不連続な読書日記(2003.11-12)




☆2003.11−12

★和田迪子『万能感とは何か──「自由な自分」を取りもどす心理学』(新潮文庫:2002.7.1)
★菊池佑二・栗原毅『血液サラサラで病気を防ぎ治す──生活習慣病から痴呆まで』(講談社+α新書:2003.10.20)
★中島恵子監修『脳のリハビリ訓練ドリル』別冊宝島911(宝島社:2003.12.10)
★『季刊チルチンびと』No.27 2004 WINTER[特集|「和」のある住まい](風土社)

 秋が深まるあたりから心身と頭のバランスがうまくとれなくなって、ぎくしゃくした毎日を過ごしていた。集中して本を読むことができないし、読んでも頭に残らない。ましてや、読み終えた本の感想など書く気が起きない。
 たとえば、森岡正博『無痛文明論』とか保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』とか中沢新一『精霊の王』など、ふだんならとっくに読み終えて今頃はきっと存分に受けた刺激の余韻を味わっていただろう本たちも、読みかけのまま年を越すことになりそうだし、著者本人からサインをいただいたオギュスタン・ベルク『風土学序説』も、そこに示された「コーラ=風土」説が『精霊の王』の論考と見事に響き合っていて、久々の高揚を覚えたにもかかわらず、その後が続かない。
 アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』や太田肇『選別主義を超えて』などは10月のはじめには読み終えていたのに、やっと暮れになって、それも覚え書き程度の記録をつけるのが精一杯のありさま。茂木健一郎『意識とはなにか』とか養老孟司・茂木健一郎『スルメを見てイカがわかるか!』は、とうとう年内に感想を書いておくことができず、来年にもちこし。
 そこで、年末の(気だけ)あわただしいなかを(たった)二日ほど割き、「こころとからだとあたまの手入れ」をやって、その更新をはかってみた。上に掲げたもののほか、齋藤孝『呼吸入門』や植島啓司『「頭がよい」って何だろう』、それから以前同じ心身状態に陥った時に買って、読まずに放置していたイアン・ロバートソン『マインズ・アイ』や野口晴哉『整体入門』なども読み囓った。ついでに、「住まいは、生き方 地球生活マガジン」と銘打たれた季刊誌を絵本がわりに眺めながら、「生き方の更新」を模索してみた。結果は、期待したほど劇的なものではなかった。あたりまえの話だけれど、「こころとからだとあたまの手入れ」や「生き方の更新」には時間がかかる。
 「精神分析の口語版」といわれるTA(交流分析)の入門書、『万能感とは何か』を読んでいて、いろいろ思うところがあった。精神分析というものは、結局、西洋形而上学を「技術」として使っているだけではないか(ここのところは、木田元『反哲学史』からの受け売り。「ハイデガーは、こうしてヘーゲルのもとで形而上学は理論[テオリー]として完成され、以後は技術として猛威をふるうことになる、と言っております」)とか、だから、TAがめざす「子どもの心」(魔術やファンタジーの世界に根ざした万能感)から「大人の心」(現実検討能力)への変更は、結局、西洋近代流の個人を再生産するだけなのではないかとか。でも、このことを立ち入って考えるだけの気力と根気が続かない。とにかく文章を書くのが億劫で、これではどうしようもない。

★アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために──戦争と正義をめぐるエッセイ』(本橋哲也訳,岩波新書:2003.9.19)

 ペンは剣より強いというけれど、武に拮抗しうる文章の力を実感することはそうざらにあることではない。口語文や女言葉、時にはあやしい関西弁まで「駆使」した訳文にはちょっと疑問を感じないではなかったけれど、それはまあ許せる。本書に収められた八篇のエッセイで著者が身をもって伝えようとしたことは、生きた人間がつむぎだす言葉の力そのものなのだから。
《わたしたちの戦略、それはたんに〈帝国〉に立ち向かうだけでなく、それを包囲してしまうことだ。その酸素を奪うこと。恥をかかせること。馬鹿にしてやること。わたしたちの芸術、わたしたちの音楽、わたしたちの文学、わたしたちの頑固さ、わたしたちの喜び、わたしたちのすばらしさ、わたしたちのけっして諦めないしぶとさ、そして、自分自身の物語を語ることのできるわたしたちの能力でもって。わたしたちが信じるようにと洗脳されているものとは違う、わたしたち自身の物語。》(145頁)
 ──帝国の二つの定義。第一、帝国とは「アメリカ的生活様式」のことである。(「アメリカの新しい戦争にとって勝利とは何か」と尋ねられたラムズフェルド国防長官は、「アメリカが自分たちの生活を続けられることを世界に納得させられればそれが勝利だ」と答えた。)第二、帝国とは「新自由主義的資本主義」のことである。その婉曲語法は「民主主義」であり、反対語は「世界の複数性」である。
 帝国とはフィクションである。そこでは事実など問題にならない。これに抗するためには、記憶を研ぎ澄まし、歴史から学ばなければならない。(たとえば1973年9月11日、チリの軍事クーデターのこと、1922年9月11日、イギリス政府によるパレスチナの委任統治宣言のこと、1990年9月11日、ブッシュ・シニアによるイラクに対する戦争の決定発表のこと、そして2001年9月11日の同時多発テロのこと。)
 帝国とは誇大妄想だ、なぜなら帝国は下腹部(経済組織)に弱点があるから。市民的不服従と商品ボイコット(民衆による経済制裁)によって帝国を包囲すること。

★太田肇『選別主義を超えて──「個の時代」への組織革命』(中公新書:2003.9.25)

 本書のテーマ。──既存のパラダイム(組織の論理)を受け継いだ「革新」(序列主義から能力主義・選別主義へ)ではなく、新しいパラダイム(市場・社会の論理)に基づいて組織やシステムを根本から設計し直すこと。つまり21世紀型組織への「革命」(選別主義から適応主義へ)のシナリオを描くこと。
 著者による回答。──個人を内側に囲い込み庇護する代わりにその内面まで管理下におこうとする「大きな組織」から、個人の仕事を支援したり活動の場を提供するするための手段・インフラストラクチャーとしての「小さな組織」へ。この「組織革命」のプロセスを著者は「旧来型組織による環境適応の限界→組織離れ→インフラ型組織による再生」と一般化している。
 本書のキモ。──就職と出世の二語でくくられた組織の時代の次にくるのが「個の時代」で、そこでは「組織や制度よりも市場や社会[世間]の要求に応えながら仕事をするシステム」が中心になる。そのようなシステムの源は「ある面では伝統的な欧米の組織よりもむしろアジア、そして日本的風土のなかに見出すことができる。もしかすると、そこから一つのグローバル・スタンダードが生まれるかもしれない」(193頁)。
 読者の感想。──組織と個人、内と外、西欧とアジア、等々。こうした二元論で本書を読むのはミスリーディング。なにしろ「革命」なのだから、その実質は起きてしまわなければわからない。起きてしまうと言葉の意味(「組織」と「個」を同じ平面で対立させているパラダイム自体)が変わってしまうので、そもそも新旧を比較して論じることなどできない。実践と理論の二元論だって同じことで、本書もまた「革命」のプロセスそのものを担っている。

★金子勝『経済大転換──反デフレ・反バブルの政策学』(ちくま新書:2003.10.10)

 グローバリズムの行き着く先はユニラテラリズム(一国決定主義)と市場原理主義と宗教原理主義の三位一体からできたブッシュイズムである。それがもたらすものは「終わらない戦争」であり「分裂と不安定の時代」である。日本経済はこうしたグローバリゼーションのもとで喘いでいる。「資本デフレ→消費デフレ→輸入デフレ」と進んだデフレ不況はついに地域デフレという最終局面へと波及し始めている。中山間地の集落崩壊、地方都市の崩壊(シャッター商店街)、大都市の空洞化(急速な高齢化と地権の細分化がもたらす「日本型インナーシティ問題」)。この七○年ぶりの世界同時デフレがもたらした現実に対して、戦後経済(インフレの時代)の経験が培った思考法は無効である。冷戦下の思考様式では現代の日本がかかえる三つの問題(不良債権処理の失敗による金融システム目詰まり、将来不安のもとになっている年金や社会保障の目詰まり、不良債権と化したゼネコンや不動産業救済が作り出した財政赤字)を解決することはできない。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。「われわれは、何よりも普通の人々が普通に生きてゆける定常状態を取り戻すことから始めなければならない。」ただし、処方箋には乏しい。

★神崎京介『女薫の旅 耽溺まみれ』(講談社文庫:2003.11.15)

 もうすっかり定番になった奈津江(小泉ゆかりのお母さん)と同級生の杉江淳子の二人に、酒の配達のバイトで知り合ったスナックのホステス・水谷詩織とサッカー部の先輩の女友達・広田麗子が加わって、山上大地、高校2年の夏休みの心と躰がつながる経験が描かれる。──この調子で、主人公が天寿を全うするまで(とはつまり、神崎京介が老境に達するまで)果てしなく延々と続いていけば、途方もない大河作品もしくは教養小説になる。

★中山可穂『白い薔薇の淵まで』(集英社文庫:2003.10.25/2001)

 女性作家の手になる官能小説(性愛小説)には、それがよく出来た作品であれば必ず、文章の力によって文章表現を超えた底知れぬ愉悦の世界が克明に描写されていて、読むたびになにやら血なまぐさい感覚にとらわれ、分別分離を旨とする青白い理性が自己崩壊の恐怖に慄えるのが常だ。といっても、とっさには小池真理子さんの名前くらいしか浮かばないのだけれど、初めて読んだ中山可穂の山本周五郎賞受賞作品は、まるで完璧なホラー小説家かなにかのように、生理の奥深くに働きかけてきて、名状しがたい不安な残像を刻印していった。それがあの山本周五郎の名にふさわしい世界だったのかどうか、ちょっとほほえんでしまうような気がしないでもないが、ジャン・ジュネの再来と賛辞を与えられた新人作家・山野辺塁の像は、鮮烈だがどこか紋切型で、この鋭いまでの凡庸さこそがこの作品の真骨頂なのかもしれない。

★佐藤正午『きみは誤解している』(集英社文庫:2003.10.25/2000)

 一人称、三人称、エッセイ風と、自在で達者な語り口による六つの短編に、用語解説と後書きを兼ねた「付録」がついた作品集。「きみは誤解している」という表題作のタイトルから、『Y』や『ジャンプ』につながる時間分岐譚の趣向を帯びた、苦く切なく哀しく清しい恋愛小説の連作を想定していたのだが、その期待をあっさりと裏切る競輪小説集で、でもそれはそれで結構、楽しめた。ギャンブルという濃い人間臭の漂う場面で綴られた男と女、男と男の物語はいずれも鮮やか。個人的には、なんとなく太宰治を思わせる「この退屈な人生」が好み。「遠くへ」に登場する阿佐田哲也の言葉が深い。「あんたはいつも独りぼっちだ、勝っても負けても独りぼっちだ、誰にも当たったことを自慢できないし、はずれたことで誰にも愚痴をこぼせない、それがギャンブルの世界のルールだ。」

★黒川博行『国境』(講談社文庫:2003.10.15/2001)

 ヤクザを父親に持つ建設コンサルタント二宮と、真正のヤクザ桑原のコンビが、詐欺師を追って二度の北鮮行きを敢行する前半は、冒険小説としてよりもむしろ一種の情報小説として出色の出来映え。たとえば北朝鮮の人民は三つの階層に分類されていて、それは平壌に住める「トマト階層」(皮も身も赤い)と山間奥地や僻地に住む「ぶどう階層」(皮も実も赤くない)、それからこのどちらにも属さない「りんご階層」(皮は赤いが中身は白い)の三つだとか、平壌にも日本のヤクザに似た人種がいるとか、雑学的知識も織り交ぜながら、「パーマデブ」が支配する異様な国の実態をリアルに描いている。後半は、関西を舞台にヤクザや詐欺師、実業家に政治家、悪徳警官が入り乱れてのアクションもので、それはそれでスピーディで心地よい読み物なのだが、でもやっぱり前半との間に微妙なミスマッチがある。でも、たっぷり二冊分読んだと思えば、それはほとんど気にならない。

★鳥飼否宇『密林』(角川文庫:2003.10.25)

 昆虫採集家が主人公の沖縄を舞台にした密林アドベンチャー。少年の頃、夢中になって読んだファーブル昆虫記の興奮と、大アマゾン探検記のハラハラドキドキを期待して読み始めたのだけれど、いまひとつ気分が高揚しない。構成と文体に、いくばくかの美学的緊張は漂っている。が、自然であれ人物であれ、描写の密度、濃度のようなものが足りない。ところどころに挿入された言葉遊び、というか活字遊びにも必然性が感じられない。作品世界の内圧が高まって、思わず筆が迸ったかと納得させられるだけの過剰がない。財宝の在処を示す暗号解読の趣向は、うまく溶け込んでいたならばきっと作品の魅力を高めただろうが、かえってわずらわしくて興を殺ぐ。

★山本甲士『あかん』(小学館文庫:2003.11.1)

 こてこての関西弁が飛び交うなかで、ヘタレなちんぴらたちの情けない「活躍」が、どこかあきらめ顔で突き放したような乾いた文体をもって淡々と語られる。心をうち感動をさそうエピソードがあるわけでもないし、ましてや生きる勇気を与えてくれる爽快な人間が登場するわけではない。どうしようもなく卑俗で、愚かで、つきあいきれない連中の生態が、標本のように六つ並んで、事例研究よろしくただただ記録されている。彼らの滑稽で惨めな末路が、けっして涙はそそらないものの、一抹の哀れはそそる。ただそれだけの、どうということはない読み物なのだが、山本甲士の文章には、落ち着きがあって無駄がない。だから、読ませられてしまう。

★冲方丁『マルドゥック・スクランブル』1〜3(ハヤカワ文庫JA:2003.5.31〜7.31)

 これは少女と敵と武器についての物語である。作者は後書きにそう書いている。今月、同時に読んだ『黄金の羅針盤』は11歳の「お転婆」な少女が登場するファンタジーで、考えてみるとこの作品もまた少女と敵と武器についての物語だった。この「別の世界」に住むライラにはパンタライモンというダイモン(精霊)と「真理計」が寄り添っていて、マルドゥック(天国への階段)の少女娼婦・ルーンにはウフコックという万能兵器(魂)が装着されている。そして、神学的意匠と科学技術で身を固めた見えない敵。少女・敵・武器の三つのアイテムがそろえば、そこに戦いが生まれる。作者はこの作品で、純粋戦闘ともいうべきものを描写した。文字通り肉体を賭けた戦闘と、カジノのギャンブル(ポーカー、ルーレット、ブラックジャック)を通じた抽象的な戦闘。「我々が生きていること自体が偶然なんだ。…偶然とは、神が人間に与えたものの中で最も本質的なものだ。そして我々は、その偶然の中から、自分の根拠を見つける変な生き物だ。必然というやつを」。冲方丁は、皮膚に直接はたらきかけてくる特異なイメージと硬質な文体を駆使して、未聞の世界を予感させる作品を書き上げた。そして、物語的予定調和(たとえば成熟)を破壊し尽くす、その一歩前で逡巡している。

★フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』上下(大久保寛訳,新潮文庫:2003.11.1)

 自然界には未知の力があって、それは人間とその人間にぴったり寄り添うダイモン(精霊)とを結びつけている。その力を解放してコントロールできたら、この世界をすっかり変えてしまうことができる。それどころか、この世界とは違う。もう一つの宇宙にだって移動できる。そうした魂の力ともいうべきものをめぐる「実験神学」(上巻第1部第3章)と、異端の神学者たちによるパラレル・ワールドの存在証明(下巻第3部第21章)とが、この物語の世界をかたちづくっている。それは善悪を超えた真実で、真実を知ること、つまり知識を獲得することは、それ自体、善悪を超えた一つの戦いである。だから、その戦いの中で血を流し、皮膚を破かれることは、けっして残酷な出来事ではない。ライラの冒険を読むことの楽しさは、真実を知ることにあるのではなくて、真実にいたるプロセスそのものを追体験することにある。優れたファンタジーは、物語を読む喜びそのものを純粋に表現している。小谷真理さんの解説「楽園探検の手引き」が見事。

★デイヴィッド・フェレル『殺人豪速球』(棚橋志行訳,二見文庫:2003.10.25)

 1918年の優勝以来、ワールドシリーズでの勝利から見放されてきたボストン・レッドソックス。世に言うバンビーノ(ベーブ・ルース)の呪いだ。しかし、今年のレッドソックスは違った。時速110マイルを超える剛速球投手ロン・ケインを得て、ついにその呪縛から解放される時を迎えた。対するは、かの石井一久を擁するロサンジェルス・ドジャース。3勝3敗で迎えた最終戦。延長15回裏、2点差、2アウト、ランナー1、2塁の最終局面。殺人容疑から解放された監督は、ケインを代打に指名する。その時、ボストン警察は連続殺人事件の犯人逮捕に向かっていた。──この最高に盛り上がるラストシーンで手に汗握れるかどうか。それがすべてで、私はだめだった。痛快野球小説と猟奇殺人ミステリーが、まるで異物のように最後まで噛み合わなかった。

★クライヴ・バーカー『冷たい心の谷』上下(嶋田洋一訳,ヴィレッジブックス:2003.10.20)

 狡猾だが愛らしい二つの目をもったルーマニアの美少女は、ハリウッドの超売れっ子女優に成長した。コールドハート・キャニオン(冷血峡谷)と呼ばれる郊外のその屋敷は、古い修道院から部屋ごと買い取られたタイル画が敷き詰められていた。そこには、悪魔の妻リリスがつかさどる淫猥で無惨な地獄の世界が描かれていた。──この物語の発端は、ふるいつきたくなるほど蠱惑的で、その後に続く異形の怪物たちが跋扈する夢魔の世界の出来事はおぞましくも印象的(「死者とのセックスがこういうものだとしたら、人生にはまだ学ぶべきことがたくさんある」)。でも、いかんせん登場人物たちにからきし魅力がないので、心底陶酔できない。

★チャールズ・ブコウスキー/マイケル・モントフォート=写真『ブコウスキーの酔いどれ紀行』(中川五郎訳,河出文庫:2003.10.20/1995)

 ブコウスキーの作品は以前『町でいちばんの美女』を読んだきり。あの時はとにかく圧倒されて、こんなとてつもない短編を量産するブコウスキーはなんと凄い奴だと感嘆した。なんの物証もない物言いだけれど、もし現代のチェホフの呼び名に値する作家を一人挙げるとすれば、それはきっとこの人だと思った。本書にはそのブコウスキーが生出演して、コクのある言葉(たとえば「同じ歌は何度でも聴くたびによくなっていく可能性があるのに、同じ詩は聴くたびにどんどんひどくなっていくだけだ」とか)をたっぷりと書き散らしている。「わたしたちは飲んで、食べて、飲んで、飲んだ。誰もがぜいたくに暮らしていて、この世に存在することはただのジョークでしかないようだった。」この文章に、本書は凝縮されている。マイケル・モントフォートの写真がいい。ブコウスキーのスプートニク(旅の道連れ)、リンダ・リーがいい。中川五郎の訳者あとがきもいい。だけど、町田康の解説は要らない。

★伊坂幸太郎『オーデュポンの祈り』(新潮文庫:2003.12.1)

 どことなく高橋留美子の世界を思わせる、シュールで軽妙で(高所恐怖症の人間ならきっとゾッとするに違いない)奇妙な浮遊感覚が漂うユーモア・ミステリー。殺されるのは、鳥を唯一の友とする、優午という名の喋るカカシ。優午は未来を予測することができるが、未来を変えることはできない。それはちょうど小説の中の名探偵のようなもの。事件の真相を解明することはできるが、犯罪を止めることはできない。舞台は、江戸時代以来ずっと鎖国のまま、ただ一人の「商社マン」によって外界とつながっている荻島。島には古くからの言い伝えがある。それは「この島には何かが欠けている」というもの。先に探偵役が殺されてしまうという、倒叙ならぬ倒錯したミステリーにふさわしい捻れた時空。これをファンタジーや寓話と受けとってしまうと、この作品は楽しめない。記号を、それが意味するものにおきかえて事足れりとするなら、それは論文を読むのと同じ。意味すること、あるいは謎の解明プロセスそのものを楽しむのでなければ、小説を読む意味がない。たとえ、記号に意味がないとしても。あるいは、真犯人がいないとしても。

★三浦しをん『ロマンス小説の7日間』(角川文庫:2003.11.25)

 歯の浮くような英国中世騎士道ロマンの翻訳を依頼されたあかりが、ボーイフレンドの神名とのドタバタ騒ぎに苛立って、勝手に作品を書きかえてしまう。やがて、フィクションとリアル、ロマンス小説と現実世界が渾然と一つになっていく。この趣向にはちょっと期待させられもした。あかりがリライトするロマンス小説の部分は、結構よくできている。でも、肝心のリアルの部分がちっとも面白くないし、翻案部分とうまく噛みあっていかない。こういうのをアイデア倒れという。──太宰治に「ろまん燈籠」という作品があるのを思い出した。正月の座興に、五人の兄弟姉妹が交代で五日かけて一つの物語(王子とラプンツェルのロマンス譚)を書き継ぐ。そこに子供たちの性格が露骨に反映していって、最後にちょっとした「感動」を誘うオチがつくという、愛すべき小品だった。

★朱川湊人『白い部屋で月の歌を』(角川ホラー文庫:2003.11.10)

 表題作は、結末の意外性に新味がなく短編小説としてのキレはいまひとつだったけれども、語り口が滑らかで、作品の外面に漂う淫猥でどこかいかがわしい雰囲気と無垢で清純な内面世界とが品よくブレンドされていて、好感がもてた。併録された「鉄柱(クロガネノミハシラ)」は、丁寧に書きこまれた文章がしだいに薄ら寒い世界を紡ぎだしていく筆の運びに非凡なものを感じた。ただ、描かれている出来事や舞台設定はありふれていて凡庸。著者は、斬新なアイデアや読者を唸らせるトリックで勝負するより、語り口で読者を惹きつけ物語の迷宮に誘いこんでいくタイプなのだと思う。ホラー小説のジャンルに新境地をひらく、いや、ジャンルをつきぬけて読者の心を揺さぶる長編小説の書き手になりそうな予感。

★花村萬月『風転』上中下(集英社文庫:2003.9.25〜11.25)

 ずいぶんと破格な作品だ。作者は、父殺しの少年ヒカルの言動を中心にすえながら、ヒカルとともにオートバイでの逃避行を続ける孤独なインテリヤクザの鉄男、ヒカルの子を流産した萌子、元刑事の恩田、萌子の親友で虚言癖のある夏美、殺し屋の「死に神」、そしてヒカルの母真莉子と、それぞれの生と死の軌跡を寄り添わせるのだが、そこには一貫性がなく、物語としてほとんど破綻している。登場人物は観念だけで行動し、およそ現実にはあり得ない会話を交わし、作者の操り人形のように唐突な関係を結ぶ。文学にかぶれた人間が勘違いして、強靱な体力だけで書き上げた最悪の失敗作と紙一重なのだ。その紙一重を突き抜けるためには、一度死ななければならない。花村萬月は、この作品を書くことで一度死んだ。登場人物の死に託して、自らを葬り去ったはずだ。作家として生まれなおし、想像力を鍛えあげ、観念に肉体を与え、再生の儀礼としての文学を産み出すために。──中巻の58頁に出てくる鉄男の言葉が深い。「じつは、オートバイが走るということの力学的な解明はいまだに完全になされていないんだ。論理が確立していない。でも、人間はそれを巧みに操ることができる。論理が確立していないからこそ、あれこれ試行錯誤して自分のスタイルをつくりあげる余地がある。」ここで、オートバイは人生の比喩ではない。むしろ肉体、躯、欲望と見るべきで、実はそこにこそ想像力の、つまり文学(スタイル)の根がある。

★小谷野敦編『恋愛論アンソロジー ソクラテスから井上章一まで』(中公文庫:2003.10.25)

 恋愛論でアンソロジーを編むのなら、シェイクスピアやゲーテ(悩めるウェルテル)やサドやナボコフが出てきてもいいし、中国やインドの古典も漁ってほしいし、そのほか思いつくまま名を挙げるならば、近松門左衛門やらフランチェスコ・アルベローニなどに言及してもいいだろうし、オクタビオ・パス(『二重の炎』)や本邦のイナガキ・タルホ(『少年愛の美学』)ははずせないし、ロラン・バルトや澁澤龍彦といった希代のアンソロジストの向こうを張ってみせてほしい。と、まあ、無い物ねだりが延々と続くわけで、それほどまでにアンソロジーという試みは魅惑的なのだ。よほど周到細心に取り組まなければ、編者はサンドバックにされる。そんな危険な賭けに挑んだ小谷野敦の蛮勇がまず潔い。大学のゼミの教材を読まされているような感じがしないでもないけれど、明治大正昭和初期の文人、ジャーナリスト、知識人の文章が多く収められているのが地味ながら本書のウリの一つで、この編集方針に賛成の一票。

★土屋賢二『ソクラテスの口説き方』(文春文庫:2003.12.10)

 その昔、東海林さだおや山下洋輔や伊丹十三や椎名誠といった面々のエッセイにハマったことがあって、一時期、来る日も来る日も貪り読み、抜け出せなくなった。いま読み返してみてもやっぱり面白いし、名品揃いだと思うが、一時に大量読むのはよくない。トローチのように一粒ずつゆっくり舐めて、せいぜい一日五粒くらいにしないと胃が荒れる。とくに若い頃の大量摂取は、その後の精神の質を歪にするおそれがあってよろしくない。土屋賢二のエッセイには、東海林さだおや山下洋輔や伊丹十三や椎名誠といった面々の文章に通じる中毒性がある。いや、もっとたちが悪い。なにせ哲学者なのだから、一筋縄でいくはずがない。柔で未熟な精神は、そこにくっきりと描かれたパーソナリティ(ツチヤ教授)を著者の人格そのものと取り違えてしまう。過激過剰をユーモアと誤解する。書くという行為がいかに意図的なものか。だからそこでは悪意と欲望を巧妙に韜晦する技術がいかに狡猾に駆使されているか。そういったことを充分弁えた上で、味わわないといけない。だらしなく読み続けて、ゲラゲラ笑っているだけでは馬鹿になる。随所に挿入された稚拙で素朴なイラストが愛らしいが、騙されてはいけない。

★ニコラス・ブリンコウ『ラリパッパ・レストラン』(玉木亨訳,文春文庫:2003.11.10)

 「一種独特なアホ」のホギーと「オリンピック級の精神異常者」のチェブのいかれたコンビは、いつもラリっていて危なげでどうしようもない人物だけれど、妙に心に残る。小麦文明論をのたまう売人のナズにしても、スーザンやジュールズにしても、大虐殺事件にまきこまれるその他大勢の人物にしても、いずれも妙に気にかかる。ストーリーはまるで面白くないし、読み終えてなんの感銘も残らない。ただ独特の雰囲気、ある時代の気分のようなものは濃厚に漂っている。それだけで充分なのかもしれない。誰と名ざすことはできないが、しかるべき男優、女優を得て映画化されたならば、珠玉の名品になったかもしれない。「ラリパッパ・レストラン」という邦題は、よくできているとは思うけれど、ちょっと損をしているのではないか。

★ネルソン・デミル『アップ・カントリー 兵士の帰還』上下(白石朗訳,講談社文庫:2003.11.15)

 アップ・カントリー(田舎のほう)。軍隊の内輪の言葉で、都会を出て、行きたくない場所(たとえば山林やジャングル)に赴くこと。陸軍犯罪捜査部を退役したポール・ブレナー(あの『将軍の娘』での活躍が懐かしい、でも映画でブレナー役を演じたジョン・トラヴォルタはミス・キャストだと思う)にとって、それは封印した過去へ、ヴェトナム戦争での忌まわしい記憶へと遡行することだった…。三十数年前の戦場での殺人事件の謎解きと冒険、法的正義と政治的謀略をめぐる確執、魅力的なスーザン・ヴェバーとの虚実まじえた駆け引きや執拗で陰湿なマン大佐との「友情」、ヴェトナムの諸都市と山岳地域、過去と現在をめぐる蘊蓄や情報。なんともゴージャスで読みごたえのある雄編なのだが、解説子(吉野仁)がいう「観光小説」の部分がやたらと冗長で、物語のスピードと質を損ねている。(二つの小説を同時に読んだと思えば、それは許せるのだけれど。)──ブレナーとスーザンのへらず口のたたきあいがとてもいい。なかでも傑作なのは上巻の493頁。「きみと三日間も過ごしたら、そのあと三日間の保養休暇が必要になりそうだよ」「年を食ってるにしては、きちんとシェイプアップしているくせに。泳げるの?」「魚も顔負けにね」「山歩きは?」「ロッキーを駆けぬける山羊なみに」「ダンスは?」「ジョン・トラヴォルタもまっ青さ」

★ブレット・イーストン・エリス『ルールズ・オブ・アトラクション』(中江昌彦訳,ヴィレッジブックス:2003.9.20)

 気のせいかもしれないけれど、初めてヌーベルバーグ映画を観たときの印象がよみがえった。名著『〈映画の見方〉がわかる本』の著者町山智浩さんが書いた解説によると、この作品には、ジェームズ・ジョイスの「意識の流れ」とドストエフスキー(『地下生活者の手記』)の延々と続くモノローグとヘミングウェイの一人称の語りという、三つの文学的伝統が脈打っているという。まことに鮮やかな分析で、この比類ない言語体験をもたらしてくれる作品世界の質を見事に言い当てている。ただ、やや読み急いだため、その世界にじゅうぶん浸りきることができなかった。(読む時と心身状態を得ていたならば、きっと忘れ難い作品になっただろうと思う。)

★グレン・ミード『亡国のゲーム』上下(戸田裕之訳,二見文庫:2003.12.25)

 周到に練りあげられた無駄のない構成。丹念に書き込まれた(まるで映画のカットをまるごと文章化したような)細部の積み重ね。適度に類型化されたわかりやすい人物群。物語の骨格をなす主要人物たちが奏でる対位法(ロシアの血が混じったチャチェン人テロリストのニコライ・ゴレフとパレスチナ人テロリストのカルラとその息子ヨセフ。FBI捜査官ジャック・コリンズと亡くなった妻子、そして現在の恋人ニッキとその息子ダニエル。これら二組もしくは三組の男女、親子の関係の対比。ロシア連邦保安局のクルスク少佐とゴレフとの友情。アル・カイーダのテロリスト、ラシフに対するジャックの憎悪。これら二つの感情の対比。高潔な合衆国大統領と邪悪なアル・カイーダの指導者との対比。)そのどれをとっても良くできた第一級の娯楽小説で、だから安心して著者の術中にはまり、時を忘れることができる。あらかじめ約束された大団円とカタルシスをめざし、緩急をつけながら頁を繰っていける。──著者覚え書きによると、この作品の第一稿を書き終えた直後に「9.11」の惨事が勃発したという。このできすぎた偶然に著者は動揺したかもしれないが、気にすることはない。たかが娯楽小説、リアルな世界の薄っぺらな表層と底知れぬ深層を抉ることなど、はなから期待していない。