不連続な読書日記(2003.9)




☆2003.9

★小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社:2003.8.30)

 十七年前の自動車事故の後遺症で八十分しか記憶が続かなくなった六十四歳の元数学教授「博士」と父親を知らない二十八歳の未婚で子持ちの「家政婦さん」、その十歳になる息子で熱烈なタイガースファンの「ルート」(頭のてっぺんが平らなので「博士」がつけた愛称)を交えてのプラトニックでイノセントな交情を、1992年(ワイルズによってフェルマー予想が文字通り最終定理になる前年)の元気だった阪神の戦いの軌跡に重ね合わせながら淡々と描いた『博士の愛した数式』には、あの川上弘美の『センセイの鞄』とどこか似通った雰囲気がある。
 それが深いのか浅いのか、濃いのか薄いのかは別にして、魂のようなものが身体と言葉を通り越して直接交わり相互に浸透しあうピュアな抽象世界が「あわあわと」と形容するしかないリアリティでもって作品のうちにくっきりと設えられていた。戸田ノブコの淡い色調の挿画とも響き合う静かで透明で忘れ難い味わいを持つちょっと不思議な作品だった。
 ──ところで「博士の愛した数式」とは何かというと、「1−1=0」や江夏の背番号28が完全数であることを示す「28=1+2+4+7+14」もその候補なのだが、やはり(吉田武が『オイラーの贈り物』で「人類の至宝」と名づけた)オイラーの公式「e^iπ+1=0」(eは自然対数の底、πは円周率、iは虚数で√−1)のことだろう。
《πとiを掛け合わせた数でeを累乗し、1を足すと0になる。/私はもう一度博士のメモを見直した。果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。/オイラーの公式は暗闇に光る一筋の流星だった。暗黒の洞窟に刻まれた詩の一行だった。》
 ここでたとえば「博士」をπに、「家政婦さん」をeに、「ルート」をiにあてはめ、1は一神教の父なる神の、0は仏教でいう空もしくは母胎(マトリックス)の象徴であるなどとこじつけて、父親不在の家族小説とも言うべきこの作品を分析したみせたところで、何も語ったことにはならない。「数は人間が出現する以前から、いや、この世が出現する前からもう存在していたんだ」。小川洋子がこの数学的プラトニズムを標榜する「博士」を記憶障害者として描き、事故以前の凍結された記憶のうちに(「生涯で最も早い球を投げていた江夏」とともに)「永遠に愛するN」を封印させたことの意味をそこに読み取るべきだ。この世が出現する前からもう存在していた抽象世界でのピュアなラブ・ストーリー。

★河合隼雄・中沢新一『仏教が好き!』(朝日新聞社:2003.8.30)

 9.11直後の2001年10月19日から2003年1月8日まで、『小説トリッパー』に連載された計六回に及ぶ対談の記録。対談というより、「生きている仏教徒」中沢新一が変幻自在の教師役を、「魂と臨床の科学者」河合隼雄がしたたかな生徒役──「うん、うん」「はい、はい」「そう、そう」「ええ、ええ」「なるほど」「ああ、そうですか」「ええ、そうですね」「はあ、それは面白いね」「いや、本当に面白かった」──を担って、「宗教の先にあるものをめざす宗教」としての仏教や「縄文時代の仏教」としての日本仏教、あるいは野生の思考に根ざした「アジアの思想的源泉近くに生えている『原仏教』」の核心を縦横に語り合った講義録。
 いや、語り合うというよりは、時に「ちょっといかがわしい身のこなし」や善男善女を煙にまく胡散くさい語り口でもって、世間の常識(ドクサ)に逆ねじをくらわせるどこか嘘っぽい方便を(ゴータマ・ブッダのように八万四千通りとまではいかないまでも)存分に織りまぜながら、二人の「トリッパー」(踊るように歩く軽やかな歩行者、人をつまずかせる者)が競うようにして、「楽になるための正しい教え」としての仏教、もしくは「私たちのたましいを根源的に癒す力を持った仏教」について融通無碍に「騙り」合ったライブ版・仏教エンターテインメント。
 この「いかがわしさ」や「胡散くささ」や「嘘っぽさ」(カバーと本文にちりばめられたしりあがり寿のイラストが、「ぽわーっ」としたその雰囲気をよく伝えている)こそ、当代きっての知的エンターテイナーたる両人の資質であり魅力なのであって、たとえば中沢新一が『緑の資本論』や『カイエ・ソバージュ』シリーズに通じる一神教論や資本主義論を繰り出し、河合隼雄が『神話と日本人の心』で取り組んだ中空構造と個人の確立の問題(アマテラス‐ツクヨミ‐スサノオの三神がかたちづくる普遍的な中空構造からはじかれたヒルコ=男性太陽神をいかに取り入れるか)を念頭においてこれに応じるとき、それらの「怪しげ」なたたずまいのうちには、「科学も文学もいっしょにした、大日如来の知恵の学」へと通じる「仏教の働き」が躍動している。

★松岡正剛『本の読み方(四)──編集格闘技』(デジタオブックレット010,デジタオ:2003.8.25)
★松岡正剛『本の読み方(五)──日本語の気分』(デジタオブックレット011,デジタオ:2003.8.25)

 松岡正剛がいう「編集」の概念がいまだによくわからない。たとえば連載第四十五回「言葉を喋るように書いた男」で、松岡正剛は言文一致の実験を生み出した二葉亭四迷の生き方のうちに「ひとつの編集哲学の典型」を見ると書き、そのすぐ後で次の定義を与えている。「編集とは、一見バラバラになってしまったものをなんとかしてくっつけようとする活動のことなのである。気分と言葉をつなげ、映像と物語を重ね、哲学と人生をつなげること、それが編集なのだ。」
 ここまでなら、まだその雰囲気はわかるような気がする。しかし、第四十六回(最終回)「編集工学的読書術」で「読書は言葉を媒介にした編集ゲームである」と規定し、キリスト教や仏教を例に挙げて「歴史を綴ること、物語をつくること、伝達すること、すべて編集である」と述べ、最後に「いや、そもそも思考をすることや話すということが立派な編集なのだ」と書いているのを目にするや、とたんに茫漠としてくる。
 ヒントはたぶん二つあって、一つは、コンテンツ(だけ)ではなくスタイルだということ。いま一つは、編集の主体とは何か(あるいは「編集の歴史」を駆動するものは何か)ということなのだろう。「漱石を読むことは漱石の主体的な表世界に接するというだけではなく、漱石によって編集された世界の一部に接地するということなのだ。」(最終回)
 ここに出てくる漱石をシェイクスピアに置き換えて、たとえば「われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである」(『ボルヘス、オラル』)や、「翻訳とは、移植したいという渇望とは、シェークスピアをバントゥー語に持ち込むことが肝要なのではない。バントゥー語をシェークスピアに持ち込むことなのだ」(リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』)と結びつけて考えるならば、編集の主体(それはけっして生身の漱石やシェイクスピアのことではない)をめぐるひとつの思考のかたちが見えてくると思う。

★松岡正剛『山水思想──もうひとつの日本』(五月書房:2003.6.10)

 二○○○年、NHKの視聴者アンケートによる日本の美術作品一○○選の特集で、俵屋宗達や葛飾北斎を尻目に第一位に輝いたのは長谷川等伯の『松林図屏風』だった。著者が「透明な奔放」あるいは「水水しい」と形容するその画風は、中国の水墨山水画に例を見ない日本独自の方法、すなわち「余白」と「湿潤」を特徴とする「山水思想」の奇跡的な出現を告げるものであった。本書はこの等伯による日本画の「発見」を中心に据え、水墨画の導入・模倣から和様山水の出現へと到る「中国離れ」の前史と、江戸中期の俳諧や文人画や俳画における「遊芸」を例外として、その「方法の魂」とも言うべきもの(負の介在)が見失われていった後史とを、著者の個人史を織り込みながら丹念に、また東アジアとヨーロッパの動向を交錯させながら大胆に叙述した作品である。「和の山水」のうちに結晶した日本的なるものの観念と感覚と方法を余すところなく摘出し、たんに美術史上のことを超えて、西洋文化の意匠をまとった近代日本の「鍵と鍵穴の関係」にまで説き及ぶ。編集史観ともいうべき著者の方法=思想は、いよいよ深遠の域に達しつつある。

★柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書:2000.5.20)

 柴田元幸の文章は、いくつかの翻訳書の解説や後書きで目にしたことがある。簡潔、的確に事柄の本質を衝き、それでいて書き手の息継ぎが聞こえてくるようないい文章だと思った。翻訳文が素晴らしいだけではなくて、名うてのエッセイの書き手でもあることは前々から耳にしていたが、どういうわけか翻訳書以外の柴田本を読む機会がなかった。
 『アメリカ文学のレッスン』は、タイトル通りアメリカ文学への再入門を果たすつもりで手にした。実際、ふんだんに挿入された実作からの部分的翻訳や巻末の索引、ブックリストを眺めるにつけ、また「前口上」と「エピローグ」をはさんで「名前」「食べる」「幽霊の正体」「破滅」「建てる」「組織」「愛の伝達」「勤労」「親子」「ラジオ」といったキーワードのもと、マーク・トウェインからリチャード・パワーズまで自在かつ縦横に繰り出される話題に翻弄されるにつけ、そこから垣間見られる未開拓の文学空間(私にとって)の深さと広さに圧倒された。
 しかし本書を読んで私が強く惹かれたのは、アメリカ文学そのものというより、むしろアメリカ文学に向かう柴田元幸の姿勢と覚悟であり、何よりも洒脱にして格調高いその文章の魅力だった。──以下、とりわけ力のこもった「エピローグ」から、本書のタイトルの由来を示す部分の抜き書き。パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』からの抜粋に続く文章で、本書カバーの見開きにも引用されている。
《パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在であり、世界によって作られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界大戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共謀関係に追い込まれている。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新するかが問題なのだ。それは、自分が他者の奉仕を受けて活性化される、というのとは微妙に違う。こうした考え方を通して、読み手は、自分が世界とどうかかわったらよいかについてのレッスンを受けることになる。》

★スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』(柴田元幸訳,白水Uブックス:2003.7.10/1992)

 一つの街の記憶、そこで生まれ育った幼少期の記憶、あるいはそこに流れ着きそこを離れていった人々の記憶。それらがきれぎれの音や光や匂いの記憶と綯い交ぜになって、またポーランドやスペイン、ギリシャ、ウクライナといった旧世界の言葉とも響き合い、様々に変容する水のイメージを重層的にまといながら、まるで散文詩のように丹念に綴られていく。「冬のショパン」や「荒廃地域」、「夜鷹」、「熱い氷」といった珠玉のように硬質で美しい七つの短編と、それらを食前酒かデザートのように包みこむ七つの掌編(川端康成の『掌の小説』に触発されたという)。どこかベンヤミンの『ベルリンの幼年時代』を思わせる比類ない文学的純度と言語的質感を湛えた連作集。「誰かが何かをずっと欲しがっていたなら、自分のものになったことはなくても、やっぱりそれはその誰かのものじゃないだろうか? そしてそれは、なくしたものじゃないだろうか?」──訳者の柴田元幸さんがUブックス版に寄せた後書きで「いままで訳した本のなかでいちばん好きな本を選ぶとしたら、この『シカゴ育ち』だと思う」と書いている。

★J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳,白水社:2003.4.20)

 ニューヨークに着いたホールデンは、二十分くらい電話ボックスの中でぐずぐずして結局誰にも電話をかけず、ほとんど放心状態のままでタクシーに乗る。「セントラルパーク・サウス通りの近くに、アヒルのいる池があるじゃない。わりと大きな池だよ。あのアヒルたちって、池が凍っちまったらどこに行くんだろうね?」「俺のことをからかってんの?」「いや、そうじゃなくて、ただ知りたかっただけだよ」(9章)
 物語の後半、ろくでもないバーですっかり酔っぱらい、手持ちの金が尽きかけてタクシーに乗る余裕もなくなったホールデンは、ずぶずぶに切ない心をかかえて公園に向かう。「池はある部分は凍り、ある部分は凍っていなかった。でもアヒルはただの一羽もいない。…もしまだそのあたりに居残っているとすれば、アヒルたちはきっと水辺近くの、草のわきとかで寝ているはずだと僕は考えた。おかげで池にあやうく落っこちそうになったわけさ。ともあれ、アヒルは一羽もいなかったね。」(20章)
 タクシーの運転手から狂人でも見るみたいな目で見られ、「知らんね、マック」と素っ気なくあしらわれたホールデンは、ここでも、ろくでもないバーの電話ブースから出てちょっとした会話を交わしたろくでもないピアノ弾きから「おとなしく家に帰りなって、マック」と、とてもフレンドリーとは言えない態度であしらわれている。
 この凍った池のアヒルたちが、「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところ」(22章)というイメージと重なっていて、その重なりが死んだアリーと生きているフィービー、「僕」と「君」、スペンサー先生とアントリーニ先生等々の人物の分岐や、電話とタクシーと「マック」で対句的につながってく場面の対称ともパラレルになっているわけだ。だからどうということはなくて、ただそれだけのことなのだけれども。

★村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春文庫:2003.7.20)

 村上春樹は『白鯨』と『グレート・ギャツビー』と『ライ麦畑でつかまえて』の三人のヒーローについて、「志は高く、行動は滑稽」という共通点を指摘した。これは柴田元幸さんが『アメリカ文学のレッスン』で紹介していることだが、これを読んで、アントリーニ先生が「無価値な大義のために、なんらかのかたちで高貴なる死を迎えようとしている」ホールデンに、手許にとっておくようにと手渡した一文を想起した。《未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。》
 本書に収められた「対談2『キャッチャー』は謎に満ちている」で、村上春樹は『キャッチャー』は「地獄めぐり」の物語だと言っている。「普通だったら、こういうのはひとつの通過儀礼になるわけですよね、いろんなひどい目や奇妙な目にあって、それをひとつひとつ乗り越えて、身体にしみこませて少年が大人になっていくみたいな。」「そうですね。」「ところが、まったくなっていないんですね。」「なっていないですね。…」「出来事はみんな並列的で、積み上がっていかない。…」
 つまり『キャッチャー』は、未成熟(イノセンス)対成熟(フォニー)の図式にのっとったイノセンス礼賛やアドレッセンス(思春期)賛歌の物語ではなく、まして抵抗と成長と和解の物語などではなくて、あくまでも「ホールデンが十六歳だから成立する話」だというのである。《つまり主人公であるホールデンは、少年時代のイノセンスからは既にしりぞけられた存在でありながら、大人の世界に入るための資格も得られないでいます。部分的にはすごく成熟で、視点もクリアなんだけど、自分自身の客体化というのはまだなされていない。それは十六歳という設定だからできることでもあります。…それから彼は社会階級的に見ても、やたら狭い、あえて言うなら特殊な世界に属している。彼が懸命に移動する範囲も、マンハッタンの中の、すごく限定された場所です。『キャッチャー』というのは、この小さなエリアの中にピンポイントで設定されることによって、有効に成立している小説なんです。》(村上)

★かわぐちかいじ『Eagle[イーグル]』全11巻(ビッグコミックス,小学館:1998.4.1〜2001.6.1)

 日系三世の民主党上院議員で大統領候補者ケネス・ヤマオカの理想と権謀を劇的なタッチで描ききったポリティカル・コミック。ヴェトナム戦争従軍時、海兵隊隊員として駐留した沖縄でヤマオカが愛した富子を母にもつ新聞記者・城鷹志との父と息子の確執、鷹志とヤマオカの養女レイチェルとの交情、関係者の不審な死をめぐる謎等々の横糸が織り込まれ、単線的に進行する物語に深みと陰翳を投げかける。
 ヴェトナムで戦争と国家の本質を知り、この世から「戦争という愚行」を消し去るために──海外米軍基地の完全撤退と戦争の放棄によって軍産共同体を解体し、「実戦経験の無いことを誇りとする軍隊」(世界警察としての国連軍)を創設するために──大統領になることを誓ったヤマオカは、富子の元に戻ることができなかった。「トミコは戦う女ではない。戦い、傷付いた男を抱きとめ…癒す女だ。どんなに疲れ、傷付こうとも…現実を忘れ、彼女の胸に抱かれ休息することなど…私には許されなかった。」(第11巻)
 そう鷹志に告白するヤマオカには、どこかしら「仏教徒」の面影が漂う。──河合隼雄との対談『仏教が好き!』で、中沢新一は次のように語っている。「仏教の場合は、一神教と違って、女性を否定しつつ自分のなかに取り込むということをしていますね。」「自然のままの女性というものを否定して…それを形而上学化した女性性を取り入れ、自分のなかの原理としているような気がします。」
 あるいは、それは古代的な「いくさ人」の心性とも「たくましきアジアの血」(第1巻)とも形容できるもの、もしくは日本中世の「悪人」の善悪を超えた行動原理につながっているものだったのかもしれない。

★かわぐちかいじ『ジパング』12(モーニングKC,講談社:2003.8.22)

 物理学者・倉田が登場し、草加がついに濃縮ウランを入手する。(濃縮ウランについて「この世でこれ以上高価な抽出物は人の霊魂以外にはない」と語るハンス・クリューゲの言葉が印象に残る。)そして、満映の甘粕正彦の画策で東条英機との「和解」がなり、石原莞爾が現役復帰し支那派遣軍参謀長に就く。(ビッグコミック・オリジナルに連載中の村上もとかの『龍』が、これとちょうど同じ状況を描いていた。)
 ところで、松岡正剛が「日本の現代史のルーツを漫画で読む」(『本の読み方(四)』)で、安彦良和の『虹色のトロツキー』について、「歴史の波濤を描いたという点では、話題の『沈黙の艦隊』などよりずっと労作であり、日本の恥部と言われてきた「満州」という舞台を描こうとした意図において、どんな歴史書よりも大胆だ」と書いている。かわぐちかいじは『ジパング』で、「満州」だけでなく「原爆」をも描こうとしている。その次にくるのは、「大東亜共栄圏」もしくは「アジア主義」がもつ現代的意義か。

★川上健一『ふたつの太陽と満月と』(集英社文庫:2003.8.25)

 全米で一番古く、一番物騒かもしれないNYのパブリックコースで繰り広げられる、スキンズ(賭け金)付きの六つのゴルフ・マッチ。そこでほんとうに賭けられているのは、実は人生の意味であったり、人格であったり、一人の女をめぐる友情であったり、生きのびるための偽装であったり、父と息子の和解であったり、幼い日の淡い記憶であったりする。主人公はそれらの勝負に立ち会い、時には自らが(婚約者を奪っていった友との、十数年ぶりに再会した父親との、過去のどこかですれちがったはずの謎の美女との)闘いの当事者になる。「ゴルフは宗教だ!」──作中のある人物が叫ぶこの言葉に共感できるほどのゴルフ・ファンだったなら、このアイロニカルでいながら爽快で温かく、そこはかとない懐かしさを漂わせた六つの物語に、きっと魂をまで揺り動かされるに違いない。心からゴルフを愛する者に、作者が贈った六つのプレゼント。なぜ続編がないのか、不思議だ。

★佐藤賢一『カルチェ・ラタン』(集英社文庫:2003.8.25/2000)

 まるで少女漫画か宝塚歌劇を思わせる人物群。発端部で、西欧中世、十六世紀のパリを舞台にしたシャーロック・ホームズ譚(ユーモア編)の趣をもつ小咄がいくつか続く。やがて物語は、宗教改革期の神学論争(主知主義対主意主義、カトリック対プロテスタント)を背景に、「人間の時代の新しい神」による陰謀をめぐって、「聖トマス・アクィナスの再来」と謳われる美貌巨躯の学僧マギステル・ミシェル、その教え子にして紅顔無垢の新米夜警隊長ドニ・クルバン、愛らしくも豊満な若き未亡人マルトや妖気漂う伯爵夫人アンリエット、さらにはプロテスタントの旗手カルヴァンにイエズス会の創設者ロヨラ、ザビエルといった実在の人物が入り乱れての大捜査戦が繰り広げられる。軽妙にして深甚な神学ミステリー。惜しむらくは、「神学的解決」に徹しきれず‘肉欲’によるあっけない事件解決に流れたことだが、それはまあ個人的嗜好でしかない。

★白石一文『一瞬の光』(角川文庫:2003.8.25/2000)

 とても初々しい。──橋田浩介。ジョン・スチュアート・ミルと同じIQ(190)の持ち主で東大卒。学業も図抜けスポーツも万能で「若い頃から私は外見のことを言われるのが嫌だった」という美形。38歳で資本金3千億円、従業員5万人の財閥系大企業(たぶん三菱重工業)の人事課長に抜擢され、社長の姪で美貌の瑠衣を恋人に持つ。過激なまでのエリートだが、空漠とした孤独な内面と押さえがたい破壊衝動を抱えている。熾烈な社内派閥抗争に敗れ、瑠衣を棄て、暴力にまみれた悲惨な家庭に育ち最後に植物状態に陥った香折との「生き生きと輝きに満ちていく一瞬」の幸福、「過去も未来もそして現在さえもない」静謐のうちの再生に賭ける。そんな(違った意味での)アンチ・ヒーローを世に送り出し、およそあり得ないシチュエーションを見事に描ききったことがこの作品のすべてで、だからこそ切なくも初々しい。読後、なぜか大藪春彦の処女作『野獣死すべし』が頭をよぎった。

★秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』1〜4(電撃文庫:2001.10.25〜2003.8.25)

 1947年6月24日、公式に報告された中では最初のUFO目撃となったケネス・アーノルド事件以来、人々が安穏と日々の暮らしを営むそのすぐそばで「戦争」は行われていた。中学2年生で新聞部所属の浅羽直之が住む基地のある街に転校してきた伊里野可奈は、特殊な能力をもつ戦闘少女だった。やがて戦いは最終局面を迎え、逃避行を続ける直之と可奈には過酷な運命が待っていた…。こんなふうにまとめるとシリアスな雰囲気が漂うけれど、ほんとうはちょっと滑稽で可笑しくて、そのくせ妙に切ない不思議な軽さをもって綴られる物語。読後感は、悪くない。悪くないどころか、駒都えーじの映画ポスターの趣向を凝らした口絵やイラストにあらためて見入ったり、各巻に差し挟まれた番外編や、エピローグで丁寧に書き込まれた後日譚をじっくり反芻したりと、何度でも物語の余韻を確かめることができる本の造り方がいい。登場人物のキャラやギャグにすんなり入っていける年齢だったらと思う。

★佐藤多佳子『サマータイム』(新潮文庫:2003.9.1)

 小学五年生の伊山進と一つ年上の姉の佳奈。進より二つ年上で、ピアニストの母親と二人で暮らしているどこか大人びた浅尾広一。夏休みの最後の日、三人で一緒に食べた塩辛いミント・ゼリーの思い出。喧嘩したまま別れた佳奈と広一。そして六年後、大学生になった広一との再会(「サマータイム」)。その数年前、進の自転車と佳奈のピアノが初めて家にやってきた頃、まだ幼女の面影を宿す佳奈のある日の出来事(「五月の道しるべ」)。佳奈と別れてから三年後、やがて新しい父親となる男と広一との出会い(「九月の雨」)。十四歳になった佳奈と調律師・センダくんとの、氷の鍵盤が奏でる「絶対零度の音」がとりもつ「義理でもないけど、LOVEでもない」関係(「ホワイト・ピアノ」)。四季それぞれのイメージに彩られた四つのショート・ストーリーが綴る、思春期というにはまだ早い、あの特別な時間だけがもつ壊れ物のようなつかのまの煌めき。自転車とピアノ。二つのマイ・フェイヴァリット・シングス(私のお気に入り)に託された、切ないほどピュアな世界。何か大切なものが、ひっそりと編み込まれている。

★斎藤健次『まぐろ土佐船』(小学館文庫:2003.10.1)

 全長四四・五メートル。幅八・五メートル。深さ三・四メートル。ちょうど百十五坪の四階建てビルに相当する狭い空間に、二十人の気の荒い男達が五年もの長きにわたって監禁状態での生活を続けていく。著者がコック長として乗り込んだ土佐のマグロ船、第三十六合栄丸での一七七○日は、かくも過酷で壮絶な日々だった。けっして大仰にならず、劇的な効果をねらった身振りは極力禁欲し、マグロ船の男達の栄光と悲哀、その家族との交情、彼らを取り巻く経済や国際情勢まで、淡々と力強く叙述しきったノンフィクション(真実の物語)。「この二年間、地球をめまぐるしく走り回ってきた。海の色など、どこも変わらない。自分はいつも同じ場所にいるのではないか、という錯覚にとらわれたりする。」──原著と文庫版の二つの「あとがき」に綴られた後日譚(もう一つの真実の物語)が、読後の余韻を深いものにしてくれる。

★寒川猫持『猫とみれんと 猫持秀歌集』(文春文庫PLUS:2003.8.10/1996)

 五・七・五に七・七をつけくわえただけで、突然、そこに盛られる世界が変容してしまう。俳句が、自分と世界の関係を客観的に観察し、時にコスミックな空間感覚をもって描写することに長けた言葉の容れものであるとすれば、短歌は、嫋々たる情念、内にこもった憾みや爆発寸前の歓喜とか官能を封じ込めるに適した、どちらかといえば時間的な感覚に根ざした表現様式で、ともに数打ちゃ当たる累々たる草稿群から何を選びどう推敲するかという選球眼と仕上げのセンスに勝負はかかっている。寒川猫持のまるでボクシング、言葉の格闘技のような自由奔放な息づかいと、融通無碍な言葉の配列がかもしだす世界は、私小説ならぬ私短歌、自伝短歌の芸風のうちに、軽妙洒脱、当意即妙の俳句的感覚を織り込んだ不思議なもので、俳句はこうで短歌はああだといった出来合の区分けを粉砕し尽くし、尾籠なギャグと俗な意匠をまとったそこはかとない悲哀をさえ漂わせている。一つ選ぶとすれば、「中年エレジー」の巻に収められた次の一首。形而下の女を愛す形而下の中年のボク形而上的に。

★ジェーン・グリーン『もっとハッピー・エンディング』(小林理子訳,文春文庫:2003.8.10)

 たまたまTVで放映されていたメル・ギブソン主演の『ハート・オブ・ウーマン』を観た後で、この本を読み終えた。ロマンティック・コメディというこの種のジャンルの映画は、出演している男優や女優の演技力いかんで、心にしっくり残ったりくだらない時間つぶしに終わったりする。もっとあけすけに言うと、好みの俳優かどうかで印象が決まってしまう。アン・タイラー、デビー・マッコーマー、そしてジェーン・グリーンといった書き手の作品はいずれも、家族や恋人や友人やライバルとの丹念に綴られた人間関係をベースに、別れと出会い、成功と挫折、そして新しい人生への漠然とした不安や期待を渾然と描いた、女性の「ライフスタイル小説」とでも言えるもので、結局、ヒロインやそれをとりまく友人、恋人たちにどれだけ感情移入できるかが勝負。で、『もっとハッピー・エンディング』は、ストーリーはよく出来ていて、異性愛に同性愛、友情に性愛と多彩に繰り出される人物の絡みも面白いのだけれど、やっぱりヒロインの人間像が掴みきれないまま終わってしまった。誰か好みの女優の容貌や声や振る舞いを想定しながら読んでみればよかった。

★オースン・スコット・カード『消えた少年たち』上下(小尾芙佐訳,ハヤカワ文庫SF:2003.8.15/1997)

 全十五章の最後から二つ目、下巻の「クリスマス・イブ」の章で明らかにされる真実と奇蹟の出来事にふれずして、この作品の魅力、ディテイルや人物描写の見事さ(とりわけ、物語の本当の主人公ともいえる七歳の長男スティーヴィの可憐さ、純粋さの描写は絶品)と鮮烈な感動の質を語るのはとても苦しい。幼い子供たちを取りまく様々な危険や家族の絆への過敏すぎる反応、理不尽な世の中に対する慎ましさを失わない毅然とした姿勢。「屑屋のおっさん(ジャンクマン)」「魚屋のおばさん(フィッシュレデイ)」と互いを呼び合う若い夫婦の思考と行動を支えるある種の過剰が、この優れた「家族小説」(解説の北上次郎の評言)に深いリアリティをもたらしている。──物語の終盤に登場する、冷静沈着で人情の機微に通じたダグラス刑事の言葉が印象に残る。「わたしが言いたいのはね、とても悪いことをする連中がいて、それがあまりにも邪悪なことなので、この世界という布地が切り裂かれてしまう。そしていっぽうにとても心根のやさしい善人がいる。その連中は世界が切り裂かれたときにそれを感じることができるんだ。そういうひとたちには物事が見える、物事がわかる。ただあまりにも心根がやさしく純粋なので、自分に見えているものがなんなのかわからない。それが、おたくの坊やの身に起こっていることじゃないかと思うんだ。」

★ジャン=クリストフ・グランジェ『コウノトリの道』(平岡敦訳,創元推理文庫:2003.7.18)

 様々な伝説によって、ヨーロッパから中東までいたるところでその特別な力が信じられているコウノトリ。オレンジの嘴を持った白と黒の鳥。ある年、アフリカから渡ってくるはずのコウノトリが姿を消した。謎の鳥類研究家から調査を依頼された青年ルイが、フランスからスイスへ、ブルガリア、トルコ、イスラエルから中央アフリカへと探索行を続ける。先々で起こる惨たらしい殺人。殺し屋から逃れ、自らもまた血で手を染め、つかの間の官能に心を休め、やがて国境をまたいだ奇想天外な犯罪のトリックを暴く。そして、秘められた自身の生い立ちの謎へと迫っていく…。コウノトリの渡りを題材とした壮大な仕掛けが素晴らしい。第一級のフィクションの香りが漂うが、ルイの冒険譚がただ物語の筋を追うだけでサスペンスの高まりと深まりに欠け、コウノトリにまつわるミステリーと「指紋のない男」ルイの過去をめぐる謎との関連づけがやや強引。