不連続な読書日記(2003.2)




★2003.2

★内田樹『期間限定の思想──「おじさん」的思考2』(晶文社:2002.11.10)

 おじさんは断定しない。だって、おじさんは大人だから。大人とは、事実と理念を「折り合わせ」、矛盾した要請に「同時に」応え、それに「引き裂かれてある」ことを常態とする存在者である。大人は「自立しつつ依存している」おのれのあり方への徹底的な知的反省の人である。
 たとえば、おじさんは臆面もなくラカンの請け売りをする。断定とはつねに「他人の言葉」の繰り返しでしかない。ラカンはそう言った。「自分の感覚」に基づいて「ほんとうのこと」を言おうとする人間は、「断定する人間」を前にして政治的に敗北するしかない。「だって、何言ってるんだか、分からないんだから」。要するに、「何でも断定的に語るやつはバカだ」。おじさんはそう断定する。そしてその断言が他者に達しようとする刹那、間合いを見きって、いまのはラカンの請け売りさ、とネタばらしをする。おじさんは含羞とユーモアの(つまり、自分との間合いを見きっている)人でもある。
 おじさんはまた、身をもって「現代思想」を生きる。だから、村上春樹の物語群はすべて「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを執拗に語っているのであって、そのような危機の予感のうちに生きている人間だけが「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」を知るのだと、一刀両断に喝破する。
 以上は、紙上の女子大生相手にくどくどと(失礼)説教をたれる第一章「街場の現代思想」のほんのさわりで、あいかわらず論理の達人の冴えは鋭い。(随所に挿入されたアジサカコウジの4コマ漫画も冴えている。これは本書の見所の一つ。)
 以下、「時評的子ネタ集」の第二章「説教値千金」、自書解説やらエッセイやら本音インタビューをこまめに集めた第三章「私事で恐縮ですが」と、おじさんは縦横に期間限定・地域限定の思考を繰り広げる。「では、沈黙するおじさんになりかわってウチダがご説明致しましょう」と、しゃしゃり出る(失礼)。
 いたる所に、値千金の名句、警句が鏤められている。次の言葉など、かの中村天風の七つの諫め──「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」──に匹敵する「極意」だと思う。
《相反する二つの力が一つのシステムの中で同時に作用するとき、そのシステムそのものがすごいエネルギーを放出する。バレエや仕舞のもたらす美的緊張感というのも、本質的にはそういうものだと僕は思っています。》
 世に正解はなく、意味などない。あるのはただ「他者に向き合うしかた」のみ。真正の知的緊張と美的緊張が漲る、鮮やかな「オジサネスク・シンキング」の書。

★鹿島茂『解説屋家業』(晶文社:2001.8.10)

 書評や批評、雑文、エッセイの類と、文庫本や翻訳書などの最後にくっついている解説との違いは何か。鹿島氏は自らたてたこの問いに、身も蓋もない答えをあたえている(本書末尾に添えられた「解説屋の解説」)。いわく、解説は実入りがいい。だから、「解説という制度は確実に、批評家やエッセイストの糊口の資を増やしているのだ」。
 しかし、その分、解説は報われない。それはあくまで「添え物」で、だから、書評集はあっても解説およびそれに類する文(PR誌用の文章など)ばかり集めた本は刊行されたためしがない。解説屋を自負する鹿島氏は、そこに拘った。で、出来上がったのが、東海林さだおの『行くぞ! 冷麺探検隊』からアルフレッッド・フィエロの『パリ歴史事典』まで、計36本の解説を収めたこの本だ。
 夢枕獏の『あとがき大全』を「前代未聞の書」と評したのは北上次郎氏だが、そのでんでいくと、これなどはさしずめ「古今東西空前絶後の書」であろう。なぜかといって、解説という「日本独自の文学的制度」が発達をとげ、ジャンルとしての歴史を経るうちにおのずと培ってきた「解説なりの文法」ともいうべき四箇条をはじめて摘出したのが鹿島氏で、あまつさえ芸と技と解説屋魂をもってそれを実践しつくしてしまったのだから。
 私は、『『パサージュ論』熟読玩味』を読んで以来、鹿島茂の文章のファンになった。考えてみると、あの本にしてからが、文人・ベンヤミンの遺稿『パッサージュ』の未完の巻末に添えられた長い解説だったのかもしれない。

★鹿島茂『文学は別解で行こう』(白水社:2001.3.25)

 文学と経済は不即不離である。そんなことすら弁えぬ文学愛好者がいるのだから、困ったもんだ(と、鹿島茂さんが書いているわけではありません)。ニクソン・ショック以後、あるいは資本収支が為替相場に大きな影響を与えるようになった80年代以後、そして90年代、国際通貨危機以後の経済情勢とのかかわりのなかで現代文学を考えるセンスを欠いていては、ただの好事家でしかない。このことは何も現代文学だけではない。およそ文学であれば、いや、哲学や思想その他諸々の、およそ言語にまつわる活動全般について言えることだ。
 たとえば鹿島氏は本書で書いている。ベテランの株式仲買人であったヴェルヌは『八十日間世界一周』で、女王の銀行の発行したペーパー・マネー(貨幣)の「信用」創造の物語を語ったのであり、世界通貨としてのポンドの承認という課題を、株式仲買人としての経験と小説家としての予知能力によって、時代より先取りしていたのだと。以下、バルザックと生命保険、ワーグナーと株式会社、マルクスと…、と続く第一部は、これこそ「文学者」を名乗る以上、いずれは真っ向から取り組むべき課題を扱ったもので、この部分だけでも本書は読む価値がある。

★坪内祐三『文庫本を狙え!』(晶文社:2000.11.20)

 荒俣宏編著『大都会隠居術』から小林信彦『読書中毒』まで、1996年12月26日から2000年5月25日まで『週刊文春』に連載された書評154本をまるごと収めた。「ミステリーや日本の現代小説をめったに手にしない人間」を自称する坪内氏が選んだ「シブい」系のラインアップはまことに壮観で、たとえば京都書院アーツコレクション、ちくま学芸文庫の『明治事物起原』や『ボードレール批評』や『森有正エッセイ集成』、創元ライブラリから「文庫ブームとは無縁のアバウトでのんびりとしたペースで刊行されている」『中井英夫全集』、新学社の『保田與重郎文庫』等々、文庫の目利きが絶賛する書物は実に蠱惑的。
 「もう何百本もの書評原稿を書いている私が言うのも、なんであるが、五枚十枚のボリュームを持った紹介記事よりも、とても短い、しかもごくありふれた書評記事中の、たった一行の言葉が気になり、その本を読んでみたくなることがある」。坪内氏の場合、それは角川文庫『武者小路実篤詩集』の荒川洋治の解説だったのだが、実は、この『文庫本を狙え!』自体、そんなディープな「たった一行の言葉」を絞り出すための練習帳だったのである。

★斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店:2002.6.26)

 「なぜ彼らは春樹について語らずにはいられなかったか」。斎藤美奈子さんは、村上春樹論をRPG(ハルキ・クエスト)に準えてその推移をたどってみた。まず、喫茶店での雰囲気批評(レベル1)からパズル解き(レベル2)へ、そして、「村上文学は、じつはゲームソフトそのものでした」(レベル3)から「もはや批評というより攻略本」(レベル4)へ。
 結論。村上作品は、構造主義批評やポスト構造主義批評が流行した八十年代の「思想的退校」のなかで、「謎解きの手腕を発揮したくてウズウズしていた若手批評家」に恰好の材料を提供し「読者に参加を促すインタラクティブなテキストであった」。つまり「村上春樹をめぐる批評ゲームは「オタク文化」のはしりだった」。
 吉本ばななの消費のされ方は、村上春樹に似ている。シロウトとクロウトの両方に支持されたのだから。でも、春樹論が批評家の裏読み合戦にエスカレートしたのとは異なって、彼らが興味をもったのは「なぜ吉本ばななは受けるのか」ということだった。でも、「男の子の世界」には通用したゲームの攻略は、吉本ばななには通用しない。なぜなら、彼女は「おんな子どもの国」(少女限定文学界)から「大人の男の国」へ越境してきたエイリアン、魔法使いサリーだったのだから。
《「マハリク・マハリタ」と少女文学界の呪文をかけた途端、そろって討ち死にした大人のインテリたち。村上春樹の「間テクスト性」に傾けたあの情熱の、一○の一ほどでも吉本ばななに回していたら、というか近代の底に流れる少女カルチャーという地下水脈に気づいていたら、あれほどマヌケな、いやご苦労様な「分析」に七転八倒しなくてもすんだのではないでしょうか。》
 村上龍もまた、シロウトにもクロウトにも受ける作家であって、「両村上」という言葉があるくらい村上春樹とはまるで双子の兄弟のように引き合いに出される。そこで斎藤美奈子さんはひとつの問いをたてる。「もし龍か春樹のどちらかが「村上」じゃなかったらどうだったのか」「村上春樹が村上春子という女性作家だったらどうなるのか」「村上龍と対比されるべき対象は、村上春樹ではなく、田中康夫であってもよかった」のではないか。
《それはおそらく彼らが「時代」に引っぱられている証拠です。…要するに、村上龍の小説がテレビのワイドショーなら、両村上比較論に淫した批評はワイドショーのコメンテーター的なのです。/コメンテーターの力は強し。経済を書けば経済学者がお墨付きを与えてくれ、中学生の反乱を書けば文部科学省の官僚が太鼓判を押してくれ、ともかく何かしらん書けば文芸批評家が(双子の兄弟と勝手に引き比べて)君は動物的だ、覚醒的だ、歴史を知っているとほめてくれる。おかかえコメンテーターの深読みが村上龍ワールドを支えてきたという面は確実にある。》209
 とうとう批評家はワイドショーのおかかえコメンテーターにされてしまった。──八十年代の「文学バブル」と「オンナ」と「知と教養のコンビニ化」の時代を(読者やコメンテーターたちとともに)駆け抜けたベストセラー作家やフェミニズムの騎手や知の巨人を俎上にのせたこの「作家論」論にして社会現象としての文学論の書を通じて、斎藤美奈子さんは後戻りのできない批評の基準点をつくってしまった。

★金子勝『長期停滞』(ちくま新書358:2002.8.20)

 昨年、評判をとった新書のうち、たまたま手元不如意だったり、積ん読本が滞留していたりで読めなかった(そういう事情なかりせば、たぶん評判をよぶ前に目を通していたはずの)本をいくつか、後追いでパラパラと眺めた。まずは、名著『セーフティネットの政治経済学』に続く、ちくま新書版金子勝怒りの反経済学・反グローバリズムシリーズ第二弾。
 「スロー」ばやりの昨今、経済も「スローパニック」の局面を迎えた。2001年に本格的に始まった世界同時不況は、単なる景気循環の局面としての不況を超えて、歴史的転換期という面を持っている。しかし、「多くの経済学者や政治学者は、歴史観と大局観の喪失に陥っている」。つまり、「いま我々はどのような時代に生きているかという時代認識が決定的に欠けている」。
《これまで見てきたように、バブルの中期波動と覇権システムの長期波動が下方局面で重なっているとすれば、再び長期停滞の時代に入ってゆく可能性が高い。にもかかわらず、かつて大恐慌前後の歴史的大転換期に生まれた、ニューディール(ケインジアン的介入国家)、福祉国家、中央計画型社会主義といった対抗理念は全て有効性を失ったか失いかけている。逆説的だが、大恐慌以来、こうした対抗理念を自らの内部に吸収して組み入れながら、資本主義市場経済はその生命力を維持してきた。市場原理主義それ自体は、多様な価値を認めず、効率性という価値に社会を一元化しようとするので、民主主義を破壊する傾向を持つからだ。皮肉なことだが、対抗理念が存在して、はじめて多元的民主主義が機能する。歴史は逆説から成り立っているのだ。
 大恐慌期に生まれた対抗理念の有効性が失われつつあることこそが、この閉塞状況の根底にある本当の問題なのである。(中略)もはや、「第三の道」などと称して、安全な「真ん中」に寄ってゆき物分かりのよいふりをしても何の意味もない。本当に問われているのは、社会哲学に裏付けられた、市場原理主義の暴走を食い止める新たな政策体系と対抗思想なのだ。》
 これもまた「正しすぎるほど」正しい議論だ。じゃあ、あなたが経済財政政策・金融担当大臣になって、思う存分「新しい政策体系」とやらを展開してみせたらどうだ、などと揶揄しても無効で、じゃあ、そう言うあなたは「歴史の逆説」に対してどういった行動をとるつもりか、と切りかえされるだろう。
 そもそも金子氏には、「喜劇」の一登場人物になどなる気はさらさらない。「社会哲学」は会議では生まれない。事件は現場で起きているのだ。師マルクスの顰みにならうなら、現場の手仕事のうちでこそ「対抗思想」は鍛えられる。実は、まだ読んでいないのだけれど、成毛眞さんとの共著『希望のビジネス戦略』(ちくま新書)あたりに、金子勝流の処方箋は示されているのかもしれない。

★中島義道『不幸論』(PHP新書223:2002.10.29)

 「われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかし、これこそわれわれの惨めさの最大のものである」。──パスカル(『パンセ』)のこの絶望的な言葉から本書ははじまる。
 まず、著者は「幸福のための条件」と「さまざまな幸福論」を概観して、次のように結論づける。《各人の幸福は自分の五感で探すよりほかはない。そして、…全身全霊でみずからの人生と格闘した後に、幸福に到達できないことを知って、絶望するよりほかない。言いかえれば、ひとは自分が紛れもなく不幸であること、しかも、それから永遠に抜け出られないことを、身をもって自覚するほかないのである。》
 こうして、「幸福がもたらす害悪」や「相対的不幸の諸相」をめぐって、中島義道の実人生と実感に裏うちされた議論が続く。《どんなに必死に努力しても報われないと思うのだ。(中略)自虐的であるわけではない。自滅を望んでいるわけではない。ただ、そういう方向に自分の思考を向けていくと、なぜか落ちつくのである。(中略)だから、私は人生を「半分」降りることにしたのである。》
 最後に議論は「絶対的不幸」、すなわち「死」へと至る。《死は数々の相対的不幸を撃退してくれる。だが、完全に撃退してはならない。なぜなら、不幸がすっかり消滅し、幸福が息づきはじめるや否や、私はこの世に未練が残り、死ぬことが恐ろしくなるからだ。/だから、相対的不幸に呑み込まれてはならないが、私はいつも不幸でなければならない。この絶妙なバランスを崩してはならないのである。》
 人生の目標は幸福になることではない。自分自身を選ぶことである。キルケゴール(『あれかこれか』)はそう言った。自分自身を選ぶこと、それは自分自身の不幸の「かたち」を選ぶことである。中島義道はそう書く。「あなたは自分自身を手に入れようとするなら、幸福を追求してはならない。あなた固有の不幸を生きつづけなければならないのである」と。
 これはほとんど「中島教」教義のエッセンスである。受け入れたくなければ、聞き流せばいいだけのこと。

★山折哲雄『こころの作法──生への構え、死への構え』(中公新書1661:2002.9.25)

 如是我聞。「これからオレが書くことは人間のいうことではない、仏のいう言葉なのだ」。最晩年の太宰治に託して、著者は「モラルの規制緩和」に抗する自著を語る。そこに怒気は含まれていない。だが、究極の慈愛は憤怒に似ている。望郷の念、他者との共感構造、野性もしくは獣性、奉仕と犠牲、道徳感情、義理人情、国民感情と、七つの章でとりあげられたテーマとそこで綴られた言葉は、智慧の響きとともに深い絶望の色で染め上げられている。絶望を知る者のみ、希望を語ることができる。
《これまでの保守的な「科学」の立場からすれば、「遺伝子」の領分と「脳」の領分だけを全体から切り離して、そこにだけ「科学」の世界が存在するのだといいたいのであろう。けれどもこれからの「科学」はそういう窮屈な自己限定の枠をとりはらって、もっと自由な道にすすみでていってもいいのではないか。「脳」と「遺伝子」のあいだにひろがる神秘の輝き、生命の不思議な美しさの前に謙虚にひざまずき、新しい科学の誕生をめざして、パラダイム転換の道を歩きはじめてもいいのではないだろうか。》

★かわぐちかいじ『ジパング』1〜9(講談社:2001.1.23〜2002.11.22)

 大日本帝国が「戦後日本」と「ジパング」に分岐する、その歴史の断続点に石原莞爾がいる。南北の戦線を縮小し、原爆開発前にアメリカと講和条約を結ぶ。そして、満州国を独立させる。その先に出現するのが、無条件降伏を回避したもう一つの戦後日本「ジパング」である。
 ──純粋軍事国家「やまと」の発想をよりスケールの大きい時空にあてはめたとき、どのようなポリティクスが躍動するか。物語はようやくその骨格をあきらかにしつつある。たとえそれが可能性の領域にあっても、およそ歴史のうちに超越者がしめる場所はない。かわぐちかいじはついに、歴史の尻尾をつかんだ。
 第9巻で、「みらい」の角松副長が吐く言葉がとりわけ印象深い。「この戦時下の世界で我々が 我々であり続けることを保証しているのはなんだ!? 使用するしないの問題ではなく武力を保有しているからこそ 過去の過ちを知る21世紀の人間が意志を貫けるのだ その背景を失った時我々に残されるものそれはこの世界への… 屈従だけだ!!」
 かわぐちかいじが描く「武人」たちの群像は熱い。冷徹な現実認識に支えられた意志は、つねに熱い。

★小口幸伸『外為市場血風録』(集英社新書177:2003.1.22)

 「血風録」とあるけれど、けっして血湧き肉躍るスリリングでリスキーで爽快な体験が語られるわけではない。冷静かつ沈着、細心かつ縦横、プロフェッショナルとしての自負を奥底に秘めながら、しかし、いささかの悲憤も慷慨もなく、ただ淡々と外国為替の実相を描写し、そこに脈々と流れる資本の論理を鋭く摘出する。
 あまつさえ、変動相場制への移行(70年代)から国際通貨危機の十年(90年代)まで、世界史のうちに特筆されるべき前代未聞の30年を、その最先端で生き延びた者にのみ血肉化する歴史観を踏まえ、政策立案・遂行者への警告と、来るべき通貨危機への処方箋が説得力をもって示される。
 「現代資本主義の矛盾は通貨危機に表れ、それを乗り越えることで新しい時代のシステムが生まれる」。あとがきで紹介される宮崎義一氏の言葉には、まさに本書のテーマが凝縮されている。そして、著者のメッセージが込められている。──危機は必ず到来する。だが、恐れるな。備えなきを恐れよ。そして、危機を糧として更新せよ。

★池澤夏樹・文/本橋成一・写真『イラクの小さな橋を渡って』(光文社:2003.1.25)

 戦争とは、人が死ぬことだ。「ミサイルと爆弾で即死する者もいるし、食料や水や薬品の不足からゆっくりと死ぬ者もいる」。実際に死ぬのは、抽象的な記号や数字ではなくて、「ミリアムという名の若い母親」と「その三人の子供たちであり、彼女の従弟である若い兵士ユーセフであり、その父である農夫アブドゥルなのだ」。戦争のリアリズムを、つまり、やがて殺されることになる人々とその暮らしをあらかじめ肉眼で確認するために、池澤夏樹さんはイラクの地を訪れた。ハトラという北方の遺跡を出て国道に戻る途中、「小さな橋を渡った時、戦争というものの具体的なイメージがいきなり迫ってきた」。想像力を封殺し、人を殺す技術を精錬させた現代の戦争から、すっぽりと抜け落ちてしまった情景がそこにあった。「そして、この子らをアメリカの爆弾が殺す理由は何もないと考えた」。──文章は「かつて」と「やがて」を、写真は「いま」を刻印する。その「いま」は「かつて」と「やがて」を交錯させ、あらかじめ忘却された記憶をもう一つの「いま」へとつないでいく。優れた作家とカメラマンの手になるこの小著は、読者を旅へと誘うだろう。想像力と感受性の鍛錬のフィールドへと。

★坂東眞砂子『道祖土家の猿嫁』(講談社文庫:2003.1.15/2000)

 民話的リアリズム、あるいは土着的想像力の発火点とでも言おうか。火振村の道祖土家に嫁いだ猿顔の嫁・蕗が、屋敷裏の生き守様の祠の奥の闇の揺らめきに感じとったもの。この世のものでありながら生死を超えた、何かしら大らかでエロティックな力を秘めた根源的なものへの畏れ。──この作品は、自由民権運動から日露戦争、太平洋戦争へと激動する近代国家を背景に、土佐の一地方の名家の五代にわたる濃密な人間関係が織りなす物語を、蕗の嫁入りからその死まで、六つの説話的短編で綴った連作小説で、とりわけ終章、蕗の三十三回忌に、やがて取り壊されることとなる道祖土家を訪れた曾孫・十緒子によって語られる後日譚は深い哀しみを湛え、感動を誘う。「終わりとは、始まりを意味する。ここが裏山に呑みこまれた時、土地は山の一部として新たに息づきはじめるのだろう。…私は祠の中を覗いてみたが、子供の時と同じく、そこにはただ暗い闇しか漂ってなかった」。

★池永陽『走るジイサン』(集英社文庫:2003.1.25/1999)

 鮮やかな作品だ。滑稽味と滋味と人情味をほどよく漂わせながら、シュールな寂寥感と苦い味わいを醸しだす、軽さと重さ、薄さと濃さが綯い交ぜになったちょっと不思議な、比類ない物語世界を見事につくりあげている。これはまったく新しい「青春小説」で、処女作でこれほどの達成をなしとげる作者の力量は相当なものだ。──「走るジイサン」こと勝目作次(69歳)は鋳物職人あがりで、「人間の本音はもっと単純でやさしい言葉の中にひそんでいる」と思っている。だから、子連れの中年男との恋愛に悩む明ちゃんが描いた絵の赤い色の微妙な変化に気づいたり、息子の嫁の京子さんの凛とした硬質の輝きに惹かれたりする。それは、老人こそがもちうる鍛えぬかれた感受性である。友人の建造(66歳)が作次に語る。「老人ってのは異人だと私は思うね。稀人ですよ。多くなりすぎた稀人です。民俗学の柳田国男のいう魑魅魍魎のたぐいですよ。普通の人から見ればもう人間じゃないんですよ」。この作品は、川端康成の『山の音』にも拮抗しうる、まったく新しい「妖怪小説」である。

★高野秀行『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫:2003.1.25/1989)

 人はなぜ探検をするのか。そんな問いはつまらない。ある種の人々にとって、それはなぜ生きるのかという問いに等しい愚問でしかない。探検記の面白さは、感想や情緒を廃した徹底的なリアリズムにあるのであって、ほとんど日常の退屈さと紙一重の上にかろうじて読むに値する表現をなりたたせるのは、尋常でない出来事や痛快な行動などではない。記録はつねに事後に書かれる。すべてが終わり、あらゆる主観の軋轢や生の感情の錯綜が濾過された後で、しかし今なお完結しない物語として綴られるのだ。私にとってあの探検は何だったのか。それこそが問われるべき問いである。その答えを徹底したリアリズムでもって、克明にひとつの客観物として造形しえたとき、はじめてすぐれた探検記が生まれる。そういう意味で、本書で一番面白いのは文庫版あとがきだった。そこに記された「早稲田大学探検部コンゴ・ドラゴン・プロジェクト・メンバー」十一人の、消息不明の一人を含めたその後の人生が、読後の印象をやや濃いものにしてくれた。

★夢枕獏『あとがき大全 あるいは物語による旅の記録』(文春文庫:2003.1.10/1990)

 なんの自慢にもならないけれど、私は夢枕獏の小説を一冊も読んだことがない。本書を読み終えたいまも、「この作者の小説を猛烈に読みたく」(北上次郎氏)なったわけではない。そんな私が言うのだから間違いない。この本は掛け値なしに、すこぶる滅法面白い。──『陰陽師』をめぐる岡野玲子さんとの対話や、本書にも出てくる中沢新一さんとの掛け合い、旅のエッセイなど、ときおり目にする発言や文章を読んで、この人はただ者ではないと思っていた。その片鱗は、はじめての本(『ねこひきのオルオラネ』)のあとがきのうちに既にくっきりと刻印されていた。「山と宇宙とは同質で、宇宙は神と同質である。そう気がついたら、なんだみんな山ではないか、そう思った」。「…写実[リアル]をつきつめた果てに、ふわっと幻想空間があらわれる…。もし、現代のファンタジイが生まれるとすれば、そういう方法によってだとぼくは思う」。夢枕獏は「物語」というものの実質を身をもって知っている。混沌のなかの原理、自然と身体と「表現」との関係を精確に見すえている。やはり、この人はただ者ではない。

★乃南アサ『涙』上・下(新潮文庫:2003.2.1/2000)

 真正の傑作になり損ねた「傑作ミステリー」だ。まず、失踪した婚約者の跡を追う旬子がストーリーの展開とともに成長しない。多少は強くなるけれど、結局最後まで「お嬢さん」のままで終わるし、宮古島での嵐の夜のことも「金輪際、思い出したくない」と封印してしまう。だから、プロローグとエピローグで明かされる後日譚が、本編と交差して作品を立体的に造形しない。何よりも、作品のクライマックスをなす嵐の夜に明かされる「慟哭の真実」に、いまひとつ説得力と迫真性がない。だから、作品は深い哀しみを湛えない。東京オリンピックの年(沖縄へ行くのにパスポートが必要だった時代)を本編の舞台に選び、時代の匂いを丹念に書き込みながら、淡々と物語の核心に迫る乃南アサの筆は冴えている。それだけにこれらの小さな疵が惜しい。ただ救いは韮山とルミ子の交情だ。「あんた、娘さんの何を知っていました」。殺された娘の本当の姿を知った時、韮山の凍った心がしだいに転回し、やがて不幸な少女を養女に迎える。この本編のもう一つのストーリーは深い感銘を与える。それだけに、惜しい。

★宮城谷昌光『沙中の回廊』上・下(朝日文庫:2003.1.30/2001)

 冒頭のいかにも大衆小説風の書き出しに、血湧き肉躍る爽快な物語を期待した。「この世は玄通だな。ひとつわかれば、そこに未知という回廊がいくつかあらわれる」。後に晋国宰相にのぼりつめる若き士会が吐くこの言葉に、希代の兵法家の痛快無比にして機略縦横の活躍を期待した。だが、所は中国、時は春秋の世、現代人の感覚では計り知れない論理がはたらく別世界である。人々を動かす原理は、礼であり義であり徳である。「徳の原義は、呪力のある目でおこなうまじないのこと」であったという。何しろ宗教が生まれる前夜、呪術が政治を支配する時代なのだ。内省を知った個人の主観的心理や感情ではなく、あくまで行動のうちに結晶する人としての格や器量こそが問題とされるのである。近代小説の骨法をふまえたロマンを期待するのは野暮というものだ。宮城谷昌光の文体は終始乱れず、この異界の物語を描写しつくした。偉業である。いったんはまると、おそらくぬけだせまい。

★関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代──凛冽たり近代 なお生彩あり明治人』(双葉文庫:2002.11.20/1987)
★関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代第二部 秋の舞姫』(双葉文庫:2002.11.20/1989)
★関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代第三部 かの蒼穹に』(双葉文庫:2002.12.25/1992)
★関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代第四部 明治流星雨』(双葉文庫:2003.1.20/1995)
★関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代第五部 不機嫌亭漱石』(双葉文庫:2003.2.20/1997)

 かつて、「週刊漫画アクション」は伝説の雑誌だった。G5の仲間入りを果たしたプラザ合意の翌年の暮れ、日本が戦後の呪縛から解放され、モデルなき未知の国家へと突き進もうとするまさにその時、「“坊っちゃん”とその時代」の連載は始まった。リアルタイムで関川夏央の文体に痺れ、谷口ジローの画業に驚嘆した私である。だからこの五部作が希にみる傑作であることは実地に体験している。いままた文庫版で全巻を通読し、そこで示された歴史観がいかに時代を先駆け、かつ時代を拓いていったものであったか、あらためてその先見に畏れをいだいている。ここにはたしかに文芸批評の新しいかたちが息づいている。──もはやこれ以上の贅言は慎みたいが、文庫による再読の愉しみは巻末にある。高橋源一郎、川上弘美、フレデリック・L・ショット、加藤典洋、養老孟司の各氏による各巻の解説は、いずれも力のこもったものであったことを特筆しておきたい。

★エリック・ガルシア『鉤爪プレイバック』(酒井昭伸訳,ヴィレッジブックス:2003.1.20)

 LAの私立探偵「ヴィニー坊や」もしくは「ヴィンセントちゃん」ことヴィンセント・ルビオと相棒のアーニー・ワトソンの絶妙コンビが、謎のカルト教団「祖竜教会」の企みを暴き潰えさせる冒険活劇で、妖艶な魅力をたたえた「悪女」キルケーとヴィンセントの苦い恋の顛末が物語に陰翳をもたらすスラップスティック・ハードボイルドの傑作。でも、あまたの傑作と違うところが一つあって、それは(その昔はやった「奥様は魔女」風に言えば)「探偵は恐竜だったのです」。──この趣向が凄いのは、もちろん恐竜が人間に扮装して人類社会にとけこんでいたり、恐竜にもゲイがいたり、恐竜とのセックスを好む人間がいることのおかしさもあるけれど(笑える)、なによりも過激に個性的な登場人物のその過激さや、ヴィンセントがキルケーの強烈なフェロモンにラリってしまうことを、「まあ、恐竜だったらしかたがないか」と読者に有無を言わせず納得させてしまうことだろう。(それとも、チャンドラーに還るためには、尋常の趣向ではかなわないということか。)

★ジョー・R・ランズデール『モンスター・ドライヴイン』(尾之上浩司訳,創元SF文庫:2003.2.14)

 手のうちようのない苦手なジャンルというものがあって、私にとってのそれはナンセンスSFとかドタバタ・ホラーの類。とはいえ、筒井康隆さんとかルーディ・ラッカーの書いたものなら結構どころか、かなり好きな方なのだけれど、「異才ランズデールの名を馳せしめた、伝説の奇想天外スラプスティック青春ホラーSF」と扉に紹介されたこの作品の場合は、まったく駄目。生理的に受けつけないというか、存在意義すらまったく理解できないありさまで、最後まで読み通すのが苦痛だった。まあそれは趣味の問題なのだから、いかんともしがたい話。これは言わずもがなの蛇足ですが、そういうジャンルを愛好される方は、私の感想など歯牙にもかける必要はありません。

★ヴィクター・ギシュラー『拳銃猿』(宮内もと子訳,ハヤカワ文庫HM:2003.2.15)

 読みはじめてすぐに、クエンティン・タランティーノ(「レザボア・ドッグス」とか「パルプ・フィクション」)の名が頭をよぎった。読後の楽しみに訳者あとがきを眺めていると、その道の目利きもやっぱりタランティーノの一連の映画を連想し、そこに「共通の空気感」を感じたらしくて、この作品のことを「二十一世紀初頭に生まれた新しいパルプ・フィクションと呼べるかもしれない」と評していた。なにしろ冒頭いきなり本編の主人公・殺し屋チャーリーと、チャーリーが殺したばかりの男の元妻で剥製師のマーシーが出来てしまう唐突さに驚かされたかと思うと、いったい時代はいつで、どこが舞台なのかさっぱり見当がつかないシチュエーションに投げ出され、たちまちギャングどもの陰謀と抗争が始まるや、わがチャーリーのボスや仲間や家族への熱い思い(というよりアドレナリン)が滾って、FBIが絡んでの混戦状態を累々たる屍とともに乗り越え、一気にクライマックスへと突っ走っていく。この荒唐無稽で単純で異様なまでのスピード感が、とにかくたまらない。
 

☆不連続なシネマ日記

★『アリー・myラブ Ally Mcbeal 』

 小林信彦さんのエンタテインメント時評『コラムの逆襲』でベタ誉めされているのを読み、NHKでつまみぐい的に何本か観たときのあの忘れがたい感触がよみがえってきて、シリーズ4までビデオでたしか全45巻もあったと思うその最初の2巻(第1話「めぐりあい」と第12話「ダンシング・ベイビー」が収められたプロローグ、第2話「愛は妥協から」と第3話「恋愛方程式」のvol.1)をレンタル・ショップで借りて、就眠前に1回分だけ観るつもりがやめられなくなり、とうとう4話分全部観てすっかり寝不足の朝を迎えることになった。このドラマについてはもうさんざん語られているように思うので、何か気の利いたことをひとくさり書き記しておこうといった気持ちにはなれない。とにかく面白くてやめられない。ハマったら最後、いくら時間があっても足りない。(追記)今月は、シリーズ1のvol.2、第4話「ラブ・アフェア」と第5話「涙の数だけ」も観た。とてもよかった。いまNHKで放映しているシリーズ5も二つほど観た。これもよかった。

★ビリー・ワイルダー『情婦 Witness for the Prosecution 』(米:1957)

 NHK教育で放映していたのを観た。これまた小林信彦さんの『コラムの逆襲』の影響で、ビリー・ワイルダーの映画に飢えていた矢先だったものだから、日曜の夜、やり残したことがいっぱい頭のなかでとぐろをまいているのをうっちゃって、ひたすら画面に集中した。タイロン・パワーやマレーネ・ディートリヒやチャールズ・ロートンといった名優がくりだす科白の洪水が実に心地よくて、二重にしかけられたドンデン返し(まあ、途中でだいたいのところは察しがつくのだけれど)に他愛もなく痺れ、伏線の妙に溺れ、それはもうすっかりきもちよく酔ってしまった。こういう映画が好きだ。原作アガサ・クリスティ。

★ビリー・ワイルダー『麗しのサブリナ Sabrina 』(米:1954)

 ひところジョディ・フォスターにまいっていて、だれかのファンになるということがこれほど心を豊かにしてくれるものかと、遅ればせながら身をもって知ったものだった(いまでもジョディ・フォスターはとても好きな女優)。そういう経験を経てようやく気づいたことのひとつが、私はオードリー・ヘップバーンのファンだったのだということ。以来、数ヶ月に一度、ストーリーがすっかりわかっているオードリー映画を観ては、ため息をついている。『麗しのサブリナ 』はたしか二度目。ライナス・ララビー役のハンフリー・ボガードがとてもいい。

★チャウ・シンチー/リー・リクチー『少林サッカー Shaolin Soccer 』(香港:2001)

 これはB級映画の佳品だ。たとえば六人の弟子たちそれぞれのライフヒストリーとか、太極拳少女の境遇などを丹念に描いていたら、傑作になったかもしれないが、でも、これはこれでいい。貧富の矛盾、詐術と自尊、アメリカの名で語られる無文化と少林寺、太極拳に象徴される固有文化、等々といった、この映画をかたちづくる葛藤や対立は、「深い」意図があって配置されたものではなくて、おのずから露出したものである。だから、登場人物のライフヒストリーや境遇は、あえて描く必要がなかったのだろう。意図せざる佳品はおのずから生まれるもので、再生産可能な傑作との違いはそこにある。

★チャーリー・チャップリン『黄金狂時代 The Gold Rush 』 (1925/米)

 チャップリンの長篇第2作で、無声映画にチャップリン自身が語りを入れている。近くのレンタル・ショップでは、チャップリン作品のベスト1と紹介してあった。ひさしぶりに観たチャップリンのからだの動きはとても懐かしく、しなやかでいながら機械的で、埋もれている無意識をあからさまにかたちにしてみせるそのパフォーマンスの力は圧倒的。小品「給料日 Pay Day 」が収録されていた。