不連続な読書日記(2005.4)




★4月2日(土)

 神戸の中央図書館に六冊返し、一冊の継続を含めて七冊借りてきた。継続したのは安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』。ここ二ヶ月ほど借りっぱなしで一行も読んでいなかった。帰りに寄った喫茶店で「あとがき」に目を通した。2001年9月11の「世界史的な事件」を目にした「その瞬間、本書の全体の構成が、細部に到るまで一気に確定された」という。「あとは、その時につかまえたヴィジョンを、自分なりの言葉にしていくだけだった」。松浦寿輝さんの名著『折口信夫論』の再読とあわせて、必ず読み切りたいと思った。ついでに折口信夫の芸能論も読んでおきたいと思ったが、結局読まないかもしれない。
 喫茶店ではT.イーグルトン『新版 文学とは何か──現代批評理論への招待』の「新版のはしがき」と「訳者あとがき」を読んだ。昨日買った廣野由美子『批評理論入門──『フランケンシュタイン』解剖講義』【¥780】の副読本にと思って借りたのだが、これは逆だったかもしれない。保坂和志の全作品を最初から読み直していちおうの「決着」をつけておきたいと考えはじめている。読まずに警戒していた批評理論を少し囓り、スーザン・ソンダクの『反解釈』やバフチンなども読み、そうしたことをすべて忘れて『この人の閾』以来の全文章を読み通してはたしてなにが出てくるか。一年くらいの作業になると思うが、結局手をつけないかもしれない。
 続いて大森荘蔵『物と心』の「はじめに」も読んだ。最近再読した(といってもざっと流した程度)桑子敏雄さんの『感性の哲学』に大森荘蔵の「ことだま論」の話がでてきたのでにわかに読みたくなった。次回の「マルジナリア」で大森晩年の三部作(『時間と自我』『時間と存在』『時は流れず』)を取り上げようかと考えている(タイトルは「哲学のオーモリ」とでも)。この際大森本を何冊かまとめ読みをしておこう。桑子さんの本も『気相の哲学』を借りてきた。これは大森荘蔵が最期に読んだ本らしい。
 残りの三冊は吉岡忍『奇跡を起こした村のはなし』と浦雅春『チェホフ』と中島義道『続・ウィーン愛憎──ヨーロッパ、家族、そして私』。吉岡さんの本を帰りの電車の中で少し読む。八巻目で中断しているチェホフ全集読破への再挑戦はここ数年の課題。中島の臆面のない文章は久しぶり。

 近所の図書館では三冊返却して、辻信一『スロー快楽主義宣言!──愉しさ美しさ安らぎが世界を変える』を継続して借りた。中央図書館へ向かう電車の中で最後の第12章「野生という快楽」を読んだ。この人の文章にほんの少し手を加えると(たとえば初期の村上春樹の短編小説のような味わいをもった)良質のフィクションになる。「ぼくはタヌキと話したことがある。本物のタヌキだ。いや、多分ホンモノだったと思う。」「ぼくはビーバーになったことがある。といっても夢の中の話だ。」
 帰りに藍川京『炎[ほむら]』【¥648】を買った。このところ官能系では睦月影郎ばかり読んでいるので、趣向を変えてみた。家に帰って遅い昼食をとりながら『理系生活のススメ』(アエラ臨時増刊 SCIENCE)を読む。アメリカ脳科学の最前線が特集されていて、養老孟司に玄侑宗久に下條信輔といった面々が登場する。最近購入して読めずにいた脳科学関連の本がたまっている。久しぶりに予定のない休日を迎えたので一気読みで過ごしたいところだが、村上龍の『半島を出よ』が面白くなってきたし、山田正紀の『神狩り2 リッパー』も気になるし、昨晩近所のレンタルショップで二泊三日で借りてきた三本のDVD(『悪名一番』と『仁義なき戦い 広島死闘篇』と黒澤明の『どん底』)も観ておきたい。
 で、せっかくの休みがあっという間にすぎていった。五時間ほど映画を観ているうちに一日が終わってしまった。『仁義なき戦い』の第二弾もよかったが、『悪名一番』がとりわけよかった。シリーズ第八作で、最初から順番に観てきてこのところややマンネリ気味だったのが、東京篇でがぜんよくなった。最後に観た『どん底』の群像劇は鮮烈だった。

★4月3日(日)

 九時過ぎに起きて「サンデーモーニング」の岸井成格さんのコメントを聴きながら朝食をとり、「サンデープロジェクト」のホリエモン特集を眺めながら朝刊を読む。落ち着いて新聞が読めるのは日曜の朝だけ。朝日の読書欄の第一頁のデザインが変わった。柄谷行人が『複雑な世界、単純な法則』のレビューを書いている。この人がこんな素直な文章(「本書を読んで久々にわくわくさせられた」など)を書くのかとちょっと驚く。あいかわらず面白い本の紹介がない。
 DVDを返しに出かける。ついでに駅前のドドールで本を読む。『批評理論入門』の「まえがき」に「『フランケンシュタイン』やエミリ・ブロンテの『嵐が丘』は、繰り返し映画化されつつも、もっとも翻案化が困難な類の小説である」と書かれている。昔読んでとても面白かった川口喬一『小説の解釈戦略──『嵐が丘』を読む』のことを思い出した。実はこの本は一頃姫路の「書庫」からもちだして、新潮文庫の『嵐が丘』とセットで再読しかけたことがあった。
 続いて茂木健一郎『脳と創造性──「この私」というクオリアへ』の前半を読む。この本のキモは「はじめに」に出てくる二つのこと(「コンピュータに代わる、脳を理解するためのメタファーを見いだすこと」「自らの置かれた生の文脈を引き受け、脳の中に潜んでいる創造性という自然な力を発揮することこそが、生きる歓びなのである」)が終章で論じられる「個別と普遍」のテーマに収斂していく理路にある。ここをおさえておけばこの本は理解できる。けっして難しい本ではないが、茂木さんの議論はときどきダブルミーニングではないかと思うことがある。
 最後に木田元『ハイデガー拾い読み』の前半を再読する。この部分は先々月に読み終えた。「〈実在性〉と〈現実性〉はどこがどう違うのか」とか「「世界内存在」という概念の由来」とか、木田さんの本でこれまでからもう何度も繰り返し取り上げられてきた話題が延々と続く。読むたびに新しい刺激を受ける。物覚えが悪くなったのを嘆くより、何度でも愉しめることを歓ぶべきで、これも「生きる歓び」の一つだろう。はやく後半に進みたいと思うが、この本は読み急いではいけない。木田さんの名人の域に達した語り口にゆったりと身を寄せ味わいながら読まなければいけない。

 帰りに近所の図書館に立ち寄って、丸谷才一『挨拶はたいへんだ』と『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』を借りる。『挨拶はたいへんだ』は河合隼雄さんの『大人の友情』に話題が出てきたのでにわかに読みたくなった。冒頭に収められた「この抒情的な建築」は村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の谷崎賞贈呈式での選考委員祝辞。たかだか三頁ほどの短い文章のうちにこめられた藝の凄さに舌を巻く。『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』は明日河合隼雄さんにお会いするので、村上龍の対談集『存在の耐えがたきサルサ』に収められた「心の闇と戦争の夢」とあわせて読み直しておこうと思った。
 帰宅して遅い昼食をとりながら昨日に続いて『理系生活のススメ』を少し読む。養老孟司・玄侑宗久の『脳と魂』が途中で中断したままなのでこの際読み切ってしまおうと思っていたが、食べ過ぎて眠くなり、坂本龍一の『/04』を聴きながらしばし午睡──のつもりが『半島を出よ』を手にしたらやめられなくなって上巻の半分(フェーズ1まで)を読む。朝日の夕刊(3月29日)で村上龍が「句読点やカギカッコ、漢字とカタカナ、ひらがなの違いまで利用して、描写力を限界まで使った」と語っている。「持っている知識と情報と技術をフル動員して書いた」とも。描写力や技術という言葉の実質はたぶん実作者でないとわからないのだと思う。上巻の登場人物が百四十五人(一度数えただけなので違っているかもしれない)。この物量だけでも凄い。
 夜、明日の仕事の段取りをイメージしてからTVを横目にだらしなく雑誌などを眺めた後、『存在の耐えがたきサルサ』に収められた十五の対談のハイライト(頁を折ったり鉛筆で線を入れた箇所を中心に)を反芻して過ごした。河合さんとの対談では「個人的な祝祭」という語彙が記憶に残った。

★4月4日(月)

 河合隼雄さんを迎えた尼崎での講演会は大盛会。『父親の力 母親の力──「イエ」を出て「家」に帰る』にサインをいただく。講演の内容はだいたいこの本に書いてある。活字で読むとそうでもないのに、肉声で聴くと実に味わい深い。著者から直接サインをいただいたのはオギュスタン・ベルクさんの『風土学序説説──文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に』に続いて二冊目。その夜、芦屋浜を眺めながらフランス料理とワインと会話に酔う。四月四日は「おかまの節句」。せっかく用意したこのネタが使えなかった。白洲正子はかつて青山二郎に「おまえは、俺と小林[秀雄]のおかまの子なんだからしっかりしろ」と言われたことがある。河合隼雄と白洲正子の会話「魂には形がある」にこの話題が出てくる。『大人の友情』でも言及されていた小林秀雄と青山二郎の「精神的おかま」の関係について河合さんから直にお話が聴きたかったのだが、話題がうまくつながらなかった。村上春樹や村上龍のことも聞き忘れた。

★4月7日(木)

 今週は夜の懇親会が三回も続きややグロッキー気味。カバンの中に常備していたのは『半島を出よ』上巻と『批評理論入門』と檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学──ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』と白洲正子『おとこ友達との会話』の四冊。『西田幾多郎の生命哲学』はどこか中沢新一の『森のバロック』を思わせるとことがあった。南方熊楠の凄さはポストモダン思想の先取りにあるということが延々と綴られていた(ように記憶している)。それだと後付けの理屈、後知恵の批評にすぎないと思った。でもそれはそれでとても刺激的で面白かった。檜垣立哉さんの本にはそのような中沢流のあざとさ、というか戦略性のようなものがあまり感じられない。
『おとこ友達との会話』はとてもよかった。対談でも討論でもなく会話、テーマや決まり事があるわけではない会話。この本を読んで何かためになる知識や情報、気の利いた思想の手掛かりなどが得られるわけではない。得られないわけでもないが、この本を読むことの意味はそういうところにあるのではない。ここに収められているのは良質のワインの香りや最高級の料理の匂いの記憶のようなもので、その残り香をたよりに白洲正子と九人の「おとこ友達」との会話をいまここに立ち上げ、そこに流れていた贅沢で創造的な時間を反芻し追体験すること、そして読み終えて何も残らないことそのものを味わうのでなければこの本を読む意味はない。

★4月8日(金)

 古書店でエチエンヌ・ジルソンの『神と哲学』【¥300】を発見。ジルソンの本は一度は読んでおきたかった。序文に「天才とはこういう人をいうのであろうか、かれの講義を聞くとそれだけ自分の頭が作り変えられるような気がした」と讃えられているのはベルクソンである。ジルソンは「ベルグソンによって聖トマス・アクィナスの哲学的方法に導かれた者は、いまだかつてだれもいない」と書いている。ということは、ジルソンこそベルクソンによってトマス・アクィナスの哲学的方法に導かれた最初の人だということなのだろうか。訳文を読むだけではよく判らないが、そう解する方が面白い。實川幹朗さんの『思想史のなかの臨床心理学』にトマス・アクィナスとベルクソンをつなぐ記述がある(72-3頁,233頁)。それはともかく、トマス・アクィナスの研究を通じてジルソンは「デカルトの形而上学の諸帰結は聖トマス・アクィナスの形而上学との関係においてのみ意味をなすこと」に気づいた。話が佳境に入っていく。

★4月9日(土)

 ちくま学芸文庫から古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』【¥1200】が刊行された。この本は以前講談社の選書メチエ版で読み、とても興奮した。図書館で借りたのでいつか常備用に買い求めておこうと思っていたし、なによりも永井均さんが解説を書いているので、選書メチエから同日(4月10日)付けで出たばかりの『他界からのまなざし──臨生の思想』【¥1500】とあわせて速攻で買った。
 古東さんの本では『ハイデガー=存在神秘の哲学』も素晴らしかった。そのあまりの濃度に圧倒され序章だけ読んで中断している『〈在る〉ことの不思議』ともども、しばらく古東さんの骨太の叙述に浸ってみよう(次回の「マルジナリア」は「哲学のオーモリ」ではなく「Dr.コトーの哲学診療所」とでも)。「骨太の叙述」は永井均の言葉。「私の哲学上の仕事は、いわば古東哲学の内部にあって、その細部を穿り返しては埋めなおすような作業にすぎない」と永井さんは書いている。
 書店を出て花見がてら電車に乗って明石へ出向く。市の図書館で古東さんの『ハイデガー=存在神秘の哲学』を含め八冊の本を借りてきた。そのうちの一冊、山田正紀『神狩り』を読了。死の三年前、アイルランド東海岸に立つウィトゲンシュタインの苦悩と決意をプロローグとして、神戸の六甲で「古代文字」が発見されるところから『神狩り』は始まる。論理神学もしくは言語神学のアイデアは面白い(きっと作品発表当時は斬新で画期的だったのだろう)が、長い序章のままで終わった感じ。若書きの痕跡をとどめた文章が初々しい。管啓次郎『オムニフォン──〈世界の響き〉の詩学』も少し読む。「私とは私がこれまでに耳をさらしたすべての音の集積にすぎない」(6頁)。この人の本を読むのは初めてだが、高純度の文章は秀逸。

★4月10日(日)

 二週続けてなんの予定もない休日をだらだらと過ごす。年明け以来、書店で見かけ見境もなく買っては読み囓ってきた単行本、新書、文庫がそれぞれ十冊以上ずつ本箱にたまっている。そろそろ「棚卸し」をしておかないと気持ちの負担になる。律儀に最後まで読み、読み終えた以上は何か感想、書評めいたことを書きつける。そんな作業を続けているうち、書物をひもとき文章を味わうという歓びがしだいに失せていった。なんだか書物にせかされているような気がして、気持ちが鬱々としはじめた。本を読み終えたときの晴れ晴れとした感動から遠ざかっていた。そこで年明け以来「つまみ読み」に徹することにした。たとえば丸谷才一さんの『新々百人一首』など、一気読みしてみたところでなんの感銘もない。詩を速読するようなものだ。その場その時の気分と関心と勘にしたがって本を選び、少し読み、また読み返し、心と頭と身体に言葉がじんわりと染み入るようにして読み、忘れてはまた少し読み進める。しばらくはうまくいったが、精神の緊張は続かない。このあたりで一度「在庫整理」をしておかないと本の山におしつぶされる。

★4月13日(水)

 ひさしぶりに『ニューズウィーク日本版』【¥381】を買う。ひところ新聞を読まないかわりに世の中の動き、国際情勢のさわりを仕入れるため毎週買って隅々まで目を通していた。情報が濃いし、文章の質も良かった。副編集長ジェームズ・ワグナー氏の全身写真付きの時事コラムはいつも冴えていて、毎回まっ先に読んだ。ある時期から編集方針が変わったようで、新入社員や30歳代のビジネスパーソン向けの記事や特集が増えて散漫な印象を受けるようになった。誌面の構成にも飽きがきて、しだいに読まなくなった。今週号の特集は「国際情勢入門」。特集に惹かれたわけではなく News of the Week 欄の記事「燃え広がるネオ反日」が読みたかった。印象に残った語彙はインターネット署名運動、祖国へのプライド、もはや外交は中央政府の「聖域」ではなくなった、など。ワグナー氏いわく「(東アジアの人々に)まったく謝らないという手もある…日本は東アジアとの友好関係なしでもやっていけるだろう」。

★4月16日(土)

 棚卸しや在庫整理が遅々として進まないのに、また大部の本を買ってしまった。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』【¥3200】。意識は生物学的進化によって生まれたのではない。それは言語に基づいている。意識は幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二分心」(bicameral mind =直訳すれば「二院制の心」)の精神構造の衰弱とともに、ほぼ三千年前に誕生した。この仮説は、古代ギリシャ哲学が「神の死」(ギリシャ神話は神の殺害のおとぎ話である)の後の精神状況(死んだ神にかわる新しい至高性の希求)から生まれたとする古東哲明の議論とつながる。『現代思想としてのギリシア哲学』と同時進行的に読み始めた大森荘蔵の『知の構築とその呪縛』に出てくる「略画的世界観」から「密画的世界観」への転換の議論とも響きあっている。大森荘蔵に決定的に欠けている(『呪縛』前半を読んだかぎりでの印象)超越的なものとのかかわりで、中沢新一のカイエ・ソバージュ・シリーズにもつながっている。木田元経由のハイデガー哲学(フィシスについて)にも通じている。あわせて星野之宣『神南火──忌部神奈・女の神話シリーズ』【¥1143】と三上のぼる『ファウストの女神1』(嶋本周原作)【¥505】の二冊の漫画を買った。これはその日のうちに読み終えた。『仁義なき戦い 代理戦争』を観て寝た。

★4月17日(日)

 柄谷行人が今村仁司『抗争する人間』の書評を書いている(朝日新聞)。暴力に依拠する制度(共同体や国家)の廃棄可能性を「覚醒倫理」のうちに見いだす今村の議論は仏教の悟達を思わせる。それはジラールが解決不可能な困難を執拗に示すとき、暗黙裏にカトリックという救済装置をもっていたことと似ていて、根本的には保守派の議論である。「著者の今村氏もそうなのか。あるいはそうではないのか。本書では、その辺がまだ不明瞭である。」保守派の議論だとしたらどうなのか。悪いことなのか。柄谷氏の文章では、その辺がまだ不明瞭である。冗談はおいて、この本も買ったきりで一月以上手つかずのままだった。すっかり読んだ気になっていた。本書の姉妹編『交易する人間』は面白かった。ちょっとできすぎていて、読後意図的に熱を冷まさなければならなかった。だから『抗争』も読む時を選ばないといけないと思っている。夜、『仁義なき戦い 頂上作戦』と『仁義なき戦い 完結篇』を観て寝た。

★4月22日(金)

 今週は三冊の雑誌を購入した。「自然エネルギーの宝庫・アフリカ入門」の特集を組んだ『ソトコト』5月号【¥762】とマンガ特集を組んだ『SIGHT』【¥743】、そして開高健の特集を組んだ『サライ』【¥429】。開高健の文章は時々読み返したくなる。「みんな酒を飲むときはそれとしらずに弔辞を読んでいる。」そんな名コピーにあふれたエッセイ集『白いページ』はかつてバイブルみたいなものだった。『夏の闇』は選集で読み、文庫で読み、英訳で読み、何度も繰り返し読んだ。「無色透明のピュアモルトにも準えうるような、まだ溶解と流動の過程にある感受性の原型を、それに相応しい新鮮な言葉によって表現することができないものか、この熾烈な祈りとも交錯する願望が開高健の一代を貫く文学的動機[モチーフ]であった」(谷沢永一)。平成元年12月、58歳で永眠。生きていたら今年で75歳、はかりしれない深みに達した文章を残していたかもしれないし、あるいは開高健は終わっていたかもしれない。

★4月23日(土)

 仕事と官能小説漬けの一日だった。先だって読んだ藍川京の『炎』は源氏物語を下敷きに、序章の「紅の闇」から最終章の「灰色の別離」まで章名に十一の色彩を鏤めた香り高い名品だった。でもこの人の作品はなぜだか続けて読む気になれない。で、またまた睦月影郎の新作を買って、半日仕事にかりだされた貴重な休日の残りの時間を費やして読んだ。読んだのは『禁戯 かがり淫法帖』【¥571】。シリーズ第四弾。この人の嗜好は性に関する禁圧がくっきりと明瞭にさだまっている社会を描いてこそ際立つ。秘帖・秘図シリーズやこの淫法帖シリーズもよかったけれど、個人的な好みとしては「明治官能シリーズ」が新鮮。鹿島茂さんが「週刊プレイボーイ」での対談で「睦月さんは日本のトリュフォーだね」と発言している(鹿島茂対話集『オン・セックス』に収録)。対談を終えて、「偽物の変態が世にのさばる中で、語の最も正しい意味での変態、折り紙つきの変態である。しかも、その変態の強度が、谷崎に匹敵するほどの、他に類を見ないものなので、小説のポルノ度もまた高い」と評している。「語の最も正しい意味での変態」とは?

★4月24日(日)

 鹿島茂さんの『オール・アバウト・セックス』【¥562】が文庫化されていたのを思い出して購入。ドトールで珈琲を啜りながらぱらぱら読んだ。榊まさるのことが書かれた文章が印象に残る。あわせて買った上野修『スピノザの世界──神あるいは自然』【¥720】も少し読む。その後大森荘蔵の「ことだま論」(『物と心』)の前半を読む。129頁と130頁を読んでいて、開高健の文章のことを想った。「われわれは屡々表現を求めて模索する。」「こういうとき、或る「もの」「こと」が立ち現われていて、それを適切な表現で描写する、といった平板な作業ではない。」「われわれは、それを凝視し、見定めよう、見極めようといら立つ。そこに、一つの表現(声振り、またはその想像)が立ち現われてくる。もしそれが的を射た表現であるときは、それまで渋々立ち現われていた「もの」「こと」はきっとその姿相貌を変え鮮やかにくっきりと立ち現われる。」「われわれはその表現を文字に書きとめる。それはやっと立ち現われたその「もの」「こと」を逃がさぬように文字で縛りとめるためである。」「創作(物語りにせよ詩歌にせよ)の場合は、ときに、初めに立ち現われる「もの」「こと」がなく、作者は或る立ち現われを作るのである。前にも述べたように、そうして作られたものは、過去に遡って作られうる。今日、太古の森の何ごとかを作り、立ち現わしめることもできる。」
 家に帰って、藤本義一脚本の『悪名太鼓』を観る。東京篇(『悪名一番』)に続く出張篇で、今度は九州が舞台。当方の体調や気分によるバイアスかもしれないが、B級の面白さが際だった前作とは比較にならない駄作。夜、車谷長吉の『銭金について』と『反時代的毒虫』を眺める。怠惰な休日があっというまに過ぎていった。

★4月29日(金)

 三連休は仕事の関係で自宅待機。どこか行きたいところがあるわけではないけれど、どこにも出かけられないのは苦痛。昼前にちょっと外出して、駅前の本屋で講談社の『本』を入手した。『スピノザの世界』の上野修さんが「スピノザから見える不思議な光景」という文章を書いているので読んでおきたかった。スピノザは「地球に落ちてきた男」を思わせる、とても地球人とは思えない、スピノザは神を非擬人化すると同時に人間を非擬人化した、スピノザの哲学は(「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ、すなわち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無限な思考宇宙の一部分であると、われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然に思考がないとするのは不自然である、云々。スピノザと古東哲学と大森哲学がつながった(岩波文庫から復刊された『スピノザ往復書簡集』を買わねば)。ついでに『自民党と戦後』の星浩さんの文章と藤原帰一さんと大澤真幸さんの連載を読む。その後、古東哲明『他界からのまなざし』の第二章「反転する浄土──世阿弥能の秘密」を読む。装置、機械、技法といった語彙が頻出する古東さんの文体はスピノザの「霊的自動機械」(『知性改善論』)を想わせる。シネマ特集を組んだ『ニューズウィーク日本版』【¥381】の「おすすめDVD20作」から「依頼人」を選んで観る。この映画はたぶん三度目。スーザン・サランドンはもともと好きな女優の一人で、トミー・リー・ジョーンズにも最近好感をもつようになった。夜『半島を出よ』下巻を読み終えた。

★4月30日(土)

 明石の図書館に出かけた。借りていた本をすべて1頁も読まずに返却。これも「棚卸し」の方法のひとつ。ドトールで大森荘蔵『知の構築とその呪縛』を読了。「何かを描写できない言語でそれを解明することは絶対にできない」(210頁)という文章を見つけて、久しぶりに頭が活性化された。鎌倉特集の『サライ』【¥619】とケン月影時代劇傑作選『艶剣 Vol.9』【¥362】を買い「スパイダーマン2」を借りて帰宅。『神狩り2』読了。なんとか今月中に片をつけたかった本を読み散らかして一日が終わる。