳内過程─意識」の三項関係が出てくる。これは脳科学が「見る」という体験を「(外界からの刺激を受けて)神経細胞があるパターンで活動すること自体が脳の中でのさまざまな情報の「表現」であり、そのような「表現」が集まって「見る」という体験ができあがる」(242頁)と説明するときに準拠している枠組みで、茂木健一郎いわく、この方法では「見る」という体験(視覚的アウェアネス)を説明することはできない。脳科学は外界(対象)からの視覚的刺激と脳内過程(神経細胞の活動)との対応関係を説明するだけで、脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが「私」にとってクオリアとして成り立つメカニズム自体を説明するわけではない。「むずかしい言葉を使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視覚特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである」(244頁)。
 これに対して提示されるのが「メタ認知的ホムンクルス」のモデルで、それは「「私」の一部である脳の神経活動を、あたかも「外」に出たかのように観察する「メタ認知」のプロセスを通して、あたかもホムンクルスがスクリーンに映った映像を見ているかのような意識体験が生じる」(256頁)というものだ。このモデルにあっては先の三項関係はいったん「物自体─脳内過程」の二項関係に置き換えられ(ただし「脳内過程」の項は「後頭葉=認識の客体」と「前頭葉=認識の主体」という二項が非分離の状態にあるものとされる)、その後「物自体─脳内過程─小さな神の視点」の三項関係へと修整される。ここに出てくる「小さな神」(ホムンクルス)という「主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される」(258頁)。
《「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメタ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として成立している。/私たちの脳の中には、小さな神が棲んでいるのである。/これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考察していったときの、論理的な帰結である。》(259頁)

 脳の中に棲む小さな神が見ているものは「表象されたイマージュ」である。それは脳内過程を通じて生み出されたものではなくて、あらかじめ与えられたイマージュ(物質)が神経系の活動を通じて縮減されたものである(何のために? 不確定=選択可能性=潜在性の領域を現実化するために、つまり行動のために)。そう考えることができるならば、そこにはいささかの困難(神秘)もない。「メタ認知的ホムンクルス」のモデルが優れているのは、そこに「神」が出てくることだろう(それは『小説の自由』最終章に出てくるKつまり樫村晴香の言葉──「神」(284頁)や「リアリティ・宗教性」(304頁)──と響き合っている)。心脳問題はすぐれて神学の問題である。そんなことは実はとうの昔から分かっていたことなのである。思わず吠えてしまった。

 このあたりのことは次回か次々回あたりの「マルジナリア」で取り上げようかと思っている。ホムンクルスが脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される、といったくだりは(半分ほど読んで中断したままになっている)木村敏『関係としての自己』につながっているだろうし、もしかすると(これもまた中断したままの)坂部恵『モデルニテ・バロック』とも関係してくるかもしれない。
 そもそもの発端であったパースの三項関係については(あまりの面白さゆえ何度試みても最後まで読み通すことができない)ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』や(これもまたそれと気づかぬうちに中断していた)ジョゼフ・ブレント『パースの生涯』を参照すべきだろうし(そういえば『関係としての自己』のどこかにパースの三項関係には垂直的次元がないといった気になる批判が出てきた)、ことのついでに(数年前にメインディッシュともいうべき最後の二章分を残して中断しておいた)大森荘蔵『流れとよどみ』も参照すべきだろう。忙しいことだ。

★9月5日(月)

 『素数の音楽』の冒頭に数学者アラン・コンヌと神経生理学者ジャン=ピエール・シャンジューのやりとり(『考える物質』)が紹介されている。コンヌが「数学的実在は、人間の精神とは独立に存在する」といい、その数学世界の中心には不変の素数列があると言い張るのに対し、シャンジューはいらだちとともに、「それならなぜ空中に“π=3.1416”と金文字で書かれているのをこの目で見ることができないのだ?」と迫る(18頁)。
 素数は世界に先立って存在している。ここでいう「存在している」の意味がうまく説明できないし「世界に先立った素数の存在」(あるいは「無限」の存在でもいい)を実感できているわけではないけれど、この主張はまったく正しいと私は信じている。数学的プラトニストなのだ、私は。精確にいうと、数学的プラトニストたることに憧れているのだ。
 ペンローズが、ボルヘスの「詩人は発明者である以上に発見者である」を踏まえて「数学については,少なくともより深遠な数学的概念については,他の場合に比べて,玄妙な,外的な存在を信じる根拠はずっと強い,と私は感じないではいられない」(『皇帝の新しい心』111頁)と書いている。これと似たことを養老孟司が『「私」はなぜ存在するか』で語っていた。量子論を専攻している人には量子が見え、遺伝子やゲノムの研究者には遺伝子やゲノムが見えるのと同様、数学者にとっては数学的世界が実在する、云々。
 
 素数が「実在」している場所は、保坂和志のいう「第三の領域」(フィクション)と関係している(たぶん)。9月2日の日記に書いた話題の続きになるが、ここにも数学と小説の妖しげな関係がある。哲学との関係も妖しい。
 私は常日頃から小平邦彦さん(『怠け数学者の記』)の「数覚」をもじった「哲覚」という言葉を愛用しているのだが、ここに新たに「文覚」(文覚上人の「もんがく」ではなくて「ぶんかく」)という言葉をでっちあげたい。数覚は「(数学的)イデア」を、哲覚は「概念」を、そして文覚は「(文字を使って思考する)人物」を、それぞれ「実在」として知覚する。あるいは発見する。たとえば保坂和志の『小説の自由』は『〈私〉という演算』が「小説」であるのと同じ意味で「小説」であると考えることができる作品なのだが、そこにおいて「文覚」の対象となる「人物」は何かというとそれは概念語なのである。この作品の主人公に相当するのはおそらく「現前性」だろう。

★9月7日(水)

 吉永良正『『パンセ』数学的思考』読了。モンテーニュの『エセー』と『パンセ』と『徒然草』は枕頭の書、無人島へのスプートニク(旅の道連れ)その他言い方はなんであれ、愛読書というよりはもう少し切実に身体の内側に寄り添ったかたちで読みつづけていきたいとかねがね思っていた。松岡正剛さんの言葉を借りれば「言葉のチューインガムのように噛む」とか「本を噛む」といった感覚で(「千夜千冊」第三百六十七夜)。あと一冊日本の古典を選び西欧と日本のバランスをとりたいとも思っていて、そんなことに気をとられているから肝心の『エセー』や『パンセ』や『徒然草』を読む(噛む)時間がなかなかとれない。
 で、(「理科系の哲学入門」とカバー裏に謳ってある)『『パンセ』数学的思考』のテーマは「パスカルの思想には数学的思考が通奏低音のようにつねに流れている」(100頁)というもの。たとえば「パスカルは自然を見たままに観察したというよりも、数学的な構想力によってそれをモデル化し、そこに無限から無までを貫く一様なフラクタル構造を想定していた」(98頁)といった具合。この話題が出てくるのが第1回「宇宙空間の永遠の沈黙」で、第2回「無限大と無限小の中間」では章名に書かれている話題や真空をめぐる話題が取り上げられ、第3回「パスカルの数学的思考」では確率論の話が出てきて『パンセ』後半の宗教論への入り口あたりまで案内してくれる。『パンセ』の断章のすべては祈りのなかで書き留められたものだ(132頁)とか、パスカルは二○世紀の思想家シモーヌ・ヴェイユとその兄で大数学者のアンドレ・ヴェイユをいっしょにしたような人物だった(133頁)とか、なかなか含蓄の深い言葉もちりばめられている。

★9月9日(金)

 東北大学の大見忠弘教授の講演を聴いた。以前東京であった講演の記録を読んでいたので格別新しい情報はなかったけれど、肉声と肉顔に接しながら聴くとさすがに迫力がある。基礎研究から実用化までのプロセスをリニアにではなく産学官連携の「ターゲット・ドリブン」方式で進める。これは組織経営から個人の仕事にまで応用できる。会場からの質問への応答が面白かった。「日本にこれまで金融があったんですか」。深い絶望としなやかな楽観、怒りと情愛が複雑に同居した人物。「週刊新潮」にスキャンダル記事が出ていたが、あれはかえってこの人の「奥深さ」を語っている。講演の前、昼食を共にして、会場の片隅の喫煙コーナーでも立ち話をした。いまやっていることが世界初のことなのかどうか気になって、一刻が惜しいんですよ。記憶がはっきりしないが、紫煙のなかでこの人はたしかそんなことを口にした。

     ※
 『群像』10月号【¥876】を買った。保坂和志+石川忠司「小説よ、世界を矮小化するな」だけを読みたくて買った。これまでの経験からいって文芸誌や総合誌を隅々まで読めたためしがない。で、さっそく『現代小説のレッスン』と『小説の自由』を上梓したばかりの二人の対談を読んだ。面白かった。保坂和志いわく「僕は、小説は部分だけ読んでいて構わないと思っているのね」(206頁)。「最近僕はエッセイを十五枚ぐらいの長さで書くことにしているんです」。「でも、彼[村上春樹]は考えをつくったんじゃなくて、文章をつくったんだよね。だからみんなに使われる。村上春樹以降の人は、文章で小説を書くんじゃなくて、考えで小説を書かなきゃいけないと思うんだよ」(210頁)。「[五枚から十枚ぐらいの長さでまとめられた]エッセイみたいにこぢんまりとした作品を完成させるのに都合のいい文章は持っているんだけど、とめどなく考えを先に進められる文章は持っていないということなんだと、今僕は思っている」(210頁)。「比喩というのは世界に向かわず、言語の中で次から次に移っていくことだ……だから、やっぱり比喩を使っていたら世界[リアリティ]は開示されない、きっと。…言語と世界をいかに結びつけるかということを忘れたら小説は大人が真面目に読むものじゃなくなると思う」(214頁)。
 石川忠司が「2001年の保坂和志」(『世界を肯定する哲学』)と「2002年の保坂和志」(「文学のプログラム」/『言葉の外へ』所収)を図式化して、その間の「ゆらぎ」もしくは「矛盾」を衝いていた。両者に共通しているのは「人間(肉体)に対する世界(存在)の先行性」(211頁)なのだが、「図式1[2001年]では世界の先行性、世界と人間の断絶を敢行していたのは言語の「裏地」、言語の肉体的側面だったのが、図式2[2002年]では逆に言語の「表地」、肉体性からかけ離れた純粋な論理・思考的側面になっている」(212頁)。保坂和志いわく「それは自分だってわかっていないんだもん」。石川「しっかりしてよ」。保坂「人任せにするなよ(笑)」(213頁)。
 以下、世代交代(バトンの受け渡し)を描く小説、空間の中での「私」の消滅、いいことも悪いことも何も「起こらなかったことに××する」のその「××」を考えること、といった話題がつづき、最後に保坂・石川両人の「今後の予定」が語られる。保坂和志いわく「「小説をめぐって」の連載は、やっぱり小説を書いているわけじゃないから、小説を書きたい」(219頁)。『小説の自由』は現在も続く「小説をめぐって」(『新潮』連載)の最初の十三回分をまとめたもの。(二人の対談を読みながら、昔読んだマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』を想起していたのだが、このことはまた別の機会に書く。)

 石川忠司がいう「ゆらぎ」は私もおぼろげに感じていて、それは小説とは感覚の運動であるという『小説の自由』前半の規定と、小説とは思考の手順を総動員して書きつづけることだという後半の規定との間に、あるいは小説とはフィクションという第三の領域を立ち上げることだという前半後半を通じた規定と、『〈私〉という演算』のあとがきにある「ぼくにとって小説というのは、フィクションであるかどうかということではたぶん全然なくて、歌かどうかということであるらしい」という規定との間に漠然と漂う異和感のようなもののことだ。もっとも『〈私〉という演算』のあとがきは「こここにある文章はその「歌」から最も遠いところで書かれているのだけれど、その分、思考の生の形に近い」とつづき裏地と表地はつながっているのだが、そのあたりはとても危うい。
 それにしても石川忠司の図式はとても便利なもので、「物質性─精神性─フィクション(第三の領域)」という保坂和志の三項関係(9月4日の日記に書いた)にあてはめて「言語の裏地(肉体性:感覚の運動)─言語の表地(記号性:思考の手順)─世界(リアリティ)」と変形してみたり、今読んでいる茂木健一郎『「脳」整理法』の議論(「世界知=ディタッチメント」と「生活知=パフォーマティブ」、「偶有性」と「神の視点」)と関連づけたりすると面白い。言語の裏地における「肯定/否定」「全体/部分」「容器/中味」の関係は、マテ・ブランコの『無意識の思考─心的世界の基底と臨床の空間』とも関連しているはずだ。

★9月10日(土)

 茂木健一郎『「脳」整理法』【¥700】読了。読み進めながら、本書の姉妹篇ともいえる『脳と創造性』に覚えたかすかな異和感がしだいに増殖していくのを感じた。茂木さんがこの本を書いた動機は分かるような気がする。そのことはタイトルに表現されている。脳を使った情報整理法でも、脳力アップの教則本でもない。整理するのは「脳」なのである。デジタル情報の洪水の中で私たちの脳は悲鳴をあげている。現代人は自分の脳の働かせ方がわからなくなっている。しかし「脳」は元来、偶有性に満ちた世界との交渉の中で得たさまざま体験を整理・消化する臓器なのだ。「私たちの脳」でも「自分の脳」でもない、一人称でも三人称でもない「無人称」とでもいうべき「脳」のはたらき。だから「脳」整理法なのである。脳科学ブームにのった凡百の(あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の)啓蒙書とは出来が違う。だからそこに異和感を覚えたわけではない。
 でもやはり、「行動」「気づき」「受容」が「偶然を必然にする」セレンディピティを高めるために必要なのです、といったマニュアル風の物言いを茂木さんの本で読むことにはかすかな異和感がつきまとう。それは『マインズ・アイ』(くどいが『小説の自由』にもこの本の話題が出てくる)の監訳者まえがきを読んだ時以来くすぶっている。もちろんそこに書かれていたことは凡百の(あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の)啓蒙書風の物言いではなかった。「庭師は、自然の営みを支配するのではなく、むしろ自然の営みに任せるところは任せるということを知っている。マインズ・アイによる心の手入れと、無意識の営みの関係にも、似たようなところがある」。それは分かっているのだが、本書が凡百の脳科学本として読まれてしまうかもしれないことに異和感というより懸念を覚えるのだ。(凡百、凡百と騒いでいるが、百冊の啓蒙書を読んで言っているわけではない。「あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の」啓蒙書を具体的に読んだわけでもない。『海馬』にしろ『1日5分で英語脳をつくる音読ドリル』にせよ、決して凡百の類とは思わないし、それなりにけっこう日々の生業に役立っている。)

 それなら何に異和感を覚えたのか。実は書いているうちにすでに異和感は解消してしまったのだが、あえて書く。茂木さんの科学観(「神の視点」という仮想的存在によって構築されるクールな「世界知」)がゆらいでいるように思うのだ。もちろんゆらいでいるのは読者の側の事情だ。『脳と創造性』にこう書いてあった。「偶有性が、形而上学と現実世界の境界に生まれるとすれば、そこにおける秩序化を担うのが科学である」(220頁)。ここでいわれる「科学」とは、たとえばガルヴァニの「動物電気」の発見が、スープをつくるため台所においてあったカエルの足にたまたま金属が触れて足の筋肉が収縮するのを観察したことによる、といったエピソードに示されている人間の営みのことである。でもそれは「科学離れ」といわれる時の「科学」とは違う。また本書に「人類の歴史を観ると、世界を自分の立場を離れてクールに見る「世界知」を忘れ、個人の体験に根ざした「生活知」に没入することは、きわめて危険なことだということを示す悲劇に事欠きません」(215頁)とある。ここでいわれる世界知(科学)も、それはどの世界知(科学)のことだかよく分からなくなる。
 要するに、「世界知=ディタッチメント=科学の知」と「生活知=パフォーマティブ=アフォーダンス」、「神の視点」と「偶有性」といった図式が分かりやすすぎるのだ。分かりやい図式にのっとってすらすら読めるから何か分かったつもりになるけれども、結局何も分かっちゃいない。たとえば「神の視点」という分かりやすい比喩。保坂和志は『小説の自由』で「私がアウグスティヌスとトマス・アクィナスとカール・バルトを拾い読みしたかぎり、彼らは一度も「神を見た」とは言っていない」(272頁)と書いている(パスカルだってそうだ)。永井均は『私・今・そして神』で神の三つの位階──土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神、世界に人間には識別できないが理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神、世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階の神、すなわち開闢の神──を区分している。「神」と一言で片づけられないのだ。「世界知」と「生活知」は最初から入れ子になっているのだ。そういった複雑さに耐えなければ何もわからない。(「脳」という言葉だって「神」と同断だ。)
 クオリアの謎を解くためには、そも「解く」とは何かを反省しなければなるまい。「分かる」(A HA!)とは何かが分からなければなるまい。茂木さん自身の科学観(世間知と世界知の統合のかたち)を明快に論じた書物を読みたい。

★9月11日(日)

 日曜の午前が待ち遠しくなってきた。先週『物質と記憶』を読み始めて最初の陶酔(フィロソフィカル・ハイ)を経験して以来、続きを読むのが待ち遠しい。第一章五節「表象と行動の関係」を熟読して、続く二節分を通読。四節「イマージュの選択」も少し読み返した。ハイの余韻が続く。百円ショップで専用の手帳とボールペンを買ってノートをつけることにした。今その手帳を眺めながら、そこにメモを書きつけた時に脳髄に浮かんでいたことをウロ覚えで書いておく(本を開かず記憶だけに頼って書くのはとても健康的なことに思える)。
 ベルクソンは書いている。児童の知覚は非人称である。児童の表象は非人格的である、だったかもしれない。これは「私」というアナログがつくられる前の知覚の実質をさしている。児童のまだ朧気な意識のうちに、無人称の「脳」のはたらきによって縮減されたイマージュが浮かび上がっているということだ。知覚するのは「私」ではない。行動するのは「私」ではない。思考するのは「私」ではない。一人称の「私」を無人称の「脳」に置き換えても同断だ。「私」が「脳」のはたらきによって産出されたアナログであるとすれば、部分が全体を統治できないように「私」が「脳」を使って知覚し行動し思考することはできない。だからといって「脳」が知覚し行動し思考するわけではない。「脳」は伝導体である。神経系は伝導体である。(アナログの私とは『神々の沈黙』に出てくる言葉。これを読んでウィトゲンシュタインが「写像」の重要性に気づくきっかけになったある裁判の事例を想起した。)
 ここでベルクソンが論じているのは「純粋知覚」なのである。それは権利上の存在であって、事実上の存在ではない。権利上の存在ということであれば、「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経系の協力なしに知覚される可能性」だって議論することができる。全宇宙を隈なく映しだす透明な写真。児童の非人称の知覚はこうした無意識の知覚に限りなく近い。三歳までのまだ言葉を使いこなせない(言語のはたらきを通じてつくられるアナログの私=三つ子の魂の輪郭がまだ朧気でしかない)児童。七歳までは神の内と言われる父母未生以前の世界に(まだ言語によって切断されきっていない臍の緒で)つながった児童。児童とは一個の身体である。児童は物質である。
 物質は屈折率をもっている。ベルクソンは、光が異なる媒質間の界面で屈折せず全反射する現象を知覚になぞらえている。この界面(身体の表面)は「自由」の名で呼ばれる。反射した光は虚の光源をさししめす。これが「表象されたイマージュ」である。実の光源すなわち「現存するイマージュ)から虚の光源を浮き出させるのが意識的知覚のはたらきである。この分離作用、弁別するはたらきは精神を告知する。ベルクソンはそう書いていた。(ずっと前から「スピノザの屈折率」というアイデアを温めてきた。スピノザが磨いたレンズを身体になぞらえ、あるいはモナドと見比べながら、身体と精神という二つの媒質の界面で生起することをみさだめたいと考えてきた。言葉にすると訳が分からないが、ベルクソンを読むことでその実相が少しずつあきらかになっていきそうな予感がする。)

     ※
 途中まで読んで放置したままの本がたまっている。気になってしかたがない。いつかまとめて「棚卸し」をしなければと気持ちが焦る。最後まで読むことへのこだわりがなかなか抜けない。「僕は、小説は部分だけ読んでいて構わないと思っているのね」(保坂和志)という境地にはやく到達したいと思う。今日は小島信夫の『漱石を読む』を数頁、折口信夫の『かぶき讃』を一節、それから日夏耿之介の『荷風文学』とレヴィ=ストロースの日本講演の記録を少々読んで、ヒッチコックの『めまい』の前半を観て、ブラームスの交響曲第1番を十分ほど聴いて過ごし、吉田一穂の詩を一篇しあげに朗読して就寝しました。そんな日記を書いてみたい。
 で、気になっていた本の何分の一かをしあげた。内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』読了。内田樹はほんとうによくしゃべる。ホモ・ロクエンスとはこの人のことだ。放談集といってもいい本だが、随所に叡智の言葉がちりばめられている。ことばの力は身体感覚を変える。いい比喩(『ハウルの動く城』に出てきた、あの黒いドロドロになったようなつもりで!)に出会うと人の動きはパットと変わる(110頁)。人格を変えなきゃ、声も変わらないですよ(184頁)。以上、内田。残虐な行為は一度存在してしまったら、あとは次々と宿主を変えて取り憑いていく精神的な寄生体なのである(229頁)。これは対談を終えた春日の言葉。いずれもほんの一例。
 志村史夫『こわくない物理学』読了。コンパクトに「世界知」がまとめられていて重宝。でもこの本のどこが「哲学としての物理学を追究した画期的名著」なのか最後まで読んでも皆目分からない。草凪優『誘惑させて』【¥571】読了。著者は2005年「この文庫がすごい!」官能文庫対象受賞者。「女薫」の向こうをはって『週刊ポスト』に連載されている重松清の「なぎさの媚薬」もよさそうだが、草凪優のフルーティ(?)な作風はとても新鮮でよい。
 夜、『ロープ』【¥476】を観た。ヒッチコックがますます面白くなってくる。廉価版で買えるDVDはすべて買って、何度も何度も観てみよう。いま一番観たいのは『めまい』で、これは三回は観た。

★9月13日(火)

 沢木耕太郎『シネマと書店とスタジアム』読了(書評とシネマ評で一部読み残したものがあるが、それは今後のお楽しみ)。やはりこの人のスポーツ観戦記には得心がいかない。「人間の物語」へのやや過剰気味の傾斜が散見される。石川忠司との対談(『群像』10月号)で、保坂和志が「スポーツのよさって非人間的な次元で、その人の気持ちなんか関係のない次元なんだから、その次元で物事を肯定したり完結したりできない」と言っている。スポーツには、結果がすべてだという意味でのリアリティ(実)とは別の次元のリアリティ(虚)がある。それを「人間の物語」といえばそれまでだが、状況への「リアクション」がひらくこの「非人間的な次元」を透視しないかぎりすべては後付けの理屈の趣を呈することになる。沢木耕太郎はすべてが終わった時点で書いている。そのことが本書に収められたコラムの切れ味を生み出した。読者(私)は一瞬われを忘れ、次の瞬間われに戻る。文章はつかの間の閃光を放ち消費されていく。だが、それは決して非難されるべきことがらではない。

★9月14日(水)

 打海文三『ハルビン・カフェ』読了。8月の頭に読み始めて以来ほぼ毎日、仕事帰りの電車の中で沈潜した。最後まで飽きることなく、それどころかしだいに熱が入り、この重厚に構築され、錯綜した人間関係と欲望の質がはりめぐらされた虚構世界に全身を浸すようになった。一気に読み通したくなる欲求をこらえにこらえて熟読した。物語の興奮にわれを忘れることなく、最後の一頁まで気持ちを乱さず、冷徹に、ハードボイルドに、読み終えたかった。頭の中に聞こえない音声を響かせたり、脳内スクリーンに映像を浮かべることをできるかぎり禁欲し、つまり純粋に文字を読むことに徹して読むことを心がけた。そうすることがこの作品にはふさわしいように思えた。気がつくと頭の中で声を出し、映画を見るように読んでいた。最後の最後で緊張にたえられなくなって、堪らず、結末まで一気に駆け抜けてしまった。それでも濃い読書だった。これほどの傑作にも欠陥はある。物語はいつか結末を迎える。これだけはどうしようもない。原広司『集落の教え100』からの引用が決まっている。

★9月15日(木)

 東京であったセミナーに参加して、毎日新聞社特別編集員の岸井成格さんの講演を聴いた。演題は「政局大激動」。あまりにもタイミングのいい企画で、いつになくギャラリーは多い。地殻変動とも形容すべき自民党の圧勝をもたらした「小泉旋風」とは何だったのか? ポスト総選挙の政局の動向は? この二つのテーマで質疑応答を含め約2時間。最前列で聴いた。
 小泉自民党の勝因は第一が郵政民営化の争点化に成功したこと(分かりやすい争点の設定)、第二に首相が直接国民の意思を問うたこと。殺されてもいい、国民の意見を聴きたい。首相にここまで言われて国民は応えないわけにはいかなかった。その背景に「制度の特質」がある。この言葉が今回の講演のキーワード。制度とは小選挙区制度のこと。その特質は巨大政党に有利な選挙制度であること。したがって二大政党制を導きやすいこと。その帰結が政権選択であり、総理の選出である。つまり事実上の首相公選制。今回の選挙は、政治改革十年余にしてこの小選挙区制度の特質がいかんなく発揮された。ということは、次の総選挙で民主党に風が吹くこともありうるわけだ。
 これ支えた最大の要素が「無党派層」の存在。小泉純一郎はそれを「宝の山」と呼んだ。従来の支持母体を切って、都市周辺のサラリーマン夫婦をターゲットにする。これをまともにやったのが変人・小泉だった。自民党が選挙で負ける3つの条件(投票率のアップ、分裂選挙、シングル・イッシュー)が全部そろったにもかかわらず大勝するという、これまでの常識をくつがえす結果が生まれた理由である。それともう一つ。小選挙区制下の政党政治は中央主導であるべき。反対派の公認剥奪も「くノ一」刺客(この言葉の生みの親は岸井さんだった)も政党政治ならば当然のことで、変人はその当然のことをやっただけ。小泉は女性的である、だからあれほど非情になれたという見方もある。
 今後の政治日程。権力闘争は決着がついた。野中が完璧にやられ、亀井も死に体。小泉の一人勝ちである。ポスト小泉の動向については慎重にならざるを得ない。なにしろ変人、何をやるかまったく想定できない。11月15日の紀宮成婚後、突然辞任して靖国に参拝するかもしれない。そうなると福田の線も出てくる。無難なところで麻生、谷垣。安部は次の次か。いずれにせよ次の組閣が注目される。幹事長、財務相、外相あたりがポイント。来年の通常国会以降、社会保障制度全体の見直しとこれに連動する消費税問題が争点化されることを考えると厚労相も重要になる。安部厚労相の線もありうる。
 と、メモを書き写したが、これではあの臨場感を再現できない。肉声、肉顔のいかに情報量に富んでいることか。それに、死んだふり解散(中曽根)やハプニング解散(大平)や細川政権誕生前後の政治改革の動向など、そう言われるとつい昨日のことのように思い出すここ二十年ほどの現代政治史に関することがらを一切省いてしまった。これでは表面的に流れる。政治は人である。政治は歴史である。これはただそう書いただけのこと。

★9月16日(金)

 昨夜、講演後のミニパーティと少人数の二次会で、複数のジャーナリストから新聞やテレビでは報道できない話をたくさんお聞きしたのだが、にわかには思い出せない。こういう情報は知らず知らずのうちに身に染みこんでいくもので、いつか意味とかたちを変えて意識にのぼってくることもあるだろう。耳学問の効用。数人の気心の知れた人たちと三次会になだれこみホテルに帰って寝たのが夜中の2時。朝5時に起きて9時過ぎには神戸に帰ってきた。眠い。
 夜には二年前から参加している某研究会の会合がある。「人社講」と銘打って今月から毎月6日に集まることになった。9月6日は台風が切迫していたので今晩になった。眠い。会合の後カクテルを一杯ひっかけて後帰宅したのが11時、眠気がいつのまにか飛んでいた。深夜、ビデオに撮っておいたNHK教育の「視点・論点」を観た。茂木健一郎さんの「小林秀雄に学ぶ 話し言葉の魅力」。『脳と仮想』が小林秀雄賞を受賞した。テレビでもそのことにふれていた。

     ※
 三浦雅士『出生の秘密』読了。昨日、今日、往復の新幹線の中で二百頁ほど読んだ。ほとんどうたた寝の夢の中でページを繰っていたような感じで、新神戸にたどりつくまでに最後まで読み切れず四十頁ほど残していた。隙間の時間を使ってなんとかその日のうちに読み終えた。あとがきの高揚はやはり浮いている。一つの概念というか問題系(言語空間)の誕生の現場に立ち会えた興奮が心から湧いてこない。面白い本ではあったが、はたしてこれほど長く書くだけの実質があったのだろうか。成長(進歩)・教養・青春(自意識)の誕生とその終焉の実相を鮮やかに叙述しきった『青春の終焉』と比較して、冗長と迂回と停滞の感は拭えない。膨大な素材が自閉して放り出されている。一度熱を冷ましこれらを再編集して最初から語り直せば、もっと濃く鮮やかな物語になるのではないか。(三角関係という自意識のドラマから主人・奴隷の二者関係へ。この『青春の終焉』から『出生の秘密』への道行きに続くものは何か。それが「一なるもの」へと向かうのは見やすい道理だ。)

 「出生」の秘密には二つの次元がある。その一は未生以前の物質(死)から生命(生)へ、その二は動物としてのヒト(本能)から言語を獲得した人間(知性)へ。そのそれぞれの境界(界面)のうちに「秘密」は潜んでいる。ラカンの概念を使って、前者は現実界から想像界へ、後者は想像界から象徴界へと言い換えることができる。本書を支えている理論的骨格がこの現実界・想像界・象徴界の概念で、パースのイコン・インデックス・シンボルがこれと不即不離の関係でからんでいく。そのもっと奥にあるのがヘーゲルの『精神現象学』。フロイトをヘーゲルによって読みかえる作業を通じてラカンは現実界・想像界・象徴界を切り出し、ヘーゲルの概念化作用(生命の本質)を記号化過程におきかえてパースは記号の三区分を導出した。
 以上が『出生の秘密』のいわば舞台と書き割り。その上で、丸谷才一の短編「樹影譚」をふりだしに中島敦(象徴界から想像界、現実界への下降)、芥川龍之介(象徴界への停留)、夏目漱石(象徴界と想像界の界面)の三人の文学者とその作品群をとりあげ、最後にふたたび丸谷才一の『エホバの顔を避けて』で締めくくる。なかでも全体のほぼ三分の一の分量を費やした漱石が圧巻。ヘーゲルと漱石のあやしい関係(漱石は大学時代に『精神現象学』に感銘を受けて「老子の哲学」を書いた)を執拗低音とする長い叙述をくぐりぬけ、アウフヘーベンとは「僻み」である、つまりヘーゲルの弁証法は「僻みの弁証法」であるという帰結が示される。
 僻みは「否定」と「抑圧」(保存)の二重の意味をもつ(「僻み」を九鬼周造の「いき」と比較すると面白い)。「意識そのもの、自己意識そのものに僻みの作用がある。いやそれは僻みの作用そのものである」(538頁)。僻みの構造は食における晩餐、性における婚姻と論理的に相同である(541-543頁)。ここに想像界(食と性の世界)から象徴界(言語)への移行の「秘密」が隠されている。獲物をその場で食べずに仲間のもとに持ち帰り共食したときに「魂」は生まれた。否定(すぐには食べない)と抑圧(食べるときまで待つ)が食物を「意味」に変えるからだ。
《否定と抑圧が祖霊という観念を引き寄せ、食物が供物になったとき価値が生まれた。使用価値から交換価値が剥離した。意味すなわち言語が発生したのだ。(略)食べられるけれど食べられないというこの二重性は、魂と身体という二重性、自己であると同時に他者であるという二重性と、同じことなのだ。二つの身体を持つのは王だけではない。名を持つ人間のすべてが二重性を帯びているのである。人間こそが交換されうるものなのだ。貨幣とは何よりもまず人間のことなのであり、人間の発生と奴隷の発生とは軌を一にしているのである。自己とは自己の奴隷化にほかならない。》(あとがき,615-616頁)

 著者は「あとがき」で「出生の秘密を解明しようとするささやかな試みが、言語空間の探求へと進むほかなかった理由」を書いている。食べられるけれど食べられないという二重性はそのまま言語・貨幣・社会・国家・宗教の二重性につながる。この二重性が次元の混乱を惹き起こし、ひいては人間を豊かにも惨めにもしてきた。それは生命すなわち概念化作用による世界の階層化・次元化が錯覚と錯誤をもたらし、ひいては生命現象の豊かさを形成してきたことに対応している。であるならば言語における物質と意味の二重性が精神の次元に錯覚と錯誤をもたらすのは当然というべきだろう。
 何が言いたいのか。想像界(生物)から象徴界(精神)への移行が根源的であること。すなわち世界は「言語空間」であること。父母未生已然の世界すなわち現実界(物質)、それもまた「言語空間」であること。「人は言語空間すなわち死のなかで生き、生はただ言語によってのみ輝く。/言語空間の探求はいまはじまったばかりなのだ」。これがこの「一冊の興味深い書物」(516頁)の末尾の言葉である。

★9月17日(土)

 この5月、同時期に買って共に読みかけのままになっていた二冊の論文集、坂部恵『モデルニテ・バロック』と木村敏『関係としての自己』を少しずつ読んだ。
 『関係としての自己』は「序論」を読んだ。これでたぶん五度目。読み返すたびに新たな発見がある。冒頭にドゥルーズが引用されている。「意識はけっして自己[ソワ]の意識ではなく、意識的でない自己に対する自我[モワ]の意識である。それは主人の意識ではなく、主人に対する奴隷の意識であって、主人は意識的である必要がない」(5頁,邦訳『ニーチェと哲学』65頁)。
 ここに出てくる主人と奴隷の関係は、フロイトの「自我とエス」では騎手と馬の関係に喩えられている。「自我は、知覚・意識系の仲介のもとで外界の直接の影響によって変化するエスの部分》である一方で、《理性とか分別とかと呼ばれるものを代表して、さまざまな情念を含むエスと対立している》。自我のエスに対する関係は《手に負えない力をもつ馬を制御する騎手に似ている》が、落馬を防ぐために《ふつうはエスの意志を、あたかも自分の意志であるかのように実行に移している」(15頁,邦訳『フロイト著作集6』274頁)。
 主人と奴隷の関係といえば『精神現象学』。三浦雅士は『出生の秘密』で真理と非真理、現実と虚構(文化)、理想と現実を主人と奴隷に準えていた(548頁.556頁)。主人と奴隷の弁証法(僻みの弁証法)はルソーの『人間不平等起源論』の直接的な延長上に考察されたと見るべきだろうと書いていた(552頁)。だからどうというわけではない。ヘーゲルとフロイトを掛け合わせるとラカンの現実界・想像界・象徴界になる。現実界と想像界の界面に「ソワ」が、想像界と象徴界の界面に「モワ」が立ち上がる。そんなことが言えるのだろうか。

     ※
 『モデルニテ・バロック』は最後に収められた「日本哲学の可能性」を読んだ。名著『ヨーロッパ精神史入門』のコンパクトな要約と日欧の精神史的転換期の要を得た比較は鮮やか。「霊性の基盤」(9世紀)、「個(体)の思考」(14-15世紀)、「モデルニテの時代」(欧1770-1820,日1850-1900)、「1960年代以降」の四区分は年代記としてではなく一つの観念の生長のプロセスとしても活用できる。その背景に潜む経済史的転換への目配りが素晴らしい。経済史─精神史的考察。哲学の「制作」と「精神史的リソース」の活用。この二つの語彙が強く印象に残った。以下、若干の抜き書き。
◎「科学と芸術のうちに(潜在的に)生きる哲学的思索にセンシティヴになることは、今後の哲学とリベラル・アーツ精神の発展のために何よりも肝要なことといってよいだろう」(237頁)。
◎「霊的修業のマニュアル」(244頁)という一面を多分にもつエリウゲナや空海の「後の制度化されたキリスト教や仏教の枠におさまり切らぬ大胆さをもち、個人とその連帯の、垂直の超越的かかわりをはらんだ原点を指し示す」思索は、「たとえば、西田とエリウゲナの発想の近縁関係が指摘されたりもするように、(一九世紀的な国民国家の枠組みなどとははじめから無縁な国際性をもち)、今日なおあらたな思索を挑発して止まぬ精神史的リソースとして生きつづけているといえるだろう」(245頁)。
◎「個(体)の思考」と括られた転換期は「伝統的共同体の絆の弛緩にともなう個の析出と孤立へのレスポンス」(246頁)という性格をもつ。この時期の日本における「他の個と垂直の超越の絆を介して連帯する個という思想の掘り下げ」は同時期のヨーロッパに十分ひけをとらないほど活発だった。しかし「この連帯の面での徹底が、かえってアトム的な個をまず擬制的に析出して(後の社会契約論にいたるまで)しかるのちに連帯と謝絶(抵抗権等)のありようを考察するノミナリズム的な社会哲学の内発的展開をむしろ阻害するようにはたらいた可能性」がある。この「共同体的連帯の重視」という側面が速くも『神皇正統記』で原理主義的イデオロギー化の方向を見せ、明治から昭和の最初の二十年までの共同体の思考に暗い影をおとすことになった。「しかし、一方で、西田から西谷にいたる現代日本の哲学者の多くが、共同体の問題を垂直の絆を含めて、ということは宗教(哲学)の考察を必須の到達点として思索していることは、日本の精神史的リソースのもつポジティヴな要素として評価することがすくなくとも可能だろう」(247頁)。
◎「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期[「個(体)の思考」の時期]の歌論(詩論において空海はその先駆者でもあった)、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」(247-248頁)。

 昨晩の研究会のテーマは「日本的な知の遺産を現代につなぐ」といった趣旨のもので、これに場(空間)と縁(ネットワーク)の二つの側面からアプローチする。私が参加しているのは後者のチーム。そろそろ自分なりに探求する対象を明確にしないと思っていた矢先、「日本哲学の可能性」は大きなヒントを与えてくれた。歌論と農書。この二つの「精神史=自然(経済)史的リソース」(まずは前者)に取り組む。歌は死に、農は生に通じる。生と死を媒介するもの、もしくはその基体としての身、すなわち貨幣。こうして精神史=芸能史=農業史=経済史的考察がなりたつ。
 まずは松岡心平『中世芸能を読む』と守田志郎『日本の村』を読み直し、ついでジンメル『貨幣の哲学』と三浦梅園『価原』を仕上げ、クロソウスキーやブランショに取り組む。歌論に直にあたる助走として丸谷才一『新々百人一首』を読み込む。精神史=自然(経済)史的リソースへのフィールドワーク。『物質と記憶』も関係してくる(かもしれない)。

     ※
 村上春樹『東京奇譚集』【¥1400】を買った。「ねじまき鳥」以来の長篇・中編・短編のサイクルがこれで二巡した。『ねじまき鳥クロニクル 第3部』(1995)、『スプートニクの恋人』(1999)、『神の子どもたちはみな踊る』(2000)の第一期。『海辺のカフカ』(2002)、『アフターダーク』(2004)、そして『東京奇譚集』(2005)の第二期。私がたてたムラカミハルキの法則によると二巡でパターンが変わるはずだが、これは当てにならない。
 天外伺朗・瀬名秀明『心と脳の正体に迫る』【¥1500】を買った。副題は「成長・進化する意識、遍在する知性」。ここに漂う「いかがわしさ」がとても香ばしい。意識の成長・進化にはあまり惹かれないが、遍在知性(ユビキタス・インテリジェンスとでも?)は面白い。これにアフォーダンスがからんでくるともっと面白い。フィリップ・K・ディックの『我が生涯の弁明』が読みかけのままになっているので、あわせて読めればいいと思う。あまり関係ないかもしれない。
 夜『ビューティフル・マインド』を観た。これは老年の素晴らしさを讃えた映画だ。ジョン・ナッシュのノーベル賞授賞式でのスピーチは感涙もの。リーマンの名前が二度出てきた。嬉しい。DVDのボーナスにカットされた映像が監督の解説つきで収めてあった。実に面白い。ここ[http://coda21.net/eiga3mai/text_review/A_BEAUTIFUL_MIND.htm]にある「テキストによる映画の再現」レビューはとても便利。

★9月18日(日)

 ブログ「内田樹の研究室」が『物質と記憶』を取り上げていた(2004年07月18日)。「若い頃に読んだときはぜんぜん面白くなかったベルクソンであるけれど、五十路を過ぎて読むとなかなか面白い」。同感。
 先週に続き五節「表象と行動の関係」を熟読。今日は第一章を最後まで一気に通読しようと意気込んでいたのに、復習をかねて五節にざっと目を通し始めるやたちまち気になること・よく分からないこと・じっくり考えてみたいことが次々とみつかった。
 まず「振動のそれ自身への見せかけの反射、光源のイマージュへの光線の還帰、というよりは、知覚をイマージュから浮き出させるあの分離作用、すなわち弁別する働き」(52頁)とあるのは四節「イマージュの選択」に出てくる屈折と反射の比喩(42-43頁)を踏まえてのことだが、該当個所を読み返すうちベルクソンの比喩の意味するところがよく分からなくなった。「知覚は、屈折が妨げられて起こるあの反射の現象とよく似ている。それはちょうど蜃気楼の効果のようなものである」(43頁)。蜃気楼は屈折に伴う現象のはず。蜃気楼は「知覚をイマージュから浮き出させる」ことの比喩ではあるが、知覚(反射)そのものの比喩にはならない。いったいどういう図式を想定すればいいのか。「反射」は後に「投影・投射」との比較で重要な語彙になっていく(53-55頁)だけに、ここでしっかりとイメージしておきたい。「しかしこれは比喩にすぎない」(65頁)とは異なる場面で言われていることだが、よくできた比喩にはくれぐれも注意しないといけない。
 比喩といえば「アメーバ」や「突起」も気になる。これまでに出てきた箇所を列記しておく。感覚系と運動系の間に介在する「アミーバ状突起」(34頁)。「原生動物がさまざまに生じる突起や、棘皮動物の棘は、運動器であるとともに触角の器官である」(36頁)。視覚を失うと触覚的印象と運動とを関連させる新しい秩序が脳の中に生まれ、「皮質内の運動性神経要素の原形質的突起は、こんどははるかに少数の、いわゆる感覚性神経要素と関連させられるであろう」(52頁)。巻末の事項索引の第一に「アミーバ」が出てきて、先の「アミーバ状突起」(34頁)とともに「アミーバの意識」(180頁)や「アミーバの収縮」(63頁)が掲げられている。
 よく分からないことに話を戻す。感覚のモード(視覚、聴覚、触覚)と運動との関係について。「外的には同一の運動も、そのあたえる応答が、視覚的、触覚的、あるいは聴覚的印象のいずれにたいするものであるかによって、その性格が内的に変様されるのである」(52頁)。以下の叙述をいくら読んでも「内的変様」の実質がよくつかめない。四節まで戻ると、「行動が時間を処理するのと正確に比例して、知覚は空間を処理する」(37頁)とか知覚と写真の関係(43-44頁)とか「万物の可能的知覚」(44頁)とか生気を呈するすべての性質を物質からはぎとる(45頁)とか「意識的知覚と脳の変化…の相互関係は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることからくる」(47頁)とか再々出てくる「尺度」という言葉の意味とか、よく分からないこと・じっくり考えてみたいことはいくらでも出てくる。遡ればもっとたくさん出てくるはず。

 五節を読んで気になったことを二つ書いておく。最初は非人格的であった表象が「帰納の力」によって自分の身体を中心とする自分の表象へと漸次推移していく「操作の機構」をめぐって、ベルクソンは「私の身体が空間中を動くのにつれて、他のすべての表象は変化するが、これに反して身体は、どこまでも変化することがない。だから私は当然これを中心とせざるをえず、他のすべてのイマージュをそれに関連づけることになるだろう」(53頁)と書いている。これは「数覚」のことではないか。一次変換と固有値、固有ベクトル云々の線形代数が知覚の現場で稼働している?
 ベルクソンは「提起された諸問題こそ、まさしく知覚とよばれるものなのである」(51頁)と言う。また「意識とは可能的行動を意味する」(58頁)と書いている。さらに「私の神経系は、私の身体を興奮させる諸対象と、私が影響を与えることのできそうな諸対象との間に介在して、運動を伝達、分配し、あるいは制止するたんなる伝導体の訳を演じているだけだ」(51頁)、あるいは「脳とは私たちの考えでは、一種の中央電話局にほかならぬ」(34頁)とも。これらを組み合わせると、そこに「問題─伝導(操作)─行動(解)」という数学の図式を描くことができる。生きるとは解けない問い=微分方程式を解くこと、とまで書くとこれはもうドゥルーズ。ついでに書いておくと、後に「私たちの身体は空間中の数学的点ではない」(67頁,65頁参照)という言葉が出てくる。(伝導体の役割「運動の伝達・分配・制止」に関して、ベンジャミン・リベットの実験を参照のこと。)
 気になったことの二つ目。ベルクソンは先の「帰納の力」云々に続けて、私の身体と他の物体の区別から当初は「内部と外部」の概念が生まれるのだが、「イマージュ一般が私に与えられれば、私の身体は結局必然的にそれらの中ではっきりした事物として現出することになる。それらはたえず変化するのに、私の身体はそのまま変わらないからである。内と外の区別は、このようにして、全体と部分のそれに帰着するだろう」(54頁)と書いている。
 ここを読みながら私は「アナログの私」(『神々の沈黙』)を想起し、内部と外部はラカンの想像界に、全体と部分は象徴界に対応しているのではないか(『出生の秘密』)と考えたのだが、それはともかく、ベルクソンは「先走り」をしてはいまいか。つまり「イマージュ一般が私に与えられれば」というのは「言語が私に与えられれば」と相同なのではないか。記憶を捨象した純粋知覚を論じるこの場面で、それは先走りではないか。あるいは、知覚し行動する当の「生活体」とそれを観察し記述する者との立場が混同されてはいまいか。たぶん私のこの疑問は間違っている。間違ってはいるだろうが、こういう疑問を抱いた事実は忘れないようにしよう。

 三浦雅士の『出生の秘密』に、ハイデガーがヘーゲルの『精神現象学』をとりあげた講義で用いた図が紹介されている(524-7頁)。『精神現象学』は論理学・自然哲学・精神哲学という知の体系『エンチクロペディ』へと進む導入・端緒である。『精神現象学』から見れば『エンチクロペディ』はその註にすぎない。『精神現象学』が詩であるとすれば、『論理学』はそれを散文にしたようなものだ。しかし『エンチクロペディ』の体系でいえば、第三部「精神哲学」の第一篇「主観的精神」のBが「精神現象学」になっている。つまり全体が部分になり、部分が全体になっている。内と外が逆転しているといってもいい。
《生命の発生において、卵割によって外胚葉、中胚葉、内胚葉が形成され、外胚葉から皮膚が、そして神経や脳が形成されてゆくさまに似ている。最大の内部である脳は、最大の外部である皮膚からできあがっているのだ。同じように、ヘーゲルにおいては、知の体系そのものが、メビウスの帯、クラインの壺のかたちになっているのである・/このことは何を意味するか。『精神現象学』の記述は新生児の意識から、すなわち人間以前の意識から出発しているが、はたしてそれは人間に許されることなのだろうかという問いに対して、ヘーゲルはその体系の変遷そのものによって答えようとしたのだということを意味している。》(『出生の秘密』525-6頁)

     ※
 植島啓司『性愛奥義──官能の『カーマ・スートラ』読解』【¥720】を買った。「われわれはなんと貧困な性愛しか知らなかったか!」「誘惑の作法から爪と歯の使い方まで いまこそ学ぶ、古代の智慧」「卓抜な比喩と精緻な分類から豊饒なカーマの世界が浮かび上がる!」店頭でみかけた時からいつか買って読むことになるだろうと思っていた。退屈な分類と講釈が延々と続くだけなのではないかとこれまで慎重に構えていたけれど、何か官能小説の新作でも買おうと本屋をうろうろしているうち、晴山陽一『実例!英単語速習術──例文で覚える一○○○単語』【¥740】といっしょにはずみで買った。『1日5分で英語脳をつくる音読ドリル』がほとんど最後までいったので、次のテキストを探していた。「最強の英語攻略本!」「この一冊で、《単語、英作文、解釈》を一網打尽。ネイティブのセンス溢れるオリジナル例文を満載。」この謳い文句に手もなくまいった。

★9月19日(月)

 村上春樹『東京奇譚集』読了。昨晩、就眠前に一篇だけのつもりで読み始めたら止まらなくなり、二時間ほどかけて最後まで読み耽った。ちょうど五篇のオムニバス映画を観た感じ。でも読んでいる間、映像が浮かび上がることはなかった。NHK教育を小音量でつけていて誰かがピアノ・ソナタを演奏したり義太夫を唸っていたが、ほとんど耳に残っていない。活字が音となって響くこともなかった。純粋に文章を「読む」ことに集中し、そこから立ち上がる物語世界に没頭した。至福の二時間。私の頭の中に村上春樹のための場所が確立されているのだろう。短編集としては『神の子どもたちはみな踊る』の完成度が高いように思うが、村上春樹らしい軽く浅い陰影が忘れ難い読中感を醸しだす小品集だった。
 ここには五つの断面が描かれている。異界へとつながる通路・裂け目、あるいは実と虚、生と死、男と女の「あわい」──「あう」の名詞化、坂部恵はこれを“Betweenness-Encounter ”と英訳する(「生と死のあわい」,『モデルニテ・バロック』170頁)、村上春樹的形象でいえば「耳」または三半規管。これらの断面における奇譚的出来事との遭遇がもたらす知覚(平衡感覚)と記憶(時間)の変容の五つのかたちが描かれている。
 誰よりも鋭い耳(34頁)をもった調律師は、十年ぶりの姉との再会に際して「物体と物体とのあいだの距離感」(36頁)を喪失する(「偶然の旅人」)。絶対音感をもつピアニストは、息子が鮫に襲われて死んだ海を眺めながら過去と将来の「時制」を見失う(51頁,「ハナレイ・ベイ」)。異界へのドアを探している「私」は、階段の踊り場の大きな鏡に向かい合ったソファに腰を下ろしていて「25分」(102頁)の記憶の消滅を体験する(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」)。人の名前を盗む猿に心の闇を言い当てられた女(みずき)は、身体がほどけ皮膚や内臓や骨がばらけてしまいそうになる(206頁,「品川猿」)。
 そして、何よりもバランスを大切にする女(キリエ)と本当に意味を持つ女性を探しつづける小説家の男(淳平)が登場する「日々移動する腎臓のかたちをした石」では、同名の作中作の中で腎臓石(胎児の象徴?)に支配された女医が現実へのいっさいの関心を失う(146頁)。
 とりわけ興味深いのはこの(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」と「品川猿」の間に配列された四番目の)短編で、そこでは断面が告知するもの──すなわち「肉体における腫瘍みたいに」(180頁)増殖する心の闇=「空白」(154頁)──からの救出ではなく、それとの親密な「バランス」を通じて「自分という人間が変化を遂げる」(152頁)ことへ向けた作家のメッセージが、小説家の苦難(小説制作上の)を救ったキリエの口を通じて伝達される。
《たとえば風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内面にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく。》(145頁)

     ※
 一昨日に続き『モデルニテ・バロック』を五十頁ほど読んだ。
◎エスノサイエンス(土着の伝統科学)という言葉(147頁)。
◎「あわい」は「語り・語らい」や「はかり・はからい」の造語法と同じく「あう」という動詞そのものを名詞化してできた言葉で、西田幾多郎の「場所」(動的な述語)につながり、英訳すると“Betweenness-Encounter ”になること(170頁)。それは「生死の連続体」(174頁)あるいは「生死の可逆性」(176頁)、「相互浸透の関係」を含意すること。日本の古い使い方では「あわい」は男女のペアをさしていたこと(178頁)。また「潮時」という別の日本語で表現できること(178頁)。
◎「振舞い」という日本語は「振り」「振りをする」(Mimesis)と「舞い」(Tanz)に分解できること(173頁)。舞いは振舞いの極限形態であり、ベルクソンが『時間と自由』の最初の方でその見事な哲学的分析をしていること(この本は一度読んだけれど覚えていない)。ポール・クローデルが「西洋の劇では何かが起こり、能では何かがやってくる」という言葉を残していること(177頁)。
 ざっと拾い出しただけでもこれだけのネタがある。「エスノサイエンス」や「あわい」や「振舞い」や「能」は「場と縁」の研究会にリンクできる。「あわい=潮時」は今読んでいる木村敏『偶然性の精神病理』の「タイミングと自己」につながる。全体に漂う西田幾多郎の影は『物質と記憶』にも関連していく。そして「男女のペア」は吉本隆明の「対幻想」(ラカンの想像界)を経て三浦雅士『出生の秘密』の最終章(595-598頁)にリンクを張ることができる。

 『出生の秘密』に関連して思いついたことがあるので書いておく。『青春の終焉』『出生の秘密』に続く第三部のテーマについて。二つの方向がある。その一は、最終章に出てくる「対幻想」を手掛かりに、生死・男女の「あわい」を描く妊娠小説とか情死小説を素材にして物質への夢を探求するもの(たとえば村上春樹『東京奇譚集』所収の「日々移動する腎臓のかたちをした石」に出てくる腎臓石=胎児の夢)。
 その二は、言語の二重性を手掛かりにするもの。ここでいう二重性は「物質と意味」のそれではなく、坂部恵『モデルニテ・バロック』の底流をなすロゴスの二つの流れのこと。すなわち「理性(ラチオ)」としてのロゴスと「生きた(神の)息吹にほかならぬことば(ヴェルブム)」としてのロゴス(144頁)。とりわけ「ヴェルブム」(Verbum)──「世界を生み出すないし流出させる力としてのロゴス(ヘブライ語のダーバール)」(94頁)のラテン語訳であるヴェルブム、(唯識や密教にも近い)新プラトン主義の伝統に根ざし(97頁)、バロックの源流としてのヘレニズム期の中近東、とりわけビザンチンの伝統を汲んだヴェルブム(143頁)──に着目した言語哲学の書。

★9月20日(火)

 岡野玲子『陰陽師12 天空』読了。このマンガはとんでもない世界へ入ってしまった。中国数学(句股弦の法=ピタゴラスの定理)と平安京造営。古代エジプトの物語(晴明と真葛の前世の記憶?)。この二つの世界(理と情)に浸食され、ほとんど溶解しかかったコマ割り。マンガでしか表現できない俗の世界が透視される。全編に霞のように音楽(雅楽)がたちこめている。晴明対道満の最終決戦(第13巻)へ、物語は緊迫の度を高めていく。
 二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#13【¥390】読了。パリ篇のテーマがようやく見えてきた感じ。「のだめ」の場合はつい最近#1から#12まで通して読んだばかりでまだ余韻が残っていたからすぐにその世界へ入っていけたけれど、やはりマンガは一気読みでないと心底愉しめない。

★9月21日(水)

 坂部恵『モデルニテ・バロック』に「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期の歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」とあったのにいたく刺激を受けたことは先日(9月17日)書いた。「この時期」とは14世紀から15世紀にかけての中世日本のこと。ネットで調べてみると、この時期の主要な歌論としては二条良基[1320-1388]の「近来風体抄」、正徹[1381-1459]の「正徹物語」、心敬[1406-1475]の「ささめごと」がある。岩波文庫の『中世歌論集』にはこの三篇のほか藤原俊成「古来風体抄」や藤原定家「近代秀歌」や「後鳥羽院御口伝」など計十一編が収められていて便利だが、残念ながら品切れ。田中裕(丹仙)さんの「桃李歌壇」、「主催の部屋」の掲示板「連歌論・能楽論」で「心敬を読む」というプロジェクトが進行している。「ささめごと(天理本)」の原文も掲載されている。まずはこのあたりから初めてみるか。
 正徹と心敬、世阿弥と禅竹。この二組の関係は併行していると誰かが書いていた。心敬と禅竹は「禅」でくくれるということらしい。松岡心平さんが『世阿弥を語れば』の松岡正剛との対談で、観阿弥、世阿弥、元雅もしくは金春禅竹の三代の天才がつづかないと能楽があの高みに達することはできなかったと語っている。だとすると、正徹、心敬に先立つのは二条良基か、それとも俊成・後鳥羽院・定家の新古今トリオか。

 同じく『モデルニテ・バロック』に、「あわい」は「あう」を名詞化してできた言葉で英訳すると“Betweenness-Encounter ”になるとあり、これは木村敏『偶然性の精神病理』につながるのではないかと一昨日書いた。「タイミングと自己」を読み終えてますますその確信が深まった。
 木村敏は「日本人は、時間という現象を「タイム」という客観化可能な(リアルな)「もの」として理解する以外に、タイムがアクチュアルに「タイムする」、その一瞬の微妙な動きを「タイミング」として捉える特別な感覚に古来長けていたのではないか」(111頁)と書いている。またタイミングを「意識と無意識、個人の人称性と個人を超えた匿名性、時間と自己、時間と生命などがたがいに触れ合う界面的な次元」(121頁)に位置づけ、「自他の界面現象としてのタイミング」と表現している。
 この「タイミング」は潮時とか間合いといった複数の日本語におきかえることができそうだが、歌論、連歌論などを読むとそのものズバリの言葉が見つかるかもしれない。「症例」に出てくる患者の言葉に「フライング」がある。「人と話していても間がもてなくて、全体の雰囲気よりも早めに出てしまう。いつもフライングしている感じ」。日常語に「舞い上がる」とか「(場の雰囲気から)浮いている」があるが、これもまた連歌論、能楽論あたりに適切な語彙が見いだせるかもしれない。

     ※
 富士ゼロックスの『グラフィケーション』(No.140)が届いた。特集は「地域の自立と再生」。巻末の「編集者の手帖」にこう書いてある。「地域が元気にならなければ、いくら大都市に住む人間が「改革だ」「グローバル化だ」と叫んでも、世の中が変わったとは言えないし、農林漁業とものづくりの関係もよくならないというのが私たちの考えで、本誌は意図的に「地域」の問題に焦点をあててきた。」この編集方針に一票。以下は、三俣学氏(兵庫県立大学経済学部専任講師、エコロジー経済学専攻、コモンズ論からのアプローチで日本の森林研究に取り組んでいる、とプロフィールに書いてある)の「二十一世紀に求められる“共的世界”の再生と創出」から拾ったキーワード。
「コモンズは境界に生まれる、しかもそれは“重なり合う境界”に」。これは間宮陽介氏の言葉。『コモンズの思想を求めて』の著者・井上真氏はコモンズを「思想を秘めたもの」と捉えている。コモンズに底流する思想とは何か。三俣氏いわく「自然環境を豊かに備えた社会を未来に向かって希求する思想ではないだろうか。そのような社会に向かう道筋を展望するにあたっても、コモンズの思想は私たちを誘い続ける。人間間・組織間の調整(寄り合い・話し合い)をできる限り繰り返すべし、という入会に見たあの精神がその一つではなかろうか」。

 ここを読んで石川忠司『現代小説のレッスン』二章の保坂和志論を連想した。石川忠司はそこで宮本常一の『忘れられた日本人』に描かれた「村の寄り合い」の情景──「結論へ到達することが目的ではなく、「こんな風にいろいろ脱線や食い違いを繰り返しながら二、三日集まっていること自体が十分『結論』なんじゃないか」と語っているみたいに感じられるこの極楽トンボな雰囲気」(78頁)──を保坂和志の世界になぞらえていた。
《保坂和志の「思考のかたちをとった『日常生活』」とは畢竟、共同体の謂いである。共同体こそ複数の論理の紛糾や空回りによって単線的な論理がなしくずしにされ、明確な結論よりもともに適当に、すなわち真の意味で真面目に生きることを求められる場にほかならないからだが、ところでこのタイプの思考を「純粋」に突き詰めるためには具体的な形象、すなわちさまざまな人物たちが実際の世界においてお喋りしたり触れ合ったりしている形象が是が非でも必要とされよう。端的に言えば、「小説化」される必要があるわけだ。》(『現代小説のレッスン』78-79頁)
 石川忠司は保坂和志の創作の核に「ヘヴィな」(72頁)思弁的考察があるといい、その思弁的考察とは「具体的もしくは抽象的に「日常生活」について考えられた思考ではなく、あくまでも正確に思考のかたちをとった「生活」そのものである」(76頁)という。それをコモンズに秘められた思想そのものと見てもさしつかえない。石川忠司がいう「形象」を近代的な意味での「小説」にかぎる必要もない。歌論(連歌論、能楽論)と農書(コモンズ論)の接点がみつかった。

★9月22日(木)

 『レヴィ=ストロース講義』読了。レヴィ=ストロースの講演を京都で聴いたことがある。たしか日文研が主催した催しで、梅原猛の「日本人のあの世観」についての講演の後だったと記憶している。内容はほとんど記憶になく、日本神話、それもスサノオの名が出てきたのを覚えている程度だが、20世紀を代表する知性の肉声と肉顔に接したことは貴重な経験だった。本書に収められた三つの講演は1896年、いずれも東京で行われたもの。京都公演と時期的にはほぼ重なり合うが、記憶が不確かなのであてにならない。以下、本書からの若干の抜き書き。
◎「西欧では、人類学的探求は、ひどく異質な文化に触れることを可能にした大航海の影響のもとで始まりました。/一方、当時鎖国していた日本においては、それは「国学」によって始められたと考えられ、一世紀後の柳田国男の記念碑的な企てもその伝統につらなっている、少なくとも西欧から観察するかぎりではそのように見うけられます。」(35-36頁)
◎「文化とは、ある文明に属する人びとが世界ととり結ぶさまざまな関係の全体のことであり、社会とは、それらの人びとがお互いのあいだにとり結ぶさまざまな関係のことをさしています。」(112頁)
◎「人間の進化は、生物学的進化の副産物ではないのです。(略)おそらく人類の発生の初期には、直立歩行、器用な手の動き、象徴を用いる思考の能力、発声および伝達能力など、文化以前の属性が生物学的進化によって選択されたのでしょう。ところが文化が形づくられはじめたとき、これらの属性を確立し広めていったのは文化なのです。」(156-157頁)

 そのほか、文字のない社会の研究成果がいかに現代社会の問題解決に寄与するかを論じた第二講演でとりあげられた三つのテーマ──すなわち「性」(家族・社会組織)と「開発」(経済生活)と「神話的思考」(宗教思想)──はとても射程の広い区分だと思った。また、レヴィ=ストロースが人類学の方法は世阿弥の「離見の見」と通じ合うと述べたことについて、川田順造が巻末に寄せた文章の中で、それはアメリカ文化人類学でいう“detachment”に対応させられるだろう、しかし世阿弥の説は「離見の見にて見る所はすなわち見所同心[けんじょどうしん]の見なり」(『花鏡』)という言葉に凝縮されているように、「為手[して]が我見[がけん]を離れることによって、見所すなわち観客と心を共有できる場を創出することにある」のであって、「隔たりを置くこと」(デタッチメント)とは細かいようだが重要な違いがあるのではないかと書いていたこと(236-238頁)も印象に残った。

     ※
 『芸術新潮』9月号にレヴィ=ストロースの写真集『ブラジルへの郷愁』が紹介されていた。レヴィ=ストロースその人を撮影した写真集ではなく、二十代半ばのレヴィ=ストロースが撮影したブラジル先住民の写真集。それまでの民俗学写真とくらべこの写真集のどこが画期的だったのかと問われて、港千尋いわく「撮影者の視線の低さです。背の高いあのレヴィ=ストロースがしゃがみこんで、先住民の子どもたちを、上から見下ろすのではなく子どもと同じ低い視線で撮っている。視線は対等になり、撮影者は子どもたちを見ると同時に、子どもたちから見られてもいる。このような視線の対称性はそれまではほとんどなかった」。

 養老孟司さんが「鎌倉傘張り日記」(『中央公論』10月号)に面白いことを書いている。「言葉と文化」が今回のエッセイの題名。中国語は奇妙な言葉で、西欧語にも日本語にも冠詞があるのに中国語にはそれがないというのだ。日本語に冠詞があるとは初めてきいた。養老孟司の説明によると、「昔々おじいさんとおばあさん」と来ればそのあとは「が」である。次に「おじいさん」と来れば「は」である。先の「おじいさん」は概念としてのおじいさん(ア・おじいさん)で、山に芝刈りにいくのは具体的かつ感覚的なおじいさん(ザ・おじいさん)である。英語の不定冠詞、定冠詞と同じ働きを日本語の助詞「が」と「は」がはたしているのである。中国人が日本人というとき「ア・日本人」(概念的なもの)と「ザ・日本人」(感覚的なもの)の区別がない。だから個々のケースが全体とみなされやすい。中国が政治的であり原理的であるのは中国語の性質によるのだ。以下略。
 昔読んだ本の中で、何が正義かをめぐる個々の正義観は千差万別でもそこには共通の正義の概念がある、といったことが書いてあった。(昔読んだ本というのが井上達夫氏の『共生の作法──会話としての正義』であることは間違いない。でも人にやってしまって今手元にないので議論の詳細が確認できない。)言葉の使い方は逆転しているが、ここで言われる「正義観」が不定冠詞のつく概念的なもので「正義の概念」が定冠詞のつく感覚的なものと考えてみると面白い。この場合の「感覚」はたとえば「生命感覚」とか「宇宙感覚」などと言われるときの根源的かつ普遍的な感覚を表現している。あるいは数感、哲覚のたぐい。個別であれ普遍であれ何かがたしかに実在しているという感覚。
 これに関連して(いるかどうかはともかく)レヴィ=ストロース講義の一節を想起したので抜き書きしておく。《哲学的あるいは科学的思考が概念を作り、概念の連鎖によって論理を進めるのに対し、神話的思考は、感覚的世界からとりだされたイメージによって展開されます。/神話的思考は、観念のあいだに関係を設定するかわりに、天と地、地と水、光と闇、男と女、生のものと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったものなどを対置します。こうして、色彩、手ざわり、味わい、臭い、音と響きといった感覚でとらえられる質を用いた論理体系が創り上げられるのです。神話的思考はこれらの質を選び、組み合わせ、対置することによって、なんらかの形で暗号化されたメッセージを伝えるのです。》(119頁)

★9月23日(金)

 姫路の寺町にある妙国寺へ秋の彼岸のお勤めに出かけた。そこで「立正安国 お題目結縁運動」のポスターを見つけた。平成17年から34年までの17年間、日蓮宗が信徒に何か運動を提唱しているらしいのだが、中味はまったく分からない。結縁(けちえん)は「場と縁」の研究会の「縁」グループのキーワード。そういえば元町東口の駅前に結縁肛門科の広告看板が立っている。結縁(ゆうえん)さんという人のクリニックらしい。冗談ではなくて、肛門という部位と結縁のつながりは示唆的だ。

★9月24日(土)

 精神史的リソースとしての中世芸道論研究のための文献を探しに図書館をはしごした。どれだけ読めるかはともかく、雰囲気をもりあげるための七冊を選んで持ち帰った。ドナルド・キーン『日本文学の歴史5 古代・中世篇5』(連歌の章を含む)、草月文化フォーラム編『日本のルネサンス(上)』(松岡心平・大岡信他の鼎談「寄合の芸能」を含む)、酒井紀美『夢語り・夢解きの中世』『夢から探る中世』、松岡心平編『世阿弥を語れば』、網野善彦・宮田登『神と資本と女性──日本列島史の闇と光』(書名に出てくる女性・資本・神は『レヴィ=ストロース講義』の性・開発・神話とパラレルだ!)、大岡信『うたげと孤心──大和歌篇』、丸谷才一『日本文学史早わかり』(講談社文芸文庫)の八冊で、いずれも一度か二度目を通したり書店で立ち読みをしたものばかり。

 図書館からの帰りにカフェに寄って『神と資本と女性』の第一章「資本主義の考古学」を読んだ。三浦雅士が聞き手になって網野善彦が語るインタビュー。印象に残った発言を抜き書きしておく。
《マルクスの偉いところだと思うのは、研究の領域をどんどん広げ、それとともにその言説自体を変えていく点ですね。「共同体」について、資本主義が発展していく過程で、どのように苦痛を伴う悲惨なことが起ころうと、アジア的、インド的な停滞を支えた共同体は壊れたほうがいいと言っているのですが、晩年、ロシアのことを勉強すると、共同体は社会主義の基盤になりうるかもしれないと言いはじめるわけです。(略)マルクスの好きな、「なべて理論は灰色、ただ緑なす現実こそ豊かなれ」という言葉は私も大好きですね。》(19頁)
《生産物を商品にするということは、人間の力の及ばない世界に投げ込むことことなんですよ。市庭[いちば]というのはそうした場です。商品、貨幣、資本の問題は本質的には人間の社会の最初、原始時代から考える必要があると思います。交換は人類の本質に関わる問題ですから。しかし、日本では、少なくとも都市が広範に形成される十四世紀ぐらいから、社会体制と関連させて考えなければならないでしょうね。「資本主義」はすでにその頃から始まっているともいえます。》(37頁)

 網野善彦がいう「十四世紀」は、坂部恵の(四つの)「精神史的転換期」の第二期、つまり「個(体)の思考」の時期(日欧ともに14-15世紀)と重なる。丸谷才一の(五つの)「日本文学史の時代区分」にいう第三期にすっぽりとおさまる。ここで坂部(□)・丸谷(△)の時代区分を重ね合わせてみる。坂部の「霊性」が丸谷の「呪術性+色好み(エロティックな感受性)+政治」(宮廷文化の特質)と響き合う。(日本文学史における「垂直性」の次元は中国に相当するのだろうか。)

 △第一期「八代集以前」(?──9世紀なかば)
  □「霊性の基盤」(日欧ともに9世紀)
 △第二期「八代集時代」(9世紀なかば──13世紀はじめ)
 △第三期「十三代集時代」(13世紀はじめ──15世紀すゑ)
  □「個(体)の思考」(日欧ともに14-15世紀)
 △第四期「七部集時代」(15世紀すゑ──20世紀はじめ)
  □「モデルニテの時代」(欧1770-1820,日1850-1900)
 △第五期「七部集時代以後」(20世紀はじめ──?)
  □「1960年代以降」(日欧共通)

 『日本文学史早わかり』は標題作と「歌道の盛り」の二つのエッセイを読んだ。昔読んで深い感銘を受けた記憶がある。新しい関心のもとで読み返すと、あらためて新鮮な感興を覚える(「夷齋おとしばなし」というエッセイも収められていて、かつての石川淳狂い再熱の予感におそわれた)。標題作からは、詞華集的人間(「アンソロジー・ピース」を参考に造語した丸谷手製の「アンソロジー・マン」の訳語,68頁)とか「宴遊、社交、そして室内装飾としての」実用的な詩(70頁)などの概念を蒐集できた。以下、標題作から「場と縁」に関係しそうな箇所を二つ抜き書きしておく。
《この時代[十三代集時代]に連歌が盛んになつたのは意義深いことで、それは第一に、三十一音の和歌以外の詩形を日本文学にもたらした。そして第二に、和歌が挨拶としての機能を失ひ、孤独な藝術になつた寂しさを補ふやうにして、社交性や遊戯性や即興性を詩に回復した。それは集団の制作で、露骨に共同体的な詩であつた。しかし皮肉なことに、この共同体の詩は詞華集に向かなかつたのである──『菟玖波集』『新撰菟玖波集』と准勅撰が二つも生まれたにもかかはらず、われわれはこれらの連歌集を読んだとて、ほとんど、連歌のおもしろさを解することができない。》(60頁)
《非常に図式的な言ひ方をすれば、横の方角に共同体があり、縦の方角に伝統があるとき、その縦と横とが交叉するところで詞華集が編纂され、そしてまた読まれる。といふのは、われわれは伝統を所有する際に、孤立した一人ひとりの力で持つことは不可能で、共同体の力によつて持つからである。孤立した個人にさういふことができるといふのは、ロマンチックな妄想にすぎないだろう。事実われわれは、そのことの不可能をいはば無意識的に知ってゐるゆゑに、もうずいぶん長いあひだ、詞華集を持つことを実質的には諦めてゐるのである。つまりわれわれの文明と文化は共同体的なものを失つてからすでに久しい。そしてそのことがどういふ弊害をもたらすかと言へば、いちばん歴然としてゐるのは言葉の衰弱である。言葉は過去から伝はつて来た力を失ひ、社会を築くことをやめてしまつた。》(85-86頁)

 文庫版の巻末に寄せられた「著者から読者へ 二十八年後に」も面白い。王朝和歌=藤原定家とエリオット=ジョイスを結ぶ線として、「正徹の歌論を介して日本の文藝理論がモダニズムの批評に近いことを感じとったとき、文学における伝統の重要性がきびしく迫ってきたのである」(221頁)と述懐しているくだり。(ここでの文脈とはまるで関係ないが、『中世芸能を読む』の「連歌的想像力」の中で松岡心平が紹介している正徹の言葉が面白い。「骨髄に通じて面白きなり」98頁)
 もう一つ。私(丸谷)の日本文学史は「朦朧たる観念語によつて述べられるのではなく、具体的な物件によつて表現されることが望ましい」。その「物件」とは勅撰集のことで、「それは一方においてわが文学における宮廷文化の重要性を示し、他方、『古事記』から谷崎潤一郎に到る系譜が個人主義の所産ではなく共同体的な性格のものであることのしるしとなる、と感じられた」(223頁)。

     ※
 買ったままの本・読みかけの本・買ったことさえ忘れていた本・読みかけだったことを忘れていた本が山積みになっているので、しばらく新刊書は買わずにおこうと心に決めていたのに、この二日で四冊の文庫、新書を買ってしまった。
 松岡正剛『フラジャイル──弱さからの出発』【¥1400】。この人の文庫本は『遊学?』『遊学?』『花鳥風月の科学』がいずれも囓りかけのままになっている(『ルナティックス』は買い忘れていた)。『花鳥風月』は「山」「道」「神」「風」「鳥」の基礎篇まで読んでいて、これから「花」「仏」の応用編、「時」「夢」「月」の本質篇へ進もうかというところで中断していた。この人の文章は刺激的な情報がぎっしりつまっているのに淡泊で平明で、その平明さが読み進めていくうちに眠気を誘うところがあって、一気に読み通すことができない。『フラジャイル』は前から一度読みたいと思っていた。あとがきに出てくる「勝者の演劇性よりも弱者の物語性」という言葉が気になる。高橋睦郎さんの解説「弱々しくあることの勧め」に、松岡正剛の興味の向かう範囲は広範だが、その興味の持ちかたはエウクリデスの天体図と桑田佳祐の新曲とでまったく同じ比重なのだ、その平等ぶりは地上に降りた人の子の「神の目」的平等とでも呼びたくなる体のものだと書いてあった。松岡正剛の文書がもつ独特の「平板さ」のよってきたるところを的確に表現している。

 荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅──歌われた幻想の地へ』【¥667】。神戸の図書館で歌論、連歌論関係の本を物色しているうち、最近店頭でみかけて思わず手を出しそうになったことを思い出した。で、結局買ったわけだ。「歌枕にうたわれた土地は実在しない」。歌枕とは「現地へ行かないで現地の雰囲気を出すための文学的発明品」である。だから「行く必要のない歌枕を、あえて旅するということはつまり、歴史的であり同時に霊的な巡礼へのいざないであった」。昨年暮れに出た明石散人・篠田正浩『日本史鑑定──天皇と日本文化』ともども、中世芸道論研究の副読本として(いつかそのうち)読もう。
 本村凌二『多神教と一神教──古代地中海世界の宗教ドラマ』【¥740】。あとがきに、三十年におよぶ古代史研究のなかで「つねづね訝しく思っていたことがある。それは古代の作品のなかでも古いものになればなるほど、なぜ神々の世界があれほど身近に感じられたのかという点である」と書いてあるのを読んで、かの『神々の沈黙』を連想した。もしやと思って巻末の参考文献を見てみると、ちゃんと掲げてある。この人の本は『ローマ人の愛と性』を読んだことがある。あれはとても面白かった。並べて書くのは気が引けるが、草凪優『性純ナース』【¥581】を買って即読了。記憶喪失の男が海辺のクリニックで女医と二人のナースになかば囲われるというシチュエーションはどこか「神話的」な雰囲気を漂わせていて面白いが、その後のストーリーの展開がイマイチ。
 夜『あの子を探して』と『セロニアス・モンク THELONIOUS MONK STRAIGHT NO CHASER』を続けて観た。淡い感動と深い感銘。

★9月25日(日)

『物質と記憶』の独り読書会。今日は第一章六節「イマージュと実在」と七節「イマージュと感情的感覚」を熟読し、八節「感情的感覚の本性」と九節「感情的感覚から切りはなされたイマージュ」と十節「イマージュ本来のひろがり」を通読した。知覚と表象をめぐる「反射説」(ベルクソン=常識的直観)と「投射説」(心理学者=悟性)の対立と後者の誤謬が事実に即して執拗に説かれる。新たに感情(感情的感覚)という語彙が登場し、感情と知覚の本性は異なること(「私の知覚は私の身体の外にあり、反対に私の感情は私の身体の内にある」66頁)が論証される。そして、純粋知覚の理論に「最初の修正」(67頁)が加えられる。すなわち「感情は知覚がつくられるための原料ではない。それはむしろ混入する不純物なのだ」(68頁)。

 知覚(perception)と感覚(sensation)と感情(affection)の関係がよく分からなくなった。ベルクソンは感情の例として苦痛を挙げている。強すぎる感覚は身体の局所に苦痛をもたらす。それが感情(「感覚性神経における一種の動的傾向」64頁)である。この例が分かりにくいのかもしれない。頻繁に出てくる「現実的」と「可能的」と「潜在的」の概念の違いもよく分からなくなった。たとえば次の文章。
《したがって私たちの感覚の知覚にたいする関係は、私たちの身体の現実的活動の、可能的ないし潜在的活動にたいする関係にひとしい。その可能的活動は他の諸対象に関連し、これら諸対象において現出する。その現実的活動はそれ自身に関係し、したがってそれの内に現出する。つまるところ、万事はあたかも現実的および潜在的作用が、その及ぶ点や原点へ真に復帰することによって、外的イマージュは私たちの身体から周囲の空間の中へ反射され、現実的活動はこの身体によってその実質の内部にとどめられるかのようだろう。またそれゆえにこそ、身体の表面、すなわち内部と外部の共有する境界は、知覚されると同時に感じられもする唯一の延長部分なのである。》(66頁)
 潜在的─現実的の系列(内的感情)と可能的─現実的の系列(外的知覚)の区分は見てとれるがおぼろげである。このことは次回、純粋知覚の理論の要約(71頁?)を熟読するなかで反芻してみよう。ベルクソンが投射説になげかけた「不可分的延長と等質的空間との形而上学的混同」(55頁)という批判の実質もあわせてフォローすることにしよう。

★9月26日(月)

 一昨日『セロニアス・モンク』を観て、久しぶりに1枚だけ持っていたモンクのCDを聴いた。モンクを聴くのが久しぶりだという以上に、そもそも音楽を(何か他のことをしながらではなく)聴くのが実に久しぶりだった。音楽を聴くのは文字を読むのとは違う体験である。そんなあたりまえのことを忘れかけていた。東芝EMIの『ベスト・クラシック100』【¥2857】を買った。CD6枚組みで「超有名曲」のさわりを100曲、7時間分収録したオムニバス。『ベスト・ピアノ100』や『ベスト・モーツアルト100』も出ていた。先日東京でお会いした山瀬理桜さん(ハルダンゲル・ヴァイオリニスト)の『クリスタル ローズ ガーデン』も目について大いに迷ったが、これは(心を鬼にして)次回にまわすことにして初志を貫徹した。
 楽曲の一部だけをパッチワーク状につなぎあわせたCDなど、一昔前だと絶対目もくれなかったと思う。小林秀雄が『音楽について』(新潮CD)の中で語っている言葉を聴いて心を入れ替えた。というより音楽というものに対する考え方、感じ方がガラッと変わった。(丸谷才一さんの詞華集を軸にした日本文学史の説に説得された目で、いや耳で聴くと、この西洋音楽版「百人一首」の部立て、配列、趣向がどう響くか。)
《どっかの温泉場でもってラジオでショパンのマズルカが鳴ってきたとする。三小節ぐらいで僕はあっショパンだとわかる。後はよく聞こえなくてもとっても楽しいんです。感動をちゃあんと受ける。これは中から来ている感動ですよね。ちょっとした音のきっかえさえあれば後は全部埋めることができる。この音のきっかけがなきゃおそらくないね。これは不思議なことだ。全部聴いているわけじゃないけど聴く以上のものはちゃんとある。僕にはハイドンを聴いた記憶がある。モーツアルトを聴いた記憶もある。で今度はベートーヴェンを聴こうと思うからベートーヴェンの音楽がちゃんと聴こえるんだ。これは歴史じゃないか。音楽というのは文学と同じように伝統と長い歴史があってそれを追わなければ絶対理解できない。音楽というものは歴史をしょった実に難解な意味なんだよ。音ではないんだよ絶対に。》

★9月27日(火)

 坂部恵の日欧精神史的転換期の説と丸谷才一の早わかり日本文学史の組み合わせが頭の中でどんどん増殖していく。
 ミシェル・ウエルベックが『素粒子』 で提唱し中沢新一が『カイエ・ソバージュ』シリーズでとりあげた三つの形而上革命(一神教革命、科学革命、そしていまだ到来しない第三次形而上革命)と組み合わせてみたり、ゾーエー的・種的な「霊性」とビオス的・個的な「魂」、無意識と意識、システムと情報(養老孟司)、共同体=水平軸と伝統=垂直軸(丸谷)といった二つの概念、ヘーゲル=パースのイコン・インデックス・シンボルやヘーゲル=ラカンの現実界・想像界・象徴界という三つ組みの概念(声・顔・身という「仮面的なもの」の三つの形象、レヴィ=ストロースの性・開発・神話的思考、等々)その他諸々の概念や観念や形象を重ね合わせたりしているうち訳が分からなくなっていく。
 想像界は性と食の世界である(三浦雅士『出生の秘密』)。だとすると、勅撰集の部立てが四季歌と恋歌中心であること(『日本文学史早わかり』)と大いに関係してくる。農書と歌論という「研究対象」にも近づく。そこに貨幣・金融・資本論をどう組み合わせるか。これはほとんど独語的覚書。

 松岡心平『中世芸能を読む』の熟読を再開した。勧進・天皇制・連歌・禅の四つの切り口から中世芸能を読む。この四区分はとても汎用性がある。抽象化して整理すると、勧進と天皇制は「貨幣(経済・市庭)」、連歌と禅は「言語」の項で括ることができる。また、勧進と連歌は「身体」、天皇制と禅は「精神」の項で括ることができる。でもこれは平板。面白くない。
 勧進(経済)がひらく聖俗のあわい=無縁の時空・磁場、そのエネルギーを天皇制(政治)が活握し(「活握」はたしかマイケル・ポラニーの『個人的知識』で harness の訳語として訳者・長尾史郎が造語したもの)、芸能(民衆の身体)と連歌(言葉の宴)が駆け抜け、禅(脱神話・脱思考・脱言語)が脱構築する。何をいっているかよく分からないが、弁証法的というのでも進歩・進化というのでもない連鎖、推移としてこの四項を数珠繋ぎにしていくこともできる。推移していくのはもちろん概念・観念・形象である。これらもまた独語的覚書。
 インターネットで「松岡心平」を検索して『有鄰』(No.437)掲載の「世阿弥と金春禅竹――『精霊の王』を読んで――」を再発見した。これは以前いたく刺激をうけた文章。そこで松岡心平は「スピノザが、デカルトの精神と物質の二元論哲学(現代のわれわれの思考のベースである)に強く反発することで、極端な一元論へと傾斜していったプロセスとよく似たことが、世阿弥と禅竹の間におこっている」と書いている。『精霊の王』から関連する引用があったので孫引きしておく。
《スピノザの哲学が唯一神の思考を極限まで展開していったとき、汎神論にたどりついていったように、金春禅竹の「翁」一元論の思考も、ついにはアニミズムと呼んでもいいような汎神論的思考にたどりつくのである。 これほどの大胆な思考の冒険をおこなった人は、数百年後の折口信夫まで、私たちの世界にはついぞあらわれることがなかった。》