不連続な読書日記(2004.4)




☆2004.4

★中沢新一『精霊の王』(講談社:2003.11.20)

 『世阿弥を語れば』(岩波書店)に収められた土屋恵一郎との対談で、松岡心平は「現代思想の潮流、例えばドゥルーズみたいなものと共鳴させると金春禅竹がみえてくる」と語っている。この「ドゥルーズみたいなもの」と共鳴する金春禅竹の思想は、本書第七章の『明宿集』と第九章の「六輪一露」の説の解明を通じて存分に腑分けされている。中沢新一が、環太平洋的な広がりをもったものとしてとりだした金春禅竹の宿神(シャグジ)的思考は、その構造(並列性=二原理性)と作用(転換・転化・媒介)と能力(物質産出)において、どこか底知れない深みに達している。《スピノザの哲学が唯一神の思考を極限まで展開していったとき、汎神論にたどりついていったように、金春禅竹の「翁」一元論の思考も、ついにはアニミズムと呼んでもいいような汎神論的思考にたどりつくのである。これほどの大胆な思考の冒険をおこなった人は、数百年後の折口信夫まで、私たちの世界にはついぞあらわれることがなかった。》

★中沢新一『対称性人類学 カイエ・ソバージュ?』(講談社選書メチエ:2004.2.10)

 朝日新聞で天外伺朗がカイエ・ソバージュ全巻の書評を書いていた。量子力学と深層心理学から借用した二つの概念、ボームの「明在系・暗在系」とユングの「集合的無意識」に(たしか)積分論を加味して、好き放題の想像力をふくらませた『ここまで来た「あの世」の科学』は、結構好きな「サイエンス・フィクション」だった。「欲をいえば、本書の内容を頭だけで理解しても十分ではなく、土や森と親しむ自然体験や、瞑想などによる内面の体験を通して身体的に把握できることが望ましい」という評言もきわめて真っ当なものだったと思う。(真っ当だとは思うが、「自然体験」や「内面の体験」や「身体的把握」もまた言葉でしかない。だから、言ってもしかたがない。)それはそうなのだが、それにしても天外伺朗が中沢新一を論じるというのは、それも、一神教型資本主義(グローバリズム)にたいするオルタナティブを提案できるのは旧石器時代に芽生えた仏教の思想だけだとか、性的体験と宗教的体験は無限集合の構造をもつ流動性無意識が自由に対称性の運動を楽しんでいるときの幸福感=悦楽のあらわれだとか、超準経済学としての普遍経済学というものは絶対に存在するはずだとか、新しい「神即自然」というスピノザ的概念のよみがえりを通じた未知の形而上学革命といった議論が出てくる本書を評するのは、あまりにできすぎた話ではないかとちょっと心配になってくる。

★中沢新一『緑の資本論』(集英社:2002.5.10)
★中沢新一『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ?』(講談社選書メチエ260:2003.1.10)

 経済学の勉強のための個人的な備忘録。──とりあえず『風土学序説』(オギュスタン・ベルク)を読み進めつつ、中沢氏新一が(『フィロソフィア・ヤポニカ』や『精霊の王』で)示した「日本的なもの」(縄文的な野生の思考に根ざしたもの)を、たとえば松浦寿輝の『折口信夫論』などと照らし合わせながら検証していく(橋本治の「縄文=芸術」対「弥生=生活」の区分による日本美術史を織り交ぜながら?)。そうした「理論的」な作業と並行して、もう少し「実証的」な作業を進めていく。
 まずは、「コーラ」⇒「場」⇒「連」とたどってみること。田中優子(「連の場」、『クラブとサロン』)によると、「連」には二つの機構がある。一つは、神の座としての連の場(人が遊ぶことは、同時に神が遊ぶことであった)。二つは、「連らなり」(日本的サロンでは、必ずしも人が「集まる」のではない。誰かが人を「集める」のでもない。人から人へ連らなるのである)。ここから、「座」(たとえば連句の座)や「寄合」「会所」へ。そして「惣」をはじめ農村共同体の組織へ。たとえば「若者組」、関東地方の「番」と近畿地方の「衆」など(福田アジオ『可能性としてのムラ社会』)。さらに、それらが「民主化」の名において封建的遺制として「抹殺」されていった戦後の歴史(GHQによる東京裁判史観)。
 ちなみに、現在進められている分権改革の本質は、「抹殺」されたネーション(コミュニティ、「想像の共同体」)の「復活」とこれを補完するステート(統治機構)の「創設」である。(地方自治を再構築するためには、何よりも税についての歴史的・思想的・理論的な再検討が必要。たとえば、地域通貨としての地方税?)ここから、国民国家(ベネディクト・アンダーソンによると、それは本来異質な「ネーション」と「ステート」の結婚であった)の次にくるものという問題が立ち上がる。それは、柄谷行人がいう「アソシエーション」(マルクス)なのか、あるいは中沢新一がいう意味での「第三期の形而上学」(人間の世界から自然と物質の世界への権力の返還=「大政奉還」?)なのか。いずれにせよ、そこでは「国家」は一種の機械のようなものとして利用されるインフラか、神々が遊ぶ座のようなものになるのかもしれない。ここでいう「国家」とは社会的装置のことで、その典型が貨幣。(こうした作業を進める上で、いまや「時の人」となったスピノザの哲学を吟味してみることは欠かせない?)
 ふたたび中世・近世の日本へ。たとえば、能という芸能を通じて、芸能の民や職人(武士もまた職人)に伝わる「宿神哲学」のスピリチャルな実質(日本的霊性?)について考える。あるいは、中世の金融機関(頼母子講)が寺院から出てきたことの意味。「金融」を「融通」と呼ぶと見えてくるもの。三浦梅園の「義の経済学」について。(ちなみに、梅園はアダム・スミスと同時期に貨幣論「価原」を書いた。また、彼が発案した「慈悲無尽講」は相互扶助の農村金融組織として二百年近く存続した。)
 そして、新しい経済学について。ふたたび中沢新一の論考(『緑の資本論』『愛と経済のロゴス』など)を参考に。たとえば『純粋な自然の贈与』で中沢は、「バイオテクノロジーと脳生理学と全面化された市場経済」の現代において、霊はふたたび新しい変態をとげつつあるのであって、「いまや、大地、貨幣、情報についで霊こそが人間にとっての「第四の自然」となりつつある。だから、いま私たちにもっとも必要なのは、新しい「霊の資本論」の出現ではあるまいか」と書いている。
 ところで、経済とはコミュニケーションである。コミュニケーションとは、「他者が今、何を考えているかをメッセージの受け手も推測するし、送り手も受け手が何を知っているかを考えながら互いの心の世界を推測しあう、共同作業」(金沢創『他人の心を知るということ』)である。つまり、メッセージの内容がコミュニケーションに先立ってあらかじめ確立しているわけではない。(書いてみなければ、話してみなければ、自分が「本当は」何を考えているかはわからない。)メッセージの受け手や送り手も、実はコミュニケーションが成立するそのたびに出現する。
 媒介としての貨幣やネットワークについても、これと同じ事態が成り立っている。こうしたことについて考える場合、ジンメルの思考ははずせない(と思う)。──というわけで、『緑の資本論』と『愛と経済のロゴス』を読み直し、いまジンメルの大著『貨幣の哲学』(これはちょっと翻訳がひどすぎる)に取り組んでいるところ。

★桜井哲夫『「戦間期」の思想家たち──レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ』(平凡社新書:2004.3.17)

 第1章「囚われのアンドレ・マルロー」と第2章「レヴィ・ストロースと「建設的革命」」を読んでいるあいだは退屈だった。「思想家たち」の思想の中身ではなく、若き日の交友関係やゴシップ、スキャンダルの類をめぐる話題が延々と続くのに飽き飽きしていた。この本は前著『戦争の世紀』の続編で、やがて書かれる第二次大戦以後の物語とあわせて「二十世紀精神史」三部作の第二部にあたるというのだが、それにしては『戦争の世紀』がもっていた新鮮さに欠けているように思えたし、「精神史」の骨格をなすもの(戦争、革命、政治、結社、ファシズム…、そして「ブルトンらの運動とモースの仕事、バタイユの活動」を結びつけるもの)の輪郭がくっきりと浮かびあがってこなかった。
 いったん放りだしたけれど、なんとかバタイユまでたどりつこうと再開した第3章「ブルトンとトロツキー、そしてナジャ」で息をふきかえし、第4章「バタイユと「民主的共産主義サークル」」で加速し、第5章「政治セクトの季節」「エピローグ──戦争が露出する」と一気に読み進んだ。読後、ときおり顔を出すポール・ニザンやジャック・ラカン、『戦争の世紀』でも重要な位置をしめていたベンヤミン、そして本書の影の主役ともいえるマルセル・モースといった役者とともに、ブルトンのナジャ(レオナ・カミーユ・ギスレーヌ・D)、愛人シュザンヌ・ミュザール、バタイユの妻シルヴィア、愛人コレット・ペニョ、ブルトン、バタイユと奇妙な絆をむすんだシモーヌ・ヴェイユ(あの『空の青み』のラザールのモデルだった!)、ハンナ・アーレントといった女性群がとりわけ濃い印象を残した。

★福田和也『悪の読書術』(講談社現代新書:2003.10.20)

 書物との間に緊張を作り出し、同時に他者の視線を導入する、つまり多少の見栄も張る「社交的読書術」というアイデアが面白い。『資治通鑑』(司馬光)や『ヨーロッパ文明史』(ギゾー)を読んでいる官僚や実業家を見ると「出来るな、と感動してしまう」とか、高い地位にいる人が『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ギッシング)のような本を手にしていたりすると「ちょっとかなわないな、と思います」とか、ジョークも利いている。須賀敦子、白洲正子、塩野七生への評価に共鳴する。──本書に触発された「私のブックガイド」。持ち運びに便利な薄い文庫本で、カバーをつけずに人前で読むための常備本のリスト・日本文学編。石川淳『夷齋小識』(中公文庫)、金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫)、白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)、幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫)、高木卓『露伴の俳話』(講談社学術文庫)。これは「日本思想編」に分類すべきものだが、最近、岩波文庫の三枝博音編『三浦梅園集』を50円で入手した。

★鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋:2002.10.10)

 成功する読書日記・入門編。まずはアトランダムな引用から初めて、次に引用だけからなるレジュメかコント・ランデュ(compte-rendu:物語や思想を自分の言葉で言い換えて要約)。それに簡単な感想かコメントをつけて、読書日記はここまで。そこから先は「批評という大それた行為」の領域だと書いてある。あとがきにかえて添えられた「理想の書斎について」がよかった。膨大な蔵書を誇る図書館を書庫代わりにつかう、書庫なし、書棚なしの「理想生活」を送るためにも、引用レジュメやコント・ランデュで読書日記をつける習慣が不可欠だと書いてある。成功する読書日記・実践編では、「オタクたちのバイブルとしての『嘔吐』」が面白かった。

★沼正三『マゾヒストMの遺言』(筑摩書房:2003.7.20)
 
 図書館で見つけて借り出した本書に、中条省平の書評が載った朝日新聞の切り抜きが挿入されていて、「『家畜人ヤプー』は、埴谷雄高の『死霊』とならぶ、戦後文学最大級の観念小説である。『死霊』が形而上的話題に終始するのに対して、『ヤプー』は形而下的細部のみに充ちているというコントラストが面白い」と書いてあった。──沼正三。大正十五年、福岡市生まれ、本名、天野哲夫、闇屋、私立探偵などを経て、昭和四十二年、新潮社に入社、定年退職まで校閲部に勤務(てっきり、判事・公証人の倉田卓次が沼正三本人だと思っていた)。学生の頃、角川文庫版(たしか宇野亜喜良の挿画のカバーがついていたと記憶しているが、違ったかもしれない)と石ノ森章太郎による劇画版、そして(これもたしか金子國義の挿画のケースに入った)『ある夢想家の手帖から』を愛読した。
 マゾヒズムには「なべて現実を、世界をくるめて一つの錯覚、一つのフィクションのように思う感覚」(21頁)があると喝破し、「『家畜人ヤプー』は私の信仰告白の文章でもある」(32頁)とか「『家畜人ヤプー』はマゾヒストにとっての詩集である」(36頁)と自作を語る「『家畜人ヤプー』について」(そこにはジル・ドゥルーズの名前が出てくる!)を玩味し、「性倒錯のイマーゴ」(そこでは「私は観察者ではなく、明らかに被験者である」という自己認識が示される)とか「フェティシズムの形而上学」(「フェティシズムとは、言ってみれば、万物への、不可知な、ある狂気といえはしまいか。狂気はあるいはオルガスムスと言い直してもよかろう」)とか「少女幻想の恐怖」(少年派であるはずの稲垣足穂が『A感覚とV感覚』に「男性に受身への劇しい欲望が隠されている」のは「女性がサディズムを隠しているのと同じく人間原理に立つ」云々と書いていることをとらえて、「美少年の中に、美少年をとおして、最もハードな美少女の俤を二重映しに見ていたのではないか」と推測している)とか「文学における上半身・下半身」などのいかにも沼正三らしいエッセイを満喫し、「9・11戦争」やら「康夫と慎太郎」(石原慎太郎がサッチャーと会食した際、フォークランド紛争の話を聞いたら「決断よ、決断、決断が政治家のエクスタシー」と答えが返ってきた、などという話題が出てくる)やら「イラクと日露戦争」といった時事評論風のエッセイを堪能した。

★四元康祐『ゴールデンアワー』(新潮社:2004.2.25)

 黄金の時間。GOLDEN HOUR は医師たちの一種の隠語で、緊急医療における最初の一時間を意味する。「へーい、教えておくれよ、ぼくは/生き延びたんだろうかぼくのゴールデンアワーを/彼らは首を振り繰り返すばかりだ/できるかぎりの手は尽くした、あとはもう/本人のちから次第だと」。タイトル・ポエム「ゴールデンアワー」の最後の連だ。──天才バカボン、巨人の星、あしたのジョー、東京オリンピック、大阪万博、アポロ11号…。詩人は「あとがき」で、1960年代から70年代にかけての懐かしのヒーローたちを素材とすることを通じて、日々の下に埋もれた回路を開きたかったと書いている。「個を超えて、時代そのもの、その時代を共に生きた共同体へと、自らを開くこと」。言葉がどうしようもなく開いてしまう感傷的な回想への回路を逆手にとって、詩人は、幼年期というもう一つのゴールデンアワーへの回路をたぐり寄せ、マス・メディア時代の叙事詩の書法を模索している。(それにしても、あとがきがついた詩集ほど詩集らしくない詩集はない。「クレイジー・キャッツ」や「ちあきなおみ」といった詩ほど詩らしくない詩はないように。)──読後、ジョルジュ・バタイユ(『文学と悪』)の言葉を想起した。「詩は、ある意味では、つねに詩の反対物である」。「文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか」。

★岡崎京子『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』(平凡社:2004.3.1)

 「…つまりこういうこと。風景や歴史や世界のほうがぼくらよりずっと忘れっぽいということ。百年後のこの場所には君もぼくももういない。ぼくたちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?」(23頁)

★椎名誠『絵本たんけん隊 小さなまぶしいタカラモノをさがしに!』(クレヨンハウス:2002.12.1)

 「ぼくは、こわい話というのは、お話の原点ではないかと思っているんです」(8頁)。「日本におけるこわさと、西洋におけるこわさというのは、ぼくは絵本のなかにひじょうによく表われているような気がします。だいたい日本では、森のなかでこわいものに会う絵本って、まずないです。…だからぼくは、『もりのなか』という絵本を、ひじょうに興味深く読んでいるんです。」(17-18頁)。──最後に、ぼく(椎名誠)の読んだ絵本のなかのベスト1『もりのなか』(マリー・ホール・エッツ,福音館書店)の朗読で、三年にわたった連続講座が終わる。「絵本は子どものためにつくられていると思われがちだけれど、そんなことはないと思うな。これは人間のためにつくられているんです。…もっと言えば、絵本は読むひとの感性に向けてつくられているんです」(366頁)。

★『ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集』(新潮文庫:1984.4.25)

 兵庫県立美術館の『東山魁夷展』を観た。東山魁夷の風景画がこれほどのものとは知らなかった。光と生命と記憶を宿した画布はたしかにそこに有るのに、東山魁夷の風景画は実はどこか遠くに在って、そこにはもうない。圧巻は唐招提寺御影堂の障壁画。でも、北欧・ドイツの風景画も忘れがたい。図録を買いかけたけれど、印刷された色彩と生の印象との乖離が激しすぎるのでやめた。美術館のショップに揃えてあった文庫版小画集全六巻のうち、本書を記念に買い求めた。序文の第一行に出てきた文章が『東山魁夷展』の印象を言い当てていた。「憧憬と郷愁、別離と帰郷──それが旅の姿である。」

★中田力『天才は冬に生まれる』(光文社新書:2002.11.20)

 天才ニュートンはクリスマスの日に生まれた。コペルニクスは2月19日。ケプラー、12月27日。ガリレイ、2月15日。アインシュタイン、3月14日。ハイゼンベルグ、12月5日。ノイマン、12月28日。ホーキング、1月8日。「本当の意味での天才」ラマヌジャン、12月22日。そして、キリスト。「冬でなければ天才が生まれないわけではない。それでも、何故か、寒い時期に生まれた天才が多い。/この観察に科学的根拠を示唆することがひとつある。脳の形成過程の法則に従った、自己形成によるとの指摘である。/脳の渦理論と呼ばれている」。21世紀を代表する(と本書に書いてある)渦理論を提唱した中田力の生年月日は?

★池波正太郎『おおげさがきらい』(講談社:2003.2.15)
★山本夏彦『最後の波の音』(文藝春秋:2003.3.15)

 阿川弘之と池波正太郎と山田風太郎と山本夏彦はいつかまとめて読むことだろう、読むときっと病みつきになるだろうという予感がしてきた。ずっと以前に鬼平犯科帳の特別長編「雲竜剣」を読んだ。『おおげさがきらい』は未刊行エッセイ集の第1巻。どちらもすでにどっぷりとはまったファンが手にすべきものだと思う。『最後の波の音』は没後編集された、これもまたファン向けのもの。「人はさびしき」と「文を読め」。この二つの言葉が心に残った。

★かわぐちかいじ『太陽の黙示録』3(ビッグコミックス,小学館:2003.12.1)
★かわぐちかいじ『太陽の黙示録』4(ビッグコミックス,小学館:2004.4.1)
★かわぐちかいじ『Eagle』全11巻(小学館:1998.4.1?2001.6.1)

 序章(第1巻)から15年後、台湾での「難民キャンプ編」が完結した。長い序幕を終えて、物語は「日本編」へ。年に3巻のペースが焦れったい。欲求不満をいやすため『Eagle』を読んだ。

★『OMソーラーを勉強する本。』(OMソーラー協会:2004.2.20)
★船瀬俊介『木造革命 木の家づくりから木の街づくりへ』(リヨン社:2004.3.15)

 家を建てようと思いたった。3年かけて勉強しようと心に誓った。去年の暮れのことだった。和風、木造、県内産、北欧、小さくてもキラリと光る、書庫、半地下、無添加、手抜きなし、耐震、断熱、光ファイバー、施主の好みとコストを考えてくれる建築家と工務店、等々、キーワードが次々に浮かんできた。『チルチンびと』とか『住む』といった季刊誌を買いこんだ。書棚に並べて、ときどき眺めた。インターネット経由で、OMソーラー協会の「ひまわり会」に入会した。早速、無料のテキストが送られてきた。314頁もあった。「勉強して家を建てよう」と題された序文に、「最低でも2000円はする本です」と書いてあった。眺めているだけで、わくわくしてきた。『木造革命』をぱらぱらつまみ読みした。コンクリート住宅に住むと9年は寿命が縮む。四囲を山に囲まれた小学校にまで鉄筋コンクリートの校舎を強制したのは田中角栄だった。燃えない木が開発された。木造高層住宅は技術的に可能である。その他諸々の知識が得られた。

★『佐川満男の「前略、湯の町にて」 こだわりの温泉宿に泊まりたい』(山と渓谷社:2003.10.30)
★宮城谷昌三・聖枝『ふたりで泊まるほんものの宿』(新潮新書:2004.2.20)
★門上武司『スローフードな宿』(木鐸社:2004.3.1)

 ゴールデンアワーならぬゴールデンウィークを迎えて、どこへ出かけるあてもなく、どこか生きたい場所もなく、旅より宿という宮城谷昌三の言葉に共感を覚えつつ、宿のガイドブックを眺めた。──佐川満男の「こだわり」は「オーナーの顔が見える宿であること」。宿選びの名人・聖枝夫人の言葉。「自分の家の良さを再発見するために、わたしたちは時々旅に出るのだろう」。門上武司の「僕の旅のかたち」は「1泊2食1万5000円まで。地元の食材をふんだんに使った旨い料理を食べる。人との触れ合いがある」の3つの条件を充たす宿を巡ること。

★幸田真音『偽造証券』(新潮文庫:2000.9.1/1997)

 金融小説が猛烈に読みたくなった。これまで目にしたなかでは、川端裕人『リスクテイカー』、橘玲『マネーロンダリング』、黒木亮『アジアの隼』といった作品が印象に残っている。幸田真音は『傷』と『日本国債』を読んだ。新鮮で面白かったけれど、小説としての醍醐味がイマイチだった。『偽造証券』も序盤から中盤にかけてはとてもよかったし、期待がもてた。しだいに物語の進展が腑に落ちなくなり、最後で予想どおり肩すかしをくらった。『凛冽の宙』の文庫解説で岸井成格さんが、幸田作品の本質はノンフィクションとも経済小説とも違うジャーナリズムのジャンルだ、つまりジョーナリストの感覚と手法をもって書かれたこの国と国民への警鐘=直訴状だと言っている。なるほど。そうだとするとこの作品の読み所は「偽造証券」をめぐるサスペンスにあるのではなくて、三人の女性と一人のゲイの視点から浮き彫りにされるこの国と国民の体質や気質にあるのだ。(金融システムほど国と国民の体質・気質を濃厚に反映するものはない。)その意味では、原題の『ニューヨーク・ウーマン・ストーリー』の方が内容にふさわしい。(読後、どういうわけだか村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読み返したくなった。)

★幸田真音『凛冽の宙』(小学館文庫:2004.5.1/2002)

 小説としては、中折れ、破綻、最後で自爆。紋切り型の人物造形、もってまわった(いかにも小説風の)シチュエーション、凝りすぎた(いかにも小説風の)ストーリー展開、思わせぶりな回想シーン、情感が空回りして緊迫感を欠く構成、細部を素通りする叙述、等々、欠点をあげれば切りがない。物語作家としての力量が問われる肝心要のところで、逃げを打っている。だから、エンターテインメント小説としてのコクがないし、余韻もない。ここにあるのは、日本と日本人への「警鐘」(解説の岸井成格の言葉)というか絶望、そして、500億円の不良債権が「みんなハッピー」に解消するパズルのようなディールのアイデアだけ。あと一つ、意味不明の、でもそそられるタイトルだけ。それにしても惜しい。素材がいいだけに惜しい。

★幸田真音『代行返上』(小学館:2004.3.10)

 小説家としての幸田真音には騙され続けてきた。だのに性懲りもなくまた読んだ。この作品は面白かった。この面白さは『日本国債』を読んだ時に覚えたのと同類だった。小説としてはまるでだめなのだが(やたらと回想をおりまぜる叙述スタイルには本当にイライラさせられるし、安っぽい人間ドラマにも辟易させられる)、そもそもこの作者にエンターテイメントを求めるのが間違いなのだから、最初からそう思って読んでいくとストレスがない。(それにしても惜しい。多田亮一にしろ今井理美にしろ一本の長編小説のヒーロー、ヒロインとして充分に活躍が期待できる素材を用意しながら、肝心の小説が始まるところで終わっているのが実に歯がゆい。この読後感は村上龍の『希望の国のエクソダス』を思わせる。)
 河野俊輔が語る言葉、とりわけ「エピローグ」に出てくる言葉がジャーナリストとしての著者が本書に込めたメッセージだ。──「そうだ。それがいま、もっとグローバル化した現在の社会になってだ、どうやって民間の資金を吸収し、それをどの分野に資金供給して、このあともずっとこの国を成長させていくか。そういうことを、年金制度を通してどう進めていくかだよな。もちろん国民の利益のためだけど、そこまで考えた大きな視野でもって、国全体を見ることこそが、いまは必要なんだよ」「そうだよ、そのとおりだ。年金問題は単独では語れない。経済政策も、財政の問題も、雇用のことも、金融システムも、みんな根っこはひとつなのさ。全体の金融構造を考える視点が必要だよ。それなのに、いまは、ぜんぶ途切れている。いまは、根本的なところで繋がっていないんだ。それどころか、ひとつひとつの政策ですら、満足なものがないんだもんな」(274頁)。「そうですよ。日本の金融業界は、いずれ大きく変化しますよ。これまで思いもつかなかったような変革を遂げるはずです。…日本の本当の夜明けが来るんだと、僕は思っています」(エピローグ,429-430頁)

★姜尚中『在日』(講談社:2004.3.23)

 姜尚中は中学生のある日、突然吃音になってしまった。「小林秀雄は日本人とは日本語という母胎にくるまれた存在で、その母胎を通じて日本的な美意識の世界を形づくってきたという趣旨のことを述べているが、わたしはある意味でその母胎となる共同体から拒絶されている感覚を持ち続けざるをえなかったのである。そのはじき出されるような違和感が、身体化され、吃音となって表出したのではないか。うがち過ぎかもしれないが、わたしにはそう思えたのである。」(94頁)

★白洲正子・青柳恵介・赤瀬川原平・前登志夫他『白洲正子 “ほんもの”の生活』(とんぼの本,新潮社:2001.10.10)

「小林秀雄さんや青山さんたちの骨董を通じての付き合いは、昔のお茶の世界に似ていたのではないかと思いますよ。彼らは骨董を見ることを通じて、利休の始めたお茶の精神を知っていました。利休は、まさに斬ったはったの戦国の世に、お茶を始めたわけでしょ。骨董を介した彼らの付き合いは、時代は遠く離れていても戦国武将と同じ凄みがありました。そういう意味で、新しい茶道だったと言ってもいいくらい。」

★青山二郎『骨董鑑定眼』(ランティエ叢書,角川春樹事務所:1998.11.18)

 「人が覗たれば蛙に化れ」(「陶経」)「…音楽を語る、美術を語る、歴史を語るのは小林の文学である。文学的色あいでなく、それを文学として正確に意識したものが小林の美術論である。彼が文章として美術品自体を語りたがらないのも、言葉に依る写生の単なる如実性を嫌うからで、それは「見るより為方がない」と普段言っている──これも文学者としての美術に対する正確な態度である。」(「小林秀雄と三十年」)

★『僕たちの好きな村上春樹』別冊宝島743(宝島社:2003.3.27)

 最近、しきりに村上春樹の短編小説を読みたいと思う。全集でしか読めない未読の作品もあるけれど、文庫本で読むのがいい。『中国行きのスロウ・ボート』『カンガルー日和』『螢・納屋を焼く・その他の短編』『回転木馬のデッド・ヒート』『パン屋再襲撃』『TVピープル』『レキシントンの幽霊』『神の子どもたちはみな踊る』。なにしろ装幀がいい。『スロウ・ボート』以外はどれも文庫本で500円以下の薄さ。この薄さがいい。(保坂和志の文庫本もみな薄い。)──『僕たちの好きな村上春樹』に出てくる「不思議な多面体ハルキワールド」という言葉は、短編小説にこそふさわしい。「作者はこれまで短編小説において、未来を占う様々な実験を試みてきた」(辻本圭介,141頁)。村上春樹において、長編(物語)に対して短編(実験小説)がもつ意味は何か。別にそんなことを考えるためでなくても、全短編(全集収録作品も含めて)を読み通すのは心躍る試みだ。
 以下、クロニクル・ハルキワールド(「時代の喧噪から遠く離れて、消えゆく声に耳を澄ます。それが春樹文学だ」)からの切り抜き。──「49-69 日本が沸点へ向かう時、春樹は大人になった」「70-79 皆が居場所を探し始める。春樹文学を作った十年」「80-82 春樹は新しい作家になった。見た目は「安定」の80年代幕開け」「83-84 より力強い物語を。作家の想像力が発熱する」「85-87 作家が描いた「世界の終り」。日本は繁栄の頂点へ」「87-89 バブルへ向かう日本。作家は遠く離れた島へ行く」「90-92 作家はふたたび海の向こうへ。世界が仕組みを大きく変える」「93-94 作家は井戸を掘り続ける。バブル崩壊、溶け始めた日本」「95-97 作家の想像力に何が起こった? 故郷が、国が崩壊する」「97-99 出口のない社会の裏側で、作家は小さな声を拾い集める」「00-01 21世紀幕開け。異様な様相を頁呈す世界。新しい物語は生まれるのか?」