不連続な読書日記(2002.6-7)




★2002.6〜7

☆神野直彦『人間回復の経済学』(岩波新書:2002.5.20)

 ケインズは『一般理論』の最後に「危険なものは、既得権益ではなく思想である」と書いた(らしい)。中沢新一は『緑の資本論』で千年、あるいは一万年単位の人類の「思想」に根ざす経済システムを論じたが、神野直彦は重工業から情報・知識への百年単位の産業構造のシフトを踏まえた経済の転換を説く。著者は本書を次の言葉で締めくくっている(それもまた一つの「思想」だ)。《未来をあきらめてはならない。人間は未来を構想し、創造することができる。(中略)そうした未来を創造するには、人間が個人として知恵を出すよりも、協力して知恵を出しあったほうが実現性が高いに決まっている。人間が協力して知恵をしぼれば、未来を創造できるはずである。》――著者は宇沢弘文との共著を準備中だという。本書にも出てくる欧州のサスティナブル・シティの話は、その研究の一環である。

☆黒木亮『アジアの隼』(祥伝社:2002.4.20)

 『マネーロンダリング』に続いて国際金融小説を読む。著者は『週刊ポスト』(2002.6.28)の「著者に訊け!」で、「多くのビジネスマンは、自分のしてきた仕事について一冊くらいは本にしたいと思っているはずです。そして本になるくらいエキサイティングな仕事をしなければダメだと僕は思います。この小説の舞台となったハノイ駐在時代はいい意味でも悪い意味でも、実にエキサイティングでしたね」と語っている。決してエキサイティングではないが、つまり小説的感興には乏しいけれど、淡々としたノンフィクションを思わせる叙述のうちに忘れがたい、静かな感動が湛えられている。

☆養老孟司『人間科学』(筑摩書房:2002.4.25)

 モノの見方を変えるとモノが違って見える。違って見えるモノは、違って見える前のモノとは違うモノなのだろうか。それともモノそれ自体は同じなのだが、ただそれが違って見えるだけなのだろうか。──著者が提唱する「人間科学」はフッサールが構想した現象学であり、著者の「プラグマティックな思考」こそ超越論的そして形相的な現象学的還元そのものである。唐突だが、私はそう思う。《私の主張はあくまでも「見方」であって、そうした見方を採用することによって、どういう視点が開けるかを示そうとしているだけである。別な言い方をするなら、プラグマティックな思考と考えていただいて差し支えない。》(80頁)

☆石川九楊『「書く」ということ』(文春新書246:2002.5.20)

 白川静の文字学の起点はトレースにあった。「文字を一字一字なぞること」を通して明らかにされたその「中国古代社会の思惟の宇宙は、レヴィ=ストロースの無文字社会の解明をはるかに凌ぐ巨大な業績である」(172頁)と石川氏は言う。そして、発音記号的音写文字中心の西欧の「はなす」(放、離、話)文化に対する書字中心の東アジアの「かく」(欠、掻、画、描、書、耕)文化に立脚した新しい「文[かきことば]の言語学」や「書字の哲学」を構想している。──ここに出てくる「音楽」の西欧と「書」の東アジアの対比は石川氏の従来からの説だが、本書ではこれに独自の資本主義論が付け加えられる。すなわち、近代資本主義は「ギリシア=ラテン的商業主義」と「印刷文字的大量生産主義」と「キリスト教的消費主義」の複合体として成立したのだが、それらはまさに声中心言語としての西欧語の歪みによってもたらされたもので、ドル・ショック(1971年)以降、世界経済とともに言語と文化の浮遊化=泡沫[バブル]化が進行しているというのである。荒削りながら迫力と創見に満ちた議論が凝縮された書物だ。

☆大澤真幸『文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える』(NHKブックス943:2002.6.30)

 大澤氏が本書の最終節で、大澤社会学の「方法」ともいうべきメタレベルでの言説分析(というより諸言説の編集)と論理的逆説の摘出、つまり社会的事象や出来事をめぐる原理的で抽象的な考察を駆使して到達した具体的な実践(9.11テロに対してなされなければならなかったこと)が「アフガニスタンへの徹底した大規模な(経済)援助」、すなわち抗争しあうすべてのグループへの無差別絶対で無償の贈与であった。──大澤氏は「あとがき」で、「あの出来事」は忘れやすい夢のようなもので、忘れないための最も効果的な方法はそれをできるだけ早く言葉にしてしまうことだと書いている。本書の大半が費やされた論理的、抽象的な考察(というより諸言説の編集)にはいつものスリリングさや華麗さがあまり感じられず、どこか吃音めいたところがあって、それ自体忘れやすい夢のような印象しか残らず、最終節での「実践的」な議論とのつながりもぎくしゃくしている。むしろ最後の文章から叙述を始めればよかったのではないかと思うが、それは一つの夢を見終えたばかりの読者の仕事なのかもしれない。

☆J.A.シュムペーター『租税国家の危機』(木村元一・小谷義次訳,岩波文庫:1983.7.18/1918)

《しかし、その最後の時刻[とき]は来るだろう。しだいしだいに、経済の発展と、それにともなう社会的共感の環の拡大によって、私企業はその社会的意義を失ってゆくであろう。これは、十九世紀後半の諸傾向の進路のうちに予告され、そして存在しているのであって、世界大戦で頂点にたっしたところのものすべては、おそらくは、その最後の錯行であったのである。社会は私企業と租税国家を超えて進展する――戦争の結果としてではなく、それにもかかわらず、である。これもまた確実である。》

☆斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』(講談社選書メチエ240:2002.5.10)

 世界には「ありありと」(もの[res]に即してリアルに)現象するものと「生き生きと」(はたらき[actus]に即してアクチュアルに)現象するものがある。たとえば知覚世界はいつも「いきいきと」しているがすべてが「ありありと」現象しているわけではなく、そこには「いきいきと」しているが「ありありと」現象していない可能性の領野が見出される。このように「ありあり感」(リアリティ)が伴う領野から非現実的な可能性の領野へと省察を進めることが「形相的還元」で、そこで決定的な役割を果たすのが「想像力」である。これに対して、「生き生き感」(アクチュアリティ)が伴う領野からそうでない領野へと至る省察が「超越論的還元」である。この態度変更によって見出される超越論的領野とは、力[vis]に即したヴァーチャルな「潜在態」(デュナミス)ないし「無限定なもの」(ト・アペイロン)のことであって、世界(紛れもなく存在=現象するもの)を成立させる「実質」そのもの、すなわち「充満する空」である。形相的還元と超越論的還元とはどちらが先にたっても構わない。いずれの順序によるのであれ、その結果獲得されるもの、つまり「現象」の内実をなすものは「記号」というメカニズムである。すなわち、絶えざる時間的流動(ヘラクレイトス的流れ)のうちにある私たちの経験を根底で支えているのは自己同一的なものなのだが、その存立は「不在における現前」という事態を可能にする想像力に負っている。そしてこの自己同一的なものの中核をなす「不在における現前」という構造は「記号」の構造そのものなのである。──以上が本書の前半部分をなす第三章までの内容を、第四章3節に出てくる語彙群を使ってかなり恣意的に「要約」したもの。以下、記号という機構においてとらえられた「現象すること」(何かが何かとして、何ものかに対して、どこかで、現れていること)の媒体と場所の分析、そして最終章での時間論を経て再び記号という事態──「あるものがみずからの不在という仕方で、みずからでないもののもとで、みずからを現前へといたらしめる」という事態──の成立へと説き及び、ついに「空」(ヴァーチャリティ)という充満した潜在態を中核に宿した世界の「現象すること」の外部、すなわち想像力の限界であり「絶対に未知なるもの」としての「無」をめぐる問いを指し示す。まことにスリリングで強靱な力に溢れた書物。哲学とは常に「問い」の再発見であり、根本から哲学を「新たに始める者」(フッサール)こそが哲学者、すなわち世界をより深く享受する帰還者=覚醒者である。

☆斎藤慶典『思考の臨界 超越論的現象学の徹底』(勁草書房:2000.1.10)

 フッサール現象学の最大の思考的達成は超越論的な事象領野の発見であった。そこではさまざまな出来事や事象が絶えざる流動のうちに生成消滅しているのであって、時間性こそが現象の根本的性格である。だからフッサールは終生時間について考え抜いたのだが、しかしフッサールによって時間性の究極の根拠とされた「生き生きした現在」は「存在的な仮面(masque ontique)をつけることのない純粋な超越」(メルロ=ポンティ)としての「見えないもの」であった。──こうして時間をめぐる問題系は存在の問題系と交わり重なっていく。しかしそれは「意識の哲学から存在の哲学へ」といった単線的な移行ではない(というのも、超越論的領野こそあらゆる哲学がその上を動いている最終的な基盤なのだから)。フッサールに淵源する時間問題とハイデガーに由来する存在問題は最後に「他なるもの」すなわち他者問題と交差し、ここで著者が召還するのがレヴィナスである…。以上が時間・存在・他者の三つの問題系の根本性を明示することを目論んだ本書のほとんど内容のない駆け足の「要約」で、これはまったく不毛で無意味な作業だ。──哲学とはつねに「語りなおすこと」(最初から始めること)なのであって、短すぎる終章での著者の問いかけに「問題」を感じるかぎり、著者とともに読者もまた最初から語りなおすしかない。

☆フッサール『デカルト的省察』(浜渦辰二訳,岩波文庫:2001.2.16)

 初めてフッサールを読んだ。評判どおりの難解さで、おぼろげにせよ議論の趣旨が判明するのが数頁に一箇所。最後まで読み通せたのが我ながら不思議だ。いま難解と書いたけれど、これは難解というよりむしろ混迷、もっとはっきり書けば、要するに文章が下手なのではないかと思う。たとえば私は本書と同時にベルクソンを(もちろん翻訳で)読んでいたのだが、こちらは全編がすっきり明快で、議論の流れもくっきりと見通せて、文章も流麗。好みでいえば文句なしにベルクソンだ。でもフッサールの議論にはなぜかしら脳髄にひっかかるものがある。読み終えて、さて何が書かれていたのかと考えてみると、超越論的現象学という「絶対的な基礎づけに基づく普遍的な学としての哲学」の可能性とその方法でしかなくて、だから何も実質的な事柄は述べられていないにもかかわらず、やはりここには読み飛ばして消費することを許さない何か(濃度)がある。──「志向性」の理解がなによりも重要であると体感できたこと、そして「内在的超越」という概念に接したこと、この二つが成果だった。

☆エドムント・フッサール/ジャック・デリダ『幾何学の起源』(田島節夫他訳,青土社:1992.7.24)

 短い草稿ながらフッサールの問題意識や思考傾向や息遣いのようなものが伝わってくる。デリダの長い序文(なにしろ本文320頁のうち250頁を占める)は流し読みしただけなので何もコメントできない。──《普遍的であると同時に堅固で、いつまでも根源の真正さを失わない歴史的世界のアプリオリを、われわれはどのような方法で獲得することができるのだろうか。われわれは自覚さえすればいつでも、反省することができ、地平へ眼を向けて解釈しつつそのなかへはいりこんでいける能力のある自分を、明証のうちに見いだす。われわれはわれわれの人間的な歴史的現在やそのさいその生活世界として解釈されるものを、思考と想像によってまったく自由に変更しうる能力をもっているし、またそのような能力をもっていることを知っている。そしてまさにこの生活世界的仮構の自由変更と遍歴のうちに、われわれが確信できるとおり、真に必当然的確実さをもっていっさいの変更体をつらぬいている本質普遍的構成要素が、必当然的明証のうちに現われてくるのである。そのさいわれわれは事実的に妥当している歴史的世界へのすべての束縛をのがれ、この歴史的世界そのものをも、考えうる可能性のひとつだとみなした。この自由と必当然的な不変のものへの視線とが、くりかえしこの不変なものを──変らぬ形成作用を任意に反復しうるという明証のうちで──同一的なもの、本源的にいつでも明証化しうるもの、一義的な言語によって確定しうるものとして、流動しつつ生き生きとしている地平につねに含まれている本質として──生み出すのである。》(298頁)

☆伊藤邦武『偶然の宇宙』(双書現代の哲学,岩波書店:2002.6.27)

 西欧の哲学者には四つのタイプがある。自らの哲学思想を語る者(たとえばプロティノスやスピノザ)と語らない者(たとえばプラトンやハイデガー)、哲学思想を語ることの限界を問う者(たとえばカントやウィトゲンシュタイン)と自らの身体をもってその限界を生きるもの(たとえばパスカルやニーチェ)。ここでとりあえず「哲学思想」と表記したのは神をめぐる形而上学的探求の所産のことなのだが、本書を読み終えてそこに第五の類型を、すなわち神学的・形而上学的な探求そのものを探求した哲学者(たとえばヒュームやパース)のタイプを付け加えなければならないと思った。──著者が本書で試みたこと、それは十八世紀のヒュームの神学批判と現代の宇宙生成論を踏まえた神概念の模索(人間原理、多宇宙論、神の想定)との対比を通じて、今日において「真剣な顧慮を払う必要のある形而上学的問いかけがひっそりと生まれつつあるのかどうか」(21頁)を吟味すること、つまり科学的な探求と結びついた新たな神学的・形而上学的な問いの設定である。──ところで、ヒュームと現代宇宙論との間には、「要素どうしの可能な組み合わせが作り出す確率的蓋然性の世界から、要素の組み合わせの分布が織りなす統計的法則性の世界への移行」(125頁)とともに、科学的探求をめぐるパースの独創的な思考が介在している。著者が訳したパースの『連続性の哲学』を読んでもっとも刺激的だったのは、人間による探求の対象と探求の論理(推論)とが基本的には同一であるという指摘だった。このことは本書でも最終章で、『自然宗教についての対話』の登場人物(懐疑論者フィロ)の口を借りて「宇宙のうちなる秩序の原因、あるいは諸原因は、おそらくは人間知性となんらかの遠い類比をもっているのであろう」と書いたヒュームやジョン・レスリー(宇宙の内在神の思想)とパースとの「一致」を示唆する文脈のなかで言及されている。

☆関満博『現場主義の知的生産法』(ちくま新書340:2002.4.20)

 朝日新聞の書評で山形浩生氏が「すごい本」と絶賛している、と第三刷の帯に書いてあって、刊行された時からどういうわけか気になっていたので少し遅くなったが読んでみた。じっさいのところ「すごい」どころか凄みのある凄まじい本で、君は「現場」と豊かな関係を築いているか、「熱い思い」を共有しているか、と叱咤されているのか激励されているのかはともかく、とにかく途方もなく濃密な情報が充満した本だった。──内田樹氏が『寝ながら学べる構造主義』のニーチェに触れた箇所で、適切な自己認識を可能にするのは「遠い太古の、異郷の人の身体に入り込めるような、のびやかで限界を知らない身体的想像力に裏打ちされた知性」だけだと書いていたのを思い出す。構造主義にせよ、最近ようやくその凄みの一端に触れることができた(ような気がする)現象学にせよ、それぞれの「現場」は必ずあるはずで、それはもしかすると寝ながら、というより眠りながら見る夢のことなのかもしれない。

☆内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書:2002.6.20)

 いま絶好調の書き手による切れ味と滋味と戦略に満ちた構造主義の入門書。入門書が提供しうる最良の知的サービスは「根源的な問い」の下に繰り返し繰り返しアンダーラインを引くことであり、そして知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は「答えを出すこと」ではなく「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのだというまえがきでの「名乗り」は実に清々しい。マルクス、フロイト、ニーチェといった構造主義前史の先人たちと始祖シュール、そしてフーコーと系譜学的思考、バルトと「零度の記号」、レヴィ=ストロースと終わりなき贈与、ラカンと分析的対話といった構造主義の「四銃士」をめぐる本文での引用の素晴らしさは、優れた書き手が備えるべき天性の資質というものだ。結局のところこの書き手の関心は、というより著者にとっての「根源的な問い」は他者との応答の実質であり、その起源ならざる前史と現場(零度)、その媒質たる記号(言語)と身体の問題が本書の通奏低音をなしている。

☆アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』(合田正人・平井靖史訳,ちくま学芸文庫:2002.6.10)

 『イデーン』第一巻を献本されたベルクソンがフッサール宛書簡(1913年8月15日付)に「しばし待って、私があなたの業績をいかに高く評価しているか言わせてください。私たちの考え方はたぶん、いくつかの点で違っていますが、それらは容易に一致するようなものでもあるでしょう」と書いている。──(フッサールと違って)屈折のない流麗な文章と明快だがややトリヴィアルで退屈な議論ゆえに、第一章「心理的諸状態の強度について」、第二章「意識的諸状態の多様性について──持続の観念」と快調に(?)読み進めてきたものの、肝心のベルクソンの自由論が展開された第三章「意識的諸状態の有機的組織化について──自由」でとうとう議論の行方を見失ってしまった。平井靖史氏の力のこもった「解説」でこの点は充分以上に取り戻せたからよかったものの(とりわけ、平井氏が本書から読み取った「表現としての自由」モデルや「行為としての認識」説の提示はとても示唆的だった)、下手をすると「強度 intensite'」や「持続 dure'e」といったキーワード、そして「持続と延長、継起と同時性、質と量の混同」つまり時間と空間の取り違えといったベルクソン入門書でお馴染みの事柄の原典での確認に終わってしまうところだった。

☆フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける──孟子 vs. カント、ルソー、ニーチェ』(中島隆博他訳,講談社現代新書1614:2002.6.20)

 記号とは「ある観点や立場から誰かに何かを表すもの」だとパースは言った。意識とは「何かが何かとして、何ものかに対して、姿を現していること」だと斎藤慶典氏は『事典 哲学の木』で定義している。これらに共通する「何か1」(記号・表象)と「何か2」(対象・意味)と「誰か・何ものか」(観察者・主体)の三組でもって規定される「表現・翻訳システム」は生命や精神をめぐる事象、はては物質と時空が織りなす宇宙そのものの根源において稼働するメカニズムなのであって、このことは道徳(自由)をめぐる問題にもあてはまる。ここで「何か1」を「何か2」の「端[きざし]」ととらえ(朱熹の注釈によると「端」は糸の端のようなもので、中にとどまっていて現れず、その「緒」だけが外に出て見える)、「誰か・何ものか」を「天」あるいは「物事を調整する大いなる理」と置き換えるならば、西欧形而上学思想に対する「ラディカルな他者」としての中国道徳思想、とりわけ孟子のそれになる。──以上が、ルソーの「憐れみの感情」と孟子の「忍びざる心=仁」との比較をめぐる本書第一部「憐れみをめぐる問題」のきわめて恣意的かつ断片的な紹介で、以下、「性と生について」「他者への責任」「意志と自由」「幸福と道徳の関係」へと話題は広がっていく。実に面白くて斬新。この本文の議論をさらに深く掘り下げているのが訳者による序と随所に挿入された解説コラムと巻末の解題で、いま中島隆博という人にいたく惹かれている。

☆かわぐちかいじ『メドゥーサ』T〜W(小学館文庫:2000.3.10〜2000.6.10)

 状況に応答する政治(権=状況判断)と状況を作り出す政治(力=意志)。──あの「政治の季節」を思想的に総括する(?)ためには、マルクス=レーニン主義(というより西欧の神学的形而上学)と中国の道徳・政治思想とを比較するしかないのではないか。「存在」(自然)と「道徳」(自由)と「政治」の三組(『道徳を基礎づける』)の関係を原理的に考察すること。あるいは「愛」と「仁」、「神」と「天」の関係。X〜[を読まねば。

☆トム・クランシー『大戦勃発1』(田村源二訳,新潮文庫:2002.3)

 暑い夏。長い小説を読みたくなった。読み始めると、他の本が読めなくなった。

☆神崎京介『男泣かせ』(カッパ・ノベルス:2002.6.25)

 陶酔がない。
 

★今月の棚卸し

☆伊藤修一郎『自治体政策過程の動態 政策イノベーションと波及』(慶應義塾大学出版会:2002.4.8)

 副題が本書の研究対象を要約している。──地方公共団体の「新政策」はどのように他の自治体へ「波及」していくのか。まず、国の「介入」(地方の政策を国の政策として取り上げること)の時期の早遅と政策の性質、すなわち対立的(規制政策のように社会的な利害対立を伴うもの)か非対立的(政府機構改等の制度改変のように社会的な対立をもたらさないもの)かの違いを組み合わせることで四つの類型を導き出す。次に、それぞれの類型ごとに「環境基本条例」(国の介入時期が早く非対立的)と「環境アセスメント条例」(国の介入時期が遅く対立的)と「情報公開条例」(遅・非対立)と「福祉のまちづくり条例」(早・対立)を事例として取り上げ、実証的に研究する。

☆浅野史郎・北川正恭・橋本大二郎『知事が日本を変える』(文春新書:2002.4.20)

 朝日新聞が「若手国会議員」159人を対象にしたアンケート(回答は101人)によると、これからの改革の方向は地方分権と選挙制度なのだそうだ。記事は「成長優先・中央集権型の大国志向への決別」と評価していた(2002.8.30付朝刊)。変わるときは勝手に変わっていくのだろうけれど、それは人と制度(法律)の変化に始まり、それに終わる。

☆鬼頭宏『文明としての江戸システム』(日本の文明第19巻,講談社:2002.6.10)

 文明としての江戸システムの特徴は「土地に物的生産の基礎を置く社会」であったことだという。──早くも十四世紀頃に懐胎し、江戸時代(「市場の支配力が拡大した時代」)に完成・成熟し、大正から昭和戦前期にかけてその死が意識された「近代日本の文明システム」。

☆ゲアハルト・フォルマー『認識の進化論』(入江重吉訳,新思索社:1995.4.5)
☆スティーヴン・ミズン『心の先史時代』(松浦俊輔他訳,青土社:1998.8.24)
☆A.G.ケアンズ‐スミス『〈心〉はなぜ進化するのか 心・脳・意識の起源』(北村美都穂訳,青土社:2000.8.30)
☆ダニエル・C・デネット『ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化』(山口泰司監訳,青土社:2000.12.20)
☆コリン・マッギン『意識の〈神秘〉は解明できるか』(石川幹人他訳,青土社:2001.7.25)
☆リチャード・E・シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』(山下篤子訳,草思社:2002.4.30)
☆佐藤徹郎『科学から哲学へ 知識をめぐる虚構と現実』(春秋社:2000.9.25)

 永遠の夏休みの宿題(私にとって)である心脳問題をめぐる雑読。