不連続な読書日記(2004.1)




☆2004.1

★茂木健一郎『意識とはなにか──〈私〉を生成する脳』(ちくま新書:2003.10.10)

 『脳とクオリア』以来、茂木さんの新刊はすべて読んできた。最近は啓蒙書ばかりで、脳と心の関係は「難しい問題」だという以上の情報がない。もっと最先端の、茂木さん自身が痺れるほど脳を酷使して日夜考え続けているテーマを噛み砕き、わかりやすくかつスリリングに書かれた本を読みたいと、読み手は気楽に勝手なことを思う。本書も一見、啓蒙書の装いをもって世に出た。でもこの本には、うっかり読むと見逃してしまうほど平易な言葉でもって、近い将来のブレイクスルーを予感させる二つの大切なことが書かれている。
 その一は、クオリア(感覚質、質感。私たちの意識の中で、〈あるもの〉がまさに〈あるもの〉としてあること=同一性を支える基本的性質)や、〈私〉が〈私〉であることや、言葉の意味をめぐる「むずかしい問題」(個物の起源の問題)と、機能主義的アプローチで解決できる「やさしい問題」とが実は表裏一体であること。その二は、個物(〈あるもの〉が〈あるもの〉であること)は常に生成し続けることによって支えられていて、私たちの意識(クオリアに充ちた主観的体験)は、物質界で普遍的に見られる「個物の背後の生成のプロセス」の延長線上にとらえられるものであること。「同一性の起源を、その生成の過程において問う」ことがないかぎり、心と脳の関係をめぐる「むずかしい問題」は解けないこと。
 茂木さんはここで、存在を生成の相においてみる立場、つまり西洋中世の普遍論争における「実在論」の立場(個物を単純かつ確定的なものとみる「唯名論」と違って、複雑精妙な豊かさをもった確定されないものとして個物をとらえる立場)に立っている。実在論者にとって個物をどうとらえるかは「むずかしい問題」だが、唯名論者にとっては「やさしい問題」だ。まえがきに記された「脳科学でもない、認知科学でもない、哲学でもない奇妙な中間領域」という言葉は、まさに新しい「脳科学」という個物を生成する突破口が開かれる場所を告知している。

★養老孟司・茂木健一郎『スルメを見てイカがわかるか!』(角川oneテーマ21:2003.12.10)

 いまや今西学の向こうをはって養老学とでも名づけるべき独自の心境に達しつつある「人間科学」のエッセンス──「スルメ」(DNAのように停止し止まったもの=情報)と「イカ」(細胞のようにひたすら動いて変化していくもの=システム)のダイコトミーによる万物の一刀両断──に気軽に接することができる講演録が一つ(養老「人間にとって、言葉とはなにか」)。
 意識(コギト)と言葉(イデア)と自己同一性と論理と根本感情の関係から、「ある」と「ない」、「内」と「外」の非対称な関係、身体と個性、ダーウィニズムと資本主義経済システム、自然(意識が作らなかったもの)と無意識(意識が管理できないもの)、はてはアメリカ文学における「暴力」と「傷つきやすさ」の関係をめぐる話題まで、軽妙自在な思考の競演が楽しめる対談が三つ(「意識のはたらき」「原理主義を超えて」「手入れの思想」)。
 本書の中心を貫くテーマ、つまり意識ではコントロールできないもの(たとえば、脳の中の無意識という自然のプロセス)をめぐる「手入れの思想」の真髄──「意識ですべてはコントロールできない、できるのは手入れすることだけである」──が、落語家や小説家の言葉の修練に託して語られた書き下ろしエッセイ(茂木「心をたがやす方法」。余談だが、「小説とは、単にある意味を伝えたり、ストーリーを展開したりするためのメディアではない……その作品を読まなかったら感じなかったであろうある質感(クオリア)を提示するのが、小説という言葉の芸術の究極のテーマである」という茂木氏の小説論は興味深い)。
 さらに、あとがきを兼ねた短い養老孟司論(茂木「覚悟の人」)のオマケまでついて、小冊子ながら、噛めば噛むほど、いや読めば読むほど深甚な味わいが楽しめる好著だ。

★齋藤孝『呼吸入門』(角川書店:2003.12.31)

 著者はあとがきに「日本文化の粋である息の文化の意義を伝え、生きる力の根源を照らすのが、この本のねらいだ」と書いている。二十年に及ぶ生活のすべてを呼吸研究に賭け、自らの実践を通じて「息の現象学的研究」を立ち上げようとしてきたとも。本書に懸けた著者の思いと意気込み、というかその息遣いはどの頁からもびんびんと伝わってきた。
 呼吸とは何か(「息」というのは一つの身体文化なのです。息は、身体と精神を結びつけるものです)に始まって、日本文化論や宗教論(呼吸で作り出す意識の在り方が、宗教心の基盤にあったとも言えるでしょう)、神秘主義批判(呼吸を特殊な仕方でコントロールすると、普段の自分では感じられなかったエネルギーを感じることができる。これは神秘体験でも何でもなく当たり前の生理現象です)を経て、性の喜び(セックスとは二つの身体が一つの呼吸をする喜びです)から生の愉悦(人の生命が、死の瞬間まで止むことなく、呼吸の律動に貫かれていること。これこそ、人間に対する宇宙からの最大の贈り物ではないか)まで、まさに汎息論とでも呼ぶべき議論が縦横自在かつのびやかに展開されている。
 ただこの本は読み手の身体のモードに応じて評価が大きく分かれるだろう。私は毎日一話ずつ一週間かけて、本書に出てくる「積極的受動性」の構え、つまり「傾聴」の姿勢でもって全七話を読み終え、もしかすると父子相伝の奥義書とか門外不出の教典、あるいはプラトンやハイデガーがついに著さなかった哲学書に書かれていたのは実はこういうことだったのかもしれないと思った。呼吸(=精神を整える技術)を通じた「意識の覚醒」や感情のコントロール、はては呼吸(=死の予行演習)を通じた死生観の訓練にまで説き及ぶこの本は来るべき「霊性の時代」を生き抜くための必携の技術書ではないかとまで思った。
 でも異なる心身の状態で読んでいたら、ここに書かれているのはまとまりと実証に欠けた雑談にすぎなくて、ただ「鼻から三秒息を吸って、二秒お腹の中にぐっと溜めて、十五秒かけて口から細くゆっくりと吐く。これが数千年の呼吸の知を非常にシンプルな形に凝縮した「型」です」という著者の自讃の声、いや息遣いしか聞き取れなかったかもしれない。だからこの本は人には軽々に勧められないし、再読にも耐えない(少なくとも本書に書かれた事柄が頭の中で「知識」のままわだかまっている間は)。

★森岡正博『無痛文明論』(トランスビュー:2003.10.5)

 きわめて特異な書物だ。森岡正博はここでプラトニズムとキリスト教が合体した西欧二千五百年の神学=形而上学の解体あるいは転轍を企てている。
 本書で示された「一本の管としての私」と「ペネトレイター(この私を組み込んだ自己治癒するシステム)」の二つの荒削りな概念は、いわば西欧的思考の解剖学的二大原理(「使徒的人間」と「内在的超越」、あるいは「実存主義」と「システム論」)のようなものであって、東洋的思考(たとえば仏教)や日本的なもの(たとえば「葦牙の萌え騰るが如く成る」自然=フュシス)への性急な言及を禁欲し、あくまで哲学のフィールドにとどまりつつその語り直しあるいは転轍を通じて「宗教の道を通らない宗教哲学」という未聞の知を拓いていくための梯子となるものだろう。
 それにしても異様・異例な書物だ。とりわけ『仏教』連載稿をもとにした前六章に続いて書き下ろされた後二章が湛える昂揚は尋常ではない。絶対孤独という「懐かしい、ひんやりとした」場所での死の思索から、一本の管として私(私ではない何かを、私ではない何かに向かって伝えていく主体)の考察へ、そして共同性をめぐる新しい哲学的ビジョンの可能性の開示へと到る第七章(「私の死」と無痛文明)。
 前六章で展開された無痛文明論をも呑みこみより強力に更新された無痛文明と「凡俗の戦士」との果てしない戦闘──著者はそれを「形而上学的な内戦」と呼ぶが、私はむしろ形而上学的な自爆テロと名づけたい──の一部始終を矢継ぎ早に繰り出される新しい武器(概念)でもって叙述しきり、ペネトレイター(この私をたえず貫き、社会全体に広がり、つねに運動し続ける、網の目状の移動貫通体)の概念の提示とともに中断される第八章(自己治癒する無痛文明)。それはあたかも戦う者の姿は敵に似てくるというニーチェの洞察を地でいくような、合わせ鏡の地獄絵さながらの壮絶なドラマである。
 私は本書を読み終えて、ニーチェが狂気の淵に臨んで構想していた哲学的主著とはもしかするとこのような書物のことだったのかもしれないと思った。たとえば最終章でも特に異端的趣の濃い「補食の思想と宇宙回帰の知」とそれに先立つ「開花の学」の節で著者が展開している議論は、まぎれもなく力への意志と永劫回帰の二つの概念によって書き上げられた「私の哲学(マイネ・フィロゾフィ)」の一つの可能態なのではないか。

★木田元『反哲学史』(講談社学術文庫:2000.4.10)

 文庫解説で保坂和志が「この本を読んだら『現代の哲学』や『哲学と反哲学』へ進むのが自然なのかもしれないけれど、まずはもう一度この本を読み直してみるのが一番いいんじゃないかと思う」と書いている。
 だからというわけではないが、年末から年始にかけて繰り返し繰り返し読んだ。たとえばイデア論という不自然な知(形而上学的思考様式)の起源をめぐってプラトンとユダヤ系思想とのあり得たかもしれない出会いの可能性やプラトン‐アウグスティヌス主義的教義体系とアリストテレス‐トマス主義的教義体系との関係にふれた箇所、通りすがりに「近代哲学の枠組に収まりきれない」スピノザに言及されたところや「「生きた自然」という概念を復権することによって形而上学的思考様式を克服しようとする試みを、もっとも壮大なスケールで展開した」ニーチェを取りあげた節などは少なくとも五度は読み返したし、いまもまた最初から読み直している。
 実際のところこれほど再読のしがいがある本というのはそうざらにあるものではない。なにしろ大学の一般教養科目の「哲学」で何十年もしゃべってきた講義ノート、それも哲学とはいったい何だろうと自問し考えなおし、そのつど書き替え書き足して形を整えてきた講義ノートが元になっているというのだから、たとえ別の本で読んだのとそっくり同じ文章がいたるところで目についたとしても、それはもう著者の血となり肉となるまで繰り返し語り直されてきたものであって、だからほとんど名人とよばれる噺家の芸の域に達している。

★木田元『現代の哲学』(講談社学術文庫:1991.4.10)
★木田元『哲学と反哲学』(岩波書店:1990.11.21)
★木田元『哲学以外』(みすず書房:1997.7.10)
★木田元『哲学の余白』(新書館:2000.4.10)
★木田元『わたしの哲学入門』(新書館:1998.4.10)
★マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(川原栄峰訳,平凡社ライブラリー:1994.9.15)

 実をいうと私はこれまで木田元の手になるハイデガー哲学にいまひとつ惹かれなかった。ちょうど一年前に読んだ『マッハとニーチェ』だけはすこぶる滅法面白かったけれど、どういうわけか後が続かなかった。『反哲学史』を読んで分かったことがある。『マッハとニーチェ』の面白さは木田元という希代の読書家にして文章家の語り口にあったのだ。(『哲学以外』に収められた「私の文章術」に文章とはリズムだということが書いてある。だとするといまや現代の文人の風格を漂わせる木田元の文章のリズムが私に合う、いや私の方が合うようになったということなのかもしれない。)
 というわけですっかり木田元さんの文章に魅了されて、保坂和志が「自然」な流れと書いた『現代の哲学』や『哲学と反哲学』はもちろん、はては『哲学以外』とか『哲学の余白』といった「雑文集」にまで手を出していった。(『反哲学史』の元となった講義ノートの話は『哲学以外』に収録された「『反哲学史』の楽屋ばなし」に書いてあった。『哲学以外』ではそのほか「わが文学の師」日夏耿之介と「わが友ホサカ和志」について書かれた文章がよかったし、『哲学の余白』ではなんといっても「山田風太郎明治小説全集」全七巻の解説が白眉。)
 そうなると不思議なものでこれまで喰わず嫌い、いや喰っても好きになれなかったハイデガー哲学の紹介までがやたらと新鮮かつ興味深く読めるようになって『わたしの哲学入門』は『マッハとニーチェ』『反哲学史』に続く反芻本になったし、その余波で同時に読み進めていたハイデガーの『形而上学入門』にまで深い味わいを覚えるようになった。(木田元さんの翻訳以外の処女作だという『現代の哲学』はまだぱらぱらと眺めているところ。この本は『わたしの哲学入門』や『形而上学入門』ともどもいずれちゃんと感想文を書くことにしよう。)

★内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店:2003.4.30)
★内田樹『映画の構造分析──ハリウッド映画で学べる現代思想』(晶文社:2003.6.15)
★神戸女学院大学文学部総合文化学科編『知の贈りもの 文系の基礎知識』(冬弓舎:2002.12.10)

 久しぶりに内田樹の「ユーザー・フレンドリー」な文章とわずかであれその息のかかった書物を読んだ。
 気配を察知する「身体感受性」の話からカフカ的不条理に巻き込まれた村上春樹の作品の主人公が自分を守るためにとりあえず採用する最初の戦略が「ディセンシー(礼儀正しさ)」であるという指摘まで、根源的矛盾のうちに引き裂かれた人間の事実を見すえながら慈愛の眼差しをもってやさしく自在に語り下ろした『疲れすぎて眠れぬ夜のために』。
 ロラン・バルトのアイデア──「映画的なもの(ル・フィルミック)、それは映画の中にある、記述され得ぬものである。表象するだけで、表象され得ないものである」──に刺激を受けて、映像テクストに穿たれた「裂け目」(何を意味するのかよく分からないもの=意味の亀裂=意味生成の培養器=物語発生装置)が「私たちの知性と想像力を激しくかきたて、私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う」現場を「映画的身体」のモードに即して「記号」と「抑圧」の理論を駆動させて腑分けした『映画の構造分析』。
 いま使用した三つの語彙、「映画的身体」「記号」「抑圧」の解説を分担した『知の贈りもの』から。《映画を見るということは他者の身体の内側に想像的に入り込み、その快楽と苦痛を併せて生きることです。多くのすぐれたフィルムメーカーが「痛みを感じることのできる」身体への同調を観客に求めたのも、あるいはそのような共感能力を持つことが、私たちが他者と共に生きるために不可欠の資質だと直観していたからかもしれません。》(「映画的身体」)

★島田雅彦編『無敵の一般教養[パンキョー]』(メタローグ:2003.11.24)
★糸井重里『智慧の実を食べよう。』(ぴあ:2004.1.1)

 前著は雑誌『recoreco』に連載された対談集で、いくつかは掲載時に読んだ記憶がある。「彼らの手にかかると、講義は一級のエンターテインメントにもなる」と編者がいう彼らとは、惑星物理学、考古学、数学、脳科学、文化人類学、言語学、近現代史、農学の第一人者おことで、分野の選択と人選が面白い。茂木健一郎の「講義」録から(これはほとんどハイデガー哲学の語り直し)。《考えてみると、〈私〉という存在も、様々な可能態の束のようなものだという気がしてきます。…そのような、人間が意識のなかで束ねている可能態の存在をどう考えるか。これこそが、人間の本性を考える文学という営みにおいても、物質の客観的な振る舞いを問題にする科学という営みにおいても、中心的な課題になっていくのではないかと思います。》
 後著は詫摩武俊、吉本隆明、藤田元司、小野田寛郎、谷川俊太郎といった「じーさん」たちを集めて行われた長時間講演会「智慧の実を食べよう。300歳で300分」の記録。なぜ「ばーさん」がいないかについての糸井重里の文章が面白い。「じーさんとちがって、おもしろいばーさんの話って、普遍化できないんですよ。」普遍に向かおうとする「ばーさん」の話はネイティブアメリカンの長老の話のような「智慧」というよりは「主張」に近いもので、素敵な「ばーさん」はまるで「普遍化することを拒否する」ように考えたり動いたりしているらしいのだ。

★館淳一『女神たちの館』(マドンナミストレス:2003.6.10)
★睦月影朗『みだら秘帖』(祥伝社文庫:2003.12.20)

 舘本はシーメール(男でも女でもない第三の性としての美少年)ものが二編。「ミストレス小説」というジャンルに属するのだそうだ(はじめて知った)。睦月本は馥郁たる淫気芬々の達意の文章で綴られた淫靡で凄惨な「官能時代劇」。『おんな秘帖』の続編。