不連続な読書日記(2005.5)




☆2005.5
 

★5月1日(日)

 茂木健一郎『脳と創造性』読了。先月末に読み終えた本(『知の構築とその呪縛』『半島を出よ』『神狩り2』)ともども久しぶりにレビューを書いておこうとパソコンに向かったが、集中力が続かない。『知の構築とその呪縛』に出てくる「略画的世界観」とソクラテス以前の哲学者たちの「フィシス」との関係とか、『半島を出よ』は後半で小説としての興奮が失せてしまったとか、「神のクオリア」というアイデアが出てくる『神狩り2』は茂木さんの本が下敷きになっていることがありありと見てとれるとか、いろいろとっかかりはある。でもそこから先に思考がおよばない。で、結局、かわぐちかいじ『太陽の黙示録』の第7巻「密航者」【¥505】と第8巻「海峡同盟」【¥505】を買って一気に読了。その後、諸星大二郎のマンガを読んで、黄金週間序盤の三連休最終日にして今月最初の休日が猛スピードで終わった。

★5月2日(月)

 この春復刊された岩波文庫の『スピノザ往復書簡集』【¥900】を買った。仕事帰りに1時間近くかけて三宮センター街のジュンク堂、そごう新館の紀伊國屋、三宮駅前のジュンク堂と神戸の大きな本屋を探し回ってやっと一冊みつけた。やっぱりこのての本は見つけたときに買っておかないとだめ。「スピノザの往復書簡集は人がこの世において人間愛と誠実について読み得る最も興味ある書である。」これはゲーテの言葉(と解説に書いてあったし、確かにどこかで読んだ記憶がある。でもゲーテのどの作品に出てくる言葉なのだろう)。前々から「スピノザ式性愛」という言葉が頭に浮かんでいる。書簡集をじっくり読んで、ついでに『エチカ』も手にとって、いつかこの謎めいた言葉の実質を探ってみよう(スピノザの哲学を下敷きにした官能小説を書くとか)。夜、養老孟司・玄侑宗久『脳と魂』の前半二章を読む。1月に買って、第一章「観念と身体」と第四章「脳と魂」を読んで中断していた。第2章「都市と自然」に仏教は抽象思考だという話題と一神教はエジプトで生まれたという話題が出てくる。

★5月3日(火)

 中公文庫から出たマゾッホの『魂を漁る女』【¥1333】を買って、第一部の冒頭を少し読んだ。国枝史郎の『神州纐纈城』とか白井喬二の『富士に立つ影』の虚構世界を思わせるゾクゾクする書き出し(いま引き合いに出した二つの作品は、もうかれこれ十年単位の昔に途中まで読んで休憩中のまま現在にいたる)。「ジル・ドゥルーズが絶賛した知られざるマゾッホ最高傑作 謎の美女が繰り広げる官能と狂気の世界」。腰巻きにそう書いてある。後段はともかく前段のドゥルーズ云々は、これがはたしてウリになるのかどうか。昨年の秋も深まった頃、種村訳『毛皮を着たヴィーナス』を再読した際、クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』や『わが隣人サド』とあわせてドゥルーズの『マゾッホとサド』を同時進行的に読み進めていた(松浦寿輝さんの『官能の哲学』や『口唇論』も)。毎日数頁ずつ熟読かつ玩味して、恍惚とはいかなくても陶酔しはじめていたのに、仕事が忙しくなって中断したままになっている。スピノザとマゾッホ。この異様な取り合わせをドゥルーズでもって結合させてみるか。夜、『脳と魂』の第3章「世間と個人」を読む。この二人は呼吸が合いすぎている。養老さんがしだいにべらんめえ調(ビートたけし風?)になっていくのがおかしい。

★5月4日(水)

 京都に出かけた。例によって持参する本選びでさんざん迷ったあげく、直前になって養老孟司さんの『日本人の身体観』と玄侑宗久さんの『禅的生活』を鞄に放り込み、結局、上野修さんの『スピノザの世界』を数頁だけ読んだ。スピノザの異例・異様な思考世界をとても上手にコンパクトかつ無味乾燥に(これは悪口ではない)解説している。でもちょっと気になるのは、たとえば『エチカ』第2部でデカルト由来の心身合一の問題がいとも早々と解決されてしまうことにふれた箇所で、「…「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか」(123頁)と突然会話風の表現が出てくるところ。これと似た表現が「あとがき」にも出てくる。「…それら観念がみな無限に多くの私の(?)並行する精神であるということになっちゃうのではないか」。これはやめてほしいと思う。京都では仁和寺と龍安寺を拝観した。龍安寺はよかった。石庭より回遊庭園がよかった。

★5月5日(木)

 ほんとうに龍安寺の回遊庭園はよかった。季節ごとに出かけたいと思う。仁和寺から龍安寺までゆっくりと歩いたおかげで、昨夜はぐっすり眠れた。目覚めの頭がすっきりして気持ちに余裕が出てきた。黄金週間中盤の三連休が今日で終わる。淡々とした一日。昼、ドトールで『現代思想』を読む。「脳科学の最前線」を特集した2月号(ブルーバックスの『知能の謎』と池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』と一緒に買ったまま読まずに「熟成」させていたもの)。茂木健一郎・港千尋の対談「イメージする脳」が面白かった。売り言葉に買い言葉、というとニュアンスは全然違うけれど、二人の言葉(脳)がお互いに刺激しあってしだいに増幅(スパーク)していく様がリアルに伝わってくる。「根本的な世界観の変革」(茂木)へ向けてスピノザとパースとベンヤミンが切り結び、脳科学と人類学が手を携え、経験的なものと概念的なもの(理論)が神学という鍋でごとごと煮られている。創造性が立ち上がる現場が出現している。ダマシオが『スピノザを求めて──喜び、悲しみ、感じる脳』[Looking for Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain]という本を書いているらしい。桜井直文さんの「身体がなければ精神もない」によると、「かれ[ダマシオ]の求めているスピノザはそこにはおそらくいない」。

 帰りにニーチェの『キリスト教は邪教です!──現代語訳『アンチクリスト』』【¥800】を買う。子どもの頃定期購読していた学年別学習雑誌に海外のSFやミステリーの翻訳を簡易製本した文庫が付録がついていて、愛読してかなり読みこんだ覚えがある。後にちゃんとした大人向けの本で読みかえすと随分と印象が違っていた。翻訳や抄訳ではなく翻案とでもいうのだろうか。「現代語訳」はたぶんそれと似た趣向なのだと思う(橋本治さんの桃尻語訳とか、最近では逢坂剛さんの『奇厳城』なども)。実は以前『エチカ』の現代語訳を試みたことがあった。試みたといってもアバウトな構想をたてて文体をちょっと模索してみた程度なのだが、スピノザとニーチェはいかにも現代語訳にふさわしい(ニーチェの書簡に「僕には先駆者がいるのだ」というくだりがある。先駆者とはスピノザのこと。『スピノザの世界』165頁)。湯山光俊さんの『はじめて読むニーチェ』が読みかけのまま中断している。あわせて読んでおこう。(湯山さんとは以前メールのやりとりをしたことがある。その湯山さんの初めての単著。心して読まねば。)

 第四章を再読して『脳と魂』読了。細胞=システム=空、遺伝子=情報=色。人間は空であり、言葉は色である。養老システム学と玄侑の仏教がつながる。玄侑「先生はやっぱりあれですよね。科学の立場だから、口が裂けても「魂」とは言いたくない。」養老「いや。だから言いたくないっていうよりも、魂の定義が出来ないんです。僕の場合はそれなりに定義するんですよ。だから、システムとしか言いようがないんですよ。」(187頁)あわせて上野修『スピノザの世界』読了。一泊二日のスピノザ小旅行(実際は読み始めてから読み終えるまで12日かかったが、気分としては二日)。「『エチカ』のこのあたり[第5部の最後、定理21から42]を読むといつも異様な緊張を感じるのだが、きっとそれは、証明している自分自身が証明されているという特異な必然性経験をしてしまうからだろう」(181頁)とか「このあたり[同定理32の系]に来ると『エチカ』はいったい何ものが語っているのかわからなくなってくる」(184頁)とか、旅のガイドブックとしては最高のフレーズだと思う。ついでに檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』読了。

★5月6日(金)

 『STUDIO VOICE』6月号【¥648】を購入。特集は「最終コミック・リスト200」。先月買った『SIGHT』の特集が「究極のマンガ200冊!」で、60年代から90年代以降までの年代別ベスト作品をリストアップしていたのに対して、これは「00年代マンガのすべて」。「マンガとは、他のなにものにも依存しない自律的な表現形式であり、普遍的な浸透力を持ったエンターテインメントとしての力を、あたりまえのように身につけている希有な表現形式である。それは小説よりも映像作品よりも素早く強力に読者を捕縛する。」そういえば『半島を出よ』下巻の「美しい時間」の章を読んでいたとき、このシーンはたとえば松本大洋あたりのマンガで読みたかったとしきりに思った。

★5月7日(土)

 久しぶりに姫路に顔を出す。読み終えた本や雑誌を段ボール一箱に梱包して宅急便で送っていたのが着いていた。高校の頃まで住んでいた二階の部屋(いまは書庫兼物置になっている)にそのまま開けずに放りこむ。マンガ雑誌でも眺めてのんびりすごそうと思っていたが、軽い気持ちで読み始めたジルソンの『神と哲学』が俄然面白くなって一気に読了。四つの講義(「神とギリシア哲学」「神とキリスト教哲学」「神と近代哲学」「神と現代哲学」)を収めた二百頁に満たない小冊子だけれどけっこう濃い。たかだか四頁ほどのスピノザをめぐる叙述が際立っていた。「スピノザの宗教は、哲学だけによって人間の救済に到るにはどうすればよいかという問に対する、形而上学的に百パーセント純粋な解答である。」(128頁)「スピノザの形而上学的実験は、少なくとも次のような断案の決定的証明となったことは確かである。すなわちそれは、およそいかなる宗教的な神であれ、その真の名が「在る者」でない神は単なる神話にすぎないということである。」(129頁)いっそ全頁を抜き書きしておきたい。

 スピノザを「神に酔える人」と呼んだのはノヴァーリスである。うかつにもジルソンの本を読むまで気がつかなかった。ためしに中井章子さんの『ノヴァーリスと自然神秘思想』を見ると40頁にその断章が引用されている。この本はかつて熱読したものだから、間違いなく知っていたはず。ノヴァーリスといえば、古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』第二章「逆接の宇宙──ヘラクレイトス」の扉に「矛盾律を否定することこそ、より高次の論理学の最高の課題であろう」という断章が掲げられていた。ちなみに「キリスト教の神を見失った世界が、この神を見いだす以前の世界[タレスやプラトンの世界]に似てくるのは、やむをえないことである」(『神と哲学』166頁)というジルソンの指摘は、というより『神と哲学』の第一章そのものが『現代思想としてのギリシア哲学』と響きあっている。
 

★5月8日(日)

 『神々の沈黙』が面白くなってきた。まだ第一部第一章までだけれど、少しわくわくしかけている。このままうまくのれたら、買いためるだけで手をつけずにおいた関連本を一気に読み漁ってみたい。訳者あとがきに出てきた『ユーザーイリュージョン──意識という幻想』を借りようと図書館へ出かけたが見つからず、そのかわりジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』(竹内薫訳)と茂木健一郎『脳の中の小さな神々』を借りた。いずれも昨年買いそびれ読みのがした本。そもそも心脳問題にかくも関心をいだくようになったきっかけが竹内薫・茂木健一郎の共著『トンデモ科学の世界』で、この本を読んでペンローズの『皇帝の新しい心』に進んだ。神戸の中央図書館から元町の大丸へ、ジャケットと靴を買って帰宅。行き帰りの電車の中で『キリスト教は邪教です!』を半分ほど読む。この文体は悪くない。

 垂水のドトールで大森荘蔵の「ことだま論」後半を読む。『時間と自我』の「はしがき」に、過去とは夢物語であり「限りなく無意味に近い制作物ではあるまいか、こうした恐怖を感じさせる奈落に面しては立ちすくむ以外にはない」(8頁)と書いてあった。『時間と存在』の「はじめに」では「これまで度々経験したことだが、自分で出した奇怪な考え[ここでは「自然科学的世界の空性」という結論]に馴れるのにかなりの年月が必要だろう」(13頁)と書いてあった。あわせて池田晶子さんの「埴谷雄高と大森荘蔵」に次のように書いてあったのを思い出す。《物質は「実在」しない、過去もまた「実在」しない、それらは全て、言語によって制作された「存在の意味」なのだ、と落としどころに見事に落とす大森の論理の運びは痛快である。分析哲学者ならずとも、快哉を叫んだ人は多いと思う。けれども、快哉を叫んでいるこの自分は、すると、いったい「どこ」に立っているのか。足下に開いたでっかい暗い黒い穴ぼこ、これはいったいなんなんだ、いったいどうしろと言うのだ。/このような感性と、そのような問いを、そもそも所有していないことが研究者ということなのだということを私は理解していたので、研究会後の飲み会の席で、こっそり尋ねたことがある。先生、率直なところ、どのようにお感じなのですか、と。/彼は、一瞬の沈黙のあと、いつものきっぱりとした口調で、こう言った。/「ゾッとします」》(『魂を考える』91-92頁)

★5月11日(水)

 茂木健一郎さんが『中央公論』6月号に「なぜナショナリズムは相互理解されないか」という文章を寄せている。なぜいまこのような論考が発表されたかは言わずもがなだが、脳科学の立場から世俗や世相や事件を切る(説明する)といった浅薄なものではない。茂木さんがそんなバカな文章を書くはずがない。1993年の式年遷宮の際、伊勢神宮を初めて訪れた茂木氏は言葉で表現できない衝撃を受けた。《とりわけ、内宮の「唯一神明造り」の様式には、深い感動を覚えた。従来、日本的とはこういうものであるとか、神社とはこのような場所であるとか、そのような安易な思いこみのすべてを壊す、至上の何かがそこにあることが確信された。まるで、宇宙の中にこれまで存在していなかった光り輝く元素の誕生の瞬間に立ち会っているように感じられた。(略)伊勢にある何かとてつもなく大切なもの。しかし、それに名前を付けて何の意味があろう。名付ければ陳腐になるだけである。その名付け得ぬものが、私の愛国心の核心にあるが、それは同時に「日本」を超えた普遍的なものでもあるはずである。》
 この特殊性と普遍性を結ぶ回路の話は『脳と創造性』のキモの部分につながる。(ついでに書いておくと、ブルーバックス『知能の謎』の序論で「メイン筆者」の瀬名秀明さんが柄谷行人由来の「一般性──特殊性」と「普遍性──単独性」に関連づけて「普遍性の中に個性がある」云々と書いている。そういえばこの本も読みかけのままだった。)名付けをめぐる問題は『神々の沈黙』第一部に出てきた言語進化(呼び声⇒修飾語⇒命令⇒名詞⇒名前)の話題と関係する。いずれも「科学的思考」の実質に関連するものだ(と思う)。この論文のことにふれたのは、「科学のすばらしさは、対象に対して認知的距離(ディタッチメント)をもって接することができる点にこそある」という箇所を抜き書きしておきたかったからで、それは先月読んだ上野修さんの「スピノザから見える不思議な光景」に出てきた「彼の哲学はそんな籠絡[自分の努力で運動していると思っている石の自由意思への固執]からの静かなデタッチメントを教えてくれる」という言葉と響きあっている。

★5月12日(木)

 『神々の沈黙』第一部を読み終えた。面白い。「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分[右利きの人にとっては右脳]と、それに従う「人間」と呼ばれる部分[同じく左脳]に二分されていた」。そして「どちらの部分も意識されなかった」(109頁)。なぜなら意識は約三千年前、言語表現の比喩機能(投影連想)によって生成された(78頁)からだ。著者ジュリアン・ジェインズのこの仮説の論拠は『イーリアス』の登場人物たちには主観的な意識も心も魂も意思もなかったことと、側頭葉損傷による癲癇患者を対象としたペンフィールドらの実験結果にある。論証は緻密ではない。ほのめかしにとどまっている。それでも、ここで主張されている「二分心」の説には説得されてしまう。神の内在と超越。今後、神という語彙が使われた文章すべてに影響しそうな気がする。同時に読んだ古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』第四章に出てくるシャーマンとしてのソクラテス、ダイモーン的人間としてのソクラテスはほとんど「二分心」の精神構造をもったミケーネ人(『イーリアス』の英雄)と同等だ。

 補遺の一。『神々の沈黙』第一部を読み終えて、信原幸弘『考える脳・考えない脳』を想起した。信原さんはそこで、脳は「構文論的構造を欠くニューロン群の興奮パターンの変形装置」であって「そのような変形をつうじて、外部の環境のなかに外的表象を作り出し、それを操作することもできる」、つまり「構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この[脳と身体と環境からなる]大きなシステム全体によって産み出される」と結論づけていた。
 補遺の二。そもそも意識は脳の中にはない。意識を紡ぎ出すのは脳の機能かもしれないけれど、少なくとも脳の中には意識はない。たとえば茂木氏のいう「脳内現象」は「(物質としての)脳の中の現象」ではない。言葉というものは脳から出力されるが、出力され記録された言葉は脳の外にある。そして、意識は言葉にスーパービーンする。──上野修さんが『スピノザの世界』で書いている。「一般に、下位レベルでの物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に(現代風に言うなら)上位の個物ないし個体特性がスーパービーン(併発)している。」(116頁)

 余録。養老孟司さんが毎日新聞(4月17日)で『神々の沈黙』の書評(「脳の右半球は何をしているのか」)を書いている。以下、抜粋。《意識の問題は、脳科学の暗黙の中心的なテーマである。いちばん新しい意識に関する総説を探して、著者の本が引用されているかどうかを見たが、されていなかった。脳科学の現役の研究者は、人にもよるだろうが、だから読まない可能性がある。脳の左右半球に関する知見も、著者の時代からかなり変わってきたからである。その点では、私自身の意見も、著者とは異なっている。/しかしこの本の価値は、そういう点に依存するのではない。現代社会をまさに「支配する」意識、それが歴史的な時代になってはじめて出現したという議論が傾聴に値するのである。日本史の例でいうなら、本居宣長を想起する人もあろう。現代における「意識中心主義」は、ほとんど病膏肓の域に達している。科学はまさに意識以外のものを否定する。意識以外のものがあるなら、それは「意識化されなければならない」からである。それが蔓延した社会で「理科系の大学院まで出たのになぜ」というオウム真理教事件が起こる。意識中心主義を詰めていったら、本当にオウムは生じないのか。オウム事件の被害者、加害者は、果たして意識的理解によって救われるのだろうか。/著者の書物もまた、現代意識の産物である。しかし著者はそれを「知っている」。そこが重大な点なのである。近代意識の前提は、自分がなにをしているのか、各人がそれを知っているということである。近代科学者は本当にそれを「知っている」のであろうか。》
 

★5月13日(金)

 『ニューズウィーク日本版』5月18日号【¥381】を購入。特集(カバー・ストーリー)は「外国人作家が愛した日本」。なんとなくこのまま定期購読が復活しそう。世の中と世界の動きに遅れていない(少なくとも関心は保っている)という安心感がほしいのかもしれない。まさにそういう魂胆でもって「田中宇の国際ニュース解説」と「JMM」の二つのメルマガを購読しているのだが、このところ全く読まずにストックしているだけ。『ソトコト』の定期購読を止めようかと思っている。特集「ルイ・ヴィトンの環境宣言」にあまり魅力を感じなかったから。というか、最近は買ったきりでほとんど読ま(め)ない。でも、「私たちの環境宣言」に中田英寿の「自分の立っている場所が、昨日より悪くならないような気遣いをしていきたい」という記事があるらしい。中田英寿は誰かの「ファン」であることの愉悦を教えてくれた唯一の男性(唯一の女性がジョディ・フォスター)。買うか買わないか迷っている。ついでに書いておくと、ここ数年来よほどのこと(買い忘れ)がないかぎり毎号買ってしっかり読んでいる唯一の雑誌が『ビッグコミック・オリジナル』。たぶん創刊(74年)以来のはず。そもそも『ビッグコミック』の創刊(68年)以来のはず。

 なにかミステリーを読みたくなり本屋であれこれ物色しているうち収拾と決断がつかなくなって、結局、村上龍『空港にて』【¥400】を買った。『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』(2003)の文庫改題版。「空港にて」は、僕にとって最高の短編小説です。by 村上龍。帯にそう書いてある。日本文学史に刻まれるべき全八編。カバー裏にそう書いてある。カバー表の写真とデザインがよかったし、百八十頁ほどの手軽さだったので、とりあえず買っておいた。良質の短編小説集をじっくり読みこみたいという飢餓感もあった。あわせて図書館で『昭和歌謡大全集』を借りた。『半島を出よ』のイシハラが登場する作品で、村上龍はあとがきに「これほど書くのが楽しかったのは『69』以来だと思う」と書いている。
 ついでに睦月影郎の『メイド・淫[イン]・蜜[ハニー]』【¥571】を買って、これはその日のうちに読了。(睦月影郎の官能小説は密儀体験の叙述である。それは言葉では表現できない。だから何度でも反復量産されるしかない。)しばらく睦月本はお休みにしようと思っていた。でも今月だけでも三冊目になる新刊を目にしてつい手が出てしまった。「日本のトリュフォー」にして「現代の谷崎潤一郎」(by 鹿島茂)の筆はますます快調。官能系では神崎京介「女薫の旅」の新作&ハイライト版も出ていたけれど、このシリーズにはちょっと飽きている。ミステリー系では、ミネット・ウォルターズの『蛇の形』と志水辰夫の『背いて故郷』が読まずにとってある。どちらも読み始めたら他のものに手がつかなくなりそうで、ずるずると読む時を選んでいるうち旬を逃してしまった。マゾッホの『魂を漁る女』を終えたらどちらかを読むつもりだが、図書館で借りてきた垣根涼介の『ワイルド・ソウル』が先になるかもしれない。

★5月14日(土)

 『PC REAL Vol.3』【¥933】という雑誌を買った。いつの間にかスパイウェアに侵されていた。その対策が特集されているというので表紙を眺めただけで中身をよく吟味せずに買った。関連記事は4頁ほど。内容はgooで検索して得た情報とそう変わらない。フリーウェアが即入手できると思っていたのに、付録はAVのサンプルムービーを集めたDVD。発行所は桃園書房で「♂男の体当たり実践エンタメマガジン」と謳ってある。完璧な失敗。感染したのはどうやらアドウェアといわれるものらしい。駆除は他日を期すことにして、マルジナリア8の草稿を書きあげた。夜『TAKING LIVES』を観て寝た。見所はアンジェリーナ・ジョリーの唇くらい。DVDにNG集がついていたのがおかしい。

★5月15日(日)

 古東哲明『他界からのまなざし』読了。第一章「他界の近さ」で日本人の近傍他界観を、第二章「反転する浄土」で芸術(世阿彌の離見の見や見所同心)を、第三章「プレシオスの鎖」で文学(グノーシスト宮澤賢治の成道精神)を、昨日読んだ第四章「空白の共同体」で哲学(フッサールの間主体論や現象学的還元)を、そして今日読んだ第五章「遊体論」で宗教(プラトンの神秘思想=生や世界の遊戯性=宗教的身体技法)をとりあげ、エピローグで「だからもう、バスを待つのはやめよう」と呼びかける(修業=遊戯の勧め)。中沢新一さんの本と同じで、結局ここには何も書かれていない。読み終えて何も残らない。幸福な充填と愉悦に満ちた空虚。
 臨死から臨生、往路から復路を主題的に論じた第四章が本書のハイライトだと思うが、章末に記された「ある新しい予感にみちたエチカ」(=シュヌーシアの磁場がかたちをとった新しいエチカ)の詳細については「他日を期す」とされている。肝心要のところで他日を期されては欲求不満になる。第五章が『現代思想としてのギリシア哲学』第五章「ギリシアの霊性」の引き写しだっただけにこれでは詐欺にひとしい。「シュヌーシアの磁場がかたちをとった新しいエチカ」とはいったいなんだ。『「私」の考古学』(岩波書店「宗教への問い3」)に収められた論考「魂と自己―ギリシア思想およびグノーシス主義において」で彌永信美さんが、グノーシス主義のシュジュギアー(合一)体験や『トマスによる福音書』(「ギリシアの霊性」の章末でも引用されている)の記述から「シジジイ」(細胞核の移動と融合と再分裂)による単性生殖へと筆を運んでいたが、それと関係するのか。はっきりしてくれ。

 いま『他界からのまなざし』の第五章が『現代思想としてのギリシア哲学』の引き写しだと書いたけれど、一箇所だけとても重要な加筆があった。「青人草[あおひとくさ]」という言葉があるように、古代の日本人は身体を植物組織のようにみなしていた。カラダ=殻胴・枯胴、エダ=手足、芽=眼、葉=歯、花=鼻ときて最後に実=耳(実々)=身。ここに出てくる「耳」が『神々の沈黙』の「二分心」の説に通じる(折口信夫の「神=マレビトの訪れ=音連れ」とか、鎌田東二さんが『記号と言霊』に書いていた「人類は言葉を話す以前に、何万年も、何十万年も、いやことによると何百万年もの長い期間にわたって、その[太古の]声を聴いていたのだ」にも)。
《このように、古代の日本人は、目で見えるもの以上に、音で聞こえるなにかを貴重で神意的で、だから最終的なことと感じていた。それは第一章でもふれたように、音の訪れを神秘的なほど神々しいなにかの到来とみた古代人のルーツフィーリングと深く関わっている。だからこその言霊思想でもあったろう。そしてそんな音を聞く聴覚器官としての「耳」に、「生命の結実態」としての「実」を、あるいは「生命活動の最終兄弟」としての「実」を重ね合わせたのだと、考えられる。/と同時に、そんな耳と実との類推から、人間の生命活動のほんとうの正体とか最終的な形態として「生きた身体」の次元に、「身」という言葉を対応させた。そう考えることができる。》(171頁)

 上の文章に出てくる「身」のことを古東さんは「プシューケー」や「器官なき身体」になぞらえている。『現代思想としてのギリシア哲学』は再読してもやっぱりこのプラトンの章がハイライト。プラトンのイデア論を背後世界論や背後世界論といった西洋形而上学特有の二世界論として解釈するのは間違いだ。それは「生死を超脱した、しかも実在的な《この世界》についての理論」なのだ(224・229頁)。そもそも「プラトン哲学」なるものはない。プラトンが書き残した対話篇は、「たましい」(=プシューケー=身・ミ=生命の息吹)の向き変え・改変(ペリアゴーケー=実存転調・身体変容)への誘いであった(226頁)。その根底にエレウシスの密儀体験(死と再生)があると、古東さんは書いている。
《そもそも密儀なんかなかった。そういってもいい。生ける身体(身)の、語りようもない深部に起こる、まさに〈転身劇〉が、エポプテイア(奥義開顕)だったからだ。それは、文字どおり、その〈身〉で示すしか、示しようもないことがらである。(略)かさねていうが、ポイントは、この世を生きるぼくたちの生き方(実存・ミ)に、根本的な革命がおき、それに呼応し、この世この生の相貌が全く変容する、ということだ。》(225頁)
 これを読んで大森荘蔵のことを想起した。正確には「大森哲学の感触」を想起した。そもそも「大森哲学」なるものはない。そこにあるのは、ただ神秘体験なき神秘主義の感触(存在感触)で、それは永井均さんの書き物に通じている。

★5月17日(火)

 ニーチェ『アンチクリスト』の現代語訳『キリスト教は邪教です!』読了。「はじめに自己紹介をいたします。私は言ってみれば、北極に住んでいるのです。」既訳本と読み比べたわけではないが、これほど一気に読みきることができるニーチェ本、いや哲学書はない。ほとんど小室直樹の文体で綴られた(字義どおりの)啓蒙書。啓蒙書というよりはプロパガンダ本。ここで主張されていることは箇条書きにすれば数行でおさまる。キリスト教は病気です。パウロは「憎しみの論理」の天才です。僧侶は嘘つきです。イエスは仏陀です。キリスト教に魂を汚されてはなりません。高貴に生きましょう。キリスト教に鉄槌を! 
 湯山光俊さんが『はじめて読むニーチェ』の中で、ニーチェは読むものとしてではなく聞くものとして文章を書いている、その文体は音楽がもたらす効果と同じものを読者にもたらすと指摘している。《…公共の場における演説というものの重要性を彼は見直していました。古代の広場における演説はまさに聞くものとしての、記号のテンポと身振りをもつ文体があったのです。それは生きた言葉であり、語るものの情動の動きをそのままに音楽のように表現しうるものでした。》(156頁)『アンチクリスト』はまさに歌うように語られた扇動の書物。ひとつの「気分」を直接に読者の脳髄に立ち上げる演説であり説教である。密儀としての、あるいはダンスとしての読書。
 この本は、ドゥルーズの「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」(『批評と臨床』第6章)を経てロレンスの『黙示録論』につながっていく。ドゥルーズのエッセイはかつて『現代思想』の増刊号(ドゥルーズ特集)で読んだ。『黙示録論』は福田恆存訳の『現代人は愛しうるか』(中公文庫)を読んだ。どちらにも深い感銘を受けた。ここ数年の懸案事項だった『ギリシア悲劇』も読もうと思った。

★5月18日(水)

 古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』読了。再読してもやはり興奮する。「ギリシア哲学は、来るべき時代の哲学である」。思えば、シモーヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』を読んでギリシャ的霊性の集大成者にして神秘家プラトンに心惹かれ、ハヴロックの『プラトン序説』を読んでイデア論への強烈な関心をかきたてられ、井筒俊彦の『神秘哲学』を読んで(ギリシャ的形而上学的思惟の根源をなす)密儀宗教的な実在体験に戦慄し、そして本書、とりわけプラトンを取り上げた第五章「ギリシアの霊性」を読んで「プシューケー=器官なき身体」説に驚愕した。プラトンの「ダイモーン神学的発想」の背景にあるエレウシスの密儀をめぐる叙述など、いま読んでもゾクゾクする。
 こういう書物に巡り会えるのはほんとうに幸福な出来事だと思う。トゥールミン/ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』や坂部恵『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』などとともに、汲めども尽きないインスピレーションをもたらしてくれる哲学史の書。(唯一の不満はプロティノスを主題的に取り上げた章が欠落していること。アリストテレスの章もないけれど、実はこの書物全体がアリストテレスを取り上げていると言えなくもない。)

 今回「再発見」したことが一つある。ストア哲学(M・アウレリウス)をめぐる第六章「あたかも最期の日のように」(永井均さんが解説で「この章は格別に美しい」と書いているのに同感)の「誰でもない者への配慮」という節で、ストア派特有の「ト・ヘーゲモニコン」が取り上げられている。ストア学派は精神的領域を七つに分ける。五感+生殖機能+言語機能。「この七つの領域のすみずみにプネウマをおくり、それらを活き活きと活動させながら、しかしそれ自体は不可視の生命の息吹(プシューケー)や根源力(デュナミス)としてとどまるナニカを、叡智とかト・ヘーゲモニコンという」。血肉と吐息[プネウマ]でなりたつ公共的・役割的存在者としての「わたし」に生命をあたえそれを制御する指導的部分。内なるダイモーンともいわれるト・ヘーゲモニコン。
《この〈内在しながら超越する自分自身〉。けっして皇帝(役柄自己)のように可視的ではないし、誰(ティス)と特定も内容規定もできない自己。だからギリシアの伝統では、「ウーティス(誰でもない者)」とも呼称された自己自身。それが、ト・ヘーゲモニコンである。》(281-2頁)
 なにを「再発見」したのかは書かない。パウル・ツェランの詩句(「誰でもない者が…」)が関係しているのだが、ここでは書かない。いま一つ。古東さんは『現代思想としてのギリシア哲学』を書くのに千冊の関連本を読んだという。(千冊の本に目を通すだけならたぶん三年か四年もあればできる。でも、一つのテーマで千冊読むというのはすごい。)一冊の書物のうしろには千冊の本がひかえている。それくらいの迫力をこの本はもっている。これに刺激をうけて、ある著作計画が浮上してきたのだが、これもこここでは書かない。

★5月19日(木)

 東京新聞取材班『破綻国家の内幕──公共事業、票とカネ、天下り、利権の構造』【¥667】を買った。財布に一万円札しかなかったので、両替を兼ねて手頃な値段の本を選んだ。週に一回くらいは両替を口実に本を買う。櫻井よし子さんが顔写真つきで「本書は日本を蝕む巨悪を描く力作である」と腰巻きに書いている。櫻井さんの推薦の言葉があったから購入したわけではない。時々こういう時事本とか実録もの、ノンフィクション系、ジャーナリズム系の本が無性に読みたくなる。最近、日本の戦後政治史への関心が高まっている。(そういえば昨年読んでいたウッドハウス暎子『日露戦争を演出した男 モリソン』が下巻のまさに佳境に入るところで中断したままだった。このての本はいったん休憩するとなかなか再開への意欲が高まらない。)

★5月20日(金)

 坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』【¥2600】を買った。「霊性と創造することばの形而上に汲む」「千年単位の歴史の展望」「エリウゲナと空海などヨーロッパ精神史と日本の並行に心を澄まし現代性とは何かを問う」「時代の終りに立ち合うものの生と思考のスタイルとしてバロックは、モデルニテと通底する。垂直の時間の底に、いま、新たな歴史の次元が発掘される」。腰巻きに印刷されたそれら謎めかした言葉たちが官能的に心地よく身に染み入るのは、かつて『ヨーロッパ精神史入門』を読んだときの愉悦が甦るからだ。そういえば『ヨーロッパ精神史入門』を買ったのは元町の海文堂書店だった。仕事帰りに何か哲学系の軽く読めて中身の濃い本を探していて、偶然目にとまり直感を信じて購入した。これは『モデルニテ・バロック』の場合とほとんど同じ。期待が高まる。

★5月21日(土)

 諸星大二郎『孔子暗黒伝』【¥600】を買った。昨年、集英社文庫から出た二冊の自選短編集(『彼方より』『汝、神になれ鬼になれ』)はとにかく素晴らしかった。あと一冊残った『暗黒神話』もいずれ買って読むことだろう。諸星大二郎のデビュー作「不安の立像」は(たぶん)リアルタイムで読んだと思うし、77年から78年にかけて『孔子暗黒伝』が週刊少年ジャンプに連載されていたのも(たぶん)見知っていたはず。山崎浩一が解説エッセイ「麻薬的諸星ワールド」を書いていて、大友克洋の「高度に洗練されたタッチ」と諸星大二郎の「シュールレアリスムや水墨画もどきのタッチ」を比較している。「この二人は同時代のマンガ界に生まれた、一見似ても似つかない二卵性双生児なのだ」。本箱に息子が残していった『AKIRA』全6巻が読まずに置いてある。二十年遅れで二人の天才の世界に同時並行的に浸ってみよう。
 図書館と書店めぐりを終えて夕方帰宅すると、富士ゼロックスの『グラフィケーション』が届いていた。最新号が地域通貨を特集していると知ってインターネットで購読を申し込んでいたら、早速バックナンバーとあわせて三冊送られてきた。この広報誌は以前、職場で読んでいたことがある。『増刊現代農業』と『ソトコト』の先駆けのような記事が掲載されていたように記憶している。

 夜、村上龍の『空港にて』と『昭和歌謡大全集』の二冊をほぼ同時に読了。『空港にて』は素晴らしかった。開高健の短編を読んで以来のここちよい精神の緊張を味わった。小説は描写である。すべてはこの言葉に尽きている。「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった」と作家はあとがきに書いている。「他人と共有することのできない個別の希望」を描写することは、ほとんど小説にできることの限界を超えている。
 『昭和歌謡大全集』は93年6月から94年2月まで「週刊プレイボーイ」に連載された作品で、この時期と連載誌、そしてそのときの作者の年齢がこの作品の性格というか村上龍の活動の中での位置づけをかなり規定しているように思った。でも考えてみればそれはあたりまえの話で、作家は多かれ少なかれその時代と発表媒体(読者層)を念頭において作品を書いている。このことはとくに村上龍の場合に重要なポイントだと思う。好きな小説ではない(中条省平さんだったと思うが「怪作」の一言で片づけていた)が、どこか松本大洋のマンガを思わせる作品世界は印象に残る。松本大洋のマンガは『半島を出よ』を読んだときも頭に浮かんだ。あの作品はこれまで村上龍が書いたすべてとはいわないまでもほとんどの小説世界の「気分」のようなものが総動員されている。だから同じイシハラやノブエが登場する場面で同じ印象をもったとしてもおかしくはない。(イシハラとノブエは『昭和歌謡大全集』では「高校の同級生だった」が、『半島を出よ』ではイシハラが49歳、ノブエが55歳になっている。)

★5月22日(日)

 木田元『ハイデガー拾い読み』の第8章「「世界内存在」再考」と第9章「専門的常識の誤り」を読む。今道友信氏によると、岡倉天心の『茶の本』に荘子の「処世」を「Being In The Word」と英訳した箇所があって、そのドイツ語訳「Sein in der Welt」をハイデガーが剽窃して「In-der-Welt-Sein」としたのではないかという疑惑がある。『存在と時間』の刊行(1927年)に先立つ1919年、今道氏の恩師伊藤吉之助がハイデガーに「Das Buch von Tee」をプレゼントしたというのがその論拠。木田元さんは、用語についてはそういうことがあったかもしれないけれど、「世界内存在」という概念そのものをハイデガーが荘子なり天心から学んだかどうかは疑問としめくくっている。第9章に出てくる二つの話題、イデアリスムスとレアリスムス、トランスツェンデンタールという語をめぐるハイデガー講義録からの議論の紹介も面白かった。勢いで最終章を読みかけたけれど、一気に読んではいけないと自粛。この本には半年間楽しませてもらった。もう少し長引かせよう。

 続いて湯山光俊『はじめて読むニーチェ』の第二章「フリードリッヒ・ニーチェの思想──「発見」と「発明」」を少し読む。俄然面白くなってきた。昨晩、第一章「フリードリッヒ・ニーチェ年代記──「三段の変化」」と第三章「フリードリッヒ・ニーチェの主要作品」を読んだ。「年代記」は、『ツァラトゥストラ』に出てくる精神の三つの変化に準えた駱駝の時代・獅子の時代・幼子の時代の三区分にそってニーチェの生涯をたどろうというもので、趣向は面白いがそれが十分にいかしきれていない印象を受けた。ヴァーグナー・コージマ・ニーチェとレー・ルー・ニーチェの二つの神話的三角関係をめぐる叙述もやや物足りない。やっぱり本書は第二章がすべて。ここに「年代記」や「主要作品」も取り込んでふくらませ、ニーチェ自身の文章もふんだんに引用して叙述を充実させれば、もっとすごい本になったのではないかと思う。

★5月23日(月)

 集英社の健康百科17号「気になる肺がんCOPD」【¥533】を買った。タバコを吸いすぎると息が苦しくなって疲れがたまるようになった。最近の話ではなくてずいぶん前から気になっていて、一日二箱ほど吸っていたのを半年ほど前から一箱前後に抑えている。禁煙する気はないけれど、それでも一日十本少々ですませた日の夜と翌日の朝はとても清々しくて気持ちがいい。カラダが喜んでいるのがわかる。この気持ちよさを実感するためにタバコを吸っているのだなどと意地を張らずに、吸わずにすませられるなら吸わないでおきたいと自分のカラダに素直になってみようと本気で思い始めている。でも、本を買うだけで何かを達成した気分になってしまいそうな気がする。

★5月24日(火)

 雑誌を買いだしたらとまらなくなる。『PLAYBOY』日本版創刊30周年記念号【¥933】を買った。この月刊誌は昔から好きだった。表紙のデザインから誌面構成、特集、コラム、連載、写真、イラスト、文章、広告まで、何をとってもクオリティが高くて確かなセンスを感じた。開高健の「オーパ」や藤原新也の「全東洋街道」の連載がこれほど似つかわしい雑誌は他になかった。隅々まで読み眺めることはなくても、この雑誌を買うことは祝祭的にゴージャスな消費行動で、それ自体が一つのストレス解消策にさえなった。大袈裟にいうと、それだけの存在感のある雑誌だった。創刊号のミニチュア復刻版が付録についている。柴田錬三郎がゴルフを語り、吉行淳之介短編を寄稿している。ノーマン・メイラーのノンフィクションを生島治郎が翻訳し、平塚八兵衛がインタビューに応じている。次号は開高健特集。続いて購入することになりそう。

★5月25日(水)

 単行本も一冊買うと癖になる。先週の『モデルニテ・バロック』に続いて、昨日、木村敏の論文集『関係としての自己』【¥2600】を海文堂書店で買った。岡山の美星町というところへ伯父の葬儀に出かけた帰りの電車の中で書き下ろしの序論を読んだ。短いけれど濃密な思考が凝縮された文章で、『時間と自己』以来の読後の興奮を予感させる。
 ニーチェが自己(ゼルプスト)と呼びフロイトがエスと呼んだもの。一人称的な意識的自我と非人称的な無意識(動物的本能)、アクチュアリティ(現勢態)とヴァーチュアリティ(潜勢態)、そしてアポロン的ビオス(個体的生存/個の側の死すべき生)とディオニューソス的ゾーエー(集合的生命/種の側の死を知らぬ生)とのあいだの「生命論的差異」を媒介するはたらき、関係としての自己=身体。
《…一方で個別的自我に接続しながら(そのかぎりで一人称的な個別性を保持しながら)、他方では非人称のヴァーチュアルな「種の生命」に根を張った、両義的な媒介者…。フロイトが「エス」と名づけようとしたもの、それはわれわれが「自己」の名で呼んでいるアクチュアルなはたらきのことではなかったか。「エス」の避けがたい両義性は、それがそれ自体において、一人称の個別的な生のリアリティ(ただしそれは「リアリティ」として名指されたとたんに三人称化する)と、非人称の種的な生のヴァーチュアリティとの関係そのものであることを物語っている。》(16頁)
 ここに出てくる「アクチュアリティとヴァーチュアリティ」「一人称のリアリティと三人称のリアリティ」の組み合わせは、フェリックス・ガタリの『分裂分析的地図作成法』に出てくる「アクチャルなものとバーチャルなもの」「リアルなものと可能的なもの」という二組の対概念と相即している(のかどうか)。序論には「個別化の原理」(自己を一人称的自我として成立させる原理)という言葉も出てくる。これは『モデルニテ・バロック』の序章「レアリストの語法」に出てきた「このもの性」に結びついていく。そもそも木村敏さんの「ヴァーチュアリティ」と「リアリティ」の概念を知ったのは、『善の研究』(哲学書房)の解題の中で山内志朗さんが紹介していたのを読んだからだ。意識の生成をめぐる心脳問題と西欧中世の神学的論争(普遍論争)とが結びついていく(のかどうか)。

★5月28日(土)

 湯山光俊『はじめて読むニーチェ』読了。この本はやはり第二章が格段に素晴らしい。ニーチェの思想を紹介するこの章は三部からなる。湯山さんはそこで、ニーチェが発見・発明した三つの概念(アポロンとディオニュソス・永遠回帰・力への意志)と二つの心理学(ニヒリズム・ルサンチマン)と四つの文体=方法(詩・アフォリズム・キャラクター・系譜)を、ニーチェの生理と生涯とその著作に、そしてデリダやドゥルーズやアドルノなどに関連づけて解説している。わけても第三部の文体篇が画期的に素晴らしい。この本のハイライトをなすと同時に、その叙述のいたるところに湯山さんの独創がちりばめられている。
 未来の文体であり音楽の精神を体現したリートである「詩」、未来に書かれるあらゆる書物の書き出しでありあらゆる始まりとしての永遠回帰そのものである「アフォリズム」、身振りや声を備えた生でありニーチェの悩める身体そのものである「キャラクター」(概念的人物)、そして歴史のうちに無数の中断(離接点)や不連続(分岐点)を見出す複眼的な遠近法でありそこで生成される価値を生存の法則としての力への意志として変換していく「系譜」。このニーチェの文体をめぐる四つの論考を本書構成の中軸に据えて、その生涯と著作、概念と心理学をこれにそくして配列し直し、さらにニーチェ自身の文章をふんだんに引用・抜粋し、そこに湯山さんの解読と飛躍を重ね書きしていけば、もっともっと素晴らしい本になったことだろう。

 昨日、マゾッホの『魂を漁る女』第一部を読み終えた。面白い。この作品はゆっくりと時間をかけて頭と躰に言葉と情景と人物を染み入らせながら読み込んでいきたい。神崎京介『女薫の旅 禁の園へ』【¥590】を買った。結局、買った。シリーズ第12作で、スタート時に中学三年生だった山神大地はまだ高校二年生。「先生、入ります」(74頁)には笑った。「気持いいって、すごく複雑だ。快感がハーモニーを織りなしている」(140頁)は深い。夜、友人から勧められた『僕の彼女を紹介します』を観た。これはよかった。

★5月29日(日)

 神戸の中央図書館で五冊借りてきた。ジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』と茂木健一郎『脳の中の小さな神々』は継続。ホーガン本は半分ほど読んだが、なかなか「発火」しない。茂木本は今日、八分の一ほど読んだ。買ったきりでまだ読んでいない池谷佑二『進化しすぎた脳』とあわせて読む脳科学の勉強本に最適。白川静『文字講話W』は全四巻シリーズの完結版。五年二十回にわたる白川文字学連続講演の第一回を京都で直に聴講した。気持ちが高揚した。斎藤環『文学の徴候』。保坂和志を取り上げた第九章「抵抗する猫システム」だけでも読んでおこう。中沢新一/牧野千穂(絵)『モカシン靴のシンデレラ』。北米インディアンが伝えるシンデレラ物語を語り直した「見えない人 Invisible man」の翻訳絵本。年明け以来、衝動買いして拾い読みに徹して読みちらかした本が未整理のまま本箱にたまっている。読み終えた本もレビュー待ちのまま。いつ読むのだろう。

★5月31日(火)

 ひさしぶりの東京行。数年前ならば往復の車中で単行本2冊は読み上げる格好の読書タイムだったのに、最近では東京出張が頻繁になったのとひかりからのぞみになって所用時間が片道3時間を切ったこともあって、あまり活用できていない。平均的にいうと熟読で1時間30頁、普通で1時間60頁、少し早めに読んで1時間90頁。だからその気でのぞめば3時間で単行本1冊はなんとか読み切ることができた。この頃は意欲が高まってもたちまち弛緩し居眠りしてしまう。早くたくさん読むよりも、かぎられた本をじっくりと眺めながら脳髄と躰の芯に言葉と観念と概念とイメージを染みこませながら読むことに愉悦を覚えるようになったからだといいたいところだが、要は体力の問題かもしれない。
 今回は『神々の沈黙』は重たいので断念して『モデルニテ・バロック』と『関係としての自己』の二冊を持っていって、往路で『関係としての自己』を三分の一ほど熟読し、復路で有楽町の三省堂で買った中沢新一『アースダイバー』【¥1800】を少し読み、八重洲地下街の本屋で買ったフランス書院文庫の新刊、弓月誠『年上三姉妹 素敵な隣人たち』【¥619】を読了。ついでに深夜帰宅して『女薫の旅 禁の園へ』読了。