不連続な読書日記(2004.10-11)




☆2004.10−11

★實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学──心を囲い込む近代』(講談社選書メチエ:2004.10.10)

 實川氏によると、知覚を環境との関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組みのなかにある考えであって、百年ほど前のベルクソンによっても語られ、その後メルロ=ポンティが洗練された形で示した。この指摘は、次の文章につけられた註のなかに出てくる。《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは「可能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出して、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい言葉づかいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》
 内田樹氏は『死と身体』で、甲野善紀氏の「人間の身体は、一瞬手と手が触れただけで、相手の体軸、重心、足の位置、運動の力、速さがわかる」という言葉と、「人間は指と指がふれた瞬間に無限の情報が伝授される」というヴァレリーの身体論を紹介している。《一九世紀から二○世紀の初めぐらいには、運動性の記憶とか、運動性の知覚と伝達とかは、ヨーロッパではまっとうな学問として存在していた。それがなぜか一九二○年代にあらかた消えてしまう。「記憶を司るのは頭ではなく身体である。記憶は運動的なものである」というベルクソンやヴァレリーの考え方が一掃され、もう誰も相手にしなくなるのです。(略)プルーストの『失われた時を求めて』では、つまずいてよろけた瞬間にありありとむかしのことを思い出すという有名なくだりがありますね。一九世紀までは、ある構えをすると身体記憶、過去の体感が、場合によっては自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくるというのは「常識」だったんです。それが九○年ほど前に、常識から登録抹消された。》
 この文章の最後に出てくる「自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくる」には強調符がついていて、これを目にしたとき、私は『思想史のなかの臨床心理学』でのある議論(第一次意識革命をめぐるもの)を想起した。──實川氏は「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀まで一体だった」という。ところが近代になって、臨床心理学による古代以来の「物質的な無意識」や「無意識の理性」(神の理性)に替わる新しい無意識の「発明」に先だち、物質と精神の二面をもつ中性的で根源的な(自然科学を基礎づける究極の事実としての)新しい意識が「発明」された。ユダヤ=キリスト教的な「神の理性」の後継者としての意識が登場し(意識革命)、世界は「神の国」から「意識の国」へと変換された。
《ここで、ひとつ注意しておきたいことがある。「意識革命」が起こり、「意識の国」が築かれたとは言っても、この時代にはまだ、意識は公共のものだったという点である。すなわち、意識は個々人の内側に閉じ込められてはおらず、もちろん感覚も含めて、みなが共有できるものだった。(略)意識が、観察できない個々人の秘められた主観性だと一般に考えられるようになるのは、二○世紀になってからである。》

★内田樹『死と身体──コミュニケーションの磁場』(医学書院:2004.10.1)

 森岡正博の『無痛文明論』は西欧思想の最深部において「形而上学的な内戦」(あるいは自爆テロ)をしかけようとする異様・異例な書物だった。あれから一年。内田樹は本書で、レヴィナスの哲学と武道とフロイトの精神分析が交差する場──「自分自身が経験していない他者の体感」をよみがえらせる身体(運動性記憶を司る身体的知性)、「死んだ後の自分」という前未来形の消失点から「今」を回想する身体(時間感覚の錬磨に裏打ちされた身体的想像力)、言語活動を起動させる「磁場」、根源的なコミュニケーション(死者とのコミュニケーション)がたちあがる生と死の「中間[medium]」、等々──を活写し、死の恐怖に青ざめた形而上学的テロリストを撃つ。
 内田樹は徹底的な(旧石器時代まで射程に入れた)プラグマティストとしてふるまう。「人間は自ら善を創造するまで、善が何であるかを知らない」。「倫理というのは、むしろ計量的な問題だろうとわたしは思います」。「わたしはぴたりとつじつまが合った社会理論より、あちこちに矛盾やほころびのある社会理論のほうを信用することにしています。そういう矛盾は「現場」からしか出てこないことばですから」。「理論の有効期限、賞味期限、地域限定、期間限定についての節度の感覚をもちましょう」。「「死者」という概念を得たことで、人間は「解決できないこと」を考えるという習慣を身につけることになり、それがそれ以降の爆発的な脳の進化に関与していたことは間違いありません」。
 プラグマティスト・内田が称揚する闘いは、残響する死者のメッセージを不法に代弁しようとする者に対する「霊的反撃」である。──フッサール現象学は「幽霊学」であり、ハイデガーの存在論はガイスト(祖霊)にこだわる「死者論」(鎮魂論)であった。だが、ハイデガーが体現したキリスト教的西洋二千年の鎮魂葬送のノウハウでは、第一次世界大戦1300万人の死者たちの「祟り」(英霊の無念)を鎮めることができなかった。
《ハイデガーは、ナポレオン戦争の戦後と同じく、死者たちを「大地の霊」にすることで鎮めようとして、結果的にナチズムと親和してしまう。存在論は葬礼ための語法としては破産してしまうわけです。/だから、ラカンやレヴィナスのように第二次世界大戦後の思想的な活動を始めた人たちは、ハイデガーに代表される「ヨーロッパ的な主体」による葬礼を否定していくことになります。「あなたたちにはもう喪主は任せられない。これから後の葬儀は、わたしたちが仕切る」ということです。/結論からいえば、何十万人の死者を正しく鎮魂して二度と災厄を出さないようにするためにかれらが選んだのは、人間が人間になった起源の瞬間にもう一度立ち戻ることでした。つまり、人が人を弔うときの基本的なマナーをもう一回蘇らせる。それは、「死者は死んでいるけれども、死んでいない」「死者は自分たちに語りかけている、けれども、そのことばは聞き取れない」という、旧石器時代に埋葬が最初に始まったときの始原の機能を思い出すことでした。》

★W.ジェイムズ『プラグマティズム』(桝田啓三郎訳,岩波文庫:1957.5.25)

 プラグマティズムの眼目は「行為」にある。ジェイムズは本書の最終講で、われわれの行為こそが世界の救済を創造するのではないかと問いかけている。《なぜそうではないのか? われわれの行為、われわれの転換の場、そこでわれわれはみずからわれわれ自身を作りそして生長して行くのであるから、それはわれわれにもっとも近い世界の部分なのである。この部分についてこそわれわれの知識はもっともよく通じており完全なのである。なぜわれわれはそれを額面どおりに受け取ってはならないのか? なぜそれがそう見えるとおりに世界の現実的な転換の場、生長の場でありえないのか──なぜ存在の工場であることができないのか。この工場においてこそ、われわれは事実をその生成過程において捉えるのであり、したがって、世界はそれ以外の仕方では、どこにも生長しえないのではいか。》
 しかし、それは非合理ではないか。新しい存在が局所的に現われてくるはずがない。事物の存在理由は全自然界の物質的圧力ないしはその論理的強制のほかはない。だとすれば世界は万遍なく生長すべきであって、単なる部分がそれだけで生長するなどは非合理である。──このありうべき非難に対してジェイムズは答える。《論理、必然性、範疇、絶対者、そのほか哲学工場全部の製造品をお気に召すままに持ち出されて結構であるが、およそ何ものかが存在しなければならぬという現実的な理由としては、誰かがそれのここにあることを欲するというただ一つの理由しか私には考えられないのである。それは要求されてあるのである。──どれほど小さい世界の部分であろうとそれをいわば救助するために要求されてあるのである。これが生きた理由なのであって、この理由にくらべると、物質的原因とか論理的必然性とかは幽霊みたいなものである。》

★W.ジェイムズ『純粋経験の哲学』(伊藤邦武編訳,岩波文庫:2004.7.16)

 プラグマティズムは「神学」の異称である。たとえばパースの「プラグマティシズム」とジェイムズの「プラグマティズム」のうちにスコラ的実在論と唯名論を重ね合わせるといったよくある議論にはじまり、パースのいう「仮説についての科学」としての純粋数学もしくは「数学的形而上学」(『連続性の哲学』)、前田英樹氏がいう──形而上学の体系的思考(からごころ)を批判する共通の立脚点としての、あるいは「今、ここにしかじかの身体を持つ」というところから世界を捉える(身ひとつで学問の実義を生きる)こととしての──「深い意味でのプラグマティズム」(「『感想』とは何か」)、そしてジル・ドゥルーズの「生命論」などをブレンドした新しい神学のことである。
 ジェイムズは本書に収められた「変化しつつある実在という考えについて」のなかで次のように書き、「ベルクソンの研究者たちがパース氏の思想をベルクソンの思想と比較してみるよう、心から勧める」と結んでいる。新しい神学をめぐる(私の)作業はこの比較論から始まるだろう。《パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふたりの思想は完全に重なり合うものである。どちらの哲学者も、事物における新しさの出現は純然たる本物の出来事であると信じている。新しさは、それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては、多大な「偶然」の関与ということでしかありえないが、その内部に立つ者にとっては、それは「自由な創造的活動性」である。》

★『鶴見俊輔集1 アメリカ哲学』(筑摩書房:1991.12.5)

 プラグマティズムは「行為主義」と訳すべき。ダーウィンの進化論が「行為」という明確な発想点を与え、論理型(パース)、心理型(デューイ)、倫理型(ジェイムズ)の共通のスプリング・ボードとなった(159頁)。「プラグマティズムの周辺」で、サンタヤナ(唯美主義)やハクスリー(非人間主義)とともに佐々木邦(小市民の日常生活)が取り上げられているのが新鮮。

★保坂和志『〈私〉という演算』(中公文庫:2004.2.25)
★折口信夫『言語情調論』(中公文庫:2004.9.25)

 茂木健一郎の『脳と仮想』と同時進行的に読んだ。この三冊の本がシンクロして、一つのパースペクティヴがひらけたように思った。それが何だったか、いまは思い出せない。──どちらの本ももとても薄い。『演算』が196頁で、『言語』が124頁。この薄さが気に入っている。いまはそれだけしか書けない。

★ウィリアム・パウンドストーン『パラドックス大全──世にも不思議な逆説パズル』(松浦俊輔訳,青土社:2004.10.15)

 一夜のうちに快と苦が二倍になったとして、人はそれを察知できるか。サディストとマゾヒストなら察知するかもしれない。サディストが相手に与える一単位の苦痛はサディスト自身に一単位の快感をもたらす。そのそれぞれが二倍になるのだから、サディストは四倍の快感を得る。この推論はマゾヒストにも成り立つ。「この巧妙な説を退けるのは、誰も、サディストを含め、実際には他者の快感や苦痛を(あるいはそもそも心があるかどうかも)知らないということだ。……サディストは苦痛が二倍になったことをどうやって知ることになるのか」(120-121頁)。──哲学者や科学者やSF作家たちの思考実験をコレクションして、比較分析鑑賞玩味してみたいと思っていた。タイトルも考えた。「火星に行った中国人」。サブタイトルは「実験理性批判」。

★森嶋通夫『なぜ日本は行き詰ったか』(村田安雄・森嶋瑤子訳,岩波書店:2004.3.19)

 一冊の書物としては欠陥が眼につく。まず訳文がこなれていない。議論の理路にブレはないが、直訳調の文章ゆえ著者の思考の熱気と生の息遣いがダイレクトに響かない。構成にも重複の難がある。視点・立論・方法を異にする独立した八つの論考が相互のつなぎを欠いたまま並列され、鳥瞰と虫瞰、理論と実証の細部における緊張と鋭い分析が全体として有機的に噛み合わない。著者は諸ディシプリンの綜合による「交響楽的作品」を自称するが、それはついに未完成に終わっている。
 にもかかわらず本書(とりわけ第8章「21世紀の日本の前途」)は繰り返し読み継がれるべき確かな実質と類稀なリアリティをもっている。そこに綴られた「私の没落論」は日本の経済と政治、社会と文化の現状に対する容赦ない認識に根ざしている。かつて坂口安吾は「堕落論」の末尾に「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と書いた。発見すべき自分自身を失った者に救いはない。そこにあるのは絶望だけだろう。本書にもし希望を見いだす者があるとしても、それは私たちではない。

★中曽根康弘『自省録──歴史法廷の被告として』(新潮社:2004.6.25)

 「政治家にとって人生とは結果でしかありません」「政治家は達成した現実だけが著作であり、作品なのです」「政治家の人生は、その成し得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ、評価されるのです」(16頁)。「保守主義とは、私の体を貫いて流れるこの宇宙のエネルギーそのものです。私は、この尽きることのないエネルギーを身体の中に感じています。この自然の力こそが、保守主義の本質です」「私も宇宙の一部、即ち仏です」(243頁)。

★丸谷才一『思考のレッスン』(文春文庫:2002.10.10/1999)

 小林秀雄と吉田健一。この二つの批評家の系譜でいえば、あきらかに後者に属する丸谷才一は、小林が吉田を認めず、河上徹太郎に「あれは見込みがないから破門しろ」と言ったエピソードに触れて、「このことは、逆に、小林秀雄が指導的批評家である時代が終れば、吉田健一の文学観が支配的である時代がくることを暗示してますね。そして事実そうなっています」と語る。丸谷の文学観の根底には、バフチンのドストエフスキー論(ポリフォニー理論とカーニヴァル理論の二本柱)がある。小林秀雄と吉田健一とバフチン。この三つに共通する型をみつけて、その仮説に名を与えること。それが丸谷流思考レッスンの終了者(私)にあたえられた欄外の課題。
 本書にちりばめられた丸谷節。──近代日本文学には様式がない。文体の問題をなおざりにしているのはわれわれの文明の病弊の一つだ。現代日本語の文体は現代日本人が思考するのにふさわしいだけの成熟にまだ達していない。近代日本の口語文は小説家が西洋19世紀の(客観的三人称の)小説の影響を受けてつくった文体だ、18世紀の(書簡体の)西洋文学を学んでいれば口語文の敬語表現はもっと洗練されていたろう。
 記憶に残ったレッスン。──まとまった時間があったら本を読むな、本は忙しいときに読むべきもの、まとまった時間があったらものを考えよ。考えるコツは仮説をたてること、仮説をたてるコツは多様なもののなかに共通する型を発見すること、型をみつけたら名前をつけろ。ものを書くときには頭のなかでセンテンスの最初から最後のマルのところまでつくれ、つくり終わってからそれを一気にかけ。

★岩宮恵子『思春期をめぐる冒険──心理療法と村上春樹の世界』(日本評論社:2004.5.20)

 物語と心理療法のことを論じるにあたって、村上春樹の作品をとりあげる理由は三つある。村上自身が「小説を書くことは自己治療的な行為である」と言明していること。実際の治療場面でかなりの数のクライアントが彼の小説を話題にすること。村上の小説を読んでいると、まるで心理療法の現場で起こっていることそのもののように感じられること。著者は最初にそう書いている。冒険の着地点は日常。

★本橋哲也『本当はこわいシェイクスピア──〈性〉と〈植民地〉の渦中へ』(講談社選書メチエ:2004.10.10)

 私たちがシェイクスピアを読むという作業は、私たち自身がいまだ囚われている〈近代〉というプロジェクトを、その発生期で再検討する試みと切り離せない(54頁)。シェイクスピア再読のための具体的戦略──ヨーロッパ近代を植民地主義に基づく他者の創出と周縁化による自己成型のプロセスととらえ、その視点からシェイクスピア演劇における他者表象を検証すること(219頁)。シェイクスピアという近代の出発点に位置するテクストの中に、あり得たかもしれないもう一つの近代の姿を探ること。コロニアルなテクストであるシェイクスピアが、同時にポストコロニアルでもあり得るというパラドックス、そこに充溢する魅惑(224頁)。

★養老孟司『死の壁』(新潮新書:2004.4.15)

 「バカの壁」の向こうにはロマンがある(12頁)。なぜ人を殺してはいけないのか。人間は自然、つまり高度なシステムである。「そんなもの、殺したら二度と作れねえよ」(22頁)。近代化とは、人間が自分を不死の存在、すなわち情報であると勘違いしたことでもある(32頁)。──以下、養老節が続く。これは『人間科学』の「語り下ろし」版だと思って読んでいたら、あとがきにそう書いてあった。

★青島広志『作曲家の発想術』(講談社現代新書:2004.8.20)

 中学生の頃、自分は将来、作曲家になるのだと思っていた。作曲家になりたいというのではなく、そうなるものだと思いこんでいた。ピアノは弾けなくても、コンピュータを使えば簡単に作曲ができるし、インターネットで手軽に発表もできる。日曜作曲家ではなく、晩年作曲家。これで決まり。「作曲は自己表現の一つだから、作品が仕上がったら必ず発表しなければならない。いや、発表を前提として作曲すべきである」(231頁)。

★L・ザッヘル=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』(種村季弘訳,河出文庫:2004.6.20[新装版])

 セヴェリーン宅を訪問する前、本書の語り手が大理石の肉体を大きな毛皮のなかにくるんだヴィーナスの夢を見る。そのとき語り手が手にしていた読みかけの本はヘーゲルだった。ジル・ドゥルーズは『マゾッホとサド』に「弁証法的精神がマゾッホの言動の活力になっている」と書いている。「だが、わけても重要なのはプラトンである。サドにスピノザ思想が、推論的理性があるとするなら、マゾッホにはプラトン主義が、弁証法的想像力があるのだ」(蓮實重彦訳,31頁)。また「冒頭の夢の出発点となっているのは、ヘーゲルもさることながら、バッハオーフェンを読んだことのうちにあるのではないか」(67頁)とも。──そうした哲学的意匠とは一切かかわりもなく、何十年ぶりかに読んだ本書には陶然とさせられた。

★北方謙三『擬態』(文春文庫:2004.11.10/2001)

 心の檻の中に飼っている狂犬を野放しにすると、もう毀れるしかない。《毀れている。ふと思った。躰が、どんどん毀されていく。かすかな、快感があった。これが、欲しいものだった。しかし、まだ躰が毀れていくだけだ。心は、毀れてはいない。躰も心も毀れると、もっとすごい快感があるのだろうか。これが生きていることだ、と思えるのだろうか。》(349頁)──これが「現代ハードボイルドの里程標」(解説の池上冬樹)とされる傑作かどうか。でも酔えた。読むときを間違えるとたぶん酔えなかっただろう。

★睦月影郎『蜜情沸々』(徳間文庫:2004.11.15)
★神崎京介『女薫の旅 秘に触れ』(講談社文庫:2004.11.15)

 睦月影郎の多作ぶりには目を瞠る。毎月のように新刊が、それも複数出ている。『蜜情沸々』は明治官能シリーズの第三弾。(文庫カバーでは「書下し 文明開化エロス」。山本タカトのカバーイラストがいい。著者の顔写真がいかがわしくていい。文豪の趣。)夏目金之助や西郷四郎が登場する。この時代設定が新鮮。内容は同じことなのに読ませる。──女薫シリーズは11作目。とうとうマンネリの域に達した。新機軸、新展開がないとつらい。

★かわぐちかいじ『太陽の黙示録 M資源』6(ビッグコミックス,小学館:2004.10.1)
★かわぐちかいじ『ジパング』13・14(モーニングKC,講談社:2003.12.22)
★弘兼 憲史『加治隆介の議』1〜10(講談社漫画文庫:2000.2.10〜6.9)

 『太陽の黙示録』──第五巻から始まった宗方操の物語。謎の女教祖が出現し、柳舷一郎との再会が迫る。『ジパング』──最終兵器(原爆)の早期開発によるもう一つの戦後へ。現在16巻まで出ている。『加治隆介の議』──久しぶりの一気読み。雑誌連載は91年から98年。後半、情報漫画(学習漫画)に堕して、物語としての不満が残る。