不連続な読書日記(2005.8)




★8月3日(水)

 ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』を拾い読みしていて、第二章の冒頭(35頁)にリーマンの名前をみつけた。リーマンという数学者には昔から惹かれている。多様体とかゼータ関数とかリーマン予想といった語彙を目にすると、訳も分からず興奮する。以前読んで感銘を受けたリワノワ『リーマンとアインシュタイン』の印象が強烈に残っていて、ベルクソンが絶版にした『持続と同時性』はアインシュタインの時間論を批判した書物で、小林秀雄の未完のベルクソン論『感想』でも取りあげられていて……と連想が弾むと矢も楯もたまらず『持続と同時性』を手にしたくなって(読みたくなってではない)、午後仕事を休み本屋をはしごした。結局『持続と同時性』が収められた白水社版ベルグソン全集第3巻(『笑い』も一緒に入っている)はみつからなくて、ドゥルーズによるベルクソン撰文集『記憶と生』(前田英樹訳)を替わりに買いかけたけれど、まずは『物質と記憶』をちゃんと読み終えてからといいきかせ無用な出費を抑えた。(『持続と同時性』は神戸の中央図書館が所蔵しているようなので、必要になったら借りてコピーすればいい。でも、以前プラトンの『ティマイオス』を全頁コピーしたまま結局読まずに廃棄したことがある。本気で読みたくなったらやっぱり自腹を切って買わないといけない。)

 本屋めぐりをしていて「太田新書」というものが出ていることを知った。これがなんと官能小説のシリーズ──「もっと激しく、もっと淫らに、太田新書新創刊!」──で、新創刊のラインアップは藍川京、丸茂ジュン、安達瑶、北山悦史の四人。記念に北山悦史『濡れた火艶』【880】を買って読了。「書き下ろし全編愛撫長編」の謳い文句に興味を覚えたからで(安達瑶『愛の道化師』の「オペラは官能だ」にも心が動かされる)、まるでロボットどうしの性愛の情景を叙述したような「工学的」ともいうべき即物的で精確かつメカニカルな細部描写は(ちょっと煩雑ではあったけれどもそれなりに)新鮮。新しい官能表現の可能性を(これとはまったく正反対の「純粋性感」描写の可能性とともに)感じた。「あの太田出版から官能小説!」と驚いたのは(無知ゆえの)勘違いで、「ウィキペディア」によると「1985年、お笑い系芸能プロダクション、太田プロダクション出版部から、有限会社太田出版として独立。後に株式会社になる。 もともとは、太田プロに所属していたビートたけし(後に独立、オフィス北野)の本を出版するための会社だったが、現在は幅広く各種の書籍を出版している」。

★8月5日(金)

 映画を四本観た。中平康監督の『狂った果実』(1956)。あのフランソワ・トリュフォーが絶賛し、かのヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとなった作品(だそうだ)。そういう先入観があったからかもしれないけれど、映像はとても懐かしくて(イマドキの映画ではたぶん味わうことができないだろうという意味で)斬新。裕次郎はイマイチ。岡田真澄がいい。北原三枝(のエロティックな肢体)がいい。続いて『猟奇的な彼女』を観た。『僕の彼女を紹介します』もよかったけれどこの前作もかなりいい(それにしても映画体験を語る語彙の貧困にはわれながら嫌になる)。続いてヒッチコックの『裏窓』を観た。加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』を読んでから観ると、なるほどセールスマンによる妻殺しが本当にあったことなのかどうか映画だけでは判断できない。それ以上にこの作品にはまだまだ汲み尽くせない謎がいっぱい仕掛けられている。続いてヒッチコックの『レベッカ』の前半を観た。傑作の予感。

★8月6日(土)

 加藤典洋『僕が批評家になったわけ』読了。批評とは何か。それは日々の生きる体験のなかで自由に、自分の力だけでゼロから考えていくことだ。本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシで勝負ができること。批評とはそういう言語のゲームなのである。だから批評はどこにでもある。「あることばを読んで、面白いと感じること。それはそのことばのなかに酵母のように存在している批評の素に感応することなのだ」。こうして著者は批評の原型としての、批評の酵母に関する「みごとな見本帖」としての『徒然草』にいきあたる。
 小林秀雄が「純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである」と絶賛したように、『徒然草』には「公衆、世間、一般読者」という「スクリーン」の出現とともに成立した近代批評(重く難しいことばで書かれた文学としての批評)の極北をなす「ムッシュー・テスト」(ヴァレリー)の「無名」への夢に通じるところがある。著者はこのことを確認した上で、『徒然草』が導くもう一つの夢を粗描してみせる。それは「ふつうのことをふつうにいう」こと、あるいは「わからない、わからなかったということを書く」こと、つまり「平明な批評のことばの果て」にある未来の批評である。ここで著者はインターネットに代表される「電子の言葉」が生み出した新しい批評の書き手、内田樹を引き合いに出す。
 『徒然草』序段と『ためらいの倫理学』のあとがきは似ている。それらはいずれも「書き言葉」と「話し言葉」という二つの力のせめぎあいのなかから「自由に書きたい、自由に考えたい」という欲求を通じて生み出されていったものだ。漢字とひらがなの「和漢混淆文」とともに、あるいは(机の上の「スクリーン」にのみ存在する書き言葉であり、セーブしなければ消えてしまう話し言葉の要素をも濃厚に合わせもつ)「書き言葉=話し言葉」的な新しいメディア=電子エクリチュールとともに。
 そもそもことばは分裂をかかえている。養老孟司は『唯脳論』で言語の本質は視覚・知覚系(文字記号)と聴覚・運動系(音声)という本来無関係な二つの刺激が連合したものだと書いた。つまり言語は「難しいとか重いという以前に、平明なままで、すでにダイナミックな運動としてある存在」なのである。批評もまた二つ力のせめぎあいのなかで営まれる。著者は平明さの基礎は何かをめぐる終章で、内田樹=レヴィナスとの「対決と和解」(?)をまじえながら、平明と難解、野生と純粋、世間と世界、等々の二つの力の中間にあるものとしての「平明な批評」のあり方を語っている。
《批評の一番奥底にはこの世間のうごめきがある。頭上には世界がある。地上には世間がある。批評はすぐれた思考であろうとこの世間の風とせめぎあい、その中間に、噴水の上のゴムマリのように浮かんでいる。(略)何かが中空に浮かび、とどまる。知識の量、頭脳の明晰さ、着眼の面白さに還元されないものが、そこにある。すぐれた批評に接したと感じるとき、私たちは、他なる思考の泳者がたしかに私たちのなかの世間にしっかりとタッチして、私たちをその世間的思考から彼岸まで連れて行き、さらに私たちのなかの世界にタッチした後、もう一度、世間の場所に連れ帰るのを、感じているのである。》
 批評はなぜ平明でなければならないか。「それは批評が、誰もが、いつ、どのような出発点からも、どんなルールででも、参加できるものでなければ、死んでしまう、ゲームだからなのである」。本書はそのような(来るべき)批評の酵母の見本帖、すなわち加藤版「徒然草」である。

★8月7日(日)

 石川忠司『現代小説のレッスン』読了(再読)。圧倒的に細部が面白い。村上龍=ガイドの文学とか保坂和志=村の寄り合い小説とか村上春樹=ノワールといった作家論も新鮮だが、なにより個々の作品に切り込んでいく批評の切っ先が実にイキがよくて鋭く「ナイス」なのだ。
 一例を挙げると、保坂和志の『プレーンソング』に「子猫とぼく」が一秒か二秒のあいだ見つめ合う場面が出てくる。そこに「心の通い合い」を想定するのはいかにも感傷的=「文学」的な思い込みに過ぎないが、しかし見つめ合うことで「そこに物質的な視線の接触・交差が起こったということは、やはりひどく貴重な何事かではないのか」。ここから著者は「保坂和志の小説とは以上のごとき物質的コミュニケーションが感動的に横溢する空間にほかならない」と規定していく。このあたりの筆の運びには、保坂和志の小説世界に身をもって惑溺したことのある者なら間違いなく快哉をあげるだろう。誰もがそう思いそう感じていたのに言葉でそうと表現されるまでは誰もそのことに気づかなかったある思考、感覚の実質が見事に言い当てられている。それこそ批評の力というものだ。
 しかしそのような批評は鮮やかであればあるほど危うい。それはある具体的な対象に即して書かれた地域限定・期間限定の消費物である。そこから何か普遍的で応用可能な理論や一般的な法則のようなものを導き出すことはできない。できなくはないが、そうやって肥大化した批評はたぶんきっと「かったるい」。本書はあくまで「コラム集」なのだ。一瞬の鮮やかな輝きを放って潔く消えていく、そのようなコラムに徹すること。コラムとコラムを(共同性なき共同作業=「物質的コミュニケーション」を介して)一つの結構をもった書物のうちにつないでみせること。それこそが本書の魅力のほとんどすべてなのである。
 プロローグで示される本書の見通しはいかにも借り物めいていて貧弱だ。著者によると、物語(話し言葉)の豊饒に拮抗するため近代小説(書き言葉)は「描写」「思弁的考察」「内言」といった物語とは異なる言葉の位相を開発したが、その洗練・昇華はては過剰な増殖によって小説は窒息し「かったるく」なった。現代小説は「活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性」すなわち「エンタテインメント化」をめざしている。しかし、そもそもそこで言われる近代小説の実質が曖昧で、だから著者は最終章の後半になって(村上春樹をめぐる「大きな物語」論と阿部和重をめぐる「ペラい日本語」論という長大な「伏線」を張った上で)「本格小説」や「私小説」はては「資本主義小説」をめぐる議論を持ち出して帳尻を合わせようとする。著者は至るところで後付けの理論を繰り出し、その結果プロローグで予告された本書の構成(体系)は破綻する。
 だが、それらは欠陥でも欠点でもない。くどいようだが本書の魅力は細部(コラム)の輝きにこそある。理論や体系や小説観といった大括りの議論は粉々に砕け散って、具体的な小説世界という「物」に即したその場その時の思いつきやひらめきや創造的な発見の歓びのうちに生き生きと息づいている。いや、むしろそのような抽象的で普遍的で一般的な概念や観念や体系といった意匠が立ち上がる現場こそが批評=コラムなのだ。著者がプロローグで与えた(理論的かつ体系的な)見通しは、だから一冊の完結した書物を夢想しての余分なお化粧などではなくて、いわば「現代批評のエンタテインメント化」宣言なのである。

 阿部和重をめぐる「ペラい日本語」論、あるいは話し言葉(物語)と書き言葉(近代文学)に関連して、加藤典洋『僕が批評家になったわけ』の一節を思い出したので書いておく。──あるとき、本居宣長や荻生徂徠を読んでいてとても気持がよかった。その譬えとか、物の言い方が実に過不足がないという気がしたからだ。《ここで筆者の直観をいうと、日本のことばは明治になった後、まだ平静を取り戻していない。ということはまだ平熱を回復していない。(略)というか、日本のことばはその平熱を求めて、さまざまに運動を繰り返してきたのではないだろうか。それは明治以降、たとえば現代の日本のことばの名文家などといわれている人のことばを考えると、とても平熱とは思えないので、そう思うのである。日本のことばは完成していない。というよりも、そもそも、ことばというものが、完成しえないもので、それがことばの力なのかもしれない。》(188-189頁)

★8月10日(水)

 今日から土日を含めて五連休。有馬温泉で一泊するだけのささやかな夏休み。有馬への小旅行の道連れに、沢木耕太郎『シネマと書店とスタジアム』と保坂和志『小説の自由』と昨日買った野矢茂樹『他者の声 実在の声』【¥2200】を持っていった。結局読めるのは沢木本だけだろうと思っていたら、結果は予想通りになった。

 映画評(「銀の森へ」)と書評(「いつだって本はある」)、それから長野オリンピック(「冬のサーカス」)と日韓ワールドカップ(「ピッチのざわめき」)の観戦記を集めた沢木本は一気に読み切ってしまうのが惜しくて、折にふれ読み返したりしながらここ一月ばかり「愛用」している。筆運びが達者で文体がきまっていていかにも「プロ」の書いた文章だと思う。対象との距離感覚、状況の中での書き手の位置の取り方が経験によってのみ鍛錬され熟成する「技術」を感じさせる。是枝裕和の『ディスタンス』を取り上げた文章の中で、沢木耕太郎は演技における「虚」と「実」の関係を論じている。この映画の多くの場面で是枝監督は、俳優に状況と大まかな方向を与えられるだけであとはその内発性に委ねるという演出法を採った。その結果、俳優の演技は一見「自然」で「リアル」なものとなったが、前作の『ワンダフルライフ』で七十年分の時間の重さと厚みに支えられた老女の思い出話が虚構の部分を圧倒したほどの力は持ち得なかった。「そこには見せかけのリアルさを必要としない内実があった。だが、『ディスタンス』の俳優たちの「リアル」な台詞には、その重みと厚みが決定的に欠けていた」(62-63頁)。沢木耕太郎は「実」は実であるがゆえに「虚」を圧倒する力をもっているといった軽率な主張をしているわけではない。ここにあるのはプロによるプロの仕事に対する(リスペクトに裏打ちされた)批評である。「私には、演技という「虚」なるものにおける「実」の導入の仕方において、是枝に微妙な計算違いがあったように思われるのだ」。
 プロはまた己の仕事を知り抜いている。虚と実、アクションとリアクション、記憶と記録。それらが拮抗する状況に身を置き「微妙な計算」をもって自らの立ち位置を定め対象との距離を測り言葉を紡ぎ出すこと。──沢木耕太郎はローレンス・ブロックの『倒錯の舞踏』を取り上げた文章の中で、ハードボイルド小説の根幹は「アクション」ではなくアクションによって引き起こされた「状況」への「リアクション」だと書いている(121頁)。またデヴィッド・ハルバースタムの『男たちの大リーグ』の書評では、スポーツ・ライティングの基本は「記憶」にあると書いている。「「記憶」は「記録」をともなって再構成されるが、その「記憶」が人間によってなされるものであるかぎり、作品が「人間の物語」と無縁でいられるわけがない」(111-112頁)。

 まだ半分しか読んでいない本のことを持ち上げすぎている。(己の仕事を知り抜いているプロの文章には安心して身を委ねることができる。読者もまた「微妙な計算」をもってわれを忘れることができる。でも「われを忘れる」ことと「われを解体する」こととは別の次元の話で、だからここに書いたことは沢木耕太郎を持ち上げたことにはならないのかもしれない。じっさい『シネマと書店とスタジアム』に書かれていること、とりわけスポーツ観戦記には得心がいかないところが多い。)「持ち上げ」ついでに書いておくと、平井啓之さんがドゥルーズ『差異について』の解題「〈差異〉と新しいものの生産」に書いていること──たとえば「一本の小灌木を個物として成立たせるものは、その個物の質である。しかし〈差異〉とは関係の用語であり、…その関係とは、個物相互の質の関係に外ならない」(138頁)とか、「文学のディスクールとは何ものにも勝った〈差異〉の産出の特権的な場所」である(153頁)とか、「「自己との間に差異を生ずるもの」としての、差異の生産の世界」=映画の世界像(161頁)、等々──を読んで『シネマと書店とスタジアム』を想起した。文学と映画、それにサッカーを加えるならば、私にとっての「差異の生産の世界」が三つそろう。(このあたりのことは『物質と記憶』の熟読玩味を通じて考えていこう。)

★8月11日(木)

 保坂和志の『小説の自由』に次の文章が出てくる。「小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。それらをすべて忘れずにいられたら私たちはすごいことになっているだろう。」(92頁)ほんとうに「すごいこと」になっているだろう。この日記でやりたいと思っているのはその「何分の一」かの割合を少しでも大きくすることなのだが、忘れないようにするためには書かなければならず、そうするとしだいに書くために読むということになって「読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えられる」(74頁)。じっさい「読みながら現前していることへの注意が弱くなる」と、書くことの方に向かって注意が集中して最後にはその読んでいる当の書物を投げ出してしまうことにもなりかねない。もちろん投げ出したって構わない。読み続けなければならない義務も責任も筋合いもないわけだからそれも読書の一つのかたちだとは思う。

 ところで、いま引用した「読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えられる」という文章が出てくるのは「4 表現、現前するもの」の「文字に物質性はない」という節で、そこで保坂和志が語っている「現前性」は本書全体のキーワードなのではないかと思う。「小説における表現=現前性とは…視覚の運動(広く「感覚の運動」)をともなう、文章に込められた要素の量に関わる」ものであって、「文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる」。「何よりもまず現前していることが小説であって」、「だから小説は読んでいる時間の中にしかない」。「音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきりと別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない」。この『小説の自由』73頁から74頁にかけて書かれているのはとても大切なことで、ここから「物質性」「表現=現前性」「テーマ・意味」の三項を抽出して茂木健一郎の「脳内現象」の説と関連させたり、あるいは次の文章で指摘されている事柄と関連させてみると面白い(かもしれない)。
《スピノザの議論の核心は単純である。心的なものと、身体または脳のある状態の関係は、いずれの方向でも因果関係ではなく、シニフィエ(意味内容)とシニフィアン(記号表現)の関係である。つまり、身体の状態は、心的なものを表現するシニフィアンの役割をはたしているのである。因果関係は、外的世界の出来事と身体の状態の変化の間に存在しているだけである。心的なものはシニフィエであるから、特定の心的状態(ないし意味[シニフィエ])が、はじめから身体の特定の状態(シニフィアン)によって、一義的に決まっているようなものではなく、他のシニフィアン全体との関係のなかで全体論的に意味をもち、全体論的に解読されねばならない。感官に対する物理的刺激およびそれによって励起された神経興奮は、それ自身単独で一つの意識を生み出すわけではないのである。》(田島正樹『スピノザという暗号』173-174頁)

 現前性で思い出した。加藤典洋『僕が批評家になったわけ』に小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』を取り上げた箇所がある(93-97頁)。小林が「数学のいろいろな式の世界や数の世界を、言葉に直すことはどうしてできないのでしょう」と問う。岡は最初、いや数学も言葉なのだと応じるが、「小林の質問がアインシュタインとベルグソンの論争にふれると、これがもっと遠い射程をもつ問いであることに気づく」。そして「数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて…はじめてわかった」、つまり数学をつきつめていったら数学とことばが違うことがわかったと答える。岡「矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです」。小林「わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね」。岡「そうなんです」。加藤典洋はここで小林が「感情」といっているものは「現前」、つまり「ありありと現れていること」(=「ありありと心に感じる」こと=「実感するということ」=「わかる」こと=「納得する」こと)と同義だと書いている。そしてデリダ(『声と現象』)の「現前の形而上学」批判をもちだし、「批評は「わかる」ことの上に立つのか。「わかる」ことの切断の上に立つのか。難しい問題がまさに、口を開こうとしているのである」と結んでいる。

★8月12日(金)

 夏休み中なのに午前中に会議が入っていたのでなかばボランティアで仕事をこなし、午後しばしの書店めぐりのあと『小説の自由』と『他者の声 実在の声』のまわし読みをしてから、夜『パッチギ!』と二人の天才ボケがからむ『きらきらアフロ』を観た。『パッチギ!』はよかった。今日一日の最高の収穫だった。

 書店ではラマチャンドランの『脳のなかの幽霊、ふたたび──見えてきた心のしくみ』【¥1500】を買った。原題は“THE EMERGING MIND”で「暗闇から心」とか「立ち上がる心」(この「立ち上がる」という言葉は保坂和志の小説観のキーワード)とでもすればいいところ。ベストセラーになった前作の読者を丸ごととりこむつもりだろう。現に一人とりこまれた。『脳のなかの幽霊』(“PHANTOMS IN THE BRAIN”)は買ったきりで未読なので、この際あわせて読んでおこうと思う。岩波から下條信輔訳でベンジャミン・リベットの『マインド・タイム──脳と意識の時間』が出ていたのでどちらにするか迷った(リベットの話題は『関係と自己』の序論にも出てきて気になっていた)が、気楽に読めそうなのを選んだ。『群像』に連載していた三浦雅士の『出生の秘密』が刊行されていた。腰巻きの謳い文句に「衝撃作『青春の終焉』に続く新たな地平」とある。ぱらぱらと眺めているとラカンの「想像界・象徴界・現実界」とパースの「イコン・インデックス・シンボル」の関係を論じた箇所があってぐっときた。いずれ購入することになりそう(いったいいつ読むつもりなんだとの声)。

 保坂和志と野矢茂樹を同時進行的に読んだのはたまたま偶然のことなのに、この二人のコラボレーションはほんとうに見事にきまっている。朝日新聞の夕刊(8月10日)で『小説の自由』が取り上げられていた。そこで保坂和志は「自分と世界などについて新たな問いを作り出すのが小説だと思います」と語っている。「この小説は速いか遅いか、強いかゆるゆるしているかなどと考えながら読む。読み終わった後はその手探り感に酔う。最初は緊張するし頭を使うし、大変です。そんな手探り感がなく、するする読める小説があふれているいま、書き手として感じる面白さを書かない人にも伝えたかった。」この「するする読める小説」は、たとえば「3 視線の運動」の章の志賀直哉の完成された文章、なめらかな文章の話題と(たぶん)つながっていて、それは野矢茂樹の『他者の声 実在の声』の「3 「考える」ということ」に出てくる「言語ゲームのよどみ」の話題とも(たぶん)つながっている。これなど二人のコラボレーションのほんの一例でしかない。

★8月13日(土)

 ひさしぶりに朝早く目が覚めた。図書館へ行って、茂木健一郎『脳の中の小さな神々』と前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか──「私」の謎を解く受動意識仮説』とリワノワ『リーマンとアインシュタイン』とドゥルーズ『差異について』を継続して、小栗康平『映画を見る眼』と斎藤環『文学の徴候』と小倉孝誠『『感情教育』歴史・パリ・恋愛』と『持続と同時性』(ベルグソン全集第3巻)を借りてきた。内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る──生きづらさの正体』【¥724】を買った。『レベッカ』の後半を観た。ジョーン・フォンティンはいい。野矢茂樹『他者の声 実在の声』を半分ほど読んだ。

★8月14日(日)

 『物質と記憶』第一章冒頭の二節、分量にして十頁ほどを一時間あまり熟読した。先週の日曜日に読んでよく頭に入らなかった「現実的行動と可能的行動」の節とこれに続く「表象」の節。「私はイマージュの総体を物質と呼び、その同じイマージュが特定のイマージュすなわち私の身体の可能な行動に関係づけられた場合には、これを物質の知覚とよぶのである。」(24-25頁)「実在論と観念論の間にかかっている問題、おそらくは唯物論と唯心論の間のそれすらも、私たちの考えでは、いまやつぎのように提起される。すなわち一方の体系では各イマージュがそれ自体として、周囲のイマージュから現実的作用を受ける明確な範囲で変化し、他方の体系ではすべてのイマージュが唯一のイマージュにたいして、この特権的なイマージュの可能な作用を反射するさまざまな範囲で変化するが、同じイマージュがこのような二つの異なった体系に入りこみうるのはなぜであるか、と。」(28-29頁)この「二つの体系」のうち前者は「科学」に属し、後者は「意識の世界」である(29頁)。ここに述べられていること(「問題」の再提示)はある意味でとてもシンプルで常識的だが、ある意味では到底信じがたい。要は「イマージュ」の理解にかかっている。イマージュとは「私が感官をひらけば知覚され、とざせば認められない」(19頁)もののことだが、第七版の序では「観念論者が表象とよぶものよりはまさっているが、実在論者が事物とよぶものよりは劣っている存在──「事物」と「表象」の中間にある存在」(5頁)と説明されている。「私たちは、哲学者たちの論争を知らない人の観点に身を置く。このような人は生まれつき、物質とはかれが知覚するとおりに存在するものだ、と信じているだろう。そして物質をイマージュとして知覚するのだから、物質は、それ自体、イマージュであるとするだろう。ひと口にいえば私たちは、観念論や実在論が存在と現象に分けてしまう以前の物質を考察するのだ。」(6頁)それは「本質存在」と「事実存在」に分岐する以前(ソクラテス以前)の「生きた自然(フュシス)」のことなのだろうか。

★8月15日(月)

 三浦雅士『出生の秘密』【¥3000】を買った。パースとラカンのことが書かれた「六 記号の階梯」と「七 鏡のなかの私」をざっと流し読んだ。アッと驚くことが書かれているようには見えなかったので妙に安心した。「あとがき」をじっくり読んだ。異様に高揚した文章だった。「一 出生の秘密」の冒頭、丸谷才一『樹影譚』の内容紹介を少し気を入れて読んだ。上手い。いかにもプロの書き方。こういう読ませる文章、商業的な文章はいったん術中にはまるともう一気に読み切るしかないと思った。内容があろうがなかろうが読ませられてしまう。それはそれでとても愉しいことだ(と思っていた。ところが、そこから先が一向に面白くならない。妙にドライブ感に欠ける。ここから「あとがき」のあの高揚感までの道は長い。以上、後日談)。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』読了。ちょうど四か月かけて読んだ。最初の頃の興奮はしだいに薄れていったけれど、一字一句おろそかにせずに、それでいて自由気儘に(連想、空想、妄想の類の跳梁を楽しみながら)読み続けた。

★8月20日(土)

 昨晩、何年かぶりにカラオケへ行った。古い歌をふたつほど歌った。そのせいかどうか分からないが、深夜寝つけず遅くまで起きていた。休日になればいろいろとやりたいことはあったけれど、寝不足と仕事疲れ(この一週間ほとんど仕事が手に着かなかったのに)で何もやる気が起きない。いつものように駅前のドトールで本(『他者の声 実在の声』)を一時間ほど読んで、四年前に出た前田英樹の『倫理という力』【¥680】を買って(なぜかしらにわかに読みたくなった)、高校野球の決勝戦と阪神・ヤクルト戦をTVで観戦して、その間にDVDで『ローレライ』を観た。ひどい映画だと思った。夜、TVのコントローラーを頻繁に操作しては衆議院選をめぐるニュースのはしごをして寝た。

 『他者の声 実在の声』に収められた同名のエッセイを読みながら、「心脳問題をめぐるテーゼ・私家版・覚書」というのを手帖に書きつけた。──その1.意識は言語から「生産」される。これは『神々の沈黙』でも主要な仮説の第一として提示されていた。無意識は言語(他者の語らい)でできているといったこととか、言語が「物質」であると言えるならばそれと同じ意味で意識は「物質」から「生産」されるといったこと。(ここで「生産 pro-ductin」というのは「五つの推論」のうちの一つで、他は演繹[deduction]・帰納[induction]・仮説形成[retroduction,abduction]・伝導[conduction]。推論の五つの形式・方法というのは私のオリジナルで、その内容・実質はこれから探求する。パースによれば、何かを探求しようとするとき「探求に際して使用される論理」と「探求の対象が従う論理」とが同一であるという想定が前提されている。だとすれば、この五つの推論形式は同時に実在の存在形式でもある。)
 その2.意識と物質はつながっている。實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』によると「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀まで一体だった」(139頁)。このことはウィリアム・ジェイムズの「ロープ」とかベルクソンの「イマージュ」の概念に表現されている。(「つながっている」という言い方はまだまだ未熟で、いずれこの概念を鍛えあげなければいけない。)──その3.身体は意識を「表現」する。もしくは「身体の履歴」(桑子敏雄)が意識を充填する。あるいは身体とは「仮面」である。このあたりになると自分でも何を言いたいのかよくわからなくなる。(「仮面」の原型は「内部が空洞になった管」で、たとえば麦藁がそうだしシンプルな笛も濃厚に仮面的である。この「管」にいくつか切れ目を入れると複数の音=声を発する高級な笛=楽器になるし、ひいては「顔」=仮面にもなる。本来、動物の身体は「管」である。だからどうなのだと言われると困るが。)──その4.使用価値と交換価値の分岐が心脳問題の起源である。これは『出生の秘密』の「あとがき」に書いてあったことをそのまま盗用しているし、このままではテーゼとして使えない。いまはまだこの程度でしかないが、これらの断片・覚書をたくさん蒐集し、いずれ18ほどのテーゼにまとめあげてベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」のようなカタチに編集していきたいと思う。

★8月21日(日)

 昨日に続き今日もまた全然やる気が湧かない。保坂和志『小説の自由』の「11 病的な想像力でない小説」を読み、『物質と記憶』を一節分だけ読んで今日の読書は終わり。朝日新聞に高橋源一郎が『小説の自由』の書評を書いていた。「小説」について考えることも「小説」なんだ、というのが書評のタイトルで、「小説とは……ひとことでいうなら、ものを考えるためのある一つの優れたやり方、なのである」、つまり小説とは「「小説的思考」によって書かれたもののことだ。では、「小説的思考」とは何か? それは、実のところ、『小説の自由』というこの本の中に流れている思考のことなのである」、だから「当然、この『小説の自由』もまた小説」であるという趣旨なのだ。この指摘はまったくもって正しい。ただ、保坂和志いわく「小説は読んでいる時間の中にしかない」のだから、「小説的思考」もまた小説を読んでいる(書いている)時間の中にしかない。つまり小説世界の中に立ち上がっているもの、現前しているものこそが「小説的思考」そのものなのだとしたら、そのような「小説的思考」によって(小説とは何かを考える小説を)書くということはいったい誰がどうやって何を書くことなのだろう。(この困惑はちょうど、すでに立ち上がっている「意識」を使って「意識とは何か」を考えるとは何がどうやって何を考えることなのかを問う時のそれに似ている。)また高橋源一郎は、「「小説的思考」は、小説が生まれる以前から存在した、というこの魅惑的な考えに、ぼくも同意する」と書いている。「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」によって書かれた書物とは「13 散文性の極致」(まだ読んでいない)に出てくるアウグスティヌスの『告白』のことだ。「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」が「小説が死んだ後にも存在する小説的思考」もしくは「小説という概念とはいささかもかかわらない小説的思考」はては「そもそも書かれることのない小説的思考」(純粋小説的思考)といったものをも含意するとしたら、それは魅惑的だと思う。

★8月25日(木)

 三浦展『団塊世代を総括する』【¥1500】を買った。一月前に書店でみつけた時から気になっていた。『ファスト風土化する日本』が素晴らしかったので、その本を書いた著者が2007年問題に対してどのような処方箋を書くのか興味があった。団塊の世代は移民(異民族)である。団塊の世代は子育てに失敗した。働くことの意味を子供に教えなかったからだ。団塊の世代はもう50年間ずっと消費してきた。人生の最後くらい消費だけではない人生を送ってほしい。まず自分の会社を作って仕事をしろ。そしてどんどん若者を雇え。この定年起業論は挑発的だが、きわめて合理的である。『ファスト風土』の最後に書かれた政策提言にも通ずる。

★8月26日(金)

 太田肇『認められたい!』読了。本をいただいてから二ヶ月。なかなか手に取る時間がなかった。仕事をさぼって盗み読みを初めると、最後までほとんど違和感を覚えることなく一気に読み進めることができた(ただ一点、この本がどのような読者層を想定しているのかだけは最後まで見定めることができなかった)。読み終えて、著者の人間観、社会観の「成熟」を強く感じさせられた。
 私はある時期から著者の人間観に違和感を覚えるようになっていた。それは本書の「あとがき」にも出てくる二つの言葉、「きれいごと」と「ホンネ」の区分・対立のさせ方があまりに表面的すぎるのではないかという不満(懸念)によるものだった。ここでいう「きれいごと」とはたとえば「人間にとって重要なのは自己実現だ」とか「(仕事の)意欲を引き出すのはお金ではなく仕事の楽しさや面白さだ」といった言い方のうちに示される型にはまった思考のことで、これに対する「ホンネ」とは(本書の場合)名誉欲や自己顕示欲、功名心、プライド、メンツなどの「承認欲求」のことだ。「きれいごと」だけでは「組織で働いている人たちの行動やドロドロした現実の世界をとても説明できない」。「人間や組織をほんとうに動かしているもの」、つまり「心の深層」にある「ライバルや顧客、業界、学会などに、あるいは広く社会に認められたいという強い欲求」が「仕事の面白さや働きがいにつがっている」という事実を見据えなければならない。この認識自体は正しいと思う。
 私の限られた経験(社会的および私的経験)からいっても、「人間や組織をほんとうに動かしているもの」は裏返しの承認欲求ともいうべき嫉妬と羨望である。著者の次の指摘は、人間集団のリアリティを鋭く抉っている。《世間では、嫉妬や羨望といえば不合理な感情の問題としてかたづけてしまいがちですが、実はそれがある意味で合理的な感情であり、そこから生まれる態度や行動もまた、論理的に説明できるということを見逃してはなりません。つまり、お金やモノを求めて争うのと同じように、名誉欲、自己顕示欲やプライドをめぐる戦いや競争が繰り広げられていると考えれば理解しやすいのです。》(30頁)著者は、承認欲求を「タブー視せず、それを真正面から受け止めることからスタートしなければ展望は開けません」(151頁)と語っている。それを裏返していえば、嫉妬や羨望を「心の深層」に秘匿すべき負の感情としてタブー視せず、真正面から受け止め公に語ることができる言説の空間をつくらなければ人間集団の展望は開けない。
 しかし「きれいごと」と「ホンネ」は一方が虚偽で他方が真実だといった単純な区分では片づけられない。本来この二つは同じ次元に並び立つものではない。理想と現実と言い換えても同じことで、現実を直視しない理想論は欺瞞だが、理想を現実のうちに回収してしまう議論は不毛だ。著者はそんなことは百も承知で、前者の欺瞞を撃ちつつ、後者の不毛を回避する途を探ってきた。この方法も正しいと思うし、組織対個人の関係においていかにして個人が「生きのびる」か、どのようにして組織を「つかいこなす」かといった問題設定とその処方箋はとても切れ味がよかった。ただ、そこで得られた知見・洞察を組織や人事政策に応用し、さらには一般社会に応用するためには、「きれいごと」対「ホンネ」の一見わかりやすい図式をもっと鍛えなければならない。さもないと「きれいごと」がもっている「人間や組織をほんとうに動かしている」力を見失ってしまう。いくら「きれいごと」(政権公約)を掲げても、所詮、政治は権力闘争である。そんなことは誰でも知っている。本当の問題は「ホンネ」(権力欲)を暴くことではなく、「ホンネ」のうちに孕まれたエネルギーを通じてどのような「きれいごと」を実現するかということだ。いいかえれば「きれいごと」がもつ欺瞞性を人間集団や社会の実相として直視し、これを真正面から受け止め公に語ることができる言説の空間をつくらなければ人間集団や社会の展望は開けない。
 私の不満(懸念)は本書を読むことでほとんど払拭された。次の二つの点で、著者の人間観や社会観の「成熟」を感じさせられたのである。第一は、「ホンネ」を個人の内面のうちに限定して論じるとらわれ(あるいは「きれいごと」=「公」に流通する出来合の言説、「ホンネ」=心の深層にある「私」的な欲望という二元論)から解放されていること。第二は、「きれいごと」と「ホンネ」の統合の可能性(あるいは背反する二項の一方を切り捨てるのではなく、両者の統合へ向けた不断のプロセスこそが人間集団や社会の実相であるという見極め)を見出していること。第一の点は、たとえばE・L・デシ(『内発的動機づけ』)の「承認=情報」の説の紹介(45頁,235頁)やV・E・フランクル(『現代人の病』)の引用(53頁)──人間本来の重要性は意味の可能性の充足にあるのだが、その意味の可能性は「自分の内に閉ざされたものとしての心理の中に、と言うよりむしろ世界内に見出されるべきものなのである」──のうちに示唆されている。第二の点は「個人主義と集団主義の調和」と題された節(159-163頁)のうちに明快に示されている。(ただ、「会社や社会のために尽くすことがそのまま自分の名誉に直結する構造」を自分の中につくりあげている「超一流の域に達した」人物について、「もっとも彼らがこのような境地に達することができたのは、たんに彼らの能力や姿勢が優れていたためではなく、彼ら自身が恵まれた立場に置かれていたためでもあることは見逃せません」とあるのは、一面の真理ではあるのかもしれないが、そもそもこの指摘に「実証性」はあるのだろうか。)
 本書を読んで、前田英樹の『倫理という力』に出てくる「トンカツ屋のおやじ」の話を想起した。《客から金を取って生活しているトンカツ屋のおやじにとって、客は手段である。けれども、美味いトンカツを食わせることに関するこのおやじの並外れた努力は、客を目的とすることなしには成り立たない。客はおやじを尊敬する。おやじも味のわかる客を大事にするが、大事にするからといって、金をもらわないわけにはいかない。これが、おやじの立てている文句のつけようがない尺度である。》(54-55頁)「きれいごと」と「ホンネ」をめぐって先にくどくどと書いたのは、要するに、それらを真っ二つに分断することは、生の実相を損なうことになると思ったからだ。しかしそのことと『認められたい!』が論じていることとはやはり別の話だったのかもしれない。

★8月27日(土)

 二ノ宮知子『のだめカンタービレ』【¥390×12】読了。火曜日に#1を買って読み終え、水曜日に#2と#3を買ってこれもその日のうちに読み終え、とうとう止まらなくなり、木曜日から土曜日まで3巻ずつ一気に#12まで読みきってしまった。#9までの桜ヶ丘音楽学校篇はこれだけで充分に完成・完結している。#10から始まったパリ編は物語の行方(というか感触)をまだ作者が手探りで探っている感じ。このあとどこまで進んでいくのかまだ見えないが、途方もなく長大な物語に発展・深化してきそうな気配を感じる(たとえば『ガラスの仮面』のような)。このマンガの面白さは「読んでいる時間の中にしかない」(C:保坂和志)。二ノ宮知子がつくりだすキャラクターの面白さも、読んでいるマンガの中にしかない。この作品でとりわけ面白いのは演奏会の情景を描いた箇所──たとえばシュトレーゼマン指揮、千秋真一演奏のラフマニノフ・ピアノ協奏曲2番(#5)とか千秋真一指揮のブラームス交響曲1番(#8)など──で、当然のこととしてそこに音は響いていない。しかし紙面の沈黙のうちにたしかに音楽が流れている。それも音楽の表現のひとつのかたちである。これはちょっと比類ない達成なのではないかと思った。

 保坂和志『小説の自由』読了。『カンバセイション・ピース』と並べてみると、この二冊の本が姉妹編だったことがよくわかる。カバー写真も撮影した写真家も違うけれど装幀はどちらも新潮社装幀室で、本の造りとデザインがそっくりだ。昨日と今日の二日かけて最終章「13 散文性の極致」を読んだ。本書全体の集大成ともいえる章で、頁数も多いが内容も濃い。「4 表現、現前するもの」とあわせて読むと『小説の自由』はほぼ了解できると言いたいところだが、この本はそれほど要領よく要約してすませられるほどヤワではない。野矢茂樹『他者の声 実在の声』と対比させながらレビューを書こうと目論んでいた。たとえば野矢の「論理空間」と保坂の「小説世界」と「言語の外」と時間の関係とか。でも『他者の声 実在の声』をまだ読み終えていないし、保坂和志の文章からなにか理論めいたものを引き出すことは虚しい。その虚しい作業にいずれ取り組むことになるかもしれないので、ここにそのラフスケッチを書いておく。保坂和志の思考のかたち(というか手順)はいつも三つの項から成っている。たとえば「音楽」と「美術」と「小説」。たとえば「表現」と「感覚の運動」と「意味・テーマ」。たとえば「物質性(音楽性)」と「精神性(散文性)」と「フィクション(第三の領域)」。たとえばアウグスティヌスとカフカとチェホフ。その他諸々。これら三つの項を行ったり来たり逡巡しながら「何か」が立ち上がり浮かび上がり「現前」することを能動的に受容することが保坂にとっての小説を書くこと=文字で思考すること=読むことの実相で、それは解釈することとはまるで違う。それはまた哲学とも似て非なるもので、この違いを一言で表現したのが野矢茂樹の「他者の声 実在の声」である。
《他者は、意識における他我ではなく、意味の他者として私を取り巻く。たとえば哲学などはあからさまにそのような声として現れてくる。理解しきれない、しかしまったく理解を拒むわけでもない、「さあ、理解してごらん」という誘惑のざわめき、それが意味の他者なのだ。/同じような誘惑の声を、私は実在のもとに聞く。このコーヒーの味わいも、あるいは先週の山歩きのときのさまざまなことも、言葉で表現しつくすことはできない。しかし、それらは語りえぬものとして言語の向こう側に鎮座しているわけではない。「さあ、語り出してごらん」、そんな誘惑がかすかに、あるいは声高に、響いている。私はそこにこそ、「実在性」の在りかたを見たい。》(『他者の声 実在の声』193-194頁)

★8月28日(日)

 『物質と記憶』の(独り)読書会が6週目を迎えた。先週読んだ第一章の三節「実在論と観念論」を読みなおし、四節「イマージュの選択」を通読した。脳は一種の中央電話局だという有名な規定がでてくる三節でベルクソンが主張しているのは、知覚が向かうのは認識ではなく行動であるということ。これを受けて四節は「すなわち神経系は、表象をつくり出すことはおろか、準備することに役立つ装置すらも、何ひとつそなえているわけではない」という書き出しで始まる。これは漫然と読み流してはいけない驚くべき主張ではないか、と驚く身振りを自らに課しながら読み進めていかないと、流麗な文章に流されて議論の本筋がつかめない。この四節は、意識的知覚の可能性・必然性がそこから引き出される「不確定性」(選択可能性)や、記憶の浸透を受けない「純粋知覚」の仮説などが提示され、知覚の有無にかかわらない「現存するイマージュ」(客観的実在)と「表象されたイマージュ」との関係──すなわち、後者は前者が縮減されたものである──が論じられる重要な節で、一度や二度読んで分かったつもりになってはいけない本書の最初の勘所だ。

 『芸術新潮』9月号【¥1333】を買った。特集は港千尋解説の「写真よ、語れ!」。橋本治が「とことん語る」日本美術史と磯崎新が「読みかえる」日本建築史を特集した二冊に続く常備本。写真はつねに変わらぬ(詩的)インスピレーションの源泉だった。一枚の写真を凝視すること、その視覚の感触を言葉におきかえること。それが詩作の作法だった(たとえば『葡萄状連詩』は集英社の世界写真全集第1巻から生まれた)。この習慣を失ってもうかれこれ二十年が過ぎている。一枚の写真にかける時間の深さが足りない。ひとつの音楽にかける時間の深さも失っている。一篇の小説にかける時間の深さも。
 『物質と記憶』に次の文章が出てくる。《私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真にとった景観のように思うところからきている。すなわちそれは、知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像されるのだろう、というわけだ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物のまさしく内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることを、どうしてみとめないわけにいくであろうか。》(45-46頁)ベルクソンは「どのような形而上学、いや、物理学も、この結論をさけることはできない」としたうえで、続いて、宇宙が原子から成っているとしよう、宇宙が数多の力の中心から成っているとした場合はどうか、最後にモナドから成っているとしたらどうかと議論を進めている。《各モナドは、ライプニッツが望んだように、宇宙の鏡である。してみると、だれもがこの点では一致している。ただし宇宙の任意の場所を考えれば、全物質の作用は抵抗も損耗もこうむらずにそこを通過し、全体の写真はそこでは透明であるともいえる。像を浮き出たせる黒いフィルターが、種板の後にないからだ。私たちのいう「不確定の諸地帯」は、いわば、フィルターの役をしている。それらは存在するものに何ひとつつけ加えない。ただ現実的作用を通過させて、潜在的作用を残留させるだけだ。》(44頁)ベルクソンいわく「このことは仮説ではないのである」。こうやって書き写していけばここでいったいなにが議論されているのかが腑に落ちるのではないかと思ってだらだら引用を続けてみたが、いまひとつ腑に落ちない。一度や二度読んで納得しようとしてもそうはいかない。