不連続な読書日記(2003.8)




☆2003.8

★アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理──カントとラカン』(冨樫剛訳,河出書房新社:2003.2.28/2000)

 パウロやアウグスティヌスの回心の実質が解らないと、カントもラカンも解らない。
 著者は、倫理的主体をめぐるカントの命題(主体は自らの無意識に隷属すると同時に、その無意識を選択した者でもある)に関して、次の一文を引用する。「彼は、ある種生まれ変わることによってのみ、いわば新しく創造され直すことによってのみ、新しい人間になることができる。」
 著者は続けて、ラカンの倫理的行為に言及する。「行為の中で主体は消滅し、そして再び生まれる。つまり、主体は一時的に…消えるのである。それゆえ行為とは、常に『犯罪』、主体が属する象徴界からの『逸脱』である。」
 こうして著者は、「象徴界」(現実世界)を逸脱し「ザ・リアル」(不可能なもの)のまわりを堂々巡りする欲望の倫理を突き抜けていく。「倫理の地平を『生命』に限定してしまうような(ポスト)モダニズム世代の倫理とは異なる倫理…これが以下において私が目指すものである。」
 ──本書を読み終え、重ねて思う。キリスト教(一神教)が解らないとカントもラカンも解らない。
 回心とはおのれ自身の空洞を、すなわち欲望の主体を見出すことだ。意識(現象)や心術(物自体)のレベルから根源的自由のレベルにおける超越論的な主体へ。欲望から欲動へ。快楽から享受へ。だが、無際限な「発生」にとりかこまれた身体(アジア的身体)に、無と無限をめぐる「創造」の秘蹟(新しい人間への回心)は成就しうるのだろうか。

★井上達夫『現代の貧困』(双書現代の哲学,岩波書店:2001.3.7)

 およそ政治を論じようとする者には、理想とする政治社会についてのイメージがあるだろう。著者のそれは、たとえば次のように記述される。これは、量と質と関係という三つの豊かさのうち、生活の「質の豊かさ」が実現された社会を思考実験的に叙述した後に出てくる文章だ。
《何か大切なものが、ここには欠けている。何が足りないのか。それは、自己の内奥を揺さぶるような異質な生のあり方との出逢いである。多様な生の諸形式が交錯し、衝突し、刺激しあい、誘惑しあうことにより、互いの根を深め、地平を広げあうような豊かさである。多様なものが棲み分けるのではなく、むしろ相互に侵犯しあうことにより、互いを活性化し、ダイナミックに発展してゆくような豊かさがない。〈質の豊かさ〉はあっても、異質なものが競合し共生する〈関係の豊かさ〉が、そこにはないのである。》
 ここに頻出する数々の美しい言葉は、いずれも「空文」である。そもそも民主主義であれ著者がいう(民主主義より根源的な原理としての)リベラリズムであれ、いずれもその実質的な内容を示すことなどできない「空文」である。
 経験に先立つものを経験を通じて培うこと。たとえば、死者と「共に生きる」こと。著者がいう「共生」や「会話」は、この根本矛盾にさらされている。著者の議論の無効性、あるいは政治をめぐる思想一般の無効性を言い立てようというのではない。根本矛盾の自覚なくして政治思想は語れないと言いたいのである。

★保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社:2003.7.30)

 死者の記憶が匂う場所で生者と死者が団欒する会話的平和。コミュニケーションの語源は「共に生きる」だから、存在様式を異にする者が会話を通じて共生する世界(小説的思考がひらく世界)を描いた作品にふさわしい題名だと思った。(本当はヴィスコンティの「家族の肖像 CONVERSATION PIECE」に由来するのだが、私はスティービー・ワンダーの「CONVERSATION PEACE」を採る。)
 保坂和志はあるインタビューで、「生きる・死ぬ」と「いる・いない」は違う、物理的に「ある」のとは別の「あり方」が存在することを考えたかったと語っている。この「別のあり方」は作品の最底部にずっと流れていた浩介のブルース・ギターや綾子の鼻歌に託される。それは音楽がもつ「容れ物の力」がもたらすものであり、「暫定的に世界を切り取るフレーム」としての「私」が橋渡しする季節の移ろいの中でかつての伯母の「声がすることがいまと一緒にある」といった、視覚と聴覚、知覚と記憶、個別と総体、現実世界(この世)と可能世界(あの世)等々を切り離しつつ媒介する言語的抽象のうちに実現するものでもある。
 言葉を通じて言葉の外にあるリアリティと接触することのうちに「生の充足感」を描くこと。そしてそれがまた日常のありふれた情景の根底に息づくリアリティでもあることを抽象的な次元において叙述すること。このような「神学的」ともいえる作業がもたらしたマスターピースが『カンバセイション・ピース』である。

★ソール A.クリプキ『名指しと必然性──様相の形而上学と心身問題』(八木沢敬・野家啓一訳,産業図書:1985.4.1)

 保坂和志が「言語哲学というのは理屈の勝った子供がそのまま大人になったようなもの」だと書いていた。同感。でも子供がこねる理屈など所詮大人の理屈の引き写しで、子供にあるのはただ身体だけ。だから子供がそのまま大人になるのは本当は大変なことだ。
 クリプキが本書の第一、第二講義で示したテーゼ──固有名は純粋な指示語であり、いかなる可能世界(現実世界の言葉で語られる反事実的状況)においても同じ対象を固定的に指示する、そして名前の同一性(宵の明星=明けの明星)は人間がアプリオリに知ることができないとしても存在論的に必然的な真理である──は、言葉を覚えたばかりの子供の感覚に根ざしている。
 それは『カンバセイション・ピース』の「チャーちゃん」が「九二年十月に拾われ、四年後に白血病で死んだ茶トラの猫」には還元できない対象を名指していて、「ただ私や妻の記憶の中に生きつづけているというようなことではな」いと語られる実在感を伴い、その実在感はたとえ別の猫に生まれ変わったとしてもやっぱり「チャーちゃん」だというほどに強いものであることに呼応している。
 クリプキは第三講義で固有名に関するテーゼを猫や水や熱といった自然種名に拡張し、理論的命題の存在論的必然性をめぐる議論を展開している。そこで語られているのは大人の理屈(思想=世界観)であって、個物と普遍の関係(「チャーちゃん」と猫一般、クリプキが挙げている例を使えば「特定の精子・卵子」と精子・卵子一般の関係)をめぐる子供の問題感覚は既に克服されている。だから駄目だと言いたいのではなくて、そこがクリプキの哲学的思考の終了点だったということである。

★三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館:2003.7.11)

 「青春」をもたらした歴史哲学的認識、すなわち進歩の思想が雲散霧消した廃墟に漂うメランコリー。前著『青春の終焉』で描かれた文学の変容のその後をめぐる中間報告として本書は書かれた。それは、村上春樹はアメリカ文学だ、そして村上春樹がアメリカ文学にじかに接続した現場を柴田元幸が目撃することになったと言われる時のアメリカに根ざしている。
 世界の索引(世界を追憶すべき場所)として誕生した新世界が前世紀末に唯一の超大国となり、世界の警察(世界の自己意識)になると同時に、アメリカ文学はメランコリー(自己意識という病)を映し出す世界文学の役割を担うこととなった。
 これと同じ役割を村上春樹もまた担っていた。著者はこのことを、『ノルウェイの森』で「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と書いた村上春樹は「時代に漂うメランコリーを、人間に普遍的な冥界下降譚に注ぎ込んで見せたのである」として、たとえばポール・オースターとの「驚くほどの類似性」の指摘を通じて論証してみせた。
 ──著者がいつになくコロキアルな文体で、村上春樹=柴田元幸のヴォイスを批評文のうちに翻訳して粗描した「もうひとつのアメリカ」は、時代の終わりを告げるメランコリーな気分に(そして、たとえばあの世とこの世が純粋会話劇=家族団欒図[CONVERSATION PIECE]のうちに共在する未聞の時代の始まりへの緊張に)つつまれている。

★アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『〈帝国〉──グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(水嶋一憲他訳,以文社:2003.1.20/2000)

 ヨーロッパ近代の権力と資本主義的生産様式をめぐる本書の系譜学的叙述は、途方もない濃度を持つ。しかし、それらは〈帝国〉という概念の理論的背景をなすものにすぎない。
 「今日私たちは、帝国主義から〈帝国〉へ、…国民国家からグローバルな市場の調整への移行に立ち会っている」。来るべき〈帝国〉は領土を持たない。つまり、アメリカではない。それは、核兵器と貨幣とコミュニケーションを手段とするグローバルな管理ネットワークである。
 「〈帝国〉が具体的なかたちをとるのは、…非物質的労働と協働とが支配的な生産力になるときである」。〈帝国〉は情報経済以後のマルチチュード(〈群衆〉とでも表記すべきもう一つの概念)に寄生する。そこでは、腐敗が遍在している。マルチチュードが交雑による共通種の「生成」を担うのと裏腹な関係において、〈帝国〉の本質は「腐敗(消滅)」である。
 「ただマルチチュードのみが、その実践的な実験をとおしてモデルを差し出し、いつ、いかにして、可能的なものが現実的なものに生成するかを決定するだろう」。だが、マルチチュードによる「愛のプロジェクト」の帰趨について、著者たちはただ聖フランチェスコ伝説を持ち出し、「存在の歓び」や「愛、素朴さ、そしてまた無垢」といった美しい言葉をちりばめるだけである。
 要するに、本書はラディカルな理論の書なのだ。理論の徹底を通じて実践による検証を待つ「ユートピア的実験理性」の書。

★かわぐちかいじ/福本伸行原作『告白 コンフェッション』(講談社:2001.1.23)
★かわぐちかいじ/福本伸行原作『生存 LIFE』1〜3(講談社:2000.7.7〜2000.9.8)
★かわぐちかいじ/宮崎信二原作『YELLOW』1〜3(小学館文庫:2003.1.10)

 福本伸行のマンガは、独特の「内語」表現が時として息苦しくてやや苦手。『天』ほかの麻雀マンガや『無頼伝 涯』などが部屋にあるけれど、まだ読んでいない。『告白』は、その福本の作劇術がうまく生かされた心理サスペンス。死の間際に告げられた二つの告白が、二人の男の運命を分ける。結末は(途中でおよそ察しはつくものの)皮肉が利いている。が、読んでいて息詰まる。いっそ作画も福本でよかったのではないか。これに比べると『生存』は、かわぐちかいじの画でこそ生きる傑作ミステリー。娘を奪われ、妻に逝かれた男の絶望と怒りと哀しみが深く静かに物語を進行させる。ただ中盤、真犯人が判明してからは、原作者独特の心理サスペンスに様相を転じる。よく練られているが、やはり息詰まる。前半部の人間ドラマがやはり秀逸。『YELLOW』は、三作中最もかわぐちかいじの画にマッチしたスケールの大きな作品。ただ、ヒロインの言動に疑問あり。縄井の魅力と、縄井に惹かれるヒロイン・遙華の心理(運命というべきか)が説得力をもって描かれていない。『Medusa』と同じ不満が残る。かわぐちかいじの画では、女性と恋愛は描けない。そこが、かわぐちかいじの限界であり、また魅力でもある。

★萩尾望都『バルバラ異界』1巻(小学館fsコミックス:2003.7.20)

 『ダ・ヴィンチ』9月号の「今月のプラチナ本」で絶賛されていた。まだ第1巻しか出ていないけれど、完結するまでとうてい待てそうになかったので、たまらず購入。ドイツの21世紀ユング派公認の夢先案内人(ガイド)・渡会時夫が、陰惨な事件の後、七年間も眠り続ける十条青羽の夢を探査する。青羽の夢から持ち帰った島の名「バルバラ」(蛮人=バーバリアンが住む異国)が、時夫の息子キリヤと青羽の祖父エズラをつなぎ、そしてまた謎の殺人事件が起こる…。夢の探査(もしくは「心の泥棒」)といえば、グレッグ・ベアの『女王天使』に「サイコダイブ(潜脳)」というアイデアが出てきたし、夢枕獏にサイコダイバー・シリーズがある(まだ読んだことはないけれど)。『ザ・セル』では、異常心理殺人犯の精神世界への潜入捜査の映像が記憶に鮮やか。タイムトラベラーより魅力的なドリームナビゲーターが主人公の『バルバラ異界』は、この先どこへ行くのか。(だから、連載中のマンガは読みたくなかった。)

★須川邦彦『無人島に生きる十六人』(新潮文庫:2003.7.1)

 この本が湛えるのびやかで楽観的な明るさは、明治という時代を生き延びた男たちの「技術」に支えられている。それはたとえば、無人島生活を始めるに際して誓い合った四つの約束(島で手にはいるものでくらしていく、できない相談をいわない、規律正しい生活をする、愉快な生活を心がける)や、夜の見張りは「つい、いろいろのことを考えだして、気がよわくなってしまう心配がある」から、老巧で経験豊かな年長者が交代して当番にあたるといった知恵のうちに示されている。「ものごとは、まったく考えかた一つだ。はてしもない海と、高い空にとりかこまれた、けし粒のような小島の生活も、心のもちかたで、愉快にもなり、また心細くもなるのだ。」このリアリズムが潔い。感動はないが、いっそ清々しい。(本書の明るさは、随所に挿入されたカミガキヒロフミのシュールでファンタスティックなイラストの力によるところが大きいと思う。)

★なかにし礼『てるてる坊主の照子さん』上中下(新潮文庫:2003.8.1)

 TVドラマで観ていたら、このあまりに出来すぎた夢のようなお話も、「涙と笑いと感動」(文庫カバーに出てくる言葉)をもって存分に楽しめたかもしれない。いっそ最初から実話の装いを鮮明にしてくれていたら、戦後復興から高度成長期にかけての「市井の戦後史」(久世光彦さんの解説に出てくる言葉)を貫く「庶民」の上昇志向に素直に感情移入ができて、波瀾のストーリーに手に汗握り、はては感涙を誘われたかもしれない。やはりこの作品は、なかにし礼さんの達意の「錬文術」にあっさりと降参してこそ心ゆくまで堪能できる、よくできたホームコメディなのだと思う。(下巻に出てくる岩田春男の言葉が浮いていて、でも妙に感動的でおかしい。「スポーツは魂の錬金術や」。)

★古川日出男『沈黙/アビシニアン』(角川文庫:2003.7.25/1999・2000)

 敬愛する橘外男の異国情緒を期待させる冒頭(小刻みな文体はちょっと違うかなと思ったけれど)から、夢野久作の入れ子式眩暈世界を彷彿とさせるストーリーの転回へ、そして村上春樹の冥界下降譚(三浦雅士さんの評言)を思わせる迷宮化された世界のリリシズム。そのほか、解説の池上冬樹さんが示唆する南米産マジック・リアリズムの醸しだす神話的幻想性の残り香まで含めると、「沈黙」がまき散らす豊饒な物語宇宙の記憶の種子、かのアカシック・レコードに向けて縦横に張られたリンクは、SFやファンタジー、観念小説やエンタテインメントといった出来合のジャンル分けを粉砕する破壊的な力を駆使して、言葉がほとんど音楽のうちに溶解してしまう濃厚な原形質的物語世界を造形している。「アビシニアン」の静謐な世界創造譚の素晴らしさといい、これはもうたまらない。(古川日出男を知ったことは、今夏最大級の成果。)

★ 関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』(文春文庫:2003.7.10/1996)

 関川夏央には「文体」がある。もちろんどんな作家にだってその人固有の文体はあるのだろうが、それが作品の外的な意匠や作家の内面的屈託の反映にとどまることなく、表現内容(思想や物語)と渾然一体、不即不離の関係を取り結ぶのは本当に希有なことだ。見慣れぬ漢語や歌舞伎の見得のような決めの言葉に込められた息遣いが、語られる世界の内実を生のまま読者に伝える「文体」。物故者でいえば開高健、現役でいえば関川夏央(少し違った意味合いで金子達仁)がそのような「文体」を持った書き手(あくまで、私にとって)。──その関口夏央が自らの文体を禁欲し、その多くを事実と原文に語らせながら、樋口一葉、国木田独歩、田山花袋、等々の明治の(というより、我らの同時代の)文人群像を、二葉亭四迷という「真面目で、粋で、頑固で、多情で、野暮で、そのうえ衝動的なくせにどこか、いわば岩のごとき優柔不断な性格を持つ」巨大な矛盾を抱えた人物を太い軸として、人間的な交友関係を横糸に、経済事情を縦糸に、近代日本の屈折点とともに縦横に描きだした。とりわけ、明治四十年頃の夏目漱石との「淡い交流」を綴った文章は秀逸。この本はけっして読み急いではいけない。

★関川夏央『白樺たちの大正』(文藝春秋:2003.6.30)

 『二葉亭四迷の明治四十一年』に続き、関川夏央の「同時代精神史」第二弾を読む。ここでも著者は持ち前の文体を禁欲し、性急な論を打ち立てることもなく、深く時代と史料に沈潜している。──「この大正中期こそ大衆化への流れが確定した時期、すなわち現代の原型が姿を現した時代であった。私はそういう時代に文学が持った意味、それから文学と時代精神の濃厚な関係を、「白樺」グループを中心にさぐってみたいという小さな野心を持った。」「文学は文学である以上に歴史史料であると考えながら読むとき、彼らの作品の相貌はおのずと違って見えてくる。「白樺」グループもおなじであった。」序章とあとがきに出てくるこれら二つの文にはさまれた本編で、明治15年以降に生まれた「白樺」グループの文人たちの言動をモザイクのようにつなぎ、三四郎や「坊っちゃん」が体現した精神のその後の軌跡を余すところなく描ききっている。ノンフィクションの新しい作法がここにある。

★関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代』全5巻(双葉文庫)

 今、夏目漱石の顔写真が盤面に印刷された腕時計を愛用している。新潮文庫30冊分で手に入れた「Yonda?CLUB」の景品。他に、芥川龍之介と太宰治のがあったけれど、一つ選ぶなら漱石かなと思って申し込んでおいたもの。昨年の秋に『海辺のカフカ』や『失踪者』と一緒に『坑夫』を読んで以来、漱石を読んでいない。まだ『行人』とか『猫』など、未読の大物が残っている。評論や書簡、短文、俳句や漢詩など、無尽蔵といってもいいほど残っている。そうこうしているうちに再読、もしくは三読、四読、…n読したくなってくるのだから、漱石読みは一生続く。──『二葉亭四迷の明治四十一年』を読んで、傑作『『坊っちゃん』の時代』全5巻を読み返した。読むたびに、とりわけ最終巻、石川啄木を道案内に瀕死の漱石が実人生と作品世界を経巡るシーンに胸が熱くなる。(誰かが言っていたけれど、谷口ジローの画では女性の顔の区別がつかない。同感。でも、そこがまたいい。漱石の世界に通じている。漱石とは違った意味で、かわぐちかいじの画と物語の魅力にも通ずる。)

★アン・タイラ−『あのころ、私たちはおとなだった』(中野恵津子訳,文春文庫:2003.7.10)

 二桁以上の人物が入り乱れるパーティ・シーンで、一人一人のキャラクターをきちんと書き分けながら、ヒロインが物語にしめる位置関係やその心理の襞まであますところなく読者に伝える筆の冴えはすごい。ストーリーの展開が流暢で無理がなく、収拾のさせ方も堂に入っている。噂通りの凄腕。ただ、いかんせん登場人物に魅力がない(あくまで、私にとって)。がさつで自分勝手で他人の都合などお構いなし。ひたすら自分のことにかまけている。多かれ少なかれ誰でもそうなのだから大目に見てもよさそうなものだけれど、大目に見ることができない。「愛すべき」凡人の凡庸な人生談義に耳を傾けるほど暇じゃない。「人生分岐譚」としての結構にも快感がない。(「アン・タイラ−フリーク」の平安寿子さんが解説で「西洋落語」と書いているけれど、落語の芸にはそれが成り立つ文化の共通基盤というものがあって、私はその基盤を共有していない。それだけのことかもしれない。でも、いったんハマったら病みつきになるだろうと思う。)

★ロレンゾ・カルカテラ『ギャングスター』上下(田口俊樹訳,新潮文庫:2003.8.1)

 死にゆく老ギャングの病室で深夜、若い男と初老の女が語り合う過ぎ去った百年の、三代にわたって繰り広げられた「自分の人生を自分で生きる男」の物語。それは、いつかどこかで観た有名無名の暗黒映画から切り出された印象的なシーンが、モザイク状に連なって紡ぎ出す凄惨で壮絶で悲哀に満ちたエピソード群のようだ。あるいは、意識不明の老ギャングの最期、悔恨と受容の苦さに縁どられた大いなる赦しの時に訪れた、鮮烈なフラッシュバックの奔流だったのかもしれない。そして、物語の結末で女の口から明かされるもう一つの真実。ほんのわずかな構成上のミスがすべてを致命的に損ないかねない、危うい緊張をはらんだ超絶的な語りが素晴らしい。

★グレッグ・アイルズ『沈黙のゲーム』上下(雨沢泰訳,講談社文庫:2003.7.15)

 陰謀うずまくアメリカ南部の保守的な街。その暗部に立ち向かう男の無謀とも言うべき勇気。父と子の二代にわたる復讐の物語。失われた恋の記憶と新しい感情の予感。腐った官能と清新な性愛。雪中の冒険譚。かつての恋人と敵味方になって弁論戦を闘う法廷サスペンス。これらの趣向すべてを一つにおしこんだ、なんとも贅沢な作品で、ストーリーの展開とともに複雑にからみあう素材群を手際よくさばく手腕は並ではない。起承転結の転、序破急の破までは、ひさしぶりに夜を徹する感興を味わった。でも、かつての恋人との絡みが続き、新しい女の影が薄くなっていくあたりで疑問符が点灯する。(これには、新旧二人の女性のどちらにより魅力を感じるかという読み手の側の事情が反映している。)そのあげく明らかにされた謎に説得力がないし、復讐譚としての快哉にも欠ける。詰めを急がなければ、文句なしの傑作だったと思う。

★チャールズ・パリサー『五輪の薔薇』1〜5(中斐萬里江訳,ハヤカワ文庫NV:2003.3.15〜7.15/1998)

 これはもう「長さ」の勝利と言うほかはない。たっぷり夏休み二日分の時間を費やし、総数80人超の人物(折り込みの「五十音順登場人物表」がなかったらたぶん途方に暮れただろう)が文庫本五冊二千頁超にわたり血縁、因縁入り乱れて糾う雄編を一気読みして、物理的な「長さ」をもってしか表現できない物語的感興というものが確かにあると実感させられた。私利と陰謀と裏切りにまみれた悲惨な出来事がジェット・コースターのようにこれでもかと繰り出され、さてようやく復讐と正義の時を迎えたかと思うと、「シャレード(芝居)」に絡めとられた「人生の目的」をめぐる主人公の内省が、シンプルな物語世界の進行を突然緩慢なものにする。数世代を遡っての「デイヴィッド・コパフィールド式のくだんないこと」((c) ホールデン・コールフィールド)の奔流は、ほとんど読者の記憶力の容量を超えている。このあたりの過剰と転調を、小池滋さんは小説技法ともからませて「ポスト・モダン的小説」と表現しているのだろうが、それとてやはり「長さ」ゆえの効果にほかならない。(物語世界に溺れる、というより淫する体験は、ケン・フォレットの『大聖堂』に読み耽ったいつぞやの盆休み以来のことで、あの見事な中世物語ほどの深い愉悦はなかったにせよ、この英国版人形浄瑠璃の世界には、時間を忘れたっぷりと堪能させられた。)

★スーザン・オーリアン『蘭に魅せられた男──驚くべき蘭コレクターの世界』(羽田詩津子訳,ハヤカワ文庫NF:2003.7.30/2000)

 英文で読むと(たぶん)自然な表現でも、それを日本語におきかえると鼻につくということがある。たとえば、「わたしには恥ずかしいとは感じない情熱がひとつだけある──何かに情熱的にのめりこむことがどんな気持ちか知りたい、という情熱だ」という文章。だったら、蘭に魅せられた男ジョン・ラロシュの「驚くべき」世界のことをもっとじっくりと書き込んでくれよ!──と思わずつっこみたくなるが、これなどほんの一例で、こうしたいかにも才走ったプロっぽい書き方がどうにも小癪な感じがして、どこかのマニュアルに忠実に従った文章構成を思わせられた。あつかわれている素材自体は、滅法面白い。メーテルリンクいわく、「植物の知性がもっとも完成度の高い、もっとも調和のとれたかたちで現われているのは、ランである」(『花の知恵』)。だからどうというわけではないが、蘭や蘭にとりつかれた人間のことについて書く側にも、蘭に拮抗しうる「完成度の高い、もっとも調和のとれた」知性が求められるはずで、少なくともコンビニで買えるような安っぽい知性ではだめだ。

★小沼丹『黒いハンカチ』(創元推理文庫:2007.7.11)

 北村薫さんの作品をはじめて読んだときの、あの新鮮な驚きと読後の清冽な印象が蘇る。なんといっても名偵役ニシ・アズマ(この古風なカタカナ表記がとてもいい感じ)の利発で可憐で、どこか「お茶目」(死語)なキャラクターが魅力。「その女性──小柄で愛敬のある顔をした若い女性、賢明なる読者は、既にお判りかもしれぬ、他ならぬニシ・アズマである」。この登場の仕方、というか燻し銀のようなユーモア漂う小沼丹の筆運びがいい。12の短編それぞれに違った味わいがあって、どれも忘れ難いが、個人的には「未完成」に終わった青年との恋の回想シーンが出てくる「十二号」と、ニシ・アズマの家族が登場する「スクェア・ダンス」が印象的。──『黒いハンカチ』が刊行された昭和33年は、松本清張の『黒い画集』が「週刊朝日」に連載されはじめた年でもある。私はたまたま偶然、同時にこの二冊の本を読んだ。いかにも対照的な両作品は、あいまってあの時代の雰囲気を伝えていたように思う。(といっても、あの時代のことを実感として知っているわけではない。)
 

☆今月の棚卸し

★福原泰平『ラカン 鏡像段階』(現代思想の冒険者たち13,講談社:1998.2.10)
★斎藤環『文脈病 ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ』(青土社:1998.9.10)
★スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』(松浦俊輔訳,青土社:1999.12.20/1997)
★原和之『ラカン 哲学空間のエクソダス』(講談社選書メチエ:2002.10.10)
★鈴木瑞実『悲劇の解読──ラカンの死を越えて』(岩波書店:1994.10.21)

 ジャック・ラカンのことは、新宮一成さんの名著『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)を読んで解ったつもりになっていたけれど、中沢新一さんのカイエ・ソバージュ・シリーズがしきりとラカンに言及していたことと、つい最近アレンカ・ジュパンチッチの『リアルの倫理──カントとラカン』を読んだことが刺激になって、原典(もちろん翻訳)を読むには勇気が足りなかったので、関連本をぱらぱらと眺めた。最初の三冊は常備本(「いつか読まねば」グループに属する)で、折にふれて拾い読んできたもの。残りの二冊は近所の図書館から借りてきた。いずれも軽く流しただけだから、ほとんど何も残っていない。ラカンが繰り出した数々の「概念」は、まだ使い道が定まらないまま放置されている。そんな印象だけは残った。
 

☆不連続なシネマ日記

★バーベット・シュローダー『完全犯罪クラブ Murder by Numbers 』(2002:米)

 1924年、シカゴで起きたレオポルド&ローブ事件(ニーチェの超人思想にかぶれた、天才的なIQを持った二人の大学生による誘拐・殺人事件)を題材にしているらしい。純粋殺人というとても魅力的なテーマに期待したのだが、くだらない駄作。サンドラ・ブロック演じるトラウマ持ちの刑事をめぐる人間関係の描写がうるさくて、肝心のピュアな悪が描き切れていない。

★ジョナサン・モストウ『ターミネーター3』(2003:米)

 久しぶりに映画館で観た。ビデオと違って、巨大なスクリーンと圧倒的な音量が思考を圧殺してくれたので、我を忘れた。クリスタナ・ローケン演じる殺人機械がクールで気味が悪くてなかなかよかった。結末も悪くない。