不連続な読書日記(2005.2-3)




☆2005.2〜3

★内田樹『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』(海鳥社:2004.10.20)
★内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房:2001.12.15)
★内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書:2005.1.25)

 レヴィナスの著書はまだ読みきったことがない。最小限の「蔵書」をモットーにしている部屋の本箱には、ここ数年来、講談社学術文庫の『実存から実存者へ』(西谷修訳)と『存在の彼方へ』(合田正人訳)、ちくま学芸文庫の『レヴィナス・コレクション』(合田正人編訳)がほとんど手つかずのまま眠っていて、どうしても「整理」することができない。いつの日にか必ずや耽読することになるであろうという確信がある。というのも、これまでに読んだレヴィナス関連本がいずれも劣らず印象的かつ刺激的だったからだ。レヴィナスの名が題名に出てくるものだけを列挙すると、熊野純彦の『レヴィナス入門』と『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』、合田正人の『レヴィナスを読む 〈異常な日常〉の思想』、小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』の四冊で、どれも第一級の力作。これ以外にも、論述の決定的な局面でレヴィナスが援用されていた書物が何冊かある。
 昨年『死と身体──コミュニケーションの磁場』に続いて読んだ内田樹の『他者と死者』は、これまでに読みえたレヴィナス本やレヴィナス関連本のなかでも群を抜いたとびきりの面白さだった。それ以来、折にふれては部分的に読み返し、そのつど世界の様相が一変するような驚愕を覚え、しかしすぐに忘れ、また読み返しては随所にちりばめられた叡智の言葉に感嘆することの繰り返しで(なんといおうか、「中間的なもの」にとどまる強靱な知性の膂力に圧倒されたとでも)、軽々に感想文や書評めいた小文を認めて本箱から「整理」することができなかった。
 もうすっかり内田節に魅了されてしまって、「時間論」と「身体論」が論じられるというライフワーク「レヴィナス三部作」の完結篇を心待ちにしつつ、レヴィナスの「師弟論」「他者論」「エロス論」を考察した前作『レヴィナスと愛の現象学』を眺めては禁断症状の予防につとめていた。そうこうしているうちに、若い人たちを相手に「近所のおじさん、おばさん」が学校でも家庭でも学べない大事なことを教える、というコンセプトで創刊された「ちくまプリマー新書」に内田樹の『先生はえらい』がラインアップされていた(他は、橋本治と玄侑宗久と最相葉月と吉村昭)。さっそく入手して一気読みして、こんなに難解でひねくれて謎に満ちた書物を「若い人」に読ませるのはとんでもないと思った。もったいない。秘伝書の中身をこれほどあけすけに語ってしまっていいのか。(いいんです、そこに慈愛があれば。内田樹ほど「近所のおじさん」にぴったりの慈愛の人はいない。)

★永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書:1996.5.20)
★永井均『マンガは哲学する』(講談社+α文庫:2004.8.20)
★永井均『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー』(双書現代の哲学・岩波書店:2001.6)
★永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書:2004.10.20)
★ジャック・デリダ『声と現象 フッサール現象学における記号の問題への序論』(高橋允昭訳,理想社:1970.12.20)

 訳あって『私・今・そして神』を繰り返し読んでいる。しだいに永井均の思考の息遣いというか生理のようなものに馴染んできて、これは果たして永井の思考なのか私の思考なのか判然としない境地に入ってきた。ここで語られているのはなにか「理論」か「思想」のように見えるかもしれないが(とくに第2章)、それはいわば思考の残滓、思考の死体である。そもそも言葉で書かれた段階で、思考は死体になる。──死体を見て生きた人間のなにがわかるか。養老孟司は言い放つ。「死体は歴然とした身体である。」「死体から身体へ、身体から人間へ、それが私の思考の履歴である。」(『日本人の身体観』)
 おかしなもので、永井均の「思考の死体」に慣れるにつれて、本書と三部作をなす『マンガは哲学する』『転校生とブラック・ジャック』まで見通しがよくなってきた。『転校生』など以前読んだときにはあまり心が動かされなかった。ここに出てくる十三人の永井のうちどれが「本物」の永井の「本心」を体現しているのかが分からず、それで興を殺がれていた。今度読み直すと、このような手法でしか語れない「問題」の奥行きがあったのだということが分かってきた。『マンガは哲学する』も以前はただ読み流していた。それでも十分に面白かったのだが、再読してみてこの本を書いていたときの永井の悦び(ドライブ感)のようなもの、あるいは筆触のようなものが体感できて、もっとずっと愉しめた。
 私的言語とは祈りである。これは何度目かの『私・今・そして神』の通読の途中でふと思いついたことだが、その直後に『〈子ども〉のための哲学』を眺めていて「哲学をすることは、ある点でやはり、祈ることに似ているだろう」(あとがき)という言葉を「再発見」した。その『〈子ども〉のための哲学』の120頁にデリダの名が出てくる。『私・今・そして神』の135頁と152頁と219頁にデリダの名か文章か著書名(『声と現象』)が出てくる。そしてデリダの「〈私〉の宣言には私の死が構造的に必然的である」(邦訳182頁)というテーゼが、「本書以前と以後では、私の哲学は大きく変わった」と『マンガは哲学する』の文庫版あとがきで永井が書いていることの実質にかかわっているのではないかと思い当たった。

★諸星大二郎自選短編集『汝、神になれ鬼になれ』(集英社文庫:2004.11.23)
★諸星大二郎自選短編集『彼方より』(集英社文庫:2004.11.23)

 『マンガは哲学する』を読むと無性にマンガが読みたくなる。前回(4年前)は、星野之宣の『ブルー・ワールド』と藤子・F・不二雄の短編集と坂口尚の『VERSION』(『功殻機動隊』をとりあげた節で言及されている:73頁)を読んだ。諸星大二郎でほんとうに好きな作品、と永井均があとがきに書いている『夢の木の下で』も読みたかったが、近くの書店に見当たらなかった。「私が個人的に最も愛する漫画家」(95頁)という佐々木淳子の作品も、マンガという表現形式の特徴(「絵はいわば神の視点から世界の客観的な事実を描き、文はその中のひとりの人物の視点から内面的な真実を描きだす」(56頁))を生かして「小説などではけっして表現できない世界を見事に描きだしているという点で、芸術表現という点から見ても画期的な傑作とみなされるべきもの」(57頁)と絶賛する萩尾望都の『半神』も見つけられなかった。──新宮一成さんは『夢分析』で「ある種のマンガには、通常の成人が表現できないような太古の感覚の残滓が描き出されることがある」(7頁)と書いている(その例としてあげられたのが森下裕美の『少年アシベ』)。諸星大二郎の短編にはまぎれもなく「太古の感覚の残滓」が色濃く漂っていた。

★グレッグ・イーガン『祈りの海』(山岸真編・訳,ハヤカワ文庫:2000.12.31)
★グレッグ・イーガン『しあわせの理由』(山岸真編訳,ハヤカワ文庫SF:2003.7.31)

 『しあわせの理由』の解説で坂村健が「イーガンの小説をあえてラベル付けするならば「Science Fiction:科学小説」ならぬ「Philosophy Fiction:哲学小説」だろうか。いわば「イーガン哲学」とでもいうようなものがあり、それがすべての作品のベースにある。逆に言えば、まず哲学があって、それを小説の形で書いたのがイーガンの作品ではないか」と書いている。「マンガ」ならぬSF「という形でしか表現できない哲学的問題」(『マンガは哲学する』4頁)があるかどうかが問題で、まず哲学があるのならそれを小説の形で書く必要などない。憎まれ口をきく前に、イーガンの作品にSFという形でしか表現できない哲学的問題があるかどうかを探索してみることだ。

★新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書:1995.11.20)
★新宮一成『無意識の組曲──精神分析的夢幻論』(岩波書店:1997.11.27)
★新宮一成『夢分析』(岩波新書:2000.1.20)

 内田樹さんの『他者と死者』を読んでラカン熱に罹り、永井均さんの『私・今・そして神』の79頁に、ラカン的「鏡像」をめぐって新宮一成さんが「どこかで書いておられたと思う。どこだったか忘れてしまった」と書いてあったので、以前に読んでことのほか感銘を受けた三冊の本(私にとっての新宮三部作)をひっぱりだし再読し、かつての興奮が蘇った。『私・今・そして神』との関係の深さに驚いた。とりわけ『夢分析』など、ほとんど重ね合わせて読むことができる。ウィトゲンシュタイン=永井とフロイト=ラカン=新宮がカントを基軸にして拮抗している?

★川田順造『聲』(ちくま学芸文庫:1988/1998)
★田中優子『江戸の音』(河出書房新社:1988.3.15)
★田中優子『連』(河出書房新社:1991.5.28)
★田中優子『江戸はネットワーク』(平凡社:1993.2)
★網野善彦『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』(平凡社:1978.6.21)
★網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー:1993.6/1986.8)
★鶴見和子『南方熊楠・萃点の思想──未来のパラダイム転換に向けて』(藤原書店:2001.5)
★大岡信『うたげと孤心 大和歌篇』(岩波同時代ライブラリー:1990.8.16/1978)
★松岡心平編『世阿弥を語れば』(岩波書店:2003.12.5)
★松岡心平『宴の身体──バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫:2004.9.16/1991)
★松岡心平『中世芸能を読む』(岩波セミナーブックス:2002.2.25)

 昨年の暮れ、二日にわたって神戸で開催された「場と縁の継承・再生国際会議」(ISSN)[http://issn2004.jp/]を傍聴して、「宴」というキーワードが浮かんだ。かつて心躍らせて読んだ川田本一冊、田中本三冊、網野本二冊、鶴見本一冊を読み返し、大岡本一冊、松岡本三冊を読んで、感想をまとめた。以下はその抜粋。(初読の松岡本にはとても刺激を受けた。いずれあらためて取り上げることにしよう。)
 ──ISSNは、声の力が輻輳する「宴」だった。「最低限二人以上の心的な出合いの形式」(大岡信『うたげと孤心』)と定義される宴は、肩書きや地位といった裃を脱いだ人々が寄り合う「無縁」の共同世界であり、この自由な場に集う人々は「連」と呼ばれるダイナミックなコミュニケーションのネットワークを形成する。初日のキーノートレクチャー2で、桑子敏雄さんが提示したキーワード「出合い・寄り合い・話し合い」は、まさに宴という協働の場の成り立ちと、空間・時間の両面にわたるその稼働原理をいいあてている。
 そこで何より大切なのは、一つの価値や意味のもとに群れるのではなく、開かれた世界へと自在に連なっていくこと、すなわち出合い、寄り合い、話し合うプロセスそのものを愉しむことである。桑子さんのレジュメを参照していいかえるならば、社会的な立場や借り物の理屈に固執する批評・批判型の「つらい合意形成」ではなくて、立場の呪縛から自らを解放し、自由な思考をもって問題そのものの解決へ迫る提案型の「たのしい合意形成」へと態度を変更することだ。
 パネルディスカッション1「空間の継承と再生」では、立花が設えられた象徴的な場の中で、桑子さんを宗匠とする連歌(花の下連歌)が営まれた。それは、弁証法的なダイアローグを通じて言葉の概念や物事の本質を糾明していく(同一性・一貫性の硬い殻をまとった「私」たちによる)シンポジウムとは異なる、日本流の(多層・多様で変幻自在な「私」たちが連なっていく)宴の原形を再現しようとする試みだった。(連衆の皆さんがそんなことを考えていたわけではないだろう。連歌は芸能であって、理屈ではないのだから。)
 松岡心平さんによると、連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は「文芸における「一揆」的場」であった(『宴の身体』)。ここで「一揆」は、武装・戦闘集団のことではない。中世的な新しい人間結合のあり方を示す本来の意味、「人々が、一味神水という神前の儀式により一切の社会的関係(有縁)を断ち、なんらかのシンボルのもとに平等の支配する自律的な無縁の共同体を形成すること」をさして使われている。
 また、連歌は『新古今和歌集』で言語的実験のピークに達した和歌の「本歌取り」から生まれた。松岡さんはそこに「役者的想像力」のはたらきを見てとる。本歌取りを支えるのは、虚構の主体に転位し、その身になってその経験の中で歌を詠むという役者的想像力である。この想像力による「古典変形の連続という和歌の詠作法をより集団的に、よりダイナミックに味わえる場が連歌の場」なのであって、「そこでの大きな位相の変化は、連歌が集団的であるということ」だ(『中世芸能を読む』)。

★森岡正博『感じない男』(ちくま新書:2005.2.10)

 フロイトは幼児の性欲を語って世人の顰蹙をかったというが、森岡正博は男の不感症を語って失笑をかうのだろうか。
 森岡は「男の不感症」と「感じない男」を区別する。前者は、射精が一種の排泄の快感でしかなく、射精後一気に興奮が醒め全身が脱力し暗く空虚な気持ちに襲われるということだ。後者は、自分が不感症であることを素直に受け入れず、どこかにもっとすごい快感があるんじゃないかと思い、快感では女に勝てないと思い、だから女の快感を支配したいと思い、自分の体を汚いと思い、だから自分の体を愛することができず、制服フェチやロリコンに走ったりする男のことだ。
 いや、制服フェチやロリコンに走るのは男一般ではない。「制服フェチとは、少女の体になりたいということだ」とか、「ロリコンの男は、自分がその中へと乗り移るに値する少女の体を求めて」いるといった、「不感症で汚い自分の体からの脱出願望」という仮説で説明できるのは、森岡自身のセクシャリティである。だから、「不感症なのだけれども、やさしくなりたい」という道を探してみるのも、「ひとつの男の生き方ではないだろうか」といわれるとき、それは森岡が進む道であって男一般の道ではない。
《不感症なのだけれども、射精してよかったと心から思えるようになること、射精したあとの墜落感や疎外感を味わいながらも、やさしい気持ちが心に広がり、人間や世界をいつくしみたくなること。私が求めているのは、このようなことだと思う。》
 ここでもまた失笑を浮かべるしかない。だってそれだと「真の快楽」の追求と変わらないじゃないか。森岡がそれとは別の道を歩もうと思うのは、「彼らのように真のオーガズムを追求する方向に行ってしまうと、自分のセクシャリティのねじれや、対人関係のねじれを維持したまま、「性の快楽への欲望」だけが肥大することになりかねないからである」。ここで「真のオーガズム」や「性の快楽への欲望」を「やさしさ」に置きかえれば、それはそのまま森岡の進もうとする道についてもあてはまる。
 「やさしさ」への欲望だけを肥大させないかたちで森岡の道を進んでいくことは可能か。可能であるとすれば、それは禁欲の道なのではないか(あるいは友情の表現としての性愛)。セクシャリティのねじれを矯正しようとすることが、正しい(ねじれていない)セクシャリティという妄想(=もう一つのねじれたセクシャリティ)を生み出すことになる。だとすると、セクシャリティを超えること、いや、そこから不断に抜け出そうとすることでしか「ねじれ」はただせないのではないか。
 こうして、私もまた失笑をかうことになる。失笑をかうことでしかセクシャリティは語れない。なぜなら、セクシャリティとは「自分に染みついた、性についての感じ方や考え方のこと」だからである。セクシャリティ(のねじれ)は語りえない。それは一種の無意識だからである。
 語りえないセクシャリティ(のねじれ)をめぐって、もっと豊かで多様な語り方はないのか。たとえばジョン・ケージが『小鳥たちのために』で語った「キノコの性」のように(一つの種類のキノコに八十の雄と百八十の雌のタイプがあって、ある組み合わせでは繁殖できるが他の組み合わせではできない…)。あるいは、本書の最後に記された「他人を欲望の単なる踏み台にしないような多様なセックスのあり方」という森岡の(もう一つの)性幻想を直接に語ること。

★ルドルフ・ジュリアーニ『リーダーシップ』(楡井浩一訳,講談社:2003.4.25)
★神戸新聞但馬総局編『城崎物語 改訂版』(神戸新聞総合出版センター:2005.2.25)

 昨年、台風23号で被害を被った豊岡市で講演会があった。2月下旬のことだった。講師は、「未来をひらく日本委員会」[http://www.nihoniinkai.com/]の主催者、元NHK専務理事の尾畑さん。ひょんなことで知り合いになり、時々会ったり、メールのやりとりをしている。月に一度の日本委員会にも時折参加させていただいて、旬のジャーナリストや時の人の話を直に聞いている。(河合文化庁長官も講師の一人で、その時のことは2004年5月の『ココロの止まり木』のところで書いた。)
 尾畑さんは、ブッシュ大統領の就任祝賀式に招かれた。帰国したばかりで体調がすぐれず、豊岡の講演の後で寝込まれたらしい。それでも話は(別の意味で)熱っぽかった。講演の話題にも出てきたのだが、尾畑さんは帰国後ジュリアーニさんに会って、とても感銘を受けたという。その話を先に聞いていたので、豊岡へ向かう車中で『リーダーシップ』を読んだ。『城崎物語』の方は、その夜、城崎温泉で催された尾畑さんを囲む懇親会で、町長さんからいただいた。城崎には二泊して、外湯を中心に朝夜計八回も温泉につかった。湯あたりが一週間は続いた。体調がもどってから『城崎物語』を読んだ。

★河合隼雄・養老孟司・筒井康隆『笑いの力』(岩波書店:2005.3.16)
★河合隼雄『大人の友情』(朝日新聞社:2005.2.28)
★河合隼雄『深層意識への道』(グーテンベルクの森,岩波書店:2004.11.25)
★河合隼雄『父親の力 母親の力──「イエ」を出て「家」に帰る』(講談社+α新書:2004.11.20)
★河合隼雄『いのちの対話』(潮出版社:2002.7.5)
★河合隼雄・谷川浩司『無為の力──マイナスがプラスに変わる考え方』(PHP研究所:2004.11.24)

 河合隼雄さんを尼崎市に招いて講演会をやることになった。私が事務方の責任者のような立場なのだが、実際の仕事はほとんど部下に任せっきり。仕事にかこつけて河合さんの最近の本を何冊か購入し、仕事を装って読んだ。(藤原書房から、カトリック教会大司教のヨゼフ・ピタウさんとの対談『聖地アッシジの対話──聖フランチェスコと明恵上人』が出ているようだが、これは購入漏れ。)
 河合さんの文章はうっかり読み飛ばすと何も残らない。じっくり読んでも(たぶん)何も残らない。エッセイよりは対談、対談よりは講演録、講演録よりは実際の講演の方がはるかに面白い。何も残らないのは同じだけれど、残らなさの質が違う。白州正子さんとの対談に「魂には形がある」というのがある。(対談集『こころの声を聴く』に掲載されているし、最近、新潮文庫から出た白州正子の『おとこ友達との会話』にも収録されている。「魂には形がある」は青山二郎のオリジナル。)魂の形のひとつの実例が河合隼雄さんご自身で、だから生身・肉声に接すること自体がひとつの経験になる。蒸留された魂の形をかいま見たことが大切なのであって、何も残らないのは最上質の酒の特典。
 『笑いの力』は、以前に読んだ『声の力』(阪田寛夫・谷川俊太郎・池田直樹との共著)や『絵本の力』(松居直・柳田邦男)と同様、小樽の「絵本・児童文学研究センター」が主催して行われたシンポジウムの記録。気楽に読み始めたらやめられなくなった。養老さんの一神教の話がめっぽう面白くて、このことは河合さんも発言している。
 『大人の友情』は論座連載中から気になっていた。というのも、以前から「友情」というものに関心があったからで、それはたぶんフランチェスコ・アルベローニの『友情論』を読んで以来のこと。(もっと以前には、有島武郎の友情、永井荷風の非情、だれだか忘れた文士の無情といった組み合わせで、日本近代文学を一刀両断にすることを目論んでいた。)近年では白州正子の『いまなぜ青山二郎なのか』を読んで、そこに出てきた小林秀雄と青山二郎の「高級な友情」とか、むうちゃん(坂本睦子)やお佐規さん(長谷川泰子)をめぐる男たちの関係が強烈だったからで、これらの話題は本書でもとりあげられている。
 「友人の死」に出てくる「友情の背後には魂がある」という言葉がすべてを語っている。「死んだ友人たちが、自分を見ている、あるいは、見てくれている、と考えることは、生きてゆく上で大切なことと思う。」ホモエロス(同性・愛)とホモセクシャル(同・性愛)の違いも面白かった。(本書を読み終えて、丸谷才一の『挨拶はたいへんだ』を無性に読みたくなった。)
 そのほか、たまたま仕事場にあった『深層意識への道』や『父親の力 母親の力──「イエ」を出て「家」に帰る』や『無為の力──マイナスがプラスに変わる考え方』(谷川浩司との対談)や『いのちの対話』などにも目を通した。これらについては、また別の機会に。

★阿部和重「グランド・フィナーレ」(『文藝春秋』2005年3月号)

 文藝春秋誌に掲載された芥川賞受賞作は、これまで辻仁成の「海峡の光」(第116回・平成8年度)と平野啓一郎の「日蝕」(第120回・平成10年度)を読んだことがあったが、いずれも途中で挫折した。作品が私にあわなかったのか、それとも雑誌掲載のかたちがあわなかったのか。たぶんその両方がたまたま合致していたのだと思う。「グランド・フィナーレ」も最後まで読み切れないのではないかと思っていた。その予感はほぼ的中した。なんとか読了できたのは分量がさほどでなかったことと、読み進めていくうち先に読んでおいた村上龍の選評が実に的確であることが分かってきて(それなのになぜ推したのか納得がいかない)、そのことを最後まで読んで確認しておきたかったことと、幕切れに「問題」ありとウワサをきいていたからだ。読み終えて、この作品は私にあわない、というか手に負えないと思った。雑誌掲載のかたちで読むと、なぜか作品のキモがつかめないような気がする。単行本で読みなおすほどの衝撃とか感銘とかこだわりを感じなかったので、斎藤環さんの解説がついた新潮文庫の『ニッポニアニッポン』を読んでみることにした。阿部和重という書き手をこの程度の作品で「見切る」のは惜しいように思ったからだ。

★川上弘美『ゆっくりさよならをとなえる』(新潮文庫:2004.12.1/2001)

 川上弘美さんは短い期間、明石に住んでいたことがある。「明石」と「明石ふたたび」という2000年の3月(朝日新聞)と7月(「本」)に発表された二つの短い文章を読むと、川上さんが明石に住んでいたのは「神様」でデビューする数年前、昭和が平成に変わったほんの少し後だったことがわかる。「海に近い土地である。空気が、明るい。人も、明るい。」「いくばくかの時間その土地に住めば、人は知らず知らずと土地の空気に染まる。その土地が明るい空気を持っていたなら、人は自然に明るいほうへと寄っていくのではないか。」私はもうかれこれ二十年近く隣町の垂水というところに住んでいるから、川上さんと同じ「明るい」空気をすっていたことになる。「明石に住んだ短い期間、私の血は澄んでいたように思う。胸はいつも新しい空気に満たされていたように思う。」この一文だけで『ゆっくりさよならをとなえる』は私にとって特別な本になった。どこから読み始めても、どこで読み終えても、「しょうがパン」のような忘れがたい味わいが残る(「しょうがパンのこと」)。「生きる歓び」がしんじつ実感できる(「爪切りも蠅も」)。でも「しょうがパン」て、いったいどんな味なんだろう。

★松本清張『黒い画集』(新潮文庫:1971.10.30)

 もうかれこれ3年前のことになるが、博多と門司に一泊ずつしたことがある。その時、小倉の松本清張記念館をのぞいた。小倉には時間調整のため立ち寄り、記念館のことも小倉城を見物した際、偶然に見つけた。(ぜひ見たいと思っていたわけではない。そもそも文学館があまり好きではなかった。)『黒い画集』はその時「記念」に買った。3年かけて一篇ずつ惜しみながら読んだ。松本清張は学生の頃、長編小説を読みあさったことがある。はじめて読んだ短編には、懐かしい味わいがあった。小説を読む愉しさの原点のような味わいがあった。

★福井晴敏『川の深さは』(講談社文庫:2003.8.15)
★福井晴敏『Twelve Y.O.』(講談社文庫:2001.6.15)

 姉妹作という言葉はこの二つの作品のためにある。「福井神話」とでもいうべき人物群の構図が骨太に伝承されている。強いて選ぶなら『川の深さは』の方が好み。その続編(といってもいいのだろう)のタイトルは、GHQ最高司令官の職を解任されたマッカーサーが帰国後、上院軍事外交合同委員会で「アングロサクソンが科学・芸術・神学・文化の発展において45歳だとすれば、ジャパニーズは12歳の少年だ」云々と語ったことに由来する。

★神崎京介『化粧の素顔』(新潮文庫:2005.3.1)
★睦月影郎『迷彩フェロモン』(双葉文庫:2005.3.20)

 神崎京介は官能小説から官能文学に迫ろうとしている。というのは冗談で、男の身勝手さが臆面もなく描かれていて、いっそ気持ちがよい。性愛のクライマックスで白々と冷めていく(萎えていく)叙述が秀逸。反官能小説といおうか、反射精小説といおうか。この路線をつきつめると面白いかもしれない。睦月影郎はあいかわらず達者。オレは女体になりたい。この性幻想に徹して動じないところが素晴らしい。反復がマンネリにならないのが素晴らしい。