不連続な読書日記(2005.6)




☆2005.6
 

★6月2日(木)

 丸谷才一『綾とりで天の川』【¥1429】購入。丸谷才一さんの文章に惹かれている。文藝という言葉がこの人ほど似つかわしい現役作家、評論家、書評家、エッセイスト、要するに物書きはいないと思う。昨年、一年遅れで『輝く日の宮』を読んでしっとり陶酔した。この人の小説はずっと前に『横しぐれ』と『樹影譚』を読んだきりで、いずれも忘れがたい読後感。とくに『樹影譚』を読んだ時の濃い印象はいまでも残り香のように漂っている(と書きながら気がついたことだが、この印象はどことなく保坂和志の『この人の閾』を思わせる)。その後、新潮文庫版の『新々百人一首』をほぼ毎晩一首分ずつ読んでは言語にまつわる感覚や感性や情感、というよりも言語表現の母胎である躰のあり様そのものが更新される(エロティックと形容してもいいほどの)思いを味わい堪能し、ため息つきながら就眠する一時期をすごしたが、上巻の半分ほどまで進んだところでにわかに雑用が錯綜し精神が混濁しはじめたので中断してしまった。朝日新聞に月一で連載されている「袖のボタン」はその一篇一篇がまことに上質で藝が細かく、かつ洒脱悠然と蘊蓄を傾ける筆法が熟しきっている。翻訳も素晴らしい。アイリス・マードックの『鐘』が素晴らしかったのは丸谷才一の文章によるのではないかと、これは後になって気がついた。翻訳といえば『ユリシーズ』が全三巻の真ん中あたりで中断したままになっているが、これも素晴らしい文章だった。
 丸谷才一さんの文章のどこがどう素晴らしいのかは言葉では説明できない。名文はただ読み、ひたすら読み、時に書き写して眼と頭と心と躰にたたきこむしかない。『文章読本』に確かそんな趣旨のことが書いてあった。その影響もあって、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」と開高健の『白いページ』を繰り返し読み込み、富山房百科文庫版の石川淳『夷斎筆談』を書き写したりしたこともあった。それと気づかぬうちに丸谷才一さんの門下生になっていた。書評やエッセイも素晴らしい。これまで新聞や週刊誌や月刊誌での拾い読みで充分堪能してきたが、一度自腹を切って新刊書を買い求め、とことん咀嚼玩味消化吸収してみようと思った。『綾とりで天の川』は『オール読物』連載のエッセイを集めたもの。掲載紙のキャラクターに応じて自在に文体を変えながら、その実頑固なまでに文章の骨法を揺るがせない。凛とした姿勢と柔らかな息遣いが素晴らしい。(まことに手放しの絶賛につぐ絶賛でわれながら気持ちがいい。)

★6月4日(土)

 昨夜遅くまでワールドカップサッカー予選の日本対バーレーン戦を観て興奮したので、今日一日寝不足で躰と頭がすっきりしない。試合も前半は緊張したけれど後半は散漫で観ていて辛かったし、中田ヒデの動きは最後までとてもスリリングだったけれど納得のいかない判定もあって北朝鮮戦には出場停止になってしまった。気分がすっきりしない。それでいろいろ目論んでいた休日の計画はいっさいうっちゃって、まず『モデルニテ・バロック』を少し読んでパースとベンヤミンを繋ぐミッシング・リンクの話(43頁)やギリシャ語のロゴスがラテン世界に入ってラチオとヴェルブム(世界を生み出すことば・息吹=神言)に分岐した話(52頁)やベンヤミンと萩原朔太郎の二人に共通する根っこの話(57頁)などに刺激を受け、続いて最後の一章だけ残していた『ハイデガー拾い読み』を読了。いろいろ「素材」を蒐集したものの込み入った思考をめぐらすのが面倒になり他日を期すことにして、最後に『綾とりで天の川』をだらしなく、ただただ丸谷才一さんの「受売り」の話芸に手玉にとられる愉悦に身をひたしながら読みすすめていくうち、この語り口はどこか木田元さんのハイデガー哲学の祖述・語り直しの話芸と通じていると思い、和田誠さんの装幀と挿絵を眺めているうち、ちょうど2年前にその素晴らしさを「発見」した小林信彦さんのコラム・シリーズを思った。

★6月7日(火)

 昨日、一昨日と仕事と私用を兼ねて東京へ一泊二日で夫婦で出かけた。六本木ヒルズを漫然と見物して、息子と息子のガールフレンドを品川に招いて評判の(といってもガイドブックに紹介されていたのを見ただけ)牡蠣料理を一緒に食べてホテルに帰り、翌朝申し訳程度の仕事をこなしてから国立博物館へ「ベルリンの至宝展」を見にいったら休館で、夕方の便で早々に神戸に帰って早めに寝た(「ベルリンの至宝展」はこのあと神戸の博物館に来ることになっている)。鞄には仕事関係のわずかの書類と三冊の読みかけの本。中沢新一さんの『アースダイバー』は東京のガイドブックとして読み切るつもりが渋谷・明治神宮から東京タワーまで「水と蛇と女のエロチシズム」と「死の視線」に彩られた土地とモニュメントの話題までしか目を通すことができず、坂部恵さんの『モデルニテ・バロック』と鹿島茂さんの『オール・アバウト・セックス』はほんの少ししか読めなかった。

★6月8日(水)

 一月ぶりに『ソトコト』7月号【¥762】を買った。「創刊6周年記念特大号2」で特集が「完全保存版ザ・ベスト・オブ・ロハスプロダクト大図鑑」。いつものようにラジオ・ソトコトのCDがついていて付録のチビコトも2冊(ふたご)になった。表紙の「地球と人をながもちさせるエコ・マガジン」が「ロハスピープルのための快適生活マガジン」に変わっている。「スロー」や「エコ」や「ロハス」という言葉はイマイチこころに響かない。「もったいない」や「身土不二」もあと一歩。チビコト「ロハス入門」で竹村真一さんが、ロハスの核心は三浦梅園の「枯木に花咲くより、生木に花咲くに驚け」という言葉に表現されていると語っている。日本の文化遺伝子のなかに地球全体に贈与すべき未来のロハスの種子となる貴重なソフトウェアがたくさんあるのではないかとも。同じチビコトの巻末では、編集長・小黒一三との対談で坂本龍一さんが「ぼくはエロいエコがあってもいい、と思っているんだ。今はまだ世界中探してもどこにもないし、『ソトコト』もエロくないよね」と語っている。「和」と「エロ」に彩られたソトコトを読んでみたい。

★6月10日(金)

 この週はほとんど本が読めず、『神々の沈黙』『モデルニテ・バロック』『関係としての自己』などをとっかえひっかえ眺めてはそれぞれほんの数頁進んだだけ。(『関係としての自己』の89頁に「クオリアは、一定の機構を備えてさえいればだれにでも観測可能なリアリティではなく、個人と世界のあいだにそのつど新たに成立するアクチュアリティである」という文章が出てくる。この個人と世界の「界面現象」としてのクオリアというアイデアはとても刺激的でちょっと興奮した。)
 それでも『魂を漁る女』を読了。久々に長編小説を読む悦びを味わった。結末を読み急ぎたい気持ちを宥めるのに難渋した。ドラコミラとアニッタ、この二人の対照的な女性をめぐるツェジムとソルテュクの(古代的と形容したくなる錯綜した)三角関係は、どこかゲーテの『親和力』に出てくる二組の男女の(古典的な形式美を漂わせた)交差恋愛劇を連想させる。といっても『親和力』はまだ読んでいないので、たぶんそれは、「ゲーテの『親和力』」(これも未読)のベンヤミンをめぐる数冊の書物(たとえば川村二郎『アレゴリーの織物』とか三島憲一『ベンヤミン』とかメニングハウス『敷居学』とか今村仁司『貨幣とは何だろうか』など)を介して、『魂を漁る女』を『神の母親』とともに「マゾッホの最も美しい小説」にかぞえあげたジル・ドゥルーズ(『マゾッホとサド』122頁)にリンクを張りたいという無意識の願望がしかけた連想だろうと思う。
 実は、前々からチャールズ・サンダーズ・パースとヴァルター・ベンヤミンとジル・ドゥルーズを三位一体的に組み合わせて一望してみたいという思いがあった。パースとドゥルーズはもともと『シネマ』でつながっている。パースとベンヤミンの「影響関係」は坂部恵さんの『モデルニテ・バロック』で示唆されている。そこでも言及されていたドゥンス・スコトゥスやライプニッツにまで遡れば、パース=ベンヤミン=ドゥルーズはきっと一つの思考の平面(内在平面?)に並置されるだろうという予感があった。(実際、これまで読んだ本では山内志朗さんの『天使の記号学』にドゥンス・スコトゥスやライプニッツとともにこの三人が揃い踏みで登場している。)ベンヤミンとドゥルーズはマゾッホとカフカでつながるかもしれない。『変身』の主人公グレゴール・ザムザ Gregor Samsa はマゾッホに捧げられたオマージュである。グレゴールは『毛皮を着たヴィーナス』で主人公がワンダから授けられた奴隷名であり、ザムザはザッヘル・マゾッホ Sacher-Masoch のアナグラムである。この説はドゥルーズが紹介している(「マゾッホを再び紹介する」,『批評と臨床』117頁)。面白い。

★6月11日(土)

 みすず書房から「教える‐学ぶ」ための新シリーズ「理想の教室」の刊行が始まった。ちくまプリマー新書とよく似たコンセプトで、ラインナップを一覧すると文学・芸術系が中心。記念に一冊、ヒッチコックの『裏窓』(加藤幹郎)かパスカルの『パンセ』(吉永良正)のどちらにしようかと迷っているうち、なにかひらめくものがあって亀山邦夫さんの『『悪霊』神になりたかった男』【¥1300】を買った。三回の講義のうち第一回分を読んで期待が高まった。スタヴローギンの「告白」に二つのテクストがあることは知らなかった。第二回目の講義にバフチンの「ポリフォニー」の話題が出てくる。この際『ドストエフスキーの詩学』をあわせて読んでおきたいと思っているのだが、これはどうなるかわかからない。
 茂木健一郎訳『四色問題』を図書館で借りて通読(ほんとうは買ったきりでほったらかしている『リーマン博士の大予想』を早く読みたい)した後で、小林秀雄の講演『信ずることと考えること』を新潮社のCDで聴いた。講演の内容は『考えるヒント3』(文春文庫)に収められているが、肉声の面白さには及ばない。夜、DVDで『69』を観て寝た。結構よかった。続けて『テニスボーイの憂鬱』を映画で観てみたいと思った。(村上龍の小説では『69』と『テニスボーイの憂鬱』が好きだ。)

★6月13日(月)

 奈良の「万葉文化館」へ行った。所在地は明日香村飛鳥10番地。展望ロビーから耳成山と香具山を見た。この地にはたぶん学生の頃に来たことがあるのではないかと思うが、明晰な記憶がない。どこにでもある山里の風景なのにどこか余所とは違う独特の雰囲気が漂っていた。「懐かしい未来」というのはこういう感覚のことなのだろうかと思った。

★6月16日(木)

 今日発売の『Number』【¥514】を買った。特集は2006ドイツW杯出場を決めたサッカー日本代表の「全証言」。中田英はとうとう「皇帝」になった。次号はコンフェデレーションズカップ特集。また買うことになるだろう。深夜、本誌を読み終えたあとで日本代表の初戦(メキシコ戦)を見た。欲求不満だけが残った。

★6月17日(金)

 斎藤慶典さんの『レヴィナス 無起源からの思考』【¥1600】を買った。この人の作品では同じ講談社選書メチエから出た『フッサール 起源への哲学』を読んで陶酔したことがある。本書はその姉妹編。内田樹さんの『他者と死者』を筆頭にレヴィナス関連本にはハズレがないので期待できる。木村敏さんの『関係としての自己』の101頁から104頁にかけてレヴィナスの「汝殺すなかれ」をめぐる考察が出てくる。いわく、レヴィナスの「存在の外部」としての他性は、アクチュアルな「存在」(アポロン的・ビオス的生命=個別的生命)の背後に開けているヴァーチュアルな「生成」(ディオニューソス的・ゾーエー的生命=生命それ自身)の深淵を覗き見たものである。《個別化の極限において、人間はいっさいの存在のアポロン的刻印を異物として抹消し、純粋無垢なディオニューソス的生成の陶酔に浸ろうとする。レヴィナスの他者が発する「汝殺すなかれ」の哀願は、この破壊衝動におののく個別的生命の叫びではないのか。》(103-104頁)レヴィナスの思想に対する異和感(といってもレヴィナスの著書を実地に体験してのものではない)の理由がどこにあるのか、斎藤慶典さんの濃厚な議論につきあって確認してみよう。

★6月18日(土)

 石川忠司さんの『現代小説のレッスン』【¥720】を買った。純文学の「エンタテインメント化」というアイデアが面白い。この人の文章は保坂和志『残響』の文庫解説と『孔子の哲学』と小林秀雄論を読んだくらいだが、印象に残っている。文学の嗜好に近いものを感じる。たとえば本書で藤沢周平を「W村上に匹敵する現代日本文学の宝」(125頁)と評している。このセンスがいい。小林秀雄論での隆慶一郎の取り上げ方もよかった。隆慶一郎が小林秀雄の「弟子」だったことを確認するためネットで検索していて、松岡正剛さんが「千夜千冊」の第百六十九夜で隆慶一郎の『吉原御免状』を取り上げていることを知った。『Wの悲劇』を観た。ほぼ二十年ぶりに観た。傑作。

★6月19日(日)

 亀山邦夫『『悪霊』神になりたかった男』を読了。スタヴローギンの「告白」という「いくつもの真実を同時に隠しもつ、永遠に解くことのできない、開かれたテクスト」(146頁)に仕掛けられた、あるいは隠蔽されたさまざまな謎──「告白」の文体はなぜ「壊れている」のか、母親に鞭打たれながらマトリョーシャはなぜ「奇妙な声をあげて」泣いていたのか、なぜルソーの名が出てくるのか、スタヴローギンの世界遍歴の謎(ゲッテインゲンでまる一年聴講したのは誰の講義だったのか、最後に行ったアイスランドで何を見たのか)、マトリョーシャ=スタヴローギンはなぜ縊死したのか、等々──をくねくねと迂回しながら解明しつつ「ドストエフスキー文学のはかり知れぬ恐ろしさ」すなわち「意識という恐ろしさ、内なるポリフォニー(多声性)の地獄」(127頁)に迫る。そしてスタヴローギン的な狂気=ニヒリズム、すなわち世界をたんに見る対象として突き放す「神のまなざし」の傲慢さへと解きいたる(158頁)。「九月十一日、神は死んで、人々が神になった」。
 東京新聞取材班『破綻国家の内幕』を読了。ついでにウッドハウス暎子『日露戦争を演出した男 モリソン』下巻と福岡伸一『もう牛を食べても安心か』と柳田邦男編『阪神・淡路大震災10年』と青木和夫他『古典の扉 第1集』と日向一雅『源氏物語の世界』と廣野由美子『批評理論入門』を読了。ほんとうはどれも最後まで完璧に読み切ってはいないけれど、もうたぶん読むことはないだろうと思ってこの際「棚卸し」をすることにした。福岡伸一さんの本は『ソトコト』の連載で断片的に語られていたことの集大成で、ほとんど思想書。『古典の扉』では養老孟司さんの『解体新書』と木田元さんの『存在と時間』も面白かったけれど(いつにかわらぬ養老節と木田節)、『ドン・キホーテ』への関心が高まったのが思わぬ拾いもの。『源氏物語の世界』は源氏物語という「複数の主題を重層させる小宇宙であり、多義的多面的な構造の作品」(9頁)の世界を垣間見せてくれた。ひところ大切に読み進めていたのだが、源氏没後の匂宮や薫や浮舟の物語をパスしてしまった。いつか読むかもしれない。『Wの悲劇』に続いて『セーラー服と機関銃 完璧版』を観た。これもほぼ二十年ぶり。やや冗長で間延びした感じ。

★6月21日(火)

 加藤典洋さんの『僕が批評家になったわけ』【¥1700】を買った。「ことばのために」という(ちょと趣旨のつかみにくい)叢書の一冊。編集委員の顔ぶれ(荒川洋治・加藤典洋・関川夏央・高橋源一郎・平田オリザ)はとてもいいと思う。でも結局この五人がそれぞれ本を一冊ずつ書くのだったらわざわざ「編集委員」と名乗ることもないのに。その編集委員を代表して加藤典洋さんが書いた趣意書の中にこの叢書は「世の小学生以上の広範な読者の前に、差し出されるのです」とあるから、これもまたみすず書房の「理想の教室」やちくまプリマー新書の仲間なのだろう。先月出た本を今頃になって買い求めたのは、書店でぱらぱらと拾い読みをしていて「ムッシュー・テスト」(ヴァレリー)と「徒然草」だとか、「電子の言葉」と内田樹と「徒然草」だとかの話題が目についたからで、要するに加藤典洋と「徒然草」の取り合わせに惹かれた。《誰もいない。部屋の壁に貼られた反古がはがれかかり、また机の上に残された写経が開けられた戸口から吹く風にめくられる。おや、裏に何か書きつけられているみたいだぞ。/彼らはふすまを外す。それを丁寧にはがす、また写経の紙片を集める。/もし、それを集積したものが、『徒然草』になったのだとしたら──。/そうだとしたら、ここには先に述べた、ことばで出来た思考の身体としての批評というものの、ふつうわれわれが理解しているものの対極の像が、屹立している、ことになるのではないだろうか。》(39頁)

★6月24日(金)

 コンフェデレーションズカップのブラジル戦は興奮した。惜しかった。テレビで某キャスターが「でもブラジルはベスト・チームではなかった」などと間抜けなコメントをしていたのには呆れた。自分の力で勝ち取った引き分けでもないのだから素直に感動を表現すればいいものを妙な「批評心」を発揮してケチをつけるなど勘違いも甚だしい。完全保存版「日本代表ドイツへの軌跡」の特集を組んだ『Number』のスペシャル・イッシュー【¥648】を買った。吠える中田英寿の表紙が神々しい。「ノンフィクション開高健」の総力特集を組んだ『PLAYBOY』日本版【¥838】も買った。初期ノンフィクションを収録した小冊子「開高天国」が付録についていて嬉しい。編集後記に「編集者マグナカルタ九章」が紹介されている。「読め。耳をたてろ。眼をひらいたままで眠れ。右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。トラブルを歓迎しろ。遊べ。飲め。抱け。抱かれろ。森羅万象に多情多恨たれ。補遺一つ。女に泣かされろ。上の諸原則を毎食前食後、欠かさず暗誦なさるべし 御名御璽 開高健」。次号の特集は「ボブ・ディランとプロテスト・ソング」。続けて買うことになりそう。

★6月25日(土)

 日本経済新聞社から太田肇さんの『認められたい!』が出た。著者は年来の友人でいつも新刊が出るたび贈呈を受けている。読むべき本がたまっていていつ読めるか分からないけれど、なるべく早く一読して感想を送ろう。この3月に白桃書房から出た高尾義明さんの『組織と自発性──新しい相互浸透関係に向けて』も贈呈を受けたけれどまだ読めていない。そういえばお礼のメールも送っていない。アドレスを紛失したからというのは言い訳で、これもなるべく早く目を通して失礼を詫びなければ。と思いつつ、今日もまたまるで活字を読む気になれず、だらだらと『探偵物語』を観て過ごした。これで薬師丸ひろ子主演映画を三本(どれも昔映画館で観たもの)続けて観たことになる。『探偵物語』もよかったけれど、やっぱり『Wの悲劇』が一番よかった(高木美保の初々しい、というよりトゲトゲしい演技もよかった)。

★6月26日(日)

 岡山の法事に早朝から出向いて、夜遅く帰りの電車の中で昨日買っておいた睦月影郎の『新人女教師』【¥543】を読了。文藝の匂い(と文豪の風格?)の漂う時代物もいいがやはりベタな現代物の方が判りやすくていい。この新作はあきらかに『女薫の旅』を意識している。出来映えは良くない。そのせいかどうか知らないが体調を崩した。

★6月30日(木)

 コンフェデ杯特集の『Number』【¥505】を買った。「日本はもっと強くなる」とか「歴史を変えたブラジルとの死闘」とか表紙に書いてある。このところサッカーの記事ばかり読んでいる。同じ文章を何度も何度も読んでいる。中田のことが書かれている箇所など読み返すたびに気分が躍動する。スポーツ・ライターの文章には独特の高揚と冷徹がある。文体がある。サッカーの試合一つ完璧に文章化できたら、それは最高の批評なのだと思う。保坂和志さんの『小説の自由』【¥1700】を買った。「新潮」に連載されていた文章十三回分を収めたもの。連載はまだ続いていて、保坂和志さんのホームページには今年の3月号に掲載された十四回目(第二期一回目)が掲載されている。