不連続な読書日記(2003.3)




★2003.3

★中沢新一『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュV』(講談社選書メチエ260:2003.1.10)

 「カイエ・ソバージュ」シリーズは、きまって海外の新作小説と並行して読んできた。『人類最古の哲学』はミシェル・ウエルベックの『素粒子』、『熊から王へ』はル・クレジオの『偶然』、そして『愛と経済のロゴス』はドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』。『素粒子』はシリーズ全五作に共通する序文のなかでも引用されているので関係は明白だが(人類の思考が超越性の次元に達した「第一次形而上学革命」というシリーズのキモになる言葉はウエルベックの小説に由来する)、後の二冊についてはそれこそ偶然たまたま併読したにすぎないのになぜかそれぞれに深く響きあうものがあった。
 ここではせめて『愛と経済のロゴス』と『ボディ・アーティスト』に通底するもの、それは「身体と時間と言語」というなにやら拍子ぬけするくらい平板なものでしかないのだが、このことについて考えをめぐらせるための手掛かりを後の考察のために残しておきたい。
 ──三つのもの、輪でも星でもなんでもいいし具象物でなくて想像物や観念でもかまわない、この三つのものをかりにA、B、Cと名づけ、それらに「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」がなりたっているものとする。ここで「⇒」と表示した関係は「A⇒B」がなりたつときは「B⇒A」はなりたたないという約束に反しないかぎり、何を想定してもかまわない。たとえば「右側にあるものは左側にあるものより弱い」とすれば、先の三つの関係はジャンケンに典型的な三すくみの関係をあらわしている。「⇒」を「<」に置きかえれば形式論理上の矛盾をきたして、そのような三つ組の数は存在しえなくなる。
 ここで「⇒」は「右側にあるものは左側にあるものから発生する」を意味しているものと考える。そうすると先の三つの関係のうち任意の二つは同時になりたつが、三つが同時になりたつということはちょっと想定しがたい(子供が実は先祖さまの生まれ変わりだとすれば話は別)。
 部分部分はなりたつがそれらの全体を一挙に思惟することはできない。それは(『はじまりのレーニン』で中沢氏によって聖霊論的にとらえられた)ヘーゲルの論理学の世界であり(同じく『緑の資本論』でイスラームとの比較で論じられたキリスト教的一神教の)三位一体の論理であり、かつまたエッシャーの不思議な階段でありペンローズの三角形(あるいは『心の影』で図示された「プラトン的世界⇒物理的世界」「物理的世界⇒心的世界」「心的世界⇒プラトン的世界」)であり、そしてジャック・ラカンのボロメオの結び目(心の構造をあらわすトポロジー)そのものでもある。
 このような関係こそ中沢氏が本書でいうところの「愛」や「経済」が一つに融合している「全体性の運動」にほかならない。そうした「全体」がなりたつように働いている力が「ロゴス」(世界をかたちづくっているさまざまなものごとがバラバラにならないよう根本のところでとりまとめる能力)である。
 実は以上に述べたことが本書の、というよりはおそらく「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体の核心である(というのも超越性は「A⇒B」「B⇒C」「C⇒A」という「全体性の運動」のうちにしっかりととらえられているから)。あとは「A=贈与・子・想像界」「B=交換・父・象徴界」「C=純粋贈与・聖霊・現実界」と置きかえて、経済学的思考と神学的思考と(中沢氏によれば愛を直接の対象とした唯一の学問である)精神分析学的思考が交錯し、かつマルクスやらワグナーやらが面目を一新する装いで登場する中沢氏のスリリングな語りにわくわくと身をゆだねひととき言葉と時間を失ってみることだ。

★ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』(上岡伸雄訳,新潮社:2002.12.20)

 サンスクリット語で書かれた文章を直訳で読んでいるような感じ。パフォーマンス・アーティストのローレンが夫で映画監督のレイとすごす最後の朝(レイはその後、最初の妻のアパートで自殺をする)の奇妙にズレた会話をえがく第一章を読みながら漠然と考えていた。
 なにかの本で読んだと記憶しているのだが「彼は使者としてかの地に赴いた」をサンスクリット語では「彼は使者性を帯びて」と表現するのだそうだ。言うまでもなく「彼」とか「あなた」という言葉のなかには現実の「彼」も「あなた」も居るはずはないのであって、つまり言葉はもともと抽象的なものだし「世界」を出現させる力などもたず、だから人はけっして言葉で愛を確認したりコミュニケーションをはかっているわけではない。最後の朝のローレンとレイのように。
 でも皮肉なことに、ローレンは夫と暮らしていた家にいつのまにか住みついていた「彼」──「時間を確実な連続性の中に存在するものとして思い描くことができ」ず「未来を記憶している人間」である彼、まるでエイリアンのように奇妙な文法をもって語り(「月光を意味する単語は月光」)、テープレコーダーのように他人の言葉を一字一句違わず仕草まで真似しながら繰り返す「彼」──の口からもれる亡き夫の声に生きたレイとのコミュニケーションの回路をみいだすのである(「これは死者との交信とは違う」)。
 ただしその言語=声はどこでもない場所からではなく、ほかならぬローレン自身の身体から出てくるものだ(「身体が空洞であるかのような声」)。
《それは真実ではない、なぜなら真実ではあり得ないから。レイがこの男の意識の中に生きているはずはない。この男の言語体系の中に。歩いたり話したりする連続体[コンティニュアム]の中に生きていることなどあり得ない。
 かっこいい言葉だ。どういう意味なのだろう?
 それは連続しているひとつの物、連続して続いている物の全体を表わしている。彼女はそう思った。そしてある一部分と他の部分、これとそれ、現在と過去を分ける方法は、自己の判断で分断することしかないのだ。
 これこそ、彼の能力に欠けている点なのである。
 彼女は身体のワークアウトをしていた。冷たい床にうずくまり、自分心の匂いを嗅ぐ。
 しかし、こんなことは真実であるはずがない。彼が時間の論理に支配されず、ひとつの現実から別の現実へと移動できるなんて。こんなことは不可能だ。人は時間から作られている。それはあなたが何者かを語ってくれる力なのである。目を閉じれば、あなたは時間を感じる。時間こそ、あなたの存在を定義する。
 しかし、このことこそが肝心な点なのだ。彼がどういうわけか他の存在の範囲内へと、他の時間生命へとはみ出していき、染み込んでいくこと。それこそが彼の混乱と苦痛の一側面となっている。》
 こうしてローレンは「自己の輪郭に合わせて作られた状態にただ入っていくのではなく」「自分自身で未来を築きた」いと願うようになっていく(「そこには物語がある、意識と可能性の流れが。そして未来が生じる」)。そして「両性ともに包含し、名のない数々の状態を表わす」身体を獲得し、「他人になるプロセス」としてのボディ・アートを完成していくのだ。
 身体のワークアウトを通じて物語と時間を、つまり言語を更新すること。もちろんドン・デリーロがこの作品で達成した水準をその程度の言葉でくくることなどできない。(最後にひとつだけ。三人称で綴られる作中ときおり「あなた」と呼びかけられるのはもちろんローレンだが、同時にそう呼びかけるのもローレンその人ではないか。「空洞」となったローレンの身体のなかでこの「あなた」はローレン自身の残響としてこだましているのではないか。──それとも「あなた」と呼びかけられているのはもう一人の「他人」である読者=私のことなのだろうか。)

★山内志朗『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2003.1.25)

 ライプニッツは当時発明されたばかりの顕微鏡を覗き、池の水の中にたくさんのプランクトンが泳いでいるのを知って、「宇宙は生命に満ちあふれている」と感動した。モナド(この世に一つしかない「単純な実体」)の概念はこの体験から生まれたもので、イメージとしては「細胞」に近いと山内氏はいう。「モナドという考え方は、おそらく身の回りの無機物にも生命を見いだそうとする発想、つまり生気に満ちた世界観から生まれた」。「モナドは、その本性が力であって、手応えがあり、直接的で、リアルで、生気に満ちた世界の見方から生まれたはずだ」。
 それなのに、と山内氏は続ける。「予定調和説になると、夢見がちで、間接的で、観念論的な世界に陥ってしまう」。ライプニッツのモナド論的世界観の「特異な特徴」は、「モナドは窓を持たず、他のモナドに観念的な作用しか及ぼさないが、実在的な絆がある」とする点にある。たとえば、「ヨーロッパにいる妻が亡くなった場合、インドにいる夫は男やもめになるが、その際、彼には実在的変化が生じる」とライプニッツはいう。「実在的変化」とは「リアルな変化」ということだが、これは「不思議な考え方」だ。ライプニッツの持っていたリアリティの感覚は現代の常識人とは異なっている。「私は、時々ライプニッツは希薄なリアリティの中で喘いでいる孤独なモナドなのではないかと思ってみたりする」。
 モナドの「直接的で、リアルで、生気に満ちた世界」と、モナド相互の実在的な絆(予定調和)がもたらす「夢見がちで、間接的で、観念論的な世界」との齟齬。この二つの世界を結びつけるために、山内氏が導入したのが「濃度=強度」の考え方であり、モナドを〈自分〉(「実存的不安」に震える私)のことだとする視点であった。
 モナド相互の実在的絆とは、無限なる宇宙がモナドの襞の中に「渾然と」与えられ、その宇宙が「地平」として存在していることだ。その地平には「寄せては返す波のような、濃淡のきらめき」がある。そして〈自分〉は、地平の中心部の「最も際立った濃度のところ」に現れる。では〈自分〉とはどういうものか。ライプニッツによれば、それは自覚・反省作用、すなわち〈自分〉で〈自分〉を考えるということであり、「さらに〈自分〉を世界にただひとりしかいないものとして見いだすことだ」。
 希薄なリアリティの中で喘いでいる〈自分〉(孤独なモナド)の唯一性とは何か。それは、時空規定の唯一性によって条件づけられるもの(フジツボの唯一性)とは別の種類の唯一性である。すなわち〈今・ここ〉に存在することの「偶然性」を基礎として、そこから形成される唯一性のことである。
 偶然性とは「反対が可能なこと」であって、現実とは生まれざる無数の可能なものから生じてくる。だから〈自分〉の唯一性を問うことは、事実の次元(そこでは既に偶然性、同一性、唯一性が与えられている)を支える「根拠」への問いにほかならない。
《「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」を問うとき、この〈自分〉は、世界に埋没して存在するのではなく、唯一性を反省する限りで、その唯一性が意味を持つような存在者としてある。(略)簡単に言ってしまえば、「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」という問いの答えは、その問いを行っていることそのものなのである。》
 こうして山内氏は、モナドの概念、予定調和説とともにライプニッツ哲学の三本柱をなす最善説の読みかえを行ってみせた。それは、答えのない哲学の問い(謎)を生きること、すなわち自由であることの実質を表現するぎりぎりの思想だったのである。《〈謎〉は〈謎〉のままであり続けるべきだ。〈自分〉が〈謎〉ではなく、〈謎〉が解明されてしまうのは、〈謎〉を問う人間が存在しなくなったときである。》

★大庭健『私はどうして私なのか』(講談社現代新書:2003.2.20)

 この人が書いているのは私のことだ。詩や小説を読んでいてそう思う時がある。そんな思いと出会うことが文学を読むことの意味だと思い込む時期がある。どうしてこの人は私のことを知っているのだろう。親も友人も恋人も知らない私のことを確かに分かってくれる人がここにいる。
 では、ここに出てくる「私」とはなんだろう。それは大庭さんが本書で批判している「他に同類のない内なる自分」、固有名によって指示される手垢のついた薄汚れた一人物とは独立の「何物によっても汚染されていない、ピュアな自分」のことなのだろうか。
 そうかもしれない。私探しや多重人格ばやりの近年の社会事象に対する「時代批評」の観点からは、そう言えるのかもしれない。しかしそうだとしても、そのような意味での「ピュアな自分」は、少なくとも「〈私〉の存在の比類なさ」(永井均)や「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」(山内志朗)といった哲学的な「謎」をめぐる議論に出てくる「私」とはまったく関係がない。
 大庭さんによれば、私であること、自分を意識するようになることは、他人とのかかわりや言語の習得と概念的に不可分である。そのような自分を共通の指示対象とする固有名(何野誰兵衛)や記述句(何々をした人)と、「私」という代名詞(指標語)の意義(センスつまり対象の与えられ方)はそれぞれ違う。「内なる自分」とは、固有名や記述句と指標語の意義の違いを指示対象の違いと取り違えた結果紡ぎ出されたお話にすぎない。
 そして大庭さんは、「指標語「私」の指示対象は、あなたが言う「あなた」として与えられる」のであって、それは他者の呼びかけに対する応答、つまり「呼応可能性という意味での、責任の主体としての、この私」のことであると議論を進めていく。
 私は、本書での大庭さんの議論にほぼ同意できる(正確には、そんなこと言われなくても判っている)。そして、その上でもう一度確認しておきたいのは、大庭さんの議論は、「私」という語の指示対象と意義のスリかえに気づかぬまま「ピュア」を気取ることが「八○年代以降の、…粗野にはオウム、繊細には独我論、といった一連の事象」と同根だというときに念頭におかれている永井均さんの「独我論」や、山内志朗さんが『ライプニッツ』で論じている「孤独なモナド」の問題とは関係がないということだ。
 保坂和志さんは『言葉の外へ』に収められたコラムの中で、「言語哲学というのは理屈の勝った子供がそのまま大人になったようなもので、明らかに間違っていることは誰にでもわかるけれど、その間違いを指摘するとなると骨が折れる」と書いている。「分析哲学にいかれた」大庭さんが「言語の哲学・思考の哲学に棹さして考えることに徹した」という本書を読んで、実は私もこれに似た感想を得た。
 でも、大庭さんの議論が「間違っている」とは思わない。むしろ、大庭さんは「自分の死・他者の経験という究極の非在のはざま」で思考を営み、その全プロセスを言葉で叙述することで、そのような営みがそもそもいかにして成り立っているのかという問い、つまり「私」を含む世界の存在構造の謎という哲学の問いが発生する現場を地均ししているのだと思う。それどころか、そのような問いを問うことの意味が、実は「謎を生きること」そのものであることさえ示唆している。
 もし「間違っている」としたら、それは本書がすぐれた「時代批評」の書(もしくは擬似哲学退治の本)であってそれ以上ではないことを、大庭さん自身が気づいていないことだろう。

★野村一夫『インフォアーツ論 ネットワーク的知性とはなにか?』(洋泉社新書y079:2003.1.22)

 インターネットを始めたばかりの頃は、見知らぬ他人から届いたメールの言葉に過敏に反応した。微妙な非難や悪意のニュアンスを嗅ぎとったときの、心の襞の奥深くに浸透していくあの嫌な感じ。他人の敵意が生のカタチで、むきだしにされた裸の心につきささっていくようなショック。質料ぬきの形相そのもののような、これまで決して接することのなかった他人の生の声がメールの文章には託されていて、それが防御のしようのない凶器のように思えたものだった。その反面、善意や好意のこもった言葉には、わけもなく有頂天にさせられた。それはまるで使徒が伝える福音(グッド・ニュース)のように私を更新し、ひととき素直で幸福な気分にしてくれた。
 今ではすっかり鈍感になって(ネット社会の「モナド」として一人前になって?)、メールの言葉が凶器になったり福音になったり、メビウスの輪のように反転することはほとんどなくなった。──社会学サイト「ソキウス」の作者として、インターネット初心者時代の私にとって「神々」の一人だった野村さんが、本書の第一章と第二章で縦横に論じている「ネットの言説世界」の表目=光(市民公共圏)と裏目=影(ことばの市場経済)の対比は、これとはもちろん別の次元の話だけれど、経験者なら誰でも知っているネット社会の実相を鋭く鮮やかに記述した出色の社会学的エッセイである。
 とりわけ、マス・コミュニケーション理論(「沈黙のらせん」「培養効果」等々)を応用して、マス・メディアとしてのネットの影響力を分析した第二章後半が新鮮で説得力に富んでいるが、なんといっても本書のハイライトは、ネット社会の影を光へと転じる情報教育のあり方を論じた第三章(インフォテック=情報技術の原理に基づく「情報工学帝国主義」批判)と第四章(インフォアーツ=情報学芸力=ネットワーク的知性の原理に基づく「眼識ある市民」論)にある。続く第五章と第六章は、それぞれインフォアーツ的な情報主体論と情報環境(共有地)論である。
《…私は何も情報工学やリベラルアーツがいらないと言っているのではないし、否定するつもりもない。結論から言えば、図と地の転換が必要なのである。つまり、現在はインフォテックという画用紙(=地)にユーザーの情報能力(=図)を描いてしまっている。図と地の関係が逆転しているのだ。インフォテックに適応する能力開発ではなく、インフォアーツのための「わざ」をこそ構想すべきではないのか。インフォテックは、あくまでもその「わざ」の一選択肢にすぎないことを明確にしておきたい。》
 これは「技術がひそかに内包する技術的思考」(190頁)に批判的に対峙しようとする人文的知性の言葉であり、本書は21世紀の新しい「文献学」の宣言である。

★鈴木道彦『プルーストを読む──『失われた時を求めて』の世界』(集英社新書175:2002.12.22)

 私はちくま文庫版の井上究一郎訳全十巻を七年越しで読んでいる。いまちょうど第七巻、第四編「ソドムとゴモラ」の第三章を読み終えようかというところで、アルベルチーヌの妖しい魅力にすっかり心を奪われている。数か月集中して読んでは中断し、また数か月後に再開するという、いたってだらしない読み方なのだが、離れていても心のどこかでゆっくりと物語は熟成していて、再開が再会につながる不思議な読書体験はこれまで味わったことがない。
 鈴木氏の優雅で品格のある文章で綴られたこの書物は、随所に挿入された流麗な訳文と響き合って、しばし陶酔の時を与えてくれた。プルーストの豊饒で奥深い世界から、まるで壊れ物のようにいつくしみながら切り出された素材(たとえば想像力と知覚の関係)や人物(たとえばスワンやアルベルチーヌ)と鈴木氏との「魂の交流」の一部始終が記された日記、あるいは魂の蘇りの秘儀の全過程を細大もらさず丹念に書きとどめた覚書、そのような秘められた文書を盗み読みしたような、あたかも鈴木氏の精神生活をついうっかり覗き見したような後ろめたさを覚えさせられるほどの愉悦。
 生涯をかけて一つの文学作品を読み続けるという生き方がここにはあり、それは、すべてが最終章で再び見出されるこの書物の構成自体がプルーストの未完に終わった「虚構の自伝」を反復・模倣するものであったように、鈴木氏もまた『失われた時を求めて』を書き続けていた作者の一人だったということだ。そしてそのことは、「真の生、ついに見出され明らかにされた生、したがって十全に生きられた唯一の生、これこそ文学である」というプルーストの究極のテーゼへと通じている。
 私もまた鈴木氏にならって、プルーストの次の言葉の引用をもってこの賞讃の辞を終えることにしよう。《一人ひとりの読者は、本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。作品は、それがなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械にすぎない。》

★佐々木能章『ライプニッツ術 モナドは世界を編集する』(工作舎:2002.10.10)

 希代のネットワーカー、ライプニッツ。その射程は、千年に一人とも言われる哲学者にして数学者、法学者、歴史家、等々の諸学の「編集」から外交官として活躍、さらには本書第3章「発明術と実践術」で詳細に論じられる計算機の発明家にして図書館員、鉱山開発者といった実用面に至るまで、およそ森羅万象、人知の至るかぎりの広範な圏域に及ぶものであった。しかしライプニッツの創造性の秘密は、「ネットワーク」というどこか神の視点を思わせるところがある言葉よりもむしろ「リンク」(現代版アルス・コンビナトリアとしての)というキーワードでもってとらえる方がよりアクチュアルに解明できる。
 「ライプニッツの思想に本質的とも言えるような表現手法がある。これを「リンク」と呼んでみよう」。『モナドロジー』はライプニッツのリンク集なのではないか。──本書はこの斬新かつ刺激的な着想に導かれて、まず第1章「発想術」でライプニッツの考え方の基本とも言える連続律や、類比の方法(図と地の絶えざる反転としての)を一瞥し、続く第2章「私の存在術」では、個体(モナド)と世界(予定調和)との往還運動(相互リンク)としてのライプニッツ哲学と、その往還がもたらす緊張関係に対するリスク・マネジメントとしての保険論に説き及び、第4章「情報ネットワーク術」で、リンクの哲学としてライプニッツの活動を「裏から」覗き見る。
《リンクを張るという営みは、あるものとあるものとを結びつけるということだけではなく、「結びつける」という働きそのものを生み出している。(略)リンクは新しいネットワークを築くことによって新しい空間と時間とを生み出すのである。まさに、事象の新たな秩序がそこには見いだされる。そしてそれは新しい事物を生み出すことでもあるのだ。/情報はその場所を固定してしまうと産出能力を失ってしまう。たえず揺り動かすことが必要だ。ライプニッツが書物に対してとったさまざまな試みは、情報の沈殿物である書物を掻き乱すことによって情報を浮き上がらせようとするものであった。(略)ライプニッツはあらゆる場で情報の掘り起こしに努めていた。それは新しい意味を探り、新しい世界を生み出そうとする試みであった。》
 フォイエルバッハは、スピノザの哲学は望遠鏡でライプニッツのそれは顕微鏡だ──《スピノザの世界は、神性という無色なガラスであり、われわれがそれを通して一つの実体が放つ無職の〈天の光〉以外の何物をも見つけないような媒体である。ライプニッツの世界は、多角形の結晶体であり、自分に特有な本質を通して実体が放つ単純な光を無限に雑多な〈光の富〉の中で多様化し且つ暗くするようなダイアモンドである。》(『ライプニッツの哲学』)──と述べた。この二つの世界が相互にリンクを張ること(もしくは類比=図地反転の継続)こそ、スピノザやライプニッツの同時代とも言える(ただし、何かが反転している)現代の課題なのではないか。

★デヴィッド・エドモンズ&ジョン・エーディナウ『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一○分間の大激論の謎』(二木麻里訳,筑摩書房:2003.1.23)

 哲学には未解決の問題があるか。いや、そもそも哲学には「問題」(プロブレム)があるのか。ウィトゲンシュタインにとって哲学の目的は「蠅とり壺にはいりこんだ蠅に、出口をしめしてやること」であった。それは「謎」(パズル)を解くことに等しい。
 『論理哲学論考』のころのウィトゲンシュタインなら、言語のかくされた構造に注意すれば謎は解けると言うだろう。後記のウィトゲンシュタインなら、哲学はフロイトの精神分析のような「言語による治療」にほかならないのであって、言語の表面に注目することで謎は解ける(「哲学の目的の一つは、潜在的に無意味であるものを、はっきりと無意味なものとしてしめすことにある」)と答えるだろう。
 だが、ポパーはこのような考え方にはくみしない。ポパーにとって、帰納法や確率や因果関係や無限の概念(潜在的無限と現実的無限)、あるいはロック由来の一次性質と二次性質の区別は、まぎれもなく哲学の「問題」だった。「わたしたちがどう支配されるか、社会がどう構成されるか」も、これらにおとらず哲学者がとりくむにふさわしい「問題」であった。
《じっさい、たとえば目前には国際問題をかかえた現実世界があった、H3号室の議論のはげしさを十分理解するには、そのうしろにある政治的な枠組みを見とおさなければならない。一九四六年[本書のタイトルに出てくる「大激論」が交わされた年]とは、どんな年だったのだろうか。ファシズムの脅威はようやくおさまったばかりで、もう冷戦がはじまっていた。哲学者は政治にかかわるべきだろうか? ポパーも、ラッセルも、こたえはおなじではっきりしていた。「かかわるべきである」。》
 ──以上は、第一八章「哲学的パズルという「謎」」からの抜粋である。それが本書のエッセンスだ、などと言うつもりはない。(私自身は、ウィトゲンシュタインにとっての「問題」は、パズルとしての謎ではなくて答えのない謎、そもそも言葉でもって問うこと自体がなりたたない「エニグマ」としての謎だったのではないかと、若干の異和感を覚えている。)
 二木麻里さんが「訳者あとがき」で書いているように、このノンフィクション作品は、「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとカール・ポパーの二重評伝」「群雄割拠する二十世紀前半の哲学界をえがく、ぜいたくな絵巻」「ウィーンとユダヤの民の近現代史」の三通りの読み方ができる。いずれの読み方においても、この本は第一級の作品である。
 なにより面白いのは、二人の異星人のような哲学的人生とその情熱を、「火かき棒」事件(ポパーとのはげしい応酬に際して、ウィトゲンシュタインは真っ赤にやけた火かき棒をふりかざしたとされる)という「象牙の塔のおとぎばなし」に託してあますところなく叙述しきった点である。このことを本書全体を通じて十分に味わいつくしてこそ、先の抜粋は意味をもつし、「火かき棒」が象徴するもの、そして「火かき棒」事件に託した著者たちのメッセージが鮮明になる。
《大きな問題にたちむかうときは、たんにそれがただしいからと主張するだけではたりない。どうしても情熱がいる。いまはもう、そういう知的な焦燥感は霧のようにきえてしまった。寛容性、相対主義、自分の立場を決めることをこばむポストモダンな姿勢、不確実性の文化の勝利、これらすべてをかえりみれば、火かき棒のような事件はもうおこらない。それにおそらく、いまではあまりにも学問の専門化がすすんでいる。そして高等教育の内部にもあまりにたくさんの運動や分裂がある。重要な問題は失われつつあるようにみえる。》

★アンドリュー・ニューバーグ他『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』(茂木健一郎監訳,PHP研究所:2003.3.28)

 「神経」という語は「神気の経脈」を略して造られた翻訳語で、初出は『解体新書』。神経すなわち「神気の経脈」を英語に逆翻訳すれば'spiritual pathway'、つまり「神の通い路」である。
 本書の第一の仮説は、スピリチュアルな体験(絶対者との神秘的合一体験)には神経学的な根拠があるというもので、このことを著者たちは「神があなたを訪れるとき、その通り道は、あなたの神経経路以外にはあり得ない」表現している。これはまことに「神経」という語の由来にかなった考え方だ。
 著者たちはまず、先史時代の人類の実存的不安(死への恐怖)から「神話」が創造される神経学的過程と、神(超越者)との合一や集団の一体感を身体に刻印する「宗教儀式」の発生過程の生物学的側面を解明する。そして、本書の白眉ともいうべき「瞑想」による超越体験の脳科学的説明(神秘的合一体験をもたらす神経学的機構は、自己の感覚を作り出しそれを空間内で位置づける脳の方向定位連合野に情報が入ってこなくなり、自己と非自己の区別があいまいになることにある)と進化論的説明(神秘的合一体験の神経生物学的機構は、性的反応のための神経回路の転用によって進化してきた可能性がある)を経て、最後に「宗教」の起源(神の発見)に迫る壮大な仮説(神話)をうちたてる。
《宗教が誕生するきっかけを作った超越状態が、神経学的にリアルであることに、ほとんど疑問の余地はない。(中略)実際、われわれも、「リアルなものはすべて物質世界の中にあり、物質世界よりもリアルなものはない」という仮定から研究をはじめた。ところが、最新の科学は、われわれを驚くべき結論へと導いた。それは、神秘家たちは実際に何かと出会っていたのかもしれず、われわれの心に備わる超越体験のための神経学的機構は、真に神的なものの究極のリアルさを垣間見せるための窓なのかもしれないという結論だった。》
 こうして、著者たちは本書の第二の仮説へと読者を導いていく。それは、「神秘家たち」の一人であるエックハルトが直観的に理解していた神経学の根本原理の一つ──「われわれがリアリティーだと思っているものは、脳が作り出すリアリティーの解釈にすぎない」──にかかわるものだ。すなわち、ヒトは絶対的一者との神秘的合一状態へいたる才能を遺伝的に受け継いでいるのだが、そのためには「心を利用して、心を超越しなければならない」、つまり「自己の気づきを持たない心」が存在しなければならない。
《夢がそれを見る人の心の中にあるように、リアルでないものは、よりリアルなものの中にあるにちがいない。絶対的一者が本当に主観的・客観的なリアリティーを超越しているなら(つまり、自己の主観的な意見や外部の世界よりもリアルであるなら)、自己と世界は絶対的一者のリアリティーの中にあり、ひょっとすると、それによって創造されたのかもしれない。(中略)絶対的な高次のリアリティーや力の存在には、少なくとも、純粋に物質的な世界の存在と同じ程度の合理的可能性が認められると言ってよい。》
 ──実に刺激的な「実験神学」の書だ。以下は、本書を読んで私が想起したこと。
 D.H.ロレンスは、古代ギリシャ人のいうテオス(神)について、「ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ」と書いている(『現代人は愛しうるか』福田恆存訳)。「水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象する」。
 「だが、これは決して単なる質ではない、厳存する実体であり、殆ど生きものと言ってもいい。それこそたしかに一箇のテオス、つめたいものなのである」。私の勘違いでなければ、ロレンスのテオス(神)とは本書でいうリアリティのことであり、監訳者の茂木健一郎氏さんが「あとがき」で言及しているクオリア(質感)のことである。
 また、『エックハルト説教集』(田島照久訳)に出てくる「ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである」という言葉。
 本書第3章の注に「物質的な脳とは無関係に存在する「魂」というものがあり、これを通じて神がわれわれに語りかけてきたとしても、脳が関与していない以上、認知可能な意味があるとは考えられない」という文章が出てくる。魂のことは神経学の埒外であるということなのだが、たとえば言語は魂なのではないか。あるいは言語(魂)を含む物質概念を確立すること、そしてこの「概念を具体的なものに変換すること、簡単に言えば、現実感や真実味などの性質を付与する」具象化の作業が、ブレイン・サイエンスの課題なのではないか。

★福井晴敏『終戦のローレライ』上下(講談社:2002.12.10)

 「既存の原理を超越した高感度水中探索装置」もしくは「千里眼」。これがナチス・ドイツが「開発」した「ローレライ」の定義である。しかしてその実体は? その致命的な弱点とは? そして、「ローレライ」を使って「国家としての切腹を断行」するとはいかなることか。「日本民族の滅亡を回避し、あるべき終戦の形をもたらす」手立てとは?
 これらの謎をめぐって、この雄大な物語は進行する。そこには『亡国のイージス』ほどの緊密な完成度はない。福井エンターテインメントの魅力である戦闘シーンの迫力は前作に拮抗する(スケールにおいてむしろ凌いでいる)ものの、いま一つの魅力であるヒューマン・ファクターの叙述はやや甘い。しかし、その分メッセージ性はより強く、読後の苦い充足感は秀逸。傑作である。
《そんなふうに潰しあい、淘汰しあい、とぐろを巻くだけの種の連鎖なら、なぜこうも胸が痛む。なぜ人は希望の所在を追い求め続ける。生物の業に支配されていても、人の血と知は新たな地平を求めている。生きたくても生きられなかった人々の声が、いまだ鼓動を続ける自分の心臓が、等しく同じ言葉を叫んでいる。/『なぜ』(略)/終わらせるために。/この世界の戦をあまねく鎮めるために、いま私は魔女になる。船乗りたちに死をもたらす魔女ではなく、すべての戦に終わりを告げる終戦のローレライに……。》
 ──作中、『ドグラ・マグラ』の「胎児の夢」に言及される。「ローレライ」とは、エンブリオである。《大海を漂う単細胞生物が、結合すべき同族と結びあい、互いの感覚を拡大させる至福感。二つの個がひとつになり、新たな個を形成する──産み出す──瞬間の、数億年にわたる種の連鎖に組み込まれるおののきと、自分という刹那も永遠の一部なのだと識る高揚感。》

★池井戸潤『架空通貨』(講談社文庫:2003.3.15/2000)

 過去のある高校教師辛島武史が教え子黒沢麻紀の窮状を救うため、闇の通貨が流通する企業城下町に乗り込む。そこで辛島が出会ったのは、この「黒い町」に君臨する田神亜鉛のカリスマ経営者阿房正純と、その財務コンサルタントをつとめる謎めいた女性加賀翔子だった。──志水辰夫の傑作『生きずりの街』のあの感動を予感させる人物配置と、金融小説に新機軸をもたらす野心のうかがえる状況設定に、傑作エンターテインメントへの期待が高まる冒頭部だ。しかし物語はその後、予想外の方向へと展開する。教師と女子高生との間に屈折した葛藤は生じることなく、阿房の人物像は平板である。それどころか、辛島と翔子との説明不足で説得力のない絡み(というより、辛島の一方的な翔子への思い入れ)や便利な友人佐木の登場に、当初の感興はすっかり冷めていく。その佐木の口を借りて、マネーロンダリングや翔子の復讐譚といった物語の骨格が延々と説明されるに至っては、小説はすでに破綻している。こうなると「架空通貨」というタイトルは無用の長物と化すし、周到に張られた伏線は結実することなく、小説的豊饒や物語的余韻など望べくもない。未完の傑作を内に秘めた失敗作に終わっている。構成がどこか歪なのである。二つの作品が頭と尻尾でつながっている。筆力のある著者なのだから、もう一度はなから書き直すべきだ。このままでは惜しい。

★小林信彦『名人──志ん生、そして志ん朝』(朝日選書720:2003.1.25)

 『文藝春秋』(2003年4月号)に中野翠さんとの対談「名人・志ん朝のいない風景」が掲載されていて、そこで小林信彦さんは「今でも喪中状態ですよ(笑)」と語っている。「志ん朝さんが亡くなって、これで僕の生まれ育った世界が消えちゃったんですよ。家は空襲でなくなっているにせよ、町が幻想として残っているとすればそれは〈言葉〉です」。「名人が一人亡くなるということは、ある文化をみんな持っていってしまうことなのだ」。小林さんが言う「幻想の町=言葉」とは江戸弁のことだ。中野さんの発言「落語ってやっぱり言葉の面白さですね。卓抜な、面白い死語の宝庫」に、小林さんは「志ん朝さんが江戸弁を自在に操れた最後の一人です」と応じている。
 荷風が「屋根のない勧工場[デパート]の廊下」と形容した〈路地〉の消滅(それは関東大震災がもたらした「江戸言葉による笑いの共同体」の消滅とパラレルであった)にはじまって、東京オリンピックへ向けた「おそるべき都市破壊」──《オリンピックが壊したのは街だけではない。東京の人間の証拠である東京言葉が消滅しつつあった。(略)東京言葉を無意識にしゃべる人々、三味線をしゃむせんとしか言えない人々が死ぬ時期がきていた。》──へと、世相の転変と個人史をからませながら、つまるところは「言葉の面白さ」につきる江戸落語の最後の高揚と熟成、そして静かな退場を描いた本書第三章「志ん生、そして志ん朝」は、それ自体、小林さんの円熟した語りの藝がいかんなく発揮された江戸弁への挽歌である。
 ともすればこみあげようとする感傷を排したその語り口は、「落語は現代文学とも深くかかわっている」ことを漱石の『猫』に託して奔放かつ丹念に論じつくした第四章「落語・言葉・漱石」に出てくる、「人情噺を排し、滑稽を強調した近代落語」に傾倒した漱石の「乾いたユーモア」に通じている。それはまた、芸術祭賞に輝いた志ん生の「お直し」をめぐる小林さんの評言──「重い内容である。いくらでも暗くなる話だが、志ん生が語ると、そうはならないで、ドライ・ヒューモアというか、乾いて、一筋の光がさす」──にも呼応している。小林信彦の批評は、落語である。
 ──本書を読み終えて、さっそく志ん生の落語のカセットを買い求め、いつ頃録音されたものかわからない「品川心中」と「淀五郎」の二本を聴いた。講演テープで知る小林秀雄の声と語り口にどこか似通っていた。それはまた、活字でしか読めない漱石の講演にも通じていると思った。

★まどかゆき『淫花の蜜戯』(性の秘本スペシャル6,河出文庫:2003.3.20)
★睦月影郎『僕はペット』(マドンナ社:2003.4.10)

 調教される性と調教する性、そして心を求める性。孤独な女性の同時進行の三つの性を書き分ける『淫花』の試みは野心的。しかし結末に不満が残る。『ペット』では、ついにカンニバリズムにまで至る究極の官能体験が描かれる。この分野(少年愛玩物)の官能小説は、本作で極限に達した。

★庄野潤三『庭のつるばら』(新潮文庫:2003.2.1/1999)

 交差点にたどり着いたとたんに横断歩道の信号が赤に変わった時、なんとついていないことだと腹立たしく思うか、やれやれここで一休みと余裕をもって周囲の景色に目をやるか。たとえばこのような取り立てて言うほどのこともない日々の出来事への態度の違いが、俗に「生活の豊かさ」などと言われている境地を心底から味わえるかどうかの境目になる。ただしそこには体力の衰えというものが大きく影響しているに違いなくて、老いをまさに身をもって体験している者にしか判らない心の淡泊さというものもあるのだろうが、それもまた人様々である。要はそういった「等身大」の感覚や思考や感受性を、気が遠くなるほどに長くしかしあっけなくも短いはずの人生の積み重ねのなかでどこまで鍛錬し研ぎ澄ますことができるかにかかっている。──「夫婦の晩年を書きたい」。齢七十を越えた庄野潤三氏の「湧き出る泉」のような気持ちは、年に一冊という、はやりの言葉を使えば「スロー・ライフ」そのもののペースで営まれ語られていく生のかたち(大切な事は何度でも飽きることなく反芻する)となって結実している。その文学的達成は、もしかすると前代未聞のことなのではないか。本作は『貝がらと海の音』『ピアノの音』『せきれい』に続く第四作目。

★北野勇作『ハグルマ』(角川ホラー文庫:2003.3.10)

 現実(夢や幻覚)が虚構(ゲーム)に取り込まれ、再び現実(肉体感覚)に送り返される。この果てしない繰り返しのうちに無数の可能世界(ストーリー)が分岐し、イジェクトもリセットもできない入れ子式の無間地獄が延々と続いていく。「ハグルマ」と名づけられた開発中のゲーム(「プレイヤーを催眠状態にまで導き、その当人のなかにある夢や幻覚を掘り出してみせるゲーム」)にはまった男の悪夢の世界を描いた作品。歯車とは「ある規則で動いている世界に、別の軸の世界からの力を伝える仕組み」のことで、人間の意識の比喩である。世界の「すべてに意味があり、それらは互いに作用しながら連動し、ひとつの仕組みを作っている」のではなくて、「ほんとうはすべてがばらばらで、人間の意識がそれらを無理やり噛みあわせ繋げている」。この中学生でも考えつきそうな、だからこそ「肉体感覚」に根ざした真正の哲学の問題がそこから立ちあがるはずのアイデアに、作者が心底リアリティを感じていれば、もっと迫真の恐怖を描くことができたろう。カバー裏に「『ドクラ・マグラ』的狂気の宴」と書いてあったが、誇大広告だ。

★嶽本野ばら『カフェー小品集』(小学館文庫:2003.4.1/2001)

 京都の大学生だった頃、行きつけの名曲喫茶があった。白川通と今出川通が交差するところ、銀閣寺道駅で市電を降りて南に少し下った西側に「ゲーテ」という名のその店はあった。小津安二郎の映画(たしか『麦秋』)に端役で出たという年輩の店主がいて、めったに口をきくことはなかったけれど、ほぼ毎日通ってはバッハの無伴奏チェロ組曲をリクエストして、好きな本の抜き書き帳を作ったり、ついに仕上げられなかった小説の書き出しの部分をいくつかノートに書きつけたりもした。そうした古いカフェー(「カフェ」でも「喫茶店」でもない)に長時間いすわっていると、確かに、何かしらこの世に実在したとは思えない出来事の記憶が甦ったり、ありもしなかった恋愛の早すぎた一部始終が思い出されたりする。この「エッセイ集とも短編小説ともガイドブックともとれない不思議な小品集」(作者の言葉)は、小説が生まれる現場(孤独に耽るための場)をフィクションとノンフィクションの両面から余すところなくとらえた、忘れがたいシャレた味わいと「実用性」を兼ね備えた短編集だ。

★古橋秀之『T] ノウェム』(電撃文庫:2003.2.25)

 「ゲーム小説」というジャンルがあるんですね。私には未知の世界ですが、こんどはじめて読んで、このいかにも作り物の世界がけっこう面白かった。ちょっと唐突ですが、かの「教養小説」が、一つの人格が徐々にビルドされていくプロセスを追体験して、主人公への感情移入を楽しむロマンだとすれば、この作品など(「工学小説」と名づけておきましょうか)は、あらかじめ輪郭づけられた複数のキャラが、取り替え可能なシチュエーションのなかで絡み合い織りなしていくストーリーそのものを純粋に消費しながら、作者との共同作業でもって架空の背後世界を想像していく、かなり抽象度の高いプロセスを楽しむノベルなんだと思いました。「背後世界」とは無数の物語を生み出すデータベースのことで、ロマンにとっての実社会や神話的世界がもつ濃密なリアリティとは違って、いまたまたま上演されている筋書きがそこ(データベース)から切り出された一つのストーリーでしかないことを観客(読者)に指し示す、歌舞伎の書き割りのような希薄なリアリティを纏っています。こういった作品を読者に受け入れられるように書くには、かなりの才能が必要でしょう。

★イーサン・ケイニン『宮殿泥棒』(柴田元幸訳,文春文庫:2003.3.10)

 一瞬の気の迷いで、美しいけれど浪費癖のある妻と結婚した中年会計士の、成功した友人をめぐるありきたりの苦悩とささやかな、でもきっと激しく胸震わせたに違いない一時の快哉を淡々と描写する客観的な筆致(「会計士」)。妻に去られた男の、痛ましくはあるけれど同情に値しない孤独と、一人息子とのつかの間のふれあいや微妙なすれ違いを綴った、ほろ苦くて透明な哀しみが漂う絶妙な筆遣い(「傷心の街」)。老教師の小心きわまりない心の葛藤を戯画的に描く、嗤いや嘲笑、ましてやシニカルな冷笑でもない、かといってほのぼのと温かくもない乾いたユーモアを湛えた文体(「宮殿泥棒」)。──「人格は宿命だ」(ヘラクレイトス)。本書には、この二千年前の賢者の言葉を通奏低音とする、四つの見事な中編が収められている。短編小説の中でキラリと光るには月並みすぎるし、長編小説の主人公たるには心理的屈折のスケールが小さい。中編小説は、そんな凡庸な人物の凡庸な内面を観察するのにちょうどいい長さだ。

★中島義道『私の嫌いな10の言葉』(新潮文庫:2003.3.1/2000)

 『孤独について』を読んで以来、怒れる哲学者(イカれた哲学者ではない)中島さんのエッセイのファンになった。中島さんは押しつけがましい「共同体」を嫌う。言葉がまともに通用しない「世間」や「集団主義」を断固拒否する。「私ははっきり語ること、それを文字通り信じることに(大げさに言えば)命を懸けたいのです」。本書に出てくるこの言葉は、かつて『哲学の教科書』で示された哲学の定義──「あくまでも自分固有の人生に対する実感に忠実に、しかもあたかもそこに普遍性が成り立ちうるかのように、精確な言語によるコミュニケーションを求め続ける営み」──にぴったりと重なり合っている。つまり、哲学的問題と格闘することは、人生に対する態度の変更・決定の試みにほかならないということだ。(でも、こんな生き方は疲れるだろうし、周囲の人間はたまったものじゃないだろうな。)本書には、中野翠さんや塩野七生さんへの、まるで女神を敬うような純情なまでの賞讃の言葉や、含羞の人(?)中島義道の言い淀みがいっぱい出てきて、とてもいい。宮崎哲弥さんの「解説」もいい。

★ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(小川高義訳,新潮文庫:2003.3.1)

 短編小説を読む愉しみのすべてが凝縮されている。(といっても、「短編小説を読む愉しみのすべて」を語れるだけの経験があるわけではないけれど。)なんといっても、文章がきりりと引き締まっていて、人物の陰翳がくっきりと描き分けられている。無駄はないのに、何かしら語り尽くせぬ余剰があり、それが深い余情となって読者の脳髄のなかでひとつ鮮烈な像を結ぶ。幸田露伴は、俳諧とは「異なったもののハルモニイ」だと語った。短編小説を読むということは、たぶんそういうことなんだろうなと思う。(もちろん、俳諧と短編小説とでは文学的感興の種類は違うけれど。)──収められた九編は、いずれも絶品。個人的には「セクシー」が印象に残った。「セクシーって、どういう意味?」「知らない人を好きになること」。少年のこの答えは、ミランダの「素肌の下へしみこむような言葉だった。デヴの言葉もそうだったが、いまは火照るというよりは冷たく麻痺しそうだった」。たった一つの言葉で、不倫の愛の始まりと終わりを語り尽くす。こんな鮮やかな短編は、これまで読んだことがない。

★松沢呉一『エロ街道をゆく 横丁の性科学』(ちくま文庫:2003.2.10/1994)

 「死んでもいい」とまで思わせる性的快楽って、いったい何なんだ。それが実はよくわからない、というのが松沢さんの答えである。「性的快楽というのは、それ自体無条件に成立するものではなく、非常に精神性が強く、あいまいなものでさえあることがわかる。実は性的快楽の実体さえもわかっていないのが我々の科学というものだ」。だから、性的快楽とは何か(性科学)は、実験室での観察や書斎の思索ではなくて、妖しげで蠱惑的な横丁での、自分自身の器官と皮膚と前立腺をつかった実験(実地の体験)によってしか究めることはできない。ここに、風俗ライター(エロライターとも)としての松沢さんの方法序説が高らかに宣言されている。(「我勃起する、ゆえに我あり」?)──ジョルジュ・バタイユは、「死は涙に結びついているが、性欲は時として笑いに結びついている」(『エロスの涙』)と書いている。この「涙」と「笑い」こそ、本書にもその名が出てくる代々木忠さんの不朽の名著『プラトニック・アニマル』の世界に通じる、松沢さんの文章の潔さのゆえんなのだが、ここでバタイユなど引用したのは評者のテレ以外の何ものでもない。

★スティーヴン・キング『ドリームキャッチャー』1〜4(白石朗訳,新潮文庫:2003.2.1〜3.1)

 世界はあらかじめ夢見られている。ある科学哲学者の言葉だ。でも、もしそれが悪夢だったら? たとえばエイリアンが侵略して、人類が滅亡の危機に瀕するといったような。大丈夫、そんな時のためにドリームキャッチャーがある。それはアメリカのネイティブに伝わる魔よけで、「撚り糸を蜘蛛の巣状に編んだだけのたわいもない代物」のこと。この作品は、四人の幼馴染みと彼らの共通の友人が、人類の厄災をふりはらうドリームキャッチャーとなって、死を賭してエイリアンと闘う友情巨編である。「四本の紐には数多くの横糸が結びつけられているが、四本をつなぎあわせているのはあくまでも中心だった。四本は、中心の核の部分で融合しているのである」。──作中、印象的な言葉がある。「加速の度合いがある段階を過ぎると、あらゆる旅は時間旅行に変わる。そして、あらゆる旅の基盤は記憶だ」。それはこの作品自体にも言えることで、しだいに緊迫する三つ巴の追跡劇の「加速」とともに、五人の少年たちの秘められた「記憶」が明らかにされていく。物語のこの二重構造にうまく乗れたなら、読者は深い感動を味わうことになるだろう。残念ながら、私は乗れなかった。

★アンドレアス・エシュバッハ『イエスのビデオ』上下(平井吉夫訳,ハヤカワ文庫NV:2003.2.28)

 考古学アドベンチャーにタイムトラベルもののSFと神学ミステリーの風味を加味した、なんとも豪華で贅沢な趣向が凝らされた読み物。2000年前の人骨といっしょに発売を3年後にひかえたソニーのビデオカメラの取扱説明書が発掘されるという奇想天外なオープニングにはぐっときたし、後日譚で明かされるイエスの真実(ここの部分をもっとふくらませて、緻密に伏線も張って書いていれば、未聞の宗教エンターテインメント小説に化けたかもしれない)や、歴史と物語を一気にふりだしにもどすエンディングの余韻にはすてがたいものがあった。なによりヒーロー(ベンチャー・ビジネスに長けたアメリカの冒険野郎)とヒロイン(気が短くてスタイル抜群のイスラエルの格闘少女)がけっこう魅力的だった(シリーズ化に期待)。でも、肝心の活劇部分がやや物足りなくて、ヒーローとヒロインの恋と冒険の顛末も消化不良のまま。億万長者のメディア王や教皇付きマフィアといった悪役・敵役にも凄みと知謀が欠ける。せっかくの素材が旬の味を十分いかしきれないまま盛りつけられた料理を食したような欲求不満が残る。

★モーリス・ルヴェル『夜鳥』(田中早苗訳,創元推理文庫:2003.2.14)

 チャップリンとヒッチコックが一緒になったような感じ。あるいは、チェーホフの初期短編とポーの作品をあわせ読んだような感じ。乞食や売春婦、役人や集金人や犯罪者といった市井の無名者たちの生の一断面が、「恐怖美、戦慄詩」(夢野久作の評言)を湛えた31篇のコントのうちに丹念に採集され、人間心理と都市の闇に潜むものへの鋭敏な感受性をもったモーリス・ルヴェルの、ゾクゾクする語り口によってホルマリン漬けにされている。この独特の味わいは、どこか少年時代の読書体験を思わせる。──私の愛読書、橘外男や夢野久作の世界にしっかりとつながった、懐かしさを感じさせる田中早苗の翻訳が実にいい雰囲気を醸しだしている。巻末に付された小酒井不木や甲賀三郎や江戸川乱歩、等々の『新青年』作家たちの文章もいい。本邦ミステリーの原典とも言うべき珠玉の書物。
 

☆今月の棚卸し

★小林信彦『コラムの逆襲─エンタテインメント時評 1999〜2002─』(新潮社:2002.12.20)
★小林信彦『コラムは誘う─エンタテインメント時評 1995〜98─』(新潮文庫:2003.1.1/1999)
★小林信彦『コラムの冒険─エンタテインメント時評 1992〜95─』(新潮文庫:2000.1.1/1996)
★小林信彦『コラムにご用心─エンタテインメント評判記 1989〜92─』(筑摩書房:1992.5.20)
★小林信彦『コラムは笑う─エンタテインメント評判記 1983〜88─』(筑摩書房:1989.4.25)

 中条省平さんが『波』(2003年1月号)に寄せた『逆襲』の書評「つまらない時代に対する貴重な特効薬」で、「さよならを言うのは、しばらくのあいだ死ぬことだ……。小林信彦のコラムには、そんな恐ろしいところがある。そこが軽々に読みすごせない「コラム」シリーズの凄みなのである」と書いている。また、「今のような時代に、新聞にエンタテインメントについての時評を連載する。考えるだに恐ろしい、命をけずるような感覚との戦いなのではないかと思う」とも。ここに二度も出てくる「恐ろしい」が、小林信彦さんのコラムの真実を衝いている。
 シリーズはこれまで、絶版も含めて七冊でている。うち『ご用心』以降の四冊は中日新聞連載分で、この連載は今も続いているとのこと。嬉しい。『笑う』より前の『コラムは踊る─エンタテインメント評判記1977〜81─』と『コラムは歌う─エンタテインメント評判記1960〜63─』は、今回入手することができなかった。残念。『ご用心』以前の四冊、いずれもちくま文庫が品切れだという。そんなことだと、大衆文化と同様「出版文化の八○パーセントはがらくた」(『逆襲』)なんて言われるぞ。
 小林信彦さんの「コラム」シリーズはいずれもうっかり手にとったが最後、途中で止めることができなくなるという恐ろしい本だ。それこそ「コラムにご用心」。原稿用紙4枚という制約を逆手にとって、その形式がうちに秘めたる可能性を存分に引き出し、とても濃密な情報と蘊蓄と見識を、もはや名人芸ともいうべき軽妙な文章にほどよくブレンドして、サービス精神たっぷりに読者に提供する。「映画というのは、作られた時代のムードがわからないと、理解できない、とぼくは思う」(『逆襲』)などは、そのほんの一例。
 読者はすっかり満足し、良質のエンタテインメントを堪能したときのあの充足感と余韻を覚えるのだが、そこにほんの少しの不満が残る。もうちょっと浸っていたいのである。でも心配ない、ちゃんと次の話題が用意されている。だって「コラムの至芸80連発」(『冒険』の場合)なんだから。こうして読者は、小林信彦の術中にはまっていく。最後の頁にたどりついてしまうのが恐ろしい。(だから今回は一気に読まず、シリーズ第八弾が出るまで惜しみながら少しずつ読むことにした。)
 原稿用紙4枚云々は、中条さんも、「小林信彦の批評は氷山の一角である」に始まる『冒険』の文庫解説「凛然たる〈批評〉」でふれていた。──余計な説明をしていたらあっという間に枚数が尽きる。情報を詰めこみすぎると楽しい読み物ではなくなる。《この難しいバランスを曲芸のように巧みに取りながら、読者には難しさを毛ほども感じさせない。これぞ「説明しない〈批評〉」の醍醐味である。/この批評の根もとにはいうまでもなく、長い時間と大きな元手をかけて練りあげた凛然たる美学がある。だが、それより重要に思われるのは、小林氏の批評が、個人的な美学の表れである以上に、社会的な歴史意識の結実だという事実である。》
 引用中「説明しない〈批評〉」とあるのは、自伝的長編エッセイ『和菓子屋の息子』で小林信彦さんが箇条書きにした「下町の人間の特徴」の一つだ。──なんだか他人の言葉を借りてばかりだけれど、小林信彦の仕事を評価するような立場にも、また力量もないのだから、それはまあ仕方がない。でも、小林信彦の「コラム」シリーズは重要文化財である。ちゃんと永久保存にしておかなくちゃだめ。これだけは言える。

★『ヴォクトリア&アルバート美術館所蔵 英国ロマン主義絵画展』カタログ
★『ヴィクトリアン・ヌード──19世紀英国のモラルと芸術』カタログ

 「英国ロマン主義絵画展」は兵庫県立美術館(2003年1月28日〜4月6日)、「ヴィクトリアン・ヌード」の方は神戸市立博物館(2003年2月8日〜5月5日)。偶然なのかもしれないが、よくもまあ同時期に重なったものだ。
 

☆不連続なシネマ日記

★曽利文彦監督『ピンポン』(日本:2002)

 CG表現のナチュラルさに驚く。映像体験の無意識を鮮明に造形している。でも、観ていてほとんど気づかないし、気づく必要もない。リアルなものの表現をヴァーチャルな技術が支えている。この先、現実の見え方がどのように変わってしまうのだろうか。わくわくするほど恐ろしい。──演技と人物造形とストーリー展開と場面展開の不自然さ、編集のあざといまでの技巧性。それらの「過剰」が、シンプルな物語に力強い輪郭と骨格と感動を与えている。快作。