不連続な読書日記(2004.2-3)




☆2004.2−3

★マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(川原栄峰訳,平凡社ライブラリー:1994.9.15)

 今年の年明けから一月ばかり、哲学の第一の問い(なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか)の吟味や「存在」の語の穿鑿が続く最初の頃はやや退屈の虫を殺しながら、存在と生成・仮象・思考・当為との関係をめぐる議論にさしかかる中盤あたりからはやや熱を入れて、とりわけフィシスとイデア・ロゴス・ウーシア(目の前に既にあること[フォアハンデンハイト]の意味での存在)との錯綜した関係や、本質存在[essentia]と事実存在[existentia]の分岐(ギリシャ哲学の終末=西洋形而上学の起源)をめぐる終盤の議論にはかなり興奮しながら読み進め、でも読み終えてから二月あまり経つとすっかり忘却しきっていて、なにか重厚なギリシャ悲劇を堪能した身体の記憶だけが痕跡のように──「人間の本質の規定は決して答えではなく、本質的に問いである」(234頁)とか「問うことのなかで存在が自己を開示するような所においてのみ歴史が生起し、人間の存在もまたそれとともに生起する」(235頁)とか「言語とは一民族が存在を詠ずる原初的な詩である」(280頁)とかいった切れ切れの台詞の残響とともに──疼いている。

★中山元『はじめて読むフーコー』(洋泉社新書y:2004.2.23)

 中山元さんの最初の著書『フーコー入門』(ちくま新書:1996)を読んで、ポリロゴスというメーリングリスト(いまはない)に参加した。インターネットを初めて一年と少し、ひととおりのことをやってみて、そろそろ目標を喪失していた頃だった。しばらくはMLというメディアの可能性に熱中した。あれから8年近く経って、中山さんが二冊目のフーコー本を出した。読みどころは、狂気・真理・権力・主体の四つのテーマにそってフーコーの「思考の現場」を手際よく道案内する第二章で、中山さん自身が深く関心を寄せてきた友愛やパレーシア(真理を率直に語ること)をめぐる問題系にもさりげなくふれられている。「フーコーとともに歩むことでみえてくる、新しい光景をたのしむこと」(164頁)。「フーコーの概念を道具のように使って考える」だけではなくて、「フーコーがどのような場所で思考に役立つ概念を作り出したか、その思考の現場を追跡することで、ぼくたちが新たな概念を作り出すこと」(222)。この一見浮薄な言葉遣い(『思考の用語辞典』以来の文体)に少々鼻白むところもあったけれど、ここに表明されているのはきわめてまっとうな哲学観だと思う。──本書を読んでとくに印象に残った箇所。「あることが語られて、あることが語られないのはなぜか」というフーコーのディスクール分析をめぐって、実証的な研究で、あることがらが「語られていない」と指摘するのは至難な作業であると書かれていたこと(29頁)。考えてみればあたりまえの話なのだが、けっこう深い。「語られないもの」は「語り得ないもの」よりも(たぶん)深い。

★田島正樹『ニーチェの遠近法 新装版』(青弓社:2003.1.18)

 『哲学史のよみ方』(ちくま新書)と『スピノザという暗号』(青弓社)、とりわけ後者を読んで以来、田島正樹という哲学者は私にとっての注目株になった。『ニーチェの遠近法』もいつか読みたいと思っていて、同じように『現代思想としてのギリシア哲学』(講談社選書メチエ)と『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)を読んで以来、注目してきた古東哲明の『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房)と同時に購入して一気に読み切った(古東本は序章だけ読んで、そのあまりの密度の濃さに圧倒されてしまってしばし中断)。──ニーチェに特有の表現形式(アフォリズムの哲学)がいかにその主張内容と切り離し得ないものであったか、つまり「語る」ことも「示す」こともできない真理、誰もそのことについて「欄外の書き込み」をなしえない思想(たとえば永劫回帰)をニーチェはいかに表現したか。これに対する著者の回答は、「ニーチェのテクストは、真理を直接語るのではなく、上演しようとする。これが彼の哲学に、これまでの哲学とはまったく異なった表現方法をとらせる根本動機となっている」(153頁)というものだった。では、そのようにして表現されたニーチェの哲学(遠近法と観点の哲学)は、いやその断片群はいったい何を実現しえたか。この点については、本書の219頁以下で実地に体験されたい。

★須藤訓任『ニーチェ〈永劫回帰〉という迷宮』(講談社選書メチエ:1999.9.10)

 ニーチェの永劫回帰の思想を「窮めたい」と思いたって、評判の高い本書を一気に読んだ。哲学書を一気読みするということは、実は何も読んでいない(考えていない)のと同じことで、だから著者が結局何を論じようとし、はたしてそれがどのように成就しあるいは挫折したかとか、永劫回帰の教説とはそも何かなどと気の利いた評言や箴言めいた定義をひねりだすことはできないし、そんな気もおきない。ここではただ本書を読んで印象に残った二つのこと、「内部=耳=迷宮=舞踏=永劫回帰」と「外部=舞踏する神々=観客=世界の鏡=虚構=永劫回帰」という二つの概念群の交叉のうちに描出される、世界と生の意味のあらたな始まりを探求するニーチェ後期思想がとても刺激的だったことを記録しておくにとどめておこう。
《こうして、永劫回帰思想と表裏一体の形で、「神々の舞踏」という「外部」が「虚構」される。永劫回帰思想によれば、世界の事象は一切あらかじめ決定済みであり、なにをなそうと、それも織り込みずみのものとして、一切は変更不可能である。にもかかわらず、その決定済みの事象・事実のそれぞれにいつでも、意味のあらたな「始まり」の可能性が確保される。……「永劫回帰」は、あらゆる「外部」の実在を否定することによって、逆に、「舞踏する神々」という「外部」を「虚構」し、意味の新たな「開始」と創造の可能性に目をひらく。その点で、「永劫回帰」は、それ自身「虚構」として、(神とはまた異なった形で)意味の可能性の源泉であり条件たりうる。》

★湯浅博雄『聖なるものと〈永遠回帰〉 バタイユ・ブランショ・デリダから発して』(ちくま学芸文庫:2004.3.10)

 コンパクトに濃縮された教科書。なぜいまこのような本が書き下ろされなければならなかったのか、よく分からない。かの『反復論序説』(未来社)を超える部分は、おそらくあるには違いないのだろうが、それがなぜこのように息せき切った祖述本のかたちで、それもどこか80年代を想起させる文体でもって著されなければならなかったのだろうか。本書を読み進めながら私は、ぬぐいようのない既視感にとらわれ続けていた。この既視感は、ちょうど時を同じくして読んでいた中沢新一のカイエ・ソバージュ・シリーズ完結編『対称性人類学』や、加藤典洋の同時刊行本(「これが批評だ!/世界が見える!」シリーズ?)のうち理論編と銘打たれた『テクストから遠く離れて』のうちから浮かび上がってくる著者像──9.11以後の、あるいはオーム以後の、少なくとも冷戦以後の「普遍的な経験」とでも言いうるもの、つまりフィクショナルなものに根ざしたザ・リアル、端的に言えばヴァーチャルなリアリティの実質を生のまま語り、あたかも骨伝導のような方法で伝達しようとする者──とうらはらなかたちで、私の脳髄にまとわりついていった。
 まわりくどい言い方はやめよう。「あとがき」を読めば明らかなように、著者もまた9.11以後の世界を意識して本書を書いている。「聖なるものは、虚構的に生きることを含みつつ、現実に生きられる。それが、逆説的にも〈真に〉経験することになる。真実として経験するためには、模擬的=虚構的に経験することが欠かせないのである。」(206頁)「読むことは、そのつど一次的、始源的な経験になりうる。反復的、模擬的に生きることが、同時に初めて生きることになりうる。」(280頁)「死ぬことの経験は、〈根源〉から虚構的、模擬的な経験なのだが、それはまた同時に真実の経験なのである。〈最初〉から模擬的、反復的であり、喩的、虚構的であることによって、真実の経験となるのである。」(284頁)そんなことはとっくに分かっている。「私を超えた、強い力」がもたらすパッションに心身を揺さぶられるリアルな出来事を他者に伝達すること。表象=再現の作用を逃れ去る異質的なリアリティと真実を反復的、永劫回帰的に生きること。あとがきに書かれたこの言葉を、著者は身をもって生きているだろうか。

★加藤典洋『テクストから遠く離れて』(講談社:2004.1.15)

 わたしはただの読者として小説を読むということだけを心がけた。著者はあとがきにそう書いていて、これが本書のすべてを要約し凝縮している。そう言ってしまうと身も蓋もないが、ほんとうのことだから仕方がない。村上春樹からよしもとばななまで十二人の同時代作家の小説作品を具体的な作品論として論じた『小説の未来』が実践編で、「作者の死」(テクスト論)の場所まで「主体の形而上学」批判の淵源をたどった本書はその理論編だと著者は書いているが、私の読後感はちょっと違う。
 くどくどと、いや、くねくねと迂回しながら論理の筋道をたどる独特のコクのある文体(この論理のうねりが加藤典洋の魅力でもある)でもって叙述される「理論」(脱テクスト論)の要諦は、テクスト受容空間における実定的な「作者の像」の概念と、文学テクストに固有な「虚構言語」(現実の発語主体と言語表現間の言語連関が「不在」のまま言語コンテクストを構成するていの言語表現:94頁)の範疇の二点に尽きる。著者はそこからフーコー的な「俯瞰する知」(主体の死)の批判へと論を進め、「人がある場所で生きることと、その彼の生が鳥瞰的に歴史的存在としてとらえられることとは、同じではない」(307頁)、あるいは「何も知らずに生きていくことが、生きるということの原形である」(308頁)とその「思い」を吐露している。
 しかし本書の魅力、というか旨味はこのような「ポストモダニズム批判」にあるのではない。少なくとも私にとって、『取り替え子[チェンジリング]』(大江健三郎:2000年)や『海辺のカフカ』(村上春樹:2002年)や『仮面の告白』(三島由紀夫:1949年)や『續明暗』(水村美苗:1990年)といった具体的な日付けをもった小説をめぐる作品論の鮮やかさこそが本書の最大の読み所である。真正の「理論編」、すなわち「ある読者が、その作品から感動を受けとったとして、その感動のやってくるゆえんを説明すべく必要とする、そこでの読み方」からだけもたらされる「読みの普遍性」(195頁)への回路をひらく理路はまだ十全なかたちで叙述されてはいない。
 これは余談だが、ハイデガーによれば、「事実存在」(…がある)と「本質存在」(…である)とが後者の優位のもとに分岐すると同時に西洋哲学が始まった。この分岐は、最後の形而上学者・ニーチェの「永劫回帰」と「力への意志」を経て、形式的体系(構造)とその外部(過剰な力の奔流)へ、そして「テクスト」と「作者の死」へと屈折していった。この終局から開始された加藤典洋の「脱テクスト論」が「テクストから遠く離れて」向かう場所はどこなのか。

★加藤典洋『小説の未来』(朝日新聞社:2004.1.30)

 加藤典洋編『村上春樹イエローページ』(荒地出版社:1996)を読んで、その小説解読の手際の鮮やかさと軽やかさと鋭さと深さと広がりにすっかり魅了され、いたく刺激を受け、興奮もし、作品論が上質のエンターテインメントになることをあらためて実地で体験した。(これとは違った味わいが記憶に残っているのは、村上春樹の『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋:1997)。そういえばたしか『イエローページ』の「パート2」が3月末頃に発売されるはずだったが、いまどうなっているのだろう。)
 ほんのちょっとのことでいわゆる「謎本」のたぐいに墜ちてしまう(まあ、それはそれで、センスさえ良ければけっこう面白いのだが)ところを、ただ一点、小説を読んでいるときの心身のあり様と、読み終えたときのたしかな質感のようなものをけっして手放さず、小説体験の現場から批評=評論をつむぎだしていく、その方法論的一貫性があの読み物の真骨頂で、このことは──「いま書かれているさまざまな日本の同時代の小説を、僕という単一の平台の上に並べ、同じ物差しで測ってみて、とにもかくにも、同じ時代の作物であることの関連を回復しよう」(171頁)と試みられた──本書においても頑固に貫かれている。
 小説を読んで、ある感動を受け取る。何かが伝えられ、そして動かされる。そうした「読後感を言葉にする」(206頁)こと。たとえば大江健三郎の『取り替え子[チェンジリング]』について、著者は「僕はこの小説を読んで、批評が一つの挑戦を受けているという感じをもちました。新しい読み方、批評の仕方を編み出さないと、こういう小説はうまくその読後感を取り出せないのです」(141頁)と書いている。
 このあっけないほどにシンプルな足場をしっかりとかためて再出発した文芸評論家・加藤典洋が、あの独特のねばねばした(癖になる)文体でもって解き明かす(1990年以降の)同時代小説の作品世界──そこでは「一九九五年の骨折」(地下鉄サリン事件の衝撃ががもたらしたもの)と著者が呼ぶロマン主義的な超越への願望の禁止(階段落ち)から、超越的なものとのあらたな回路への希求へと向かう作品群が「八百屋の平台」(解剖台ではない)の上に旬の味わいと香りを際立たせながら並べられている──は、とにかく面白い。
 これは余談だが、いまリクエスト復刊されたばかりのスピノザの『神学・政治論』を読んでいる。「聖書そのものから極めて明瞭に知り得ること以外のいかなることをも聖書について主張せず又さうしたこと以外のいかなることをも聖書の教へとして容認しないことにしよう」(上巻50頁)という緒言の方法宣言が、本書のそれと響き合っている。

★ポール・オースター『孤独の発明』(柴田元幸訳,新潮文庫:1996.4.1)

 冷え冷えとした孤独とともに、というより社会から撤退したまま家の崩壊とともに亡くなった父の、息子の記憶のうちに再現された死後の生と二度目の死(息子による父の抹消、文字通りの消失)を一人称で綴った第1部「見えない人間の肖像」。作者自身の個人史をたぶんそのまま取り入れた切れ切れの回想や都市と事物と言葉と偶然をめぐる錯綜した考察を三人称で書きとどめた断章、そしてライプニッツやヘルダーリン、フロイトやプルーストといった旧大陸系の書物からのおびただしい引用からなる第2部「記憶の書」。そこには、作中人物のA(オースター)がいままさに書き続けている作品として十三篇の「記憶の書」が入れ子式に挿入されている。その一篇一篇が、やがてオースターが散文作家として世に問うことになる息子たち、つまりニューヨーク三部作や『ムーン・パレス』、『偶然の音楽』などの小説、さらには『スモーク』や『ルル・オン・ザ・ブリッジ』といった映像作品が醸しだす世界と、ある不可視の回路を通じて響きあう韻を踏んでいるように見える。あるいはこれから書かれるであろう物語の予告編としていまなお機能しているようにも思える。

★ポール・オースター『消失──ポール・オースター詩集』(飯野友幸訳,思潮社:1992.12.1)
★ポール・オースター『空腹の技法』(柴田元幸・畔柳和代訳,新潮社:2000.8.30
★飯野友幸編『現代作家ガイド@ ポール・オースター』(彩流社:1996.3.31)

 パウル・ツェランの詩が好きだ。たとえば坂本龍一のオペラ「LIFE」にもとりあげられた「死のフーガ」。──「夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩に飲む/ぼくらはそれを昼に飲む朝に飲む夜に飲む/ぼくらは飲むそして飲む」とたたみかける言葉の旋律、そして戦慄。〔http://music.ug.to/life_todesfuge.html〕
 「白い空間」(『消失』所収)は『孤独の発明』のための序文のようでもある。『現代作家ガイド』で見つけたこの言葉に導かれて、はじめて目にしたもう一人のPAULの詩の世界は、言葉を厳として拒絶する「厳しい石」の頻出(柴田元幸さんの説)とあいまって、まさに「沈黙と測りあえるほどに」はりつめた緊張と孤独を紡ぎ出していた。──「極小の石の/つぶやき」(「消失」)「石は存在に耐えている。耐えることしかないのである。」(武満徹「自然と音楽」)
 そして、「小説家オースターが誕生する前に書かれたこの本こそオースターの最大傑作だ」と訳者(柴田元幸)がいう『空腹の技法』でのツェラン評。──「それらの詩[晩年の十年間の作品]に、縮こまりと広がり、その両方を人を感じる。あたかも自分の一番奥深いところに旅するなかで、ツェラン本人は消えてしまい、自分の彼方にある、より大きな力とひとつになったかのように──そして同時に、自分の孤立のなかにより深く沈んでいったかのように。」(「流刑の詩」)

★佐野眞一『東電OL症候群[シンドローム]』(新潮文庫:2004.1.10/2001.12)

 先に続編を読んだ。本編(『東電OL殺人事件』)はまだ読んでいない。そもそもこれまでこの事件自体にほとんど関心を払ってこなかった。だから「孤独の淵のぎりぎりまで追い詰められながら、それでもなお他者との関係をあきらめたくない都会の女性」たちが殺された東電OLの「磁力とか巫女性」に感染して著者に寄せた手紙に心を動かされることはなかった。「代々木練兵場に近い円山町で起きたOL殺人事件に私が激しく発情したのは、二・二六事件の青年将校たちを処刑する銃声や、大杉一家が最後にあげた断末魔の声が、その事件の底からかすかに聞こえてくるような気がしたからかもしれない」とか「私は彼女とこの事件に強く「発情」したからこそ、その根源を探るため、続編まで書いている」という著者の文章に深く感じ入るところもなかった。それどころか東電OLの心の闇と冤罪にさらされたネパール人被告をめぐる司法の闇の二つの物語の交点がいまひとつ腑に落ちなかった。
 著者は「この事件を追いながら、殺された渡辺泰子の視線をずっと背中に感じてきた」「私にとって東電OLは、闇の世界に向かって想像力を羽ばたかせる黒い翼のようなものだった」といい、死んだ東電OLの「まなざしに憑依された視線のなかで、二審裁判長の高木の歪んだ心性があぶり出されたように感じた」と書いている。しかしそれは現代における聖なるもの(拒食症の街娼)とチープなもの(少女買春する裁判官)とを強引に結びつける物語的想像力の合理化の弁でしかない。それもたとえばダムに沈んだ村と円山町のラブホテル街とのつながりから東電を連想し、殺された東電OLと父親との関係をエレクトラ・コンプレックスに擬すといった「チープな」想像力(スキャンダル的想像力)でしかないものであって、表象不可能なもの(闇・欲望)を強制的に表象化する装置としての司法制度やマスコミがその根源にかかえている想像力と同根だ。
 「この事件の「罪」は一体誰が背負うのか。「罰」は誰に科されるのか。東電OLを衝き動かした心の闇は、人として生まれてしまった孤独さゆえに誰かに繋がりたいという性の欲求にさいなまれる人間存在の原罪を問うように、いまも彷徨い憑依しつづけているのだろうか」と著者はこの作品をしめくくっているのだが、ここにあるのは現代の神話作家(実名報道による高級ゴシップ作家)の舞い上がりでしかない。
 ──以上に書いたことはほぼ二月近く前、本書を読み終えた直後のあの名状しがたい感銘の質を裏切っている。『M/世界の、憂鬱な先端』(吉岡忍)に匹敵する、もしかすると『冷血』(カポーティ)にさえ拮抗しうる読後感。だのにどうしてこういうことになるのだろう。当事者以外の人間にとって所詮はチープな時代のチープな事件にすぎなかったということなのだろうか。よくわからない。

★大沢在昌『心では重すぎる』上下(文春文庫:2004.1/2000)

 大沢在昌は「新宿鮫」以外読まないことに決めていた。『雪蛍』(佐久間公シリーズ長編の前作)や『天使の牙』にいまひとつ酔えなかったので、臆病になっていた。タイトルに惹かれ、文庫本の装幀と「渋谷を舞台に“現代”を描ききった傑作巨編」という謳い文句に心を動かされて、思わず手を出した。上巻から下巻の頭までは、陶酔への予感と期待がしだいに高まっていってとてもいい感じだった。最後ではずした。「あの少女を理解したい、という欲望が強くあった。理解することが、探偵としての私の復讐なのだ」(下巻317頁)。ほとんどこの作品のキメになる台詞が宙に舞い、物語が砕け散っていった。(すこし丁寧に読み過ぎたせいかもしれない。だから登場人物たちの心情のリズムに乗りきれなかったのかもしれない。)福井晴敏が解説で「ほとんど私小説に近い作品」と書いている。見事な評言だが、考えてみればそれはハードボイルドというジャンルの定義そのものだ。

★睦月影郎『美乳の秘蜜』(双葉文庫:2004.2.20)
★堂本烈『ただいま淫交レッスン中!』(マドンナメイト文庫:2004.2.10)
★西条麗『秘戯』(フランス書院文庫:2003.8.10)

 このところほぼ毎月1冊、睦月影郎を読んでいる。生身をかたどったリアルなラブドール開発のための性感研究という趣向がストーリーの展開とイマイチかみあっていないところなど、完成度の高い睦月作品らしくなくてかえって新鮮。堂本作品は『PLAYBOY』4月号で高橋源一郎が「正しいポルノ小説」と評していた。「いいのである。意味なんかなくたって。それが、ポルノ小説の正しいあり方なのである。」だいたい5頁に一つの割合でイラストレーション(宮崎摩耶)がついている。挿絵つきで読むのも、ポルノ小説の正しい楽しみ方だと思う。西条作品は「いい歳」をした五十男が二人の「若い娘」との「官能の夜」に溺れ、癒され、「そして、誰もいなくなった」と寂寥感にとらわれ、「再スタート」への決意を新たにするといった、いってみればかの『熱愛者』の系譜に属するお話(熟年版『テニスボーイの憂鬱』?)で、カバー裏の「若い美女二人の献身と甘い蜜肉で今、男は牡になった!」という活字がいかにも中身にそぐわず微少を誘う。

★島崎藤村『夜明け前 第一部(上)』(新潮文庫)

 一昨年の暮れに突然読みたくなって購入。新潮文庫の初版は昭和29年、手にしたのは平成14年5月発行の第82刷。またたくまに一年が過ぎ、ようやく読み始めたのが今年の正月で、一頃はほとんど毎夜、就寝前に一節ずつ大きく声を出して朗読し、ほぼ3か月かけて読み終えた。この調子だと、全四分冊を朗読し終えるのにちょうど一年かかることになる。
 この作品は篠田一士の『二十世紀の十大小説』に取り上げられた唯一の日本文学だった(高校の頃にこのことを知って、一度読み始めて挫折したことがある)。松岡正剛の「千夜千冊」(ちなみに「これは私の本のマラソンだか、読書の巡礼だか、千日回峰めいた書評修験になる」と、2002年12月1日付け朝日新聞読書欄に書いてあった)では、破格の分量を割いてこの作品を取り上げていた。以下はその第百九十六夜、2000年12月21日分からの抜粋。
《そういうわけだから、『夜明け前』を国民文学とか西洋との対決とはいえないのだが、それでもこの作品は日本の近代文学史上の唯一の実験を果たした作品だったのである。われわれは半蔵の挫折を通して、日本の意味を知る。もう一度くりかえてしておくが、その“実験”とは、いまなお日本人が避けつづけている明治維新の意味を問うというものだった。/どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。/ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。》[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0196.html]