不連続な読書日記(2004.7-8)



☆2004.7

★リチャード・G・クライン/ブレイク・エドガー『5万年前に人類に何が起きたか? 意識のビッグバン』(鈴木淑美訳,新書館:2004.6.15)

 東アフリカ・ケニアのエンカプネ・ヤ・ムト(黄昏洞窟)から出土した一三個の卵殻製のビーズ。ダチョウの卵の固い殻に穴を開け、一個一個周囲をこすり落とし精巧なリングにしたてあげられていた。四万年前の人類は生きるためにもっと本質的な活動をする必要があったはずなのに、なぜ一握りのビーズ作りにこれほど長い時間を費やしたのか。
 考古学者スタンレー・アンプローズは、カラハリ砂漠で生活するクンサン狩猟採集民の「ホサロ」と呼ばれる贈与交換システムに着目した。クンの人々にとって、ダチョウの卵の殻で作ったビーズの鎖は近隣あるいは遠隔地のバンド(共同体)どうしの互助関係を表わす軽量で運搬可能なシンボルである。環境の突然変化によって食糧が底をつくと、人々はかねてからホサロで結びついていた他のバンドの領地に移り援助を受ける。ビーズは長期間・遠距離にわたる「社会安全システムの通貨」であり「健康保険」もしくは「ライフライン」のようなものなのだ。
 アフリカの古代遺跡で発見されたビーズがこの種の社会的ギフトであったかどうかはわからないと著者は書いている。しかし、もしこのビーズにクンの場合と同様のシンボルとしての意味が与えられていたならば、黄昏洞窟は現生人の行動における曙光、すなわち「ヒト文化の曙」(the dawn of human culture:本書の原題)を記録するといえるだろう。
 シンボル(言語)を用いてコミュニケーションをはかること、そして「現実世界」についての知的モデルを構築し他人に伝えること、さらに「〜だったらどうなる?」という仮定の問いに取り組むことは、私たち現生人の特徴にほかならない。「ヒトの進化という大きな視野でみると、シンボルを用いる行動は、ごく最近に起こった新機軸である」。
 ──こうして五万年前のアフリカで起こった文化の「ビッグバン」へ到る長い物語が始まる。本書の読み所は二足歩行に始まる人類の進化史をめぐる探求譚にあるのだが、タイトルに惹かれ読み始めた者にとってそれはあまりに長すぎる前史でしかない。ようやく最終章になって著者は「ヒト文化の曙」の基盤に関する生物学的・神経学的仮説を提示する。
「…言語は一種の第六感である。人々は言語のおかげで、他人の主要感覚器官から情報を引き出し、五感を補うことができる。この点でみれば、言語はきわめて複雑な知的モデルの構築を促す「知覚」のようなものだ。…五万年前に起こった完全に現生人らしい行動の発展…は完全に現生人らしい言語の発展を特徴とするのではないか。さらに、この発展の一因は神経学的変化にあっただろう。」
 完全な現生人の脳(言語を獲得した脳)へと発展を促すような偶然の(遺伝子)変異が「曙」をもたらした。──しかしそれもまたあまりに淡々と慎ましく語られる。物足りない思いが残るが、外連のない誠実な叙述には好感が持てる。

★茂木健一郎『脳内現象 〈私〉はいかに創られるか』(NHKブックス:2004.6.20)

 意識の科学の現状は、物質である脳から心が生み出される第一原理を未だ解き明かせない「錬心術」の段階にある、と著者は言う。錬心術ならぬ錬金術師パラケルススは、人間の精液と血で「ホムンクルス」(人造人間)を造ったと伝えられる。日本でも西行法師が人骨から人間を造る「反魂の術」を行ったと、中世の説話集に書いてある。
 それはともかく、私たちの意識は、あたかもホムンクルスが「小さな神の視点」をもって、脳内各領域の神経細胞の活動を見渡しているかのように成り立っている。それでは、脳という1リットルの「フラスコ」の中に、いかにして〈私〉というホムンクルスが生まれるのか。この問いに対して、著者は「メタ認知的ホムンクルス・モデル」を提示する。
 このモデルでは、脳のなかの幽霊ならぬホムンクルスは脳の「外」(メタ・レベル)に出て、神経活動を心的状態や言葉の意味といった特定の「クオリア」として認知する。ここで大切なことはクオリアと〈私〉(ホムンクルス)が同時に成立することである。
《一方の極では、変項として機能する神経細胞の活動が、空間的・時間的につぶされて一つのクオリアになる。もう一方の極では、不変項として機能する神経細胞の活動が、同じく空間的・時間的につぶされて一つの〈私〉となる。そのようにして双対的につぶされた〈私〉と「クオリア」が出会うことで、単一の〈私〉が、同時並列的に様々なクオリアを感じている。
 このような、双対的な〈私〉と「クオリア」の出会いが、それぞれ、前頭前野を中心とする神経細胞の志向的ネットワークと、後頭葉を中心とする神経細胞の感覚的ネットワークの間の相互作用として実現することで、人間の意識は生み出されている。》
 もちろんこれで問題が解決したわけではない。それは、著者が予言する「不変項ニューロン」(様々なクオリアをメタ認知する〈私〉を成り立たせるもの)が未だ発見されていないことを言うのではない。
 また、意識における完全性の問題(離散的でノイズに満ちた神経細胞の活動から、いかにしてプラトン的完全さを供えたクオリアが生み出されるのか)、あるいは哲学的ゾンビの問題(メタ認知的ホムンクルス・モデルで記述されるシステムが仮にあったとして、それが意識体験を持たないゾンビでないのはなぜか)が解けていないことを言うのでもない。そもそもそれらは解けるかどうか分からないのである。
《私たちは、意識がメタ認知的ホムンクルスのメカニズムを通して生み出される脳内現象であるというモデルに達した。このモデルは、意識が生み出される第一原理を未だ解決するものではないが、少なくとも、意識が因果的、客観的科学法則とどのような関係にあるかということを説明する。科学は、意識があろうとなかろうとどちらでもかまわないという。ならば、メタ認知的ホムンクルス・モデルとは、すなわち、意識の問題の科学からの独立宣言なのである。》
 世界に意識があることを「公理」として認める意識の学。それは、神話(物語)と数学、本質存在(力への意志)と事実存在(永遠回帰)、アリストテレス‐トマス主義的(有機体論的)自然観とプラトン‐アウグスティヌス主義的(機械論的)自然観、そして存在論と認識論を連結させることから始まるだろう。
 そして、そのためにはまず「賢者の石」が探求されなければならないだろう。(そのヒントは、たとえばメルロ=ポンティの「世界の肉」もしくはライプニッツの「モナドの襞」にあるのではないかと思うが、これらは未だその製法が解っていない概念の素材でしかない。)

★前田英樹『小林秀雄』(河出書房新社:1998.1.14)
★清水高志『セール、想像のモナド──ライプニッツから西田まで』(冬弓舎:2004.4.20)

 今月読んだ本のなかではピカ一とピカ二。(小林秀雄の「蛍」に始まってライプニッツの「モナド」で終わる文章のアイデアが浮かぶ。)前田本は稀にみる力作。後期三部作(『近代絵画』『感想』『本居宣長』)をめぐる論考は、この人にしか書けないと思った。二、三度読み直してから感想を書こう。清水本については、讃を寄せている中沢新一の『雪片曲線論』の再読後に感想を書こう。

★岡潔・小林秀雄「人間の建設」(小林秀雄全集第十三巻,新潮社:2001.11.10)
★『考える人』2004年春号「特集|限定生産はなぜおいしい?」(新潮社:2004.5.1)

 前田英樹の『小林秀雄』に、ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』を小林秀雄が読んでいたことを、ある対談でのごく短い発言から窺う箇所が出てくる。それは河上徹太郎との「歴史について」で、岡潔との対談ではなかった。「人間の建設」には、小林秀雄のアインシュタイン・ショックの話が出てくる。「それから暫くたって、ぼくは感じたのです。新式の唯物論哲学などというものは寝言かも知れないが、科学の世界では、なんとも言いようのないような物質理論上の変化が起こっているらしい。そちらのほうは本物らしい、と感じて、それから少し勉強しようと思ったのです。」──『考える人』は、茂木健一郎の「小林秀雄の音楽」が読みたくて、書店で立ち読みしてからほぼ二月遅れで購入した。

★池田晶子『新・考えるヒント』(講談社:2004.2.10)

 小林秀雄の文章はエピゴーネンの出現を許さない。なぜか。「そこには主義も主張もなく、ただ絶対的な作品の姿があるだけだからだ」。意は似せ易く、姿は真似難い。「小林をではなく小林から学ぼうという池田の真意が、君などにわかろうはずもない」。この「言葉」と題された章に出てくる池田の言葉の姿は潔い。

★ライプニッツ「モナドロジー」(清水富雄他訳,中央公論『世界の名著25』)

 一時間で読める哲学の古典と言えば「モナドロジー」。読むたびにひらかれるモナドの襞。──松岡正剛は『遊学T』で、単子(モナド)は「ライプニッツ魂理学の中枢概念」であって、それは原子(アトム)に代わる物質の究極単位でも精神単位でもなく「存在を見る単位」というものだろうと書いている。ライプニッツは存在を見る単位としてのモナドを論理単位としてつかい、神を存在するものとしてでなく記述の論理のための収束者としてつかっている、とも書いている。どういう意味だろう。

★石黒ひで『増補改訂版 ライプニッツの哲学──論理と言語を中心に』(岩波書店:2003.7.24)

◎ライプニッツの思想の現代的な性格(論理と言語の哲学の三つの特徴)
1.観念は命題の文脈において議論されねばならないという洞察
2.現実世界だけが存在し、可能なものは観念としてしか存在しないという信念
3.事物に関する(de re)観念への関心
◎ライプニッツの思索を今日の世界の人々に近づける二つの特徴
1.無限への深い関心とそれに係わる有限な証明とアルゴリズム的方法へのこだわり(ゲーデルの言葉「すべての哲学者の中で、スピノザは最も善い人間であり、ライプニッツは最も頭の良い人間だ」)
2.多様性に対する嗜好

★上田紀行『がんばれ仏教! お寺ルネサンスの時代』(NHKブックス:2004.6.20)

「縁起を生きる、そのことによって仏教は常に「現代性」を問いかけられてきた。そして、仏教が時代時代において「現代的な救い」をもたらしてきたのは、もちろん、仏教が「苦」に向かい合う宗教であるからだ。その時代時代の「現代の苦悩」に向かい合うことによって、仏教は常に「現代的」であり得てきたのだ。」(274頁)──それでは、現代の日本人が直面している「苦」とは何か。「それは「私自身が誰であるか分からない」という、自分自身の存在への不安である。そして、背景には私たちが「交換可能」な存在であると強く認識させられる社会状況があり、私たちが自分自身を「かけがえのない存在」だと思えないという、人間にとって根本的な「生き難さ」が存在している。自分の人生が自分のもののように思えない。何で自分がここにいなければいけないのかが分からない。」(277-278頁)──ここにこそ、仏教の出番がある。「しかし、仏教が現代的である得るためには、一つの転換を成し遂げなければいけない。それは、「説く仏教」から「聴く仏教」への転換である。」(288頁)──「ボーズ・ビー・アンビシャス!」(311頁)

★猪瀬直樹『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』(文藝春秋:2004.4.25)

「文藝春秋という雑誌は、芸術的価値だけでなく、内容的価値・生活的価値をも等しく同じ世界に共存させてみたのではないのかな。/「文芸作品の内容的価値」の締めくくりは、「文芸は経国の大事、私はそんな風に考えたい。生活第一、芸術第二」でした。芸術が生活より下位にある、という意味ではなく、文芸は生活の意志とともにある、と思うのです。」(242頁)

★多田富雄・鶴見和子『邂逅』(藤原書店:2003.6.15)

「そして、「われ」は地層なんです。自分というものは地層であって、今いる「われ」というのは一番浅い層で、深く掘っていくと、わたしのトーテムは鶴だと信じていますから、最後に鶴になってしまう・中村佳子さんなら大腸菌に達するし、南方熊楠なら粘菌に達するこ¥かもしれません。」(187頁)

★ルドルフ・シュタイナー『芸術の贈りもの シュタイナー・コレクション7』(高橋巌訳,筑摩書房:2004.6.10)

「いいですか、私たちは本当に宇宙現象の霊的なものの中に参入できれば、歪んだ抽象的な観念生活を生きいきとした色彩的、具象的な営みに変えることができるようになるのです。理念の表現が、まったく突然に、芸術の表現に変わるのです。実際、私たちの周囲の存在は芸術的なものとして生きています。ですからふてぶてしいくらいに抽象的な概念規定、肉体、エーテル体、アストラル体、というような、概念的、理念的なすべての言葉、このふてぶてしいくらいに直線的で、ふてぶてしいくらいに俗物的な、この恐ろしく学問的な概念規定を、芸術的な色と形の中へ組み入れなければならないのです。」(「空間遠近法から色彩遠近法へ」,222頁)

★ピーター・P・トリフォナス『エーコとサッカー』(富山太佳夫訳,岩波書店:2004.3.26)

「ウンベルト・エーコによれば、サッカーとは文化のかかえる神経症である。」(14頁)「エーコが「サッカ」ーと呼んでいるものは単なるスポーツではなく、記号論的なゲリラ戦のひとつのかたちである。」(33頁)

★野沢尚『龍時[リュウジ]01─02』(文春文庫:2004.7.10/2002)
★野沢尚『龍時[リュウジ]02─03』(文藝春秋:2003.9.30)
★野沢尚『龍時[リュウジ]03─04』(文藝春秋:2004.7.10)

 金子達仁の文庫解説のタイトルが「日本人作家による史上最高のサッカー小説」。新刊の帯に「本邦初の本格サッカー小説、シリーズ第三弾」とある。サッカー小説というと、村上龍の『悪魔のパス 天使のゴール』くらいしか読んだことがなかった。そもそもそんなジャンルがあるのかどうか知らない。(イギリスには専門の作家がいる、もしくは、いたらしい。)──サッカーは集団競技である。だから組織と個人の確執がサッカー小説の醍醐味である、というのは浅はかな考えだ。(組織と個人というと、警察小説か諜報小説)。前田英樹描くところの小林秀雄=ドゥルーズではないけれど、対象の質的分割、個体化の原理、理念的=潜在的なもの、実在との接触、問題と回答、等々の語彙が浮かんでは消えていく。──作者が亡くなったので続編が読めなくなった。ワールドカップ・アジア最終予選での志野リュウジの活躍を観る、いや読むことはできなくなった。八木沢千穂やマリア、父や母、そして第三作で登場した平義監督とリュウジの関係がどう糾われていくのか。誰にもアクセスできない場所で物語は続いている。

★江上剛『統治崩壊』(光文社:2004.3.30)

 物語のクライマックスで、檜垣会長が峰岸貴之にエリック・ホッファー自伝に出てくる言葉をプレゼントする。「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやり遂げるには勇気がいる。闘いに勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである」。

★かわぐちかいじ『太陽の黙示録』5(ビッグコミックス,小学館:2004.6.1)

 新章「日本編」に入って、新しいキャラクター(宗方操)が登場した。「二人の王が手を携えるのか、それとも袂を分かち、争い合うのか…/それは…時のみぞ知る……か。」謎めいた老婆の予言が物語の分岐を告げる。

★堂本烈『ただいま淫交レッスン中!2』(マドンナメイト文庫:2004.6.10)
★睦月影郎『やわはだ秘帖』(祥伝社文庫:2004.6.20)

 7.13水害に見舞われた新潟を早朝発って東京へ、一日某会議を傍聴して夜遅く、体調不良の身体を神戸まで運ぶ車中の無聊を癒すのはこの手の本しかないと思って堂本本を選んだがこれはハズレ。第1作にはそれなりのテーマと脈絡とそれらを超えるパワーがあった。第2作「アイドル水泳大会編」のドタバタは空回り。──口直し(?)に睦月本を読む。「秘帖」シリーズの三作目。発行日をみると正確に半年ごとに発表されている。神崎京介の「女薫の旅」シリーズ同様、コンセプトが一貫していてマンネリにならない。あいかわらず、くノ一の楓がいい。

★加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書:1980.1.25)
★荒木博之『日本語が見えると英語も見える──新英語教育論』(中公新書:1994.10.25)
★平山輝男『日本の方言』(講談社現代新書:1968.9.16)
★板坂元『日本人の論理構造』(講談社現代新書:1971.8.16)
★増原良彦『タテマエとホンネ』(講談社現代新書:1984.9.20)
★宮城音弥『タバコ──愛煙・嫌煙』(講談社現代新書:1983.8.20)
★五木寛之『日記──十代から六十代までのメモリー』(岩波新書:1995.7.20)

 息子が高校生の頃、国語の授業で「新書を読む」という課題を与えられて、小遣いを削って買って読んでいた本が、いまでも本箱に残っている。荒木本と板坂本はかつて読んだ記憶がある。べつに読む本にこまってのことではないが、ふと思いたって、ぱらぱらと流し読みで時間をつぶしてみたら、これが結構おもしろい。本そのものがおもしろいというのではなくて(おもしろくなかったわけでもなくて)、そこにはたらいていた意思(これらの本を選んだという)のようなものが遠目で透けて見えるように思えて、それがおもしろかった。
 

☆2004.8

★ジョン・リード『シリウス・ファイル』(鎌田三平訳,新潮文庫:2004.8.1)
★フリーマントル『城壁に手をかけた男』上下(戸田裕之訳,新潮文庫:2004.5.1)

 7月末あたりから極度の夏バテが続き、込み入った本を読むのが面倒になった。お気軽本はなおさらのこと。一時、小林秀雄─ベルクソン─ジェイムズの線で集中しかけていたが、いまや観念のガラクタが堆積しているだけ。感想を書くのも億劫でたまらない。『小林秀雄』や『セール、想像のモナド』など、読み終えて一月以上も経つのに何も書けない。盆を迎える頃になってようやく「リハビリ」を初めた(とりあえず『小林秀雄』の再読から)けれど、アジア杯・決勝リーグの「奇蹟」を目撃してからTVでのスポーツ観戦にすっかりはまってしまった。いまやアテネ・オリンピックにどっぷりと怠惰につかっている。──そういうわけで、この間読んだものは手練れの書き手によるエンターテイメント二冊だけ。『シリウス・ファイル』は古典的な風格と味わいがある冒険小説。久しぶりのチャーリー・マフィン・シリーズでは、いつに変わらぬ心理的駆け引きの描写を堪能した。このての本は読むほどに飢餓感が募る。じっくりと書き込まれた「濃く長い小説」引き続き山崎豊子の『華麗なる一族』を読んでいる。

★ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙──超ひも理論がすべてを解明する』(林一他訳,草思社:2001.12.25)
★竹内薫『超ひも理論とはなにか──究極の理論が描く物質・重力・宇宙』(講談社ブルーバックス:2004.5.20)

 松岡正剛の千夜千冊の第千一夜目(尾学)に『エレガントな宇宙』が登場した。「どんな「思想」も「表現」も、その起源には宇宙観が関与していたものなのである。」「われわれの想像力の根底にあるものは、古代から今日にいたるまで、なんら変わらない。/まとめれば、その根底にあるのはフィジカルイメージとバイオイメージの姿、あるいはその二つがエッシャーふうに絡まった姿というものだ。」──偶然、同じ本を読んでいた。ベルクソンの『物質と記憶』、小林秀雄の『感想』、ジェイムズの「純粋経験」やライプニッツの「モナドロジー」、ノヴァーリスにペンローズ……。いま夏バテからようやく蘇りつつある頭のなかでとぐろを巻いているそれら切れ切れの思惟の断片が「超ひも」へと一直線になだれ込んでいく?

★日本感性工学会感性哲学部会編『感性哲学』3「特集 知と感性」(東信堂:1996.6.15)

 この三月に、日本感性工学会という学会に入った。入りたかったのは感性哲学部会だが、手続上、その上位組織に所属する必要があった。東京工業大学の桑子敏雄さんと姫路工業大学(この4月から兵庫県立大学に名称変更)の岡田真美子さんが共同主宰する某研究会に参加することになったので、前々から関心があった部会に入ることにした。

★オギュスタン・ベルク『風土学序説 文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に』(中山元訳,筑摩書房:2002.1.15)

 昨年、桑子敏雄さん主宰の研究会でベルクさんにお会いしたとき、サインをいただいた。この本は濃すぎて一気に読破できない。まだ第T部までしか読んでいない。ベルクさんはそこで、プラトンが『ティマイオス』で述べた「コーラ」(場所)の理論に注目している。──知性だけが認識できる「存在」(絶対的な存在、イデア)でも、感覚だけが認識できる「生成」(相対的な存在、生誕と死にさらされる存在者)でもない第三の種類のもの。「私生児的な推論」でなければ把握できないもの。つねにそこにあるもの。振動する箕。世界を構成する存在者が誕生してくる開口部。存在=父、コーラ=母、生成=子の比喩でもって語られるもの。生み出すものであり、受け入れるもの。母型(マトリックス)であり、刻印であるもの。プラトンは『ティマイオス』で、物が位置する場所だけを表現するには「トポス」という語を使う。それでは、トポスとコーラの違いは何か。アリストテレスが『自然学』第四巻で論じたトポスの理論を踏まえて、ベルクさんは次のように書いている。
《まず場所は物から分離できる。物は動くが、場所は動かない。そして器がその中身の限界であるように、場所は物の限界である。これに対してコーラは、そこにあるものに参与する場所である。これは動的な場所であり、そこからなにか異なるものが生成してくる。ところがトポスは、その存在の同一性のうちに物を包み込む場所であり、これがコーラとの違いである。
 アリストテレスのトポスという語には、空間という概念が含まれていないので、現代的な概念とは異なる。古典古代のギリシアには、この空間という概念がなかったのである。しかしこのアリストテレスのトポスは、現代建築における場所の概念にとって重要な二つの基本的な特徴をそなえている。まずトポスには、別の場所にあることもできたはずの物を、自由に位置づけることができる。この物は場所から分離できるものであり、その物に固有で、それを包み込む局所的な場所のうちに、その同一性を維持している。だから物は周囲の場との間で、存在論的な絆をもっていない。これにたいしてコーラの概念は、まさにその正反対である。みずからの場所と分離することのできない建築であり、かくして人間の風土[ミリュー]を作り出す建築である。》(42-43頁)

★松岡正剛『おもかげの国 うつろいの国──日本の「編集文化」を考える』(日本放送出版協会:2004.6.1)
★『芸術新潮』2003年10月号「特集|橋本治がとことん語るニッポンの縄文派と弥生派」(新潮社:2003.10.1)
★『芸術新潮』2004年6月号「特集|磯崎新 日本建築史を読みかえる6章」(新潮社:2004.6.1)

 NHK人間講座・2004年6月〜7月期のテキスト。毎回テレビで観た。《「多様にして一途」といわれる日本文化。その各場面には、アワセ・カサネ・キソイ・ソロエという、独特の現収方法が強く働いている。「おもかげ」と「うつろい」をキーワードに日本文化の特徴をみる。》その肝心の「おもかげ」と「うつろい」がよく分からない。『芸術新潮』の日本美術と日本建築の特集号を読み返してみた。水平と垂直。そういってみたところで、何も腑に落ちない。いま『花鳥風月の科学』を読んでいる。

★澁澤龍彦・山口晃『菊燈台』(ホラー・ドラコニア/少女小説集成【弐】,平凡社:2003.11.25)

 人買い。人間燈台。物体(オブジェ)としての少女。自己愛としての人形愛。山口晃の挿絵がいい。

★根本美作子『眠りと文学──プルースト、カフカ、谷崎は何を描いたか』(中公新書:2004.6.25)

 プルースト、1871年生まれ。カフカ、1883年。谷崎潤一郎、1886年。この「三者を結びつけるものがあるとしたら、それはその当時誕生したばかりの新しいテクノロジー以外にはないだろう」(151頁)。リュミエール兄弟による初の映画上映、1895年。──「写真と映画という新しい現実を積極的に取り入れたプルーストとカフカが、眠りの現実にも敏感であったのは偶然ではない。なぜなら、眠りの現実そのものが、写真の現実から透けて見えてくる〈現[うつつ]〉と同質であったからだ。」(135頁)「『細雪』は、第二次世界大戦という、新技術を駆使し、一般市民もが、メディアを介して標的となった〈現[うつつ]〉的状況──敵がすぐ目の前で銃の照準を合わせなくとも、いつ襲ってくるかわからない空爆で命を落とすかもしれないという絶えざる脅威に曝されている状況──を背景に、〈現[うつつ]〉の諸相を描きながら、日本と現代西洋の架け橋を探っているように思われる。」(210-211頁)

★福田和也『イデオロギーズ』(新潮社:2004.5.25)

「アドルノのアフォリズムを書き換えよう。アウシュヴィッツ以降に抒情詩は存在しえないのではない。アウシュヴィッツは詩なのだ。」(46頁)「今日、暴力は世界を変える可能性を帯びつつある。」(90頁)「リアリティを持たない世界を生きること。その勇気こそが信仰であるとすれば、それは一体、誰との対話で有り得るのか。あるいは救済でありうるのだろうか。」(218-219頁)「」むしろ、こう問うべきなのかもしれない、人間がテクノロジーにたいして問いを発し、思考することは、まだ可能なのか、と。」(279頁)──「それでも、様々な意匠の乱舞はお目にかけられたと思っている。その乱舞の迫真において、啓蒙の実を果たしていればよいのだが。/というのも、現在が厄介なのは、小林秀雄が「様々なる意匠」で、新感覚派やマルキシズムの隊列を眺めた「楽屋」や「搦め手」が、もう存在しえないということであろう。」(283-284頁)

★貫成人『哲学マップ』(ちくま新書:2004.7.10)

 東西の哲学をコンパクトに把握する(241頁)。そんな試みに何の意味があるのか分からない。──哲学とは「全貌をパッケージとして可視化、言語化して、調整する試み」(218頁)だと著者は言う。複雑な現実をパッケージとしてとらえるためには「リアリティ・リテラシー」(242頁)が必要である。そのような「教養」を備えてこそ、現実の中で「哲学」がしめる位置が体感できる。この議論はどこか倒錯している。でもおもしろい。

★飯田隆『クリプキ──ことばは意味をもてるか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2004.7.25)

 著者は『ウィトゲンシュタインのパラドックス』について、「そこでクリプキが述べている議論そのものは、ウィトゲンシュタインはおろか、過去の哲学についてほとんど何も知らなくとも理解できる議論である」(あとがき)と書いている。

★bk1with熱い書評プロジェクト『熱い書評から親しむ感動の名著』(すばる舎:2004.4.27)

 中条省平さんが朝日新聞(6月20日)の読書欄に「書評の未来を探る意欲的な試みである」と書いている。「熱い書評」とか「魂の書評」いうコンセプトはいまひとつ掴みきれなかった(批評や研究ではなくて、感想文から始まる私的な書評?)。「草の根書評家」の一人として、オースターの『孤独の発明』で参加した。

★本郷恵子『中世人の経済感覚──「お買い物」からさぐる』(NHKブックス:2004.1.30)
★小島寛之『確率的発想法──数学を日常に活かす』(NHKブックス:2004.2.25)
★ディヴィッド・アチソン『数学はインドのロープ魔術を解く──楽しさ本位の数学世界ガイド』(伊藤文英訳,ハヤカワ文庫:2004.7.31)

 見境なく、いつ読むんだ!という叱責の声(内語)を無視して、いつか読むべしと衝動で買った二冊の本。とうとう夏休み明けまでもちこしてしまった。本郷恵子は初見。小松和彦・栗本慎一郎の『経済の誕生 鬼と富の民俗学』を読み返そうと思っていた矢先だったので、もしかして関連がありはしまいかと思った。小島寛之は『数学迷宮』『数学幻視行』以来のファンで、『サイバー経済学』も忘れ難い作品だった。数学熱を一瞬かきたてられ、ハヤカワ文庫の〈数理を愉しむ〉シリーズ・最新作を買って読んだ。面白かったけれど、かの『オイラーの贈り物』ほどではない。

★守田志郎『日本の村』(朝日選書:1978.1.20)
★アレックス・カー『犬と鬼──知られざる日本の肖像』(講談社:2002.4.25)
★アレックス・カー『「日本ブランド」で行こう』(That's Japan 13,ウェイツ:2003.12.25)
★「いい川・いい川づくり」研究会編著『私たちの「いい川・いい川づくり」最前線──全国「川の日」ワークショップからの贈りもの』(学芸出版社:2004.7.10)

 『日本の村』は増刊現代農業『21世紀は江戸時代』に一部掲載されていた。『ソトコト』6月号で文化人類学の辻信一氏が「新しい村を目指す君に、まず読んでほしい本がある」と書いていた。──書名「犬と鬼」の由来は、故白洲正子邸で「犬馬難、鬼魅易」の短冊を見たことにある。この言葉は『韓非子』に出てくる故事に由来する。時の皇帝が宮廷画家に問う。「描きやすいものは何か、描きにくいものは何か」。答えていわく「犬は描きにくく、鬼は描きやすい」と。鬼のような「派手で大げさな創造物」は容易に描けるが、犬のように身近な「おとなしく控えめな存在」はかえって描きにくい。──市民、住民が思う“いい川”と川を管理する立場での“いい川づくり”は違う。川は鏡である。この本は、共著者の一人(桑子敏雄さん)からいただいた。