不連続な読書日記(2003.7)




☆2003.7

★松岡正剛『分母の消息(一)──花鳥風月の逆襲』(デジタオブックレット001,デジタオ:2003.4.25)
★松岡正剛『分母の消息(二)──場面主義』(デジタオブックレット004,デジタオ:2003.5.25)
★松岡正剛『本の読み方(一)──皮膚とオブジェ』(デジタオブックレット002,デジタオ:2003.4.25)
★松岡正剛『本の読み方(二)──鍵と鍵穴』(デジタオブックレット005,デジタオ:2003.5.25)
★松岡正剛『帝塚山講義(一)──人間と文化の関係』(デジタオブックレット003,デジタオ:2003.4.25)
★松岡正剛『帝塚山講義(二)──なぜ人間は神を作ったか』(デジタオブックレット006,デジタオ:2003.5.25)

 写真で見る松岡正剛は、どこか右翼の思想家を思わせる。以前TVで放映されたその風貌には、知性派ヤクザの凄みが漂っていた。この人の語る言葉は、なよやかでいながら切れ味鋭い匕首を隠している。でも、その文章は衒いも外連もなく、歯がゆいまでにただ淡々と綴られていく。リアルタイムで『遊』に驚愕した鮮烈な体験からすると、あまりに物足りなかった。(唯一、『情報の歴史を読む』が例外的に面白かった。ただしそれは宇宙開闢から古代、中世あたりまでのことで、近現代になるとやや走りすぎで興が醒めた。)
 ところが最近、見方が変わってきた。この「天使の取り分」とも言うべき「欠落」をはらんだ文章のうちに、読み手の力量に応じていかようにでも掘り出すことのできる濃縮された情報が、どれほど惜しげもなく盛り込まれていたことか。(たとえば『山水思想』などを読むと、衒いとも外連とも無縁な淡々とした文章のうちに、何かしら濃厚で圧縮された文化の核心のようなものが掘り出され、無造作にちりばめられている。)
 松岡正剛の未刊行の文章が「松岡正剛編集セカイ読本第一期」(全三巻十四冊)として、一時間で読めるブックレット形式で毎月三冊配本されることになった。高速(1987年から「夜想」に連載された『分母の消息』)、中速(1994年から「ダイヤモンド・エグゼクティブ」に連載された『本の読み方』)、低速(1998年の講義録『帝塚山講義』)の三部構成で、松岡正剛が松岡正剛になっていく全プロセスの記録集と言ってもいい。
 その第二回配本分まで読んだ。松岡正剛の文章が最後まで、これほど面白く読めたことはかつてなかった。マーキングやメモ書きをつけたり、ドッグ・イヤーを折ったりせず、ただ黙々と語りに聴き入ったので、その藝を心地よく堪能した充足感だけがしっとりと残って、中身はあまり覚えていない。(いま、ふと思い出したのだが、松岡正剛はシオランの愛読者だと書いてあった。)

★松岡正剛『分母の消息(三)──景色と景気』(デジタオブックレット007,デジタオ:2003.6.25)
★松岡正剛『本の読み方(三)──初恋コスモス』(デジタオブックレット008,デジタオ:2003.6.25)
★松岡正剛『帝塚山講義(三)──生と死をみつめた人々』(デジタオブックレット009,デジタオ:2003.6.25)

 「分母の消息」は、前回からひきついだ「場面の問題(場面の特定に関する問題)」──「問題は、このような「内外の一線」がつくりあげた場所とは何なのかということなのだ。ところが哲学や思想のなかで最も研究が遅れているのが、この場所をめぐる問題なのである。」(あとがき)──をめぐって、風水(feng-sui)から景気、ヒア・ゼア(here-there)観念の発生へ、そして蠱術へと説き及ぶ。「古代においては、「ここ」と「むこう」の景色をつなげるにあたっては、ひょっとして鳥や虫たちによるコミュニケーション・ルートを活用する方法があった」(39頁)。
 「本の読み方」では、「個別知(パーソナル・ナレッジ)」「共同知(コミュニティ・ナレッジ)」「世界知(グローバル・ナレッジ)」の区分による「読書のインターフェイス」をめぐって、松岡流読書生活が存分に披露される。「世界知は哲学や宗教ばかりでできているわけではなかったのである。世界知を支えているのは、実はその時代時代の宇宙観や生命観をふくめた科学思想だったのである」(51頁)。「愛の経済学」をめぐる章がとりわけ興味深い。
 「帝塚山講義」は、オリゲネスをはじめとする教父たちの神学論争から修道院運動、宗教改革まで、キリスト教の情報編集術(知と愛と罪と悪をめぐる)をめぐって奔放に講義が進んでいく。回心後のパウロが新しい信仰のあり方を異教徒たち相手に広めていった。「まあ、いまの企業が新しく私情や顧客を開拓しようとするようなものですね」。「わずか数年で、キリスト教徒になった異教徒の数が、キリスト派のユダヤ人の数を追い抜いてしまう」のだから、パウロの布教活動は「すごい営業だよね」。ギリシア伝来の「ロゴス」を理想とするローマ人たちにキリスト教が受け入れられるのは大変なことだった。「だって、イエスが死んでから三日後に蘇っただなんてことを、理論で武装しなくちゃいけないんですからね」。帝塚山学院大学の一回生は、教団と神学の発生をめぐるキモにあたる箇所で(笑)の反応を示している。

★松岡正剛監修『増補 情報の歴史 象形文字から人工知能まで』(NTT出版:1996.3.28)

 ある人が、一家に一冊『情報の歴史』と書いていて、いたく共感した。常備薬ならぬ常備本としては、これに白川静の三部作『字統』『字訓』『字通』のどれか一冊を加えたいところなのだが、残念ながら未購入。「生命の発生が情報史の発端である」にはじまり「年表を歩くことは時間の旅人になることだ」に終わる、歴史の節目ごとに挿入された松岡正剛の文章は、それを通読するだけで「宇宙史」「生物史」「文化史」「社会史」を概観できる。目次、見出し、ヘッドライン、引用等々、それらのことごとくが圧縮され織り畳まれた情報の坩堝で、ちょっとカテゴリーが違うけれど、利用できないのは鳴き声だけという豚を思わせる。
 増補版で1889年から1995年の情報が付け加わった。その最終頁左側に次の書き込みがある。「阪神大震災。ストロングな都市は崩れ、ボランティアの活躍。フラジャイルな歩行が残る。」「イチローと野茂。オウム事件に対抗した二人。」いずれも未聞の時代の幕開けを告げる年にふさわしい評言だと思う。
 西暦200年代の頁の左側には、次のように書かれている。「九世紀のエリウゲナ主義から十九世紀の観念論まで、西欧哲学の大半はオリゲネスの遺産の修正史にすぎなかった。」「新プラトン主義とグノーシス主義、あらゆる神秘思想がここに出所する。」思いおこせば、私の霊性神学熱はここから始まったのだった。

★永井均他編集『事典 哲学の木』(講談社:2002.3.11)

 一家に一冊、とまでは言えないかもしれないけれど、松岡正剛監修の『情報の歴史』と並ぶ私の常備本が『哲学の木』。無人島で独り暮らすことになったら、たぶんこの本を持っていくことになると思う。
 この本は、哲学用語事典としては使えない。「概念」と「観念」がどう違うかを知りたいと思っても、あるいは最近気になっている「コンセプト〔concept〕」と「コンセプション〔conception〕」の違いを見極めようとしても、この事典では役に立たない。「現象」と「表象」の違いについてだったら、中島義道が担当した項目の中でドイツ語の語義に即して簡単な説明があるけれど、やっぱりそれだけのこと。
 哲学は用語事典の中で起きているんじゃない、哲学は現場で起きているんだ。永井均が序文でそういった趣旨のことを書いている。
《哲学の言葉は、哲学している現場からしか理解できない。(中略)哲学者は、なけなしの言葉を使って、これまで誰も言わなかったこと、言えなかったことを、なんとかして言おうとするからである。(中略)だから、哲学者のその努力の全体との共感関係なしに、そこでなされている哲学そのものをこの場でもう一度再生しようとする意志なしに、使われている言葉の意味だけを取り出して説明するなどという芸当は、誰にもできないのである。言葉の意味は、哲学的思索の進展とともに、それと同時に、つくりかえられ、つくりあげられていくしかないからだ。》
 それにしても、他の編集委員が面倒くさがったので書いたというこの序文は感動的なまでに素晴らしい出来で、いま引用した箇所以外でも、次のような文章が出てくる。
《そして、なんど驚嘆させられたことだろう。私がこれこそが哲学的問題だと勝手に信じ込んでしまった問題とは何の関係もないような問題、たとえばヨーロッパ中世哲学における神の存在証明の問題などという、最初に学んだときにはただただ馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった問題が、じつは自分が考えている問題とあまりにも緊密に関係していることに、ある日、豁然と気づいたときの驚き。》
 本人も恐縮しているが、事典の序文にこうした「個人的なこと」を書きつける自在さがこの本(読む事典)の真骨頂で、総勢196人の執筆陣による全401項目にこの精神(事典を現場として自分の哲学をすること)は貫かれているはずだ(まだ全編読破には遠く及ばないので、推測するしかない)。
 でも、先の文章に続けて、ちゃんと序文としての結構をつけているのはさすがだ。《さて、私がこの『事典・哲学の木』に望んだのは、このような──自分自身の哲学的思索とこれまでに哲学であるとされてきた伝統との──媒介作業である。》

★ドゥニ・ゲジ『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』(藤野邦夫訳,角川書店:2003.2.28)

 ともにソルボンヌ大学に在籍し、かたや哲学科に属して「存在論に関する人目を引くエッセイ」を書きあげたリュシュ氏と、数学科の学生で「ゼロについての資料的な裏づけをもつ小冊子」を発表したグロスルーヴル。二人の友人は「存在と無」とよばれて、狭い学生の世界でちょっとしたスターだった(何年かのちにサルトルが発表した哲学的エッセイのタイトルは、ふたりのニックネームの盗用だった?)。
 半世紀後、パリで古書店「千一冊の文書館」を経営するリュシュ氏のもとに、旧友から、ブラジルのマナウスの消印をもつ謎めいた手紙(「πRくん 君の名前の書き方で、こちらがだれだかわかるだろう。」──πRとはピエール・フェルマーのこと)が届き、重さ数百キロという数学の文献が送られてくる。ちょうど同じ頃、リュシュ氏の書店で働くペレットの息子マックスが蚤の市で「記憶喪失」のオウム(ノーフュチュール)をみつける。
 これが事の発端で、以後、数学の歴史をめぐるゆったりとした物語(数学史をたどるときには、「音楽よりはやく歩いちゃいけないよ」)と、グロスルーヴルの死の謎や「ゴルドバッハの問題」をめぐる物語(「それ[数学]は『思考力』だからね。数学は媒体をもっていないんだよ」「物質的な媒体でない記憶装置とはなんだろう。それは、鳥だったんだ!」)が渾然となって、前代未聞の「数学ミステリー」の逸品をかたちづくっていく。
 著者はパリ第8大学科学史教授。訳者には、他に『精神発生と科学史』(ピアジェ他)や『ジャック・ラカン伝』(ルディネスコ)の翻訳がある。

★中川素子『絵本は小さな美術館──形と色を楽しむ絵本47』(平凡社新書:2003.5.19)

 絵本は視覚表現性という大きな力をもっている。《絵本の視覚表現性は何かときかれたなら、私は即座に「認識」という言葉をあげる。絵本に限らず、視覚イメージというものは認識であり、思考そのものだといってよい。》──約120冊の作品をとりあげて、絵本を表現そのものから見る「絵本学」の提唱者が、表現構造や素材・技法・紙質などの切り口からアートとしての絵本を存分に紹介してくれる。

★江本勝『水は答えを知っている──その結晶にこめられたメッセージ』(サンマーク出版:2001.11.25)

 プロローグ──物質的にみると、人間は水である。水はエネルギーの伝播役である。水は情報を転写し、記憶している。水は地球を循環し、私たちの体内を経て世界と広がっていく。水の記憶している情報がもし読めれば、そこには壮大なドラマが刻みこまれているのがわかる。《水を知ることは宇宙と大自然、生命すべてを知ることなのです。》
 第1章「宇宙は何でできているか」──すべての存在はバイブレーションである。森羅万象は振動している。万物が振動しているということは、どんなものでも音を出しているといいかえてよい。人間は、大自然から言葉を教わった。《水は心の鏡です。水はさまざまな顔をもち、人間の意識を形にして見せてくれます。》
 第2章「水は異次元への入り口」──水は生命を生み出す母であるとともに、生命のエネルギーそのものである。水は、宇宙の果てから飛来した。水は情報を記憶し、地球を循環することによって、その情報を伝達する。宇宙から地球に届けられた水には、生命の情報がふんだんに含まれていた。《水がもっている情報を解読する一つの方法が、氷結結晶の観察なのです。》
 第3章「意識がすべてをつくっている」──《人間の肉体とは水です。意識は魂のことです。》水の分子が水素原子二つと酸素原子一つで組み合わされているように、感謝(陰、受動的エネルギー)二つ、愛(陽、能動的エネルギー)が一つの比率で生きるのが、人間本来の生き方である。
 以下、ディビッド・ボームの暗在系・明在系やルパート・シェルドレイクの形態形成場(第4章「一瞬で世界は変わるか」)、著者が師とあおぐ塩谷信男の「幽子」仮説──物質を究極まで細かく見ていくと「幽子」に行き着く。幽子は三次元と四次元の境目にある物質で、断言された言葉は強烈な「言霊パワー」で幽子を集め、これに作用することで三次元の世界に物事が成就する──やアインシュタインの公式「E=MC^2 」のCは光速ではなくてコンシャス=意識のこと、Mは質量だから意識をもつ人の数だといった話題が続く(第4章「微笑みはさざなみとなって」)。
 そして、エピローグ──宇宙はすべて相似形である。宇宙で起こりうることは、人間の体の中でも起こっている。人の体に必要なのは、水の循環であった。とするならば、宇宙でも水は常に循環していかなければならない。私たちが人生で体験した出来事は、水の記憶となって体内に残っている。それが、魂と呼ばれているものである。魂は、宇宙の果てから水にのってやってきた。《私たちは水そのものです。いつの日か地球上で学んださまざまな体験の記憶をもって、宇宙へと旅立っていくのでしょう。私たちに課せられた仕事とは、飛び立つ前にこの地球上できれいな水になることなのです。》
 これらはすべて「真実」なのだと思う。カラー刷りの水の結晶写真が素晴らしい。

★M・メーテルリンク『花の知恵』(高尾歩訳.工作舎:1992.7.20)

 昆虫三部作で高名な「博物神秘学者メーテルリンク」による、花の「知性」と「魂」(香り)をめぐる自然観察録。ノヴァーリス(訳者があとがきでその名をあげている)を思わせる断章群で構成された科学エッセイ。以下、そのサワリだけ。
《どんな花も、それぞれの考えをもち、システムをもち、経験を得て、これを有効に役立てているのである。花々の小さな発明、花々の採るさまざまな方法を仔細に検討してゆくと、工作機械の展示会が思い出される。》(63-64頁)
《植物の知性がもっとも完成度の高い、もっとも調和のとれたかたちで現われているのは、ランである。》(69頁)
《この地上で実現される知的な行為の一切がそこに由来している一般知性というものの性格、質、習性、そしておそらく、その目的が問題なのである。》(103頁)
《多少なりとも知的な存在がいくつもあるというのではなくて、広く分散しているひとつの一般的な知性があるのだ、たまたま出会う有機体に、それが精神のよき導き手であるか悪しき導き手であるかに応じてさまざまなかたちで入り込む普遍的な流体のようなものがあるのだと言い切っても、さして無謀ではなかろうと思う。今までのところ、この地上において人間は、宗教なら「神聖な」とするであろうこの流体にもっとも抵抗を示さない生物形態であるらしい。》(115頁)
《嗅覚は自然が人間に授けた唯一の贅沢な感覚なのである。》(122頁)

★梁石日『アジア的身体』(平凡社ライブラリー:1999.1.15/1990)

 ヤン・ソギルの本は初めて読んだ。梁石日が中上健次をどう批判しているのかを知りたくて、関連しそうな文章にざっと目を通しているうち、思わず読み耽ってしまった。馳星周が「解説──失われた身体への憧憬」で、「梁石日の書く人物たちに共通した特徴──他者を飲み込んで顧みない情念と、肉体の圧倒的な存在感。このふたつは、日本人がとうに失って久しいものだ。/情念と肉体。このふたつが共存するところに、おそらくは本書のテーマである「アジア的身体」が依ってたつ基がある」と書いている。藤原新也が『全東洋街道』の、たしかトルコの娼婦の写真に添えたキャプションに「人間って肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ」と書きつけていたのを思い出した。梁石日が言う「アジア的身体」のなんたるかは、たとえば「アジア的身体について」と題された文章や、岡庭昇との対談「アジア的身体──在日の思想とはなにか」を読めば、わかる。でも、読んでわかることだったら、それは実は最初からわかっていたこと、あるいは言葉のうちにあらかじめ書き込まれていたことにすぎない。言葉でもって言葉を突き抜けてみせるのが、梁石日がこだわる「文学」であるとするならば、本書について言葉で語る前に、まず梁石日の小説を読んでみなければならない。

★櫻井よしこ『迷走日本の原点』(新潮文庫:2003.4.1/2001)

 「櫻井よしこ、魂の直言集」と銘打たれた『迷走日本の原点』は、壊死寸前の日本の惨状をもたらした原罪と、もう一つの日本を希望をもって展望する起点を「奥深い歴史」のうちに探った書物である。俎上に上るのは、経済至上主義や「吉田ドクトリン」といった戦後日本のイデオロギー、金融、官僚、系列、教育といった疲弊した制度、領土や国防や国家観、憲法改正や在日韓国人といった未解決問題で、ジャーナリスト・櫻井よしこは、あくまで事実と歴史に即して、自らの「論」が立ち上がるべき原点を特定していく。著者の「論」を受け入れるかどうかを云々する前に、まずここで特定された事実(歴史)を吟味する冷静な作業が必要だ。論争の書とは、このような書物を言うのだと思う。
 誰の言葉かは忘れたが、政治と行政を見切るためには税制と農政をウォッチすればよいという。本書でも「税制が日本人の自立を阻んでいる」と「バラマキ農政のアリ地獄ふたたび」の二つの章で、国家総動員法(1938年公布)に関連する戦費調達税制(直接税中心主義や源泉徴収制度)と食糧管理法(1942施行)以来の、税制と農政の迷走ぶりが詳細に報告されている。とても説得力がある文章だと私は思うのだが、さてそこからどのような「論」を立ち上げるべきかと考えたとき、微妙な違和感が拭えなかった。(それは、約80種の租税特別措置が税の公正を、ひいては国民の自立心を損なっているという主張と、農業を自立させるために国は農業への口出しをやめ、税制や行政措置を一刻も早く実施すべきであるという主張との間に政策的整合性が認めがたいといったことだけではない。)
 櫻井よしこの「論」の根っこには、国というものに対する揺るぎない信念がある。個人のアイデンティティや自立の根拠とは、究極のところ国である。「個人の存在を粒だたせ、光らせていくと同時に、個人の総合体としての国を意識し、国益を考えていくことが重要な世紀に入ったのだ」(あとがき)。しかし、そこで言われる「国」とは、究極のところ諸個人と制度に尽きるはずだ。税制であれ農政であれ、もちろん金融や教育、社会基盤であれ、宇沢弘文が「社会的共通資本」と呼ぶ一切のものが、必ずしも「国」という観念によらずとも厳密に(工学的に)考察できるはずだ。
 櫻井よしこの「論」が根底に据えた「国」という観念がまとうロマンティシズムの薄皮を慎重に剥いだときにこそ、たとえば最終章「フリーター200万人の漂流」で、フリーターを日本の閉塞を突破する人材へと転じるため、政府は大胆に若者たちを海外で学ばせるプログラムを組むべきだといった「現実的」な政策提言が生まれてくる。

★睦月影郎『淫蕩熟女の快感授業』(河出文庫:2003.7.20)

 先月に続いて、このところにわかびいきの睦月影郎の書き下ろしを読むも、イマイチ。──性の秘本スペシャルはこれで8冊目。河出文庫ならでは(?)の作品や作家を揃えないと、シリーズ名が泣く。

★安岡章太郎『私の[ぼく]東綺譚』(新潮文庫:2003.7.1/1999)

 傷病兵の無聊をいやした一冊の書物。安岡章太郎が、個人史と時代の転変を織りまぜながら、自らの荷風体験の一部始終を綴ったこの小さな本は、解説の高橋昌男がいう「私評論」がもつ独特の陰翳をまといながら、文学という営みの底の深さ、いや、文士という生き方の業の深さをあざやかに浮き彫りにしてゆく。読者は、安岡章太郎の文章の力に乗せられて、いつしか永井荷風の名作の核心──この小説の真の主題は天然自然というものに在る。「何度も言うように、季節の変り目がこの小説の主題であり、人の生別死別に匹敵する程ドラマの激しさを感じさせるものが其処にある。」──へと案内される。「ストーリーも平板だし、叙述も格別際立ったものであるようにも感じられない。それでいて読み終ると、極めて上質のコンソメ・スープを口にしたような。こくのある味わいを覚えるのである。」この評言は、そのまま本書にあてはめられる。木村荘八の挿絵、新聞写真、そして荷風自身が撮影した数葉の写真が、読後の余情を濃いものにしてくれる。

★島村菜津『スローフードな人生!──イタリアの食卓から始まる』(新潮文庫:2003.5.1/2000)

 哲学者は長年「方法的懐疑」に磨きをかけてきた。これに対するジャーナリストの常套手段は「方法的わからずや」(アイロニカルではない批判精神)である。目から鼻に抜ける理解力ではとりこぼしてしまうものを、腑に落ちるまで時間をかけて、たくさんの人の話を聞き、現地に赴き体験を重ねながら少しずつ、かたつむりのようにスローに理解し、素材ごと読者に伝える。著者は、最初に訪れたイタリア北部の片田舎で、スローフード協会の副会長シルヴィオさんから「すべては関係性の問題なんだ。人と人、人と自然とのね。他者といかにコミュニケーションをとっていくのか。大地からの恵みをどうやって口まで運ぶのか。そういう根源的な関係性の問題の根底に食というものがあるんだ」ときかされる。そこからジャーナリストの旅が始まる。ローマの反マクドナルド闘争を通じて、ファーストフードとスローフードの単純ではない関係に思い至り、イタリアワインや山羊のチーズの生産者、アグリトゥリズモ(農業と宿泊施設がひとつになった田舎の宿)の経営者に取材し、またスローフード協会が進める「味の教室」に参加し、遠くロシアの家庭やイタリアの「スロータウン」で共食(コンヴィヴィウム)の楽しさを知る。そして最後に、「大げさな言い方をすれば、スローフードとは、口から入れる食べ物を通じて、自分と世界との関係をゆっくりと問い直すことにほかならない」とシルヴィオさんの言葉の意味を理解し、「人類の壮大な夢を託したスローライフ」の実践者たることを決意する。──小泉武夫さんが誉めている。「こんなに大切なことを書いた島村なっちゃん、偉いぞ」。

★川上弘美『おめでとう』(新潮文庫:2003.7.1/2000)

 12編の短編に出てくる女たちは皆、少しだけ妖怪じみている。けっして生臭くはないけれど、ひんりと冷たくて、見てはならない剥き出しのものを感じさせる、なまなましい肌をもっている。そして、『天上大風』の「私」がそうだったように、ものごとに対する定見がもてず、実生活にはほとんど役立たない論理的思考を標榜して、いつも行動と気分の間に大きな齟齬をきたしている。だから、『冷たいのが好き』の「僕」が章子に感じるように、いじらしい、と同時に、うとましい。彼女たちは、この世のものとは思われない世界とつながっている。それは、冒頭の『いまだ覚めず』で、タマヨさんと「あたし」が一緒にうたった歌が、妖怪どうしの性交の比喩であったらしいことと関係している。「歌の音はふしぎ。遠くからきたような音です。自分のなかに、遠くのものがあるのは、ふしぎ。」──西暦三千年一月一日のわたしたちへ向けた最後の『ありがとう』では、そう書かれている。

★梨木香歩『りかさん』(新潮文庫:2003.7.1)

 お雛祭りのお祝いに、おばあちゃんから譲られた市松人形のりかさんは、一週間後、ようこに話しかけてきた。それだけではなくて、りかさんは、人形の記憶と思いをスクリーンに映し出す「向こうの世界の案内人」だった。おばあちゃんは、ようこに語る。「気持ちは、あんまり激しいと、濁って行く。いいお人形は、吸い取り紙のように感情の濁りの部分だけを吸い取っていく。」こうしてようこは、少しだけ怖くて切なく哀しい、古い人形をめぐる物語の世界に導かれていく。「人形にも樹にも人にも、みんなそれぞれの物語があるんだねえ、おばあちゃん」。りかさんは言う。ようこちゃんは媒染剤みたいな人になれるよ。──文庫書き下ろしの「ミケルの庭」では、成長した蓉子が、いまは染色工房に改造されたおばあちゃんの家で、二人の女友達と一緒に暮らしている。三人で、中国に短期留学した友人の娘、1歳2ヶ月のミケルを預かっている。まだ物語(すじょう)をもたず、だから物言わぬ、でも生きた人形・ミケルの心象を通じて、四人の女の確執と「向こうの世界」をかいま見させるこの短編は、「りかさん」とあわせて読まれるとき、比類ない純度をもった“怖さ”を結晶させる。

★いかりや長介『だめだこりゃ』(新潮文庫:2003.7.1/2001)

 『8時だョ!全員集合』。昭和44年10月、『コント55号の世界は笑う』の裏番組として『巨泉・前武のゲバゲバ90分!』と同時に始まり、1年3カ月後には視聴率50%を達成。昭和56年春以来の『オレたちひょうきん族』との視聴率争いを経て、21年ぶりの阪神の優勝に沸いた昭和60年9月、第803回目の放送をもって終了。あの16年続いたお化け番組は、芸人の笑いから「テレビにおける笑いの芸」への、そして、昭和49年3月、顔が面白いというだけでピアノが弾けないピアニストとして採用された荒井注が抜ける(「人生には仕事よりもっと大切なことがある」)までの「メンバーの個性に倚りかかった位置関係の笑い」「人間関係のコント」から、志村けんを中心とした「ギャク連発、ギャグの串刺し」への笑いの変遷の歴史そのものだった。いかりや長介が「なりゆきまかせの四流の人生」を記録したこの「自伝」は、テレビ時代の日本喜劇史を綴る貴重なドキュメントである。(「コント豆事典」もしくはギャグ採録としての価値は、これから先、けっこう高いものになっていくと思う。)──ドリフターズのメンバーの中では、荒井注が好きだった。芥川龍之介の箴言集や太宰、三島を読んでいた荒井注のギャグは、今でも目と耳に鮮やかだ。この本の原本のあとがきは荒井注の一周忌の日にしたためられている。

★吉田修一『熱帯魚』(文春文庫:2003.6.10/2001)

 いつも思うことだが、青春小説はキレが身上で、結末の鮮やかさと潔さにすべてがかかっている。というも、青年はたいがい決断力のない観念論者で、生命と社会、性欲と家族の意味や価値や目的をめぐる退屈な思想の持ち主で、うじうじと着地点もなく続く日常をきっぱりと断ち切る構想力も行動力もないからだ。──表題作の主人公・大輔は高校を出るとすぐ上京し、棟梁の伯父に弟子入りする。「真っ青な空の下。白木の骨組み。赤い作業ズボンに藤色のシャツを着て」、熱帯魚みたいに「梁に立つ大工の姿がそこにあった」。スナックの雇われママだった肉感的な真美とその娘の小麦と一日中熱帯魚を見ている義理の弟の光男と一緒に暮らしていて、早く真美を籍に入れたいと思っている。鈍感なくせに他人との関係を仕切り、未熟なくせに人生の結構をつけたがる。おのれの「淋しさ」に気づかず、他人を追い込んでしまう(「言っときますけどね、人って大ちゃんが考えているほど単純じゃないのよ」)。人影のない夜のプールに色とりどりのライターをまきちらすと、水に沈んだライターがまるで熱帯魚みたいに泳ぎ回る(大輔の母親は、大輔や義理の息子の光男に「いいこと」があると一コずつ百円ライターを集めた)。この結末が、行き場のない大輔の無定型のエネルギーを一気に昇華させる。青春の嘘と裏切りをテーマにした「グリーンピース」と青年の罪なき冷酷を描く「突風」の二編も秀逸。

★垣根涼介『午前三時のルースター』(文春文庫:2003.6.10/2000)

 失踪した父を尋ねてベトナムへ赴く少年。祖父の依頼を受けて少年に付き添う「おれ」と友人。現地で雇ったタクシー運転手やガイド役の娼婦。つきまとう不穏な男たちと謎の女。そして、四日間の危険な探索のはてにたどり着いた真実。──それぞれに濃い陰翳を帯びた人物がつかのま交錯し、痛々しいまでの情感を湛えた物語を織りあげていくのだが、一つの作品としてみると、構成上の危うさが壊れ物のような緊張をもたらす(この感触は初期の五木寛之の小説を思わせる)。第一章「少年の街」での少年と「おれ」の寡黙な友情が物語の後半で十全に展開されることはない。第二章「父のサイゴン」で語られるその後の父の物語はまるで白日夢のようにリアリティが希薄だし、祖父の行動にも疑問が残る。何よりも「おれ」が抱える底知れない冷酷と憂鬱の背景が明かされることはない。しかし作品に込められた著者の凍った熱気のようなものがそれらの疵を繕い、あまつさえ作品に忘れ難い印象を刻印する“過剰”を生み出している。それは、書きたいことと書ききれないことの実質をしっかりと掴み得た者だけが、ただ処女作においてのみ達成できることだ。

★乙一『平面いぬ。』(集英社文庫:2003.6.25/2000)

 それが「天才」のなせるしわざなのかどうかはともかくとして、乙一の語りの巧みさはちょっと比較を絶している。和製メドゥーサと民話調母恋物をミックスした「石ノ目」は、物狂おしい女の業のたちこめる家と空間の怖さを見事に造形しきって読ませる。空想の少女との出会いから死別までの八年間の出来事を淡々と綴った「はじめ」は、冒険と喪失の少年小説として絶品。静かな感動を湛えたその質と完成度は、表題作と比べても甲乙つけがたい。みにくいぬいぐるみの悲惨と救済、友情と裏切りを描いた「BLUE」は、シニカルで残酷な童話の原型を思わせる。中国人彫師が少女に刻み込んだ小さな青い犬の刺青をめぐる怪異譚「平面いぬ。」は、クールでリリカルな乙一の世界を凝縮している。──それにしても乙一はすごい。とてつもない歌唱力と表現力をもった(でも、まだ決定的な代表作にめぐまれない)アイドル歌手のようなもので、これから先どう化けていくのか、その可能性にわくわくさせられる。

★高山文彦『火花 北条民雄の生涯』(角川文庫:2003.6.25/1999)

 関川夏央は『座談会 明治・大正文学史』(岩波現代文庫)の解説で、座談会がはじまった1950年代後半にあっては、「文学というものが日本の知識青年と知識壮年にとって生きる上での手がかりとなっていた、つまり文学がまだある種の『実用品』であった」と書いている。その関川が谷口ジローと組んで世に問うた「『坊っちゃん』の時代」五部作が、国家と個人の深刻な乖離が兆す時代の文学のあり様を描いた作品であったのに対して、高山文彦の『火花』は、文学が「人生の指針」であった時代の後半、大正期教養主義以降の「商品」(娯楽や癒しのタネではなく、社会意識や感動をもたらす実用品)としての文学が兆す様を描き切っている(北条民雄の「いのちの初夜」が掲載された『文學界』昭和11年2月号は、創刊以来の売れ行きを示し、雑誌廃刊の危機を一時免れた)。それはまた、柳田邦男が解説「いのちと響き合う言葉」で書いているように、文学の言葉が密度の濃い「生」の実存を映し出す力を失っていなかった時代の物語である。著者は本書で「文学というもの」の近代日本における輝きの実質を余すところなく叙述すると同時に、その静かな挽歌を奏でている。

★森達也『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫:2003.6.15/2000)

 メディア関係者がしばしば口にする「表現の自由」という言葉が、私にはとても白々しく空疎に響く。理由は時と場合で異なるけれど、根本は「信用できない」の一点に尽きる。例外はあるのだろうが、総体としての、社会制度としてのマス・メディアは、表現の自由を自らの力で勝ち取ってきた語り継がれるべき過去を持たない。このことは歴史の浅いテレビメディアに特に顕著で、たとえば著者によって暴かれた放送禁止歌の実態は、規制主体のない「巨大な共同幻想」でしかないものだった。──本書の第4章で、京都の被差別部落で生まれた「竹田の子守唄」のその後を追っていた著者は、部落解放同盟の関係者に、過去の糾弾闘争の行き過ぎがメディアの萎縮と思考停止を招いた理由の一つではないかと問う。「だけどな森さん、勝手な言い分と思われるかもしれんけど、メディアは誰一人として糾弾には反駁せえへんのよ。信念をもっているのなら、僕らに反論すればええやないか。でも反論なんて一回もなかったよ。みんなあっさり謝ってしまうんですよ。…やってるうちにつくづく情けなくなってくるよ。…表現を職業に選んだ人たちが、どうしてこの肝心なときに沈黙してしまうやって」。

★北野勇作『北野勇作どうぶつ図鑑』1〜6(ハヤカワ文庫JA:2003.4.15〜2003.6.15)

 北野勇作は、なんとも形容のしようがない才能の持ち主だと思う。もちろん、ことさら形容しなくっても読めばそれだけで、シュールで非人情な(だって、動物やら機械やら遺跡やらが主人公なのだから)、そしてどこかに置き忘れ、とうとう置き忘れたことさえ思い出せなくなったモノたちが突然いのちをふきこまれて躍り出てきたような、思わずハッ(ギョッ?)とさせられるその世界の独特のおかしさは、存分に味わうことができる。それはそうなのだけれど、読んでいるうちなんだか居心地が悪くなって、ついできあいの言葉でラベルをはっておきたくさせるのだから、北野勇作の才能はそれほどまでに、折り紙つきに奇妙なものなのだ。──その北野勇作の短編やショートショートを「かめ」の巻、「とんぼ」の巻、といった具合の不思議な方針のもとで編集した「おりがみ付コンパクト文庫」6巻を通読して、たとえば「螺旋階段」という短編(どうしてこれが「かえる」の巻なのだろう)に出てくる文章に思わずハッ(ギョッ?)とさせられた。《映画だってそうだし、演劇だってそうだ、あらゆる表現というものがそうではないか。/それを観る者がいなければ、なにも存在しない。観る者と、観られる者。/あるときには、観る者が観られる者になったり、観られていた者が観る者になったりもするだろう。現実というものだって、そうではないか。そんなふうにしてこの世界全体が、かろうじて存在しているのではないか。》

★スーザン・プライス『500年のトンネル[The Sterkarm Handshake]』上下(金原瑞人・中村浩美訳,創元推理文庫:2003.6.27)

 原題は「スターカームの握手」(邦題「500年のトンネル」は、ちょっとセンスが悪すぎる)。スターカームとは、16世紀英国の辺境の民。人は右手で握手する。武器を持つ手を差し出すことで、害意のないことを示す。ところが、著者が創造したスターカームの連中はほとんどが左利き。だから、右手を差し出しながら左手で短剣を抜くことができる。そのスターカーム一族と握手(契約)をかわしたのが21世紀の私企業で、極秘裏に開発したタイムチューブを使った鉱物掘削やリゾート開発で一儲けを企んでいる。誇り高く名誉を重んじる粗暴な16世紀の民と、合理的かつ冷徹に私利私欲を追い求める21世紀の企業人。この高貴な欲望と低俗な欲望がぶつかりあう五百年の時を超えた戦闘や、通訳兼連絡係として送り込まれたアンドリアと一族の長の息子ピーアとの恋愛譚を織りまぜた「児童文学」の巨編。生き生きと叙述されたスターカームの精神が本書の最大の魅力だが、アンドリアも含めた21世紀人があまりに貧相で、物語としての興を殺ぐ。タイムトラベルの趣向も十分に活かし切れていない。
 

☆今月の棚卸し

★茂木健一郎編著『脳の謎に挑む ブレイクスルーへの胎動』(臨時別冊・数理科学SGCライブラリ24,サイエンス社:2003.5.25)
★『最新脳科学 心と意識のハード・プロブレム』(学習研究社:1997.6.5)
★『InterCommunication』NO.45「特集|知覚と運動のシナジー」(NTT出版:2003.7.1)

 雑誌を一冊丸ごと読み切って至福の時を過ごすのは、あいかわらずの見果てぬ夢。そのあげく、書架の限定されたスペースを埋める常備本がいたずらに増えてゆくばかり。
 『脳の謎に挑む』は、「脳科学の現在」「脳と心のハードプロブレム」「複雑系としての脳」「脳科学と周辺領域」の四章仕立てで17本の論文・対談を収録し、編著者いわく「このような,「総力戦」としての脳科学の姿をきちんと提示した書物は,日本はもちろん,国際的に見てもあまり見られない」。「脳の情報処理のメカニズムをよく理解するためには,脳全体をシステムとして理解する必要がある」に始まる茂木健一郎「脳科学のシステム論的転回」は「錬心術」の時代を抜け出す一つの(もしかしたら唯一の、そして不可能な)方向を示唆し、「脳と記号は,食い合わせである」に始まる養老孟司「脳と記号」は養老人間科学の発出を告げる。
 ということで、冒頭の2論文を熟読し、あとはパラパラと眺めた。ここ6年近くその背表紙を眺めてきた『最新脳科学』(チョムスキー、デネット、ペンローズ、チャルマーズといった面々のインタビューがたっぷりと収録されたお得な本)とともに、間歇的に再訪すべき基礎文献となった。
 『InterCommunication』は、小金を懐にしたとたん書籍購入欲が高じ、でもこれといって入手したい本が見当たらない時などに、ついつい特集に惹かれて買い集めてきた。私が愛読する数学エッセイスト(最近三冊目が出たばかり)で、『サイバー経済学』以来めっきり経済学者(貨幣研究者)ぶりが板についた小島寛之の連載最終回「マネー イズ メモリー」(コチャラコータの貨幣=記憶の代役説を紹介)が楽しめたし、「声の文化」が支配し「あらゆるものが同時に存在する」カトリック的中世世界の情報様式について、口誦性、触覚性、共感覚性、同時性、多元性に加え強度・豊饒性としての「冗長性 redundancy」の概念を指摘した山内志朗の「マクルーハンとカトリック」も秀逸だった。というか、ちゃんと読んだのはそれくらいで、残りはこれから少しずつ、折りにふれて読み進めていくことになる。

★『ソトコト』NO.48(2003年6月号)「特集|癒し系医療を知っていますか?」(木楽舎:2003.6.1)
★『ソトコト』NO.49(2003年7月号)「特集|夏休み、エコ体験ツアー100選!」(木楽舎:2003.7.1)
★『ソトコト』NO.50(2003年8月号)「特集|スローライフ大国、ドン・キホーテのスペイン!」(木楽舎:2003.8.1)
★増刊現代農業『21世紀は江戸時代──開府400年 まち・むら・自然の再結合』(農産漁村文化協会:2003.8.1)

 『ソトコト』(「地球と人をながもちさせるエコ・マガジン」)は、このところ俄に「スローフード」や「スローライフ」といった言葉に関心が高まってきたので、久しぶりに定期購読雑誌を一つ持ってみようと思い立ち、とりあえず3号続けて買って眺めた。編集者や執筆者のセンスにじっくりと触れて、スローな理解、腑に落ちる理解、というものを体験するため、1年くらい続けてみようかと思っている。
 6月号で「ロハス」(Lifestyles Of Health And Sustainability)という言葉を知った。(「ナチュラルメディスン」をめぐる竹村真一の文章がいい。)7月号に載っていた残反バック「KUROMUSUBI」を購入し、8月号を読んで、村治佳織のCDを買うことにした。「良いギターというのは、表面の板をたたくとわかるんですね。それだけで良い音がする。バランスが良くて立体的な響きを出してくれるんです」(村治)。同じ号で細野晴臣が、打楽器がもたらす快感を「脳と体の橋渡し」「意識と無意識の橋渡し」と表現していた。
 『現代農業』の増刊(「自給と扶助で暮らしを変える」)は、これまでから「食の地方分権」や「スローフードな日本!」といったテーマに惹かれてきた。で、一度じっくり読んでみようと思って、最新刊を入手した。農産漁村文化協会は、国書刊行会とともに、気になる出版社の一つだった。その農文協から著作集が出ている守田志郎の『日本の村』への鶴見俊輔の書評が面白い。
《長屋の思想そのものが、私には、日本文化の高い達成のように思われ、それを表現した落語は、日本の文化遺産のもっとも重大なものの一つと思える。そこにへ、明治以後の都市文化のとりおとした、あたがいのつきあいの規則がふくまれているように思われる。しかし、長屋の思想を部落の思想から見て、このように批判することができるし、部落の思想は長屋の思想よりも、この島で日本人がくらしてゆく上で、生産に直接結びつくものとして、もっと根本的である。》

★『論座』(2003年8月号)「特集南島への想像力」(朝日新聞社)
★『PLAYBOY[日本版]』(2003年9月号)「総力特集セックス・オン・ザ・エッジ」(集英社)

 もう30年以上も昔の話になるが、かつて『朝日ジャーナル』と『平凡パンチ』が大学生の必携品と言われた時代があった。
 『論座』は、「会社はこれからどうなるのか」と「40歳からの恋愛講座」の二つの特集を組んだ8月号がソールド・アウト続出だそうで、いま旬を迎えている雑誌らしい。藤原新也と鹿島茂の対談「南島はパリにつながっている」とか「加藤周一、『日本文学史序説』を語る(上) 「転換期」とは何か──空海、道元、利休、一休、世阿弥らの「時代精神」」とか、いろいろ読む。『論座』も1年くらい定期購読してみようか。
 対談では、鹿島が「南島的思考」(身体で考える)という言葉をひねりだし、藤原が「「南」は思考自体を溶かしてしまう」と応じていた。金子光晴『マレー蘭印紀行』から「珊瑚島」の文章が引用され、金子が南島で暮らして(エロ本を書きながら旅費を作って)パリへ行ったことが話題になっていたのも印象に残った。(実は、学生時代に愛読した中公文庫版『マレー蘭印紀行』をこの夏のどこかで再読しようと、たまたま手元に持っていた。)
 加藤の「転換期」で印象深かったこと。その1、十三世紀における転換(方角の変化)をめぐって。《共通点はあらゆるものに対する超越性。そういうものの強調は同時に信仰の個人化です。それが同時に来たのは日本史上、時代精神としては最初にして最後です。個人的にはほかにもありますが、鎌倉時代だけなんです。そういうかたちで信仰が成立し、超越的宗教が日本をとらえたのは。》──この超越性は、そのあと「水割り」されていった。一つに、絶対的真理との合一という神秘性と超越性が世俗化し、宗教が倫理になっていったこと。もう一つは芸術、とりわけ利休のお茶。
 その2、世阿弥の能(夢幻能)には禅の影響が強いと指摘した後で。《一人の人間の生と死をまたいだ、人間存在の内部の劇であって、二人の人間の矛盾、争いが劇を作っているのではない。人間関係は社会ですが、これは社会に超越的な劇です。その意味で、空間と時間を超えて、ギリシャ神話に非常に近いと思います。》
 その他、河合隼雄の新連載「大人の友情」で、日本語の表現の「虫が好かぬ」、「虫の知らせ」、「腹の虫がおさまらぬ」などという「虫」を「無意識」のことと思うと面白いのではないだろうか、という指摘が面白い。松岡正剛の『分母の消息(三)』に「蠱術と姫君」の章が収録されていて、中国は「虫の国」であった、道路をつき固めた中国の都市とは「虫封じ」の場所なのである、云々と書かれていた。──なお、「馬が合う」というときの「馬」については、フロイトが人間の自我と無意識の関係を、騎手と馬との関係になぞらえているとのこと。「馬が合う」とは、何らかの無意識的なものを共有しているということ。
 『PLAYBOY』では、鹿島茂と島田雅彦のアカデミック・エロス対談「フランスより、ロシアより、日本は変態先進国だ」が面白い。鹿島が「変態というのは、頭脳セックスだから、頭脳セックスの行き着く先は、ノンセックスになっちゃうわけ。対象がいらなくなっちゃう」と言い、識字率と出生率で社会の進化をはかるなら、「世の中が変態化する日本は、文明化したので変態になるのは当たり前で、出生率の低下とリンクしている。で、ますます性交から遠ざかる。そうなると、女性の露出度が増えるんです。男を誘惑しなくちゃならないから。(略)だから女性の露出度と変態度というのも、文明の進化として有効なんじゃないかな」と無責任に放言する。今後のセックスについて。島田「24人ものキャラが自分にあったら、同じ相手でも24通り楽しめるかな」。鹿島「これからのセックスは演劇化されることが必要」。

★『recoreco』vol.5「編集部おすすめ!「桜を見ながら読みたい本」136冊」(メタローグ:2003.3.1)
★『recoreco』vol.6「精選!新緑の中で読みたい本136冊」(メタローグ:2003.5.1)
★『recoreco』vol.7「涼選!入道雲の下で読みたい本136冊」(メタローグ:2003.7.1)

 400字詰め原稿用紙で1枚程度の短い文章で一人7冊から10冊、17人の書評家が思い思いに採点付きで書物を紹介するブックガイドを中心に、いくつかの連載(茂木健一郎の「脳から世界を考える」や「島田雅彦の過剰対談」など)や特集記事がその前後を埋める。ブックガイドが「様式化」しすぎていて、続けて読むのはちょっとしんどい。
 

☆不連続なシネマ日記

★黒沢清『アカルイミライ』(2002)

 この映画で「クラゲ」が象徴するものは何だろう。──守(浅野忠信)が徐々に真水に馴染ませ、雄二(オダギリジョー)に飼育を託した猛毒をもつアカクラゲ。守は、クラゲの毒のせいで勤めていたおしぼり工場をクビになり、雄二の先を越して社長一家を斬殺し、「行け」のサインを出したまま独房で自殺する。その後、守の父(藤竜也)が一人で営むリサイクル工場で働くことになった雄二は、毎日、逃げ出したクラゲの餌(ブライン・シュリンプ)を川に投げ、「守さんのクラゲ」を繁殖させようとする。夢で未来を知る雄二。現実を見ろと諭す父。二人を見つめる守の幽霊。海へ還るクラゲの大群。(欲望を突き抜けた欲動の世界へ?)