不連続な読書日記(2004.6)




☆2004.6

★スピノザ『神学・政治論──聖書の批判と言論の自由』下(岩波文庫)

 第十三章「聖書の教えは極めて単純なものであること…」と第十四章「…そして終りに信仰が哲学から分離される」の二章が『神学・政治論』全体の要であり、全二十章を一望できる見通しのいいベースキャンプを設営している。(スピノザ自身、第十五章の末尾で「我々がここに示したことどもは本書の主要目的を構成するものであるから、余は先へ進む読者に切にお願いする。どうか読者は前章並びに本章を特別の注意を以て読み、之をよくよく熟考して欲しい」と書いている。)
 すなわち「預言者たちは特別の表象能力を有するのであって特別の認識能力は有していなかった。又神は彼らに哲学的秘密を啓示したのではなくて、単に極めて単純な事柄を啓示したのみであり」(115頁)云々と、自然的光明と預言的光明、理性と啓示の区分に基づく聖書批判の要諦が簡潔に要約され、次いで信仰と哲学の分離という「本書全体の主要目的」(130頁)が明かされ、「普遍的信仰の諸教義」もしくは「聖書全体の精神となっている基礎的諸教理」が七箇条(神の存在、その唯一性・遍在性、云々)にわたって開陳され(137-139頁)、最後に「哲学の目的はひとへにただ真理のみであり、これに反して信仰の目的は…服従と敬虔以外の何物でもない」「哲学は共通概念を基礎とし専ら自然からのみ導き出されねばならぬが、之と反対に信仰は、物語と言語を基礎とし専ら聖書と啓示とからのみ導き出されねばならぬ」(142-143頁)と哲学と神学の違いが要約され、「故に、信仰は各人に哲学する充分の自由を許容し、かくて人はすべてのことについてその欲するままに考え得るのであって、そうすることは少しも罪を犯すことにはならぬのである」(143頁)と「神学」から「政治(国家)論」へ、「聖書の批判」から「言論(哲学)の自由」へと橋渡しする。
 その「政治(国家)論」をめぐる最終章から「人々がスピノザの国家観を論ずる場合好んで引用するところ」と訳注にある箇所を引用しておく。《敢えて言う、国家の目的は人間を理性的存在者から動物或は自働機械にすることではなく、むしろ反対に、人間の精神と身体が確実にその機能を果し、彼ら自身が自由に理性を使用し、そして彼らが憎しみや怒りや詭計を以て争うことなく、又相互に悪意を抱き合うことのないようにすることである。故に国家の目的は畢竟自由に存するのである。》(275頁)
 同じく最終章から。《故に余はここに…次のような結論をする。敬虔と宗教をただ隣人愛と公正の実行の中にのみ存せしめ、宗教的並びに世俗的事柄に関する最高権力の権力をただ行為の上にのみ及ぼさしめ、その外は各人に対してその欲することを考え且つその考えることを言う権利を認めること、これほど国家の安全のために必要なことはないのである、と。》(289頁)

★マーク・シェル『芸術と貨幣』(小澤博訳,みすず書房:2004.1.9)

◎「1 序論」
「芸術と商業──プルーストはラスキンに倣ってこれを「美的」領域と「経済的」領域と呼ぶのだが──は本質的に別のものであるという見方を、あらためて問い直す必要がある…。」(4頁)
◎「2 芸術と貨幣」
「貨幣の何がキリスト教を苛立たせるのだろうか。(略)キリスト教的思考にとって貨幣がとりわけ微妙な問題となるのは、その価値が普遍的に等価で、また、神人キリストがそうであるように、観念的なものと現実のモノを同時に顕現させるからである。貨幣はこうして、権威と実体、精神と物質、魂と肉体の顕現として理解されることになる。私が本書全般で使う用語に倣って言えば、貨幣は銘刻とそれを打刻されたモノの両方を表わすのである。困ったことに、こうした特徴から、貨幣はキリストに接近し、競合する構成原理となる。」(6頁)
「貨幣上の問題であると同時に美学上の問題でもあるのだが、ビザンティン帝国における内乱は、精神的な神の〈身体〉表象に伴う問題、すなわち、芸術的受肉に伴う典型的な問題を孕んでいた(ダマスコの聖ヨハネは、キリストが新約聖書の中で「神の存在を表わす硬貨の刻印[charakter]」と呼ばれてていると力説した。また、聖像を崇拝した多くの教父たちにとって、貨幣的〈刻印 charakter〉は、像とその像の痕跡を表わすものが同一であることを示そうとする三位一体説のキー・ワードとなった)。」(11頁)
「ピエール・アベラールは、印爾の押印や貨幣の鋳造に絡めた複合的イメージによって、唯名論的三位一体説を論じている。アベラールは、印爾の金属、そこに押された刻印、さらに印爾としてのその生産的用途を区別しながら、父と子と聖霊を相互に関連づけるのである。」(26頁)
「キリストは財布(パース[purse])であって同時に金銭(パース[purse])でもある。」(41頁)
◎「3 表象と交換」
「非物質化の傾向は視覚芸術のみならず、今日に至るまで、二○世紀の経済を物語る顕著な特徴でもある。(略)すでに見たように。最初期の硬貨の交換価値は素材となる鋳塊の物質的実体(エレクトラム)に拠っており、鋳塊に印された銘刻に由来するものではなかった。やがて、政治的権威によって保証され、鋳塊の重量や純度と釣り合わない銘刻を印した硬貨──クレメンス=アウグスト・アンドレアエによれば、信託の対象としてのコンセプチュアル・アートはここに起源を発する──が登場すると、額面(概念的/形而上的通貨)と実体的価値(物質的/形而下的通貨)の関係をめぐるさまざまな難問への意識が急速に高まった。銘刻とモノそのものとの間のこの落差は、紙幣の導入によってさらに大きくなった。彫刻模様が印刷されている素材が紙であろうと、交換の場では、それによって何かが左右されるとはみなされなかった。かくして、銘刻の拠ってきたる実質的物体としての金属、すなわちエレクトラムと銘刻とのつながりは、ますます抽象的なものとなった。電子ファンドによる振替が出現すると、銘刻と物質との関係はついに破綻した。電子マネーの〈質料 matter〉は〈無に等しい no matter〉のだから。」(134頁)
◎「4 結論」
「芸術と商業を習慣的に対称的なものとみなすに到った背景には、貨幣的形態が芸術に本質的なものであることに対する(神についてのさまざまな信仰と関連した)審美的不安と、美的形態が貨幣に本質的なものであることに対する(等比化と表象に関するさまざまな理論に関連した)経済的不安がある。」(165頁)

「教義上の宗教は衰退したが、宗教と貨幣の結びつきは今も変わらない──相変わらず誤解されたままなのだが。神とマモンの対立を信じた古代の信仰と同様に、芸術と貨幣の差異や類似性にまつわる俗信は根強く、そうした思い込みから生まれるさまざまな問題への取り組み方や慣習的な研究方法の中にも影を落としている。芸術は「観念的な」対象であると同時に「現物」の商品でもある、という難問に発するさまざまな問題も、そうした俗信が絡むテーマの一つだ。」(167頁)

★種村季弘『畸形の神 あるいは魔術的跛者』(青土社:2004.4.20)

 ここには昔懐かしい種村季弘がいる。オイディプス(腫れた足)とグラディーヴァ(あゆみつつ輝く女)。レオポルド・ブルーム(オデユッセイア)とスティーヴン・ディーダラス(ダイダロス)。《ゾラの『居酒屋』のびっこの太母ジュルヴーズはセーヌの河畔に現れて神話的職人たちを大洋的退行へと誘惑した。ナウシカアも彼女の分身ガーティ・マクダウエルも、海辺の水のほとりでオデュッセウス=ブルームを誘惑する。(略)さあ子供にお戻りなさい、いえ、系統発生ならぬ系統退行をあえてして水中に退行しなさいと。誘惑は成功し、ブルームは首尾よく男根形の小人神にまで退行して、ついに破裂したあげく夜空の花火のように無に溶け去るのである。/やがて述べるだろうが、『ユリシーズ』より早く一九○三年に出たヴィルヘルム・イェンゼン『グラディーヴァ』でも、主人公のノルベルト・ハーノルトは沛然たる驟雨のさなかで、ふいに謎のグラディーヴァが幼年時代の片足の短い遊び友達ツォエ・ベルトガングであることに気がついて愕然とする。跛行する女はかならず水辺に出現して、水中への大洋的退行(タラッサ! タラッサ!)へと誘うのだ。》(80頁)

★河合隼雄『神話と日本人の心』(岩波書店:2003.7.18)

《このように考えてくると、『日本書紀』でヒルコが三貴子と共に誕生したことから考えて、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲが中空構造を形成するとき、ヒルコはそれにいれられなかったと考えられる。このような考えはまた、ヒルコという名が、アマテラスの別名、オオヒルメノムチと対比するとき、ヒルメ(太陽の女性)に対してのヒルコ(太陽の男性)を意味するとなると、ますます支持されることになってくる。(略)こうして名がされたヒルコが、モーゼやペルセウスのように、日本のパンテオンのなかにどのように戻ってくるのか。これは日本神話にとっての課題ではなかろうか。神話はものごとを「基礎づける」(begrunden)と言ったのは、神話学者のケレニイであるが、それはより深い世界への開けも準備するものだ、と筆者は考えている。(略)ヒルコについて、もうひとつ興味深いことをつけ加えておこう。それは、商業の神エビスはヒルコが密かに開眼に流れついて復活した神である、という伝説である。(略)このことを踏まえてファンタジーを広げると、この日本の国から追いやられたヒルコが商業の神エビスとして復活し、とうとう現代に置いて強力となり、「経済大国」日本の中心に収まる勢いを見せた、と思えないだろうか。》(323-324頁)

★斎藤美奈子『文学的商品学』(紀伊國屋書店:2004.2.23)

 神は細部に宿るといいますが、小説の面白さも細部に宿っています。それを見つけるコツは、まず「ゆっくり読む」ことです。そして、できれば「何回も読む」ことです。(はじめに)──というわけで、恋愛小説とともに文学の王道をいく「青春小説」にはじまって「風俗小説」「カタログ小説」「フード小説」「ホテル小説」「バンド小説」「オートバイ小説」「野球小説」「貧乏小説」と、「大衆消費社会と文学表現」の関係分析というか「商品情報を読むように小説を読んでみよう」という試みが進む。
 庄司薫の「薫くん四部作」について「一人称小説と衣服の関係を解き明かした、サンプルみたいな青春小説のシリーズ」と紹介し「七○年代の初頭、これほど若い読者の心をひきつけ、これほど若い連中の文体に影響を与えた小説もありませんでした。村上春樹をはじめとする今般の「青春小説」のルーツはすべてここにあるといっても過言ではありません」(21頁)と書かれていたのが印象に残った。あとオートバイは写生(「そのまんま」感の描写)に適した乗り物だ(177頁)とか「オートバイは人格をもった登場人物の一人である」といった指摘が面白い。小説の面白さは描写に宿る。

★黒田杏子『季語の記憶』(白水社:2003.11.25)

 歌枕はトポスだ。季語はコーラだ。著者は「季語は日本語の中の宝石」であると言う。《季語には著作権がない。歳時記に収められているこのインデックスは、誰でも、いつでも、何回でも自由に使うことが許される。歳月と日本人のこころによって使いこまれ、磨き抜かれた季語が珠玉の光を放つ言霊となって、庶民の生活を活性化させてくれている。季語を知ることは、自分と母国語を知ること。季語を使うことは深く自分を生きることなのだとの思いを深めてゆく。/この国には、たとえば、花冷という二文字の宝石とともに、じっくりと年を重ねてゆける人生が誰の前にも平等に開かれている。》(24頁)
 たとえば小林秀雄が『感想』の冒頭に書いた「或る童話的経験」に出てくる蛍(母親が死んだ数日後にその年初めての螢を見て小林秀雄は「おっかさんは、今螢になっている」とふと思った)。「この闇のあな柔かに蛍かな」(高浜虚子)。《夜更けに芝生の上を点滅している蛍に気づき、中庭を抜け、畑に出る。青葡萄を照らす蛍火は静謐で、この世のものとも思えない。点在する糸杉の丘。はるかかなたをゆく長い列車の窓の灯がひどく懐かしいものに思えた。》(イタリア・トスカーナ州アレッツォ郊外)──「人界へさまよい出たる蛍かな」(灘帰一)。
 あるいは蝉。「聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る」(篠原梵)。《大きな蝶がゆらゆらと過ぎたあと、弾丸のごとくよぎった蝉がどこかで啼きはじめた。たった一匹のその蝉の声に島中の石という石が反響する。私の身体は立ったまま、離島の蝉しぐれの中に溶けだしてゆく。》(四国香川県の伊吹島)──「蝉声止んで意志なきものの気配する」(灘帰一)。

★養老孟司『いちばん大事なこと──養老教授の環境論』(集英社新書:2003.11.19)

 解けない問題を立てることは凄いことだ。なぜなら問題とはシステムだからだ。人間はまだシステムを理解できていない。要素に腑分けし要素を理解することがシステムを理解することか。とんでもない話だ。(前田英樹が『小林秀雄』の冒頭で巧みな料理人の肉の切り分けの比喩を使って小林秀雄の批評における「対象の質的分割」を論じているのはこれと同じことだ。)自然はシステムだ。だから環境問題はシステムの問題だ。子どもは自然だ。だから教育や少子化は環境問題なのだ。理解できないシステムをコントロールすることなどできない。保護などできない。人間にできるのは手入れすることだけだ。──システムを情報化する。つまり脳の外にあるシステム(実体)を脳の中に入れる。脳の中に入れるとシュミレーションができる。シュミレーションとは「ああすれば、こうなる」ことである。
《実体を情報化するには、ほとんど無限のやり方がある。情報は実体の一面にしかすぎない。それが明確にわかっているなら、情報化には意味がある。/ふつうは「一面では意味がない」と考えるであろう。そうではない。一面だけをとらえてシステムが「わかった」と思うのも誤りなら、「一面しかわからないからダメ」というものでもない。われわれがシステムの限られた面しかとらえることができないのは、わかりきったことではないか。/だからたえず「情報の実体化」に戻る必要がある。それが科学の本当の意味である。実体の情報化が自分でできるためには、五感のすべてを使って、実体に触れる必要がある。》(186頁)

★小林秀雄『音楽について』(新潮CD・小林秀雄講演第六巻,新潮社:2004.1.20)

 「録音状態、保存状態ともに良好ではなく、また収録した演奏がSPレコードからの再現でもあることから、このCDには音質的に充分とはいえない面が多分に」あるにもかかわらず「なによりも小林氏が聴いたと同じ音楽を、氏が聴いたと同質の音で愉しむこと、さらにまた文字としては書き残されていない氏の音楽批評にふれること、このふたつの意義に鑑み、あえて」刊行されたこの「音楽談義」の中で小林秀雄は音というものは独立した一つの存在・命でもしかしたら音は一つの意識かもしれないと語っている。
 今の人たちは感覚的なものをバカにして頭がものをつくるように考えている。みんな自分の意識から出発するからやれ原音がどうだ音響がどうだと音を従えようとする。人間の精神というものは原音(フェノメーヌ)から超越してこれを秩序づけている。そういう立場にある。もしも音のほうに意識があって僕がその意識の一部だったならばどうして原音なんて言えますか。聴こえる音なんてどうでもいい。ベートーヴェンは精神で音を聴いているんです。
 どっかの温泉場でもってラジオでショパンのマズルカが鳴ってきたとする。三小節ぐらいで僕はあっショパンだとわかる。後はよく聞こえなくてもとっても楽しいんです。感動をちゃあんと受ける。これは中から来ている感動ですよね。ちょっとした音のきっかえさえあれば後は全部埋めることができる。この音のきっかけがなきゃおそらくないね。これは不思議なことだ。全部聴いているわけじゃないけど聴く以上のものはちゃんとある。僕にはハイドンを聴いた記憶がある。モーツアルトを聴いた記憶もある。で今度はベートーヴェンを聴こうと思うからベートーヴェンの音楽がちゃんと聴こえるんだ。これは歴史じゃないか。音楽というのは文学と同じように伝統と長い歴史があってそれを追わなければ絶対理解できない。音楽というものは歴史をしょった実に難解な意味なんだよ。音ではないんだよ絶対に。
 小林秀雄がいう歴史とは身体のことだ。身体とは感覚のことだ。知覚に物と物自体の区別があり想起に過去と過去自体の区別があるように意識には精神と精神自体や言葉と言葉自体や生と生自体の区別がある。そして感覚にはたとえば音(音響)と音自体(音楽)や色と色自体の区別がある。小林秀雄の批評はこれらの区別の上に立ち上がってくる(前田英樹はそれを「質的分割」と名づけた)。だから小林秀雄の語りは小林秀雄という意識が自らを超過するものへと向かう運動性において音楽と似てくる。
 茂木健一郎が『考える人』(2004年春号)に寄せた「小林秀雄の音楽」という文章の中で次のように書いている。《思うに、小林秀雄の語り口には、根本的な点において音楽的なところがあるのではないか。小林の講演の中には、言葉がその生成の現場において帯びる音楽の霊性がある。意味という抽象に着地する以前の言葉の持つ生の躍動がある。「講演の旧約聖書」とも称すべき小林秀雄の語りは、本来、音楽として聴くべきなのではないか?》

★天童荒太『幻世の祈り 家族狩り第一部』(新潮文庫:2004.2.1)
★天童荒太『遭難者の夢 家族狩り第二部』(新潮文庫:2004.3.1)
★天童荒太『贈られた手 家族狩り第三部』(新潮文庫:2004.4.1)
★天童荒太『巡礼者たち 家族狩り第四部』(新潮文庫:2004.5.1)
★天童荒太『まだ遠い光 家族狩り第五部』(新潮文庫:2004.6.1)

 天童荒太のストーリー・テリングは破格で、否応なしに物語の世界に引きずり込まれてしまった。ただただストーリーの着地点を、というより作者が仕掛けた解けない問いの帰趨を見極めたくて、頁を繰るのももどかしく先を急いだ。新生や再生へ向けた未来への希望や癒しと赦しに満ちた大団円などで締めくくろうものなら、あるいはこの物語に結末はない、それは読者であるあなた自身の生き方に委ねられている、たとえばそのような問いの投げ返しでお茶を濁そうものなら、必ずや焚書の刑に処すべしと、費やした時間に見合う「意外な結末」を期待して一気に読み急いだ。
 高校美術教師・巣藤浚介、児童相談センター心理職員・氷崎游子、刑事・馬見原光毅の主要な三つの人物の魂の交錯の軌跡と山賀葉子や大野甲太郎といった特異な人物の孤独の儀式(家族再生の儀式)、そしてそれらの間に配置されたやや図式的で平面的な人物群の葛藤がそれぞれ十全に展開され溶けあわされ劇的に深まっていったわけではなく、ただ流れすぎていっただけという印象とともに物語世界から放り出されたいま、「まだ遠い光」という第五部のタイトルが示唆する未解決の解決という「意外な結末」を前にして、それをとりあえずは感動という出来合の言葉で呼ぶしかない爽快感あるいは解放感のようなものに浸っている。
 天童荒太はこの作品で二つの交換(反復強迫)を描いている。「あなたの、わたしにしてくれたことが、ホームレスの方のご親切から来てて……そのホームレスの方も、女子高生に親切にされたことで、誰かにお返しをしたいと思われたのなら……(略)だとしたら……だとしたらよ、さかのぼってゆく線のどこかに、わたしの子どもも、いた可能性はないかしら? いま遠くにいるの。すぐには会えない子だけど、ずっと昔ね、大きな踏切で、渡りきらないうちに遮断機の棒が下りて困ってたおばあさんを、あの子が手を引いて、助けてあげたの。だから……」(第三部)。「或る民族が、長いあいだ迫害を受けて、大量虐殺って悲劇も経験した。結果、その民族が慈悲深くなったと思うか? 違うね。別の民族を迫害するようになるんだ。それが現実さ。この世界は、やられた奴が、誰かにやり返すシステムでできてる。あんたも、おれも、その一部なんだよ」(第五部)。
 この前者の世界につながるものとして、四国遍路の「お接待」のように無償の相互行為の交換によって生きられる可能性や病院内地域通貨の試みが(バングラデシュのグラミン銀行とともに)紹介される。「時間って実はひとつじゃないんだ、人の数だけ存在するんだなぁって、わたし感心して見てたんです。だったら、外に合わせた時間じゃなく、わたしたちの公約数的な時間を作って、そのなかで仕事をするようにしてゆけばいいんじゃないでしょうか? こうした考えを理解してくれる人は、外の世界にも何パーセントかはいると思うんです。そうした方々と、物やサービスの交換ができれば、これはこれでひとつの共同体だという気がするんです」(第五部)。
 だが家族再生を強いるテロリスト(「本当に命がけで、家族を愛してきたと答えられるのなら、しっかりとそれをかたちで見せなければ、だめだ」)は必ずや再び平和な市民社会を撃つだろう。私たちの精神の根底に(白蟻のように)巣くう暴力への契機、攻撃性が決して駆除できないこと、つまり解けない問い(自らのうちに巣くう白蟻=攻撃性の意味)を問うことがすなわち生きることであると逆説的に証しするために。「人間が思っている以上に、連中[白蟻]は利口です。集団で行動し、子孫を残すために、自分が犠牲になることもいとわない。黙々と働きつづけ、外から異常がわかったときには、もう内側はすべて食い尽くされているといった状態です」(第二部)。
 ──本書の最終部を私は柄谷行人の『ネーションと美学』に収められた「死とナショナリズム」の最終節とほぼ同時に読み終えた。そこに出てきたヤスパースの「形而上的責任」とフロイトの「超自我」の関係をめぐる議論が『家族狩り』の結末と渾然一体のものとなって私の腑に落ちていった。そもそも「四つの交換」をめぐる柄谷の「資本=ネーション=ステート」の議論そのものが『家族狩り』のテーマと通底していたのだ。たとえば『家族狩り』に出てくるドールハウス(第四部)としての家(家族)は想像力(imagination)としてのネーションに対応している。柄谷の次の文章は『家族狩り』の結末に託した天童荒太のメッセージ(白蟻とともに生きること)を代弁している。
《一九九○年以降の自体はまだまだ最終的な段階ではありえない。今後において、われわれは、今大げさに言っていることが「世界史的には」ほんの端緒にすぎないと見えるような事態に直面するだろう。そして、人間社会の発展などというものがまったくの幻想であることを思い知らされるかもしれない。だが、そうだとしても、カント以後の二百年をふりかえるとき、私は、次のカントの言葉に賛同せざるをえないのである。[以下、カント『啓蒙とは何か』から「人類は文化に関してたえず進歩しつつある、そしてこの進歩はまた自然が人類に指示した目的でもある」云々が引用される。]》(『ネーションと美学』116-117頁)

★坂本龍一・天童荒太『少年とアフリカ──音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話』(文春文庫:2004.4.10)

 社会と世界の状況を「定点観測」しながら、フィクションに抗する想像力、妄想を培う時間に裏打ちされた思考力、そして「ルーマニアの小さな村のおばちゃん」が「ああ!」と思ってくれる作品を生み出す表現力をめぐって自在に繰り広げられた三つの対談。──第一の対談(「少年」)で音楽家は言う。自分の息子が殺されたら「僕は殺したやつを殺しに行く」。息子が人を殺したら「息子を殺すと思う。僕は許さない」。小説家は答える。「でも、僕は殺すより、被害者や遺族に対して、刑罰とは別の形で、いのちある者として、罪をどうつぐなわせていくかを、自分とその子に、少なくとも遺族が生きている限り課しつづけるほうが、大事じゃないかと思ってる」(74頁)。第二の対談(「アフリカ」)で音楽家は語る。「許さないけれども、でも殺すことにはつなげない、そこを考えていく思考力が人間にはあるんじゃないかってね、初めて今朝思ったんです。(略)最愛の人が殺された。仕返ししてやる──そうではない思考力が、人間にはある」。小説家は応じる。「いま、僕はとても幸せです。坂本さんの、その言葉を聞けただけで、涙が出るくらい嬉しい」(211頁)。そして「九・一一」後の第三の対談(「イグノランス」)で音楽家は総括する。「メッセージなんかないよ、表層しかないよ、深度なんかないよという八○年代のポストモダン的なゲームはもう終わり、飽きちゃっているしね。きちんとしたことを聴きたいし、言いたいし、受け取りたいと実はみんな思っている」(273頁)。文庫版の後書きに小説家は書く。「現実に起きていることを「否認」せずに見つめるだけで、あなたが見る周囲の世界は変わってくるということを伝えられたらと思う」(283頁)。──読後、「日本の作家はなんで英語で書かないんだろう」(198頁)という坂本龍一の言葉が印象に残った。

★斎藤環『解離のポップ・スキル』(勁草書房:2004.1.15)

「現代はまさに「解離の時代」と呼びうるほどに、この問題は重要な位置を占めている」。「本書は私の最初の著作『文脈病』の問題意識を、潜在的に引き継ぐものである[『文脈病』の主要な論点の一つは、心的装置を記述するにあたり精神分析とマトゥラーナらの「オートポイエーシス理論」の相互排除的なパラダイム機能をいかに使い分けるべきかというもので、解離現象はこうした議論の応用編にうってつけの対象]」。「本書に一貫した問題意識を一言で言えば、いかにして「解離」を精神分析化するか、ということに尽きる」。以上、「あとがき」からの抜き書き。──「ヒューム=ドゥルーズ以来の伝統というべきか、意識ないし心的組織を、多数の匿名的でダイナミックな作動または因子の束として理解するというポストモダン的発想に、われわれは長らく親しんできた」(305頁)。「超越論的志向にもかかわらず、治療を目指すという捻れと矛盾を自覚的に生きること。より具体的な方法論を、ここでは二つの箴言として示しておこう。/一、判れば判るほど判らない/二、変われば変わるほど変わらない/超越論的な姿勢のもとに前者を、経験論的な姿勢のもとに後者を理解すること。超越論と経験論とが抵抗を介して唯物論的に出会う場所は、常にこのような箴言的態度のもとに、準備されるよりほかはない」(315-316頁)。以上、「解離とポスモダン、あるいは精神分析からの抵抗」からの抜き書き。──本書に収められた11篇の論文と3つの対談・鼎談の多くは、雑誌掲載時に読んでいる。これまで折にふれて頁を繰り、しばしば発想のヒントを得てきたけれども、まだ最後まで読み通していない常備本『文脈病』をあらためて読んでみようと思った。

★高橋源一郎『私生活』(2004.2.10)

 あらゆる作家の中で誰がいちばん好きかと訊かれたら、ぼくは返事に困るだろう。けれども、三人にまで絞っていいとしたらそのうちの一人に必ずチェーホフが入るだろう。そして、チェーホフの書いたたくさんの小説や戯曲の中から一つを選べといわれたら、ぼくはやはり返事に困るに違いない。そして、もし三つ選んでいいなら少なくとも『三人姉妹』は絶対に選ぶだろう。ぼくはこの作品が大好きだ。(184頁)──ここ数年放置しているチェホフ全集第8巻を早く読み上げたいと思った。

★河北新報社編集局・編『風の肖像[かたち]──「つながり」生きる人びと』(世織書房:2003.7.25)

 研究をしていて強く感じるのですが、いまの世の中は結果をまず問います。一刻も早く結果を求めようとします。でも、生きるというのはプロセスですよね。プロセスを楽しまなければ何の意味もない。活動はやっていること自体が楽しい。巻末の座談会での中村佳子さんの言葉(250頁)。

★鈴木隆之・藤井誠二『500万で家をつくろうと思った。』(アートン:2003.11.30)

 手元の現金と個人の信用だけで家を建てよう。それが500万という数字だった。土地(定期借地権)とあわせて約1500万。独身のノンフィクションライター(藤井)のこの発想に、建築家(鈴木)が応じた。見栄や虚栄心、幻想(幸せな家庭)、無知(建築の値段)、不明朗(建築業界)、信仰(土地)を超えて、「物語る空間」を構想する建築家とノンフィクションライターとの「東京激安的住居物語」。──「住宅とは「生活を入れるもの」だ。そして生活は、ひとそれぞれ、百人いれば百通りのスタイルがある。だから、住宅は、そのつどそのひとに合わせて考えられなければならない。だから、もしあなたがあなた自身の激安住居を建てたいなら、あなたの生活から出てくる哲学と工夫が必要になる」(鈴木)。「つくり手の人々の想いが蓄積された建築は生き物である」(藤井)。

★鈴村和成『金子光晴、ランボーと会う──マレー・ジャワ紀行』(弘文堂:2003.7.15)

 紀行文というのは散文表現の最高の形式ではないかと思うことがある。旅の記録というときの「旅」がそもそも五感の響き合いや身体が描く軌跡はもちろん、精神の遍歴や思考の履歴、観念の来歴を含めたあらゆる経験の比喩になりうるのだから、すべての散文はそうした意味での旅の記録を綴った紀行文にほかならない。──私が愛してやまない紀行文は、D・H・ロレンスの『海とサルデーニャ』と金子光晴の『マレー蘭印紀行』の二冊。といっても『海とサルデーニャ』はいつの日か訪れるはずのとっておきの時間のため読まずにとってある。『マレー蘭印紀行』は読書の最高の愉しみ、つまり再読の時をできるだけ先延ばしするため常備している。
 その『マレー蘭印紀行』の「蝙蝠」と題された断章(バタビア旧港の夕暮れの光景を「現在に対するノスタルジー」ともいうべき奇妙な懐旧の情をもって、まるで写真を撮るように克明な細部の描写を駆使して幻想的かつリアルに綴った文章)について、著者は「紀行というより散文詩」と評している。すなわち紀行文とは詩である。「ランボーの詩を私は紀行文として読むようになった」、そして「ランボーと並行して、日本の紀行詩人として金子光晴が私の心に大きな比重を占めるようになった」と著者は書いている。詩人とは「時間のなかを行き来する旅人」である。詩は旅であり、旅は詩である。《…古来、詩と旅は切っても切れない縁にあった。こうした旅の詩、あるいは紀行文を読んで気づくことは、旅から詩が生まれたのか、詩から旅が生まれたのか、両者の関係が錯綜し、容易に解きほぐしがたい、複雑な入れ子状の様相を呈していることだ。》
 また紀行文こには「現場の息吹」が吹き通う。そして詩人とは「現場の人」であり「現在に直面した旅人」である。金子光晴の『マレー蘭印紀行』はまさに現場で書かれた。《現場で書かれた文章は細部から、断片から始まる。それは俯瞰ということ、要約ということを知らないのだ。なぜなら現場では物事は刻一刻進行中で、それが何処へ行き着くか、一寸先は闇の、手さぐりの状態にあるからだ。進行中の出来事に身を浸している者の思考は、もっぱら体感的なもので、そのときどきの、断片的なものにならざるをえないのだった。》《“現場の魔力”というものが、『マレー蘭印紀行』のすみずみに強度のリアリティを吹き込んでいて、このリアリティが紀行文の最大の魅力をなしている。(略)そこには想像や記憶とは違う、別種の時間が流れている。ページのそこかしこに、ステップを吹く風や、熱帯雨林を渡るスコール、熱い国に特有の人々の匂いが立ち込める。(略)アフリカや東南アジアで現場を歩む人は、到来するあらゆる困難な事態にさらされている。けがや、疲労や、熱射病や、事故死や、トラブルや……。一寸先は闇の“現在”に直面した旅人の歩み。次に何が起こるか分からない。“今”の断面が刻一刻あらわになる。(略)ランボーのアラビア、アフリカ書簡や光晴の『マレー蘭印紀行』のページから今なお伝わって来るこの現場の熱気に触れるためには、それを読む人も現場に出かけるとよい。》
 ──紀行文を紀行する。散文詩的断章と写真による「旅の時間の“現在”の断片」の集合体ともいえる刺激的な本書を読んで印象に残った言葉。《ときどき、幸福ということは、熱いことではないかと考えることがある。ランボーも、光晴も、南方の暑さが放射する幸福にとろけてしまったのではないか、と。》

★佐々木幹郎『アジア海道紀行──海は都市である』(みすず書房:2002.6.25)

 詩人の旅は沿岸の小さな港町(鑑真和上の到着した港)から始まる。《旅はここから、凧や唐辛子や橘や海女など、東シナ海が運んできた文化の痕跡をさぐることに向かった。/これらは、「海彼」[かいひ。外国を意味する古い日本語]から届き、日本化され、また。東シナ海沿岸の国々に残った文化である。異域からの文化はこのようにして、具体的な形になって残る。その痕跡をたどることは、現在の風景の中に、千年から二千年の歴史を見ることに似ていた。/風景は遺伝子と同じである。海も港町も、遺伝子と同じように、驚くほど多くの過去の情報を残している。その手触りを確かめることが、わたしの旅のモチーフとなった。》(あとがき)

★黒田福美『ソウル マイハート 背伸び日記』(講談社文庫:2004.3.15/1999)

 写真展「さっき見てきた神戸・長田展──被災地からの発信」や小売と通販を組み合わせた被災地応援システム(カタログ制作)等々、「行動派女優」の悪戦苦闘の記録。《これまで、私は何度「初めての事柄」と悪戦苦闘してきただろう。/しかし振り返ればそのどれもが、成し遂げた結果より、その過程にドラマチックなことや、本質のようなものが現れていたりする。ところがそんな事柄を記録したものは意外なほど本人の手元には残っていないものなのだ。》(377-378頁)

★高橋守『行ってみたい英国庭園 その歴史と名園を旅する』(東京書籍:2004.5.18)

 もう20年近く前になるが、ロンドンにあるナショナル・トラストの本部に行ってその会員になること、英国式風景庭園をいくつか、とくにスタウアヘッド(stourhead)庭園を観ることの二つだけを目的にイギリス旅行に出かけたことがあった。「スタウアヘッドの庭園は、ウェルギリウスの叙事詩とクロード・ロランの描く風景を、想像の世界から庭園の世界へ、アエネーイスの再現として造園したものです」。「スタウアヘッドは、正に、英国風景式庭園のピクチャレスク様式の白眉といえます」。本書の第2部「行ってみたい英国式庭園15選」の紹介文と数枚の写真を眺めていると、旅の記憶が蘇る。

★小泉武夫『発酵は力なり〜食と人類の知恵』(NHKライブラリー:2004.5.15)

「発酵というのは、実は大変スローな文化です。ゆっくり時間をかけて一生懸命微生物を育て、そこからすばらしい風味をもったものを作っていくのです。ですから日本の伝統的な食文化というのはスローフードであって、ファーストフードではありません。」(184頁)──最終章「人類を救う発酵革命」で、「FT革命=ファーメンテイション・テクノロジー」[fermentation technologu]による21世紀の四つの問題(環境、健康、食糧、エネルギー)の解決方策が示されている。

★結城英雄『ジョイスを読む──二十世紀最大の言葉の魔術師』(集英社新社:2004.5.19)

 ブルームズデイ百年祭までには、つまり2004年6月16日までには、『ユリシーズ』を読み終えたかった。でも、かなわなかった。そのかわり、にはならなかったけれど、本書を読んで、『ダブリンの市民』に痺れて以来のジョイス熱が再発し、『ユリシーズ』再読への、そして『フィネガンズ・ウェイク』挑戦への、意欲をかきたてられた。「ジョイス産業」にどっぷりと身と心を浸した著者の、たとえば、「こうしてスティーヴンは単一の視点を求め、ブルームは多様な視点を包摂する。スティーヴン的なものからブルーム的なものへのジョイスの文学的転換はモダンからポストモダンへの転換と言い換えることもできるだろう」といった、いかにも業界向けの、何事かを語りながら結局は何も語っていない、内容空疎な、しかし、だからこそ好感がもてるし、読者を「楽しいジョイス」へと誘ってやまない叙述を透かして、重ね書きされたジョイスの豊饒な文学世界が浮かびあがってくる。本書がふんだんに提供してくれる、入門者向けの情報のなかで、『ユリシーズ』をめぐるT・S・エリオットの評価と、ヴァージニア・ウルフのアンビバレントな辛辣との対比が、とりわけ面白かった。

★ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』上下(越前敏弥訳,角川書店:2004.5.30)

 読み始めてすぐに『奇岩城』や『813』や『続813』といったモーリス・ルブランの冒険小説が思い浮かんだ。暗号推理の傑作というだけではなくて、冒険の始まりを告げる作品の雰囲気がとても似ているように思った。読み進めていくうちに本書上巻にその名が出てくる『ハリー・ポッター』を思い浮かべるようになった。読み始めたらとまらない徹夜本の気配が濃厚に漂ってきて、くっきりとした映像が頭の中で自在に動き出した。上巻から下巻に進む頃になると、ダイイング・メッセージや暗号の解読といったパズル小説の趣から、編集され重ね書きされた歴史の謎をめぐる神学ミステリーへ、そして「シオン修道会」や「オプス・デイ」(神の御業)が入り乱れての聖杯探求譚へと物語は一気にドライブしていった。これほどの素材、趣向をこれほど軽やかに描いたエンターテインメントにはそうめったに出会えるものではない。
 それだけではない。『ダ・ヴィンチ・コード』が遡り解き明かした謎は、封印された歴史の闇だけではなかった。西欧原産の「文学」の源流、すなわち神話や伝説(暗号)が伝承するものとその復号化。そしてエンターテイナーの源流、すなわちトゥルバトゥール。これら二つのことが、『ダ・ヴィンチ・コード』の最終場面に出てくる次の文章と響き合っている。
《「わたしたちの魂のたすけとなるのは謎と驚きであって、聖杯そのものではないのよ。聖杯の美ははかなさにこそ本質がある」マリーは礼拝堂を見あげた。「ある者にとって、聖杯は永遠の命をもたらす杯。またある者には、失われた文書と謎めいた歴史への探究。そして大半の者にとって、聖杯はただの壮大な幻想……今日の混沌とした世の中においてさえ、わたしたちに希望を与えてくれる、すばらしい夢の宝物ではないかしら」/「しかし、サングリアル文書が隠されたままなら、マグダラのマリアの話は永遠に失われてしまう」/「そうかしら? まわりを見てごらんなさい。彼女の話は芸術や音楽や本のなかで語られているわ。日々増してさえいるかもね。振り子は揺れているのよ。人類の歴史と……破壊の道の危うさを、だれもが理解しはじめている。そして、聖なる女性を復活させる必要も」マリーは間を置いた。「聖なる女性の象徴について原稿を書いているとおっしゃったわね」/「ええ」/マリーは微笑んだ。「ぜひ書きあげてね、ミスター・ラングドン。彼女の歌をうたってちょうだい。世界は現代の吟遊詩人を求めているのよ」》
 本書を読み終えて、二つのことが頭に浮かんだ。一つは、「英文学」の始まり十九世紀のインドであった、という『ジョイスを読む』(結城英雄)の『ユリシーズ』を解説した箇所に出てくる指摘。(ジョイスにとって英語は植民者の言葉だった。)いま一つは、同じく『ジョイスを読む』の『フィネガンズ・ウェイク』を解説した箇所に出てくる、「ジョイスは書いては圧縮し、さらに追加しては圧縮することを繰り返した。重ね書き(パリンプセスト)とも呼べるし、漆塗りの技法にたとえる人もいる」という文章。(ジョイスの文章は「ケルズの書」に現れるケルト渦巻き文様にもたとえられる。)これら二つのこともまた、ロスリン礼拝堂で交わされた上述の会話と響き合っている。(レックス・ムンディ=世界の王キリストとケルト。黒いマリア=マグダラのマリアとケルト。)

★ヘンリー・リンカーン『隠された聖地──マグダラのマリアの生地を巡る謎を解く』(荒俣宏監訳,河出書房新社:1997.1.14)
★荒俣宏『図像学入門』(マドラ出版:1992.12.5)
★若桑みどり『絵画を読む──イコノロジー入門』(NHKブックス:1993.8.1)

 神学ミステリー『ダ・ヴィンチ・コード』の「参考書」として駆け足で読んだ。というか一瞥した。どれもスリリングで面白かった。「基本は五角形なのだ」とか「バカ」「ボケ」「パー」の三つの見方(パノフスキーの「自然的」「伝習的」「内的意味」の三つの段階と関連する?)とか。いずれゆっくり読み直したいと思った。──このほか木村重信『ヴィーナス以前』やエルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』も瞥見したけれど、これはまた別の機会に読み直そう。

★金谷武洋『英語にも主語はなかった──日本語文法から言語千年史へ』(講談社選書メチエ:2004.1.10)

 「日本語はある状況を、自動詞中心の「何かがそこにある・自然にそうなる」という、存在や状態変化の文として表現する」。つまり「自然中心」の発想・世界観に裏うちされた「ある」日本語。あるいは「虫の視点」(移動)で状況をコトバ化する人称代名詞不要・アスペクト優位の日本語。「一方、英語は同じ状況を、「誰が何かをする」という意味の、他動詞をはさんだSVO構文で示す」。つまり「人間中心」の発想・世界観に裏うちされた「する」英語。あるいは「神の視点」(不動)を得た人称代名詞必要・テンス優位の印欧語。──ここまでならよくある(現在に固有な現象を普遍化し過去に遡及して見出す)「比較」文化論の別ヴァージョンでしかない。面白いのは、西洋語の「自然離れの航海」を遡って古英語と日本語の構文の類似を確認し、印欧語古語に見られる「中動相[Middle Voice]」(形は受動相、意味は能動相)を「印欧語における無主語文」と喝破し、黙殺された三上(章)文法=土着の文法へのオマージュで結ばれる後半部。──柄谷行人は「ネーション=ステートと言語学」で「一九世紀の史的言語学[印欧比較言語学]は、ネーション=ステートの拡張としての帝国主義のイデオロギー」であったと書いている(『ネーションと美学』176頁)。著者は本書でイデオロギーとしての日本語文法の解体修復を試みている。

★スティーブン・ロー『フィロソフィー・ジム──「考える脳」をつくる19の扉』(中山元訳,ランダムハウス講談社:2003.12.15)

 「哲学を学ぶことで培われる思索的な態度と技能は、生活の質を信じられないほど高めてくれる」。以下、初級・中級・上級の表示がある19の問いが用意され、それぞれの章は対話形式の叙述、高名な思考実験の紹介、若干の引用、「結論」と進む。訳者による「読書案内」もついていて、入門書としての出来はとてもいい。じっくりと読むにはコクが足りないが、かといって飛ばし読みをしてはあまり意味がない。(19の問いの並べ方になにか「法則」のようなもの、あるいは「意図」があるのかないのか。あるに違いないと思うが、考えるのが面倒になってやめた。)

★中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』(ちくま新書:2004.6.10)

 数十本の映画の予告編もしくはハイライト・シーンをジャンル別に編集して一本の映画にまとめあげたような作品。あるいは数十冊の哲学本のサワリ(概念)を別の文脈とテーマに応じて数珠繋ぎにした哲学的概念の見本帳もしくは概念のテーマパーク。この種の本は概念移植の手捌きとその連結・並べ替えのセンスが決めてで、ややもするとお気軽で浅薄なテツガク本に堕してしまうものだけれど、サイエンス・ライターならぬフィロソフィー・ライターとして新境地をひらきつつある著者はそのあたりの勘所を心得ている。「〈ぼく〉とは誰だろうか。〈ぼく〉はどのようにして〈ぼく〉となり、〈ぼく〉として持続することができるのだろうか」。この「自分が宇宙の妖怪の幻ではないか」と本気で考えた学生の頃の問いをもちだして、可能世界・分身の問題系から記憶、言語、他者、共同体、身体、環境、媒介と、〈ぼく〉と世界をつなぐ絆をめぐる問題群に即して猛烈なスピードでもって数々の概念(思考の道具としての)を自在に繰り出していく。この叙述の順序、問題と概念の配列そのものに著者の「思想」は語らずして示されている。とりわけ最終章に出てくる「肉」の概念をめぐる考察──メルロ=ポンティの「世界の〈肉〉」をレジス・ドゥブレの「社会の〈肉〉」(象徴的な〈肉〉)に連結し、身体・環境・媒介という「共同体の内と外」をめぐる考察に一本の線を引いたもの──は刺激的で、今後の展開の可能性に期待できる。読み尽くすことのできない深みをそなえた〈ぼく〉という書物=肉。《この本では宇宙の妖怪のような〈ぼく〉から考察を始めた。そして自己について、他者について、共同性について考察するうちに、〈ぼく〉というものが、他者や共同体の存在のもとでしか生まれず、存在しえないことを確認してきた。〈ぼく〉のうちには、他者や共同体が不可視の形で畳み込まれているのである。〈ぼく〉を読むこと、それはぼくのうちに畳み込まれた他者や共同体や風土を読むことでもある。ぼくたちにとっても、自己はまだ読み尽くすことのできない深みをそなえているのだ。》(212頁)

★酒井隆史『暴力の哲学』(シリーズ道徳の系譜,河出書房新社:2004.5.30)

 ドイツ語の Kritik(批評)の語源は krinein(分離)。「つまり暴力を[カント的な意味で]批判するとは、(暴力の廃絶という理念に立脚しながらも)暴力そのもののなかに線を引くということなのです」。ベンヤミンの「暴力批判論」に言及した箇所で著者はそのように書いている。「戦争/平和」「悪しき暴力/正しい暴力」等々の様々な線引きがあるなかで、著者はまず政治的意味(革命、民族解放など)の喪失という「暴力の新しいパラダイム」に即して「暴力/非暴力」の分割を論じ(第一部)、ついで「主権」とともに近代国家を規定していた「セキュリティ」の変質に即して「暴力/反暴力」の峻別を論じる(第二部)。そして最後に「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」というメルロ=ポンティ(『ヒューマニズムとテロル』)の言葉を屈折点として「政治の道具=手段としての暴力/人間存在の多様な力の表出(生の発現)としての暴力」の区分に説き及び、再びベンヤミンに戻る。
《ここで最初の問いに戻ってみます。暴力を拒絶することは、暴力を批判することには必ずしもならない、むしろ暴力の抽象的・一般的な拒絶は、暴力を呼び込んでしまう仕組みがあることに注目する必要があるということから入りました。暴力の拒絶が、暴力をもたらす、という循環の仕組みを、主権という項を挿入しながら考えてみました。野村修は、ベンヤミンを手がかりにしながら、抽象的なモラルである暴力の否定が暴力を呼び込む構造を断ち、暴力の質を評価する基準を設定するために、もう一つの項である「反暴力」を挿入しました。それは、あらゆる国家暴力の廃絶の理念を胚胎しているかぎりにおいて、あらゆる暴力を構造化している制度そのものを解体する質をはらんでいるかぎりにおいて、暴力のもつ問題性をはらんではいるけれども、しかし用語されねばならない、というのです。しかしそれでも、この「反暴力」を正当化されない対抗的暴力からどう区別できるのか、いまひとつよくわかりません。(略)法を創設したり維持したりする主権をめぐる暴力、血の匂いのする暴力を神話的暴力、そうした仕組の一切を解体する血の匂いのしない浄化的暴力を神的暴力とベンヤミンは呼びましたが、それはこの反暴力とも近いといえないでしょうか? そこにはより深遠な含蓄があることは認めますが、恐怖によって求心性の磁場をつくりだす主権を拒絶する力。残酷の組織化とエスカレーションを可能なかぎり回避するものとしての。そして、そこに非暴力直接行動があらたに位置づけられるのかもしれない。国家と主権が折り重なった時代の終わりとともに、直接行動あるいは直接活動の創造性をどこまでおし広げられるか、そこにもしかすると、いまという時代の核心がかけられているのかもしれません。》(210-213頁)

★ジリアン・テット『セイビング・ザ・サン──リップルウッドと新生銀行の誕生』(武井楊一訳,日本経済新聞社:204.4.23)

 『オンリー・イエスタディ』ではないけれど10年、15年、せいぜい20年の近未来ならぬ「近現代」の優れたノンフィクションを読むと、人間は、いや私はほんとうに忘れっぽい存在であることに思いが至る。忘れっぽいのではなくて、実は何も知らなかった。知ろうともしなかった。知らないだけではなくて、実は何も感じず、何も考えていなかった。何かを感じ、考えようともしなかった。ただその場その時のリアリティに流されていただけだった。リアリティと言っても、所詮それは新聞の紙面やテレビの画面に垂れ流されていた情緒的な気分のようなもの(瑕疵担保条項=平成の不平等条約とか外資=黒船とか新生銀行上場=濡れ手に粟とか)でしかない。この国のマスコミにほんもののジャーナリズムが根づいていないことなど周知の事実だし、それをとやかく言える国民、いや私でないことをいまさら反省しても遅い。
 ジリアン・テットがこの「長銀と新生銀行の大河ドラマに巻き込まれたさまざまな登場人物」(392頁)たちに注ぐ視線は優しくかつ慈愛に満ちている。長銀崩壊というスケープゴート劇を描く第一部の「サムライ・バンカー」大野木克信。リップルウッドによる長銀買収のプロセスを扱った第二部のティモシー・コリンズ。新生銀行の東証上場までを追った第三部の八城政基。彼らの言動を叙述する著者の筆は公平かつ人間的寛容に満ちている。とりわけ日債銀あらため「あおぞら銀行」の新社長本間忠世の死を取り上げた短い挿入章は感動的ですらある。それは結果を知る者が渦中にあった人間に寄せる後知恵の公平さやイデオロギー的立場から一刀両断式に示される寛容ではない。真正のジャーナリストのみが持ちうる洞察とすべてを知り得ないという潔い断念に裏打ちされた深い「同情」がそこにある。
 日本の金融問題に対する著者の立場は明確で、小泉・竹中の改革路線への評価と日本的システムへの批判は一貫している。しかし「システム」の外から問答無用式に裁断を下す傲慢さや「システム」に内在する生身の人間への紋切り型の決めつけとは無縁である。ジャーナリストに何より必要な歴史感覚を持って「日本の金融物語を人間の側から描いてみること」に徹したこの作品は、神ならぬ人間の、つまり「システム」(445頁)を鳥瞰し得ない愚かさを鮮烈に描いた現代日本の「悲劇」である。

★吉川元忠『経済敗走』(ちくま新書;2004.6.10)

 『マネー敗戦』を読んで経済現象を読む目が養われた。国家戦略という名の剥き出しの国益追求とそれをカモフラージュする経済理論という名のまことしやかな言説。そして「他者の言説」を鵜呑みにして上辺の事実と情緒を情報の名のもとに垂れ流すマスメディア。表面に現れた現象を覆うそれらの鱗を何枚も落とさなければ経済の本質は見通せない。要するに経済問題は国際政治の問題である。──著者は本書で「敗戦」後の日本の惨状(失われた二十年)の遠因と実態と帰趨をめぐる詳細な分析を踏まえて二つの選択肢を提示している。その一、デノミや預金封鎖とも関連するドルと兌換可能な新紙幣の発行。つまり日本経済の「ドル化」(ドル建て経済化)への道。その二、アジア債券市場の創設から着手されるアジア通貨協力への道。この大局観は正しい。でも本書の大半を占める「リスクとしてのアメリカ」をめぐる論述がまことしやかな「陰謀史観」に堕していないか、私には判断がつかない。

★加藤郁也編『吉田一穂詩集』(岩波文庫:2004.5.18)

 6月6日付け朝日新聞の読書欄で歌人の穂村弘さんが中井英夫『新装版 虚無への供物』や夢枕獏『腐りゆく天使』と並べて紹介している(「今こそリアル 反世界・反時代の思想」)。いわく「西脇順三郎をして「若しこの人が詩生活をせずに自然科学を専門にやっていたらノーベル賞に値する何か原理を発見したかも知れない」と云わしめた吉田一穂の詩集が文庫化された。裏返しの「自然科学」としての「詩」に懸けた彼もまた「この時空に現存しない私のふるさと」を想い続け、反・世界への翼を広げた一人であった」と。──かつて『吉田一穂大系』(仮面社)に驚愕し、「あゝ麗しい距離[ディスタンス]」(「母」)、「燈[ラムプ]を点ける、竟には己れへ還るしかない孤独に」(「白鳥」)、「望郷は珠の如きものだ。私にとって、それは生涯、失せることなきエメラルドである」(「海の思想」)といった切れ切れの詩句断片に憑依された私にとって、このコンパクトに凝縮された「反世界」の書物は、汲めども尽きぬ霊感と戦慄をもたらす聖典である。──加藤郁乎の「解説」がいい。抽象化され幾何学的に展開された「思考本位の詩人」、「絶対詩の世界」、「純粋絶対詩」といった語彙群、「古代緑地を髣髴する北の極への誘い、地球上には存在しないながらおのれの意識現在にのみ存在する〈白鳥古丹〉[カムイコタン]、そしてケルト的薄明への傾倒は吉田一穂の詩作における永久磁石のようなものである」などの評言は、それ自体がひとつの玲瓏堅固な詩的世界を造形している。「詩は三行で良い。天と地と人──生物、生命でし」と詩人が吐露した「詩的心情」や、地質学者井尻正二の「一穂論を書くなら積丹半島からの海や背後の山や森を眺めてからにして欲しい」という言葉が素晴らしい。

★柄谷行人『ネーションと美学』(定本柄谷行人集第4巻,岩波書店:2004.5.26)

 「ネーションはたんなる想像 fancy ではなく、国家と市場社会とを媒介し綜合する「想像力」imagination なのである」。「序説」に出てくるこの地口が本書のテーマを鮮明に示している。近代において形成された「資本=ネーション=ステート」の三位一体について考える際、ネーションの媒介機能について考えるとき、「われわれはむしろ想像力について考えなければならない。というのは、ネーションが成立するのと、哲学史において想像力が感性と悟性を媒介するような地位におかれるのとは同じ時期だからである」。
 感性と悟性(理論理性)の二元性を総合し、それらを直接的につないだロマン派哲学者流の思考(感性と悟性を越える直観的知性を見出し、すべての認識の根底に芸術を見出す)を著者は「美学的」と呼ぶ。この場合、カント的二元論からロマン派的一元論への移行はたんなる哲学的形式の問題ではなく、フランス革命前後のアソシエーショニズムからナショナリズムへの転向とパラレルであった。《カントにとって、アソシエーションは「想像=創造された共同体」であった。すなわち、そこでは、それが創造されたものであること、あるいは創造されるべきものであることが自覚されている。ところが、ロマン派はそれを実体化した、すなわち、「美学化」した。そのとき、ネーションが実体的に見出されたのである。カントがコスモポリタン(世界市民)であったのは、こうしたナショナリズムの圧倒的な傾向に対抗してであった。彼は国家や共同体から自由であるような個人のアソシエーションの可能性を求めつづけた。》
 以下、著者は「序説」において資本=ネーション=ステートの「地」としての帝国主義(それは「帝国」とは違う)を分析し、資本・国家・ネーション・宗教・アソシエーションの構造論的な把握の必要性を論じる。続いて「死とナショナリズム」で、後期フロイトの「死の欲動」(それは第一次大戦後、多数の戦争神経症患者に直面するなかで生じた「歴史的な概念」であった)や「超自我」(それは攻撃欲動の内向を通じて「内から」生じる自律的なものであった)の概念からカントの道徳論の謎を解明する「トランスクリティカル」な読解を通じて、ロマン派的な美学化=実体化のうちに見出されたネーションの核心をなす「個体の不死」の問題を論じる。さらに「美術館としての歴史」「美学の効用」において、ナショナリズムと美学的意識、政治的言説と美的言説、あるいは芸術と経済の関係を論じ、「ネーション=ステートと言語学」「文字の地政学」で、言語のレベルにおける美学的思考(帝国の言語=文字言語に対する俗語=音声言語の重視)を論じている。
 全編にわたって柄谷的逆説やレトリックが駆使された刺激に満ちた論考だが、論証の手を抜き書き急いだとしか思えない箇所──たとえば「国家の揚棄=世界共和国」の達成をめぐって、「人類は文化に関してたえず進歩しつつある」「人類が道徳においていっそう高い段階に達すると、これまでよりも更に遠くまで前方が見えるようになる」云々といったカントの言葉に託して希望を語っている──もある。それは新生・柄谷行人の萌芽なのかもしれない。

★E.M.シオラン『涙と聖者』(金井裕訳,紀伊國屋書店:1990.1.31)

「…性とは生理学的水準において、天にむかって開かれている唯一の門である…。」(38頁)「ものにはそれぞれ固有の言葉があり、私たちはこの言語を類例なき沈黙の力をかりて解読するのである。」(66頁)「バッハを聴いていると、神の芽ばえるのが見える。彼の作品は神の発生器である。」(84頁)「…神学とは、信仰の無神論的解釈にすぎない…。」(98頁)。「親密さの、そして内密の沈黙の巨匠、デルフトのフェルメールが、規模壮大な濃淡法によらずに、微妙なタッチを使い、親しみ深い室内の雰囲気で孤独の印象をやわらげながら、その肖像画と室内画のなかで私たちに啓示するものは、触知できるものとなった沈黙である。」(108頁)「およそ時間を否定するものは、すべて病いである。はかなきものの崇拝、これのみが生においてもっとも純粋にして健全なるものである。永遠とは絶えることなき腐敗であり、そして神とは人間がその上でゆったりと寛ろぐ屍体である。」(112頁)

★狐『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』(ちくま文庫:2004.1.7)

 噂には聞いていた。「紹介された本よりも、書評のほうが面白いとのウワサもちらほら」とカバー裏に書いてある。選書がいい。タイトルが利いている。評言のキレがいい。読みの視点が鋭い。梶井基次郎の「路上」を読んで「人生の危うさを、こんなに的確に、こんなに切なく書き上げている小説は、すでに立派な中年の文学である」(70頁)と喝破する。チェーホフには明るい読み方と暗い読み方があると述べた上で、「たいくつな話」の冷えびえとした世界について「ところが、悲しくも、どこかおかしいのである。老教授の風采の上がらぬ外面も、世間とちぐはぐな内面も、どこかいとしく、安らぐ感じがするのである。これが我々の姿だと思うのである。懐かしい。暖かい」(168頁)と書く。池内紀個人訳カフカ全集を「カフカが変わる。池内紀の大仕事がはじまった」(182頁)と鼓舞する。吉田健一の本を読んで「これまでわれわれはいかに深刻で、重い意味を担ったものだけを文学と思わされてきたことか」(310頁)とあっけにとられてみせる。岡崎京子の『うたかたの日々』をめぐって「悲傷にして笑止。女の肉体を描くペンの精妙さと、ときには思わず噴き出させるブラックな可笑しさ。白眉はラスト語ページだろう。恋愛マンガとして、息をのむほど美しい」(399頁)と絶賛する。狐の書く文章は旨い。

★日垣隆『日本につける薬』(実業之日本社:2004.4.21)

 其の四「読み書き力」に「書評の条件」という文章が収められている。依頼を引き受けるとき、著者が編集者に示す条件が四つあるという。本は自分で買い、自分で選ぶ。自分の信用を賭けるに足る、心から薦めたい本しか取り上げない。書評で取り上げる著者の他の本は、すべて読む(なぜその一冊を読者に薦めるのかというクロスチェックのため)。その本のなかで主な舞台になっている場所に行ったことがない場合は必ずそこへ足を運ぶ。「プロの書評行為」はすごい。

★村本治『神の神経学──脳に宗教の起源を求めて』(新生出版:2004.4.30)

 脳研究の側から神の概念や宗教体験を考察する第一部、宗教・哲学の側から脳に刻まれた宗教や「内なる神」の概念を展望する第二部、それらを総括して神経科学に基づく新たな宗教の見方、「神経学的神論」(neurotheism)を提示する第三部。良心の声を聴かせ、内に宿る神を感じさせる「神の神経回路」。あるいは神経回路網として脳に内在する神。著者は最後に、共に脳内の神経回路に内在する「内なるアヘン」(脳内麻薬物質)と「内なる神」の有用性に説き及び、「科学による「行ける宗教」の復活の可能性」に言及する。[http://www.neurotheism.org/j/book.htm]

★山本貴光・吉川浩満『心脳問題──「脳の世紀」を生き抜く』(朝日出版社:2004.6.9)

 21世紀は「脳の世紀」である。脳科学の発展は新たな答えと問いを同時に突きつけてくる。それにたいしてわたしたちがどう考え行動するのかが問われている。本書はそのような時代における「脳情報のリテラシー」(脳の世紀を生き抜くために必要な基礎知力、すなわち「週末の科学者」が軽々しくかつもっともらしく繰り出す「科学の知見を不当に拡張したおしゃべり」に騙されないためのリテラシー)を提案しようとするものである。著者たちは冒頭にそう書いている。
 そのためまず前半部ではギルバート・ライル(科学の説明と日常の経験との「ジレンマ」や「カテゴリー・ミステイク」)とカント(自由と自然法則をめぐる「第三アンチノミー」)と大森荘蔵(科学的描写と日常描写の「重ね描き」)を決定的な導きの糸として心脳問題の核心=震源地に迫りその解決=解消を図る。次いで(本書の意図から言えば中核をなす)後半部において心脳問題を現代的な文脈(コントロール型社会と脳工学と脳中心主義のトライアングル)のうちに位置づけその「政治性」に説き及ぶ。そして終章では「一般化しえない特異な出来事が継起する[もしくは時間の流れのなかで履歴を重ねながら存在しつづけている]事物の本来的なありかた」としての「持続」の概念を提示する。
 戦略性をもって鮮やかに練り上げられた構成(「ジェットコースターに乗っているようなめくるめく展開」と大澤真幸)とそれに相応しい明快な主張をもった本(「知性の書」と石田英敬)である。なにより巻末の「作品ガイド」で紹介された百冊ほどの書物から摘み取られたいくつかの概念を巧みにコラージュしていく自在な語り口が見事だ。「二人で一人」のドゥルーズ/ガタリならぬ「二人合わせて半人前」(あとがき)の著者たちによるもう一つの『哲学とは何か』。
 ──心という非物質的なものと脳という物質的なものとの関係を問題にするとき、「心」とは何か、「物(物質・もの)」とは何か、「関係」とは何かが三位一体的に解明されなければならないと思う。(本当は「問題」とは何か、あるいは誰が問題にするのか、そして解明するとは何かを含めた四位一体的な考察を通じて第五の問題として心脳問題が浮上してくるのだと思う。)
 その意味で本書では科学者たちによる「物質とは何か」(物質としての生命=システムとは何かを含む)をめぐる思考があまりにも早々と切り捨てられている。(だから前半部のうち物質としての脳の研究史をめぐる長い挿入が完璧に浮いていて本書の唯一の構成上の疵となっている。)またそもそも本書では「心とは何か」をめぐる叙述にほとんど見るべきものがない。(だから大森荘蔵流の心脳問題の解決=解消や最後に出てくる「持続」の概念にそれほどの衝撃や迫真性が伴わない。そこでいったい何が解消され持続するのかがよく判らない。)でも本書の核心は間違いなく後半部にある。心脳問題が孕んでいた現代的な意味を白日のもとにさらした本書後半部の達成はそれだけで充分素晴らしい。