不連続な読書日記(2002.11)




★2002.11

☆木村剛『小説ペイオフ 通貨が堕落するとき』(講談社文庫:2002.10.15)

 私はめったに自分が読んだ本を人に勧めることはしない(したくない)のだが、この本だけはもしまだ読んでいない人がいたら是非一読を勧めたいと思った。まず経済「情報」小説として一級の仕上がりで、「Price ×Transaction=Money ×Velocity」の恒等式の重要性(特にV)とか「金融問題の根幹は信用である」とか財政構造改革と金融危機が同居した1997年がエポックであったこととか、その他多くの事柄を具体的な登場人物の議論と言動と内省を通じて実地に学べる。しかし、それよりもなによりも「小説」としての結構が素晴らしいのである。人物の絡みの不十分さとか偶然の出来事によるストーリーの転回とかいくつかの疵を指摘することは容易いと思うが、それらは大仰に言えばギリシャ悲劇をすら思わせる物語の骨格を前にしては小さい問題である。私は本書を読み終えて著者の「切迫感」の実質がリアルに体感できた。怒号や悲憤では問題は解決しない。知性こそが、個人としての思考と認識とリスク回避行動を促す知性こそが頼りの綱なのだ。

☆松本人志『シネマ坊主』(日経BP社:2002.2.5)

 松本人志の映画批評の、というより評価の軸はとても明快で、監督のアイデアとイメージと撮りたい(表現したい)という思いがはっきりしているかどうかの一点にかかっている。だから、たとえば「結局、何が言いたいねん」ということで評価すべきではないとか、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見て泣くってことは、実はこの映画をわかっていない、基本的に狂人の映画なんです、といった珠玉の言葉がぽんぽんと飛び出してくるわけだ。映画を語る新しい言語が弾んでいる。ちょっと驚嘆した。個人的には『ブレイブハート』への高い評言が快かった。

☆齋藤孝『読書力』(岩波新書:2002.9.20)

 本を読んだたぁ「要約が言える」ってことよ。この威勢のいい断言に始まり、読書力検定やら読書立国やら読書会文化やら読書トレーナー等々の「読書工学」系(それとも体育会系ならぬ読書会系?)の語彙が飛び交い、他人に本をプレゼントするという最難度のコミュニケーション技術の指南に終わる。白眉はやっぱり朗誦・暗誦の身体文化の復権や三色ボールペン法の伝授をふくむ読書=スポーツ論だろう。気に入った啖呵を一つ。《難しいからという理由だけで、ハイレベルな本を毛嫌いする傾向は強まっている。ひどい場合には、「やさしく書けないのは、著者が本当にはわかっていないからだ」といった聞いた風な論を悪用して、自分の読解力や知識のレベルを上げる努力を怠る者も多い。難しさやわからなさに耐えてそれを克服していった経験は、本当に読書力のある人ならば、誰もが持っているのではないだろうか。/わからなさを溜めておく。/この「溜める」技自体が、読書で培われるもっとも重要な力なのかもしれない。》(107-108頁)

☆柳澤桂子『すべてのいのちが愛おしい 生命科学者から孫への手紙』(PHP研究所:2002.5.29)

 今年で五歳になるお孫さん、理菜ちゃんが中学生になっていると仮定して書かれた三十六通の手紙を通じて、柳澤さんは、生命の誕生と進化、宇宙の成り立ちと人類の起源、戦争や性や死、遺伝子やクォークや鯨のこと、そしてなにより「驚嘆する感性」(センス・オブ・ワンダー)そのものを語っている。《手紙はむずかしすぎますか? わからなかったらくりかえし読んでみてください。/「読書一○○遍、意自ずから通ず」ということわざを知っていますか。一○○回読めば意味が自然にわかるということです。一○○遍は多すぎるかもしれませんが、わからなかったら、くりかえし読んでみてください。そうやって、誰にも聞かないで、わかったときのうれしさは何ともいえません。》(27-28頁)──こんな優しい語り口で、たとえば『フィンチの嘴』(ジョナサン・ワイナー)を勧められたら誰だって読んでみたくなる。誰だって自分で調べて自分で考えてみようと思う。誰だってこんなおばあちゃんが欲しくなるにきまっている。

☆森田正人『文系にもわかる量子論』(講談社現代新書1619:2002.8.20)

 その昔、朝日新聞の時評欄で高橋源一郎が『量子力学の冒険』をとりあげたことがあって、あれはあれで一つの見識だと思ったことがある(突っ込みはイマイチだったように記憶しているけれど)。そこでも書かれていたかしれないが、『フィネガンス・ウェイク』と素粒子の幸福な(?)出会や、イナガキ・タルホと宇宙論、小林秀雄と相対性理論の関係などを考えてみただけで明らかなように、文学と科学を何か別物のように発想するのはごく近年の錯覚にすぎない。文学が文系の代表格というわけではなく、むしろそれは歴史だろうと思うが、そもそも「文系にもわかる」というタイトルに赤面しないセンス(著者ではなくて編集者のセンス、あるいは編集者によって見透かされた読者のセンス)がおかしい。──でも、中身はきわめてまっとうで、「画期的」かどうかはともかくわかりやすい入門書であることはたしか。

☆川上弘美『パレード』(平凡社:2002.5.5)

 けっきょく『センセイの鞄』も読まないうちからその「続編」を先に読んですっかり堪能してしまったわけだ。センセイとツキコさんのことならもうずっと前から知っていた。読まないうちから知っていた。そういう作家なり作品が稀なことだがたしかにいるし「在る」。川上弘美さんは「あとがき」の最後の段落で「作者も知らなかった、物語の背後にある世界。そんなものを思いながら、本書をつくりました。終わってしまった物語のよすがとして読んでくだされば、さいわいです」と書いている。そういえばだれでも「終わってしまった物語」のひとつやふたつは胸のうちにかかえているだろう。それは晩年の正宗白鳥が「一つの秘密」で書いている「あらゆる人間が墓場まで持って行く秘密」のことかもしれない。文学、というより終わってしまった物語の思い出の中にある「たくさんのエピソードや感情」が言葉となってうみだされてくるのはたぶんそこからだ。新潮新人賞の選考委員になって「一本の棒の、先っぽのことだけを書いているのに、棒全体が見えてくる心地のする、…そういったものを、読みたく思います」と川上さんはいうのだが、それはたとえば『パレード』のような作品のことなのだと思う。

☆土居丈朗『財政学から見た日本経済』(光文社新書:2002.10.20)

 二つのモラルがある。借りたら返す金融のモラルと決めたことは守る政策のモラル。この国でこれらが劇的に崩壊したのは1997年以後のことで、いずれの場合も失われたのは「信用」であり、その帰結は規律なき財政赤字の増大と政策論理の一貫性の欠如であった。そこには自分の庭は他人のお金できれいにすべきではない(受益に見合う負担を厭わない)という、グローバル・スタンダードならぬコモン・センスすら貫徹されていない。そのツケは結局、増税であれハイパー・インフレであれ国民が払うことになる。──著者が示す処方箋は三つ。短期的には特殊法人改革と郵貯・年金改革、地方行財政改革(地方交付税改革)の四位一体でなされる財政投融資制度の再構築であり、中期的には中央政府と地方政府の財政の分離(中央政府による地域間・産業間所得再配分機能の限定と地方への補助金分配に対する国会議員の関与の縮小)である。長期的かつ抜本的には個人主義の徹底による自己責任の確立、そして連帯責任(責任の曖昧化)から他者を思いやる協同責任へという「経済活動での秩序の回復」をめざすこと。自分の生活の安全は自分で守る。約束は守る。この単純だが普遍的なルールの再構築にすべてはかかっている。──平易簡明な叙述ながら問題の実質と帰結と対策を苛烈なまでの説得力で鮮明に描写しきった必読書。

☆青柳いづみこ『無邪気と悪魔は紙一重』(白水社:2002.4.25)

 「まず第一に、真正の悪女とは、自分の行動を客観的に分析したり、総括しようとしたりはしないものである」(あとがき)。それもそのはず、ファム・ファタル(宿命の女)とはもともと男だったのだから。書名の由来となった太宰治の「カチカチ山」で、沈みゆく狸がアルテミスのごときつれなき兎にむかって「惚れたが悪いか」と吐きだすように、そもそも男の欲望は分析や総括とは無縁なのだから。青柳さんはワイルドのサロメの台詞「ああ、ヨカナーン、ヨカナーン、…お前の体は銀の台座に据えた象牙の柱。…この世にお前の体ほど白いものはなかった。お前の髪ほど黒いものはなかった。この世のどこにもお前の口ほど赤いものはなかった」云々をめぐって次のように書いている。《私の推理では、ワイルドのサロメは作者の分身、つまり男で、同性のヨカナーンを愛している。「死姦」と「視姦」をドッキングさせたようなこの台詞も、イメージや触感を重視する女性なら、これほど具体的な身体の部位を列記して男性を賛美することはないだろう。》(73頁)──6つの章に編集された25のエッセイからなるアンソロジーのどの頁からも妖艶かつ隠微、残酷かつ洒脱な香気が漂ってくる。「女が男の愛と性を区別できないように、男は女の占有欲と愛情を混同する」(116頁)といった冷気のこもった警句も織り込まれている。なかでも「サロメちゃん」の百態をあつかった「女のやり方」、有島武郎の『或る女』をめぐる「女郎蜘蛛」、ムージルの『トンカ』をとりあげた「処女懐胎」が印象深い。《ムージルにとって小説とは、科学的思考の文学的転位のようなものだったのかもしれない》(173頁)

☆吉田修一『最後の息子』(文春文庫:2002.8.10/1999.7)

 小説は「つくりもの」である。料理と同じで、素材や器の吟味と客の品定めにはじまる時処機に臨んだ戦略の練り上げ、つまり技術の錬成が欠かせない。なによりも「青春小説」においてこの原理は極まる。青春小説はキレが身上だ。恋人や友人や肉親との葛藤であれ、御しがたい身体や未決定の将来への苛立ちであれ、そこには関係の抽象性への身勝手で狡猾な身の処し方、言葉にすると薄っぺらな「心の闇」との不器用な間の取り方が残酷なまでにクールに、かつ叙情的に描かれていなければならない。濃すぎると、たんなる恋愛小説や私小説や教養小説や熱血スポーツ小説になってしまうのだ。その意味で、青春小説は映画(もう一つの「つくりもの」)を最大のライバルとするだろう。──吉田修一は本書に収められた「最後の息子」「破片」「Water」の三篇で、小説家=言葉の料理人としての資質、とりわけ青春小説の書き手としての技量を存分に実証した。そのキレ味は三篇の結末の鮮やかさ、潔さのうちに如実に示されている。巧みすぎて調理場の呻吟や快哉、時としてほくそ笑みすら客に気づかせるほどだ。そのことに鼻白むか瞠目するか。それは読者の勝手で、私は吉田修一の徹底した方法意識とそれがもたらすもの──映像のイメージ喚起力や記憶断片の編集術に拮抗するもの、映画では決して表現できない「過去自体」とでもいうべき言葉の質感──にむしろ驚嘆した。

☆神崎京介『女薫の旅 放心とろり』(講談社文庫:2002.11.15)

 100万部突破の「快挙」をなしとげたシリーズ第7冊目。数えてみたことがないので確証はないけれど、はじめての人島野先生を抜いてたぶんシリーズ最多登場の小泉奈津江との二度にわたる濃厚な逢瀬(いい言葉)、その娘小泉ゆかりとのワイルドで技巧的な交わり、若女将柳井麻子との最後の抱擁、そして新人神田美沙子との清新な交合と、山上大地の旅は今回も快調。新鮮なマンネリズム。でも「放心とろり」はいただけない。まるで飲んだくれではないか。

☆宮沢章夫『よくわからないねじ』(新潮文庫:2002.9.1/1999.4)

 青森出身の十八歳になる色白の少女が風呂上がりに「気持ちよかったでごわす」と口走る状況を思い浮かべていただきたい。その場に居合わせてしまったあなた自身の困惑と滑稽を想像してみてほしい。劇作家・宮沢章夫のエッセイを読むということは、たとえばそのような場面(吉田戦車的な?)に遭遇させられるリアルなプチ狂気体験である。──劇作家の想像力は「濃密な空間」へと向かう。固有名や生身の身体や対人関係までもがことごとく記号化され、まるで中性子星のようにぎしぎしと凝縮した空間。そこでは比喩はもはや比喩としての働きを失い、文字通りリテラルな、統合失調症の妄想世界の風貌がかもしだされている。たとえば「アイスホッケーは格闘技だ」と簡単にまとめてしまえるのならば、キノコ狩りだって格闘技で、それは「きのこの食毒性は先祖の人体実験によって知りえたことである」と同義であって、最初に毒キノコを食べた人は偉大である。ここにあるのは社会批評でも哲学でもない。まして雑学でも処世訓でもない。「濃密な空間」に潔く深く内閉した者のみぞ知る、つきぬけた青空である。そこにあるのは空の青みではない。人をばかにしたような、いやになるほど、どこまでも青い空なのである。

☆J・J・バハオーフェン『母権制序説』(吉原達也訳,ちくま学芸文庫:2002.5.8)

 まだ回顧するには早すぎるかもしれないけれど、今年の前半は『マッハとニーチェ』(2月)、後半は『海辺のカフカ』(9月)が忘れ難い本の代表になりそうで、それぞれたくさんの書物の渉猟へと駆り立てられる起爆剤となった。この二つの本を結ぶミッシング・リングを指し示してくれたのが『母権制序説』である。──まずバハオーフェン自身がマッハやニーチェ(やカフカ)とともに「世紀転換期」の思想状況の渦中にあった人物だし、アプロディテ的娼婦制からアマゾン的女性支配を経てデメテル的母権制へ、そしてディオニュソス的女性支配を介在させながらアポロン的父権制へと推移する錯綜した闘争の叙述は、もう一つのヘレニズムともいうべき現代(帝国の時代)の根底に蠢くものをくっきりと浮き彫りにしている。すなわち、上山安敏氏が解説に書いているように「あらゆる文明を動かすことのできる梃子は宗教」なのであって、「バハオーフェンは女性支配の日常面を母権制とみ、宗教面を密儀とみて、母権制と密儀とは生活様式の表裏一体と考えている」。ミッシング・リングはこの「密儀」に根ざしている。それは強いて言えばロマン主義の後に来るもの(たとえば「特性のない男」?)、つまり性差の発見と歴史=物語の消尽と無意識の露呈の後に来るもの(たとえばグノーシス的単性生殖へと回帰する「第三次形而上学的変異」?)なのではないかと私は考えている。

☆八木雄二『古代哲学への招待 パルメニデスとソクラテスから始めよう』(平凡社新書156:2002.10.22)

 神についての科学(神学)を忘れた現代人、というよりキリスト教的背景なしにヨーロッパの近代科学を受容した日本人に「ヨハネス・ドゥンスの仕事を知れ」と誘う、説得力と魅力に満ちた姉妹編『中世哲学への招待』のあの輝きが感じられなかった。古代はあまりに遠すぎてわからない(それともあまりに近すぎて?)ということなのだろうか。異形異貌の古代精神の息吹きを伝えるためには、井筒俊彦の『神秘哲学』のように、古代宗教と真っ向から対峙する強靱な感受性が必要だと思う。しかし、宇宙の理解に関して数学ないし幾何学を土台にするピュタゴラス=パルメニデスこそがヨーロッパ哲学の源泉なのであって、「プラトンもアリストテレスも、本質的にはピュタゴラス主義者だ」(10頁)とする八木氏の見解と、凝縮されやや錯綜したその論証は鋭くかつ斬新だった(ように思う)し、だからこそ「わたしとあなた」の人格をかけた厳しい吟味を旨とするソクラテスの独自性(異様性?)も見事に捉えられていた(ように思う)。私が関心を寄せ刺激を受けながら読んだのは、アリストテレス以後、紀元前四世紀から紀元後五世紀の「帝国時代の哲学」を取り上げた「エピクロスとストア派」と「新プラトン主義とアウグスティヌス」の二章で、とりわけ、物心二元論を否定するストアの生命論的思想と心身の区別を元来もたないキリスト教との親和性、もしくは「現象」を単位として世界を見るストアの姿勢と近代科学との親和性、そして一者(超越者)からの発出と帰還によって世界を説明し、感覚対象を霊魂から切り離した流体論的な新プラトン主義の哲学と神(絶対者)へのキリスト教的信仰との親和性をめぐる叙述、あるいはキリスト教的信仰の確立とともにストア的倫理哲学の伝統がヨーロッパにおいて廃れ、したがって中世神学はひたすら科学的(ピュタゴラス的)にキリスト教の視点から見える世界を吟味し論じるばかりとなった、云々の議論は掛け値なしに面白いものだった。

☆関根清三『倫理の探索 聖書からのアプローチ』(中公新書1663:2002.10.25)

 関根氏は本書の第1章「善悪に報いる神は何処に」で、応報の神から贖罪の神(十字架上のイエス)へと至るユダヤ・キリスト教の神観念の変遷を紹介したあと、レヴィナスが『困難な自由』で自身のナチス体験を踏まえて、キリスト教の贖罪思想を「加害者が罪を赦され休心するためのイデオロギー」であると拒否したことについて、「まことに重い問いであり、軽々に反論を許さないものがあります」と述べている。《しかし恐らくユダヤ教とキリスト教の相違点が、ここに集約的に現れているように思われるのも、また事実なのです。/恐らくキリスト教は、このレヴィナスのユダヤ教的な言い方を、次のように言い換えるでありましょう。すなわち、〈生き残った者は赦された罪人として、加害者の代わりに証言し続けて行く感受性と能動性をもたねばならない。贖罪思想は、まさに加害者が自分の罪を赦されることによって罪を自覚する切っ掛けとして、拒否ではなく、受容されるべきである〉。これがキリスト教の発想ではないでしょうか。そしてこう考える限りにおいて、贖罪思想は拒否される謂れはなく、むしろレヴィナス流の問題提起を正面から受け止めつつ、それを乗り越える立場を闡明し得るのではないでしょうか。》(49-50頁)──レヴィナスに一票。でも、こうしたユダヤ・キリスト教的な思考には息詰まってしまう。それは十字架上のキリストに「驚異」の一片も感じないし「躓き」すらしない私自身の「感受性と能動性」の欠如からくるものだろう。何が言いたいのかというと、私は『倫理の探求』を読みながら根本的に共感できないものを感じ続けていたということだ。それどころか、ここに収められた五つの講演で関根氏は仲間内でしか通用しない観念を操っているだけなのではないかとさえ思えた。ただそうした「反撥」をすりぬけるようにして、十戒は禁止命令ではなく元来「否定詞+未来完了形」で、「君は殺しはしないだろう」という否定の推量もしくは「君は殺すことなどあり得ない」という不可能性の断定を意味する(121頁,168頁)とか、古代倫理思想の二つの源流の根幹には自然(ヘレニズム)と歴史(ヘブライズム)という「人間を超えたものの働き」への「驚き」がある(232-233頁)とか、そうした「驚異という根源的な事柄」には能動的緊張だけでなく受動的な安らぎの側面がある(142-143頁)といった指摘が、なにか途方もない刺激臭を放ちつつ私の臓腑のなかにしみこんでいったのも事実で、それはおそらくユダヤ・キリスト教とギリシャの伝統が千年単位の時間を経て熟成していった精華が「倫理」という言葉のうちにこもっているからなのだろう。

☆上山安敏『魔女とキリスト教 ヨーロッパ学再考』(講談社学術文庫:1998.1.10/1993)

 神学・法学・医学という西欧中世に確立した「書かれた理性」の裏面に脈打つもう一つの西欧精神史。法制史家の著者が前著『フロイトとユング』に続いて、バハオーフェンの『母権制』とウェーバーの『古代ユダヤ教』のねじれた接合の上に、古代地中海世界のマグナ・マーター(太母神)とケルト・ゲルマンの樹木崇拝の混淆による魔女の成立とマリア信仰の意味、そして魔女狩りの狂騒からアダムの最初の妻リリトに依拠するフェミニズム神学まで縦横に論じ尽くした「上山学」の精華。

☆河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫:1987.12.10/1976)

 あの浅間山荘事件の前年、「大学の中で影のはたらきの凄まじさが身をもって体験されつつあ」った時代、非常勤講師の著者が京都大学教育学部で行った「心理療法における悪の問題」という講義が本書の内容をなしていると、原著(1976年)あとがきに書いてあった。その後の河合隼雄の多産多様の世界を彷彿とさせる、しかし今となってはやや古典的な読み物で、神話説話の類から西欧、日本の文学作品、古今の症例や患者が報告した夢の断片など、ふんだんに盛り込まれた「影」をめぐる事例(現象)を、しだいに濃度を高めていくダイナミックな章建てのうちに実に手際よく繰り出し、かつユング元型論を縦横に駆使して鮮やかに分析し、はては善と悪、光と闇の対立の彼方に「日本的」な第三の道を示唆する。いま「古典的」と書いたのは、たとえば「影の病」の章に出てくる二重人格の話題の扱い方ひとつとってみても、やはりこれは一昔前のユングやヘッセの時代(世紀転換期)に根ざした議論であるという印象を拭えないからだ。学術文庫版(1987年)への序に、「貿易摩擦の問題に示されているように、多くの点で異文化との接触による葛藤が顕在化してきている……そのようなとき、われわれは常に自分の影をもって他者に接することが必要であり、本書がここに……新たな装いをもって世に出ることになった意義も認められるであろう」とあるのだが、それから十五年を経た現在、もしあらためて序文を書くとすれば、河合氏はどのような文章を書くのだろう。

☆P.F.ドラッカー『ネクスト・ソサエティ 歴史が見たことのない未来がはじまる』(上田惇生訳,ダイヤモンド社:2002.5.23)

 キーワードは「内部化したアウトサイダー」(61頁)、すなわち組織内知識人=知識労働者。「今日われわれに課された課題は、都市社会にかつて一度も存在したことのないコミュニティを創造することである」(271頁)。最終章に出てくるこの言葉に尽きる。──安全ヘルメットの発明者フランツ・カフカの話題(98頁)が印象深かった。

☆森博嗣・ささきすばる『悪戯王子と猫の物語 Fables of Captain Trouble with Cat』(講談社」2002.10.15)

 ほんの少量だけエロティックでグロテスクで、そして酷薄で無機質な無邪気さを湛えたささきすばるの絵に縁取られ、散文詩のように綴られた短い転身譚。《自由とは展開されるものです。拡がり、そして万物への含浸こそ、個の意志の望み、そして高みです。それは、個から多への安定です。》(「汚染」)

☆森博嗣・佐久間真人『猫の建築家』(光文社:2002.10.25)

 植物は感情だけで生きているのかもしれないという話を聞いたことがある。そうすると動物は欲望だけで生きているのだろうか。いずれにしてもそこにあるのは現在だけなのだろう。ところで猫は知覚で生きている。少なくとも森博嗣が書き、佐久間真人が描く猫は知覚で生きている。厳密にいえば、数覚と視覚で生きている。生まれながらの数学者にして純粋美学者としての猫。英訳で読むとなおいい理工系の詩。

☆谷川俊太郎『minimal』(思潮社:2002.10.10)

 かつて、詩を読み、詩を書くことが生きることそのものだった。それが、いまでは詩の読み方も、書き方も忘れてしまって、ただ時折、声に出し拾い読みしては、失われた、もしくは、錆びつき萎縮した、自分のなかの言葉の湧出点を確かめている。「沈黙したい、もう一度沈黙に帰って新しく書き始めたい」と谷川俊太郎は書いている。ぎりぎりまできりつめられた、それでいてどこか過剰なものへと接線が引かれた、三行一連の詩群。英訳と響き合って、沈黙への、そして、言葉ではないものへの休止符を、鋭く、かつ完璧に、穿つ。詩にも成熟ということがあるのだ。

☆林望『恋の歌、恋の物語 日本古典を読む楽しみ』(岩波ジュニア新書398:2002.5.20)

 和歌は「恋を歌う装置」であった。今ならさしずめeメール。マンボウならぬリンボウ先生の道案内で「日本古典」がその艶めかしい裸身を露わにする。──柏木の夢に現れた唐猫は「獣の夢を見るのは懐妊の予兆」という民間伝承を踏まえてのことだという。この柏木と女三の宮の罪深い恋の一部始終を語り終えて林望のいわく。《ともかく『源氏物語』は、どこをとってもこういうふうに、委曲を尽して恋の心を描き出している。古今これほどに人心の機微をうがった作品はまたとない。この物語が、日本文学の歴史の上で、いやもっと広く世界の文学史のなかでの奇跡だ、と私が思うのは、まさにこの理由による。》(169-170頁)
 

★今月の棚卸し

☆『正宗白鳥集』(筑摩現代文学大系11)

 最近どういうわけか正宗白鳥の文章が気になってしかたない。そこで「入門」として晩年の短文をいくつか囓ってみた。

☆『大レンブラント展』図録(シーボルト財団発行)
☆尾崎彰宏『レンブラント工房 絵画市場を翔けた画家』(講談社選書メチエ57:1995.9.10)

 京都国立博物館がレンブラントと実によくマッチしていた。チラシやポスターにも取り上げられていた「ユノー」と「描かれた額縁とカーテンのある聖家族」、それから「目を潰されるサムソン」や……、結局すべての作品が深く濃い印象を残している。絵画を語る言葉の貧困がうらめしい。──『工房』は再読。

☆大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語』上下(中央公論社:1989.9.7)
☆田辺聖子『『源氏物語』の男たち ミスター・ゲンジの生活と意見』(岩波書店:1990.1.26)
☆田辺聖子『『源氏物語』男の世界』(岩波書店:1991.6.19)
☆河合隼雄『紫マンダラ 源氏物語の構図』(小学館:2000.7.10)

 私には一つのコンプレックスがあって、それは『源氏物語』を原文はおろか現代語訳でもまだ全編通して読み切っていないことだ。(一つというのはもちろん唯一つの意ではない。)たぶん桐壺から須磨までさえ行っていない。というか、部分的な拾い読みばかりで、どこまで読んだのかよく憶えていない。──田辺聖子さんの本は夕霧と薫の章を読んだ。とてもしっとりとした、それでいてどこかあたたかくて、艶めかしく心に沁みる文章はとてもよかった。久しぶりに文章を読んだという気になった。大野・丸谷のコンビの対談はさすがの懐の深さで、一気に読み切るのが惜しい。今後とも折にふれて読み込んでいくことになるだろう。河合隼雄さんの「これは光源氏の物語ではなく、紫式部の物語なのだ」という仮説は鋭い、というよりとても奥深い世界への扉を開いてくれるように思った。これもいずれあらためてじっくりと読み込むことになるに違いない。人は『源氏物語』に本当の意味で出会うべき時をもっている。私にとってそれが今この時なのかどうか、まだ見極められない。

☆山川鴻三『サロメ──永遠の妖女』(新潮選書:1989.7.20)

 旧いサロメと新しいサロメをめぐる万華鏡。エピローグで明かされる太古のサロメ──原始の時代にさかのぼる地母神としてのサロメ。《こうして、今日、女性原理の復権は、ようやくその緒につこうとしている。長い男性原理の支配ののち、対極から対極に振れる振子現象のひとつとして、それはいつか起るであろう。(中略)もし、こういう傾向が真に人間の間に行きわたり、女がひとりひとり、女はすべてを生み出してすべてをのみ込む大地だという、自分の大地性に目覚め、サロメは自分の中に生きているのだという自覚に徹するならば、ロレンスが美しくも予言したように、「黄金の光に満ちた平和」が人類のうえに訪れ、女たちは、「男を黙殺する」サロメの踊りを永遠に踊りつづけるであろう。》(240-241頁)
 

★不連続なシネマ日記

 学生の頃は年に100から200本の映画を観ていた。最近映画館に出かけることは年に数回程度になってしまった。(ダンスや演劇やオペラやコンサートに出かけることは数年に一度あるかないか。美術展には食指が動いて、出不精ながらも割とこまめに出向いている。マゾ的鑑賞は億劫でもサド的観て歩きはあまり苦にならない。趣味や嗜好は変わる。)それでもビデオやDVDは結構レンタルしている。何度観てもまた初めて観ることができるという「特技」を生かして、同じ映画をそれと気づかぬうちに(正確には、観ている途中でたいがい気づく)何度も観ている。しかし何度観ても映像の印象と記憶を言葉に置き換えることはできない。音楽でも演劇でもそれは同じことなのだが、それよりは圧倒的に多くの時間を割いている映画体験が言葉で表現できない。映像は言葉と違う。そう言ってしまうと、たぶん嘘になる。言葉がないと映像は体験できない。ましてや映画を「観る」ことはできない。(これは映画をめぐる批評言語の問題ではないと思う。)だからせめて、ビデオやDVDを観終えた後の使用済みの貧弱な言葉を記録しておこう。これはレッスンだ。

☆ジャン・リュック・ゴダール『ゴダールの決別 Helas Pour Moi 』(1993)

 神が人妻と交わるというギリシャ神話をふまえているらしい。賢く美しい女性アレクメーネを見初めたゼウスが、許婚のアンフィトリオンになりすましてアレクメーネと交わり子をなす。その子がヘラクレス。そして神の声はゴダール自身。ときおりピアノが奏でる不協和音が衝撃的で、根源的な畏怖の念のようなものをかきたてる(根源的な畏怖の念など経験したことはないのに)。

☆フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない Les Quatre Cents Coups 』(1959)

 初々しいというか無垢というか切ないというか残酷というか。トリュフォーの長編第一作で、自身の子供時代が反映しているという。400発の殴打というのが原題。音楽がとても印象的で後を引く。狡猾なまでの抒情性を湛えた映像。

☆ジャン・リュック・ゴダール『小さな兵隊 Le Petit Soldat 』(1960)

 実に新鮮で忘れがたい映像体験。「写真が真実なら、映画は毎秒24倍真実だ」とか「女の目的は生だが、男の目的は死だ」とか、印象的な科白が記憶に残る。ヴェロニカ役のアンナ・カリーナがとてもいい。『勝手にしやがれ』に続くゴダール長編第二作。

☆アルフレッド・ヒッチコック『裏窓 Rear Window 』(1954)

 これぞ映画。これぞ傑作。裏窓から覗く他人の私生活(たとえばグラマーな踊り子、作曲家、犬を飼う夫婦、ミス・ロンリー、そしてそしてセールスマンとその病床の妻が織りなす沈黙のドラマ)は映画そのもののメタファーで、ジェームズ・スチュアート扮する骨折したカメラマンの妄想にグレース・ケリー扮するファッション・モデル(これが高貴でキュート!)や看護婦がしだいに巻き込まれて、ついにスクリーンの夢魔ともいうべき恐るべき殺人犯が観客たち(素人探偵たち)の側にリアルな姿を現す。そのどこか根源的で映画そのものが潜めもつ怖さ。ウィリアム・アイリッシュ原作(C・ウールリッチ名義)。