不連続な読書日記(2003.4)




★2003.4
 

★大月隆寛編『田口ランディ その「盗作=万引き」の研究』(鹿砦社:2002.11.1)

 好きな作家と問われれば「村上春樹と保坂和志と田口ランディ」と答えることに決めている。保坂和志はこのところますます「重み」が増している。これに対して田口ランディはいまだに評価が揺れている。『ダ・ヴィンチ』連載時から気にかけていた『聖地巡礼』が出版されたので、これを読んでから再考しよう。いま庄野潤三にハマりかけている。もう少し読み込めば、このラインアップは変更することになるかもしれない。
 大月隆寛の田口評──「ニューサイエンストランスパーソナル系「何か大きな存在が世界を、アタシを動かしてるわ、これって宿命なのね、どうしましょ」な妄想大炸裂の代物」(bk1 大月隆寛の独立書評愚連隊 電脳遊撃編第2回 2001.04.13)、「どこからどう読んでも粗製濫造、八○年代ニューサイエンス系自意識肥大全開垂れ流しな、超特大勘違いジャンク物件」(「書評スイカ割り」『本の雑誌』2002年1月号)──は、たしかにあたっているところがある。『7days in Bali』みたいな作品が続くようだと、田口ランディは終わったとしか言いようがない。最初から終わってたんだよ。と、大月隆寛なら言うだろう。
 田口ランディは「バカで下劣で品性も才能もないブツ」なのに、「大手を振って「作家」でござい、もの書きでござい、と平気でまかり通らせちまう世の中ってのは、どうにもこうにも我慢がならないんだよね」(大月隆寛)。品はないけれど、これも歴とした批評の言葉だとしよう。でも要はそれだけのことでこれほど大部の本を編みあげてしまう、そのエネルギーにはとてもついていけない。「バカで下劣で品性も才能もないブツ」どもがよってたかって「大手を振って「本」でござい、と平気でまかり通らせちまう世の中ってのは、どうにもこうにも」不可解。
 盗作や無断借用がいくらあったって、そんなことちっともかまわない。あ、これは、この本のここのところを勝手に借用している。そんな重箱読みの愉しさはよくわかる。それが嫌いな「ブツ」の所業だったら、憤懣も湧くだろう。それもわかるような気がする。「ものを読み、書いて考える立場の「自由」ってやつ」を「せめておのれの書いたものにくらいは身体張ってみせる心意気」でもって、損得勘定抜きで守ろうとする「バカ」が集まっできたのがこの本だという。それもわからないでもない。でもだからといって、ここまでやるか。
 インターネット経由で無数の文章が入手でき、ペーストしまくっていとも簡単に一つの作品を仕立て上げることができる。「創作」を垂れ流しにできる。編集者のいない議論のフィールドで、誰でも好き勝手に誰かを個人攻撃できる。「批評」を垂れ流しにできる。そんな前代未聞の時代だから、これからさき何かとんでもないことが起きるかもしれない。この本じたいがその先触れの記録かもしれないし、やがて到来する「何かとんでもないこと」への先走りの抵抗の試みだったのかもしれない。

★五木寛之『サイレント・ラブ』(角川書店:2002.12.20)

 うろ覚えなのではっきりしないが、ずいぶん前のこと、いつかポルノ小説を書きたい、そして晩年には児童文学に手を染めたい、といった趣旨のことを五木寛之さんが書いていたのを読んだ記憶がある。ポルノ小説を経て五木さんが書く児童文学は、たぶん絵本のようなものに近づいていくんじゃないかとそのとき思った。いくつかの写真と組み合わせて頁ごとに活字がレイアウトされた『サイレント・ラブ』は、「ゆっくりと、そして静かに」物語を味わうための絵本をめざしているに違いないのだが、残念ながらそれは装丁、造本の趣向にとどまっている。五木さんの文章も、理に傾きすぎている。でもそれは、私がまだ絵本の読み方がわかっていないからかもしれない。

★寺門琢己『みんなのからだ いっしょにできる114の体操』(メディアファクトリー:2003.2.17)

 この本も一種の絵本だ。「からだモード体操」から「相互運動」へ。これはまるでもう一つの「サイレント・ラブ」だ。──《人のからだは、仕事や勉強からくる疲労や緊張にしばられています。いつも頭で考えている状態を「頭モード」といいます。そして、頭ではなくからだで感じられる状態を「からだモード」といいます。からだモード体操は頭の使いすぎによるからだの緊張を解放し、リラックスして「からだモード」に切り替えるための体操です。》《自分自身のことは意外にわからない。人にさわってもらってはじめて冷えていたことに気付いたりするものです。まずは安心して人に背を向けてリラックスできたり、さわられたりさわったり……その心のキャパシティの広さが、からだを解放することにつながります。気を許し合った者どうし、安心してからだをまかせる、さわれることだけでも充分意味があるのです。もちろんさわってもらえば気持ちがいいし、実はさわっているほうもからだがあたたまって気持ちよくなっていく。これが相互運動です。やってもらう・やってあげる、という関係から、お互いに気持ちよくなる、感覚の共有へ。今まで以上の充実感が感じられるはずです。》──『ダ・ヴィンチ』の広告に載っていた読者(32歳・男性)の言葉がいい。「女の子たちの気持ちよさそうな表情は みてるだけで癒されるよー。」

★齋藤孝『からだを揺さぶる英語入門』(角川書店:2003.2.25)

 復刊された野口整体や古武道関連の本が売れたり、ポリネシアンセックスの思想と方法がブームになったり、鹿島茂さんのH関連本が矢継ぎ早に出たり(これはあまり関係ないか)、このところ身体感覚や身体技法ばやり。これは少し前の「癒し」や「私探し」が、もっとさかのぼれば「超能力」が、サイエンスとテクノロジーに、つまりポップ・サイエンスとしての「脳科学」の流行(たとえば快楽の「脳汁=神経伝達物質」還元主義など)と「からだ」ブーム(性的快楽の探求など)に分岐していったと見ることができる。(その次に来るのは、たぶんスピリチュアリティ・ブーム。聖地巡礼とか。)
 その「からだ」ブームの仕掛人が齋藤考さんで、春先恒例の心身のアンバランス状態(あるHPの簡易診断をやってみたら、パニック障害のおそれありと出た)から抜け出したくて、直感に頼って買ったら、これがみごとにヒットした。以来、毎晩1時間ほど、付録のCDを聴いてはテキスト片手に部屋を歩きながら英文を朗読(素読復誦)している。──「日本語の身体」から「英語の身体」(パブリックな場で、堂々と自分を打ち出して話す身体性)へのモードチェンジを技として身につける。英語を話すのに適した身体の状態への移行の感覚自体を技化する。──大きな声を出すのが楽しくなって、ついでに『松浦寿輝詩集』を朗読している。

★河合隼雄・松居直・柳田邦男『絵本の力』(岩波書店:2001.6.18)

 「絵本は二十一世紀において、ますます大切なものとなることだろう」(河合隼雄)。自分で読んでいても絵本はわからないよ、「絵本というのは、絵を見ながら読んでもらうときに不思議な働き、大きな世界をつくっていくんですね。(略)実は子どもは挿絵を見るのではなく、読んでいるんです。絵というのは、すべて言葉の世界です」(松居直)。絵本は子どもの時、子どもを育てる時、そして人生の後半に入った時の三度読むべきもの、とくに人生後半に入った人にとって絵本は「魂の肥し」「魂の糧」になる大きな存在だ、「一番大切なものは何かといったことが、絵本の中にはすでに書かれているんですね」(柳田邦男)。──柳田さんが、21世紀に残したい絵本の一つ、として紹介している星野道夫さんの『クマよ』(福音館の絵本月刊誌『たくさんのふしぎ』1998年3月号)を読みたい。

★星野道夫『クマよ』(たくさんのふしぎ傑作集,福音館書店:1999.10.31)

 クマの神々しさと獰猛さ、愛らしさと不気味さ、アラスカの四季の大地と空と水と植物のぞっとするほどの美しさや広大さ。星野さんの写真と文章は、この世ならぬところからさしこむ光の陰翳であり、音の響きであるかのようだ。《夜になると すこし こわいんだ おまえがいると 思うだけで テントの中で じっと 耳をすましてしまうんだ でも そんなとき ふしぎな気持ちになるんだよ おれは 遠い原始人になったような気がして おれは 動物になったような気がして 夜になると すこし こわいんだ でも そのふしぎな気持ちが 好きなんだ》──たしか星野さんはクマに襲われて亡くなった。「この本は、星野道夫氏の遺稿と使用写真についてのメモをもとに作りました」と編集部の注記がある。

★乾千恵・書/谷川俊太郎・文/川島敏生・写真「月・人・石──乾千恵の書の絵本」(『こどものとも』562号,福音館書店:2003.1.1)

 近所の図書館で『クマよ』を探していて、とても印象的な絵本を見つけた。13の文字をめぐる書と写真と言葉(詩)のコラボレーション。一頁一頁に、たくさんの時間が凝縮している。それでいて、とても自在だ。

★池内紀『少年探偵隊』(平凡社:1992.6.15)

 少年時代に読んだ本は、文字通り血肉化している。言葉の響きと物語と挿絵が、肉感的な匂いを伴って、生々しくありありと、今でも甦ってくる。入院した時、会社帰りの父親が、枕元で読んでくれたガリレオ・ガリレイの伝記やジュール・ヴェルヌの海底二万哩、どうしても書名が思い出せないアマゾン探検記は、私の無形文化財だ。いくどか引っ越しをして、そのつど棄てていったから、もう一冊も残っていないけれど、少年時代の乏しい蔵書の思い出は、たとえば図書館で読んだファーブルの科学読み物や、友達から借りて読んだ少年少女世界名作文学とともに、私の大切な宝物だ。
 「ひそかに夢をたのしんできた」と池内紀さんはあとがきに書いている。「幼いころに親しんだ本を、もう一度、読み直す。遠い記憶をたしかめながら、いまの目であらためて見直してみる。そんな「二人の読み手」を通した少年文学についての本を書いてみたい」と。──私もひそかに夢をたのしんでいる。ああ、どこかに、あの頃読んだ本がみんなひっそりと保存されている図書館がないものか。

★田辺繁治『生き方の人類学 実践とは何か』(講談社現代新書1655:2003.3.20)

 「だって、そういうことになっているから」としか言えない場合がある。たとえば「オフサイドはなぜ反則か」と尋ねられても、ちゃんと答えられない。
 オフサイド・ルールのないサッカーはサッカーではない。それは「バスケッカー」(バスケット+サッカー)とでも呼ぶしかない別のスポーツだ。私がサッカーの選手だったら、そう答えるだろう。それがピッチの上での「生きられた経験」であり、サッカー選手にとってのフィジカル・リアリティだからだ。
 そのような、あたりまえすぎて言葉で説明できない知識(齋藤孝さんなら「技化」された知識と言うだろう)のことを、著者は「実践知」と呼ぶ。
《知識は本に書かれたようなモノではなく生きた身体に宿っている。このように実践の外部ではなく実践そのものに内在する知を、この本では実践的な知識、すなわち〈実践知〉と呼んでおこう。私たちの日常生活のあらゆる場面で働いているのは、この実践知にほかならない。私たちは知識を操作しているのではなく知識を生きているのである。》
 たとえば読み書き能力、リテラシーを考えればいいだろう。(ハブロックの『プラトン序説』には、ホメロス的な記憶された言葉からプラトン的な書かれた言葉、イメージ思考から概念的思考へといたる、身体化された「実践知」の変遷が生き生きと叙述されていた。)
 中島敦の「文字禍」に、単なるバラバラの線の交錯にすぎない文字に音と意味をもたせる「文字の霊」の話が出てくる。《魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。》
 エックハルトは「ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである」と語った。ここでいう「魂」あるいは「文字の霊」、つまりバラバラなものに一つの規則(音と意味)を与えるものこそ実践知である。
 それでは、実践知は「社会のなかでいかに発生し、いかに機能し、伝達されていくか」。著者はまず理論編(第1章〜第3章)で、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」(生活形式=共有された慣習のなかでの反復訓練)とブルデューの「ハビトゥス」(実践の発生母胎)、そしてレイヴとウェンガーの「実践コミュニティ」(参加・交渉・協働といったアクティブな相互行為=社会的ゲーム)の概念を紹介し、実践のもつ反復性(過去の再現と身体への刻印)と歴史性(変動と組織化)を摘出する。
 ついで民族誌編(第4章・第5章)では、北タイの霊媒カルトとエイズ自助グループの事例にそくして、実践コミュニティにおける「権力ゲーム」と「自己の統治」の契機を抽出し、最後に(第6章)、晩年のフーコーの思想に準拠しながら、より良い生=新しい生き方を創造する実践の技法──「世界に対する多様な関係を構築していく〈自由の実践〉、すなわち生き方の探求」としてのアイデンティティの形成、あるいは「主体の多様な転換、すなわちアイデンティティ化」を可能とする場としての実践コミュニティ──を構想する。
 齋藤孝さんによると、野口三千三が考案した体操の要諦は、からだを液体化すること、「水の入った革袋に骨や筋肉が浮かんでいる状態をイメージし、揺さぶりを増幅すること」にある(『からだを揺さぶる英語入門』)。
 組織を「液体化」=「ワイン化」し、「世界に対する多様な関係」の構築や「主体の多様な転換」を可能にする「革袋」=「樽」としての「実践コミュニティ」を叙述すること。それが、著者が構想する「生き方の人類学」のテーマである。本書は「組織のための整体術」の本だ。

★金沢創『他人の心を知るということ』(角川oneテーマ21:2003.4.10)

 著者がコミュニケーションについて考える際の原風景は、学部生の頃、京大霊長類研究所を訪れ、一人でチンパンジーを観察していたときの経験にある。
 一頭のメスのチンパンジーが近づいてきて、傍らの草を引き抜くと、金網ごしに著者のほうへ差し出してきた。著者がその草をつかむと、彼女は手を放す。試みに、著者が彼女の真似をして、草を差し出してみると、今度は彼女がその草をつかんで自分のものにしようとした。このやりとりは四、五回繰り返された。ヒトとチンパンジーのあいだに暗黙のルールが出来上がり、相互に相手の意図を感じあい、著者はチンパンジーの意図的な行為に「心ある存在」を感じ取った。
 この経験が、著者のコミュニケーション観を決定した。コミュニケーションとは、意味や「本当に言いたいこと」を言葉という「ビン」に詰め込んで手渡すことではない。「コミュニケーションとは賭けである。そこで賭けられているのは、他者の心の世界だ」。自分(著者)、他者(チンパンジー)、共通のモノ(傍らの草)という「三項関係」を基礎として、「他者が今、何を考えているかをメッセージの受け手も推測するし、送り手も受け手が何を知っているかを考えながら互いの心の世界を推測しあう、共同作業」こそが、コミュニケーションなのである。
 コミュニケーションにおいて大切なことは、正確に相手の意図を推測することではない。(「本当に言いたいこと」なんて、実はない。)まじめに真剣に取り組まなければ、遊びは成り立たない。それと同じで、コミュニケーションという賭けにおいて最も大切なのは、誠実さである。
《失敗すれば何かを失うこの賭けは、日常のおしゃべりでは、あまり行われないのかもしれない。しかし、もし、相手の意図をなんとしても知らねばならないなら、我々は、明確で真剣な賭けを行わなければならない。そして、賭けが誠実に真剣に行われたとき、他者が、単なる目の前の人間であることを超えて、自分自身の中に人格をもった心ある存在として立ち現れる。たった一度でも、真剣な賭けをへた他者であれば、その存在は今現在身体があろうがなかろうが、一つの心をもった存在として、自分の心の中で動きつづけるように私には思われる。今現在、その身体が物理的にあるかないかにかかわらず。》
 ──本書を読み進めながら、眩暈のような神秘感にとらわれていた。それは、自分の心の中にある相手と相手の心の中にある自分、そしてそこに相手と自分が共通に見ているモノが介在する「三体問題」がもたらす入れ子式の眩暈(「相手の心の中にある「自分の心の中にある「相手の心の中にある「モノ…」」」」)であり、私の心は実は私の中にあるのではなく、私と他者とモノの世界に遍在しているのであって、コミュニケーションが成り立つそのつど、その時に、心ある存在の片割れとして屈折してくるのではないかとか、本書の最後で述べられている「死後も自分の心の中で動きつづける心ある存在=他者」(あるいは「死後も他者の心の中で動きつづける心ある存在=自分」)とは、端的に言えば「魂」のことなのではないか、といった類のものだった。
 著者は、「誰かの話がわかる」「こちらの意図が通じる」といった出来事は、この宇宙に存在するもっとも神秘的な出来事だ、と書いている。本書を読んで、「コミュニケーション」が日常に存在する奇蹟に思えてきたのなら、本書の役割は果たされたことになる、とも。著者が言う「神秘」と私が感じた神秘とが、はたして同質のものなのかどうかはわからない。

★坪内祐三『新書百冊』(新潮新書010:2003.4.10)

 日本版ペイパーブック=新書の思い出で綴られた坪内祐三の半生記。本読みならだれでも、こういった書物と読書をめぐる自叙伝への魅力に抗じ難いのではないか。でも、他人に読んでもらい、同世代・近接世代の読者の共感を誘い(シブい本のラインアップ、とりわけ冨山房文庫への賛辞や、開高健の『声の狩人』や安岡章太郎の『アメリカ感情旅行』といったすっかり忘れていた新書への言及など、いたるところ共感あり)、さらに、「読書という時代を超えた文化や文化行為の力強さを、特に若い人たちに伝える」ためには、熱意と自制心と編集上の工夫が必要で、その点、さすがは坪内祐三、百冊の新書のサワリとキモの紹介・引用を、もう少し、というところでさっと切り上げ、楽しげに筆を進めながら、読者をしっかりと自分の関心領域にとりこみ、終わってみれば、新書による近現代日本文化史を仕上げているのだから、これは相当な力量である

★田口ランディ/森豊・写真『聖地巡礼』(メディアファクトリー:2003.4.17)

 『ダ・ヴィンチ』連載時の、小さな活字と窮屈なレイアウト、モノクロ写真が醸しだしていた、どことなくマイナーな裏稼業を思わせる秘めやかな雰囲気が、ゆったり組まれた活字とたくさんのカラー写真で明るく小綺麗に編集された単行本では、すっかり様変わりしていて、少しとまどう(モリリンこと森豊さんの写真は、単行本の最大の収穫)。飛び入りの超能力者やシャーマンを交えた「聖地開発事業団」の行状記に加え、随所に、ランディさんらしい語彙(水=魂のバイブレーション、水の記憶、力と繋がる、水=海は世界をつなぐ、人間のOSのヴァージョンアップ、森や山の「生殖器」=土地と人間意識が接触できる場所、等々、ほんとはどれもランディさんのオリジナルではなくて、ランディさんが呼びよせた不思議な人たちが発する言葉)と「考察」がちりばめられている。──ランディさんの旅の同行者の一人、「神戸のSさん」が、あんたは櫛稲田姫に似ていると言う。「その人は、どういう女性なんですか?」という問いへの答えが面白い。「うーん、どんな男も受け入れてどんどん混血にして世界を平定する、オ○コの神様みたいなもんだな」。

★町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本──『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで』(洋泉社:2002.9.9)

 切通理作さんが『論座』(2003年1月号)の「今年の収穫 私が選ぶ3冊」のなかで、「町山さんの文章は批評の核だけがあり感想を水増ししていない」と絶賛していた。副題に「Understanding Cinemas of 1967-1979」とある。『俺たちに明日はない』(67)から『地獄の黙示録』(79)まで、「映画がたんなる娯楽ではなくて、人生経験の一つだったころの映画」──『卒業』(67)『2001年宇宙の旅』(68)『猿の惑星』(68)『イージーライダー』(69)『フレンチ・コネクション』(71)『ダーティハリー』(71)『時計じかけのオレンジ』(71)『タクシードライバー』(76)『ロッキー』(76)『未知との遭遇』(76)といった「ニューシネマ」の作品群──について、表層的な感想を述べるのではなく、完成した「映画だけでは見えない意図や背景、いわゆるサブテキスト」を探るためにこの本は書かれた。「絵画の研究がスケッチや習作、X線で見える描き直しの跡を調査するように、シナリオの草稿や企画書、関係者のインタビュー、当時の雑誌記事などに当たって裏付けを取」った製作過程をたどることで、「作品の表面に直接は描かれない作者の意図、もしくは作品の背景」を調査したのがこの本だ。

★東浩紀・笠井潔『動物化する世界の中で──全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』(集英社新書:2003.4.22)

 文学や思想の言葉が社会的現実と乖離し、いまやその有効性が急速に失われつつあるという絶望。東はこの「批評家的な問題意識」への応答を迫って、「9.11問題」や「八○年代問題」を提起する。これに対して笠井は、それはなにも九○年代以降や9.11以降に生じたものではない、僕は六○年代前半から悩まされてきたんだ、と自身の全共闘体験をもって応じる。議論はすれ違いの様相を呈しはじめる。第6信、第7信で、「歴史的」(笠井)対「工学的」(東)の理論的交錯が一瞬かいま見られるが、ついに東がキレて、往復書簡は不穏でキナ臭い匂いに包まれる。このあたりから、がぜん面白くなる。結末を知りたくて一気に読み切る(ほとんど小説を読む感覚で)。読み終えて、東が言う「文学や思想の言葉」とはいったい何なのかと考える。世代や住処、つまりは身体レベルでの「体感」の違いが「文学や思想の言葉」には反映している。性や暴力や死をめぐる身体的想像力に支えられて、時代のリアリティに対する認識、つまり「文学や思想の言葉」は紡がれる。その意味でも、「僕は、あと数十年はこの国で生きていかねばならないのだから」、「世界をより良くするため」に、まず正確な状況認識が必要だと言いたいのだ、笠井さんのシニカルでニヒリスティックな議論や回顧譚につきあっているヒマはない(とは書いていないが)、という東の言葉は、ナイーブだけれど心を撃つ。「それぞれ二人が固執している六○年代と八○年代の時代経験の意味を、もう少しきちんと噛み合わせることができたら、この往復書簡も違うような展開を辿ったかもしれません」という笠井の言葉に、共感する。

★東浩紀・大澤真幸『自由を考える 9.11以降の現代思想』(NHKブックス967:2003.4.30)

 本書の粗い要約。──権力による自由の抑圧・排除といった二項対立的図式に基づく、あるいは(身体の規律訓練を通じて道徳的な主体を形成する権力といった)個人の内面的イデオロギーに照準する古典的な権力論もしくは自由観をもってしては、もはや現代における権力と自由をめぐる問題について有効な批判的言説を紡ぎだすことはできない。たとえば、住民基本台帳ネットワークや国民総背番号制の問題に関して、そこでいったい何が抑圧されることになるのかと問われても、せいぜい犯罪の自由・権利といった漫画的な答えしか出てこない。
 現代の権力は、内面のイデオロギーや思想、利害関心やそれらの表現に対して非常に寛容で、充分な多様性と自由を認めている。排除の機制が働くのは、人間の生物(動物)としての生存にかかわる部分、つまり安全で快適な生活にかかわる部分だけだ。かつてマルクスが賃労働の問題をめぐって「疎外」という概念を発明したように、「僕らは何を失ったのか」という問いをめぐる人文的な「概念の作業」が必要である。
 それでは、現代の権力状況に抗しうる「新しい自由」の概念とは何か。それは、単なる自意識の問題には還元されない「私が私である」ことの根拠、もしくは古典的な主体=主権観のもとでは「無」であるしかない「私」──いつ他者になってしまうかもしれない弱い受動的な「私」、偶然的で交換可能な「私」(=anyone)、単一の他者への愛や共感と普遍的な連帯とを媒介するもの──を指し示す概念で、大澤真幸はこれを「根源的偶有性」と名づけ、東浩紀は「匿名性の自由」と呼ぶ。
《…人間には自分にとって疎遠なものでも引き受けてしまう本質的な特徴があって、それが社会学の言葉で言えば「偶有性」、東さんの言葉で言えば「確率的な側面」なわけです。つまり人間は他でもありうるという部分を必ずもっているので、その部分を通してどんなに疎遠なものでも引き受けることができるんです。それが権力に濫用されているという構造なんでしょうね。》(大澤)
《今までは匿名性は、社会空間の複雑さと情報の追跡可能性がアンバランスであるために、特に意図しないでも確保されていた。だからこそ固有名の感覚も生まれていた。しかし、後者の精度が飛躍的に上がってしまったため、今そのバランスが壊れている。その結果、[…]人々は自分が固有の存在だと感じられなくなっている。僕はその状況を憂えているわけです。》(東)
 ──両者に共通するのは、現代の権力の現実の方が批判・理論よりはるかに先行している、という認識である。だからこそ大澤は、権力を出し抜き、それよりさらに先へ行くための「論理」の模索にこだわり、東は、両者の議論の原理的な一致を認めつつ、そのような大澤の「弁証法」を批判し、実践的側面にこだわる。理論的爆破(権力のパラドクシカルな自己転変)か工学的構築か。この微妙な「対立」が議論に緊張をもたらし、けっして「理論ゴッゴ」に終わらない本書のアクチュアリティを生み出している。
 付記。大澤が提示する「工学装置としての神」のメタファーが面白い。古典的な神は、そのメッセージの恣意性こそが人間からの隔絶性(絶対的な超越性)を示す証拠だったのだが、現代の工学的な装置は、かつての神が担っていたそのようなネガティブな属性(超越性を示すポジティブな属性へと反転しうる属性)をすべて取り除いた神になっている、というものだ。これは思いつきだが、この指摘と、永井均が『本』(講談社)に連載中の「ひねもすたれながす哲学」で論じている神の問題とを接続することで、本書の議論の着地点が見えてくるのではないか(「新しい自由」の概念=「独在性の私」?)。

★荻原浩『なかよし小鳩組』(集英社文庫:2003.3.25/1998)

 任侠団体・小鳩組がなにゆえ、コーポレイト・アイデンティティ、つまりキャッチフレーズとロゴマークの制作を、なかば脅しのテクニックをつかってまで零細広告代理店に依頼することになったか。後に明かされるその訳は唖然とするほどマンガ的で、とてもこの世のこととは思えない。だけど、おかげでこれほど笑えるシチュエーションが生まれたのだから、それは許せる。酒と仕事にかまけてカミさんに逃げられたダメ男のコピーライター杉山が、なぜに生活の更正を思いたち、ヤクザ相手にアドレナリンを噴出させるにいたったか。テレビCMと代理店契約破棄の条件として、小鳩組の創立四十周年記念イベント(お子さま向けプレイコーナー「なかよし小鳩組」の開設を含む)への入場者千人動員と、市民マラソン大会への出場で手打ちができたのはなぜか。ご都合主義そのもののストーリー展開は、でも、それゆえに杉山と下っ端ヤクザとの友情や、再婚した妻に引き取られた娘と杉山とのつかの間の交情に味わいが生まれ、不条理なまでに胸が熱くなるラストシーンが生きてくるのだから、これも許せる。とても気持ちがよくなる作品だ。

★伊集院静『機関車先生』(集英社文庫:2003.3.25/1994)

 見えない世界が見える不思議な能力をもった少女が、春の早朝の陽光を浴びて、岬から海へ向かって祈りをささげる、まるで民話かファンタジーを思わせるプロローグから、身体も大きいし、力持ちみたいだけれど、口がきけない(口をきかん、だから子供たちに機関車先生とあだ名される)吉岡誠吾が、瀬戸内海に浮かぶ神がつくった島、葉名島の水見色小学校に赴任してくる冒頭部へ、そして、小さな島ゆえの濃厚な人間関係が紡ぎだす、悲喜こもごものエピソードの数々が丹念に綴られ、やがて、先生と子供たちの別れの場面、すがしい未来を予感させるエンディングへといたる。──あざといまでに達者な、伊集院静の流麗な筆運びが縦横にはりめぐらせた物語は、これがテレビドラマか映画だったなら、わけもなくのめりこまされ、見入り、さわやかな感動をもって見終わることだろうにと思わせる。それだけ、映像喚起力もしくは劇的構築力をもった文章だということなのだが、あまりに完成されすぎて、「作られた名作」ゆえの物足りなさを感じる。

★実相時昭雄『ウルトラマンの東京』(ちくま文庫:2003.3.10/1993)

 ウルトラマン・シリーズのロケ現場をめぐるタイムトラベルは、「東京オリンピックが終わり、新幹線が開通し、東京の各地で敗戦の余燼が消えかかろうとしていたころ」から始まる。それは、「高速道路が東京を醜く変え、堀と水を抹殺し」はじめたころ、「高度成長時代の黎明」である。ウルトラマンや怪獣たちが活躍したのは、まさにそのような時代であった。実相時昭雄さんは、「怪獣たちは消えた風景そのものだった、と思わずにはいられない」と書いている。(それでは、宇宙人や地底人は、いったい何だったのだろう。)──今となっては、『ウルトラマン』はある世代の幼児・少年期の記憶であり、ある時代の都市の記憶である。「過去への旅は、つらいことも甘美さと同居している」。多くの怪獣たちを倒したウルトラマンは、はかりしれない悲哀を胸にひめていたに違いない。

★都築響一『TOKYO STYLE』(ちくま文庫:2003.3.30/1993)

 書棚拝見、といった類の写真を見るのが、昔から好きだった。著名人であれ無名人であれ、誰かが、少なくとも一度は手に取り、目を通し、もしかしたら高揚し涙したかもしれず、沈思し玩味したかもしれない、そういった書物が整然と、あるいは雑然と、ただそこに並べられ重なりあっているだけの、しかし当の本人は不在の、写真を眺めているうち、なぜかしら、けっして足を踏み入れたり、視線をそよがせることのかなわぬ、他人の“内面”に入り込んだような気にさせられる。それは書物だけのことではなくて、机であれベッドであれ、衣類や雑貨や電気器具であれ、はたまた灰皿や屑カゴやマネキンであれ、およそ不在の主との“関係”の痕跡を色濃くとどめた“物”たちのつくりあげる、動かし難い不動の配列そのものが、確固たる“内面”を、ひっそりとそこに立ち上げている。都築響一さんが“スタイル”と言うのは、そのような、どこにでもあって、ありふれた“内面”たちがかたちづくる、小さな空間のことだ。

★『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』(角川文庫:2003.3.25/2000)

 記憶だけでカマキリの絵を描いてみよ、と言われると困ってしまう。ましてや、「他人から『あいつはデキる』と言われている人にカマキリを描かせてみましょう。その人がそれまで積み上げてきたものが、一瞬にして音を立てて崩れるかもしれません」などと、人の悪い口上をかまされた日にはたまったもんじゃない。で、他人が描いたカマキリの記憶スケッチをひとつひとつゆっくりと眺め、ナンシーさんのどことなくあったかくて、それでいて冷静きわまりないコメントをじっくりと読んでみる。すると、これがまたどうにも可笑しくて楽しくて、心がじわっと和んでくる。第2部での、4年間にわたる大量の記憶スケッチ観察をふまえた大真面目の考察といい、第3部の押切伸一、いとうせいこう両氏との座談会(そこでナンシーさんは、「物の記憶って、二次元三次元の映像じゃなくて意外とマニュアルで覚えている場合もあるんじゃないか」と、鋭い仮説を提示している)といい、いや、これは参りました。

★平山壽三郎『明治おんな橋』(講談社文庫:2003.3.15/2000)

 江戸から明治への時代の転変のなか、上様との秘められた思い出を胸に、大奥御殿女中の誇りを捨て、薪炭商上州屋のお内儀になった美代の可憐な素直さ。御一新のどさくさで祖母と母と姉の惨たらしい死に目にあい、自身も雑兵どもに汚され、苦界に身を沈めた律の健気な凛々しさ。もちまえの胆力と才覚で政財界の大立て者をあしらい捌く、女郎上がりの料亭の女将お倉の水際だった剛毅と風格。ほんの一瞬顔を出すだけの、いずれも「其れ者あがり」の伊藤博文の奥方(馬関の芸者)や木戸孝允の奥方(祇園の芸妓)も含め、女たちが実にのびやかに、しかも毅然と生を全うしている。男たちもいい。美代をめぐる松太郎や井沢、律を思う栄吉、お倉の旦那亀次郎でさへ、それぞれに輪郭のしっかりした鮮やかな生の軌跡を刻んでいる。悲惨な出来事や境遇は語りの中でさらりと流され、腹黒い悪人も陰惨な企みもでてこない。このあたりのことをもっと書き込めば、物語に深みと広がりが出たかもしれない。でも、これはこれでいい。読後の清涼感は絶品。

★デイヴィッド・エリス『覗く。』(中津悠訳,講談社文庫:2003.3.15)

 一人称の語り手「おれ」とはもちろんこの作品の主人公、投資銀行勤務の高給取りにして、愛人レイチェルの夫である外科医殺しの容疑者マーティーで、ときおりゴシックで表記された箇所がその回想シーンであることは明白だ。叙述に淀みはなく、ストーリーの展開に破綻はない。しかし、どこか妙だ。読者に罠をしかけようとする「おれ」の、いや作者の悪意が感じられる。ゴシック表記のうちになにかが隠されている。あるいは、過剰に「真実」が語られている。──弁護士ポールは言う。「きみは十二分にインテリだから、刑事裁判の本質が真実の解明だなんて思っちゃいないはずだ」。マーティーは考える。なにが起こったかについて検察側と弁護側の双方が自説を展開し、その中間のどこかに真実が存在する。「“中間”というあいまいな領域。その“中間”とやらにある真実に、おれたちはやがて到達するのかもしれない」と。これらはいずれも「おれ」の、いや作者の目眩ましである。アクロバティックなリーガル・サスペンスとして甦った、現代的解釈のほどこされた「アクロイド殺し」。

★コリン・ホルト・ソーヤー『フクロウは夜ふかしをする』(中村有希訳,創元推理文庫:2003.3.28)

 連続殺人事件をめぐる謎解きミステリーとして読むと、犯人の意外性もあっと驚くトリックもハラハラドキドキのサスペンスも、もちろんあるにはあるのだが、やや淡泊でコクがない。でも、この作品は高級老人ホーム「海の上のカムデン」を舞台とする「老人探偵団騒動記」(訳者)、もしくは「老人たちの生活と推理」シリーズの第三作なのだから、薄味はむしろウリなのかもしれない。(それにしては、カムデン名物、シュミット夫人の料理はとてもスパイシーで風味豊かだ。)ところが、スクリューボール・コメディとしては、これが第一級の面白さ。二人の未亡人、チビのアンジェラと巨大なキャレドニアの探偵コンビに加えて、“おしゃれ”な双子の老婆や酔いどれ翁などの奇人変人たち、そして、コンピュータおたくやマドンナまがいのブロンド娘といった入居者ゆかりの若者、老人たちのアイドル、マーティネス警部補、等々、いずれもくっきりとした個性と一癖をあわせもった面々のからみあいが絶妙で、読後感が実に清々しい。

★レックス・ミラー『壊人』(田中一江訳,文春文庫:2003.3.10)

 体重四百二十二ポンド超、身長六フィート七インチの巨躯、IQ測定不能の天才、凄惨な幼児虐待を受けた無差別の殺人機械、被害者総数五百人!──「心[ハート]なき殺人者」ダニエル・エドワード・フラワーズ・バンコフスキーというグロテスクな怪物の創造と、情け容赦を知らない殺戮シーンの描写(ほんとうなら胸糞が悪くなるはずなのに、まるでモダンアートの制作現場に立ち会ったような感じ)がこの作品の、すべてとは言わないまでも魅力の大半で、あとは、イーディ(バンコフスキーに夫を殺戮された未亡人)とアイコード(バンコフスキーを追う捜査官)のぎこちない性愛の経緯と、バンコフスキー対アイコードの最後の対決が読みどころ。訳者解説に「シュールでアヴァンギャルドな文体」とある。言い得て妙。

★ホセ・ラトゥール『ハバナ・ミッドナイト』(山本さやか訳,ハヤカワ・ミステリ文庫:2003.3.15)

 キューバ生まれの作家が書いたキューバ人を主人公とする、パルプ・フィクションの色濃い犯罪小説。訳者によると、本作に先立つ長編第一作で、ラトゥールは「キューバン・ノワールの先駆者」ともてはやされたのだそうだが、この初めて読んだキューバン・ノワールは結構いい味を出していて、たとえて言えば、マイルス・デイビスのソロがどこか遠くで通奏低音のように低く響いている、モノクロの古いサスペンス映画を観ているような懐かしさを覚えさせられる。先物市場アナリストの知性と社会主義的理想(「いやにマルクス主義めいた理屈をいうのね」)を併せ持つ、主人公アリエスの矛盾した人物造形と、二人の魅力的な女性(ハバナの歯科医クリスチーナとアメリカ人天文考古学者のヴァージニア)とアリエスの絡みは、この作品の捨てがたい魅力だ。──結末は苦い。この苦さが読み終えてしばらく凝りとなって残る。だが、数日反芻しているうち、苦みは熟成され、深い余情となった。
 

☆今月の棚卸し

★藤井威『スウェーデン・スペシャル1──高福祉高負担政策の背景と現状』(新評論:2002.6.10)
★藤井威『スウェーデン・スペシャル2──民主・中立国家への苦闘と成果』(新評論:2002.10.25)

 スウェーデンの人々の博物館好きには驚かざるを得ない、と著者は書いている。それは観光や地域おこしのためではなくて、郷土への誇りと共同体への強い帰属意識の現れなのではないかと。「高福祉高負担を抵抗なく受け入れる素地として、市民の強い共同体帰属意識、さらには良好な生活環境を享受すればするほどこれらを次世代に伝えたいとする強い義務感、という二つがきわめて重要な要因として指摘できる」のだそうだ(1)。
 

☆不連続なシネマ日記

★ポール・アンダーソン『バイオハザード BIOHAZARD 』

 ハズレ。花粉症でどうにもこうにも絶望的な気分をスカっとさせたくて、レンタルビデオ屋で厳選したはずなのに、よりによって「スカ」を掴んでしまうとは。おかげでいっそう気分が悪くなった。どこがどう「ハズレ」で「スカ」なのか、書く気にもなれない。(それでも、主演のミラ・ジョボヴィッチは結構よかった。)

★『ハリーポッターと秘密の部屋』

 これは楽しめた。