不連続な読書日記(2003.1)




★2003.1

★入不二基義『時間は実在するか』(講談社現代新書1638:2002.12.10)

 入不二形而上学は「炙り出しの哲学」である。──本書に頻出する独特の言葉、たとえば、前景化とか「手前」性、遍在=浸透、重ね描き、透かし見る、そして炙り出すといった「入不二語」ともいうべき一連の語彙群は、あいまって一つの実在を、つまり「背景に退いて透明に働く」ものを指し示している。いや、文字通り炙り出している(それは、ボードレールが『人工楽園』で人間の脳髄や記憶に準えた「パランプセスト」、すなわち書かれた文字を抹消して重ね書きされた羊皮紙を想起させる)。
 それでは、マクタガートの哲学的思考の奥深くに内在し、そこから離脱することによって炙り出される「もう一つ別の時間論」とは何だろうか。──まず、実在をめぐる二つの系譜がある。永遠・不動の実在を考える系譜と、変化・流動する実在を考える系譜。これとパラレルに、時間把握に関する二つの系列がある。出来事や時点を「より前」「より後」「同時」という順序関係によって静的に整列するB系列と、過去・現在・未来という流れで動的に時間を把握するA系列。前者(無時制的な観点)を純化していくと、その極限として「永遠の現在」という第一の形而上学的な立場が見えてくる。後者(時制的な観点)からは、「非系列的な推移」という第二の形而上学的な立場へと導かれる。
 マクタガートは、時間の核心である変化を捉えたA系列こそが時間にとって本質的なのだが、A系列は矛盾を含む(「過去である」「現在である」「未来である」の三つのA特性は互いに排他的であるにもかかわらず、出来事はこの三つの特性をすべて持たなければならない)がゆえに時間は実在しないとして、時間的な方向性を持たない順序としてのC系列こそが実在の姿であるとする第三の形而上学的な立場を主張した。入不二氏によると、これら三つの立場は「相互に絡み合いかつ収束することのない」三つ巴の関係にある。
 無時制的な観点と時制的な観点は「そのつど」「とりあえず」分割され、一方が他方に包み込まれることによって、かつ「とりあえず」性が抑圧され隠蔽されることでもって「ひとつながりの時間」という表象をもたらす。だが、こうした「関係としての時間」(切り離すことがつなぐことになるような「無関係という関係」の相における時間)とは別に、「とりあえず」性そのものによる原‐抑圧によって隠蔽されざるを得ない「無関係としての時間」(無関係という関係にさえならない無関係の相における時間)が間接的に透かし見られる。それは、「無」でさえない未来・複数ではありえないこの今の現実性・現在だったことのない過去の絶対的な隔たりを内実とする。
 こうして、入不二氏は、時間の関係的な側面と無関係的な側面との区分を基本とする第四の形而上学的な立場を打ち立てるのだが、もうこれ以上の素描ならぬ粗描はやめておこう。どうあがいても『時間は実在するか』が醸しだす芳醇な味わいを希釈し矮小化するばかりだ。汲めども尽きない哲学的思考のヒントに満ちたこの書物は、ゆっくりとていねいに、そして私自身がそこから離脱するための再読、三読を要求している。
 それにしても、実に濃厚で刺激的で味わい深い体験だった。あの『相対主義の極北』の読後感が鮮烈に甦る。これほどに強靱で微細な思索を保持し、かつ更新し続けるのは並大抵の体力ではない。裏表紙に印刷された著者の視線は、「無いよりもっと無いこと」や「無関係という関係でさえない無関係」といった入不二形而上学の尋常でない世界を真っ向から眼差し、孤高の武芸者のごとき狂気をさえ漂わせている。哲学者とはなんと難儀な「問題」を抱え込んで生きていることか。

★村田純一『色彩の哲学』(双書現代の哲学,岩波書店:2002.11.28)

 色彩は実在するか。つまり色彩とは物体の性質なのか。それとも現代の色彩科学が主張するように、客観世界に色はなく、色彩は感覚にすぎないのか。つまり色彩は仮象なのか。──著者はこの問いに哲学者の立場で取り組む。しかし、そもそも色彩の実在性がなぜ哲学の問題になるのか。それは、色彩をめぐる科学的議論が実在と仮象、客観と主観、物理的性質と主観的感覚といった二元論的区分を前提にした「形而上学的」なものだからである。そして、その時々の支配的なパラダイムに対する「批判」こそが哲学のもっとも重要な仕事だからである。
《「色彩は存在するのか」という問いが立てられた場合にまず必要なのは、何が存在するかをあらかじめ前提するのではなく、色彩現象自身に即して色彩の「存在」のあり方を解明することではなかろうか。「世界に色彩は存在するのか」という問いが立てられた場合には、最初に世界の存在のあり方を前提してしまうのではなく、色彩が現れるような世界とはどのような世界であるのか、つまり「色彩の世界」のあり方をまず明らかにする必要があるのではなかろうか。要するに、問題の「現象学的変換」が求められるのである。》
 著者は、まず色彩の世界内存在という常識的見解を擁護し、フッサール、メルロ=ポンティ、あるいはカッツらの色彩の現象学、さらにはギブソンの生態光学を援用し、ジェームズの空間質の概念をてがかりとしながら色彩固有の「空間性」を論じる(第T部 色彩の「奥行き」)。ついで、ゲーテ、ウィトゲンシュタイン、カンディンスキーの色彩論を踏まえ、色彩の「内面性」(「色彩を生きる」といった色彩との直接的関係を示す体験のあり方)という新たな次元を導入しつつ、ニュートンの暗室のなかでのスペクトル光の分析を出発点にした現代の色彩論(実験室の色彩論)が陥った還元主義からの脱却の糸口を探る(第U部 色彩の多次元性)。
 こうした「現象学的」観点からの色彩現象への接近、すなわち「色彩の現れ方をその現れ方にふさわしい仕方で取り上げて、その現れ方に対応する色彩の「存在」のあり方を解明する」試みを通して確認されたテーゼは、「「目に見える」色彩が現れる「色彩固有の空間」はまさに、色を生きるという体験が実現される「目に見えない」「生きられた空間」にほかならない」というものであった。
 著者は最後に「色彩の現象学と色彩の科学との間に開かれている埋めようもないように見える溝」を架橋するものとして、色彩現象に関する「生態学的現象学」の可能性を示唆するのだが、残念ながらこの魅力的なアプローチの実質は十分に論じられていない。(ただ、本書の白眉ともいうべきカンディンスキーを取り上げた第U部第3章に出てくる「クオリア=感覚質」と「表現」をめぐる議論にのうちに、その方向性は示されていると私は思う。)
 ──色彩を論じつつ、「感覚の哲学」ともいうべきより射程の広い問題圏へと踏み込んだ「可能性の書」である。本書で主題的に論じられた空間論に加えて、ウィトゲンシュタイン『色彩について』第1部からの引用に出てくる「外的関係=時間的」「内的関係=無時間的」というテーゼを敷衍し、さらに時間論にまで踏み込んでいくことでもって、著者が唱道する「生態学的現象学」の実質はより鮮明になるのではないか。後続書が待たれる。

★蛭川立『彼岸の時間──〈意識〉の人類学』(春秋社:2002.11.20)

 何かもどかしい。いくら言葉を重ねても、この初発の生命を蔵した原始の海のような、濃厚で芳醇なスープが滾っているような「未完」の書物を規定し尽くすことはできない。著者は「旅のエッセイ」と言う。私は「旅の日記」だと思う。英国でかつて「スピリチュアル・ダイアリー」と呼ばれた「日記」こそがふさわしい。
 ──本書は徹頭徹尾ウィトゲンシュタインの存在論的神秘のテーゼ(「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである」)に付された長い註釈である。
 たとえば著者が「プロローグ」で「やがてすべてが消えていき、最後には、光も形もない抽象的な空間だけが残った」と自らのアヤワスカ体験を綴り、最終章で「今この瞬間にも刻々と生成と消滅を繰り返している「ういういしい日常」」について語るのは、まさに本書が存在神秘の直中への、あるいはウパニシャッド哲学がいう「第四の意識状態」(超越的な意識状態、観察する意識)へのイニシエーションとそこからの帰還を「語り継ぐ」ためのテキストであることを示している。
 第四の意識状態が拓く存在論的神秘の世界。それは偶像が禁じられた一神教的抽象世界でも、遍在する超越者に包摂されたユビキタスな世界でも、生きられた感覚が跳梁する多神教的極彩色の世界でもない。それらのすべてが、とりわけ抽象と感覚が重ね描きされることで、そして「科学と呪術が手を取り合って」祭司宗教という象徴体系独占機構を解体修理することでもって拓かれる世界。
 それにしても不思議な本だ。鋭い論が立ち上がりかけると、あるいは類型化への足場が組まれ始めると、著者はまるで体系や編集を恥じるかのように再び豊饒な事実の世界へと叙述を進めていく。章名や節名、そして何より書名が、その書かれた内容と微妙かつ絶妙にずれていく。絶妙にというのは、あたかも優れた霊的指導者の導きのように読者の覚醒を促す暗示がこめられているからだ。

★谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫:2001.4.10/1994.4)

 二つの表層、すなわち鏡と皮膚に関係する神話(ミュトス)を選択・蒐集し、それらを組み合わせながらみずから神話を語り直すこと(ミュトス+ロゴス=ミュトロギア)。「非時間的な「根拠」としてのミュトスを「選択」「蒐集」することによって、非時間的であるがゆえにアクチュアルな「表層」の物語としての芸術論」を試みること。
 序文のこの宣言を受けて著者が選択・蒐集したのは、鏡をテーマとする前半ではオルフェウスの眼、ナルキッソスの鏡、メドゥーサの首、皮膚をとりあげた後半ではアポロンが剥ぎとったマルシュアスの皮、キリストの顔をうつしとった聖ベロニカの布、真理=女性が纏うヴェールといった神話群であった。
 著者によると、前半の三つのミュトスは互いに微妙な内在的関係を取り結び、後半のそれは互いに有機的に関連しつつ三位一体の議論を構成し、さらにベラスケスの『侍女たち』をめぐる「間奏」をはさんで前後半の各三章は鏡像関係の様相を帯びるように配置されているという。私はこの序文を読者への挑戦と受け止めた。内在的関係であれ有機的関連であれまた鏡像関係であれ、精妙かつ狡猾にしかけられたミュトロギア、すなわち「神話語り」の秘密を解けるものなら解いてみるがよい、と。
 だが私は著者がしかけたもうひとつの罠、「表層のバロック的な遁走」と名づけられたそのディスクールに、すなわち「はじめに提示された主題が、転調を重ねながら、その内包する可能性を多声的に展開していく態のもの」に翻弄されつづけ、ついには華麗かつ縦横に繰り出される著者の「多声」の語りにただただ聴き入り、陶酔するだけであった。それはまことに快い、官能的な体験だった。
 それでは、著者が本書で紡ぎだした「非時間的であるがゆえにアクチュアルな「表層」の物語としての芸術論」とは何だったのか。ここでも私は、ただ結びにおかれた次の文章を引用することしかできない。著者は、ドゥルーズ(『襞──ライプニッツとバロック』)がバロックの特権的形象であるとした襞はなによりも肉体を覆う着衣の襞であり、十七世紀の皮膚は基本的に布の襞であったという。
《マクルーハンのいうように[マクルーハンは『人間拡張の原理』のなかで、「電気時代にいたって、われわれは初めて全人類を自らの皮膚とするにいたった」と書いている:引用者註]総体的な皮膚化の様相を強めるこの電気の時代を、それゆえ新たなバロックの時代と呼ぶこともできるだろう。しかし、それは必ずしも襞という形象で語りつくせるわけではなさそうである。少なくとも、現代において語られるべきは、布の襞ではあるまい。いまこそ、端的に皮膚という概念が要請されなければならない。これを認識論的隠喩といってもいい。》
 以下、エルンスト・マッハによる「皮膚的空間」の研究やニーチェの敢然たる「皮膚性」への意志の表明にはじまる絢爛たる「遁走的語り」を経て、皮膚と魂、皮膚と精神性との「のっぴきならぬ関係」に解きいたり、本質や深みや内部・内面・背後世界への帰還という「もっともらしい二元論」への安易な逃走を諫める、「皮膚論的な想像力のために」と題された結びの文章はまことに圧巻だ。
《いまこそ、決然たる意志をもって、表面に、皮膚に敢然として踏みとどまらなければならない。認識論的隠喩としての皮膚は、あらゆる意味の振幅をはらんでいる。その振幅をみずから引き受けつつ、皮膚を意志すること。もう一度繰り返すなら、そこにおいてはじめて生は美的現象として、われわれの耐えることのできるものになるはずである。》

★川勝平太『「美の文明」をつくる──「力の文明」を超えて』(ちくま新書376:2002.11.20)

 「美」について書かれた本を二冊、偶然か意図的かは知らないが、同じちくま新書から出た川勝平太さんと橋本治さんの本を続けて読んだ。──まずは、川勝本。これはとても「大味」な本だった。薄味というわけではないけれど、よくできた講談にすっかり聞き入って、カタルシスを覚えてすっきりして芝居小屋から出ると、またいつもと同じ風景が目に飛び込んでくるといった感じで、触発されたり深い思索の森へ誘われたり、後をひく感銘に何かが更新されるといった体験が欠けていた。
 そもそも、私は川勝さんが好きだった。『日本文明と近代西洋』や『文明の海洋史観』などは、とても面白かったし、何かがそこから始まる力動感に満ちていた。なにより川勝さんの人柄と話が、私は好きだ。たとえブラウン管を通じてであっても、肉声で聞くその声には、人の情感に訴え、人を動かす力がこもっていた。川勝流「大風呂敷」も、語りや講演や講義のなかでは、とても生き生きと躍動していて、聞き手の視野を一気に拡げてくれる。
 座談の哲学、演台の政経論。文章で記録すると、肝心なものが雲散霧消してしまう思考。それはそれで一つの知性であり、歴史や世の中は、実はそういった知性が動かしているのではないかと思う。なにか使い回しのような話でも、川勝さんの生の語りで聞けば、そのつど思想のリアルが立ち上がってきたのだろうが、そこが活字の限界というもので、だから結局、大味だったのだ。
 「キリスト教、科学、法秩序」からなり、むきだしの暴力が基軸となる「力の文明」。それに対する「美の文明」を、カントを切り出しに、やがて日本の思想家や学者や建築家、たとえば鶴見和子の「南方曼陀羅」(この鶴見さんの内発的発展論を、川勝さんは「自律する生命の創造論」とか「「偶然性」を包摂する知的体系」と説明している)や今西錦司のサル学、宮沢賢治の「農民芸術論」、西郷南州や石井和紘や畠山重篤や安藤忠夫、等々の言説を引き合いに出しながら素描する。
 そして、美の文明の担い手である日本の将来について、海の日本(九州・中国・四国・近畿)、平野の日本(関東)、山の日本(北陸・中部)、森の日本(東北・北海道)の四つの日本からなる「日本連邦」を提言する。読む前からわかっている内容を、活字で確認するのは。実際、大味だった。──川勝節を少しだけ、日本=アーキペラゴ論のくだりからの抜き書き。
《日本の本質は島々からなる国であるということだろう。(略)島はそれぞれが島と島との架け橋であり、かつ、それぞれが自立した存在として独自の価値を持つという存在形式をもつのである。(略)日本という列島もまた、アメリカと中国・ロシアという巨大な陸地にはさまれた媒体である。》
《島々のネットワークのなかでのみ島は自立を維持できる。(略)ネットワーク時代の到来は陸地的発想から海洋的的発想へとパラダイムの転換を求めている。定着するということよりもむしろ離陸することを歴史観の出発点に据える時期に来ているのである。》

★橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書377:2002.12.20)

 美しさではなく「美しい」、理解するや感じるではなくて「わかる」。書名でのこの微妙なこだわりが、「美しい」が分かる人(本書を読んで「なるほど」とうなずく読者)と「美しい」が分からない人(「なんのことだ?」と悩む読者)の二つのカテゴリーを一つに統合するという「めんどうくさいこと」を試みた、本書のすべてを語っている。
 美を感じることだったら、脳科学がいずれその構造を解明するかもしれない。だけどそれだと、なぜある人には「美しい」が分かり、別のある人には分からないかが分からない。理解力(分かることは分かる)だけあっても、類推能力(分からないことを分かる)がなければ、美は分からない。そもそも「美しい」という言葉は、美しいものに出合った瞬間の「あ……」とか「お……」というつぶやき(思考停止)の中から生まれるものであって、それは「美しさ」が含意する、すでに固定した対象の価値や美に関する知識のことではない。
 「美しい」とは「合理的な出来上がり方をしているものを見たり聴いたりした時に生まれる感動」である。それは「こちら」側の欲望の体系=必要(個人的な合理性)とは無縁である。合理性の基準は「あちら」側にある。だから「対象の美しさが合理的かどうかを判断するのには時間がかかる」。「美しい」は咄嗟に出る感銘の言葉で、「合理的」はそこに後からやって来る「他人の言葉」である。要するに、「美しい」は直接的にはなんの役にも立たない発見である。しかし「美しい」には重大な役割がある。それは「自分とは直接的に関わりのない他者」を発見することである。「“美しい”とは他者のありようを理解することだ」。
 以上が、橋本流美学の原論ともいえる第一章「「美しい」が分かる人、分からない人」のあらましで、以下、ここに出てきた「他者」と「時間」の二つのキーワードに即しながら、「美しい=合理的」テーゼ(「一つになった二つの異質」の典型)をめぐって論は進んでいく。
 ──と、思っていた。だけど、そこが橋本治。一筋縄ではいかない展開を経て、最後に著者は恐るべき言葉を吐く。《個人的には、「世界は美しさで満ち満ちているから、好き好んで死ぬ必要はない」と思う私は、それを広げて、「世界は美しさに満ち満ちているから、“美しいが分からない社会”が壊れたって、別に嘆く必要もない」と思います。それが、「美しい」を実感しうる人というものの、根源的な力なのだろうとしか、私には思えないのです。》
 結局、私には本書がよくわからない。ただ、橋本流美学は、軽やかで深く、そして、潔い。そのことだけは分かった、ような気がする。

★橋本治『ひらがな日本美術史4』(新潮社:2002.12.20)

 俵屋宗達の絵はどこかで笑っている(遊んでいる)。その絵のすごさは「理屈」というものが一切ないところにある。そもそも日本美術は「なんとかして“説明”という理屈臭さを超えたいと思っているものの集積」なのであって、だから「日本美術というものは、俵屋宗達を最高の画家とするような形で存在している」(その六十三「笑うもの」)。
 桂離宮は「すごい!」。しかし桂離宮を日本美の典型と言うのは間違いである。それを言うなら日本美の異端である。しかし桂離宮は「最も典型的に日本の美意識を語るもの」ではある。それでは、桂離宮が典型的に語る「日本の美意識」とはなにか? それは「静止しない」ということである(その六十九「人間のあり方を考えさせるもの」)。
 ──『芸術新潮』を買って最初に開くのが橋本治さんの「ひらがな日本美術史」の頁で、連載回数はもう九十回を超えている。雑誌掲載時の雰囲気を多少は残したやや大判の造り、写真と図版が適度に鏤められているのもいい。蘊蓄を語るのでも、目利きを競うのでもない、橋本治の「ひらがな」語りもいい。

★塩野七生『終わりの始まり ローマ人の物語]T』(新潮社:2002.12.10)

 塩野七生さんの本は、かつて私の愛読書だった(たとえば『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』)。五木寛之や開高健もそうだったけれど、一頃あれほど夢中になったのに、どういうわけか最近はほとんど読まなくなっていた。それでも、「ローマ人の物語」だけは、全十五巻が完結してから一気に読むつもりで、文庫本が出た時もぐっと堪えていた。が、とうとう堪えきれずに読んでしまった。
 なにしろ、マルクス・アウレリウスが出てくるのだ。高校の頃の女友達の愛読書が『自省録』だったことは、この際あまり関係はないし、リドリー・スコット監督の『グラディエーター』が強く印象に残っていた、というわけでもない。ここ数年、ストア派の思想に強く惹かれていたからだ。そして、塩野さんとストア派は、たぶん合わないだろうと思ったからだ。
 はたして、作中、「まとまった形の著作を遺したただ二人のローマの最高権力者」であったユリウスとマルクス・アウレリウスを比較した箇所などを読むにつけ、まさにローマという偉大な国家の魂が腐臭を放ちはじめるのが、哲人皇帝マルクス・アウレリウスの統治下であった。ストア派の「死後の魂」と、現世の「剣と法」。
 本巻をもって、「死ねば誰でも同じだが、死ぬまでは同じではない、という矜持をもってローマを背負った、リーダーたちの時代は終わった」。いずれ全十五巻通読の際、こんどは腰を据えて読み返すことになるだろう。この書物は読み手を選ぶ。

★椎名誠『本の雑誌血風録』(朝日新聞社:1997.6.1)

 最近はほとんど読まなくなってしまったけれど、椎名誠さんの本(たとえば『哀愁の町に霧が降るのだ』)もかつて私の愛読書だった。その「スーパーエッセイ」は、伊丹十三や東海林さだおや山下洋輔や小林信彦(中原弓彦)の文章とともに、いまでも記憶に鮮やかだ。
 本書は、『哀愁』『新橋烏森口青春篇』『銀座のカラス』に続く「自伝的大河青春小説」の第四弾で、シーナをとりまく友人たち、沢口ひとしが、木村晋介が、そして目黒孝二や群ようこが実名で登場し、熱く、かつ怪しげな振る舞いで疾駆する。
 1976年春、「文藝春秋」をめざして発行された、定価100円、原価340円の「本の雑誌」第1号。当時、「話の特集」「ビックリハウス」「宝島」「面白半分」「ニューミュージックマガジン」といったカウンターカルチャーマガジンが元気だった。やがて、情報センター出版局からの出版の誘い、『海』への小説の執筆と、シーナが作家椎名誠に変身していく。
 暇つぶし、というか隙間の時間を使って何気なく読み始めたら、暇がなくなっても、つまり仕事の時間を潰してまで読み耽ってしまった。これほど熱中したのは久しぶり。以下新宿篇が続くのだが、これも未読。さっそく読まねば。

★松山猛『少年Mのイムジン河』(木楽舎:2002.6.17)

 昨年、神戸の文化ホールで、北山修さんが司会をして、杉田二郎さんや小室等さん、ナターシャ・セブンの坂庭省吾さんといった懐かしい面々が、持ち歌や好きな歌を思い思いに二曲ずつ歌う第一部と、出演者全員がそれぞれの思いと歌詞でひたすら「イムジン河」を歌い継ぐ第二部からなるコンサートを聴きに行った。最後に、誰もいなくなったステージで、伝説のザ・フォーク・クルセダーズ解散コンサート、ラストの「イムジン河」を録音したテープが流れるという、それは、ただただ「イムジン河」のためのコンサートだった。松山猛さんも登場し、北山修さんにおちょくられながら、訥々と語り、淡々と「イムジン河」を歌っていた。その時、さわりだけ話された、少年・松山猛の「イムジン河」秘話が、この本には綴られている。心に残るいいコンサートだったし、いい本だ。

★江國香織/著宇野亜喜良・絵『明るい箱』(マガジンハウス:2002.10.17)

 誰かが何かを待っている。何かが誰かを待っている。待っているあいだ、時間は奇妙にわだかまり、行き違う。ずれたり、拗ねたり、思いあぐねたりする。気持ちがあふれて、こぼれだす。記憶が流れて、水になる。何もない部屋、誰もいない部屋。誰かを何かが待っている。何かを誰かが待っている。待たれている誰かや何かは、きっと何処かで、振り向いている。待ち続けると、死んでいる。明るい箱が、残される。

★三谷幸喜『合い言葉は勇気』(角川文庫:2002.12.25)

 三谷幸喜さんはきっと、人見知りで引っ込み思案なのに目立ちたがりの出たがりで、生真面目で心優しくて涙もろいくせに底意地が悪くて偽悪的でシニカルな少年だったに違いない。そんな少年少女ならたくさんいたと思うけれど、でも、そのまま大人になることは、実はとても難しい。しかも三谷幸喜さんには天からのギフト、つまり才能が授かっていた。いや、才能に取り憑かれのだと、三谷幸喜さんなら抗議するかもしれないが、そのおかげでこんなにも「とんがっている」(「解説」の石坂啓さんの言葉)ドラマに巡り会えたのだから、読者は感謝しなくちゃいけない。どこがとんがっているかというと、フィクションの中にフィクションを入れ子にして、二重否定が肯定に飛躍する刹那に視聴者(読者)のリアルな「感動」をかすめとっていく、その騙しのテクニックが水際だっている。才人・三谷幸喜が腕にヨリをかけて仕上げた渾身の作品なのだから、面白いにきまっている。

★乙一『さみしさの周波数』(角川スニーカー文庫:2003.1.1)

 私はたまたま、「いとしのレイラ」や「ティアーズ・イン・ヘヴン」を繰り返し聴きながら、この本を読んだ。驚嘆させられたのは、まだ二十歳を超えたばかりの若者の書いた作品が、あの渋くて痛切で、それでいて深い滋味をたたえたエリック・クラプトンの世界と互角にわたりあって、人生の曲折を濾過して滴った純粋な「せつなさ」や「こわさ」や「さみしさ」が、四つの短編のうちに見事に結晶していたことだった。たとえば、水の変容(雨、雹、雪)とともに、未来の記憶の物語をリリカルに綴った「未来予報 あした、晴れればいい。」は、「ただ透明な川が二人の間を隔てて流れているような、あるような、ないような距離」を保った、言葉にはできない少年と少女の「関係」をあますところなく描ききった絶品。この味は、太宰治や椎名誠や村上春樹の系譜に連なるものだと、私は思う。真似できそうで真似できない、熟して滴る玉のような本物のオリジナリティをもった語り手だ。

★小池真理子『恋』(新潮文庫:2003.1.1)

 この小説は時間をおいて、できれば数年単位の間隔をおいて再読されるべき名作だ。ほぼ三年半ぶりに読みかえして、私は、序章に出てくるヒロインの可憐で痛切な姿に深い感銘を覚えた。矢野布美子の「肉と魂」は、私の記憶の襞にひっそりと息づいている。二十三年の時が過ぎても、布美子の心の中に信太郎と雛子が生き続けていたように。「世間では人を殺すためには、凶暴さと憎悪と怒りと絶望が必要であるかのように言われているが、それは嘘で、ただほんの少し、虚無感にさいなまれていさえすれば、人は簡単にムルソー[カミユ『異邦人』の主人公]になることができるのだ」。──陳腐だけれど、「官能小説の金字塔」という賛辞を、浅間山荘事件のさなかに遂行された魂の殺戮劇ともいうべきクライマックスを叙述しきったこの作品に捧げたい。「エロティックで悪魔的、デカダンな雰囲気」と「秘密を抱えながら生きていく人の精神」を見事に造形し、痛いほどの官能性を表現しつくした小池真理子さんを讃えたい。

★川端要壽『下足番になった横綱 〜奇人横綱 男女ノ川〜』(小学館文庫:2003.1.1)

 昭和11年1月場所、5日目、横綱昇進をねらう大関男女ノ川と、当時まだ東前頭三枚目だった双葉山との一戦から、物語は始まる。相撲史に残る場所だった。14年1月の春場所4日目、安藝ノ海に破れるまでつづく双葉山の破竹の69連勝が始まったのが、この場所の7日目からであった。──しかし、物語は決して血湧き肉躍るものではなかった。自転車での場所入りや、ダットサン通勤の奇行で知られた「弱い横綱」のまま引退。衆議院選立候補、私立探偵への転業、映画出演、等々、転変の人生をすごし、やがて転落。かつてのファンが営む料亭の食客として生涯を閉じる。破格、波瀾、奔放きわまりない人生だが、いささかも爽快感、痛快感が伴わない。だから悲痛、悲哀の念も生じない。ただただ、男女ノ川の四股名をもった男の生涯と時代の変遷を、淡々と綴るだけで、いっさいの感情移入はない。いっそ潔いが、かえって興をそぐ。「時代の枠におさまりきれない横綱がいた」という帯のコピーが白々と響く。

★唐沢俊一『お父さんたちの好色広告』(ちくま文庫:2002.12.10)

「お客さン、お客さン、写真あるよ、いい写真。バッチリだよ……」。そんなふうに、怪しいオヤジからヒソヒソ声をかけられた覚えが、私にも実はある。もう遠い日のセピア調の思い出でしかないけれど、「クシャミをしても××××がほとばしる年頃」だった私にとって、それは、まだ見ぬ性のテラ・インコグニタ(未踏の領域)への誘いの言葉だった。歳月を経て、そんな世界などどこにも潜んでいないことを知ってしまった私は、それでも、毎日曜の朝日新聞の読書欄にきまって掲載されている、熟女や人妻の写真集の広告に、なかには、「強精食強壮剤研究家」なる人物が書いた本の広告などもあって、あの時代の余韻、いや疼きのようなものを懐かしく思い出している。B級本愛好家にして研究家の唐沢さんが編んだ、この「酔狂にして学術的極まる本」は、失われた十年ならぬ、エロと情欲の五十年史を鮮やかに甦らせている。このような書物は、ただただ保存し、後世へと引き継いでいくべきである。

★『阿佐田哲也麻雀小説自選集』(文春文庫:2002.12.10/2000.11)

 悪魔のゲームに取り憑かれ、私は学生生活の一年以上を無駄に費やした。この苦い記憶の片隅で、阿佐田哲也は神々しく、しかし眠たげにたたずんでいる。『麻雀放浪記』は、浅間山荘事件以後の多くの自堕落な学生にとって、麻雀の奥深さと人生に立ち向かうスキルがぎっしりと詰まった、一種のバイブルだったのだ。「その時分の私は、どういう世界であろうと、玄人としての接触、つまり真髄に触れるばかりにのめりこんだ生き方以外に興味がなかった。おそらく若くて、生命の力がむんむんしていたときだったのだろう。…二十年立った今はちがう。たかが玄人、と思っている。ひとつの真髄に触れるより、もっと大きな、綜合的な生き方があるような気がしてきた」(青春編)。たとえばそんなフレーズに、ゾクゾクしたものだった。あれから二十年以上の歳月が流れ、雀聖は逝った。生前の阿佐田が好んだ純粋な麻雀小説、「人物よりも麻雀牌が主軸になって展開が定まるような作品」(後記)として読むことのできる時代が到来した。いや、到来してしまったというべきで、だからこの本を読むことは、私にとってどこか無惨で痛ましい体験だった。

★ジム・モリス/ジョエル・エンゲル『オールド・ルーキー 先生は大リーガーになった』(松本剛史訳,文春文庫:2002.12.10)

 感動を誘うには、その物語が実話である必要はない。よくできたフィクションにこそ、純粋な感動が宿っている場合が多いことくらい、小説読みならだれでも知っている。この、いかにもプロのゴースト・ライターの筆を思わせる読み物風の「自伝」には、平凡な男のありきたりな半生の記録が、たった一度の奇跡の出来事によりかかって綴られている。その「奇跡」にしてからが、これぞアメリカン・ドリームと、メディアによって増幅され、大量消費された物語なのだから、それを実地に体験していない者に言わせれば、So What? ──まあ、そんな意地悪な見方をせずに、もっと大らかになってもいいとは思うけれど、ちょっとばかり忙しく体調不良のなか、時間をやりくりして読んだものだから、少し八つ当たり気味の感想です。

★ピーター・ストラウブ『シャドウランド』上下(大瀧啓裕訳,創元推理文庫:2002.12.13)

 村上春樹さんの『海辺のカフカ』の主人公がそうだったように、15歳の少年は特別な存在だ。善悪を兼ね備えた父親の勢力圏からの脱出や、同年輩の少年との友情と裏切り、そしてミステリアスな少女との出逢いと記憶の中での性的一体化。シャドウランド(影の国)というのは心の世界のことで、だからこの作品は、少年が大人になっていく通過儀礼を描いた物語である。──いや、そんなありきたりな読み方はつまらない。シャドウランドでは想念が物質化し、時間が融解する。ひらたく言えば、思ったことが現実になり、生者と死者が語り合う。それは言葉で書かれた物語の世界と同じことで、だから魔術師とは作家そのものだ。これは作者と登場人物の闘いの記録なのだ。──いや、そんな穿った読み方もひねくれている。これは純粋なファンタジーで、ただただ魔術師の手管に煙に巻かれればいい。その上で、読者(魔術師の弟子)は、この作品が自分にあうかどうかを見極めればいいのだ。

★ミネット・ウォルターズ『鉄の枷』(成川裕子訳,創元推理文庫:2002.12.27)

 古典的風格と緊密な骨格を備えた推理小説にして、英国風の重厚と軽妙に彩られた家庭小説の傑作。大村美根子さんが「解説」で、「一人の死者を理解させようと作家が努めている小説」と書いている。見事な評言で、実際、物語は、中世の拘束具を被り息絶えた老婦人の「偉大なる個性」や「巨大な自我」をめぐって展開する。モデルの人格的本質を色彩で抽象的に表現する売れない画家のジャックが妻のセアラに、「きみはいつになったら目を開くんだ? 目を開いて人を立体的に見るようになるんだ?」と語っているように、この作品は、ギリシャ悲劇と現代のスキャンダルとの中間に位置づけられる性格のドラマである。だが、ミステリーというジャンルがもつ本質的な欠陥、つまり、すべての謎と秘密が明らかになったときのあの白々しさが、唯一の疵となる。「正しい問いを持つのは、正しい答えを得るよりむずかしいんだ」。セアラにほのかな恋心を寄せるクーパー部長刑事(もう一人の探偵役)の上司が吐くこの名言が心に残る。

★A・S・バイアット『抱擁』TU(栗原行雄訳,新潮文庫:2003.1.1)

 「此処は全てが二重の世界」。女流詩人クリスタベル・ラモットの「水に沈みし都」に出てくる詩句が、この作品のすべてを語っている。──作者は自作を「灰色のクモの巣のようなわたしのパリンプセスト」と呼ぶ。パリンプセストとは、一度書かれた文字を抹消して重ね書きされた羊皮紙のこと。ヴィクトリア朝詩人の秘められたロマンティック・ラブと、「もはや愛という言葉を口にすることはない」現代のポストモダンな性愛が、手紙や日記、詩、幻想譚といった様々な架空のテクスト(クモの巣)群にことよせながら重ね書きされたこの作品は、その原題(POSSESSION)自体がもつ三つの意味、つまり悪魔的な力(取り憑かれた状態)と経済的所有と性的含意のすべてを錯綜したかたちで展開しきった、まれにみる方法意識に貫かれた小説である。歴史ミステリーとクエスト(探求冒険譚)と性愛小説と「パロディー」とが渾然一体となった、まことに大仕掛けで、しかも小説を読む愉しさを堪能させてくれる薫り高い雄編だ。
 

☆今月の棚卸し

★椎名誠・沢野ひとし『私広告』(本の雑誌社:1993.4.20)
★沢野ひとし『哀しい人』(本の雑誌社:1996.10.15)
★中場利一『岸和田少年愚連隊 望郷編』(本の雑誌社:1998.4.15)
★本の雑誌増刊『おすすめ文庫王国2002年度版』(本の雑誌社:2002.12.25)
★リテレール別冊『文庫本の快楽』(メタローグ:1992.11.5)
★丸谷才一編『私の選んだ文庫ベスト3』(1995.12.10)
★池澤夏樹『室内旅行 池澤夏樹の読書日記』(文藝春秋:1998.7.25)
★坪内祐三『シブい本』(文藝春秋:1997.6.15)
★『ブックガイド・マガジン』創刊号(幻想文学出版局:1990.8.1)

 今年からいくつかの雑誌を定期購読することにして、とりあえず『論座』と『群像』と『本の雑誌』の2月号の紙面を毎日少しずつ眺めている。なかでも『本の雑誌』は、なんというか七十年代の匂いのようなものがいまでも濃厚に漂っていて、とても懐かしかった。そこで、かつて愛読した椎名誠さんの未読の『本の雑誌血風録』を図書館で借りて読み始めた。この本は『哀愁の町に霧が降るのだ』『新橋烏森口青春編』『銀座のカラス』に続く「自伝的大河青春小説」の第四弾で、例によって読み始めたらもう止まらない。勢いで本の雑誌社から出ている若干の本(沢野さんのイラストをこれだけまとめて眺めると、決して研ぎ澄まされたものではないのだけれど一抹の寂寥感にとらわれる)と、それから文庫本を特集した本の雑誌増刊、伝説の編集者ヤスケン(坪内祐三さんととの例の「戦争」以来どうも好きになれなかったけれど、『論座』連載の中条省平さんの文章を読んで少し評価が変わった)のリテレール別冊、毎日新聞書評欄に掲載された「文庫ベスト3」、ついでに池澤夏樹さんが週刊文春に連載したもの、昔一度読んだことのある『シブい本』、おまけに本箱を整理していて見つけた今は無き『ブックガイド・マガジン』の創刊号(東雅夫編集で、特集が「澁澤龍彦をめぐるブック・コスモス」)と、まとめて九冊、机の上にドンと並べてとっかえひっかえ読み回した。
 

☆不連続なシネマ日記

★アルフレッド・ヒッチコック『フレンジー Frenzy 』(1972)

 ヒッチコック晩年の傑作と評判の高い作品で、ローカルな話題で恐縮だが近所のレンタルビデオ屋では『裏窓』に次ぐ第2位にランキングされていた。この映画の見所はやはり絞殺された女性の死顔だろう。三人出てくるなかでも主人公の別れた妻の顔がいい。殺害シーンもいい。ホラー映画の怖さは全然ないけれど、日常の中に突然出現する連続殺人犯の狂気の表情と、ほとんど無抵抗のままマネキン人形のように縊られていく女の白痴的な最期が痛ましく、かつ滑稽だ。警部と料理下手の妻との会話シーンも必見(このミステリー映画に探偵役がいるとすれば、この警部の妻だろう)。

★フランソワ・トリュフォー『黒衣の花嫁 La Mariee Etait en Noir 』(1968)

 すべてはジャンヌ・モローの演技、というよりスクリーン上での存在感にかかっている。この映画は以前テレビの深夜番組で一度観たことがあって、その時は白日夢を見ているような(深夜だからこの言い方は変だが)もどかしさに焦れ、淡々と事務的に処理されていく五つの殺人にリアリティが感じられなくて、集中力を欠いてしまった。今度改めて観て、やはりこの映画はジャンヌ・モローがすべてだと思った。原作はウイリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ名義)。

★原田眞人『突入せよ! 「あさま山荘」事件 The Choice of Hercules 』(2002)

 あの事件の時代背景やあの時代の思想状況などに頓着せず、自らちょい役で出演した原作者をはじめすべての登場人物が実名でありながら実録風を装わず、だから「プロジェクトX」風の演出趣向も凝らさず、面子と組織に雁字搦めにされた男達の滑稽と真摯と苛烈を淡々と、娯楽映画に徹したストーリー展開のうちに描き出す。あの出来事がこのように映画化される日が来ようとは。欧州視察帰りの警察庁警備局付監察官・佐々淳行を演じた役所広司の抑制された怒りと断念が印象に残る。

★スタンリー・キューブリック『フルメタル・ジャケット Full Metal Jacket 』(1987)

 前半の海兵隊訓練所を舞台とした言葉の戦闘、後半のベトナム最前線でのベトコンとの本物の戦闘の二部構成。映画の最終場面に出てくる少女狙撃兵の最期の祈りは、イデオロギーによってフル装備された人間の哀れを描いたものだったのだろうか。(言語によって装備された人間にとって映画とは何なのだろう?)──ところで、人間を完全被甲弾(フルメタル ・ジャケット)のような殺人マシンに仕立てあげることは、実はベトナム戦争後にはじめて「技術的に」可能となった(らしい)。

★スティーブン・スピルバーグ『マイノリティ・レポート Minority Report 』(2002)

 久しぶりに映画館で新作映画を観た。結構面白くて2時間半の時を忘れるのだけれど、観終わって振りかえると大味で退屈。まあ、ビデオになるのを待たず、旬のうちに大画面で観ておいて損はないよ、素直に楽しめばちょとした感動だって得られるよ、と人には勧められる。未来技術と古くさい人間ドラマがミックスされて、結末は紋切り型。記憶に残りそうもない物語。