不連続な読書日記(2002.8-9)




★2002.8〜9

☆トム・クランシー『大戦勃発2〜4』(田村源二訳,新潮文庫:2002.3〜4)

 8月の上旬をほとんどこの本だけで凌いだ。2巻の途中あたりから止まらなくなった。これは良質のエンタテインメントの宿命だと思うが、ラストに大きな不満が残った。すべての登場人物とエピソードが成仏し切れていない。それを余韻というべきなのかもしれない。訳者もあとがきで引用していたけれど、ジャック・ライアン(もうひとつの原理主義国家あるいは普遍主義国家の大統領)がロシア対外情報局長官に語る次の言葉は印象的。《私の国では、すべてが可能なんだ。きみたちにその気があれば、ロシアもそうなる。民主主義を受け入れるんだ、セルゲイ。自由を受け入れるんだ。アメリカ人は民族ではない。われわれは人種的には世界に生きるあらゆる人々とちがわない。要するに雑種なんだ。アメリカ人の血管のなかには、あらゆる国の人々の血が流れている。アメリカと他の国とのちがい、アメリカ人をアメリカ人たらしめているのは、ただひとつ、アメリカ合衆国憲法なんだ。単なる規則集。それだけだ、セルゲイ。だが、それが実によく機能しているんだ。》(3巻,323頁)

☆酒井邦嘉『言語の脳科学 脳はどのようにことばを生みだすか』(中公新書1647:2002.7.25)

 チョムスキーが主張したように、言語は自然法則に従っている。すなわち、言語はサイエンスの対象である。──著者は、二十世紀の物理学の成功が理論物理学と実験物理学の融合によってもたらされたように、最終的な言語理論に到達するためには、言語学と脳科学が互いに協調しなければならないという。言語学による理論・説明と脳科学による実験・発見の共同作業による「言語の脳科学」は、それがサイエンスであるかぎり物理学を基礎とする。《そこで、物理学と言語学(linguistics,philology)との境界領域は、「言語物理学(philo + physics,philophysics)」とでも呼ぶべきであろうが、この言葉がこれまで使われたことは恐らくないだろう。学問の精神としては「言語物理」を目指しながら、物理学の手法による脳機能の計測を基礎として、言語の脳科学を生み出すための努力が必要だと考える。》(131頁)──また、言語の脳科学は単に文系と理系をつなぐだけではない。サイエンスに人間の復権を促す新しい学問の起点である。《文系と理系の境界にある言語の脳科学で、欧米に遅れずに第一線の研究を推進していくためには、社会科学に勝るとも劣らないもう一つの柱として、人間科学を確立する必要があると考える。つまり、大衆や国家を対象とするのではなく、個を持つ人間そのものを対象とする学問が必要だと提言したい。》(327頁)

☆信原幸弘『意識の哲学 クオリア序説』(双書現代の哲学,岩波書店:2002.7.26)

 目の前に赤いトマトが見える。このとき瞼を軽く押さえると、トマトが二重に見えてくる。トマトは二つに見えるけれど、実物のトマトが二つになったわけではない。つまり、意識に現れたトマトは、それが二つに見えようが一つに見えようが、実物のトマトではない。そうだとすると、意識に現れるもの──これを信原氏は、「感覚質」という本来の語義を超えて、たとえば想像経験におけるイメージなども含めて総じて「クオリア」と呼ぶ──はどんな存在論的身分をもつものなのだろうか。トマトのクオリアは物か心か。これが信原氏にとっての哲学の問題(悩みのたね)で、本書はほぼ十年に及ぶ「クオリアの神秘」との戦いを経て、クオリアの物的なもの(脳のある部位の状態)への還元可能性を、とはすなわち自然科学による経験的な探求への接続可能性を論証しようとしたものだ。だから本書は、クオリアの存在論的身分そのものを実地に解明するものではなくて、そのような探求の原理的な可能性を呈示しようとするものである。信原氏自身の言葉で言えば、それは「意識は物的なものと必然的な結びつきをもたない」という強固な意識観を乗り越える新たな意識観の呈示であって、だから意識の「哲学」であり、クオリア「序説」なのだ。──各章の議論はまことに汎用性に富んだ鋭いものだ。全体の構成も実に緻密にかつ有機的に練り上げられている(ように思う)。論旨そのものは、『意識の科学は可能か』(苧阪直行編著,新曜社)に収められた講演記録「言語からみた意識」を一読する方がよほど見通しがいいけれど、本書には次の考察へとつながる豊饒なもの、あるいは過剰なものが孕まれている。この必ずしも充分に議論が尽くされたとは思えない「過剰」が、本書のたまらない魅力であることは間違いない。本書でもって更新されるのは、意識観であると同時に物質観である。

☆かわぐちかいじ『メドゥーサ』X〜[(小学館文庫:2000.7.10〜2000.10.10/1990〜1994)

 あの「政治の季節」がめざしたもの、明るい未来と豊かな社会。そこへいたる二つの道、メドゥーサ(非合法)=榊陽子とペルセウス(合法)=榊龍男。この二つの魂が再び相交わるとき、世界は終わる。「あと3分で世界が終わるなら…最後の3分…お前と一緒にすごしたい。」
◎「メドゥーサ」とは……別称……支配、統治する女(神)…![T,228]
◎ペルセウスとメドゥーサが闘わずに済む方法がひとつあったんだ。(中略)ペルセウスがメドゥーサを好きになればよかったんだ。[T,244-246]
◎メドゥーサは魔女なんかじゃないんだ!! メドゥーサは古代ギリシャ人の…大地の神だったんだ!! (中略)メドゥーサは蛇の化身なんだ、陽子。古代人にとって蛇は生命と大地の神秘のシンボルだった… 日本の縄文人も古代ギリシャ人も蛇を豊饒と再生の象徴としてあがめた。だが人間が森林を拓き、文明が自然への畏敬の念を失うにつれ、蛇は忌むべき敵となったんだ。ギリシャ神話はそうした文明人が創ったものだ。今もメドゥーサは文明に対する自然からの警告として、人々の中に生きている…[[,325-329]

☆かわぐちかいじ『テロルの系譜 日本暗殺史』(ちくま文庫:2002.7.10/1992)

 明治十一年の大久保利通暗殺から昭和二十年、東条英機の「暗殺未遂」まで、九つの「斬」が描かれている。暗い系譜。

☆尾崎嶺『秘書と少年』(フランス書院文庫:2002.9.10)

 また読んでしまった。疲労が濃いのに眠れない、新幹線で3時間余りの無聊を慰めるには、官能系かホラー系に限る(後者はほとんど読まないけれど)。で、この作品は前半はとてもいいのだけれど、後半が急ぎすぎで興ざめ。人物の絡み合いが水平的に広がるか垂直的に深まるか、どちらにせよそのプロセスが肝心。

☆麻生幾『加筆完全版 宣戦布告』上下(講談社文庫:2001.3.15/1998)

 現未来シュミレーション小説とか情報小説とか、ジャンルでいえばそうなるのだろう。有事法制なき国家、政治的リーダー不在の国家の愚かさ。ここでいう「国家」は「政府」でも「国民」でもない。現に、この作品では、国民の反応や世論をかきたてるマスコミの動向はほとんど戯画的にしか描かれない。そもそも、なぜ北朝鮮は武装兵士を敦賀半島に送り込んだのか、中国軍はなぜ出撃したのか、そしてアメリカは何を考えていたのか、それすら描かれない。現実に生じてしまった事実をいかに定義し、このクライシスにどう対応するか。その判断の基軸となる原理は何か。生身の人間の死でさえ一片の情報と化してしまう宣戦布告なき戦争という極限状況のなかで、生まれつつあった「国家」は流産してしまう。──事変があっけなく終結した後の新総理と内閣情報官との対話(下巻,414-415頁)。

「瀬川君、敦賀半島の件で、日本は何か変わったと思うか?」
「今のところは何も」
「そうさ、変わっていない。いや、これからも変わらんかもしれない。阪神・淡路大震災でも、何か変わったものがあったかと訊かれても、私は答えるのにまる一週間はかかるかもしれん。血の教訓は日本人には向かないのか」
「しょせん、日本人はアングロサクソン系の民族ではないから、という学者もいます。今年が凶作でも一年待てば豊作になる。そう考える国民です」

☆福井晴敏『亡国のイージス』上下(講談社文庫:2002.7.15/1999)

 軍事ポリティカル・フィクションとしての圧倒的な面白さに加え、人間が、とりわけ三人の主要登場人物(いそかぜ艦長・宮津弘隆、同先任伍長・仙石恒史、同一等海士・如月行)の逡巡と決断の間をさまよう心情の軌跡が実に丹念に描かれていて、物語の濃くと厚みを増している。希にみる傑作だと思う。──腐敗臭を漂わす国家。死者との和解による更新。亡国(aimless)の楯(aegis)がかいま見せた「国の形」。国家と共同体(民族?)との結合。そして、物語の外部に超越するアメリカという存在もしくは原理、意思。
《守るべき国の形も見えず、いまだ共通した歴史認識さえ持ち得ず、責任回避の論法だけが人を動かす。国家としての顔を持たない国にあって、国防の楯とは笑止。我らは亡国の楯[イージス]。偽りの平和に侵された民に、真実を告げる者》(上巻,515頁)
《この後、事件がどのような帰結を迎えるかはわからない。(中略)それでも、今はこれでいいと思えるのは、この小さな戦争の中で、どこかで律儀にならずにはいられない日本人の心のありようを見たからであるし、いざとなったら戦いを厭わず、団結して困難に立ち向かおうとする人々の生きざまを見たからでもあった。/それは、ひとつ対処を誤れば過剰に反応して、半世紀前の悲劇をくり返す結果になる両刃の力なのだろう。が、人には憎悪を乗り越えられるだけの力があるらしい、と知ることができた心は、その有機と覚悟を示してゆけば、戦争という巨大な災厄であっても冷静に対処し、それを根絶してゆこうとする国の形──真の平和国家という、守り、残してゆくべき国の形が、いつかは獲得できると信じているのだった。/だから、急ぎすぎはよくない。それが、まがりなりにも平和と心中すると宣言した国家が育んだ人の心根ではなく、極限状態の中でたまたま発揮された個人の美徳でしかないのだとしても、そうできるのかもしれないという端緒、萌芽は、確実に見出すことができた。》(下巻,497頁)

☆ル・クレジオ『偶然──帆船アザールの冒険』(菅野昭正訳,集英社:2002.3.31)
☆中沢新一『熊から王へ カイエ・ソバージュU』(講談社選書メチエ239:2002.6.10)
☆柄谷行人『日本精神分析』(文藝春秋:2002.7.30)
☆坂本龍一+河邑厚徳編著『エンデの警鐘 「地域通貨の希望と銀行の未来」』(NHK出版:2002.4.25)

 これら四冊を一連のものとして読み終えるのに、三月以上もかかってしまった。どこに「一連」性があるのかについて、いまとなっては語るべき言葉を見失っている。

☆池谷裕二『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』(講談社ブルーバックス:2001.1.20)

 このところ記憶力が減衰して頭が冴えず、本を読んでいても根が続かない。たぶん6月のワールドカップ以来だと思う。3Dで立体視をすると視力が回復して頭の回転もよくなると聞いて早速パソコンの壁紙に貼りつけて眺めてみたり、その昔やったことのある「右脳俳句」を思い出したり、最近はやりの数学パズルを一日一題解いてみたりと、まあいろいろと試してみたのだけれど快刀乱麻の切れ味はなく、これは季節ものの年中行事なんだと諦めかけていたとき本書にめぐりあった。知らないうちにちょっとしたベストセラーになっていて、『海馬 脳は疲れない』で糸井重里さんと対談していたのが著者だったとは、迂闊なことにぜんぜん気がつかなかった。こみいった話を手順を踏んで手際よく、巧みな例を織り込みながら読み手の腑に落ちるゆったりとした口調で語って聞かせる手腕はかなりなもので、最新脳科学を応用するとこれほどの文章が書けますよという見事な作品例になっている。ウィトゲンシュタイン(121p)やユング(122p)やソシュール(137p)やデカルト(148p)やサルトル(224p)への言及はご愛敬だろうけれど(デカルトの引用は分かる)、昨今、本を読んでこれだけ元気になれることはそう滅多にあることではない。《記憶は時間をかけて熟成するワインのようなものです。》(213p)

☆熊野純彦『ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考』(筑摩書房:2002.3.20)

 レヴィナスの思考との息づまるような註釈学的対話の経緯が綴られた『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』に続いて、ヘーゲルのテクストに内在する「思考の襞」(まえがき)を跡づけ、現代においてヘーゲルの「特異な思考」(あとがき)をたどりなおす通路のひとつともなることを願って──そして、著者に「世界と対峙し世界を掴みとることばに向けた、尽きることのない希望」(あとがき)を託した故廣松渉への応答として──著された、熊野純彦対ヘーゲルの哲学的格闘の(仮)決算書。読後、かつて一年近くを費やして取り組んだ『大論理学』の濃密な印象がまざまざと蘇生し、読みかけのままだった長谷川宏訳『精神現象学』への意欲がかきたてられた。私にとってヘーゲルはやはり特別な存在だ。

☆郡司ペギオ‐幸夫『生成する生命 生命理論T』(哲学文庫6,叢書=生命の哲学3,哲学書房:2002.8.10)

 これまで何度か郡司ペギオ‐幸夫の著者名が記された論文に目を通してきて、まともに最後までつきあうことができたのは『脳と生命と心』に収められた「クオリアと記号の起源」くらいのものだったのだが(それとて、そこに書かれた事柄のいくばくかでも理解できたかどうかあやしいものだ)、この人の仕事の独特の「わからなさ」は意識やクオリアの問題がわからないこととパラレルで、だから「わからなさ」が「わからなさ」として示唆され示されていること(何か特定のわかりにくい対象がそれとして指示されるのではなく)にこそ、私にとっての郡司ペギオ‐幸夫という存在の意味があったのだと無理にでも納得している。その点、本書は、クオリアの生成や意識の問題を認知科学的実験を通して解読するための計算モデルが提案される第二部に先立って刊行された方法論的素描の書であり、細部のこだわりに目をつむれば比較的見通しがきいていてとっつきやすかったし、その叙述はスリリングでさえあった。(でも、やっぱり郡司ペギオ‐幸夫は分からない。)

☆ロバート・B・ライシュ『勝者の代償 ニューエコノミーの深淵と未来』(清家篤訳,東洋経済新報社:2002.8.1)

 現状分析はとても説得的。でも、二つのエコノミーの「社会的なバランス」のための処方箋はやや茫漠。──《オールドエコノミーの思想と負担が、安定的な大量生産から生み出されたことを思い返してみよう。このことこそが、一世紀前の社会改革者たちが労働条件の向上と過度の経済力を制限することに焦点を合わせた理由である。これとは対照的にニューエコノミーの恩恵は、技術革新と、買い手が世界中どこからでも、より良く、より速く、あるいはより安い製品に、またより高い収益率の投資機会に、そしてまた近代的な「コミュニティ」の共同快適性に、簡単に切り替えられることから生じている。これまで見たように、こうしたニューエコノミーの同じ特徴が、経済的不安定性、仕事への没頭、所得と富の格差の拡大、さらにはかつてないほど効率的な選別メカニズムを生み出し、そして結果的に個人、家族、コミュニティの生活をむしばんでいるのである。》(389-340頁)

☆田口ランディ『7days in Bali』(筑摩書房:2002.9.10)

 田口ランディさん、あなたはいったいどうなってしまったのでしょう。なにかの手違いで世に出た草稿(エンブリオあるいは幼体のまま成熟してしまった小説)をついうっかり盗み見てしまったような、無惨とも禍々しいとも後ろめたいともなんとも形容のつかないとても残念な思いで読み終わりました。「ああ、私はこの世界の外に出たい。形をもちたい。私だって形を持って存在したい」(159頁)。そうやって呪詛の言葉を世界に向けてまき散らす磁場に支配された無の宇宙(子宮)から、倍音が渦巻くガムランの響きとリズムに螺旋状に導かれて、記号化されモノ化した生命の世界──《魂は記号化できないのだ。》(117頁)──をつきぬけ、「Nowhere」が「now here」と重なりあう「知覚できない高次な世界」──《どこにもいない。だけど、いま、ここにいる。》(187頁)──へと接近する、無限速度に貫かれた「バリ島の体験」をめぐる小説「7days in Bali」を「私」(スズキマホ)が書きはじめるところでこの作品は終わっています。でもこれでは小説でもなんでもなくて、少なくとも田口ランディが書くべき新作長編ではなくて、ただのほのめかしと素材と記号の羅列でしかありません。もっと濃密で豊饒で官能的で非人間的な作品。田口ランディさん、あなたなら書けるはずです。(それともこれは、音楽の秘密、つまり世界の実相は言葉では描ききれないという、小説の限界を宣告する小説だったのでしょうか。)

☆村上春樹『海辺のカフカ』上下(新潮社:2002.9.10)

 田口ランディの『7days in Bali』は、絵や写真と音楽とダンス(神とのセックス、夢の中のセックス)の重ねあわせのなかで記号(差異)と生命(反復)の錯綜した関係が糾われ、受胎と死(世界のリセットあるいは完全な消失としての死、記憶に残らない完璧な死)を起点とする身体と世界の解離と重層性(たとえば「Nowhere」と「now here」との一致)の叙述のうちにいまだ書かれざる小説が紡がれる「エンブリオ」もしくは「ネオテニー」とも称すべき作品だったけれど、これと同じ発行日付を刻印された『海辺のカフカ』はほぼ完璧な抽象度と造形性を湛えた熟成された作品で、同じ名(「海辺のカフカ」)をもつ絵と歌が過去と現在をつなぐ媒体機能を担っていたり、シューベルトのピアノ・ソナタニ長調とベートーベンの『大公オラトリオ』が重要な舞台転換の契機となったり、あるいは夢の中での(生き霊との)セックスや十五歳の家出少年田村カフカの解離(カラスと呼ばれる少年との対話)、女性でありながらゲイの大島さん(兄に恋する性同一性障害の妹?)と二つの年齢と身体をもって登場する佐伯さん(少年カフカの仮説の母)、そして田村カフカや大島さんや佐伯さんやこの作品にしめる位置がとても微妙なさくらさん(少年カフカの仮説の姉)が織りなす物語(図書館と森の物語=記憶を蓄積し保存する物語)と星野青年との四国道膝栗毛でボケの超絶技巧を発揮する猫探し名人で文盲のナカタさんをめぐる物語(逃走と異界探索の物語=記憶を消費し接合する物語)との二層構造等々、その気になって探してみると『7days in Bali』との不思議な符合と微妙ながら決定的な違いはまだまだ見つかるかもしれないし、なにより興味深いのは、『海辺のカフカ』の二つの物語世界の接触の結果唐突に死を迎える佐伯さんが同様に醒めない眠りにつくことになるナカタさんに「原稿」の焼却を依頼し、ナカタさんが約束を忠実に守ることで結局その「原稿」(佐伯さんの記憶)は永遠に読まれることなく消滅してしまう(小説の埋葬?)という結末で、物語の発端にして分岐点ともなる謎の殺人事件(少年カフカに血とDNAを分かち与えた父の殺害)ともども『海辺のカフカ』が作品の奥深くに潜めた無意識(たとえば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ノルウェイの森』、あるいは『オイディプス王』や『源氏物語』といった固有名で指し示される物語的もしくは演劇的もしくは小説的無意識)の輪郭をかたちづくっているのではないかと思う。──それにしても村上春樹の虚構世界はいつもながらの暗号解読と想像力の追体験という尽きぬ愉しみ(要するに深読みの快楽)を与えてくれた。たとえば『源氏物語』の宇治(憂路)十帖が「橋姫」からはじまるように、『海辺のカフカ』は本州と四国を結ぶ橋を(二重に)渡ることから始まるまったく新しい物語(続編)であって、田村カフカは死にきれなかった直子(『ノルウェイの森』)の霊を慰める薫でもあればいまなお漂白するテーバイの王なのかもしれないのであって、ジョニー・ウォーカーやカーネル・サンダーズといったイコン(遺恨?)に託された第三次産業革命後の記号と身体をめぐる寓話と神話と物語と悲劇と小説との異種交配、さらには『物質と記憶』や『精神現象学』を下敷きにしながら意識と記憶と身体(性)をめぐって最初から語りなおされる哲学的思索の新しい表現を目論んだものなのではないかとさえ思えてくるのだが、このままでは深読みが深みにはまって抜け出せなくなる。

☆西原克成『内臓が生みだす心』(NHKブックス948:2002.8.30)

 三木成夫の「生命の形態学」に学んだ口腔科の臨床医師にして、重力進化学と医学を統合した「臨床系統発生学」の考案者であり、生命現象とは水溶性コロイドの有機体における電気現象であると喝破した著者による心と精神の発生学。いわく、脳は腸から生まれる。脊椎動物には三つの腸(脳)があって、呼吸を行う鰓腸(口脳)に由来する器官が感情と精神、心と思考を担当し、消化・吸収をになう腸腸(腹脳)に自我(生存欲)が宿り、泌尿・生殖・肛門の腸(肛脳)が個体のリモデリング(新陳代謝)をつかさどる。《心は腸管内臓系にその源があり、これらの内臓筋肉と共役関係にあるのが内臓脳、すなわち大脳辺縁系と海馬と視床下部で、ここに腸管のありようをキャッチするニューロンがあります。腸管がうずくと、人恋しくなるのはこのためです。》(198頁)──不思議な筆遣いの不思議な本。そういえば中沢新一が田邊元の「種の論理」を現代発生学と関連づけて論じた文章のなかで、「人生でもっとも重要なのは誕生でも結婚でも死でもなく原腸形成である」という生物学者の言葉を紹介していた(『フィロソフィア・ヤポニカ』130頁)。

☆中田力『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』(紀伊國屋書店:2002.8.31)

 これは驚嘆すべき「絵本」である。姉妹編『いち・たす・いち』の最終章で素描された統一脳理論の全貌が、「渦理論(Vortex Theory)」として精妙かつ簡潔きわまりない叙述形式によって平易に解き明かされ、ニューロン絶対主義のセントラルドグマから解き放たれた「リーマン紀元」後の脳科学がよってたつべき実在と原理が余すところなく示されている。全編、興奮と陶酔をもって読み進めていったのだが、とりわけリーマンに関する文章が私の脳髄の知的対流を加速した。《リーマンの偉大さは「概念の自由な拡張」と集約できる。/リーマン紀元後の科学は「見えるものがすべてではない」ことをはっきりと認識し、それまでとは明らかな一線を引いた方向に展開してゆくことになる。幾何学はユークリッド幾何学へ、力学は量子力学へ、そして、数学における証明とは「計算の結果ではなく思考の結果によりなされるべきもの」[註:ヒルベルトの言葉]となった。》(38-39頁)《「無限」そのものが概念であるように、ゼーター関数で示された「整数の無限の和の値」[註:リーマンによって複素数にまで拡張されたゼータ関数の公式から「−1/12」の値が得られる]も、もちろん、概念上のものである。実際に気が遠くなるほど整数を足したとしても、この値は出てこないだろう。しかし、科学の多くは「概念」を導き出す過程であり、登場した概念の意味するものを探求する過程も、また、科学である。》(125頁)──こうして「心の神秘」や「意識の根源」や「記憶のメカニズム」や「言語の起源」をめぐる「限りなく原理に近い仮説」が説得力と物質的根拠をもって提示されたわけなのだけれど、さてそこから先をどうするか。時代が「渦理論」に追いついて、これが脳科学のパラダイムになったとして、その先はどうなるのか。脳に実在する構造にもとづいてこころと意識と思考の存在をめぐる科学的説明がなされたとして、それで何かが変わるのだろうか。それとも、そのときすでにこころや意識や思考に関する「概念」そのものが変わってしまっているのだろうか。謎は一段と深くなる。

☆木下清一郎『心の起源 生物学からの挑戦』(中公新書1659:2002.9.25)

 物質世界の入れ子としての生物世界、生物世界の入れ子としての心の世界、そして心の世界の入れ子としての超越者の世界にまで説き及ぶ、自然学と人文学に架橋した壮大な心の発生と展開と未来をめぐる物語。こういう読み物にめぐりあうと、私の心は躍動する。数の世界の構造を心の世界の構造の把握にあてはめて、数学基礎論が数を新たに構成していったのと同じように、心の概念(心とは何であるか)をいったん脇において心を新たに構成し直してみる(心をつくり上げる)という「心の発生学」の探求方法が提示される冒頭のくだりにふれて、私は戦慄する。特異点・基本要素・基本原理・自己展開という「世界が開かれるための4条件」や、心の世界にとっての特異点である記憶が自己回帰の過程を経て時空・論理・感情を生みだすために必要な能力としての「統覚」(離散的なものの堆積から連続的なものを見いだす能力、経験できるものから経験できないものを抽出する能力)、そして世界と世界のつぎ目にあってそこから新しい公理系が生まれ独自の展開を遂げる起点としての自己矛盾。これらの叙述を目にして、私は激しく感動した。これはほとんどヘーゲルのエンツュクロベディー(論理学‐自然哲学‐精神哲学)だ。もしくはペンローズの三つの世界(プラトン的世界‐物質的世界‐心的世界)そのものではないか。ヘーゲルやペンローズは措くとして、実際この本にはわくわくさせられる。

☆江口克彦『脱「中央集権」国家論 地域主権をいかに創造するか』(PHP研究所:2002.10.2)

 日本の悲惨の元凶は国のかたち(中央集権)にある。日本には「新しい服」(地域主権国家)が必要だ。ゼロ・ベースで考え、日本アルプス型の「州府制」を確立して、自治体による国の「共同経営」をめざすべき。――ずいぶんとお気軽な地方制度改革論だな。現下の問題が中央政府から地方政府へと、その舞台を変えるだけではないか。そこで著者は、佐々木信夫氏(中央大学教授)の自治体機能三分論を踏まえ、政治体、政策体、事業体としての自治体の変革の方向と住民意識の改革の必要性を論じている。論じるだけなら誰でもできるぞ。統治体としての地方政府の実質をどう構想するか。システム的なものをめぐる想像力が必要だ。(言うだけなら誰でもできるぞ。)

☆高橋秀実『からくり民主主義』(草思社:2002.6.5)

 評判どおりに面白かった。それはたしかに面白かったのだけれど、率直に言って、私はこのての文章は基本的に嫌いだ。嫌いなのだけれど、面白いから最初から最後までじっくりと読んだ。右か左か、善玉か悪玉か、加害者か犠牲者か、推進派か反対派か、純粋か不純か、可哀相なのはムツゴロウか農民か、沖縄の心かカネか、等々、このてのわかりやすい二分法はマスコミの専売特許で、「実は…」マスコミだってビジネスで、すべての事件・出来事には真相ならぬウラがある。そんなことは「みんな」よくわかっている。わかっちゃいるけどやめられない。このこともよくわかっている。わかっていて楽しんでいる。時に純粋に悲憤慷慨し、時に訳知り顔にシニカルに了解する。そうして「問題はみんなで回して先送り」(第四章「みんなのエコロジー」)。《本書のタイトル、『からくり民主主義』とは「からくり民主─主義」です。…からくり民主の「民」とは「みんな」です。「みんな」が主になるのが「民主」。…聞こえはよいが、これには矛盾があります。全員が主役になると主役はいないのと同じだからです。そこで「からくり」が必要になるのです。》(終章「からくり民主主義」)じゃあなたは「みんな」ではないのか。私が嫌いなのは、そのことに忸怩としない厚顔さと、羞恥を隠さない傲岸さだ。それでも面白く読めたのは、高橋秀実という人物によるのだろう。忸怩、羞恥を包みこんでしまう深さをもった人間なのだと思う。ところで、この本を読んで面白がっているあなた、いや私は「みんな」ではないのか。

☆合田正人『レヴィナスを読む 〈異常な日常〉の思想』(NHKブックス866:1999.8.30)

 合田正人は文体(律動)を持っている。これは思想を語る文章としては希有なことだ。縦横にはりめぐされた磁力線にひきつけられるように具体的なものたちが、たとえばテクストの断片や出来事や個人的記憶が思わぬ近さのうちにコラージュされ、おそらく長い沈黙と自閉と熟成の時を経たならば垂直的に合成され著者自らの思想もしくはフィクションとなって結実するであろうそれら具体的なものたちが、これとは別の論考群へと水平的に開かれながら、いくつもの穴を穿ちながら異常なスピードで一冊の書物を液状に編集していく。それをたとえて音楽のような──即興音楽でも具体音楽でも引用音楽でもなくて、「超越論的経験論」と「アレルギー」という二つのライトモチーフを持ったブリコラージュ音楽あるいはモザイク音楽のような──書物と言っていいかもしれない。読者は、合田正人というミュージシャンが奏でるいくつもの旋律、律動に身をゆだねながら、同じもの(超越論的)と他なるもの(経験的)との界面=浜辺で途方に暮れている。

☆神野直彦『地域再生の経済学 豊かさを問い直す』(中公新書1657:2002.9.25)

 ブレトン・ウッズ体制の崩壊がもたらした金融自由化、資本移動のボーダーレス化とともに経済システムのグローバル化が進展し、国境=ボーダーを管理する中央政府の所得再配分機能(福祉国家に見られる「現金」給付による社会的セーフティ・ネットの構築)が不全に陥る。これがヨーロッパを中心に80年代以降、地方分権(身近な地方政府の「現物」給付による社会的セーフティ・ネットの構築)への潮流が生まれた背景であった。その根本にあるのが、大量生産・大量消費の工業社会から情報・知識社会への産業構造の転換であり、これを都市(地方政府)の側からみれば、生産の場としての荒廃から大地(自然環境)と文化に根ざした生活の場への再生でもって歴史のエポックに対応することである。都市の再生は、その財政的自立なくしてありえない。そして、財政とは地域社会の共同経済である。欲望の充足は市場に委ねればよいが、地域住民のニーズに応えるのは財政である。──こうした基本認識に立って、財政学者・神野直彦が提示する「処方箋」にはとても説得力がある。農政と税制を研究すればおよそ人の世の営みは了解可能である、と誰が言ったか知らないが、本書に盛られた政策的思考は真正の「保守思想」のみが持ちうる平衡感覚と歴史感覚に裏打ちされている。

☆西部邁『保守思想のための39章』(ちくま新書366:2002.9.20)

 旧著『知性の構造』で明かされた西部邁の「図解思考」が特有のレトリック(語り口)を纏って存分に発揮されている。小著ながらボディブローのように効いてくる「濃すぎる」書物で、個人的にはノヴァーリスとキルケゴールに関する記述(12章,36章)が面白かったけれど、たぶん再読はしないだろうし、次の記述などはいったい何が言いたいのかよく理解できない。《保守思想の問題としていえば、国民が天皇に愛着を寄せているかどうかだけを問うのは思想の怠慢といってよい。その国民的な愛着心の根底に時代意識としての歴史時間が横たわっていることを知らねばならない。(中略)ほかの言い方をすると、思想の次元では、歴史という観念を愛するならば天皇という存在に愛着を寄せざるをえないというふうに思考しなければならない。そして同時に、実践の次元では逆に天皇を愛することを通じて歴史の観念を抱くに至るというふうに生活する。それが保守的ということなのだ。》(38章)