不連続な読書日記(2004.12-2005.1)




☆2004.12〜2005.1

★中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書:2004.11.22)

 本書は網野歴史学の骨格をなす三つの著作(『蒙古襲来』『無縁・公界・楽』『異形の王権』)にそくした三つの文章からなる。網野史観の根底をなす「民衆」の概念(近代の底を抜いたところに生まれてくる大地的概念)の生成を描いた第一章。南島の秘密結社が伝承する仮面の神の儀礼を生み出してきた野生の思考と、所有者から無縁となった商品たちの市場への集合を促す貨幣経済の土台をなす思考とがひとつに結びつく領域に立地した新しい歴史学の誕生を描く第二章。列島人民の形成してきた Country's Being(国体)の土壌に根ざした「非農業」的精神の深度を正確に測定する網野歴史学の「深層のリアル」(自然哲学)をあますところなく描く第三章。そのそれぞれの決定的場面において(中沢宗教人類学の誕生にもつながる)比類なく幸福なコラボレーションがはたらいている。
 この長大な追悼文を著者は「死者たち」とともに書いたという。古代からの「オルフェウスの技術」をもって死者を現在の時間の中に生き生きと呼び戻すこと。現実世界をつくりあげる運命に抗ってそれとは別の世界を切り開いていこうとする自由な意志(「揺るがない魂」)の活動を語ること。それこそ歴史の「語り部」にしかなしえないわざである。著者が「最上の文章」と自讃する本書は網野善彦という希有な歴史家に捧げられた感動的なオマージュであり、それ自体ひとつの高品質の歴史書である。

★八木雄二『「ただ一人」生きる思想──ヨーロッパ思想の源流から』(ちくま書房:2004.11.10)

 事実として「ただ一人」生きることなど世にありふれている。しかし「ただ一人」生きることを支える思想となると話の次元が違ってくる。明治以後の日本のような集団的統制のきつい社会で孤立を恐れずに生きるためには「その孤立の意義を基礎付けてくれる思想、つまり個人主義が必要になる」からだ。十九世紀に論じられた個人主義は「個人のために社会がある」という観念に代表されるものだが、しかし現実の社会で自己実現できる個人はかぎられている。社会の仕組みにむりやり自分を合わせて生きている人間にとって個人主義は「他人の思想」でしかない。本書で論じられる「個の思想」は「社会との不適合を前提として、それでも自己個人に生きる価値を見いだす思想」である。著者によるとこのような意味での個人主義はキリスト教の伝統に、とりわけ中世スコラ哲学に由来する。
 キリスト教はある一つの事実がもたらした福音と二つの背理をめぐる弁明(神学)をもって成立する。一つの事実とはイエス・キリストという一個の人間の出現とその死である。この事実が告げるメッセージは「個人は集団に埋没してしまう取るに足りないものではなく、神に通じる入り口であり、世界を超える意味をもつ」というものであった。二つの背理とはイエス・キリストが人間であると同時に神であること、そして一つの神が三つのペルソナ(顔)をもつことである。この第二のアポリアをめぐって、とりわけペルソナという語をめぐる神学的議論を通して、人間イエスが教え聖フランシスコが実践した隣人愛(顔が見えるものへの愛)の思想に発する「個の思想」が考察されたのである。
 哲学は普遍的なものを追求する。科学は種を普遍的に説明する。いずれも質料形相論という普遍的原理による説明でしかない。これに対して神学は個や個物を対象とする。「なぜなら、個々のものは…神が創造する対象だからである」。ドゥンス・スコトゥスが導入した「個別化原理」こそ、霊魂の個人性を含めた「かけがえのない個」を説明する神学の原理であった。しかしこの原理をもってしても人間がもつ「精神的個の自律性」(ペルソナ性)を説明することはできない。スコトゥスによれば、神の本性をもつ子のペルソナ(キリスト)の十字架上の死にならい、孤絶のうちに思惟の自由を貫徹することを通して人間の個はペルソナとなる。この「自律する能力をもつ個人の精神性」にとって、己を律する規準は自己の思惟にしかない。信仰の否定によるペルソナでさえそこでは許容されるのである。「それゆえ、スコトゥスのペルソナ論は、神なしの自律という、近代個人主義の根拠ともなった」。
 質料と形相、個別化原理、そしてペルソナ。この第四のものに根ざしたスコトゥスの思想──「信仰を持とうと持つまいと、世界や社会に相対してぎりぎりのところで一人で居ることは、知性をもった人間が引き受けなければならない真実だ、という思想」──は異様かつ特殊なものであった。日本にはこのような「個の思想」はない。《かつてラオスの人たちを見たフランス人は、かれらを「稲が育つ音を聴く人々」と呼んだという。日本人も、かつては稲穂をゆらす風に神の足音を聞いていた。だからこそ日本人にとって、沈黙のなかでの「思いやり」は捨てるに捨てきれない基本道徳なのである。/ところが、論争を通して思想的実力を養ってきたヨーロッパ文明が世界を席巻している。もはや沈黙で済ますことはできない。今や、言葉が必要である。しかもスローガンではなく、個の思想を精神のなかに彫塑できる思想が必要になっている。》

★永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書:2004.10.20)

 この本の論述の趣向はとても分かりやすい。それは(意図されたものかどうかは別として)形式美にかなっている。本書は初心者向けの第1章と玄人筋を想定した第3章、それらにはさまれて中心をなす第2章からなる。そして、それぞれの章うちに相互に関連する三組みの道具立てが設えられている。
 第1章に出てくるの「神の三つの位階」である。土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神。世界に人間には識別できないが理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神。世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱するより高階の神、すなわち開闢の神。
 第2章には、神の位階に対応するかたちで三つの原理が出てくる。弱いライプニッツ原理とカント原理と強いライプニッツ原理(デカルト原理)。ここでライプニッツ原理とは「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」、カント原理とは「起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる」というもの。弱いライプニッツ原理は、カント原理の内部でカント的に可能なものの中からの選択(そのうち一つの現実化)としてはたらくもので、強いライプニッツ原理は、カント的な可能性の空間をはじめてつくりだすものをいう。
 最後に、第3章に出てくる私的言語の三段階。それが神の三つの位階や私と今と現実に関する三つの原理に対応しているだろうことは見やすい。でも、ここではそのことには触れない。というか、その対応関係が私にはまだよく見えていない。
 永井氏がこれらの道具立てを駆使して取り組んでいるのは、「独在性の〈私〉」(現に今在る端的な〈私〉)をめぐるメタフィジックスそのものではない(それもあることはある)。自己利益の主体(人)である『私』をめぐる倫理学でも、生物(ヒト)としての"私"をめぐる人間学でもない。
 私たちの世界の共同プレーヤーたる「単独性の《私》」(概念的に把握された〈私〉)をめぐる論理学──「独在性の〈私〉」の語り方、そしてその語りのなかに見え隠れする「独在性の〈他者〉」とでも呼ぶべき存在者の語り方の問題。もしくは「開闢の〈私〉」と開闢された世界のうちに持続的に位置づけられる「かけがえのない《私》」との関係をめぐる「神学」の問題──である。そういうことだったらよく分かる。でもそれが分かったからといって何がわかったことになるのかが分からない。
 あるいは『私・今・そして神』は、「存在」(現実存在=実存)と「概念」(本質)との断絶をめぐって、そしてそこに言語がどう関与するかをめぐって、言語によってなされた思考の記録である。たとえばそんなふうに要約してもいい。でもそれだとちっとも面白くないし、そんなことを「お勉強」するためだったら永井均の著書を読む意味がない。
 で、いま『私・今・そして神』の三度目の通読に入っている。それは、本書と三部作をなす『マンガは哲学する』や『転校生とブラック・ジャック』までひっぱりだしての大がかりな(?)作業になりかけているのだが、その顛末はここでは触れない。というか、私にはいまだにこの書で永井氏が何を議論しているのか言葉にできない。
 何度読んでも十分に読み込んだ気がしない。本書の平易で丁寧で率直な語り口は、これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださなければならないほどに分かりやすい。それなのに、肝心なところでいまひとつ分かった気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分からなくなる。それが、そういう経験を「思い出す」ことが、永井均の本を読むということの意味だと思う。

★小島寛之『文系のための数学教室』(講談社現代新書:2004.11.20)

 If you move, you shall die. と Don't move, or you shall die. は違う。前者は日本人の英語で、後者はネイティブの表現。数理論理の「ならば」(「AばらばB」の文は、Aが偽のとき常に真)と日常論理の「ならば」(A→原因、B→結果)は異なる。この違いがもたらす違和感は、セマンティックな立場(文を真偽だけから見る立場)から論理を扱うことから生まれるのであって、だからこそシンタックス(文の真偽と無関係な推論としての手続)から論理を理解することが肝要である(第1章「日常の論理と数学の論理」)。
 スピノザの方法(『エチカ』の幾何学的証明)は、シンタックスとしては全くもって正しい。しかしスピノザによる神の証明は、森嶋通夫が言ったように、アローらによる一般均衡定理の証明と形式的には全く合同である。「神の存在さえ証明できるのだから、存在することが証明された均衡解にどれだけの意味があろうか」(『思想としての近代経済学』)。網野善彦によると、お金や金融と神や汚れとは深い関係にあった。神の数学から金融の数学への展開は、数学の世俗化の歴史を描いているのである(第4章「神の数学から世俗の数学へ」)。
 数学はどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。数学がある、ということが神秘的なのである。ハイデガーは「言葉こそ存在の住居である」と言った。人間は、存在すると同時にその存在を言葉によって体現する。そして数学もまた言葉であり、学校で教わる前から私の中に実在しているインネイトなものである。《ですから、筆者にとっての数学は、「能力テスター」でも「コンビニエントなテクノロジー」でもなく、ましてや「神との対話の道具」でもありません。自分という尊い〈存在〉の証し、「私がここにこうしている証し」、そういうものだと感じるのです。》(終章「数学は〈私〉の中にある」)
 ──違和感を覚えた箇所(たとえばスピノザに対する評価とか、「文系こそ数学の本籍地だったのではなかったか」とか)はあったけれど、本書を読んで、「〈私〉の中に数学がある」という著者の驚きを私もまた共有できた(と根っからの文系人間である私は思った)。

★辻信一『スロー・イズ・ビューティフル──遅さとしての文化』(平凡社ライブラリー:2004.6.9)

 辻信一さんがやがて世におくることになる『スロー・イズ・ビューティフル』という本の種が蒔かれたのは、一九八○年、モントリオールのマッギル大学に在学中の著者が、客員教授をしていた鶴見俊輔さんから「ふろふきの食べかた」という詩のコピーを贈られた時のことだった。この作品は、長田弘さんが当時『婦人の友』に連載していたものの一つだった。「こころさむい時代だからなあ。/自分の手で、自分の/一日をふろふきにして/熱く香ばしくして食べたいんだ。/熱い器でゆず味噌でふうふういって。」
 この詩を読んで、辻信一さんは、「いつのまにか失っていて、それと気づかずにいた、ある感情」を思い出した。その感情とは、子どもの時の著者をつつんでいたはずの「今はまだない未来の自分ではなく、今の自分の、今この時を抱きしめることの歓び」で、それは書名の「ビューティフル」につながっている。「このビューティフルということばを、ぼくは次のような態度だと定義したいのです。そのもの本来のあり方を、遠慮がちにではなく、といってことさら誇るのでもなく、他を否定するのでもなく、他との優劣を競うこともなく、ありのままに認め、受け入れ、抱擁すること。」
 この書物は、ゆっくりと読まなければならない。気温の変化に合わせて森は一年間に五百メートルまで移動できるが、温暖化で三十年間に気温が摂氏一度から二度上昇すると、樹木たちは一年に五キロもの移動を要求されるという。「前に進むしかないという「進化主義」はひとつの宗教的狂信といっていい。このせいで、毎年少なくとも二万五千もの種が絶滅している。絶滅種が生態系に開けた穴を埋めるためにかかる生物進化の時間は少なくとも五百万年だそうだ。この気の遠くなるような遅さこそが進化の本質だともいえる。ぼくたちは人間の歴史を語るのに「進化」などということばを使うことを慎むべきだ。」
 そのような生物時間、生物進化の時間、地質学的時間に寄り添いながら、寄り添うことは無理でも、思いをはせながら、ゆっくりと読まなければならない。スローネス、つまり遅さ、慎み、節度をもって、そして過去への畏れと未来へのノスタルジーをもって、ゆっくりと読まなければならない。「ここで重要なことは、多くの伝統社会がかつて、その大きさや速さや力の限度をわきまえていて、それはまるでそこに自然界と同様の均衡、調節、浄化の力が働いているかのようだった、ということ。ぼくは思うのだが、本来、文化とは社会の中にそうした「節度」を組み込むメカニズムなのではないか。」

★丸谷才一『輝く日の宮』(講談社:2003.6.10)

 一年半遅れで読んだ。このタイム・ラグがちょうど頃合いの熟成期間となった。熟したのはもちろんこの作品に対する読み手(私)の思いの方なのだが、作品そのものも一晩寝かした饂飩かなにかのように微妙だがくっきりとした旨味を醸しだしていた。読み始めたらやめられない。どうしてこれほど面白いのかよくわからない。ヒロインの日本文学研究者・杉安佐子や安佐子がつきあっている長良豊(水のアクア社長)のキャラクターが魅力的だからか。作者がしかける文学談義の数々(御霊信仰とかアジール論とか泉鏡花などをめぐる)や仮説の数々(「芭蕉はなぜ東北へ行ったのか」とか「春水=秋声的時間」論とか『源氏物語』の「輝く日の宮」の帖はなぜ散逸したのかとか)が鮮やかだからか。はたまた逆さまの枠入り形式のように冒頭末尾に添えられた作中作や変幻自在の文体の見本帳のような趣向ゆえか。もちろん小説の愉しみはその小説を読む時間のうちにしかない(保坂和志)のだから、読み終え閉じた書物を前に後知恵めいた思考をしぼって何かでてくるはずはない。ただこの作品の醍醐味がその文章の「割れ方」にあっただろうとはおぼろげに気づいている。それはまさに藝と呼ぶしかない。(表現が「割れる」とは内田樹さんの言葉。『死と身体』の一○九頁に出てくる例でいうと、一流のピアニストが指一本でポンと弾く音と素人が同じように弾く音では「音の厚み」が違う。プロのピアニストはキーに触れてからキーが止まるまでの指の動きをたとえば一○に割ってその一つひとつの動作単位に緩急濃淡をつけることができる。「ぼくたちが人の身体表現を見て、『厚みがある、深みがある、美的な感動を受ける』というときには、たいていはその動きの『割れ方』が緻密だからなのです」。丸谷才一のプロの業が紡ぎ出す文章は内田がいう意味で割れている。)

★漆原友紀『蟲師』1〜5(講談社:2000.11.22〜2004.10.22)

 繰り返し見ていたはずなのにすっかり忘れてしまい、忘れていたことさえとうに忘れていた夢の体感が蘇ったかのような懐かしさ。時代設定について、第1巻のあとがきに「鎖国し続けている日本」とか「江戸と明治の間にもうひと時代ある感じ」というイメージだろうかと書かれている。この作品がもたらした懐かしい体感は「世界と直接結びついたままの幼児」とか「子どもと大人の間にもうひとつの生がある感じ」と形容できるだろうか。
 「蟲」あるいは「みどりもの」。生命の原生体[そのもの]に近いもの達。「およそ遠しと されしもの 下等で奇怪 見慣れた動植物とは まるで違うと おぼしきモノ達 それら異形の一群を ヒトは古くから 畏れを含み いつしか 総じて「蟲」と呼んだ」。
 ここに南方熊楠が「原形体」と呼んだ、流動体としての粘菌のイメージを重ねることはたやすい。なぜ粘菌などに興味をもったのかと尋ねられた熊楠は、動物状の流動体(活物)と茸状の固形物(死物)との間で変身を繰り返す粘菌の生態が「輪廻」そのものを現しているからだと答えた。これは白洲正子の文章で知ったことだが、この文章(「粘菌について」)を収めた書物のタイトルが『両性具有の美』。まさしく「蟲」とは、老若男女、貴賤生死の中間、境界上にあるものなのである。あるいはそれらをつなぐコミュニケーションの媒介。
 松岡正剛氏は「蠱術と姫君」(『分母の消息(三)──景色と景気』)で、「古代においては、「ここ」と「むこう」の景色をつなげるにあたっては、ひょっとしたら鳥や虫たちによるコミュニケーション・ルートを活用する方法があったようにおもえてきた」と書いている。そして「蠱」をあやつる者について次のように書いている。
《きっと昆虫の行動や変態、あるいは猛毒や啓蟄に異常な関心をもった者がいて、かれらが虫にまつわる神異の力に気がついたのが蠱道蠱術の最初であったろう。ファーブル先生くらいなら、古代中国にはいくらでも出現できたはずである。それがいわゆる「虫遣い」と呼ばれた者だった。あるいは道士や方士などのタオイストが蠱をつかっていたとおもわれるのだが、はっきりしたことはわからない。》
 『蟲師』はこうした生死、雌雄分岐以前の生命の根源的な記憶と彼此両界にわたるコミュニケーション・ルートにアクセスしつつ、あまつさえエンターテインメントしての結構を備えた稀にみる傑作。
 ──この作品を「解読」するうえで、新宮一成氏の『夢分析』はとても参考になる。
 新宮氏はそこで、「虫にたかられる」類型夢(フロイトいわく「幼年期に形成された、人生の重要な部分──性、生、死──についての一つの古語、それが類型夢である」)をめぐって次のように書いている。──幼児は「人間はどこから来るのか、どのようにして作るのか」という問いに自ら体験的に答えようとする。
《幼児による人間の自然発生説は、培地に微生物が湧くように、母の体から虫が湧き、母の体が虫に覆われるという感覚と結びつくことが推察される。(略)成人の「虫にたかられる夢」が妊娠の観念に対応しているというはっきりした事実は、このように幼児のたてた生命起源理論を我々が記憶のどこかに保存していることから来ているのである。》
 これは余談だが、『蟲師』を読み終えて、村上春樹の「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』)で、「かえるくん」の身体にできた瘤がはじけた後の穴からうじゃうじゃと這い出てきた「様々な種類の暗黒の虫」たちのことを思い出した。

★新堂冬樹『銀行籠城』(幻冬舎:2004.3.10)

 2時間ほどかけてわりと丁寧に一気読みした。ちょうど映画一本観た感じ。結末には心底説得されないが、物語の収束としては十分納得できる。感動の予感が微かによぎる。犯人の人間像を掘り下げ、人質たちと警察幹部の人間模様をもっと描写すれば、よりコクのある忘れ難い作品になったろう。アル・パチーノあたりが刑事(鷲尾)役で主演する映画で観てみたいと思った。

★マルト・ブロー『黒衣の下の欲望』(長島良三他訳,河出書房新社:2004.5.30)

 訳者があとがきに掲げる二十世紀エロティック小説の名編(マンディアルグの『城の中のイギリス人』、バタイユの『眼球譚』、ジャン・ド・ベールの『イマージュ』、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』など)はあらかた読んだし、十九世紀のポルノ小説(ミュッセの『ガミアニ』とアポリネールの『一万一千本の鞭』)も読んでいる。──覚えておきたい言葉。「セックスは、前戯、挿入、快楽という三つの言葉に集約されてしまうものではない。頭脳が必要なのだ。それに心があれば上出来で、できればエスプリもきかせ、神秘性が加わればさらに結構。つまり相手がだれなのか見ることができないほうがよく、不意をつかれるほうがよく、追いかける対象が未知であるのがよいのだ。」(210頁)

★睦月影郎『はだいろ秘図』(祥伝社文庫:2004.10.20)

 おんな秘帖、みだら秘帖、やわはだ秘帖と続いた秘帖篇が終わり、書下ろし時代官能シリーズも新たな趣向(飼われる男)のもとで第二部に突入。贔屓にしていたくノ一の楓が亡くなったのは残念だけれど、徳間文庫の書下し明治官能シリーズ(「文明開化エロス」)ともども、睦月影郎の筆は相変わらず脂と淫気がのっている。