不連続な読書日記(2004.9)




☆2004.9

★前田英樹『小林秀雄』(河出書房新社:1998.1.14)

 スリリングな論考だ。とりわけ、絵画記号をめぐる『近代絵画』や音声言語をめぐる『本居宣長』との三部作において『感想』(小林秀雄の未完のベルクソン論)が成し遂げた達成を、様々な水準における二重性──プラティックな行動がもつ能動性と実在(モビリテの世界)との接触に関わる受動性、知覚(科学)と直観(哲学)による経験の二重化、物質と精神という実在が私たちの経験に与える二重の相、あるいは知覚(物質)と記憶(時間)の各々がもつ現実的[actuel]次元と潜在的[virtuel]次元、等々──に即して腑分けしきった叙述は、質量ともに本書の白眉をなす。
 著者は、ベルクソン=小林が言うモビリテの世界はプラティックな行動の世界の奥、物質の潜在的次元、すなわち量子論が顕わにした極微的物質の世界にあると書いている。しかし「量子論のパラドックスは、潜在的なものの構造を現実的なものの用語法によって思考し、その結果を数式の統計的可能性によって表現する、というところから来ていた。それならば、重要なものは言葉、すなわち、実在が持つ二重の方向を同時に辿りうるような言葉だろう。小林が、この問題を徹底して取り上げるのは、言うまでもなく、宣長論においてである」。
 ──本書の奥(潜在的次元)には、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の概念(内在的超越の思想)が据えられている。

★山崎行太郎『小林秀雄とベルクソン[増補版]──「感想」を読む』(彩流社:1997.11.30)

 著者は小林秀雄の過激な原理的思考と理論物理学とのきわめて密接な関係──「小林秀雄の批評は、アインシュタインの「相対性理論」の出現と、ハイゼンベルグらの「量子物理学」の出現とに代表される、かつてない大きな二十世紀の「科学革命」という歴史的状況の中から生まれてきたものであった」──を文壇デビュー以前から丹念にたどってみせる。そのうえで、小林秀雄という批評家の「火薬庫」ともいうべき『感想』について、「それまで、秘密のベールにつつまれていた小林秀雄的思考の急所を、ベルクソン論という形で公開した」「原理論の書」、「ベルクソン論というよりベルクソンを素材にして、小林秀雄が、様々な思考実験を行った評論」、「小林秀雄自身による小林秀雄論」、「遺書」と規定している。
 小林秀雄と理論物理学というテーマ設定そのものはいま読んでも画期的だと思うが、『感想』刊行後となってはもはやそれだけでは物足りない。そもそも本書の議論は、理論物理学の話題を抜きにしても語りうるものだ。そこには『感想』における小林秀雄の思考が強いられた錯綜や紆余曲折に拮抗するもの、あるいは「実在の複雑紛糾」(『物質と記憶』第七版の序)に由来するもの、端的に言えば「観念論や実在論が存在と現象に分けてしまう以前の物質」(同)に対するさしせまった「問い」──「彼の全身を血球とともに循る」(「様々なる意匠」)ほどの──を見出すことはできない。

★竹内薫『世界が変わる現代物理学』(ちくま新書:2004.9.10)

 著者は「思想としての物理学」を語るため、SF化(虚構と現実の境界のゆらぎ)という概念を提示する。世界はあたかも複素数のようにリアルな部分(モノ)とイマジナリーな部分(コト)から出来ている。相対論と量子論はそうした世界の二重構造をかつての神話の解像度をはるかに凌駕する精度をもって厳密に記述しはじめた。最近のループ量子重力論にいたって時空という究極のモノさえもコト化され、さらには現実(モノ)と虚構(コト)の境界がゆらぎ、純粋にコト的な世界としての宇宙が立ち現れようとしている(物理学から「事理学」へ)。
《宇宙はSF的な構造をもっており、それを記述する現代物理学もSF的な構造を反映しており、宇宙を写し取って進化してきて、物理学を紡ぎ出している人間の脳もまた、SF的な構造になっています。》
 思想(物理学)が変われば世界は変わる。そして、世界が変われば「自分」も変わる。著者が「宇宙の叙事詩」とも形容すべき数式を使わず現代物理学の世界観を解説した本書に、「少なからぬ数の読者の反論と否定的な評価を予測しながら」未完の思想小説の一部を掲載したのは、本書を思想としてではなく知識(情報)として読み流し「こういうことはみんな知っている」と感想を述べるだろう読者に対して、あるいは「命がけの思想」という言葉に冷笑をあびせるだろう「忙しい情報化時代に生きる現代人」に対して苛立っているからだ。

★茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社:2004.9.25)

 茂木健一郎が「仮想の系譜」のタイトルで『考える人』に連載していたエッセイが『脳と仮想』と書名を改めて刊行された。永井均が『本』に2年間連載していた「ひねもすたれながす哲学」とともに出版されたら速攻で買って読もうと思っていたエッセイだ。表紙に“The Brain and Imagination”と印刷されている。「仮想」の英訳が“virtuality”ではないところ、そして“imagination”の和訳が「想像」ではないところがミソだと思う。
 この本を読んでいてしきりに保坂和志の『〈私〉という演算』が頭をよぎった。ジャンルやテーマからいえばエッセイ集『言葉の外へ』の方が好対照をなすのではないかとも思うが、読書中の生理的感触からいえばやはり『演算』だろう。それは何もこの二つの書物がそれぞれ九つの章もしくは九つの文章で構成されているからというわけではない。両著に共通して小津安二郎の作品への言及があるからでもないし、保坂の『世界を肯定する哲学』が『仮想』で引用されているからでもない。
 先に感触という言葉を使ったけれど、それを別の個人的表現におきかえると「哲覚」になる。それが何であれ一つの哲学的問題が立ち上がってくる、その時その身体的現場に生き生きとしたリアリティをもって同時に立ち上がっているある種の眩暈に似た感覚。それを私は(小平邦彦の「数覚」にならって)哲覚と名づけているのだが、保坂氏「思考の生の形」といい茂木氏が「生成の現場」と呼ぶものといかほどかは相通じているのだと思う。『仮想』を読みながらしきりに『演算』を想起したのはたぶんそこに似た感触を、つまり哲覚の共振を感じたからだ。
 ある種の眩暈に似た感覚とともに一つの哲学的問題が立ち上がってくる現場。それはまた哲学が新たに語り直される現場でもある。だから茂木氏が本書で語ったこと、たとえばクオリアや仮想という概念、脳内現象説という理論が文脈に応じて融通無碍のニュアンスや曖昧さを帯びていたり、あるいはカントやベルクソンといった既成の哲学の焼き直しに見えたとしても、それは哲覚を共有していない者の取るに足らない感想でしかないのである。哲学を新たに語り直すこと。脳科学者はそこから新たな概念を立ち上げ、小説家は新たな世界を立ち上げる。読者もまた生きる態度を更新させなければならない。それが一冊の書物を読むという体験にほかならない。
《様々な仮想が生み出された誕生の現場に立ち返り、日常の生活の中でのありふれた「慣性」を超えた、かつてそれらが生成された瞬間の躍動においてとらえること。そのような作業をすることによって、私たちは、仮想の系譜を石版の上に書かれた模様のような静止した状態においてとらえるのではなく、それを生み出した生成の躍動の連続においてとらえることができるようになる。生成の連続という本来の意味で、歴史というものを体験することができるようになるのである。》
 これは余談だが、『仮想』との哲覚的共振の実質を確かめたくて中公文庫版の『演算』を買い求めたとき、ことのついでに入手した折口信夫の『言語情調論』は「思考の生の形」に対する「気分(感情)の生の形」とでもいうべきものを表現する言語の「音覚情調」をめぐる論考だった。『脳と仮想』は要するに『脳と言語』であろう。言語をより精確にいえば「言語的構造物」で、たとえば物語、科学、哲学、さらに絵画、映画、舞踏、歌、音楽まで含めていいかもしれない。

★黒川信重『数学の夢 素数からのひろがり』(岩波高校生セミナー4:1998.5)

 『世界が変わる現代物理学』に素数という概念が理解できない鼠の話が出てくる。竹内薫はそこで「(素数がマウスの知性の限界を示しているのと同様の意味で)人類の知性に限界があると考えるほうが自然なように思われてなりません」と書いていた(223頁)。
 『脳と仮想』に「私たちが現実と向かい合う時にそこにインターフェイスとして浮上してくる」仮想の「最たるもの」として数学的概念が取り上げられている(98頁)。茂木健一郎はこう書いていた。《…数学を成り立たせているのは、徹頭徹尾、この世界にはどこにも存在しない仮想である。数学の歴史とは、そのような仮想の間の関係を、論理と整合性を保ちつつ構築することであった。/そのような仮想によって構築された数式の世界に、現実の世界がなぜか従う。このことは、私たちの生が投げ込まれているこの世界の持つ、きわめて不思議な性質の一つであると言わざるを得ないのである。》(102頁)
 これらの話題に触発されて『数学の夢』を手にした。この本に目を通すのはこれで何度目になるだろう。読むたびに新しい発見があり、なにかしらかきたてられるものがある。(今回のそれは、ピタゴラスとライプニッツの「絶対数学」における符合ということだった。)
 ところで、竹内・茂木のコンビにはこれまでから共著『トンデモ科学の世界』や共訳『ペンローズの量子脳理論』などを通じて大いに触発されてきた。ペンローズを読んだのもこの二人に導かれてのことだった。数学といえば、ペンローズ。その『心の影』に「プラトン的世界(数学的世界)」と「物理的世界」と「心的世界」のウロボロスの蛇的三つ巴の関係図が出てくる(下巻228頁)。茂木氏は『脳と仮想』で、「プラトン的世界」は数学的秩序に限られていたわけではないと書いている。
《…およそ、私たちが意識の中で思い浮かべることができるものはすべてクオリアであるという現代の脳科学の出発点に立てば、それが数学的な概念であれ、美や道徳といった一見曖昧な印象を与える概念であれ、すべて、この地上の物質的世界とは独立したプラトン的世界に属すると言ってもよい。》(121頁)
 ちなみに、茂木氏の頭のなかでは「現実=物理的世界」「仮想=心の世界」「潜在性=プラトン的世界」の三区分が立てられている。精確にいうと、現実=物自体と仮想=(脳内)現象が対峙する世界と潜在性の世界の二区分。そして「クオリア」はこの三つないしは二つの世界にまたがっている。《実際、プラトン的世界の中には、宇宙の歴史の中でまだどこでも現実化していないクオリアが、無限に潜んでいるに違いない。》(122頁)

★三木成夫『海・呼吸・古代形象──生命記憶と回想』(うぶすな書房:1992.8.31)

 『脳と仮想』の第七章「思い出せない記憶」は三木成夫のことを取り上げている。ちょうどその時『胎児の世界』以来の三木成夫の文章を同時進行的に読んでいた。(三木成夫の精神のかたちはどこか白川静を思わせる。知識=情報として読み流してしまうと伝わってこない「こころの声」が響いている。)──椰子の実を啜って、臍の緒が切れる以前の、十万年から二十万の生命記憶を蘇らせ、母乳を吸って、七千万年から一億年にわたる「原形質の奥底にまで拡がるような」衝撃を受け、羊水のしぶきをあびて「古代海水の面影」に思いをはせる。
《われわれのからだの、原形質の中核には、生物発生以来、三十億になんなんとする歳月を費やして、綯い続けてきた生命記憶の縄が、あの“二重の渦巻文様”として、秘められています。それは、今までに述べました、この地球との繋がり、古代海水との交流、さらには、あの母乳の感触、そして遠い故郷の味など……。/われわれは、こうした浅深色とりどりの生命記憶を、ある日、忽然と回想する。それは動物たちの世界には決して見ることのできないものでしょう。「近感覚」に対する、「遠観得」の機能と呼んでおります。/現代の世の中では、こうした「遠」の世界は、夥しい「近」の騒音に掻き消され、もはやひとつの“まぼろし”と化した感があります。いいかえれば、ひとびとは、目先の出来事に、たんに“あたま”の中で一喜一憂を繰り返すのが精一杯のように思われるのです。/しかし、ここで、いわゆる「真の認識」とか「本質の把握」などと言われているものは、この生命記憶の回想にもとづいた「遠観得」の後見なしに行なわれるものではないことを、振り返って見なければなりません。/皆さん、いちど、この太古の潮騒の響きを伝える心臓の鼓動、文字通り“こころ”の声に、耳を傾けてみようではありませんか。》(「生命記憶と回想」97-98頁)

★『露伴随筆集(下) 言語篇』(寺田透編,岩波文庫:1993.10.18)
★西郷信綱『古代人と夢』(平凡社ライブラリー:1993.6.30)

 『脳と仮想』の関連本(?)としてざっと眺めた。──露伴「音幻論」の末尾の一文。「各国諸民族の音声言語の学はこれをそのおのおのについて見ればそれぞれ異るわけだけれども、声韵といふものの全体から大観すればすべて理は一である。(略)各国の文法・語法の研究はされてゐるが、支那では字法、世界的には声法とふものが研究されねばならぬ。字法は姑く擱くが、声法といふ一科が立てられて、人類声韵の変転推移の法則が研究され見出されて、そして古今世界の言語を横に貫き縦に統べるに到るのではくては、人類言語の完全な了解は得られぬ。」
 ──『古代人と夢』第5章「古代人の眼」に、死者と夢との関係にふれた箇所がある。「私は死者の魂の遊行を正目に視たであろう古代人の□の独自性を取りだしてみようとしたまでである。彼らに、夜寝たときみる夢が一つの「うつつ」として受けいれられ、強い衝撃をあたえたのも、また彼らが神話という幻想的な文化形式を作り出したのも、視覚のこの独自性と関連しあっているのであろう。そうかといって、たんに日常的平面にこれを還元していいわけではない。死者の魂が鳥となって行きかようのを彼らが視たのは、殯宮儀礼における特殊なエクスターシィを通してであった。そのかなたに、それと包みあいながら、映像としての神話の世界が縹渺とひろがっているはずである。祭式という行為は、神話的空想をはぐくみそれに形を与える母胎であった。/祭式が行為であることをやめ、たんなる儀式になってゆくにつれ、神話は映像性を失い、次第にイデオロギーに近づいてゆく。(略)前に私は夢と文化の型との相関性についてふれたが、人間の視覚もまた文化と無関係でないといえるだろう。」

★蓮見重彦『監督 小津安二郎』(筑摩書房:1983.3.30)

 最近オープンした近所のレンタルショップに小津安二郎のDVDが11本揃っている。そのうち『東京物語』(1953)と『浮草』(59)は以前観たことがある。残りの9本を毎週1本ずつ借りている。これまでに『秋刀魚の味』(62)と『お早よう』(59)と『麥秋』(51)と『彼岸花』(58)を観た。──小津的な堂々めぐり。「そうかね、そんなものかね」「そうよ、そうなのよ」「ふーむ、やっぱりそうかい」。
《『早春』の通勤風景がそうであるように、そのとき画面は物語に従属することをこばみ、説話論的な秩序からすれば不自然な誇張としか思えないほどの過激さで視線と歩調の一致性という主題をきわだたせ、作者の意識による統御にはおさまりがつかぬ過剰な細部を形成する。そしてその過剰な細部が、説話論的な構造との偏差を介してその持続を活気づけ、物語を分節化する変容の契機となる。小津の新鮮さとは、こうしたずれが視覚的に具現化する挑発的な不自然さにある。》(110頁)
 ──保坂和志の「そうみえた『秋刀魚の味』」に「小津安二郎特有の視線」という言葉が出てくる。保坂は、それは「誰の視線でもなく、ただカメラの視線だとしか言うことができない」と述べ、「無人格の記憶の視線」とか「彼ら[死んだ者たち]を記憶する家の視線」ともいいかえている。
《『秋刀魚の味』の人たちは、彼らを記憶する家の視線の中で、彼ら自身の時間を家の視線として生きつづけているのだとぼくは感じている。そういう形で、消え去った過去の人間や物やそれらの動いたことと現在という時間が関係づけられるという想像力の形を与えられたように感じているのだけれど、その想像力は彼らを記憶する家がなくなったあとのことまでには届いていないように今はまだ感じている。》(『〈私〉という演算』42頁)

★清水高志『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』(冬弓舎:2004.4.20)

 冬弓舎を立ち上げて間もない頃の内浦亨さん(清水高志氏いわく「新人発掘の目利き」)と祇園で会食したことがある。とても好感がもてたし、心から応援したいと思った。人文書中心の一人出版社を経営するのはさぞ困難をきわめることだろう。それ以来、これはと思う本が出るたび近況伺いをかねて冬弓舎のホームページからメールで注文をだすようになった。この『セール、創造のモナド』も刊行後すぐインターネット経由で入手して、梅雨が明ける頃には読み終えていた。
 とてもいい本だった。まず表紙を飾る黒田アキさんのリトグラフが清冽で、物としての書物の魅力を高めている。ミシェル・セールという「知恵の人」の末裔にして「フランス現代思想の例外者」(いずれも序文を寄せた中沢新一さんの言葉)の文章の美しさとそこに盛られた思索の新しさや深さ、多様性──「神話[ミュトス]と数学の融合、バシュラールがその最終的な後裔であると見なされる、ロマン主義的精神風土からの、形式主義的思惟に基づく新たなる批評精神の独立。そして「限りない多元論と局地的な複雑性の世界」のうちでの、それら双方の和解」──が素晴らしい。
 なによりもそうしたセールの壊れ物にも似た魅力──幻視者すなわち「自然を、世界を──人間社会をそう捉えるべきであるように──複雑な物語を啓示するものとして捉え、真の謙虚さと信仰をもって、その啓示を読み取ろうとするもの」としてのセール──を細心かつ自在な解説と引用と分析をもって造形し、さらにはドイツ・ロマン主義美学やベンヤミン、デリダ、ルネ・ジラール、そして西田幾多郎といった「異種思想との対話の試み」を経てセールの思想的磁場を測定しつつ、大胆に自らの思索へと向かおうとする著者の端正でいてどこか初々しく果敢な叙述の姿勢がいい。

★高安秀樹『経済物理学[エコノフィジックス]の発見』(光文社新書:2004.9.20)

 著者の本は、以前『経済・情報・生命の臨界ゆらぎ』を読んだことがある。西暦2000年に出た本で、それから4年。この間、エコノフィジックスはそうとう進化を遂げ、ずいぶんたくさんの成果をもたらしてきたようだ。本書には、為替市場のメカニズムや所得変動の分析を通して発見されたいくつかの法則、金融ネットワークの構造をめぐる現在進行中の研究といった話題がいくつか紹介されている。また、そうした研究成果をもとにした若干の経済予測(シニア世代が蓄えた1千兆円の金融資産が起爆剤となるインフレと円暴落)や政策提言(金融資産の相続への課税強化、複合電子通貨システムの企業やアジア債権市場への、あるいは地域通貨としての導入)にも触れられている。物理学の理論や手法(たとえば、ミクロな事象のマクロなスケールへのくりこみ変換)を取り入れた経済学ではなくて、何かをするためにエネルギーと時間を要しエントロピーも増大する「物理的な実体のあるもの」を対象とする経済物理学。対象が先で学問が後なのではなく、学問の進化によってはじめて事後的に発見されるのが対象であるとすれば、エコノフィジックスがほんとうに発見するだろう「実体」とは何か。

★斎藤槙『社会起業家──社会責任ビジネスの新しい潮流』(岩波新書:2004.7.21)

 NPOのような企業(ビジネスの社会化)、企業のようなNPO(NPOのビジネス化)。営利(経済的価値・市場原理)でも非営利(社会的価値・使命感)でもない問題解決型の社会事業。企業(純粋な商業主義)とNPO(純粋な社会貢献)の中間に位置するもの。社会を変えるための道具として会社を使うこと。所属組織に対する忠誠心ではなく、目的達成に対する忠誠心。ビジネスマンや事業家である前に市民であること。働き方と生き方とが同じ。好きなこと、楽しいことと仕事との一致。サラリーマンと社会起業家の二足のわらじ。──思いつくままキーワードをいくつか並べてみた。十年前なら世迷い事だったろう。日米の社会起業家の軌跡と志、彼/彼女らの活動を生み出した潮流とその帰趨、そして自らの体験を通じた理論化の試みがコンパクトに凝縮された本書を読むと、なにかしら未知の時代への変革の扉がしっかりと開かれているように思えてくる。(生きる歓びそのものとしての社会起業。中世的とでも仮に名づけられる宗教経済のネットワークを立ち上げること。あるいは「日本的経営」なるものが流産させてしまったもの。)

★三浦展『ファスト風土化する日本──郊外化とその病理』(洋泉社新書y:2004.9.20)

 郊外は「家族」という名の均質な製品を再生産しつづける工場なのである。著者はかつて『「家族」と「幸福」の戦後史』(186頁)でそう書いた。郊外と核家族。このかつてのアメリカン・ドリームの理想が崩れはじめた1960年代、日本ではほぼ30年遅れで大衆消費と男女の役割分担(男は都心の会社で仕事、女は郊外の団地で家事・育児・消費)が結びつきながら本格的な「郊外化」が始まった(日本住宅公団が設立されたのが1955年)。
 ──本書に描かれるのはその顛末である。著者は郊外で多発する少年犯罪の現場を訪ね、総郊外化・ファスト風土化をもたらした政策の源流を遡り、消費天国と化した地方都市の「記憶喪失の風土」がもたらす退廃とフェイク(虚構)化を衝く。
《だが、そこには大切なものが欠けていた。ロードサイドの商業施設には物はあるが、生活がなかった。中心市街地はシャッター通りになってしまった。古い建物や街路が整備されて、かえって味気ないものになり、かつての都市の記憶が消えた。都市の記憶が消えるということは、建築が消えるということだけではない。衣食住から子育てまであらゆる生活の仕方や生活の知恵が消失するということである。/本来、日本には小さいながらも、それなりの個性を持った多くの都市や農村が各地方にあった。それらの都市や農村には何百年という伝統があり、そこに商人がいて、職人がいて、農民がいて、リアルな生活があった。/しかし、いまの地方には、郊外はあるが都市も農村も消えた。たしかに物は入ってきた。しかし、生活が消えたのだ。》(205頁)
 しかし、ここにあるのは単なる嘆き節でも独りよがりな慷慨でもない。著者の筆は静かな怒りとまだ残る希望への強い意志を潜めている。最終章「社会をデザインする地域」で示される「社会問題解決団地」(郊外の住宅地に「働く」要素を再び持ち込むため、定年退職者によるコミュニティ・ビジネスのための会社やNPOの立ち上げを支援するシステム)の提案は感動的ですらある。

★三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史──郊外の夢と現実』(講談社現代新書:1999.12.20)
★松原隆一郎他『〈景観〉を再考する』(青弓社:2004.7.16)

 『ファスト風土化する日本』の関連本としてざっと眺めた。──大澤真幸は「家族の排除──若者犯罪の背景」(『ESP』9月号)で、昨年、大阪河内長野市で起きた男子大学生による家族殺傷事件をめぐって次のように書いている。『「家族」と「幸福」の戦後史』や『ファスト風土化する日本』の議論との関係で実に興味深い。
《現在、若者たちの間で人気の、恋愛物のアニメやゲームは、物語的な展開の豊かさを徐々に削ぎ落としつつ、きわめて高い確率で、一つの設定を共有している。恋愛する若い男女は、しばしば幼馴染みなのである。現実に、幼馴染みの恋愛や結婚が増えているとは思えない。たとえば、地縁的な共同体の中に深く組み込まれていた「家」があった時代の方が、幼馴染みは結びつくことは多かっただろう。なぜ、今、幼馴染みなのか? そこに投影されているのは、親子の関係よりも原初的で直接的だと感受されるような関係だからではないだろうか。無論、現実の幼馴染みの関係は、親子関係よりも後に成立する。だが、なぜか理由もわからず、生まれたときから近くに住み、仲良くしているという設定は、家族の関係にさらに先立って作用している、不可避の宿命の作用を、人に感じさせるものがないだろうか。
 こうして、われわれは、冒頭に掲げた、河内長野市の事件の謎に迫っていくことができる。彼ら、恋する「幼馴染み」が、「心中」するにあたって家族をまずは殺害しておかなくてはならないと考えたのは、彼ら同士の関係の上に投影されている極限の直接性に到達するためには、どうしても、家族の関係が排除され、無化されなくてはならなかったからではないだろうか。彼らの関係の上に、あらゆる経験的な関係を越えた原初的な直接性を感受するためには、彼らを生まれたときから捕縛している家族の関係を、偶有的でどうでもよいものとして捉えなおし、実際に排除してみる必要があったのであろう。》

★TBSニュース23製作スタッフ編『対論・筑紫哲也『ニュース23』このくにの行方』(集英社:2003.12.10)

 月に一度、赤プリ別館で催される会員制の会合で筑紫哲也さんの講演を聴いた。以前の河合隼雄さんの時と同様、最前列で聴いた。テレビで観る印象とはずいぶん違う力のこもった肉声と精気をひめた肉顔に間近に接しているうち、ここにはたしかに何事か語るべきものを持つ人物がいると、頭ではなくて身体が自然に反応してくるのが自分でわかった。政治や経済をめぐるものであれ、哲学的問題をめぐるものであれ、およそ議論とは肉弾戦である。その場で提示できなかった反論、後出しの反論などは無効である。そうした待ったなしの修羅場を知る者の気迫を前にしていると、その主張や文章表現への違和や反撥などなにほどのものではないと思えてきた。これは筑紫哲也的思考への全面的肯定ではない。真偽正邪を超えた肉体的事実の確認である。
 ──その会合で、著者のサイン付きの本書をいただいた。(養老、北野の二人のタケシを除くと、カルロス・ゴーン、加藤周一、緒方貞子、奥田碩、野中広務、出井伸之といった他の対談相手にはあまり関心が湧かない。講演を聴く前だったらたぶん読まなかったと思う。)読んでみて意外な思いにとらわれた。面白いか面白くないかではない。ためになるかならないかでもない。そういう頭で感じたり理解すること、あるいは一人で感じたり考えることとはまったく違う独特のリアリティ感覚のようなものが立ち上がってきたのである。
 その「感覚」は、「脳から身体へ」での養老孟司の発言を読んだときに訪れた。(ちょうどその箇所を読んでいたとき、たまたまテレビの番組で『誰も知らない』の是枝裕和監督が、子どもの頃は誰もが世界の複雑さについて精一杯の思考をめぐらせていたのだ、といった趣旨のことを語っていた。)養老孟司はそこで、胎児の超音波診断から出産シーンまでをルポした映像を観て「こういうことはみんな知っている」とレポートに書いた男子学生に怒っていた。標本(生身の人間の一部)と模型(プラスティック)の違いに気づかない都会人を嘆いていた。「私は私」で世界は変わらないと思っている「情報化=脳化」の時代を生きる現代人に苛立っていた。
《大事なことは、人が変われば世界の見え方が違ってしまう、ということです。(略)/極端な例をいうと、「あなたはガンですよ。あと半年しか命がないんです」といわれて、それを自分が納得したら、世界がどう見えますか。ぜんぜん違って見えるんです。/桜が咲いていたら、もうあの桜は来年見られないと思う。「さあ、どうしよう……」と考えます。「今までいったい自分はどういうつもりで桜を見ていたんだろう」という疑問が起こるけれど、そのことはなかなか思い出せない。/世界が違って見えるということは、自分が変わってしまったということです。変わる前の自分は、自分に変化が起こったあとの世界のことを考えることができない、ということに、どうして人は思い到らないのだろう。思い当たれば、「その先はどうなるんですか」といった、よくある質問は意味がないということがわかるんです。》(43頁)
 きっかけは何でもよかったし、いま読みかえしてもあの「感覚」そのものは蘇らない。「思想が変われば世界は変わる」。それもまた「思想」(虚構、言葉)でしかないとしても、その時、一回かぎりの生々しいリアリティをもって迫ってきた。一瞬、感覚的な眩暈に襲われた。「思想」を「世界の見方」に置き換え、「世界が変わる」を「世界の『見え方』が変わる」に読み替える。そのような操作をもってしても、あの「感覚」の記憶(身体に残る余韻)は消せない。世界というモノが先にあって、それをどう見るかが思想なのではない。思想ととともに世界は立ち上がる。世界の「見え方」が変わることと、世界そのものが変わることとは区別できない。そのような区別を立てる視点は世界のどこにもない。世界が変われば「自分」も変わるのだから。

★村上春樹『アフターダーク』(講談社:2004.9.7)

 都市を闇が被う。あたかもスクリーンセイバーのように。いくつもの生命体がからみあって作り上げた巨大な生き物を包み込む特別な皮膚のように。都市が纏う皮膚とは言葉だ。純粋な視点となった言葉──「肉体を離れ、実体をあとに残し、質量を持たない観念的な視点」となって、二つの世界(テレビ画面をはさんだあちら側とこちら側、無と実体、フィクションとリアリティ、死と生)を隔てる壁を通り抜ける言葉(『アフターダーク』の語り手である「私たち」)──が都市の細部を覆い尽くしていく。あたかもスクリーンプレイのように。聞こえないBGM、届かない沈黙のように。言葉はまた、深い海の底に住む巨大なタコのような異様な生き物(国家、法律、裁判制度)となって、集合と部分、総体と部品の二義性、虚と実、善と悪の二つの世界を隔てる高い壁を突き抜ける。すべての人間を暗闇の中に吸い込む。「そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう」。
 ひとつの闇が死に、次の闇が訪れるまで。村上春樹は沈黙し、読者は途方に暮れる。村上春樹が『アフターダーク』で描こうとした予兆が、「透明なスポンジの地層」や「透明なガラスの壁」を介さない意識の直接的な「一体感」や身体の「共有的な状態」のようなものを指しているのだとしたら、そしてそのような「何か別のもの」の胎動を「研ぎすまされた純粋な視点」としての言葉(「私たち」)を通じて、つまり「マジ怖い相手」(作者の影としての白川、白川の影としての顔のない男)の露呈とその消失──より端的に言えば、ムラカミハルキ的世界(物語の第一の層、第二の層)への読者の惰性的な感情移入の拒絶──を通じて描こうとしているのだとしたら、それもまたひとつの観念(もうひとつの「アルファヴィル」)のなかで演じられた抽象的な殺戮劇でしかない。

★山崎豊子『華麗なる一族』上中下(新潮文庫)

 盆明けから読み始めてほぼ一月、近づく秋の気配とともに読み終えた。濃厚な、反吐がでるほど濃厚な欲望と愛憎の「人間ドラマ」を堪能した。卑小な、反吐がでるほど卑小な悪人どもによる現代日本の悲劇。下巻の最終章、万俵鉄平の「男らしい死」をめぐって二人のバンカーが対峙する。──「万俵さん、私の銀行家としての不明と、あなたご自身の企業的野望が、鉄平君をして死に追いやってしまったといえるのではないでしょうか」。「或いはそう云えるかもしれません。しかし、企業である限り、親子の間といえども、致し方のない場合もありましょう」。がらんとした部屋の中で、万俵と三雲が二人だけ、無言のまま、対い合っていた。それは人生観、死生観を異にする二人の人間が相対峙し、対決するかのような姿であった。