不連続な読書日記(2003.6)




☆2003.6

★斎藤慶典『デカルト 「われ思う」のは誰か』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.5.25)

 序章でいきなり、本書はデカルトと私(齋藤)が交わした対話の記録だ、対話とは「死んだあなた」と「死んだ私」の間に交わされるもので、「死んだもの」が再び、いやはじめて姿を現わすこと(主題の復活)でもって対話の空間は開かれるのだ、と書いてある。これはデカルトが書き残した書物を読むこと、いや書かれたものを読むこと一般の比喩のように見えるが、そうではない。実はそれこそが、方法的懐疑の極点に立ったデカルトがほんとうに考えていたこと、「私」と「神」が一つに収斂していく次元を証しする言葉なのである。
 まず、「絶対に疑いえないもの」としてデカルトが見いだした「私」について(第一章)。デカルトの「思考する私」とは、それを通して、そこにおいて、ものが見える「媒体」として機能するもの、すなわち「「見えること」そのことであるような何か、それ自身が「思考すること」そのことであるような事態」を言うものであった。しかし、方法的懐疑の極限においては、そのような「思考=私」そのものもまた欺かれている可能性がある。だがそれがどういう事態なのかは、もはや「私=思考」には理解できない。そうした思考不可能なものに直面した「私」、つまり思考の限界に立ち尽くす「思考」が紡ぐ言葉は祈りの言葉に似ている、と斎藤氏は言う。
 次に、「思われたもの」(観念)の起源、つまり「思うこと」の外部の可能性について(第二章)。斎藤氏は、デカルトが与えた三つの神の存在証明のうち、神の無限性に基づくもの──「私」という有限性の内に「無限」なる神の観念が与えられているとすれば、そのような無限は有限な「私」のどこを探しても見当たらない以上、「私」の外にその「起源」を有することは明らかであり、したがって「無限」なるもの(「神」)が「私」の外に存在する──に着目して、次のように書いている。
《ここでデカルトは、観念から外部を推論しているのではない。そうではなく、「思うこと」が一個の全体として存立していることを見て取ることそのことが、「無限」が痕跡としてその「思うこと」に「触れて」いることなのだ。「思うこと」の端的な存立(これが第一章で明らかにした「われ思う」の「われ」すなわち「私」の内実だった)と、そこに「無限」が「触れて」いることとは、コインの両面のように切り離しえないのであり、両者は同じひとつのことなのである。》
 こうして「私」と「神」は一つの主題となった。斎藤氏によれば、それは「よき生」をめざす徹底したエゴイスト(私)のみが世界の外部という絶対的な他者(神)に直面する次元を開いていくことと重なっている。そこにおいて「思うこと」は、死んだもの=ありえないもの=存在ですらないものへ向けて祈りの言葉を差し出すこと(死者との対話)、つまり「愛すること」と同義であると斎藤氏は結論づけるのだが、この「エゴイストの愛」をめぐるデカルト=齋藤の思考が十全に展開されることはない。
 ──本書では示唆されるにとどまった主題について、たとえば永井均著『倫理とは何か』で展開される「エゴイストの愛」をめぐる議論と接続させてみると面白い。永井氏はそこで、デカルトに由来する「私」の二つの存在様態(独我論者とエゴイスト)に即した「語り方」の構造上の同型性(独我論やエゴイズムが真理であるとしても、だれもが独我論者やエゴイストであるべきだと主張することはできない)は世界の存在構造に基づくものであるとした上で、語りえぬこと(思考の限界)については黙ってやるしかないと、猫のアインジヒトに言わせている(ここには「神」も「祈り」も出てこない)。
 蛇足を加えると、檜垣立哉氏は『ドゥルーズ』で、「生命系」のドゥルーズと「情報系」のデリダを「ヨーロッパ的な思考の二つの究極的なモデル」と評している。論証抜きで覚書だけ残しておくと、デカルトの「私」は「生命系」に、「神」は「情報系」につながっているように思う。これに養老孟司「人間科学」の基本テーゼ(生命=変化、情報=同一)を組み合わせたり、郡司ペギオ‐幸夫「生命理論」の存在論=方法論(たとえば「個物・個物的作動領域・潜在する世界」の三項関係)を導入するのも興味深いと思うが、これはまた別の機会に。

★茂木健一郎・田谷文彦『脳とコンピュータはどう違うか 究極のコンピュータは意識をもつか』(ブルーバックス,講談社:2003.5.20)

 コンピュータ・サイエンスの歴史と基本的なアイデア、意識の謎をめぐる脳科学の基礎知識と現在の混迷がコンパクトにまとめられた入門書。ミニ・エッセイを随所に挿入するなどの工夫が施されているし、文章も手抜きがない。水準を落とさず、しかも軽い読み物としてまとめあげるにはかなりの力量が必要だったろう。
 でも、読み終えて不満が残るのは、身体性や環境との相互作用の問題などはスペースの関係で議論できなかったと「あとがき」に書くくらいだったら、最初からそういうテーマも組み入れた編集方針を建てればいいじゃないかと、といったこと以上に、意識の問題を問題として取り上げる視点、というか自然観に対する徹底的な反省が欠けていることにあるのではないかと思う。
 私が見るところ、それは第一に「物質」とはそもそも何か、第二に「主観的視点」と「客観的視点」という分岐は自然においていかなる事態なのか、最後に「あるものがあるものであること」と「新しいものが生み出されること」とはどのような関係にあるのか、といった問題にかかわることで、実はこれらの問題については本書でちゃんと触れられている。
 しかし、私が問題にしたいのはむしろそのこと(著者がこれらの問題の所在に気づいていること)で、たとえば、科学者が知識として持っているのは「実はこれらの物質の振る舞いを説明するために私たちの脳が作り出した概念だけであって、記述の対象となっている物質自体がいったいナニモノであるか、私たちには想像することもできないのである」とか、「ニューロン活動は脳の外の観察者の視点からは「安定」しているが、脳内のニューロンの関係性から見れば「変動」していることになるのかもしれない」とか、それ自体はきわめて正しく鋭い指摘なのだが、たぶん哲学者か誰かの問題感覚がその問題が語られる文脈抜きでそのまま密輸入されていて、だから著者がおそらく自覚せずに抱いている自然観、というか問題を問題として設定する枠組みのようなものは、まったく無傷なままなのだ。
 どこがどうだからそういう評価になるのだ、と問われても、これこれしかじかだからこうだと明示して言えない。全体の印象といったきわめて無責任な物言いでしかない。だけど、このあたりのことで苦しみ抜いた跡は文章を読むかぎりうかがえないし、だから啓蒙書・入門書にふさわしく、蒙が啓かれ、それまで考えてみることさえできなかった問題圏に入門したという実感がない。
 ──感覚的クオリアは知覚に(したがって「物」と「物自体」に)、志向的クオリアは想起に(したがって「過去」と「過去自体」に)関連づけることができるとすれば、そして、中島義道氏が言うように、知覚ではなく想起こそが「心身問題」のモデルであって、それを知覚の場面で論じるから誰も答えられないことになる──「心身問題の原型は想起、すなわち「刻印」というブラック・ボックスにおける現在と過去との関係なのですが、知覚をモデルにしたとたんに心身問題を引き起こす張本人である「時間」は消去されてしまい、大脳の〈ウチ〉に想起の「場所」を求めるというあたかも空間論のようなかたちをとってしまうのです」(『時間を哲学する』)──のだとすれば、先の三つの問題は一挙に異なった文脈に移行する。たとえばこのような議論との接続を試みることで、ブレイクスルーへの手掛かりが得られるのではないかと思うのだが、これもまた別の機会に。

★永井均『倫理とは何か──猫のアインジヒトの挑戦』(哲学教科書シリーズ,産業図書:2003.1.31)

 『〈子ども〉のための哲学』は、第一の問いが「ぼくはなぜ存在するのか」で、第二の問いが「なぜ悪いことをしてはいけないのか」だった。第一の問いについては、『翔太と猫のインサイトの夏休み』で、猫のインサイトが縦横に論じていた。第二の問いに答えるために、永井均さんは新しい「哲学猫」、アインジヒトをうみだした。(第二の問いをめぐっては、すでに小泉義之さんとの共著『なぜ人を殺してはいけないのか?』がある。そこで永井さんは、アインジヒトを彷彿とさせる議論を展開していた。)
 いま「問いに答えるために」と書いたけれど、アインジヒトが本書で示す最終的な回答──《悪事は黙ってただせざるをえない──これが「なぜ悪いことをしてはいけないか?」という問いに対する本当の答えだ。つまり「答えとして語るべき言葉が原理的にありえない」という答えだ。原理的になくなったとき悪になるんだよ。「悪 vs 善」の論争がない理由も同じだ。悪を悪の方向で正当化する言説などあるわけがないんだ。なぜなら、言葉とは、本質的に、他者──つまり他人か異時点の自分──と語り合うためのものなのだから。そして、それが道徳的善の意味なのだから。》──は、ただそれだけを黙って拝聴しても、答えを得たことにはならない。
 かといって、アインジヒトが、M先生(実はアインジヒトの、そして永井均の分身)の講義を聴講する新入生の裕樹君や千絵さんを相手に繰り出す語録──たとえば、われわれはすでに「社会契約」後の存在で、だから「契約前と契約後を対等に見通すような観点に立つことはできないのかもしれない」とか、「本当の利己主義者が他人にも本物の利己主義になって欲しいと思って、そう呼びかけたくなるのは、その人のためを思うからなんだよ」(エゴイストの愛)とか、「俺であるという性質が普遍化可能であるということこそが倫理の基本だと思うね」とか、「道徳が、徹頭徹尾、権力現象であることを忘れてはいけない」とか、「つまり俺は、社会とその中での個人といった観念に基礎をおいて発想すること自体を拒否するのさ」──に、いちいち唸ったり、蒙を啓かれたりしても、本書をよく読んだことにはならない。
 永井さんは「はじめに」でこう書いている。「この本が対象としている読者は、いかに生きるべきかという問いを考えているが、それを道徳的な問いに解消したくないと思っている人である。」「私は、私の人生において直接感じた問いしか問うことができない。まさにそれこそが私の理解するところの哲学ということの意味なのである。」──だから、この本をよく読むということは、「いかに生きるべきか」という問い(『〈子ども〉のための哲学』での分類によると、それは「青年の哲学の根本課題」だった)を生きることそのものだし、その答えを得るということは、よく生きることそのものなのだ。
 ──ところで、本書のなかでただ一度、千絵さんが関西弁になる(198頁)のはどうしてだろう。

★中沢新一『神の発明 カイエ・ソバージュW』(講談社選書メチエ271:2003.6.10)

 講義録「カイエ・ソバージュ」シリーズ──旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破することをめざした野放図な思考の散策──全五冊のハイライトとも言える本書で、中沢新一は「神のマテリアリズム(唯物論)」を試みた。
 それは「神(ゴッド)の観念」の出現を、マルクス・エンゲルスの顰みに倣って「自然史の過程として」探求しようとするもので、中沢氏が議論の出発点に据えた「マテリアル」とは脳、それも認知考古学が想定する現生人類の脳──スイス・アーミー・ナイフのようなネアンデルタール人の「特化型」の脳ではなく、認知的流動性をもった「一般型」へと進化した現生人類の脳(スティーヴン・ミズン『心の先史時代』)──である。
 ホモサピエンス・サピエンスの脳=心の内部の出来事としての超越、つまり「内在的超越」(スピノザ)という現生人類の心の基本構造をもとに、「超越性」の発生、つまり人間の心が神を発明する物質的=精神的プロセスを明らかにすること。具体的には、日本古語の「モノ」が含意する「タマ」や「カミ」、つまり精神的なものと物質的なものとの界面で立ち上がる「半‐物質」的な「スピリット」を「心の胎児・心の原素材」として、そのトポロジー変形を通じて「多神教宇宙」が、ついで「唯一神」が出現するプロセスを解明すること。
 中沢氏一流のほとんど名人芸の域に達した軽やかでのびやかな語りが堪能できる本書は、唯一神の誕生という「スリリングな話題」に関する部分が「抑圧」の一語で片づけられていて、やや説明不足の感を拭えない点を除き、知的刺激と興奮に満ちた、新しい学──観念論と唯物論、心の科学と物質の科学がひとつにつながるレベルを示す「二十一世紀の思考」、あるいは一神教の成立、科学革命に続く第三次の「形而上学革命」をもたらすもの──の可能性を予感させる学術エンターテインメントである。
 とりわけ興味深いのは、キリスト教の三位一体の教義のうちに「情報」(父と子の同質性)と「生命力」(聖霊の増殖する力)という二つの機構を抽出し、それらを「生命」と「経済」と「神」の三位一体的関係をめぐる議論へと敷衍した上で、生命力=増殖力としてのスピリット(精霊・聖霊)の未来を透視する終章だ。(それは、「カイエ・ソバージュ」シリーズ最終巻のテーマを予言するものなのだろうか。)
 ──ところで、本書の全編にわたって繰り広げられる人文知と科学知との比喩的重ね合わせ、たとえば、スピリット世界から多神教宇宙への精神力学的過程を物理学の「対称性の自発的破れ」の概念でもって説明したり、多神教的な神々の宇宙の基本構造「高神‐来訪神」を、ラカンの心のトポロジー論を援用して「トーラス型‐メビウス縫合型」と表現しているところなどは、それがほとんど本書の魅力と可能性の中心であるだけに、アラン・ソーカル(『「知」の欺瞞』)流の批判への無防備さが気になる。
 しかし、よくよく考えてみると、本書の全編、というより「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体が、まさにソーカル流の一見妥当な外観をもった批判に対する、よりスケールの大きな回答になっている。

★石川忠司『孔子の哲学 「仁」とは何か』(シリーズ・道徳の系譜,河出書房新社:2003.6.30)

《例えば「弟子[ていし]、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹しみて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ……」(学而6)を、「若者よ、君たちは、家の中では親孝行し、社会に出ては従順にふるまい、身を慎んで誠実であれ、人間をひろく愛して仁に親しみなさい」みたいにパラフレーズしてみると、漢文ヴァージョンを読んだときに生じた魂の高揚がほとんど消え、高揚どころか逆に不快なむかつきすら覚えるのはどうしてか。》
 どうしてか、と訊かれても困るが、この感覚はとてもよくわかる。著者は続けて、白川静の『孔子伝』から「孔子のことばにはイデアがある」「そのイデアは、日常の問答の間にも、美しい旋律をなして流れる」を引き合いに出した上で、「結局、『論語』の中の孔子の言葉とは、彼自身の精神の活動力と緊張とがそのままイデア=ロゴスのかたちをとって奇跡的に現れたものにほかならない」と結んでいる。
 著者は、『論語』は「孔門のブルース」だと言う。ハーバート・フィンガレットが『孔子──聖としての世俗者』で、「仁」とは「個人が『仁』を行おうと決心すること」であって、それは愛や真心といった人間の内面の奥深くに秘められ隠された過程などではなく、逆に堂々と天下万民の前に曝け出された外的かつ公共的な「実体」にほかならないとして、何かの楽曲を演奏しているときのパフォーマーを例にあげたことを受けて、著者はこう書いている。
《この場合、ぼくたちはただ外的=物理的な音響(音声)に耳を傾けているだけで、彼が演奏に込めたさまざまにブルーな感情、すなわちディープなブルース的「決心」をきちんと知覚することができる。たとえ音を外したとしても、やはりただ聴いているだけで、彼がどの音を目指していたのか、どんなブルーな塊をガッと吐き出すつもりだったのかをはっきりと理解できる。いずれにせよ、何もギタリストの頭をカチ割って、わざわざ演奏中の内面的な意図だの伝記パルスだの脳内のニューロンの活動だのを調べなくってもいい。》
 このような外的な「現われ」のうちに捉えられた「仁」を出発点として、著者は、アレンカ・ジュパンチッチの『リアルの倫理──カントとラカン』に準拠しながら、主体の三つの概念(自発的に行動したつもりでその実決定論に翻弄されている一般的な主体、世界の因果法則を受け入れそれを法則たらしめつつそのシステムを背後から密かに補填している無意識の「主体」、そもそも無意識の「主体」を選択したところの第三のレベルの自由な〈主体〉)を腑分けした上で、生きていること自体が「仁」であると喝破する。
《「仁」=道徳とは、同じことだが真の〈主体性〉とは、何であれ外的世界がぼくたちにもたらすさまざまな現象的帰結の果実をすべて味わい尽くす「どん欲さ」、もしくは「打たれ強さ」を指すとここで言い切ってしまっていい。》
 この言い切りが「素人仕事」(あとがき)の真骨頂で、以下、著者は、ベンヤミンやドストエフスキーを持ち出して、「仁」にかなった(高貴な)殺人と「不仁」の(下賤な)殺人の区別を論じ、孔子の「仁」は人間を尊重するがこの人間は生命とイコールではない、と論証する。《要するに、孔子もベンヤミンも、〈人間〉をたんなる「(人間の)生命」を超えた遙か高みにあるものと考えている。》
 さらに、等しく外面的な「礼」との関係をフロイトの超自我と欲望のそれに譬えて、生命力に溢れた「仁」の放埒な性格にプレッシャーをかけ、その荒々しいエネルギーを奪い「聖」の方向へと矯正を行う一種の監視者・教育者として「礼」を捉え、最後に、孔子の現代性に説き及ぶ。──まことに奔放にして、自在な筆致だ。ここには、思想の即興演奏の醍醐味がある。

★檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2002.10.25)

 ドゥルーズの哲学は「根拠なき生成の論理」を探る「生の唯物論」である。
 ドゥルーズは世界を「卵(ラン)」=「潜在的な多様体」と捉えた。否定性に対して多様性、可能性に対して潜在性を代置し、世界のリアルさ、すなわち「新たなものが現れつづけることにさらされる、剥きだしのなまのもの」を「俯瞰」的に記述しようとした。それは「潜在性の存在論」である。
 また、ドゥルーズは、潜在性から現実化へと向かう生成の過程のなかで、出来事を現実化に導く、分化の途上にあるものとしての個体を重視した。個体は、現実化された諸区分(同一性)に収まらない、ひとつひとつが特異な存在である。ドゥルーズの哲学は個体の存在論であり「個体のシステム論」である。
《そして本当のことをいえば、われわれが生きる対象、われわれ自身、時間のなかでありつづける存在は、すべて特異な仕方でシステムを表現する個体にほかならないのではないか。個体こそが、この世界の姿そのものではないか。》
 個体をめぐるドゥルーズの議論には、倫理についてのメッセージがはらまれている。ドゥルーズのポジティブな生成のシステム論において、個体とは「潜在的な多様体が、それを通じてしか表現されえない特異なもの」であった。それは〈私〉に依拠しないし、他者や死といった「否定的であることにより力を与えられる対象」が倫理の根拠におかれることもありえない。
《〈私〉ではない個体の倫理とは、人間の倫理というよりは、むしろ人間もそこに根づいている〈生成の倫理〉を目指すだろう。それは、人間の観点からなされる倫理のヴィジョンをひっくり返し、生命の唯物性や、その過酷さにすらしたがった言葉を導くことになるだろう。「人間」のパラダイム以降を描く倫理とは、こうした方向からしか生じないだろう。》
 「人間」のパラダイム以降を描く倫理。──「生命や情報が緊急の主題になり、生態系がクローズアップされ、国家を逸脱したグローバリティが問われる」時代、つまり「ミクロな領域からマクロな領域まで、脳や遺伝子や免疫という生命の領域から、広域のひとの経済社会的活動に到るまで、包括的なシステムとしての視界が要請される」時代における倫理を考えること。
 それは「単独でもあり群生でもあり、単性的でも有性的でもあり、植物でもあり動物でもあり、自己でも他者でもあり、さまざまなポテンシャルを含みつつあるハイブリッドな(異質なものが内的に入り込んでいる)もの」、たとえばタマホコリカビの個体に即して、「生命のハイブリッドな転変にそのまま応じる動的な視線をもちながら、倫理性について考えること」である。
 ──ドゥルーズの思考を俯瞰しつついくつかの襞にわけいって、その「衝撃力」を読者に実験させること。この小冊子を読み捨てて、ドゥルーズそのものへと向かうとき、解けない問いであるこの世界のうちに新しいものが産出される。
 豊かな可能性、いや潜在性をはらんだ書物だ。生命系=ポジティヴィズム=ライプニッツ=ドゥルーズと情報系=ネガティヴィズム=ヘーゲル=デリダという「ヨーロッパ的な思考の二つの究極的なモデル」の提示は、示唆に富む。

★郡司ペギオ‐幸夫『私の意識とは何か 生命理論U』(叢書=生命の哲学4,哲学書房:2003.1.10)

 前著『生成する生命 生命理論T』で著者と対談していた檜垣立哉氏の『ドゥルーズ』に目を通してから本書を読むと、まるで嘘のように見通しがよくなる(錯覚かもしれないけれど)。
 たとえば著者は、「個物」とは「ことば」であり「クオリア」(主観的質感)であり「トークン」であると言う。ここで「トークン」(対象・痕跡・事例・外延・図)は「タイプ」(型・性格・内包・地、またクオリア=トークンに対する内観)と対になる概念であって、本書では、普遍的特性に対する個物化過程といったニュアンスでその叙述の基調をなしているのだが、それはともかく、個物の生成=存在をめぐって、個物(トークン)と個物の作動領域(タイプ)の共立がはらむ潜在性に焦点をあて、死を潜在させた個物の存在様態を論じる著者の方法論=存在論は、まさしくドゥルーズの「個物の哲学」や「潜在性の存在論」とぴったりと重なりあっている。
 まあ、そんなことは私が指摘しなくても、著者自身がもっと正確に書いているのだから、言わずもがなだ。著者は、哲学は世界や現象を記述し分析する装置ではなく、「むしろ世界を立ち上げ、世界と共に生きる装置である」と言う。その世界は生命に満ちている。生命は生と死、つまり平板な論理の上で表現するとXとXの否定の共在というパラドクスのうちにある。しかし生命は、Xの否定をXの潜在性として構成するしなやかさをもっている。私はいずれ死ぬだろう。だが、「私はわたしで生きている。ふざけんじゃない」。
 また、世界は意識とともにあるが、「意識は、脳という計算機の機能なのではない」。「わたし」は遍在している。それは決して統合されることなく、その都度選択されるだけだ。《ゆえに一人の意識とは、その一個人に限定的に由来する固有のものではない。意識もまた、遍在するわたしが「わたし」を認識するのであって、統一した全体=一者としてのわたしは実在しない。》《超越論的主体の、或る局在、或る生成が、わたしである。したがってむしろ、問題は統合ではなく、局在化である。そして局在化は、常に或る局在化としての計算に潜在する形で発見=構成される。》
 このいかにも哲学者然とした物言いの背後、というより本書ではむしろ前景化されているのだが、そこで議論されている事柄を要約することなど私にはできない。ただ、前代未聞の途方もない試みがひっそりと進行しているのではないかという、戦慄めいた思いだけが残る。郡司ペギオ‐幸夫の議論を、まるで絵本を読むようにしてたどることができる人間の割合が一定の値を超えたとき、きっと何かが「俯瞰」される。
 ──ところで、本書の通奏低音、隠し味ともいうべき『天使の記号論』(本書第?章の注にその名が出てくる)で、山内志朗氏が、ドゥンス・スコトゥスの個体化の原理について「スコトゥスは、個体化とは濃度・「赤さ」のようなものだと考える」と書いているのは、本書の議論との関係で実に興味深い。
 これは余談だが、『天使の記号論』に揃い踏みでその名が出てくるドゥルーズ、パース、ベンヤミンは、本書でつねにそれらの接合面が問題とされる三つの分野、すなわち哲学(思惟)・科学(認識)・芸術(感覚)に対応している。ついでに書いておくと、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』で、ヨーロッパ近代のはじまりを告げる出来事がスコトゥスの「あらゆる存在体は特異な本質を有する」という言葉に託して描かれている。《その出来事とは、この世界にみなぎる力を肯定すること、言いかえれば、内在性の平面を発見することであった。》

★かわぐちかいじ『バッテリー』1〜4(ヤングサンデーコミックス,小学館:2001.9.5?2002.9.5)
★かわぐちかいじ『ジパング』10・11(モーニングKC,講談社:2003.3.20,2003.5.23)
★かわぐちかいじ『太陽の黙示録』1・2(ビッグコミックス,小学館:2003.7.1)

 謎めいてクールな天才ピッチャー・海部一樹と熱血剛毅のキャッチャー・武藤洋介の『バッテリー』コンビは、あの『沈黙の艦隊』の例の二人の別ヴァージョン。かわぐちかいじは、この作品の着地点を誤ったか、途中で方向を変えたか、どっちにしても早々と見切ってしまったとしか思えない。見切られたのは何かというと、野球ではどだい表現できないもの、つまり海部という人物の魅力を充分に表現できる文脈のことで、それはたぶん「歴史」なのだと思う。
 『ジパング』では、草加拓海 vs.角松洋介のうち前者の言動がいよいよ物語の基軸になってきた。ヒトラー暗殺に失敗した草加の第二の戦略(最終核兵器の早期開発)の帰趨と、可能世界における戦後日本構想の全貌公開が待たれる。(この手の長編マンガはやっぱり一気読みに限る。断片的に読むのでは興奮が殺がれてしまう。そういえば『ガラスの仮面』はいまどうなっているのだろう。)
 『太陽の黙示録』は、後に日本大震災と呼ばれることになる京浜大地震、富士噴火、東海・東南海・南海大地震の併発の地獄絵(死者二千五百万人、不明者三千万人、列島分断、米中による南北分断統治)が描かれた第1巻から15年後(2017年)、主人公・柳舷一郎が台湾避難民キャンプ8万人の将来を一身に担い「日本再生」への第一歩を踏み出す第2巻で、物語の骨格が決まった。「棄国者」を親に持つ台湾警察の羽(ユイ)という魅力的な人物も登場して、一気に佳境に向かう。長い叙事詩の始まり。

★神崎京介『女薫の旅 感涙はてる』(講談社文庫:2003.5.15)
★睦月影郎『おんな秘帖』(祥伝社文庫:2003.6.20)

 女薫の旅シリーズ第八作。「女性の“オアシス男”」「癒し系・大地に異常事態」と、帯に書いてある。何が「異常事態」なのかと言うと、「大地が初めて、自分の意思によって性欲を抑え込」むのだ。それから、抱き合い、躰を重ねるだけで、交互に極まってしまうのだ。とうとうシリーズは、官能小説の最終局面、つまり禁欲に、というより、心だけで「いって」しまう、"前代未聞"の世界に突入した。──睦月本は、書き下ろし長編時代官能小説。冒頭の玄庵と栄之助の会話(「写生は好きか」「はい、両方」)と、「主人公は、もちろん私の分身である」というあとがきの言葉が、まあすべてを語っている。くノ一の楓がいい。

★小松左京『虚無回廊』?・?(ハルキ文庫:2000.5.18/1987)
★小松左京『虚無回廊』?(角川春樹事務所:20000.7.8)

 「さっき、“私”が死んだ」という言葉に始まるプロローグで、本編の主人公、「私」と名乗るAE(Artificial Existence:人口実存)が登場し、これに続く異様に長い序章「死を越える旅」で、「私」の誕生譚、つまり父・遠藤とアンジェラの恋の顛末と、SS(スーパー・シップまたはスーパー・ストラクチャー)と名付けられた長さ2光年、直径1.2光年の円筒形の「人工天体」をめぐる探査プロジェクトの全貌が語られる。ここでとりわけ興味深いのは、天才ミシェル・ジェランが考案した音楽的概念に基づく遺伝子言語学(一般自然言語理論)や宇宙の構造・現象自体の音楽的な意味の解明(一般宇宙言語理論)をめぐるアイデアだ(?,137?146頁)。──《ジェランは──宇宙における普遍的な言葉の存在が“見えた”天才だったんだ……(中略)ニュートンやアインシュタインが、宇宙における普遍的な力の法則の存在が見えたように……。オイラーやカントルやゲーデルが、幾何学図形や集合や論理の“制約”が、実在として見えたように……》(?,179頁)
 本編(第一章「遭遇」、第二章「都市」、第三章「荒野」、第四章「森林」)では、「私」とその6人のVP(ヴァーチュアル・パースナリティ)たちが異星知性体──たとえば一億年以上存在しつづけている「老人」や、生態系そのものが知的生命であるような「環境生物」──と次々に邂逅し、SSの謎をめぐる「ジャム・セッション」(山下洋輔)に加わる。そこで示唆される壮大な仮説(セミ・フィクション)。──《「無」を媒介項として「虚宇宙」と「実宇宙」をつなぎ、しかもそのつなぐルートは「回」[円環型のトーラス]でも「廊」[直線型]でも、どちらでも「位相的に等価」であるような存在、「虚無回廊!」/これこそ、SSの本質であり、「虚宇宙」と「実宇宙」を、同じ「宇宙の実体」としてふくむ「複素宇宙」は、いま新しいメディアを得たのだ!》(?,168-169頁)
 物語はいまだ未完結のまま放置されている。生命とは何か、知性とは何か、意識・意志とは何か、そもそも宇宙の存在に「意味」はあるか。小松左京という知性体に宿った、新しい「宇宙史」の全貌ははたして明かされるのか。

★沢井鯨『P.I.P プリズナー・イン・プノンペン』(小学館文庫:2003.6.1/2000)

 ベトナム人の少女娼婦・タオに惹かれてカンボジアを再訪した日本の元中学校教師が、韓国人の友人が経営する孤児院の運営資金を騙し取ったネパール人を捕まえようとして、逆に誘拐罪で逮捕される。証人の友人も殺され、過酷で不条理なプリズナー生活が始まる。構成上の趣向も文章の錬成もなく、ただ作者の実体験が綴られるだけの手記を読んでいるような味気なさ。ここまでの評価はC。──死の淵にたたずむ絶望的な獄中生活は、主人公の心と頭を鍛え上げていく。獄内を仕切るボスとの肉弾戦を経た友好関係や、卑劣極まるカンボジア人の裏切り。囚人たちから聞かされるこの国の現実、毛沢東とポルポトの出会いに始まる酸鼻の歴史。教養小説と情報小説が合体したような叙述。この時点での評価はB。──ついに「決行の時」を迎える。「ここは、悪魔の住む恐ろしい国だ。正義など存在しない。」監獄の最高責任者・ビッグボスと金で話をつけて、まず裏切り者のカンボジア人の眼球を抉りだす。韓国大使館をまきこんだ頭脳戦を経て、かのネパール人への復讐を果たす。亡き友人の遺志を継いで孤児院を再開し、タオをスタッフに迎える。苦くて甘いノワールの味わいを湛えた最終章を読み終えて、最終的な評価はA。馳星周の解説も秀逸。

★大崎善生『将棋の子』(講談社文庫:2003.5.15)

 将棋の子(天才少年)たちが、プロ棋士をめざして苛烈に戦う奨励会。棋士たちの既得権を守る理不尽なルール(年齢制限や三段リーグ)。競争に敗れ退会し、一般社会に出た者にとって、奨励会の修業は限りなく無に近い。「そして、悩み、戸惑い、何度も何度も価値観の転換を迫られ、諦め、挫折し、また立ち上がっていく。」──将棋世界編集部時代の著者と、羽生善治を中心とする天才少年軍団によって駆逐された将棋の子の一人、札幌出身の成田英二との11年後の再会を軸に、退会者たちのその後の人生の軌跡をたどる著者の眼差しは、優しい。でもその優しさが、非情な世界を描く筆致とのあいだで齟齬をきたし、抒情に流れ感傷に走りそうになるや話題をいったん切り替える構成の不自然とあいまって、ノンフィクションに混在した著者の私情を浮き彫りにする。「将棋に利ばかりを求め、自分が将棋に施された優しさに気づこうともしない棋士と比べて、ここにいる成田は何と幸せなのだろうと私は思う。」成田の無惨なまでの未成熟を前にして、この言葉は空疎に響く。「将棋は厳しくはない。本当は優しいものなのである。」奨励会制度への批判を封じこめたこの評言に、説得力はない。

★角田光代 『菊葉荘の幽霊たち』(ハルキ文庫:2003.5.18/2000)

 高校時代の同級生で「はじめて一緒に眠ったあかの他人」の吉本が、木造アパート・菊葉荘にぞっこん惚れ込む。住人を追い出し吉本を引っ越しさせるため、ニセ学生になりすました「わたし」は5号室に住む二流私大生の蓼科に近づく。胡散臭くていかがわしい住人たち。祭壇とともに暮らす1号室のP、姿の見えない2号室の住人、「ふじこちゃん」に恋する3号室の小松、女の出入りがたえない4号室の中年男、フリルまみれの服を着た6号室の四十女。吉本と「わたし」の関係だって奇妙だし、蓼科をとりまく学生たちもどこかズレている。そもそも「わたし」の言動にしてからが歪であやしげ。最後には吉本が失踪して、「わたし」はどこかこの世とは思えない空間に放り出される。「だれがいて、だれがいないのかまったくわからない。…区分けされた小さな空間で、それぞれの奇妙な生活をくりかえしているのかもしれない。わたしたちが自分の部屋に追い出されて、こうして影みたいにうろついているように。」──セックスを性交と即物的に表現する「わたし」の希薄なリアリティ感覚が、しだいに日常生活に潜むプチ・ホラーをあぶりだしていく。不思議な味わいのある作品だが、やや散漫で凝集に欠ける。

★重松清『カカシの夏休み』(文春文庫:2003.5.10/2000)

 重松清の作品は、センチメンタルで甘い。事故死した同級生の葬儀で22年ぶりに再会した中学の同級生四人が、補償金とともにダムの底に沈んだ少年時代への思いにつき動かされ、干上がったふるさとを確認する旅へ出かける表題作で、小学校教師の小谷は、リストラで系列会社に放出された同年齢の父親の暴力に心を壊されかけた教え子を自宅に引き取る。「教師がセンチメンタルで甘くなかったら子どもたちが困るじゃないか」。小谷は、いま・ここから逃げ出して、過去というパンドラの匣のうちに希望(和解)を見出したいわけではない。甘ったるい感傷にかられて、あの時・あの場所に「帰りたい」と思っているわけではない。「僕たちがほんとうに帰っていく先は、この街の、この暮らしだ」。過去へのノスタルジーの禁止と、死という偶然の受容。「もう、駄目だ……疲れちゃったよ」(「ライオン先生」)とつぶやく現実の苦さのうちでこそ、「幸せって、なんですか?」(「カカシの夏休み」)の問いや「誰かのために泣いてあげられる人」(「未来」)になりたいという思いが意味をもつ。この断念と認識と覚悟に支えられているから、重松清のセンチメンタルで甘い作品は、感動をよぶ。小説を読んで感動するという、とうにノスタルジーにくるまれた経験が再来する。

★東野圭吾『おれは非情勤』(集英社文庫:2003.5.25)

 ジュブナイル・ハードボイルドの佳品。でも、そんなジャンル、聞いたことがない。小学校の非常勤講師の「おれ」が、一文字小学校から二階堂小学校、三つ葉小学校、四季小学校、五輪小学校、六角小学校まで、六つの学校を渡り歩いて、殺人事件や盗難事件、飛び降り自殺や同未遂、脅迫付きの自殺予告、砒素入りペットボトル事件の謎を、クールな直感でもっていとも軽やかに解き明かす。犯罪をとりまく状況や背景はけっこう重たいけれど、トリックそのものは漢字や計算式や略語を使っての言葉遊び。このあたりがジュブナイルたるゆえん。で、最後に、子どもたち相手に、時に世間体にこだわる校長や教頭に向かって、訓辞をたれる。「なあみんあ、人間ってのは弱いものなんだよ。で、教師だって人間なんだ。おれだって弱い。おまえらだって弱い。弱い者同士、助けあって生きていかなきゃ、誰も幸せになんてなれないんだ。」こんな台詞を吐くのは、やっぱりハードボイルド教師だけだろう。──小学五年の劣等生、小林竜太が鮮やかな推理力を発揮する短編二つがオマケについていて、デザートとして最適。

★奥泉光『ノヴァーリスの引用』(集英社文庫:2003.5.25/1993)

 ハンディな新刊文庫の感触は、十年前の単行本がすっかり古びて黴臭く、近寄りがたい古典的風格さえ漂わせていたのとはずいぶん印象が違っていて、それは文庫版の『死霊』(埴谷雄高)がどこかしら冗談小説めいた趣を醸しだしていたのに似たところがある。解説の島田雅彦さんも指摘しているように、この作品は、友人・石塚の十年前の死の謎をめぐって四人の衒学的な男たちが安楽椅子探偵よろしく推論する、探偵小説(知性の物語)と幻想小説(想像力の物語)と恐怖小説(肉体の物語)の三態構成でできている。この斬新でいて古めかしい構成をもったメタ・フィクションを通じて、グノーシス思想(反現実主義、霊肉二元論)が蔓延する現代におけるイエス・石塚の「復活」が描かれる。──ところで、ノヴァーリスの断章はじっさい奇蹟のように素晴らしいものなのだが、奥泉光がこの作品に刻み込んだ断章もまことに印象的だ。《祈るっていうのは想像することでしょう? いまとは違う現実に向かって、こことは違う場所に向かって、リアルに、いろいろに、想像を巡らせることでしょう?》《あなたたちが僕を理解しないで、僕があなたたちを理解しなかったのはたしかだと思います。しかし、本当は、僕らは理解しあうことなんかじゃなくて、もっと別のことをすべきなんじゃないでしょうか?》

★都筑道夫『悪意銀行』(都筑道夫コレクション〈ユーモア篇〉,光文社文庫:2003.5.20)

 本書には、「落語的スリラー」という奇怪なジャンルを確立した標題長編のほか三つの短編、落語の台本にエッセイ、自作解説まで収録されている。とてもお得なアンソロジーで、ファンには堪らない編集だろう。ファンならぬ身にしても、どこかモダンだ(つまり、古めかしい)けれど、語りの見事さとアイデアの切れ味の良さについ引き込まれ、都筑道夫という人はじっさい芸達者な才人だったのだと、つくづく感嘆させられる。サイキック・ディテクティヴ(「蝋いろの顔」)とその解説(「幽霊探偵について」)などを読むにつけ、この手の趣向の作品をもっともっと読みたいと思う。エッセイでは、「私の落語今昔譚」がよかった。──今でもそんな言葉が生きているのかどうか知らないけれど、「中間小説」の分野で活躍した作家は生きているうちが旬で、筆力が落ちたり亡くなったりするとたちまちのうちに書店から姿を消してしまう。たとえば梶山季之の本を読みたいと思っても、まず手に入らない。「コレクション」シリーズは、文庫本ならではの企画だと思う。

★サラ・ウォーターズ『半身[AFFINITY]』(中村有希訳,創元推理文庫:2003.5.23)

 ヴィクトリア期ロンドンの上流階級に属する孤独で繊細な未婚の女性マーガレットが書き残した「心の日記」と、やがてその「半身」として、親和力(アフィニティ)によって結び付けられ濃密で妖しい交情を深めることになる美しい霊媒シライナの手記を交錯させながら、徐々に明かされていく女たちの秘められた過去の欲望の物語をめぐるじれったいほどに緩慢な前半部から、やがて訪れるだろう魂の合一と肉的欲望の成就への期待の高まりとともにしだいに緊張の度を増していく後半部へ、そして一気に狂おしいクライマックスに達したかと思うや、通奏低音のように作品の最底部で密かに蠢いていた崩壊への危うい傾きが現実のものとなる残酷な結末へと到る、まことに「魔術的な筆さばき」(文庫カバー)の評言にふさわしい見事な叙述の力によって緊密に造形された物語。──マーガレットが慰問に訪れるミルバンク監獄とは、彼女の肉体を縛る心の象徴で、そこで出会うシライナは彼女の欲望そのものの造形である。シライナの支配霊が語るように、霊媒(肉体)とは霊(心=欲望)の奴隷である。だからこそ、この作品はマーガレットの「心の日記」(スピリチュアル・ダイアリー)によって綴られた。

★ニック・ホーンビィ『いい人になる方法[HOW TO BE GOOD]』(森田義信訳,新潮文庫:2003.6.1)

 妻に浮気され、「意地の悪い、皮肉たっぷっりの、愛情のかけらもないブタ」と決めつけられ、離婚話を持ち出された辛口コラムニストのディヴィッドが、突然、これまでの生き方を改めて、「もっといい人生を送りたい」と思う。DJグッドニュースと名乗る妖しげなスピリチュアル・ヒーラーに「ピュア・ラブ」の洪水を注がれたことがきっかけ。まるで、良き知らせ(福音)を告げるイエスと霊的に交わり回心したパウロのように。隣人や二人の子供たちまでまきこみ、ホームレス救済プロジェクトを立ち上げたり、現代の福音書(いい人になるためのハウツウ本)の執筆を計画したりと、いささか常軌を逸した行動に出る。そのドタバタホームコメディの一部始終が、ディヴィッドの妻で女医のケイティの手記(これがまた「普通の人」の鼻持ちならない傲慢と卑小をさらけ出していて、やるせない)を通じて語られる。まるで現代のソドムは家庭にありと言わんばかりに、最後に残されるのは、空っぽな心をもった人物と、その向こうには何もない家族の情景。「豊かで美しい人生」なんて、どこにもない。全編に漂うシニカルな口調が、笑いをひきつらせる。なぜこの作品が英国でベストセラーになったのか、理解できない。

★パトリック・オリアリー『不在の鳥は霧の彼方へ飛ぶ[THE IMPOSSIBLE BIRD]』(中原尚哉訳,ハヤカワ文庫SF:2003.5.15)

 UFOを目撃した少年時代の兄弟の話から、「ダニエル・グリンが、自分が死んでいることを知らなかったとしても、無理はなかった」といきなり飛躍されても、困ってしまう。成人したマイクとダニエルの兄弟のまわりで、訳の分からない出来事が続き、説明もないまま、Dで始まる魔法の言葉(デス)やらハミングバード(ありえない鳥)、空飛ぶ男だとか越境者だとか、思わせぶりな言葉を繰り出されても、つきあっていられない。この作品の「夢の論理体系」がP・K・ディックの世界に通じていると言われても、冗談でしょう、せいぜい『マトリックス』程度の安っぽいアイデアじゃないかと思ってしまう(映画そのものは好きです)。でも、投げ出したくなるのをこらえて最後まで読み進めていくと、とてもリリカルで、静謐で、不思議な安らぎに満ちた結末(本物の死)に出会うことができる。──気に入った台詞を一つ。「相手はエイリアンなのよ。まったくちがう生命体。魚はわたしたちの直接の先祖よ。魚も人間も水から生まれる。子宮のなかで水にひたされて命をさずかる。鳥はちょっとべつの生きものなのよ。エイリアンが鳥に共感したとしても不思議はない。逆もまたおなじ。奇妙ね。鳥は人間の言葉を真似できる唯一の動物で、歌もうたえる。それでも鳥は、完全な他者なのよ。鳥の目に映る世界を想像してみて」(キリスト教で、魚はイエスの象徴です。)