不連続な読書日記(2002.10)




★2002.10
 

☆ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』(鈴木雅大訳,平凡社ライブラリー440:2002.8.10)

 この本は昔、一度読んだことがあって、そのときは頁数にして全体の半分くらいをしめる第四章『エチカ』主要概念集をとばした。いよいよ『エチカ』全編の精読を敢行しようと思いたって血気盛んな頃だったので、ドゥルーズ流のこの概念カタログを参考書がわりにして、かつ実地に検証してみるつもりだったのだ。その後、作業は遅々として進まぬどころか、実際のところ着手さえできなかった。田島正樹さんの『スピノザという暗号』を読んだときも、今度こそはと奮いたったものだが、それも一時の陶酔に終わった。そして三度目、いや、はじめて『エチカ』を手にした高校の頃から数えるとおそらくは十数度目になるだろう、この「小さな宝石のような書物」(訳者)が平凡社ライブラリーに入ったのを機に、今度こそ「第二の『エチカ』、地下の『エチカ』」(ドゥルーズ)ともども、風のように疾駆しながら、「スピノザの火のような言葉」(ロマン・ロラン)に全身をさらしてみようと思っている。

☆野矢茂樹『同一性・変化・時間』(哲学書房:2002.9.15)

 人物の同一性(identity)ってなんだろう、と野矢さんはまず考えた。この「人物」が「私」の場合と「他人」の場合とでは、問題の意味、存在論的意味とでも言えるものが違ってくるのだろうけれども、野矢さんは、「私」という語はそれを発言した人物を指示するのだと割り切る。(このあたり、野矢さんは永井均さんのことを気にしながら議論を進めていて、232頁と252頁に永井さんの名が二度出てくる。)そして、この「人物」をたとえば「船」に置き換えたとしても変わらない、問題の「構造」そのものを問題にする。つまり、なぜ同じものが同じものでありながら「変化する」と言われるのだろう、質的な同一性ではなく数的な同一性(numerical identity)を考えるかぎり、同一性の概念と変化の概念は折り合わないんじゃないか。これが野矢さんにとっての哲学の問題だった。──野矢さんはこの問題を数年間考え続けた。本書は、この同一性と変化の関係をめぐる野矢さんの現在なお進行中の哲学的思考が、時間と言語の関係をめぐるひとつの思想へと時々刻々と熟成していくプロセスをあますところなく伝える哲学的実況中継である。野矢さん自身は「哲学ライブ」とか「哲学の大道芸」と書いているけれど、まだ熟してもいない果実が木から落ちることがあるように、思想の種子も、すぐれた編集者の手にかかると、語られている思想の内容がその語り方のうちにくっきりと示されている本のかたちになって、読者の脳髄のうちに芽吹いてしまうことがある。本書は、そんな前代未聞の本だ。

☆カール・グラマー『愛の解剖学』(日高敏隆監修・今泉みね子訳,紀伊國屋書店:1997.2,7)

 人間エソロジーを専攻する著者が、マックス・プランク人間行動学研究所での多年にわたる調査と実験の結果をもとに、人間の求愛行動(性的な関心を伝えること、パートナー選び)をその背後でつかさどる「生物学的な掟」を明らかにした。ゴフマンに由来する「指向性のない自己表示」から、気づき、接触、興奮を経て生殖へといたるこの「色目づかい(Flirt;flirtation)の解剖学」は、視覚にはじまり嗅覚に終わる感覚の論理学であり、結婚市場における投資や価値、リスクや戦略、偽計や戦略といった語彙がとびかうセックスエコノミーの学でもある。とりわけ、美しい顔や体型といった性的信号の進化論(美の社会生物学)から現代における女性の市場化に説きおよぶ「鏡よ鏡──美しさとエロティックな魅力の発散」の章が面白い。

☆三原弟平『カフカとサーカス』(白水社:1991.5.10)

 カフカを評して「テキスト・パフォーマー」であると著者はいう。カフカにとって書くことは生演奏(ライヴ)にも似た行為であったと。《つまり、カフカにとって朗読がパフォーマンスであったことはさることながら、ここで重要なのは、書くことそのものがカフカにとってパフォーマンスであったということ、すなわち、紙のうえで不可能性の観客をまえにして言葉そのものに化していくというアクロバティックなパフォーマンスを行ってゆくことであった。カフカの作品、いや、カフカの書くものにみられる演劇性ということは、むしろ、パフォーマンス性として考えられるべきものだろう。(中略)カフカがサーカスに興味を持つ、というより、あんなに多くのサーカス物語を書いていることの理由の一つは、カフカにとって書くことが、それまでの書く概念とは違って、テキスト・パフォーマンスとでも呼ばれるべき性質のものであったからだと思う…。》(「カフカのテクストの特異性」)──こうして、フェリーニ(『フェリーニの道化師』)やエンデ(『サーカス物語』)やヴェンダース(『ベルリン・天使の詩』)とは違う独特の空気を呼吸している、しかし、ドガやスーラやロートレックが魅せられ己の画題にしてきたサーカスと深い親縁関係にある、そして、最後に「オチ」をつけてしまうボードレールのそれとも決定的に異なるカフカのサーカス物語をめぐる、とても刺激的で面白い本が書かれた。

☆粉川哲夫『カフカと情報化社会』(未来社:1990.7.2)

 カフカの作品は物語られる(朗読される)ために書かれた。語り手が主人公のなかに身を隠し、語り手と聞き手の分業関係が固定する近代小説とは違って、言わなければならないことをいわなかったり、二重三重の暗示をかけておきながら聞き手に気づかせない仕掛けを施したりするしたたかな語り手、情報操作者としての語り手がカフカなのである。このように「カフカは物語に前近代の語りの伝統をよび戻した」のだが、「それを最先端のテクノロジーのインパクトを受けながらやったということが非常に重要」である。両者をつなぐものはイーディッシ演劇であり、映画であった。じっさい、レコードが浸透し映画が出現する情報環境の大きな転換期をカフカは生きた。そして、カフカは電子的コミュニケーションの時代の到来を予見していた。カフカを読むことは、「情報操作に耐える訓練、情報化社会でしたたかに生きるためのトレーニング」をすることにほかならない。──カフカに謎があるのではなく、謎はむしろこちら側にある。「こちらの謎が増えれば増えるほど、カフカのテキストはそれをまともに引き受けてしまうのである」。この「あとがき」に出てくる文章をふまえるならば、著者はここで「カフカ作品の新しい解釈」を示してみせたわけではないのだろう。私はこの本をとても面白く読んだ。

☆平野嘉彦『プラハの世紀末 カフカと言葉のアルチザンたち』(岩波書店:1993.7.21)

 ボヘミヤ出身のユダヤ人でのちにプラハに移住したマウトナーは、マッハの影響下にある在野の言語思想家だった。そしてホーフマンスタールはマウトナーの主著『言語批判論集』を読んで散文「手紙」を書いたとされ、カフカの初期の作品『あるたたかいの記』がその「手紙」の影響をうけている。こうした影響関係の有無を別としても、カフカが、ウィーンの世紀転換期に有力であった認識系、つまり唯名論の再来ともいうべきマッハ、アヴェナリウス由来の経験批判論を共有していたことはまちがいない。しかし『あるたたかいの記』と同様、プラハとおぼしき街を舞台とした『審判』では、カフカは実在論へと移行している。──この冒頭で示された仮説はとても魅惑的で、その論証「過程」も刺激的だ。斬新な着想と意表をつく展開が全編につらぬかれていて、「一介のモノマニア」の面目が躍如した書物である。

☆池内紀『ちいさなカフカ』(みすず書房:1999.12.17)

 カフカと手紙、カフカと映画、カフカと賢治、カフカとロボット、カフカとサリンジャー、カフカとクンデラ、カフカとウィトゲンシュタイン、カフカと多羅尾伴内(「カフカとアルセーヌ・ルパン」を読んでみたい)、カフカと長谷川四郎、そしてカフカの息子と名乗る男の話。池内紀さんから読者への、十の言葉の贈り物。──『失踪者』と『ライ麦畑でつかまえて』を比較した「少年」と、二人の気むずかしい哲学者(ウィトゲンシュタインとキルケゴール)を取り上げた「日記」がことのほか印象に残った。

☆後藤明生『カフカの迷宮 悪夢の方法』(シリーズ「作家の方法」,岩波書店:1987.10.30)

 迷宮としての世界に迷い込んだ人間。これがカフカの最も基本的な認識で、その迷宮としての世界を書き表す方法が悪夢であった。つまり、原因不明の運命としての迷宮=世界を、原因不明の悪夢の方法で書くこと。これが、著者が示すカフカの基本公式である。カフカの小説は、読むたびに変わる。カフカを読むことによって、わたしが変わるからだ。無限に自己増殖する「超ジャンル」としての小説。《カフカはあるいは、この[シベリアもしくはウラル・アルタイに発するシャーマンとしての──引用者註]ピタゴラスの転生した二十世紀のシャーマンである、ともいえます。「忘却」された「過去」を「想起」させるシャーマンです。そのシャーマンとしてのカフカの物語から、いかなる声をきくか。何を発見するか。それが「カフカからの路」であります。/カフカの物語は、神秘的な「予言」ではありません。彼が語るものは、「未知」としての「過去」です。その「未知」としての「過去」と重層し、離れようとしても離れられない連続としての「現在」です。「現在」は、ちょうどコマのように、常にくるりと「変転」します。そして、その変転を変転として物語る方法が、すなわち「未知」としての世界──原因不明の迷宮としての現実への回路なのであります。》(226-227頁)

☆池内紀『カフカのかなたへ』(講談社学術文庫1314:1998.1.10/1993)

 カフカとサーカス、カフカとウィトゲンシュタイン、その他諸々の解釈や暗号解読や意味づけや関連づけをめぐる試みは、それこそ果てしないゲーム(カフカ・ゲーム?)として無際限に続いていく。それはそれでとっても楽しいし、刺激にみちた面白いものなのだけれど、でもネ、と池内紀さんはあとがきで書いている。《解釈は解釈、意味づけは意味づけ──「でもネ、やはり作品にもどって、自分の目でたのしむのが第一ですよ」。》池内紀さんは本書で、ほんとうに楽しみながら、その細部や断片を愛おしみなが、カフカの作品のひとつひとつを案内している。だまし絵としての、あるいは未完性をはらんだカフカの作品のかなたにあるもの、そして、「どこかしら碑銘の口調にそっくり」な簡潔かつ明晰なことばで報告された、カフカの内的世界の実質を指し示している。《しかし、内的世界は、明晰に語り得るもののことではないだろう。むしろ語り得るものの限界をはっきり規定することではなかろうか。/──とするとそのとき、おのずから、限界のかなたにあり得るものが見えてくる。いわば「掟」の内部が姿をあらわしてくる。/カフカにとっては、書くことが存在そのものにひとしかったにもかかわらず──あるいは、だからこそかもしれないが──彼はつねに書くことに対して気むずかしかった。「語り得ぬもの」の背後ににじりよるとき、その表現は当然、限界に向けての「発音練習」になるしかない。発音はそれに応じた特有の形をもたらすだろう。(中略)/そもそも彼は「再現」つまり「述べ」ようとすらしなかった。カフカが採用したのは、おのずから現われるべき方法である。仮に文学ジャンルでひっくくれば、「喩え話(パラベル)」というのにあたる。謎めいて機能する強烈な間接的伝達の方法を好んだ。(中略)/ことばによる謎をかさねていけば、最後には沈黙と同義語のパラドックスしかのこらない。作品は「未完」に終らざるを得ないのだ。むろん、その未完性は、とびきりの完全さの属性といっていい。》(179-181頁)

☆保坂和志『残響』(文藝春秋:1997.6.20)

 熱力学の第二法則(エントロピーの増大)にしたがって拡散していったあれらの思いや感じは、いまどこでどうしているのだろう。単純であったり複雑であったりする世界にあって、この「自分一人」の固有の経験や濃密で鮮明な記憶、淋しさや不安やみすぼらしさや愛することの高揚感、感覚や感情や思考や「わかっちゃう」ことの総体は、「コンクリートに残された凹んだ足跡」のように物質的に形象化されているのだろうか。──保坂和志は「コーリング」と「残響」の二つの作品で、ある実験を試みた。それぞれ一人の男と二人の女という主要な三人の登場人物の想起や想像や思考が、日常の基本動作を蝶番のようにして移動していく話を書くことで、「そのようにして描かれる人物たちは、読まれるときにつながっているような印象になるのか、それとも一人一人の孤独ないし隔絶感が強まるような印象になるのか、知りたいと思った」のだ。「人が生きて死ぬという有限性や孤独や隔絶感が救われることがあるのか」を、ある方法のもとで二つの小説を書くことを通じて考えてみたのである。その実験結果は「残響」の終末に出てくる二つの叙述のうちに、おぼろげな方向性として示されている。──愛の状態において、「固有の経験が、固有ゆえの口調や表情をともなうことで相手の記憶を喚起する力を持って、まるで自分たちの本質に関わることのように豊富な意味を帯びているように感じられる」(185頁)こと。人は一人でいても完全に一人というわけではなくて、「みんな誰だって自分のことがたまには誰かから思い出されていることがあると思って生きている」(178頁)こと。

☆平野嘉彦『カフカ 身体のトポス』(現代思想の冒険者たち第4巻,講談社:1996.11.10)

 交通と通信のテクノロジーによって、ホモエロティックな関係性から無機的なユニセックスへと変貌する世紀転換期の近代都市空間。オドラデクの笑いのような「非在の言説」がそこからの離脱を目論む認識や言語の媒体。──この二つの相でとらえられた「カフカにおける身体」が本書の縦糸で、これに、身体性としてのユダヤ人、家父長的権力とマゾヒズム、息子たちと懲罰、エクリチュール(紙に書かれた言葉、制定法)とパロール(掟)、等々の横糸が織り込まれて、カフカ解釈をめぐる陰翳に富んだ書物ができあがった。月報に寄せられた三つのエッセイ(池内紀、日高敏俊、車谷長吉)の対比が面白かったし、いしいひさいちの四コマ漫画はいつもながら冴えている。五人の思想家(ベンヤミン、ブランショ、カネッティ、ドゥルーズ/ガタリ、デリダ)のカフカ論を一瞥しつつ、すでに死んでいるにもかかわらずある意味では生きている身体、すなわち文書(作品)としてのカフカの永遠性に説き及ぶ最終章「死後のカフカ」もよかったのだけれど、とりわけ印象深かったのは、食物を咀嚼する器官であるにとどまらず言語を発音する器官でもある歯をめぐる「肉食と音楽」の章と、「法学博士にしてボヘミア王国プラハ労働者障害保険協会に職を奉じる官吏でもあったフランツ・カフカのスコラ的実在論をめぐる「報告書」の章だった。

☆三原弟平『カフカ・エッセイ カフカをめぐる7つの試み』(平凡社:1990.1.19)

 まず書いておきたいのは、この書物がとても美しいということだ。──数葉の写真とカフカの筆跡やデッサンが随所にちりばめられ、杉浦康平さんのブックデザインで装丁された、所有することへの欲求をかきたて、読まずともただ眺めているだけでなにかしら満たされた思いにひたることさえできそうな本書には、「カフカのアクチュアリティ」として二編、「多面体としてのカフカ」として五編、計七編のエッセイが収められている。ユダヤ神秘主義をもって「カフカ解釈というあの屍るいるいの戦場あと」(16頁)に新たな屍をさらしたショーレムとの往復書簡をふりだしに、天才作家と天才批評家との運命的な出会い(?)が生んだベンヤミンの二つのカフカ・エッセイ──そこには、「〈裏がえしの神学〉をもって歴史的唯物論を動かす、すなわち、生けるカフカをもってマルクスを動かすというきわめて遠大な戦略が抱懐されていた」(68頁)──を詳細に論じ、そのベンヤミンの本歌取りのおもむきをもつアドルノのカフカ・エッセイ、そして、アドルノのエッセイとの対応関係が見られるドゥルーズ=ガタリのカフカ・エッセイ──「…何よりもドゥルーズにとってカフカの生とは一つの戦略となしうるものだったのだ。このカフカイストの戦い方は、確かにマゾヒストの戦い方に近いのではあるが…」(126頁)──へと、しだいに加速しながら叙述が進む第一部。第二部では、眼の人カフカと触覚の人ベンヤミンの対比にはじまり、カフカの言う「音楽」が「食物」や「断食」のイメージとからみ合うものであったことを確認し、「ともかく、この電話線から聞こえてくる音楽[『城』第二章で、Kが助手たちに城に接なげせた電話口から聞こえてきたざわめきの音──引用者註]は、哀れな聴覚よりももっと深いところにしみ入ることを求めているかのようであった。カフカはそうしや「曰く言いがたいもの」を〈音楽〉という言い方で言っているのだ」(257頁)と結ばれる「カフカの「非音楽性」」がいい。

☆阿部良雄・與謝野文子選『バルテュス(新装復刊)』(白水社:2001.5.15/1986)

 村上春樹の『海辺のカフカ』に出てくる同名の絵の作者は誰だろう。誰だったらいいだろう、と考えた。バルテュスだったらいい。それが私の結論。なぜバルテュスだったらいい、と思ったのかというと、まずバルテュスは猫と深い関係を結んでいること。たとえばバルテュスは「猫たちの王」という自画像を描いている。あるインタビューで「わたしは猫人間」だと答えている。リルケの序文つきで13歳のときに出版された絵本『ミツ』は少年と猫の物語だし、晩年には『猫と鏡』というとても印象深い三部作を残している。それから、これは私の勝手な印象なのだけれど、カフカの作品に挿絵をつけるとしたら、やはりバルテュスをおいてほかに考えられないこと。バルテュスの作品に『嵐が丘』の挿絵がある。あのタッチで、たとえば『失踪者』のオクラホマ劇場のシーンなどが描かれていたら、と想像すると、ちょっとわくわくしてしまう。要するに、私はバルテュスが好きだし、それがカフカのイメージにぴったりだったということだ。──本書の第一部には、澁澤龍彦、渡辺守章、種村季弘、金井美恵子、吉岡実といった十一人の文章が、第二部には、アルトー、エリュアール、カミュ、クロソフスキー、オクタビオ・パスといった十一人の文章や詩が収められている。そのなかで、澁澤、種村の両氏がカフカに言及していた。(バルテュス絵の演劇性、物語性について短文ながら鋭い考察を加えた渡辺守章氏の「バルテュス、あるいは視覚の劇場」も、カフカとの関連で興味深いものだった。)

☆『芸術新潮』2002年11月号「特集 少年ピカソ」

 先日仕事で東京へ出かけて、半日時間が余ったので上野の美術館をはしごした。まず国立西洋美術館の『ウィンスロップ・コレクション──フォッグ美術館所蔵19世紀イギリス・フランス絵画』で、「過去と東方」「神秘と顕現」「誘惑と堕落」「象徴と偶像」の四つの部屋の70の作品を観て陶酔し(よく知っている絵もよく知らない絵も、どれもみな好きな絵ばかりだったので)、図録は重かったので購入せず、ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「奴隷のいるオダリスク」とギュスターヴ・モローの「出現」とエドワード・バーン=ジョーンズの「パーンとプシュケ」とダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「窓辺の淑女」とオーズリー・ビアズリーの「孔雀のスカート」(『サロメ』のための挿絵)の絵葉書を買った。それから上野の森美術館へ行って、『ピカソ 天才の誕生 バルセロナ・ピカソ美術館展』で「幼年時代からアカデミー(美術学校)へ」から「愛とエロス」まで11のコーナー、少年期からパリ定住までの222の素描中心の作品群(日本初公開)に圧倒されて、ここでも図録は購入せず、「初聖体拝領」と「自画像ほかのスケッチ」の2枚の絵葉書を買い、上野駅のアイリッシュ・パブで珈琲を呑みながら(夜に仕事が入っていたのでギネスは呑まなかった、残念)カフカの『失踪者』を読み終えた。とても充実した午後だった。──『ウィンスロップ・コレクション』の図録はあまり印刷がよくなかったし、ほとんどの絵は別の方法で確認できるのであまり後悔していないが、『ピカソ 天才の誕生』の方はいかに旅先で鞄が重くなるのを嫌ったとはいえやはり購入しておくべきだったと少し悔やんでいた矢先、『芸術新潮』が特集(副題「天才神話を旅する」)を組んでくれたので、さっそく求めて休日の午後、最初はバロック・オルガン、後半は50年代のジョン・コルトレーンを聴きながら読んだ。

☆渡辺憲一『美少年の贈りもの』(フランス書院文庫:2002)

 で、その出張の帰りの無聊をいやすために読んだ。なにしろ朝5時起きで、夜8時頃のぞみに乗り込むというハードスケジュール(でもないか)だったので、用意していた『失踪者』を読み終えると、もう後は何も読む気がしなくなる。で、なにやら大型新人扱いされていたのに目を奪われて買った。主人公の「美少年」のとらえどころのない性格、というか登場人物としての役回り、本質(二人の女性との関係における)とでもいうべきものにどこかゆらぎと危うさと過剰があって、それが結構おもしろい。書き方しだいでまったく別の小説になるかもしれない。

☆ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』(中村佳子訳,角川書店:2002.9.30/2001)

 西欧人が好むものとはなにか。性の満足だと「僕」(ミシェル)は言う。《一方に数億人という西欧人がいる。彼らは欲しいものはなんでも持っている。ただし性の満足だけは得られない。探してはいる。ずっと探しつづけている。しかしなにも見つけられない。そして骨の髄まで不幸だ。網一方に数億人という持たざる人間がいる。彼らは飢餓に苦しんでいる。若くして死んでいる。不衛生な環境で暮らしている。体と、まだ傷のついていないセックスを売るほか手段を持たない。ことは簡単だ。至って簡単じゃないか。まさに交換にうってつけの状況だ。》(242頁)こうして、「僕」とヴァレリーとジャン=イヴの三人は「世界の運命のための土台[プラットフォーム]」(250頁)を、つまり「クラブ・アフロディーテ」と名づけられる観光ツアーの企画を打ち立てる。《セックス観光とは世界の未来像なのだ。》(108頁)──ここには、『素粒子』で示された、一神教の発明、科学革命に次ぐ第三次形而上学的変異後の「快感のエコノミー」をめぐる資本主義的変異が描かれている。(もっとも、この「風変わりなクラブ」は立ち上げられると同時に、タイのクラビーでの無差別テロによって破砕されるのだが。)

☆カフカ『失踪者』(カフカ小説全集1,池内紀訳,白水社:2000.11.25)

 池内紀さんは『カフカのかなたへ』の「だまし絵」の章で、「しかめつらしいカフカ論は数百、数千とある。そろそろカフカ・マンガが出てきてもいいのではあるまいか。カフカはマンガに打ってつけだ。ほとんど作品をなぞるだけ」と書いている。さしずめこの『失踪者』などは、カフカ・マンガの最有力候補だと思う。ただし、池内さんはつづけて「とてもすてきな、実に現代的なマンガが生まれるにちがいない」と言うのだが、私はちょっと違うような気がする。少なくとも『失踪者』は、子どもの頃によくテレビで見たアメリカ産で白黒無声のどたばた道化・動物アニメが似つかわしい。17歳のカール・ロスマン。この「無垢な魂」(池内紀「解説」)を持った「罪なき者」(カフカ「日記」)こそ、スラップスティック・コメディの主人公(たとえネズミ)にふさわしい。(『失踪者』とほとんど同時期に書かれた夏目漱石の『坑夫』に出てくる19歳の「自分」や、村上春樹『海辺のカフカ』の15歳の少年カフカでは、映画にはなってもマンガにはならない。ましてや動物が主人公のアニメには似つかわしくない。)──ところで私が気に入ったのは、レスリング少女のクララや太った歌姫ブルネルダ、ホテル・オクシデンタルの調理主任や秘書のテレーゼといった女たちだったのだけれど、そのイメージはいずれも猫で、カール・ロスマンはこれらの女たちに虐められたり弄ばれたり可愛がられたり甘えられたりする。(これは一種のマゾヒズム小説だと思う。だから、「断片」の最後に出てくるオクラホマ劇場というのは文字通りのパラダイスで、カール・ロスマン改めネグロはたぶん死んでいる。)

☆乙一『GOTH リストカット事件』(角川書店:2002.7.1)

 評判になっているから読むということはめったになくて、人に進められても初めての作家の本にはなかなか手が出ない。村上春樹、保坂和志、村上龍、田口ランディといったあたりがいまのところ私の贔屓で、新作小説は贔屓の作家だから読むのが「王道」だと思っている。『GOTH』は、『海辺のカフカ』の小特集が組まれた『ダ・ヴィンチ』11月号の「今月のプラチナ本!」で「絶対はずさない」と編集部の保証つきで紹介してあったのを憶えていて、図書館で目にしてふと読んでみようかという気になった。だいたい「おつ・いち」と読むことさえ知らなかったのだから、先入観なしで、おもしろくなければ直ちにやめることになんの抵抗もない状態で読み始めたのだが(新作小説を図書館で借りて読むのは「邪道」だと思う)、これが結構いい。なんといっても、「森野夜」(「変質者を誘うフェロモンを分泌している」)という女子高生がいい。収められた6編中4作目の「記憶 Twins 」で「僕」(「ときどき、心が空っぽのまま笑っている」)の推理で明かされる森野の過去がなぜか愛おしくていじらしい。この味はまだ覆面作家だった頃の北村薫の短編小説を思わせるところがあって(といっても、作品の雰囲気はまるで違う)、そんな感想をもったのも乙一を初めて読んだからのことで、この「天才作家」(と『ダ・ヴィンチ』の記事に書いてあった)の「抒情ホラー」(同)を知らずに勝手なことを書くのはやめておこう。それにしても、いい味をもった小説集だった。

☆保坂和志「カンバセイション・ピース」(『新潮』2002年8月号〜10月号)

 小説家の「私」(内田高志)が子どもの頃、母と弟と伯父伯母と四人の従姉兄と合わせて九人で住んでいた世田谷の家に、妻の理恵と妻の姪のゆかりとポッコとジョジョとミケの三匹の猫、それから後輩の佐藤浩介とその会社仲間の沢井綾子と森中とは昼間だけ同居して、結局また九人(六人と三匹)で暮らすことになった。それにしてもこの人たちはよくしゃべる。だらだらと落としどころなく続く会話のなかで、そして死者や死猫の気配と記憶との交流を通じて、「私」はしばしば知覚と想起、感覚と記憶が混じり合い個別性を失って遍在していく抽象的な「空間」へとアクセスする。従姉が昔お風呂場で見た幽霊の話から擬人化、入眠幻覚、幽体離脱といった話題に転じ、この小説で保坂和志は〈家〉をまるごと描こうとしているのだということがくっきりと見えてきたところで連載は中断。次回は2003年3月号に掲載される。それにしてもいったいどこへどうやって着地しようというのだろうか、目が離せない。

☆夏目漱石『坑夫』(新潮文庫)

  年に一、二度、無性に漱石を読みたくなる。『行人』その他まだ読んでいない作品がいくつかあるし、今年の年頭に読んだ『坊っちゃん』のように一度読んだものでも時をおいて必ずいつか読み返したくなる。『坑夫』は村上春樹の『海辺のカフカ』に出てきたので、カフカの『失踪者』とほぼ同時進行的に読んだのだが、予想以上に夢中になれたし、なんといってもこれら三つの小説の関係が面白かった。でも深読みはやめておこう。
 

★今月の棚卸し

☆J・J・バハオーフェン『母権制 古代世界の女性支配──その宗教と法に関する研究』上下(吉原達也他訳,白水社:上巻1992.2.20/下巻1993.4.30)

 浩瀚な書物とは『母権制』のような本のことを言うのだ。上下巻合わせて優に千頁を超え、補遺も含めて12章164節におよぶ本書を熟読玩味していたら何年かかるかわからない。白眉といわれるアイスキュロスのオレステイア三部作を扱った第3章「アテナイ」の該当箇所と、オレステス物語の補完・続編でありアポロン的父性原理の勝利を告げるオイディプス神話を扱った81節、それから第12章「ピュタゴラス哲学と後代の哲学大系」を読み囓ってその香気を満喫した。

☆『エピステーメー』創刊号「特集=記号+レクチュール」(朝日出版社:1975.10)
☆『哲学8号』1989年秋「可能世界 神の意志と真理」(哲学書房)

 十代のたしか前半、いいかげんな雑誌のいいかげんな適性占いであなたは弁護士か編集者に向いていますと出たことを今でもしっかりと憶えている。大学を二年留年したのは出版社に就職したかったからで、その間親への言い訳のために法律家になるための勉強もしていた、とは自分向けの言い訳でしかなくて、ただモラトリアムを引き延ばしていたかっただけでしかない。もしかすると先の占いが影響していたのかもしれないが、そんなことはもちろん認めたくない。法律のことはおいておいて編集について書くと、『遊』の松岡正剛、『ユリイカ』や『現代思想』や『イマーゴ』の三浦雅士、『エピステーメー』の中野幹隆といった人たちが私にとっての編集者のイメージで、前のふたりには学生時代からとてもお世話になった(もちろん一方的に)。中野氏の仕事に近頃関心が高まってきたのは、哲学方面の本を読むことがわりと最近の傾向だからなのだと思う。──『エピステーメー』は古本屋で十一冊四千五百円で売りに出ていたのをずっと前から目につけていて、しだいに高まる内圧に耐えきれず買っておいたまま一年以上も本棚に並べていたもの。創刊号の編集後記に「記号の時代は本質的に神学の時代なのだ」と書いてあって、発行された当時にこれを読んだとしても中野氏の慧眼に気づかなかったろうと思う。ついでに他の十冊の特集名を記録しておく。「仮面・ペルソナ」「鏡」「水 生と死の深淵」「アインシュタイン 科学と哲学」「セザンヌ」「空間」「ウィーン 明晰と翳り」「脳と精神」「映像と知」「現代数学」。──『哲学』の方はこれから少しずつ買いそろえていこうと思っている。「philosophicai quarterly 哲学 ars combinatoria 8」というのが正式な雑誌名で、ここに出てくるアルス・コンビナトリアは編集術とでも訳したいところだ。