不連続な読書日記(2002.5)




★2002.5

☆加藤典洋『戦後的思考』(講談社:1999.11.25)

 日本の戦前と戦後はつながらないことがその本質である。この「つながらなさ」を、どのような自己欺瞞にも陥らず過不足なく説明できたその時、その説明は戦前(戦争の死者)と戦後(わたし達)の「つながり」そのものであろう。この断絶、この「つながらなさ」(「意味づけられないこと」)の川を最も深い瀬で渡ること。つながらないものをつなぐ「歴史意識」を作りだすこと。加藤氏が言っているのは、ただそれだけのことだ。──それにしても加藤的思考は屈折している。「ねじれ」であれ「よごれ」であれ、加藤氏の戦後論のキーワードはいずれも多義的で逆説的でにわかに掴みがたい。いまのところ私は加藤氏の戦後論に対する態度を決定できない。強烈な魅力と微妙な違和感の質をにわかに測定しがたい。加藤氏の言説がきわめて論争的でありながらも、どこかで「論」や「論理」を切断するところがある以上、私自身の耳で、戦前と戦後の亀裂をうがつ「トカトントン」(太宰治)のかすかな響きを聞き取ることからはじめなければならないと思う。

☆土取利行『縄文の音』(青土社:1999.12.10)

 かつて近藤等則、坂本龍一といった面々と組んで活躍し、ピーター・ブルック国際劇団で音楽を担当したこともあるパーカッショニストの土取氏は、その後、古代音楽の研究へと活動を進め、本書で丹念に述べられているように、その用途をめぐって土器鼓説と酒造具説が対立している縄文時代の有孔鍔付土器を土器鼓として復元し、自ら演奏してみせる『縄文太鼓』演奏プロジェクトに取り組んだ。この有孔鍔付土器をめぐって繰り広げられる土取氏の探求と洞察と想像力の旅の記録である「縄文の音へ」が本書のハイライトで、縄文の音世界という「見えない世界」に関するこれからの課題である「縄文の仮面」や「縄文の歌」を扱った文章もインスピレーションに満ちた素晴らしいものだったのだが、私はとりわけそれらの間に挟まれた「縄文楽器の世界」での議論(縄文中期以降の土偶に刻まれたマジカル・ラインが表現する縄文人の生命観に、一穴から二穴へと移行していった土笛の形を重ね合わせ、縄文人の観念において楽器が「生命の器」であったことを論証したもの)が刺激的だった。見えるものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないものとのインターフェイスにおいて思考する音楽家土取利行の想像力は、何かしら途方もない観念世界の所在を告知している。

☆保坂和志『生きる歓び』(新潮社:2000.7.30)

 保坂和志の文体は癖になる。──『生きる歓び』に収録された二つの「小説」で保坂和志が試みたのは、生きる歓びを表現する言語体系あるいは世界を肯定する言語体系を作り出すこと、それも『季節の記憶』や「明け方の猫」のように「きちんとした話を立ち上げ」るとか「新しい小説世界を立ち上げる」のとは違って、「死んでしまったらすべてが終わり」という言語システムしか持っていない今の社会の中で作り出すことだったのだろう。だから、捨てられたか親とはぐれた全盲かもしれない子猫を拾ってきてサリバン先生みたいに世話をして、テレビで見た全盲の天才少年ピアニストが中学高校で同級だった友人の子どもだということが分かって友人の職場に電話して子どもが夢を見ることを教えられて「知覚によって構成された世界を持っているかぎり、視覚がなくても、夢はみるだろう」と思う「私」の五月から六月にかけての出来事を綴った「生きる歓び」は、けっしてエッセイではなくて、紛れもない「小説」なのだ。それは、文字どおり混じりっけなしに「小実昌さんのこと」だけを書いた文章についても言えることだ。──この保坂和志の「新しい言語体系」はほんとうに癖になる。

☆保坂和志『明け方の猫』(講談社:2001.9.25)

 「生きる歓び」の「私」は「猫の五官の特徴にまつわる小説」を書いていて、そこでは視覚に依存した人間の生と思考をめぐる考察もなされている。その小説というのが、明け方の夢の中で猫になった「彼」による猫の触毛と聴覚と嗅覚をめぐる体験と考察(猫であるとはどのようなことか)を、人間の言葉と概念で記録した「明け方の猫」だ。──人間の大きな手で撫でられてゴロゴロ喉を鳴らしたり毛づくろいの愉悦にうっとりしたりと、まず猫であることの歓びを存分に味わった「彼」は、やがて触毛と聴覚と嗅覚がもたらす猫的クオリアの世界やそうした「世界を丸のまま受け入れる力」に満ちた猫の生、そして触毛を失った代償として人間が獲得したものをめぐる考察を始める。「いまの自分の感じていることと人間だった自分の感じていたことは、現実と写真ほどの差がある」(26頁)。「そのつど世界と関わりそのつど世界に送り返す生き方をしている猫にとって、世界そのものは人間よりずっと濃密で、…猫にとっては自分の中にあるものよりも外にあるものの方がずっと多くて、自分が生きて存在していることよりも世界があることの方が確かなのではないか」(79頁)。「人間は猫の外界の豊富さを失ったのだから、パースペクティブを獲得してもいいはずだ」「パースペクティブを持たない猫は、外界との緊密な繋がりを持ち、生存の記憶を外界に送り返しているはずだった」(74頁)。「猫にとって外界は自分の体の一部であり、自分の体は外界まで浸透しているに違いない」(97頁)。──それにしてもこのような「小説」は前代未聞なのではないだろうか。

☆保坂和志『もうひとつの季節』(中公文庫:2002.4.25)

 文庫版解説でドナルド・キーンが「世界の文学を広く読んでもクイちゃんほど、面白みをそなえた少年は少ないだろう」と書いている。クイちゃんというのは本編の語り手の「僕」こと「中野さん」の五歳になる息子圭太のことで、著者によるとそのモデルはうちで飼っていた猫なのだそうだ(『アウトブリード』に収められた「『季節の記憶』の記憶とそれ以降」)。そういえば「僕」の家から道をはさんで三軒先の松井さんのところに生後半年くらいで迷い込んできた猫の茶々丸とひたすら遊ぶクイちゃんは、たしかに猫を思わせる愛らしさときかん気と臆病さと無邪気さをもっている。そのクイちゃんがおばあちゃんに「僕」がまだ一歳かそこらの時に猫と一緒に写った写真を見せてもらって、「猫はもう死んじゃった」と聞いて腑に落ちない思いをし、「パパにも赤ちゃんだったときがある」はわかるけれど「この赤ちゃんがパパになった」の方がどうしても納得できないところからこの作品ははじまる。その後かわされる「僕」と松井さんや美砂ちゃんや蝦乃木との会話──茶々丸のアタマのちっちゃさや人生の一回性、機能と構造、自由律俳句や「世界」と触れ合うこと、言葉がシステムとして閉じられていること、自我と自意識の関係、量子力学にまつわるわかりにくさや混乱は無意識の中で起こっていることを普通に意識しているときの論理や時間性の中で考えようとすることから起こる混乱と似ていること、有機体の複雑さの奥に流れつづけるほとんど無機的といっていいような現象のこと、「世界」や「時間」は「死」の置き換えであること、定義とリアリティと物事の変化をめぐる考察、等々──はすべてこの「子どもの疑問」をめぐる「堂々めぐり」であって、この堂々めぐりが続くかぎり、保坂和志が創造した小説に流れる時間は、クイちゃんにとって「赤ちゃんだったパパ」ともう死んじゃった「猫」がそうであるように、永遠のうちに置き去りにされ、記憶として存在しつづけていくだろう。

☆保坂和志『羽生 21世紀の将棋』(朝日出版社:1997.5.20)

 保坂和志と将棋。このミスマッチに興味を惹かれて、将棋ファンでもないのに、書店や図書館でさんざん探しまわって、ようやく見つけた時には本当にうれしくてワクワクしながら読んだ。将棋観戦記で有名な倉橋武二郎の娘が『季節の記憶』や『もうひとつの季節』のモデルとなった人物の奥さんだったり、学生時代の友人が『将棋世界』の編集長だったりすることが保坂和志と将棋の関係を解き明かすヒントなのではなくて、というより、そもそも「保坂和志と将棋」ではなくて「保坂和志と羽生善治」だったのだということがよくわかった。以前NHK教育の『未来潮流』で放映された吉増剛造と羽生善治との対談がとても面白くてずっと記憶に残っていたので、「保坂と羽生」だったらたしかに根深いところでつながっているかもしれないと思ったし、実際本書を読んでそのことが(言葉ではうまく表現できないけれど)よく理解できた。技術論や人生論として将棋を語るのではなくジャンル横断的に将棋を語ること、つまり「将棋が、他のジャンルと同様の、きちんと考え、論ずるに値するゲーム=ジャンルなのだという了解を作り出す」ことでもってインター・ナショナルならぬインター・ジャンルの方向へと将棋を開くこと、そして「一局の将棋とは、その将棋が固有に持った運動や法則の実現として存在するものであ」るという「将棋観」を持つこと。これが「序」で要約される羽生善治のすべてなのだが、それは保坂和志がめざしている小説そのものの要約でもあるだろう。

☆由布木皓人『看護婦と少年』(フランス書院文庫:1990.8.10)

 『この官能小説がスゲェ!』に載っていた井崎脩五郎と高橋源一郎の対談で、「日本ポルノ小説選考委員」の井崎氏が推薦しているのが由布木皓人(Kohjin Yuhki)で、その上手さは牧村僚と双璧で『看護婦と少年』は傑作ですと井崎が言うと、高橋が「一昔前の、新感覚派みたいな感じがあって、最大の魅力は、比喩がぶっとんでいるところかな」と応じている。(ちなみに高橋氏の推薦は新見彰で、『制服レイプ学園・陵辱クラブ』は「天才がたまたま書き残した、珠玉の一冊」なのだそうだ。知らなかった。)──その『看護婦と少年』の第8刷(1998年4月10日発行)をたまたま本屋で見つけたので、保坂和志の『もうひとつの季節』──「鎌倉・稲村ガ崎のあたりにはとくべつな時間が流れている 『季節の記憶』の続編、待望の文庫化 解説=ドナルド・キーン」(褌)──と一緒に買ったのは、けっして照れや目眩ましではなくて、どういう回路かは別としてこの二つの作品は「つながっている」と確信したからだ。で、どこがつながっていたのかというと、これがよく分からないながらもやはりつながっていた(ように思う)。

☆神崎京介『女薫の旅 衝動はぜて』(講談社文庫:2002.5.15)

 シリーズ第6弾ともなると、同じことが延々と反復されるマンネリ感がひとつの魅力になってくる。この作品──心身合一の純粋な性愛を描いた純愛小説にして非暴力的な教養小説(「女の躰はね、そういうものなの」)──が「読者の圧倒的支持」にささえられて現在も『週刊現代』で「好評連載」されている(と、著者紹介欄に書かれている)ことは、ひとつの社会心理学的考察の素材ではないかとさえ思う。

☆トルストイ『復活』下(木村浩訳,新潮文庫)

 読み終えて、なにかしら懐かしいものに触れた想いがした。

☆エルヴィン・シュレーディンガー『わが世界観』(中村量空他訳,ちくま学芸文庫:2002.4.10)

 前々から読みたいと思っていたので、文庫化されてすぐ入手してわりと丁寧に読み進めていったのだけれど、いまひとつ乗れない、というか肝心なところに触れられないままで終わってしまったような後味の悪さが残った。それは文章(翻訳)のせいでもシュレーディンガーの思索の屈折ゆえでもなくて、ただただ読み手の側の問題なのだと思う。もしかするととんでもない陳腐な哲学的駄弁の書なのかもしれないし、たとえば「不二の説」に圧倒的なリアリティ(もしくはアクチュアリティ)を感じることなく読んだところで何も残らない途方もなく深い世界へと導く書物なのかもしれない。要は読み手しだいなのだろう。

☆村上龍『悪魔のパス 天使のゴール』(幻冬舎:2002.5.10)

 作品のほぼ四分の一、九十頁にわたって繰り広げられるメレーニア vs ユヴェントスの壮絶な戦いと臨界点へ向かう熱気と心も凍る冷気が入り交じる観客席の描写は、あの『五分後の世界』の長い長い戦闘シーンをひょっとすると凌駕しているのではないかと思わせる興奮とカタルシスと痛切を湛えていた。著者は「あとがき」で「選手たちはピッチの上で、自分の物語などには関係なくシンプルにボールを追い、ボールを蹴っている。…ピッチは選手たちのものであり、選手たちの聖地だ。わたしは、サッカーがいかに魅力のあるスポーツかということを描きたかった」と書いている。この目論見はものの見事に成功していて、だからユヴェントスとの死闘を繰り広げる夜羽冬二が死のドーピング剤アンギオンに犯されているのかどうかといった「物語」的趣向などにはいっさい関係なく、私はただただシンプルに息をのんで冬二の「天使のゴール」が繰り出されるゲームの推移を見守った。その余の部分は、対パルマ戦と冬二の「悪魔のパス」が見られる対フィオレンチーナ戦の描写を除けば、DNAの剰余部分のようなもの、あるいは図と地の対比でいえば地であって、作家村上龍の濃度(強度・密度)の迸りとも筆の遊びとも言えば言える。村上龍は『奇跡的なカタルシス』で「サッカーのカタルシスは爆発的でそれがゴールという奇跡によって成立することを考えると宗教的ですらある。サッカーより刺激的な人生を送るのはそう簡単ではないような気がする」と書いた。これをもじるなら、サッカーより刺激的で宗教的な小説を読むのはそう簡単ではない。そのことを完璧に示したのがこの小説で、それは凄いことだ。

☆村上龍『アウェーで戦うために フィジカル・インテンシティV』(知恵の森文庫,光文社:2001.10.15)

 中田英寿には世界観がある。これは文庫解説で増島みどりが紹介している村上龍の言葉で、この後、二人の「アウェーの人」は出会うべきして出会った。村上龍が言う「世界」とは「アウェー」のことだと増島みどりは書いていて、「アウェーの概念は、一度体感したら忘れることができない。そしてそれはホームでの戦いの際に、自分を客観視するのを助けてくれる」と村上は書いている。この「世界観」と、組織的なサッカーとは組織への従属ではなく「内部構成員同士の相互信頼」(111頁)が確立されたサッカーのことだ、あるいは「スポーツを構成しているのはコミュニケーションだ」(43頁)と村上龍がいうときの「相互信頼」や「コミュニケーション」とを組み合わせるなら、それこそ脳の機能であり、意識が果たす機能である。

☆坂本龍一+sustainability for peace 監修『非戦』(幻冬舎:2002.1.10)

 倫理を語るのは言葉だから、自然であれ死者であれ未生の者であれ、物言わぬものを前にして倫理を語る言葉はない。言葉が途絶したところで、人はいかにして倫理を、つまり希望を語ればよいのか。言葉の無力にたじろいたり憤るのではなく、無力な言葉に未来を託すしかない生の実相の上に、事実を透視する想像力と祈りをつむぎだすしかないだろう。私は本書を、9.11後にかろうじて成り立つアンソロジー(詩歌集)の試みとして読んだ。

☆中沢新一『緑の資本論』(集英社:2002.5.10)

 本書は、ニューロサイエンスに裏打ちされた神学‐経済学原論である。《キリスト教的一神教と古典派経済学(さらには、西欧における生産・流通・分配の構造そのもの)の間には、いままで考えられてきた以上に、深い本質的な関係が存在しているのではないか。私たちは、これまで明らかにされることのなかった、神学と経済学を結ぶ「見失われた環」を再発見するための探求をはじめる必要がある。イスラームとキリスト教、同じ一神教の二つの文明圏における、今日の「衝突」が意味するものを最大の深度で理解するためにも、この探求は重要なのである。》(「緑の資本論──イスラームのために」,71-72頁)──認知論的考古学(スティーブン・ミズン『心の考古学』)が明らかにした大脳ニューロン組織の革命的変化から二万年、さまざまな機能に特化された諸領域を横断的に接続する新しいニューロン・ネットワークがもたらした「流動的知性」の働きの内部に横断性や変容性や増殖性よりもずっと根源的な「超越」のあり方を発見し、これを「一[いつ]」と名づけた「第一次形而上学革命」(ミシェル・ウエルベック『素粒子』)。この現生人類の「霊的」飛躍がもたらした「一神教的記号論」の思考は象徴界と現実界の直接的一致の原理に根ざしたものであって、想像界の魔術的・多神教的増殖性を、たとえば貨幣(シニフィアン)が父なき処女懐胎や自己増殖によって貨幣(シニフィアン)を生むことを否定する。以下、中沢節が続く。

☆藤本ひとみ『見知らぬ遊戯 鑑定医シャルル』(集英社文庫:1996.5.25/1993.7)
☆橘玲『マネーロンダリング』(幻冬舎:2002.5.10)

 込み入った内容の本を読む根気と気力が失せてしまったので、何か軽いフィクションを読みたくなって、あれこれ本屋で悩んだ末に選んだ。『鑑定医シャルル』シリーズ第一作は、漫画か映画で見るともっと面白かったと思う。『マネーロンダリング』は傑作。久しぶりに気分が高揚した。続けて国際金融モノを読むことにした。
 

★今月の棚卸し

☆佐々木毅・金泰昌編『公と私の思想史』(公共哲学1,東京大学出版会:2001.11.16)

 いくつかのスクラップ。――金泰昌氏の「公共性の捉え方」の三区分。1.国家と公共性を同一視する共同性の原理、2.公共性を個人の欲求・権利の確保・保護であるという前提に立つ自由(化)の原理、3.国家と個人との媒介こそが公共性であるという前提に立つ相互媒介(共媒)の原理。小林光夫氏が国際法における「コモン(共)とパブリック(公)の区別」という問題を提起。それを受けて福田勧一氏が、コモンとパブリックは「相互交叉的」に使われてきたと言う。《温暖化一つ見ても,これが単にコモンであるばかりではなく政治社会としての単位を重層化して考えるとしたらパブリック以外のなにものでもない.》(82頁)また小森光夫氏が、政府と地方自治体との関係の同じ構造ではないかと指摘している。間宮陽介氏の発言。《単に制度があるだけではパブリックではない.政府があるだけでもパブリックではない.何かをしているということがないとパブリックではないのではないか.だから,アーレントから汲み取るべきことは「言論活動」だと思う.もっと一般化して,「活動」があるから「公共空間」が作られるというふうなところへ持っていくと,共和主義だ何だという話にならないと思う.》(91頁)
 板垣雄三氏の「イスラーム思想史における公と私」からの抜き書き。──《イスラーム経済論の重要な柱は,(a)福祉目的税としての〈ザカート(喜捨=公共福祉税)〉の制度的充実であり,(b)不労所得としての〈リバー(利子)〉の禁止,それにともなう無利子銀行の活動であり,(c)情報ネットワークを通じたコミュニケーションの増殖による〈ムシャーラカ(パートナーシップ)〉の展開である.(中略)無利子銀行と〈ムシャーラカ〉は密接に関連するので,上記の(c)は(b)の一環として理解することも可能である.…出資者としての個人と銀行と事業プロジェクトが連携・協同し,各パートナーの自己責任において損益が分担される(PLS[Profit-Loss Sharing]方式). このような情報の公開と共有,出資者の責任ある参加によって,利子生みが回避されるだけでなく,〈私〉の〈公〉化および〈公・私〉の統合を達成することができる,と考えられている.ここでは,いわば高度情報化人間こそイスラームにおける人間の理想ということになろう.イスラーム経済論は,人間のホモ・エコノミクス化の性向を自覚しつつ,「経済」分野を他から分割して一人歩きさせることを拒否して〈タウヒード[一つにすること,一と決めること,一化]〉を実現しようとする〈ジハード(努力)〉の企てであるということができる.》(121-122頁)
 「発展協議」での板垣氏の発言。《私はおかしな言葉ですが,多元主義的普遍主義ということを言っております.タウヒードというのは,一つにするということのまず前提として,気も遠くなるほど,…頭が本当におかしくなるような,そういう多様性というか,差異に満ちた世界,宇宙の現実を認めて,その上で,これにめげずに,それを一つひとつ数え上げていくというタフな精神,それを私は「枚挙の精神」と言っているわけですが,そういうものに支えられるところで成り立ってくるような究極的統一の確信,これこそがタウヒードなのだと理解しております.宇宙から人生にわたるあらゆる事象現象が神の存在の「しるし」なのだとする確信する精神から科学は成立する,とイスラーム教徒は考えるのです./違いはいろいろあろうがともかく一つだ,一つにしてしまえというような暴力的な話ではないように思う.そこで多元主義的普遍主義と言ってみたりしているわけです.》(222頁)

☆中村雄二郎・木村敏監修『講座生命1 '96 生命の思索』(哲学書房:1996.9.10)
☆中村雄二郎・木村敏監修『講座生命2 '97』(哲学書房:1997.12.10)
☆中村雄二郎・木村敏監修『講座生命3 '98』(哲学書房:1998.12.20)
☆中村雄二郎・木村敏監修『講座生命4 2000』(河合文化教育研究所:2000.5.20)
☆中村雄二郎・木村敏監修『講座生命5 2001』(河合文化教育研究所:2001.8.1)
☆佐藤徹郎『科学から哲学へ 知識をめぐる虚構と現実』(春秋社:2000.9.25)
☆斎藤慶典『思考の臨界 超越論的現象学の徹底』(勁草書房:2000.1.10)
☆船木亨『〈見ること〉の哲学 鏡像と奥行』(世界思想社:2001.12.25)
☆船木亨『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書238,筑摩書房:2000.3.20)
☆山口義久『アリストテレス入門』(ちくま新書301,筑摩書房:2001.7.20)
☆市村弘正『増補 「名づけ」の精神史』(平凡社ライブラリー152,平凡社:1996.6.15)
☆白川昌生『美術、市場、地域通貨をめぐって』(水声社:2001.11.3)
☆竹田茂夫『信用と信頼の経済学 金融システムをどう変えるか』(NHKブックス917,日本放送出版協会:2001.6.30)

 自宅から四十分以内のところに公共の図書館が四つあって、合計すると最大二十三冊、それぞれ二、三週間の貸し出しを受けることができる。上記の十三冊は、ここ一月以上何度か継続を重ねて書棚に横積みにしておいたもので、時折ぱらぱらと頁をめくっては明晰な言葉にならない閃きのようなものに襲われ、しばし嘆息したものだった(これらの書物を微に入り読み通すだけの時間と気力と体力がない!)。書物の背を凝視するだけでその中身が透視できるのだと、日本のある哲学者が語ったとか語らなかったとか、誰かに聞いたことがあるけれど、そんな夢のようなことが実際に起こりうるにせよ、それを可能にするだけの緊張が持続するはずもなくて、とうとう読む前に疲れ果てて全部まとめて返却してしまった。