不連続な読書日記(2003.10)




☆2003.10

★大川勇『可能性感覚──中欧におけるもうひとつの精神史』(松籟社:2003.2.20)

 『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』と並び立つ二十世紀文学の巨峰『特性のない男』。世紀転換期ヴィーンを生きた「知性の作家」ムージルの手になるこの「哲学者の小説」の主人公ウルリヒは可能性感覚を、つまり「存在することも可能であろうすべてのものを考え、存在するものを存在しないものよりも重要視しない能力」(ムージル)をもつがゆえに特性のない男になる。
 著者によると、可能性感覚は次の三つの要素が渾然一体となった意識感覚もしくは思考能力のことである。第一に、現にあるものを別様でもありうるものと見なすこと、すなわち存在物にたいする「偶然性の認識」。第二に、現実の背後に可能性として潜在する無数の世界を呼び起こすこと、したがって無限の多様性を保証する「多元主義への傾斜」。第三に、現実という固定した枠組みからの超出をうながすこと、いいかえれば現実を虚構化し、これとは別の現実に向かう「ユートピア的思惟」。
 この可能性感覚を生み出した精神史的水脈をたずねて、著者はまずライプニッツの可能世界論へと遡行し、次いで『セヴァランブ物語』(ヴェラス)や『フェルゼンブルク島』(シュナーベル)といった近現代のユートピア文学、さらにはサイエンス・フィクションの流れ、エピクロスやクザーヌスに受け継がれていった世界の複数性の観念をたどる。
 そしてフロイトとケルゼンとウィトゲンシュタインを、とりわけマッハを生んだ世紀転換期オーストリア=ハンガリー二重帝国の知的風土を丹念に叙述し、最後にマイノングやマンハイムとの親和性を論じながら「実験意識にもとづいたユートピア的思惟」──《いうまでもなく、それはユートピアを「可能性」と等置し、さらには「実験」と倒置して、ユートピア生成の過程を「研究者が複合的な現象のなかでひとつの要素の変化を観察し、そこから結論を導きだす」行為と同一視したムージルの思考法でもあった》(426頁)──がもつ現代性、つまり工学の時代において文学的創造力がはらむ意義を論じる。「可能性人間の発展はまだ終わっていない」(ムージル)。
 独文学者としての領分を大胆に越境していくその姿勢はまことに好ましく、あとがきに予告された後続書、それは「現実を超越する意識」を核心とする教養についての研究だというのだが、これもまた大いにそそられる。

★鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた──哲学的思考の全軌跡1912−1951 』(講談社現代新書:2003.7.20)

 思考は日付を持っている。少なくとも、生きることがすなわち哲学することであったウィトゲンシュタインの「哲学的生」に刻みつけられた日々の思考の記録は。(ウィトゲンシュタイン自身は、その哲学的思考の最小単位を「ベメルクンク」すなわち「考察」と呼んだ。著者は、それを「救いの言葉」という。)
 ウィトゲンシュタイン・クロニクルとも言うべき本書の魅力は、編集以前の膨大な考察が記された遺稿への「遺伝子操作」にも似た文献学的腑分けを経て再構築された「常に自己の生と救済を目指した個人的で私的な営み」の異例な苛烈さと、その果ての無名の幸福へと到る「長い思考の旅」の全貌を描ききったところにある。
《ある男が奇妙で複雑な哲学的問題について生涯考え続けたとしよう。彼の思考が生み出したものは何の役にも立たず、誰の関心も惹かなかったが、彼は哲学的思考のおかげで生きることができ、その果てに安らかに死ぬことができた。この男の生涯は幸福だったのであり、男の哲学的思考は彼にとって比類なき価値を持っていたのである。》(7-8頁)
 著者によると、ウィトゲンシュタインが生涯考え続けた哲学的問題の一つは言語(論理)であり、いま一つは生(独我論)であった。そして、この二つのテーマの内在的な結びつきを探ることがウィトゲンシュタインの思考の究極の目的であった。この三つの問題について著者が割りふったキーワードは、「論理神学」と「私哲学」と「魂有る「私」」である。

★ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(野矢茂樹訳,岩波文庫:2003.8.19)

 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(坂井秀寿訳『論理哲学論考』、法政大学出版局)。「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」(奥雅博訳『ウィトゲンシュタイン全集1』、大修館書店)──いま手許にある二つの訳を較べると、前者の方が断然好み。でも、後者には「草稿一九一四‐一九一六」が載っていて重宝。これまで、中央公論の世界の名著版も含めて、私にとっての秘教の聖典『論理哲学論考』は、常時持ち運ぶにはやや重かった。やっとハンディな文庫本になった。それも、名著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』を書いた野矢茂樹さんの訳で。うれしい。ちなみに、野矢訳では「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」。
 文庫カバーに「極度に凝縮されたそのスタイルと独創的な内容は、底知れぬ魅力と「危険」に満ちている」とある。この「危険」の意味について、訳者解説では次のように書かれている。「それにしても、『論考』という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ちすくませ、うっとりさせる力を擁している。それはおそらくすばらしいことなのではあろうが、危険でもある。うっとりしながら哲学をすることはできない。」──橋爪大三郎氏が朝日新聞(10月5日)の「カジュアル読書」欄のコラムで、「邪魔なラッセルの序文を後ろに回すなど、気がきいている」と書いている。同感。

★金子達仁『決戦前夜 Road to FRANCE 』(新潮文庫:2000.3.1/1998)

 1997年秋、東京国立競技場での対ウズベキスタン戦から、あの伝説のジョホールバルでのイラン戦(アジア第3代表決定戦)まで。フランス・ワールドカップ、アジア地区最終予選の全9試合が、金子達仁の流麗な筆捌きと劇的な構成をもって再現される。川口能活と中田英寿の言動とワールドカップへ向けた思い(「彼[中田]にとって、最終予選は決戦ではなかった。これからが決戦だった」)が、「決戦当日」の彼らの姿とあいまって、迫真のノンフィクションに感動を添える。

★麻生幾『情報、官邸に達せず』(新潮文庫:2001.8.1/1996)

 JCO臨界事故、オウム真理教事件、阪神・淡路大震災、等々、ただ淡々と悪夢のような出来事と、それに続く悪い冗談のような政府の対応ぶりが描かれる。情報戦略と被害管理(コンシクエンス・マネジメント)の理念を欠いた国家の実態をリアルに再現する背筋も凍る七つのレポート。「いかに情報を集約し、政策に反映出来るか、そして危機管理理念から、〈救命〉や〈社会財産保護〉を絶対条件とした被害管理へと思考を発展させた勇気ある行動が出来るか──日本国民が存続するかどうかは、未来に託すべき我々の努力が今、求められている」(エピローグ)。

★睦月影郎『福淫天使』(双葉文庫:2003.9.20)
★櫻木充『美姉の魔惑』(双葉文庫:2003.10.20)

 双葉文庫の「書き下ろし長編官能ロマン」(睦月)と「書き下ろし長編純愛エロス」(櫻木)を二月続けて買って読んだ。睦月の汗と唾液と匂い、櫻木の色とかたちと香りのフェティシズム表現を読み比べてみて、別段の感想があるわけではない。二人とも完成された世界と文体をもった作家だけれど、だからどうということもない。

★首藤瓜於『脳男』(講談社文庫:2003.9.15:2000)

 名古屋に次ぐ中部地方の大都市、愛宕(おたぎ)市を揺るがせた連続爆破事件の犯人逮捕の現場に居合わせた鈴木一郎。この他人の経歴と痛みを感じぬ異常な身体能力をもち、感情と魂を欠き、ただ脳だけで生きている謎の男の過去をめぐって、巨漢の刑事・茶屋と男の鑑定を委ねられた精神科医・鷲谷真梨子といった、それぞれシリーズもののヒーロー、ヒロインになれる魅力的な登場人物がからんでいく。やがて病院中に爆弾が仕掛けられる緊迫した状況の中で、男はついにその本性を露わにする。鮮やかな発端、ストーリー展開の緻密さ、人物造形の見事さ、そのいずれをとっても第一級のミステリーの名にふさわしく、さらにマルクス・アウレリウスの引用や随所に挿入された脳神経科学の知見(「わたしという自我をひとつにまとめている力が感情だ」)、『ヨハネの黙示録』をなぞった謎解きなど細部の魅力にも満ちている。だが、いかんせん贅沢に繰り出されるそれらの素材と趣向が一点に凝縮しない。もう少し切りつめるか、もっと書き込むか。そうすれば、まぎれもない傑作になったろう。

★宇江佐真理『余寒の雪』(文春文庫:2003.9.10/2000)

 昔、藤沢周平の短編にぞっこんだったことがあって、こんど初めて読んだ宇江佐真理の七つの短編は、あのすぐれた世話物時代小説に特有の深く濃く香り立つ匂いや、滋味深くて爽快な味わいを久しぶりに思い出させてくれた。でも、これは当たり前のことだけれど、そこにはくっきりと藤沢節とは違う宇江佐真理の個性が刻まれていて、それは中村彰彦さんが「解説」で紹介している「女性ならではの繊細さ」という評言が、大雑把ながらも言い当てようとしているものと同質であるように思う。たとえば仙台の女剣士・知佐が、騙されて同居することとなった北町奉行所同心・鶴見俵四郎宅で五歳になる松之丞との交情を深め、やがて俵四郎との真剣勝負を経てその後添いとなることを受け入れる一部始終を丹念に淡々と綴った表題作「余寒の雪」などは、読み終えて気持ちが清々しくなる絶品で、その丁寧な筆運びのうちに、情感の襞に分け入りながらもこれをそっと事物、言動に託して描写する「繊細さ」がいかんなく発揮されている。

★東野圭吾『鳥人計画』(角川文庫:2003.8.25/1994)

 和製ニッカネンと評された若き天才ジャンパー・楡井が恋人の目の前で毒殺される。直後、コーチの峰岸のもとに「自首しなさい」と手紙が送りつけられ、警察にも「(峰岸を)即刻逮捕されたし」と認められた告発状が届く。こうして、読者の関心は誰が殺したのか(フーダニット)からなぜ殺したのか、いかに殺したのかへ、そして誰が密告したのかへと微妙にずらされていく。その過程で暴かれるサイバード・システムの秘密。それはサイボーグとバードを組み合わせた語で、科学力を駆使した天才ジャンパー養成システム、つまり鳥人計画のこと。このグロテスクなまでに非人間的な企みを軸として、野心と打算、愛憎が織りなす危うい均衡の上に物語は進む。緊密な伏線と絶妙なトリックをしかける達者な筆。しかし、最後に明かされる「真実」がやや技巧的で説得力に欠ける。人間感情の陰翳をめぐる書き込みが足りない。

★梶尾真治『もう一人のチャーリイ・ゴードン』(ハヤカワ文庫:2003.8.31)

 「梶尾真治短編傑作選ノスタルジー編」。SFに胸を躍らせた少年の頃、ふと頭に浮かんだアイデア(物語の種子)をそのまま素直に文章にしたような、とても瑞々しくてどこか懐かしい短編小説が6篇、呑めばたちまち変形加工された記憶を自在に紡ぎだす夢のカプセルのように収められている。表題作「もう一人のチャーリイ・ゴードン」に出てくる「大和石」(ヤポニウム。海水から抽出された奇蹟の鉱物で、細胞賦活の効能をもつ)が「百光年ハネムーン」では文明を更新させるエネルギー源として登場し、同一の人物のその後が描かれる。ここにも少年のアイデア、いや森羅万象につながりを見出す神話的想像力の特質がよくあらわれている。なによりも一篇一篇に控えめな感動がしつらえられているのがいい。

★北原亞以子『峠』(新潮文庫:2003.10.1/2000)

 「慶次郎縁側日記」シリーズの第四弾。NHKあたりの連続時代劇でドラマ化されたら、きっと地味ながら見応えのある大江戸人間模様が深く心に残る映像になるだろうと思う。シリーズの最初からじっくりと読み進めていたならば、たぶん先を読むのが惜しいほどのコクのある物語体験を味わえたのではないかとも。残念ながら本連作の登場人物たち、とりわけ元定町廻りの同心にして今は隠居の身で酒問屋の居候・森口慶次郎の魅力がまだ腑に落ちない。私の中で、北原亞以子の人情譚に耳を傾けるフォーマットが出来上がっていない。口説きと語りに身をゆだねる愉悦。もう少し読み込んでいけば、そういった極上の時間を堪能させてくれる器になりそうな予感がする。

★ロバ−ト・ゴダ−ド『秘められた伝言』上下(加地美知子訳,講談社文庫:2003.9.15)

 あのゴダ−ドの新作とあって、期待に胸躍らせて読み始めた。といっても『永遠に去りぬ』しか読んだことはないのだけれど、まあ虜になるのに何冊も読む必要はないのであって、あの一冊で私はすっかりまいってしまったのだ。ところが、期待が大きすぎたがゆえの反動もてつだってか、この『秘められた伝言』はとんでもない失敗作で、ほとんど駄作の域に達している。失業中の主人公が、失踪した友人をたずねてロンドンへ、そしてベルリン、東京、京都、サンフランシスコを経て再びロンドンへと移動する。行く先々で都合良く、友人の消息を少しずつ知る人物と出会い、やがて、すべての謎が1963年という年に集約していく。後に明かされるその謎も含め、だらだらとしたおしゃべりの中ですべての物語は進行する。ここにはストーリーはあるが、プロットがない。人物はいるが、生きた人間がいない。アイデアはあるが、読者を陶然とさせる語りがない。どうした、ゴダード!

★ボストン ・テラン『死者を侮るなかれ』(田口俊樹訳,文春文庫:2003.9.10)

 荘厳な叙事詩のように繰り出される濃縮された生硬な文章。「現実というフロアの上で社会システムが血のワルツを踊りはじめても、ディーとバージェスはじっと身をひそめている。」新感覚のハードボイルド・タッチの断言。「我思う──ゆえに我は所有せねばならぬ。これが新しいアメリカン・ドリームだ。」乾ききった叙情詩のように、過剰なまでの汚辱を描出する聖なる表現。たとえば、苛烈な生を刻むシェイとヴィクの官能。「彼女はそこに実在しながら透明になる。逞しい腱と骨の強さを残したまま、その流動体となる。(略)暴力的な彼女の喘ぎはビロードのように柔らかく、彼は彼女を所有し、彼女を破壊し、彼女を救い、彼女の重要な一部になりたいと願う。」この作品は文体が全てである。全編に流れる大音響の言葉のバラードが、読後、沈黙の余情を醸しだす。

★ウィリアム・ランディ『ボストン、沈黙の街』(東野さやか訳,ハヤカワ文庫:2003.9.30)

 母親の看護のため歴史学者への道をあきらめ、父親の跡を継いで田舎町ミッション・フラッツの警察署長に就いたベン。父の叱咤を受け、管轄区域で起こった地方検事殺しの犯人を追ってボストンへ。引退した刑事のジョンとその娘で検事補のキャロラインらと組み、ギャングのボスとの連帯やボストン市警の刑事との確執を経て、やがて自らにふりかかる嫌疑をはらす…。真犯人の意外性に着目してミステリーを評価するなら、この作品は結末の切れ味の良さをもって傑作の名に値するだろう(私自身は、この最後の謎解きの部分にできすぎた技巧臭を感じて、やや鼻白んだのだけれど)。だが、それゆえにかえって、丹念に叙述された人間関係(母と息子、父と息子、退職刑事と新米警察署長、離婚した女性検事補と年下の警察署長、等々)のもたらす小説的感興が、真相解明と同時に遡って殺がれてしまう(あの濃密な人間描写は、要するにミステリー的伏線にすぎなかったのだ)。ミステリーと小説が最後に分裂をきたす。このあたりがうまく処理されていたら、超絶的な輝きをもった作品になったろう。

★テッド・チャン『あなたの人生の物語』(浅倉久志他訳,ハヤカワ文庫:2003.9.30)

 SFはめったに読まない。でも、読めば必ず、傑作にめぐりあう。ここ数年では、グレッグ・ベアの長編とグレッグ・イーガンの短編にまいってしまった。そのベアの絶賛の言葉「チャンを読まずしてSFを語るなかれ」が、本書の腰巻に印刷されている。山岸真の「解説」には、チャンが評価する作家の筆頭がイーガンで、「形而上学の領域へ科学が手をのばし、人間の問題をハードSFとしてあつかうことを可能にした」というチャンの言葉が紹介されている。というわけで、読む前から私はすっかりチャンに魅了されていた。実際、表題作「あなたの人生の物語」に出てくる非線形書法体系や同時的意識のアイデア、「七十二文字」に出てくる真の名辞による単為生殖のアイデアなどは、途方もない起爆力をもっていた。なによりも、チャンの短編には小説ならではの感動がある。イーガンの作品がたたえる切ないほどの感動とは趣を異にするが、本書に収められた作品群がもたらす認識の臨界点をつきぬけた哲学的感動の質は得難いものだ。

★スティーヴン・ブース『黒い犬』(宮脇裕子訳,創元推理文庫:2003.8.22)

 久しぶりにミステリーを堪能した。私はいわゆる本格派好みではないが、古典的風格と骨法を備えた警察小説には、てもなく酔ってしまう。ましてやそれが、大好きな英国田園風景を舞台として展開される、複雑極まる人間関係を背景に生じた陰惨な殺人事件の謎解き(誰が殺したか)というシンプルな物語設定のストーリーであれば。加えて、共感を寄せられる捜査官が登場すればなおさらのこと。黒い犬が背中にへばりついた(ふさぎの虫にとりつかれた)心やさしいベン・クーパーと、忌まわしい出来事の記憶に悩まされる野心家のダイアン・フライ。部長刑事への昇進を競いあう一組の若い男女の刑事がこの作品の探偵役。彼、彼女をとりまく村人や同僚たちの人物像がしっかりと描き分けられ、ゆっくりと丁寧に、そしてそこはかとないユーモアと重くなりすぎない深みをもって綴られる文章もいい。