不連続な読書日記(2002.12)




★2002.12

☆神崎繁『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2002.10.25)

 ニーチェ=引きこもり説(第1章)に始まり、ルクレティウス的死者の視点をもった「実験としての単独者」の海抜六千フィートからの思考(第2章)を介在させて、世界への引きこもりとしてのニーチェのキュニコス主義を語る(第3章)。その構成自体が、ニーチェを論じながらも本当に書きたかったストア派やエピクロス派や懐疑論といった諸思潮について実は語り、9.11以後の第二のヘレニズム期ともいうべき「世界情勢」を睨みながらも「世界」への態度(同情の禁止)という一点においてそれらの諸思潮が現代においてもちうるアクチュアリティを甦らせている。とりわけ、紀元前三世紀キュニコス派(犬儒派)の哲学者メニッポスに由来するメニッピア(メニッポス流の風刺、高みからの哄笑)をめぐって、『吾輩は猫である』と『ツァラトゥストラ』の同類性を喝破した丸谷才一の説を敷衍して漱石へのニーチェの影響や『草枕』の「非人情」という考え方にメニッピアの影を見たりと、言いたい放題を尽くした第三章はまことに圧巻である。こういう書物を私は好きだ。

☆吉本隆明『吉本隆明のメディアを疑え あふれる報道から「真実」を読み取る法』(青春出版社:2002.4.15)

 わたしは、そのときどきの社会総体のヴィジョンをじぶんなりに把握していないと、純文学ですら成り立たないという考えを太平洋戦争の敗戦後から文学上の課題としてきた。──吉本隆明はあとがきでそう書いている。この「純文学ですら」という言い方にこめられたニュアンスをどう受け止めればいいのか少し迷うけれど、でもこのように自分の「文学上の課題」を端的に毅然と語る年長者(ご意見番)は現代では得難い。本書で吉本隆明が語っているのは、メディアやエコノミストはほんとうのことを言えということだ。ほんとうのことを書くためにこそ文学者は「そのときどきの社会総体のヴィジョン」を把握する想像力をもたなければならないのであって、それは報道に携わる者とて同じことだ。

☆内田樹『「おじさん」的思考』(晶文社:2002.4.10)

 合気道の達人が書く文章はさすがに違う。生の様式、思考の生理ともいうべき文体がびしっときまっている。はりつめた緊張のうちにしなやかな滋味がほどよくブレンドされていて、この「ほどよさ」が「おじさん」の持ち味だ。こうした「正しいおじさん」になること、つまり成熟へいたるには三つの道がある。知的緊張の持続が思想であり、反復練習の方法が哲学であり、秘密をめぐる作法・構えが文学である(ここでいう秘密とは「内面」を分泌する私秘的な意味合いをもたない。強いて言えば秘伝、つまり奥義の伝達をめぐるコミュニケーションそのもののうちに表現されるものである)。とても鮮やかな、達人の冴えわたった論理の切れ味に驚嘆させられる。

☆中条省平『反=近代文学史』(文藝春秋:2002.9.30)

 「三島事件とはなんだったのか」を問うた養老孟司の名著『身体の文学史』を横目で睨みつつ、「反=近代文学史」を「僭称」しながら「反=近代」の系譜学的流れを明治維新以前の、正確には『ボヴァリー夫人』と『悪の華』が世に出た一八五七年以前の世界へと遡源し、そして時空以前の虚へ、つまり死者たちの世界へと突き抜けた「反=歴史」的二十世紀日本文学史。冒頭の夏目漱石を「たたき台」として、二十世紀前半(泉鏡花・谷崎潤一郎・江戸川乱歩・稲垣足穂・夢野久作)と後半(三島由紀夫・澁澤龍彦・山田風太郎・村上龍・筒井康隆)から五人ずつ選ばれた「近代という人間中心世界の外へ出ようと希求した」作家たちがちょうど鏡像関係を取り結ぶように配列されている。さらに周到にはりめぐらされたキーワードでもって各章が継起的につながれた、実に見事に構成された書物である。

☆野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房:2002.4.10)

 これほどの書物はめったに出会うことがない。哲学書を読み終えたとき世界が根本的に変わってしまうことは、そう再々あることではない。世界の見え方や見方が変わったのではなくて、世界に対する態度が変わった結果、まったく別の世界が開かれていく「予感」に身震いする、とでも言えばいいのだろうか。それほどの“読み”を強いる「希有の魅力」をたたえた『論理哲学論考』と『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の二冊の著作の交響は、それこそ独我論者と反独我論者の哲学的対話の実況で、読むことがほとんど生きること(世界を「生きる意志」で満たすこと、つまり「幸せに生きる」こと)に等しい場所へと読者を引き込んでいく。あたかも仏陀が無限に再来するように、ウィトゲンシュタイン=野矢茂樹という「対象(実体)」の不滅性が永遠の相のもとに「不変の礎石」として回帰するその刹那を見事に語り続けた哲学ライブである。「永遠(無時間性)を生きるひととは現在を生きるひとにほかならない」(『論考』6・4311)のだとすれば、ウィトゲンシュタイン=野矢茂樹の思考は、いま現在も私のうちで対話を続けている。これほどの書物に出会えることは希有の経験である。

☆中島義道『「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』(講談社選書メチエ253:2002.11.10)

 中島さんは「私というあり方」一般をめぐる問題を、根源的自我や超越論的身体といった壮大なおとぎ話をもち出すのではなく、あくまでも日常的で健全な目線にそって具体的に思考した。「私」という言葉の日常的な使用法、とりわけ過去形の使用法に着目し哲学的に反省してみた。その結論は、「私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、過去の体験を「私は……した」と語る者なのです」というものだった。しかも、ここでいう想起の対象は「無」であっても構わないのであって、「ここに私の秘密が隠されている」。本書の冒頭で早々と示されるこの「想起モデル」による説明で、すべては尽きている。あとは「くどくど」(あとがき)と同じことを反芻しているだけだ。でもこの「くどくど」性こそが中島哲学の、いや哲学一般の秘密を握る要諦で、たとえば野矢茂樹さんが「語りきれぬものは、語り続けねばならない」(『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』)と書いているのも、哲学的リアリティのよってきたるところを端的に言い当てたものだと思う。(ちなみに、野矢さんの『同一性・変化・時間』は中島さんの本書と鋭く接近している。ついでに書いておくと、新宮一成さんの『夢分析』は中島本とほとんどオーバーラップしていたように思う。)

☆熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』(シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2002.11.25)

 カントの思考は〈境界〉をめぐる思考であった。まず、カントは「世界」をその境界(始まり)において考え、物自体と現象とを区別した(第一章)。このような「超越論的観念論」の立場こそが、「世界の外部に、世界を超越する神を考える根拠」となる。しかしその神は、思弁的理性がそこにおいてめまいをおこして立ちすくむ境界としてあらわれる(第二章)。この境界、すなわち感性的なもの(思弁的理性)と超感性的なもの(実践的理性)とのあいだを架橋するのは構想力なのだが、たとえば「崇高なもの」(「端的に大」であるもの)は構想力にとっての無限=法外なもの=不可能なものである。そこにおいて、呈示することの不可能性によって呈示されるのは「構想力にとっての可能性と不可能性それ自体の〈境界〉の上に揺らいでいるもの」であり、そこにおいて経験されるのは「不可能性に向かい、不可能性に無限に近接してゆく経験」である(第三章)。──私は「カントの思考の奥ふかくにあるもの」を論じた第三章がよくわからなかった。熊野氏は「不可能性に接近する経験」について、「より正確にいえば、主体のなかにわずかに存在する神的なものが、ほんの一瞬ほのみえ、煌めく経験にほかならない」と書いている。このことと、「カントが超越論的感性論において確立しようとした視点、空間と時間の超越論的観念性という論点が、神学的/形而上学的な含みをあらかじめ有していた」ことの指摘とをあわせて考えると、本書で熊野氏が示そうとしたのは、人間(現象)が神(物自体)にアクセスする無限の回路、端的に神になること(人間でなくなること)の経験可能性をめぐる思考なのだろうか。

☆佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』1〜3(講談社:[1,2]2002.6.21/[3]2002.10.23)

 この作品は医学界の内幕を暴き告発する社会派でも、研修医・斉藤英二郎の成長過程を描く教養モノでもない。ここでリアルに展開されているのは、人間の生と死にかかわる医療をめぐる長い歴史をもった議論なのである。たとえば、第一外科の指導医・白鳥貴久は「私は将来必ずこの大学の教授になる! 教授になってまずはこの大学を変える……全国にある永大の関連病院を変える……そして日本の医療を変える! 結果的に……それがより多くの人を救う道だ……!」(第1巻第4話)と語り、心臓外科のボス、藤井義也教授は「君が救えるのは……君が出会った患者だけだ せいぜい幼稚な自己満足にひたっていたまえ 私はすでに私の研究成果で数百万人の患者を救ったよ」(第3巻第17話)と誇る。これらはいずれも真実の言葉であり、ことほどさように物事は一刀両断に割り切れない。この割り切れなさのうちからこそ人間の物語は語られる。

☆岡野玲子・夢枕貘『陰陽師11 白虎』(白泉社:2002.12.4)

 ついに晴明[ひかり]は闇に降下し、闇に君臨する。生と死の間、時代と時代の間。岡野玲子の表現世界は途方もない、前代未聞の領域へと踏み込んでいく。《そして私は一 闇だ 私の右眼は地に属し物質を視る 私の左眼は天に属し 次元間を縦に視る よって右眼は光によって見える世界と そこに生じる影を視 左眼は 光そのものと 闇そのものを視る 私は闇に降下する (中略) 嵐のように強暴な太古の闇 生命を生み出す豊饒な花開く闇 根の根… 底の底 闇の闇… 結晶体のごとき 純粋[ソリッド]な闇に 我が根を結び 私は闇に 君臨する》──岡野玲子は『ダ・ヴィンチ』(2003年1月号)のインタビューで「11巻は、神と晴明の熱烈恋愛なんですね、ほんと。11巻は神様のエロ本。本当のエロスというのは奥深くて神聖で、スキがなくて、命懸けなのよ」と語っている。神と晴明の熱烈恋愛の間で、可憐な真葛は懐胎する。《おれは神様なんか大嫌いだ おれの大事な晴明を 何度も手籠めにして》

☆今井淳他『不変量とはなにか 現代数学のこころ』(ブルーバックスB-1393,講談社:2002.11.20)

 数学の世界の醍醐味を知るためには、「しかるべき数学教室での…最低限の基礎トレーニングを受けることが早道でしょう」と本書に書いてある。それは老後の愉しみにとっておくとして、そうした「基礎トレーニング」への動機づけのためにも、現代数学の香りを味わい、数式を鑑賞することの悦びをまず体感しておかなければなるまい。本書はその最適なテキストであり、誘惑の書である。《…現代数学は,すでに「数の学・図形の科学」という古典的な枠を越えて,「思考技術・思考様式の科学」とでもいうべき「より普遍的な学問」に進化したということもできましょう。》(52頁)《…単なる算数を超えた高等数学の世界には,世界を認識するためのアイデアや知恵,思わず吹き出してしまうような機知に満ちたトリックから背筋をゾッとさせるような深い洞察まで,学べば学ぶほど奥が知りたくなる知識の山が蓄積されています。》(215頁)

☆村上春樹・安西水丸『新版・象工場のハッピーエンド』(講談社:1999.2.26)

 講談社の「全作品」第二期全七巻の刊行が始まっていて、短編を集めた二冊だけでも買って読み直してみようかと思っている。村上春樹の短編群は、中長編とはまったく別の世界をかたちづくっている。この「かたちづくる」ことが「象」なのだ。──『象工場のハッピーエンド』に「A DAY in THE LIFE」という4頁ほどの短い文章がある。そこに出てくる「僕」はもう五年間、象工場で働いている。『象工場のハッピーエンド』が出たのが1983年で、村上春樹のデビューが1979年だから、辻褄はあっている。『新版』は、若干の文章と若干の画稿が加わって、初期の村上春樹が手がけていた「牙入れさえ終れば完成という象たちが一所懸命に鳴いている声が聞こえる」ようだ。

☆五味太郎『うたがきこえてくる』(青春出版社:2000.7.20)

 歌や音楽、うたうことや聴くことをめぐる23の短い文章に絵が添えられて(いや、先に絵があって、それに文章が添えられたのかもしれない)、一枚一枚じっくり眺めていると、そこから声がたちあがってきて、それはやがて音になり、最後に歌になって、「神様的な次元」から直接「魂のみなもと」へむかって聴こえてくるような、そんな「気配」がただよっている絵と文のデュオ。

☆谷川俊太郎・長谷川宏『魂のみなもとへ──詩と哲学のデュオ』(近代出版:2001.9.2)

 「詩人は何事も証明する必要はない」。これは、詩人・谷川俊太郎が引用するミラン・クンデラ(『生は彼方に』)の言葉だ。これにたいして、哲学者・長谷川宏は、「なにより論理を尊ぶのが哲学者だ」と応じる。ここでいう「論理」とは、「もののつながり」のことだ。「わたしたちが自由でなかったら、…ものたちはみんなばらばらになって、世界は崩壊する」だろうと、哲学者はいう。「本当のことを云おうか/詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない」と、詩人はいいはなつ。「どんな生きかたをするにせよ、その自分をおだやかに見つめるもう一人の自分がどこかにいれば、この、もう一人の自分には、いつか、生かされてある自分が見えてくる」と、哲学者はしめくくる。詩人と哲学者。この、プラトン以来の「もうひとりの自分」が、「日常を超えたなにものか」、つまり「魂のみなもと」(詩人の言葉)へ向かって、紙上のバトルを繰り広げた。ここには、その一部始終が記録されている。

☆橘真児『女教師ふたり』(フランス書院文庫:2002)

 高校教師と中学教師の先輩、後輩がルームメイトで、そこに教え子の美少年が訪れるといったシチュエーションは悪くないと思うが、展開がイマイチ。登場人物のキャラクターや言動も一貫性がない。途中で物語の筋が変わったのか端折られたのか、読者が予想(期待)するストーリーを提供しながらも、その見せ方、語り方で魅了するのが官能小説の王道なのだから、これは明らかに失敗作。

☆高野文子『黄色い本 ジャック・チボーという名の友へ』(講談社:2002.2.22)

 こわいマンガだ。ほのぼのと静謐に、いかにもおだやかに淡々とコマは進んでいくのだが、高野文子がえがく世界は、基本的にこわい。なにしろ、アングルがいびつなのだ。写真が意図せずしてうつしだしてしまう、人物や風景の「無意識」とはまたちがった意味で、感情の襞でも関係の曖昧でも時間の分岐でもない、いずれにせよ見てはならないもの、あるいは見ることができないものを、高野文子の線は、あからさまではないかたちで露出させる。コマとコマとのあいだにうがたれた余韻、あるいは飛躍、亀裂、深淵、とでもいうべきものにも、おびえさせられる。ゆっくりと味わいながら読んではいけないのだ。神話とスキャンダルのあいだ、つまり日常をつくりだす、あの生のリズムを見失ってはいけない。そこにある豊穣と過剰、欲望や悪意を、みつめすぎてはいけない。だから、高野文子のマンガはこわい。こわいけれど、やさしい。その世界から帰還したとき、日常が更新される。

☆ジェフリー・ディーヴァー『青い虚空』(土屋晃訳,文春文庫:2002.11.10)

 まず書いておかなければならないこと。これは第一級のエンターテインメント小説である。極上かどうかは人によって評価が異なるだろうが、後半、期待を裏切らない大業がいくつも用意されていて息つくヒマも与えない。(それはたとえば人とマシンの取り違え、大人と子供の取り違えといった趣向なのだが、これ以上書くとネタばらしになってしまう。)あまつさえこの作品には骨太のテーマがある。コンピュータで人を殺せるか。ソフト・アクセスによる殺人は可能か。もちろんそれは可能で、その答えは二通り用意されている。これもお楽しみのネタだ。でもそれがテーマなのではない。コンピュータで人を愛せるか。コンピュータで人をつくれるか。これこそが本当のテーマで、もちろんそれは不可能に決まっている。コンピュータ・ネットワークがひらくマシン・ワールド(サイバースペース)、それをハッカーたちはブルー・ノーウェアと呼ぶ。ユートピアの英訳はノーウェア(どこにもない場所)だから、青いユートピアと呼んでもいいだろう。胎児の視覚に最初に映じる色は青だという。だとするとブルー・ノーウェアとは母胎(マトリックス)の比喩でもある。だが、そこから産まれるのは生命ではない。ソーシャル・エンジニアリング(「自分じゃない誰かのふりをして他人を騙すこと」)が生み出す様々な人格である。それは匿名性の消滅の果てに生産されつづける、フィクショナルでかつリアルな非生命的人格でしかないのである。(そういえば、作者もまたソーシャル・エンジニアリングの達人だった。)

☆滝田洋一『日本経済 不作為の罪』(日本経済新聞社:2002.11.5)

 「成長フロンティアが見いだせず、デフレの圧力が高まるなかで、「不況と戦争の時代」の足音がひたひたと聞こえてくる」。最終章の直前、この言葉にたどりつくまで著者は淡々と、怒りを抑え罪状を読み上げる検察官のごとく冷徹に、ひたすら事実を語り続ける。個人金融資産、ペイオフ封印、対外純資産という、危機意識を曇らせてきた三つの安全装置がいかに脆弱で空虚で欺瞞に満ちたものであったか。アメリカ経済の失速とともに他人頼みの景気回復シナリオは破綻し、もはや世界のどこにも範とすべきモデルはないこと。──「人は見たいものしか見ない」とカエサルは言った。見るべきもの(希望)を失った人を律する原理は、「見たくないものは見ない」である。ここに「不作為」という名の行為、百年単位の衰亡をもたらす罪の淵源がある。被告と目されているのは、政治家、官僚、企業、そして何よりシェイクスピア劇を眺めるように政治を傍観してきた「国民」である。──「根っこにある問題から目をそらして、成長フロンティアを論じるのは、重力のない架空の島、ロードス島で何百メートルも跳べると自慢し合っているようなものである」と著者は言う。韓国式の金融と産業の一体再生、銀行国有化を含むハードランディングこそが復活のための現実的な処方箋である。「不良債権と過剰債務という負債を辛抱強く処理し次の成長産業が育つのを待つというのが、破局を回避するための唯一の処方箋ということになろうか」。──著者は正しいのだろう。正しすぎるほど正しいと思う。だが、罪に見合う罰を辛抱するためには、煉獄を突き抜けた先に輝く理想がなければなるまい。イソップの寓話を踏まえてヘーゲルは「ここに薔薇がある、ここで踊れ」と洒落た。ここ、ロードス島に見出すべき薔薇=理想とは、「国民」といった抽象的な主体のものではなく、それぞれの「私」の理想であるべきだ。一刀両断式に黒白を決める裁判官など、どこにもいない。
 

★今月の棚卸し

☆村上龍『共生虫ドットコム』(講談社:2000.9.27)

 まだ『共生虫』を読み終えていないのに、当時の雰囲気を伝える記録本(ゴッタ煮)を眺めた。一つの作品を仕上げることは、一つの産業を興すことに似ている。
 

★不連続なシネマ日記

☆行定勲『GO』(2001)

 「民族差別を真正面にすえた力作」とか「在日青年の怒りと熱情描く」と某HPに書いてあった。それはそれで一つの見方だろうと思うけれど、少なくとも私にとってそれらは背景にすぎない。歯が折れるまで息子を殴る父の苛烈や振幅の激しい母の奇矯、青年のぎらぎらした怒りの凝視やその眼差しに背筋をぞくぞくさせながらも青年を体に受け入れることを恐れる少女の、それぞれの苛烈や奇矯や怒りや恐れが、そして何よりも「恋愛に関する物語」が現代日本でリアリティを持つ背景。いや、これは映画なのだからリアリティではなくてアクチュアリティと言うべきなのかもしれない。金城一紀の原作を読んでいないので迂闊なことは言えないが、たぶん「想起」にかかわる言語表現のもたらすものがリアリティであるとすれば、「知覚」にかかわる映像表現のもたらすものこそアクチュアリティなのだと思うのだが、まあ、そんな訳の分からない理屈はどうでもよくて、この映画は確かに映画でしか表現できない瞬間をふんだんにはらんでいたし、役者が役者の仕事をしていた。

☆ウディ・アレン『セレブリティ Celebrity 』(1998)

 ウディ・アレンの居ないウディ・アレン(ケネス・ブラナー扮する売れない脚本家にして書けない小説家リー)の映画。風采はあがらないのになぜか女にはもてる饒舌な中年男性の成就しない性愛遍歴と、その離婚した情緒不安定な妻のシンデレラ物語(分析医や占い師がなんといおうと「愛は運よ」)。才能の迸りだけで出来上がったようなウディ・アレンの世界の集大成。レオナルド・ディカプリオがいい味で登場する。

☆デイヴィッド・リンチ『イレイザーヘッド Eraserhead 』(1976)

 ブニュエル(『アンダルシアの犬』)の映像の記憶が色濃く漂った長い夜の悪夢の果ての天使と悪魔のイメージが交錯するラストシーンでデイヴィッド・リンチが描きたかったのは、人間は生物で、生物とは消しゴム付きの鉛筆にほかならず、自分の生の軌跡を自分の頭で消しているようなものなのだが、その消しゴムの滓が舞い散る映像宇宙の塵が凝固して出来上がった星が揺籃となって育つ怪物が、つまり鉛筆の芯で、それが人間の、いや生物の心とか内面と言われるものであって、映画が決して表現できない、というよりそもそも映画の表現対象ではないということだったのかもしれない。

☆デイヴィッド・リンチ『ストレイト・ストーリー The Straight Story 』(1999)

 七十三歳のアルヴィン・ストレイトが、時速八キロのトラクターに乗り六週間かけて、仲違いしていた兄を訪ねる。途中で出会った妊娠五ヶ月の家出少女に家族の絆を語り、自転車乗りの青年に、年を取ると経験を積んで実と殻の区別がつき細かいことを気にしないようになるけれど、最悪なのは若い頃を覚えていることだと語り、親切な人々が住む街のバーで、一人の老人と先の大戦での苦い経験を語り合う。そして、十年ぶりの兄との再会を縁取る痛切な沈黙。寡黙でどこか優しげな農園の景観と哀切な響きを湛えたサウンド・トラックが心に沁みる。これは老人のためのロード・ムービーだ。

☆ジム・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット Night on Earth 』(1991)

 ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、そして(なぜか)ヘルシンキの五つの都市を舞台にして、同じ地球の一つの夜に起こった出来事をタクシー運転手と乗客の会話だけで綴った五つの短編映画。整備工を夢見るロサンゼルスの若い女性ドライバーと映画のキャスティング担当の中年女性、東ドイツから来た元ピエロの初老ドライバーとニューヨークのお節介な黒人男性とその義妹、コートジボアール出身の怒りっぽい男性ドライバーと気が強い盲目のパリジェンヌ、おしゃべりなローマの男性ドライバーの猥褻な懺悔を聴かされて心臓発作で亡くなる神父、突然の不幸に見舞われた同僚のやけ酒につきあった二人の男たちにもっと不幸な出来事を語ってきかせるヘルシンキの初老の男性ドライバー。それぞれのストーリーに忘れがたい味わいがあって、それぞれの都市が持つイメージとうまくブレンドされている。しゃれた構成と巧みな演出。個人的にはロサンゼルス編が好み。