不連続な読書日記(2002.4)




★2002.4

☆青柳いづみこ『水の音楽』(みすず書房:2001.9)

 青柳いづみこの指先が紡ぎだす文章は美しい。北欧神話の海の女神ラーンのように「網をはり」、人魚伝説のルーツとなったセイレーンのように「ひきずりこむ」その言葉は、水の精をめぐる物語世界やドラマへ、そして水の音楽とピアニズムの分析へと読者を誘惑する。「女が子宮で考える、とよくいわれるのと同じ意味で、ピアニストもまた、指先で考える動物といえばいえよう」(プロローグ)。ピアニスト青柳いづみこの思索は、モーリス・ラヴェルのピアノのための組曲『夜のガスパール』第一曲の「オンディーヌ」とドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』のヒロイン・メリザンドとを結ぶ想像力の源流をたどっていく。──随所に織り込まれたギュスターヴ・モローやフェルナン・クノップフやロセッティのモノクロのタブローがイマジナリーな音の世界を沈黙のうちに指し示し、読み終えた時、私は音楽への飢渇感にさいなまれている自分に気づいた。──余談。著者のエッセー集『無邪気と悪魔は紙一重』(白水社)が出ているらしい。「清純そうにみえて、実は悪い女」がテーマで、小説やオペラの中のファム・ファタル二十四人を紹介している、と朝日の読書欄(2002.4.28)で著者自身が紹介している。このテーマだと、喜多尾道冬氏が『レコード芸術』に連載している「ムーサの贈り物」(サッフォーを取り上げた2002年5月号でなんと連載108回!)が素晴らしい。「倉田わたるのミクロコスモス」[http://www.rinc.or.jp/~kurata/]の「廃墟通信(2001年09月17日〜2001年09月23日)」に次のように書いてあるのをみつけて、いたく同感した。《私はこの雑誌を、数年前からほとんど、「ムーサの贈り物 絵画・詩・音楽の出会うところ」(喜多尾道冬)という連載コラムのためだけに購入していると言って良い。「こんな文章をつづって食っていければ良いな」、と、「ほんわかと」憧れてしまうような、素敵なコラムなのである。》

☆古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書:2002.3.20)

 澄みきった青空や冴えわたる星空を眺めていて、あるいは見入られながら、私はときおり「在る」ことをめぐる不可思議の眩暈にとらわれる。それは森羅万象がかく「在る」こと、そして純粋に感覚だけになった「私」という抽象物が絶対的な孤独感にくるまれながらそこに「在る」ことの不可思議感である。あるいは夏の炎天下、すべてが溶解し形を失いかけた街を影一つとなって歩行するとき、私は「歴史」というものの実在をめぐるある形容しがたい感覚にとらわれることがある。かつて「在り」今は「無い」ものの存在の影、響きの余韻、残像を介して「いま・ここ」に浸透してくるものの気配。以上、読後の個人的感想。──それにしても分かりやすい叙述だ。私はかつてこれほど平易なハイデガー入門書(出門書というべきか)を読んだ記憶がない。

☆細川亮一『ハイデガー入門』(ちくま新書:2001.1.20)

 かつて『存在と時間』を読んで、そこに出てくる「根本感情」や「不安」や「良心の声」等々のハイデガー語が煩わしくて仕方なかった。いっそ「X」や「φ」や「#」といった記号で表現してもらえればすっきりするし、結局そこでは何も語られていないことが判明するだろうと思った。『存在と時間』が無内容だとか荒唐無稽だと言いたいのではない。そうではなくて、この書物は何か名状しがたい根源的なものを立ち上げ読者すなわち私を揺り動かす不気味な力を漲らせているのだが、それがどこから来てどこへ導こうとするのか皆目見当がつかなかったのだ。このことと関係するのかしないのか判然としないのだが、細川氏は本書で、ハイデガーの「存在」テーゼ(存在とは「存在者がそのつどすでにそれへ向けて理解されているそれ(woraufhin)である」)や「意味」テーゼ(意味とは「そこから或るものが或るものとして理解される企投の Woraufhin である」)に出てくる Woraufhin という言葉に注目している。細川氏は本書で一貫して Woraufhin を「それへ向けてのそれ」と理解し、これを『存在と時間』における最も基本的で重要な術語の一つであると指摘している。そして Woraufhin からプラトンのイデア論へ、そしてアリストテレス存在論の核心的なテーゼ「存在者は多様に語られる、しかし一へ向けて(プロス・ヘン)」へと遡及していくのである。──本書の真骨頂は、ハイデガーはドイツ語での表現を大切に考える哲学者だから『存在と時間』を翻訳で読んでわかった気にならないでぜひドイツ語で読んでほしいと読者に要請し、子供が知らない漢字を読み飛ばして平仮名だけを読むような読み方や「おとぎ話(作り話)」による理解を峻拒する著者の態度にある。その意味で、本書は毅然たる入門書である。

☆リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(若島正訳,みすず書房:2001.12.20/1995)

 リチャード・パワーズの第五作は、自作をめぐるさりげない自己言及──《ところがキャプションはまったく違うことを語っていた。舞踏会へ向かう三人の農夫たち、一九一四年。(略)僕はこれまで見たこともないのに見憶えがあるというショックを味わった。僕がこれまでに読んだあらゆるテクストが収束する無限数列を成し、帰納的に求められる、自明な次の項を呼び求めている。写真が扱っているものとキャプションが名指ししているものとのあいだのあの狭い空間の中に、僕は僕の物語を見つけた。》(123-124頁)──を織りまぜながら、過去と現在の物語の同時進行を通じて不死なるものと魂、記憶と永遠、生命(肉体)と物語(心)のパラレリズムを、そして人間(作者)を愛してしまった人工思考体(作品)の自死(気高い退化)の物語を叙述している。《ヘレンは知っていた。集めた情報から考え出していたのだ。彼女になにも隠しだてはできない。心はすでに失ったものを蓄えるために永遠を作り出すことを、彼女は知っている。物語は、時を超えた言葉を投函することができなくて、「今」が家を出る前の瞬間にその言葉を呼び戻すことも、彼女はとっくに学んでいた。》(373頁)──ガラテイアはギリシャ神話でピグマリオンに愛されアフロディテに命を吹き込まれた彫像のこと。それでは「2.2」は何を意味しているのだろう。たとえば『論理哲学論考』の命題2.2は「像は写像の論理形式を写像されるものと共有している」(奥雅博訳)で、『存在と時間』第一部の第二編第二章には「良心の呼び声」をめぐる議論が出てくる。これらが「2.2」の暗示を解く鍵なのだろうか。たとえばヘレンとパワーズが共有していた論理形式が「愛」であるとか、本書には声の問題──「欲望とは…記憶の声紋である」(91頁)あるいはヘレンに対するチューリング・テストの題材が『テンペスト』からの引用(「…この島には声がいっぱい…」:390頁)であったこと──が伏在している、などと言うことができるのだろうか。

☆柴田元幸編『パワーズ・ブック』(みすず書房:2000.4)

 少し前に柴田元幸訳の『舞踏会へ向かう三人の農夫 Three Farmers on Their Way to a Dance』(1985)が評判になって初めてその名を知ったリチャード・パワーズはとても気になる存在だった。アウグスト・ザンダーの有名な写真との出会いから始まる処女作の第十九章で、パワーズはベンヤミンの「複製技術時代の芸術」からの引用を交えながら写真・映画の編集をめぐる議論を展開している(らしい)。そういえばザンダーの名は『図説 写真小史』のベンヤミン「写真小史」やデーブリーン「顔、映像、それらの真実について」に出てきたし、このことは本書に収められたエッセイの中で伊藤俊治氏と坪内祐三氏が指摘しそれぞれのパワーズ論の枕においている。いずれにせよパワーズは一筋縄ではいかない作家である。『ガラテイア2.2 Galatea 2.2』(1995)を読み終えてつくづくそう思う。

☆ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』(久保哲司編訳,ちくま学芸文庫:1998.4.9)

 ベンヤミンの「写真小史」は、「芸術としての写真」から「写真としての芸術」が自立・自律していく過程(それは写真からアウラが失われていく過程でもある)をこの世のものとは思えない(天使的な?)感覚をもって透視し、その決定的な契機を奇跡的な文章のうちに定着させた傑作エッセイだ。《カメラはますます小型になり、秘められた一瞬の映像を定着する能力はますます向上している。こうした映像が与えるショックは、見る人の連想メカニズムを停止させる。この箇所においてこそ、写真の標題というものを用いるべきである。それによって写真は、生活状況全体の文書化の一環となる。(略)標題は写真の最も本質的な部分になるのではないか。》(53-55頁)

☆ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健二郎訳,ちくま学芸文庫:2001.10.10)

 ベンヤミンの博士論文はたぶん二百年以上の長きにわたって政治と表現を含む西欧精神史の基底をなしたに違いない初期ロマン主義の実質を余すところなく叙述しきっている。私にはとりわけノヴァーリスの神秘的術語群(累乗、ロマン化、律動、無限、自己浸透、観察=実験=翻訳、等々)に拮抗する数々のベンヤミン語(叙述=析出、ロマン主義的メシアニズム、反省媒質、質料的浸透、反省の胚細胞、秘儀、等々)の光彩が眩しかった。その構成は実にシンプルだ。第一部「反省」の末尾で示される「ロマン主義の対象認識理論の根本命題」──《すなわち、ある存在[本質[ヴェーゼン]]が他の存在[本質]によって認識されることは、認識されるもの(das Erkenntwerdende)の自己認識、認識する者(der Erkennende)の自己認識、および、認識する者がその認識対象である存在[本質]によって認識されることと、同時に起こる(zusammenfallen[一致する、同じものである])。》(112頁)──が、第二部「芸術批評」での「批評が芸術作品の認識であるという限りにおいて、批評は芸術作品の自己認識である」(133頁)とか「批評による作品の破壊」(177頁)といったベンヤミン特有のモティーフへと反復されていく。──浅井氏が「解説」で書いているように、認識者(=ベンヤミンの思惟ないし批評理論)がその認識対象(=初期ロマン主義の思惟ないし芸術理論)によって認識されることの「ひとつの姿を、われわれは目撃しているのである」(453頁)。そして読者(=認識者)もまた書物(=認識対象)によって認識されている。

☆佐倉統『進化論という考えかた』(講談社現代新書:2002.3.20)

 本書は二つの部分に分かれている。著者はまずダーウィン理論の真髄と現代性──「生物の進化を集団の振る舞いとして考えること」と「メタ理論としての自然選択説」(あるいは進化理論のアルゴリズム的性質)──を指摘する(第1章)。次いで現代進化論の四つの転換のうち動物行動学と社会生物学を「人間」というキーワードで括り「進化理論による人間観の地殻変動」や言語進化、意識の問題を考察し(第2章)、続けて「情報」のキーワードのもとで分子生物学と生命情報論を概観し人工生命やミーム、非生命の歴史にまで説き及ぶ(第3章)。ここまでが前半で、後半では一転して「科学と思想のインターフェイス」や科学技術と社会の関係の問題が扱われる。まず自然主義と人間主義をリンクさせるコネクターであり科学の成果を使いこなすツールともなる「生物学の哲学」(健全な自然主義)の必要性とその課題が一般的に論じられ(第4章)、これを受けるかたちで自然科学と人文・社会科学の橋渡しをする「第三の文化」(ブロックマン)の駆動装置としての進化論の可能性(さまざまな現象をつなぎ合わせる文脈生成機能=個別現象への意味付与機能=科学技術と社会との往復運動を橋渡しする物語機能)が展望される(第5章)。本書の真髄が後半にあることは間違いないのだが、前半と比較して構成にまとまりがなくやや散漫な印象(この前半と後半のインターフェイスにあいた穴は各章の扉と本文で一度引用された村上春樹の文章が埋めてくれる)。たとえば「生物学の哲学」をめぐる叙述は生煮えではないかと思う。でもその分読者への訴求力に富んでいる。観賞用の出来合の物語ではなくて読者自身の思索と実践を促す論点や素材の提供に徹したものと受け止めれば、それはそれで結構面白い。とりわけ物語論、というよりメタ物語論が刺激的だった。

☆坂本百大・監修『3日でわかる哲学』(ダイヤモンド社:2002.3.14)

 本書は随分とバイアスのかかった哲学入門書だ。監修者はまえがきで、科学は再び「諸学の学」すなわち「科学哲学」であろうとしている、と書いている。この編集方針をバイアスというのではない。扱われる科学がかなり生物学に偏向していることをいうのでもない。それはそれでひとつの見識だと思う。執筆陣(江川晃、金森修、河本英夫、高橋昌一郎、田中裕、樽井正義、西脇与作、成田毅)がいったいどのような読者層を想しているのか疑ってしまうほど唐突に概念や自説を提示し、しかも信じられないほどに圧縮された字数の中で語っていてろくに参考文献も示さない、そのおよそサービス精神の欠けた徹底的な利己的な姿勢をバイアスと表現したのだ。実をいうと私は本書をくさしているのではない。結構面白く読んだし(書かれていない部分に)刺激も受けた。3日で分かる? こんな分量で何が書けるのか! そんな憤りを覚えながらしかも手抜きをしない潔さ。ベンヤミン流にいえば、本書はモザイクのように思考細片がつめこまれた現代のトラクタートなのだ。

☆津田一郎『ダイナミックな脳──カオス的解釈』(双書 科学/技術のゆくえ,岩波書店:2002.3.25)
☆津田一郎『複雑系脳理論 「動的脳観」による脳の理解』(臨時別冊・数理科学SGCライブラリ13,サイエンス社:2002.2.10)

 前著は一級カオス鑑定士にして脳のカオス的解釈学の提唱者「木偶の坊博士」と二人(二匹?)のデーモンTとOによる津田版『新科学対話』。(デーモンには本来名前がない。デカルトのデーモンであれラプラスのデーモンであれマクウェルのデーモンであれデーモンはデーモンであって、それはアトムやモナドと同様のことだ。そもそもカオスと対になるデーモンといえばラプラスのそれ、つまり完全情報を持ちすべての個人的経験を時間順序に従って正確に記憶し共有しあうデーモンのことではないか。なぜ二人なのか、なぜTとOなのか。超越者と観察者の略称なのだろうか。本書に仕組まれたこの謎は私には解けない。)──著者によると前著と後著は対をなすもので、デカルトの『省察』に対する『方法序説』に相当するが『複雑系脳理論』に対する『ダイナミックな脳』なのだそうだ(デカルトの方法が旅にあったのだとすれば、津田氏の方法はデーモンとの対話による「カオス的遍歴」にある?)。私には木偶の坊博士とデーモンたちによって縦横に論じられた事項に即してあれこれ述べる力量はない。ましてや『カオス的脳観』(1990年)の改訂版として、そして大学院過程のテキスト・参考書として著された『複雑系脳理論』で展開された省察の内容を咀嚼し評価することなどできない。でも、振り返ってみると途方もない起爆力を孕んだアイデアがそこに鏤められていたことが判明する、といった事態が津田氏の著書には生じているのではないかと思う。《私たちは脳と心を記述する第三の言語を望んでいるのだ。》(74頁)──「カオス言語」(クオリア付き言語?)へと向かう津田氏の「導き」(=インテンショナリティ:28頁)はニューラルネットに潜むデーモンの影を垣間見せてくれる。

☆トルストイ『復活』上(木村浩訳,新潮文庫)

 時々思い出したように「世界名作文学」が読みたくなる。トルストイは『戦争と平和』を読み終えたあと『アンナ・カレーニナ』が半分までで一休み中(もう何年になることだろう)。『復活』は冒頭のネフリュードフとカチューシャの出会いと残酷な別離のあたりで凍結状態。キルケゴールの『反復』と組み合わせていつか続きを読みたいとずっと思っていた。『反復』は一昨年ようやく最後まで読んだ。次は『復活』だ。《男と女の愛情には、かならずその愛情が頂点に達する瞬間があり、その瞬間には意識的に抑制も感覚もすべて失われてしまうものである。ネフリュードフにとっては、復活祭の前夜こそが、まさにそのような瞬間であった。(略)ああ、もし何もかもあの夜いだいたあの感情のままでとどまっていたとしたら、どんなによかったものを!》(92-93頁)──ここに描かれたカチューシャは可憐で美しい。

☆清水徹『書物について その形而下学と形而上学』(岩波書店:2001.7.25)

 死者を葬った場所、畏怖すべき、あるいは忌避すべき聖なる場所を示すために野原に目印として置かれた石。これを書物の起源と考えてみたらどうだろう、と著者は言う。すなわち、何らかの「支え」となるもののうえに記号が載せられていて(書物を定義するための第一の条件)、時間が経過しても、それを眼にするとき、その記号に託された意味作用がそこで再現されるような(第二の条件)、時間を征服した物質的装置。書物とは、まず、そういう物体である。(この意味では、たとえば壁面をモザイク画で埋めつくした大聖堂も、墓碑銘を刻まれた墓所も書物である。あるいは図書館や劇場や世界もまた書物でありうるだろう。)そして記号が、一定の差異の集合としてのコード体系への参照において意味作用をおこなうようになったとき、つまり文字記号となったとき、さらに持ち運び可能となったとき(第三の条件)、空間をも征服した言語装置としての書物が成立する。──ここに示された書物の物質性(形而下学)と象徴性(形而上学)を交錯させながら、著者はその流麗な、薫りたつ文体でもって、古代オリエントの音声言語からギリシャを経てアレクサンドリア図書館へ、聖書へ、『神曲』から中世彩飾写本へ、そしてイエナ・ロマン派から最後のロマン主義者マラルメへと至る西欧の「文学的近代」の百年の叙述、マラルメの三人の弟子をめぐる現代の物語へと、細部を愛おしみつつ悠揚と筆を進める。まことに絢爛な書物である。私はしばしば陶酔し、愉悦のうちに時を忘れた。

☆ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人』下(三浦陽一他訳,岩波書店:2001.5)

 上巻が敗戦後の民衆と文化と革命(精神)をめぐる過去の物語であったとすれば、「さまざまな民主主義」(天皇制民主主義、憲法的民主主義、検閲民主主義)と「さまざまな罪」(勝者による戦犯裁判、死者に対する懺悔)と「さまざまな再建」(占領軍の経済政策)を取り上げた下巻は、政治と経済をめぐる現代の物語である。上巻に収録された写真が何かしら懐かしさを喚起する「記憶」のインデックスであるのに対して、下巻のそれ、たとえばマッカーサー元帥と天皇裕仁の初会見時の写真や無名の戦争犯罪人の絞首刑の写真は、あまりに身近すぎて客観化できない無意識、あるいは起源神話ともいうべき「忘却」を形象化するアレゴリーである。──敗戦と占領を経て現代の思想状況や社会システムのうちに引き継がれたものを端的に言い当てる言葉は「ダブルスタンダード」と「ハイブリッド」である。

☆香山リカ『多重化するリアル 心と社会の解離論』(廣済堂ライブラリー011,廣済堂出版,2002.1.1)

 故・安克昌(阪神・淡路大震災後広く語られるようになった「トラウマ」や「心のケア」という語は、安克昌を中心とする精神科医によって神戸から全国へと浸透していった。著書に『心の傷を癒すということ』)に捧げられた書物。解離は、病理なのか、現実への適応なのか、あるいは人間の進化なのか(あとがき)。──「トラウマなき多重人格」をめぐって、アカデミズムとサブカルチャーを往還する(ただしその個々の引用、言及は、刊行物の性格に即してなのかそれとも著者の戦略なのか、きわめて表面的だ)議論のはてに示された著者自身の回答。《ここでさらにラジカルに、こんな空想をするのはどうだろう? 私たちは近代以降、ずっと「統合された自己」というものの存在を前提に思索し、社会システムを作り上げてきたわけだが、はたしてそれは正しかったのだろうか。「ひとつの心、ひとつの現実」じたい、私たちが作り上げた幻想でしかなく、自己も現実も実はもともと多重多層なものなのではないか。そうだとしたら、私たちはやっと世界の真実の姿を目にしはじめ、あるべき自己の姿を取り戻そうとしているところなのかもしれない。》(181頁)しかし、このどこかラジカル(根源的)なのか。はたしてそれは「最終」回答なのだろうか。「あるべき」議論はそこから始まるのではないか。──本書について、斎藤環は『大航海』(No.42)での東浩紀との対談で、「エッセイの寄せ集めなのでちょっと雑なところもありますが、まさにモジュールの実現化みたいな話です」(81頁)と語っている。ここに出てくる人の心の「モジュール集合体仮説」への批判については、斎藤「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」(『批評空間』III−1)を参照。

☆金塚貞文『マリー・アントワネットは夜、哲学する』(三笠書房:2001.11.10)

 土屋恵一郎、田原八郎、そして金塚貞文の三人の異能の哲学者(異端・異例あるいは肉体派・舞踏派・武闘派・生理派等々の哲学者と言ってもいい)にはずっと興味をもってきた。金塚氏の本は『オナニスムの秩序』『オナニズムの仕掛け』『人工身体論』の三冊まで読んで、その後出た『眠ること夢みること』や『デカルトの鏡』は未読。本書は、「淫ら」であったがゆえに(?)ギロチンで首をはねられてから二百年、いまや考えることだけが退屈を紛らわす唯一の楽しみになったマリー・アントワネット──「だって、そうでしょう? 身体から切り離された頭に他に何ができるでしょうか」──が八夜にわたって繰り広げる何もなかった初夜の出来事からその後の放蕩、レスビアン、不倫、SM、フェルセン伯爵との生涯一度の命を賭した愛、そして近親相姦(仮想としての)にいたる生涯のエピソードと、性欲や性的快楽をめぐる(死後の)思索の開陳である。前代未聞の奇書にして、きわめてまっとうな性欲哲学。以下、マリー・アントワネット「夜の哲学講座」からの名言をいくつか。──「わたしは、こういうふうに、格闘技のように考え抜くことが、哲学することだと思うの。」「わたしが一生懸命、二百年かかって、考えた結論は、「[セックスとは]エッチすることである」という、まさしく単純明快な、アホのような結論でした。(中略)「エッチって何だ?」って問われたら、…そうね、「セックスについて想い描いているイメージ[性的幻想]を自分の身体で演じること」って言ったほうがいいかしら。(中略)それはこうも言い換えられますね、「セックスとは、性欲なるものを身体で演じることである」って。」「性欲は自然の衝動だから抑えが効かないだとか、セックスは自然で美しいものだとかそういう物言いはもういいかげんに止めましょう。自分の都合のいいように自然を使うのは、「自然破壊」というものではないでしょうか。」「愛するとは、愛する相手に、愛されていることを一瞬たりとも疑わせぬ不断の努力なのではないでしょうか。(中略)だから、わたしは臆せずに言います。わたしは、愛している、愛おしく思っているということを一途に演じ通したって。それが、それこそが、わたしにとって、愛するということの真実だったって。」「これは私の思いつきですが、…近親相姦の禁止、そのタブーとは、子どもに対してよりも、むしろ母親に対して、より強く働いているもので、母親に母性を強いるための仕掛けのようにさえ思えてくるのです。近親相姦願望によって、子どもは性に目覚め、そのタブーによって母親は母性に目覚めなければならないというわけなのでしょう。」「性欲なんていう制服は脱ぎ捨てましょう! そうしたら、セックスだって、異常だとか、偽物だとか、やたら排他的な「自然の性欲」にとらわれないで、もっと自由な、もっと創造的な、もっと愉しいものになるに違いないのです。空想するだけで、何かワクワクしてきませんか。」

☆養老孟司・甲野善紀『自分の頭と身体で考える』(PHP研究所:1999.10.4)

 以前、養老・甲野『古武術の発見』(光文社カッパサイエンス)を読んで、いたく感銘を受けたことがある。それから七年、過激で辛辣でいながら品格を損なわない大人の本質談義をふたたび満喫した。目次の小見出しがとてもよくできていて、臨場感があふれている。──「養老節」から、科学をめぐる発言を少々。《…池田清彦さんじゃないけれど、僕は科学を信じてませんよ。科学は方法論ですもん。何にも保証しません。(中略)その必要[宗教による社会的押しつけに対抗して、カチっとした手続で「やっぱりこうじゃないか」と実証してみせる必要]がないところで科学と言っても、そんなもの全然、本気ではないわけです。鴎外が書いているように「かのように」の世界ですから。だから日本は科学風とか、科学的というのは成り立つけれど、科学は成り立たない。》(53-55頁)《「あなたのやってるのは科学じゃない」と言われるから、「それじゃ、今、そっちが言った、『あなたがやってるのは科学じゃない』っていう言葉は科学か」って僕は言い返すの(笑)。それは哲学ですもん。/そうすると「私は哲学はやってない」とそういう人は言う。「お前の頭はどうなってんだ」って言いたくなるでしょう。科学とはこういうものだというのは、完全な哲学ですからね。》(60-61頁)──甲野氏の養老評が決まっている。《以前、ある人が、信頼できる人の条件の一つとして、「少年の面影をどこかに持ち続けていること」と言われていたが、養老先生は、現代では数少ない、大人の上品さと、純さ、そして、少年の心を持ち続けている方のように思える。》(おわりに)

☆野村万之丞『マスクロード 幻の伎楽再現の旅』(NHK出版:2002.1.25)

 GWの前半、二本のビデオを観た。青山真治監督の『EUREKA(ユリイカ)』と滝田洋二郎監督の『陰陽師』。『EUREKA』の「三時間三七分の旅」(阿部和重 http://boid.pobox.ne.jp/critic/abe1.htm)はちょっと比類のない映像体験で、たぶん生涯忘れられない作品になると思う。『陰陽師』は岡野玲子版の奥深さにはとても及ばないし、ドラマとしてはNHK版の方が好みだけれど、娯楽映画としては悪くない。サイボーグ・萬斎の演技はちょっとイメージが違ったが、これはこれでいいと思った。その萬斎ならぬ万之丞さんが、雲南、ブータンからチベット、新彊、インドへと幻の芸能・伎楽のルーツを訪ねるフィールドワークの旅に出た。『マスクロード』はその十年にわたる源流遡行と「真伎楽」復元の記録である。──仮面は「隠す」と「見せる」、見えない神と見えない人の心、過去と未来を繋ぐ多表情なインターフェイス・装置であり、主観・客観・大客観(大客観とは第三の視点、たとえば茶室で亭主と正客の「見る・見られる」という関係を「見ている」次客の視点をいう)の三つの視点を持った生きた「無形文化」(歴史の生き証人)である。ヨーロッパ演劇武者修行でイタリアの仮面劇「コンメディア・デル・アルテ」が残存する仮面をもとに復元された経緯を知った若き日の著者は、中世初期に滅びた仮面劇「伎楽」の再現を志し、伎楽面復元の終了とともについに十四種の仮面のルーツをつきとめ、環境芸術であり「哲学娯楽」でもある伎楽の意味を解明する。《私は伎楽は太陽を信仰し、火を見つけた原始の人々が、どのように自然と共生したらよいかを考えたエコロジー劇だったと考えている。決して仏教芸能や演劇というカテゴリーの小さなものではない。自然と共生する人間の叡智を表した、人類が最初に考えた芸術、それが伎楽なのである。》(239頁)──イタリアでの経験を通じて「世界中、仮面だらけなのだ」(48頁)と喝破した著者は、本書のあとがきで「二十一世紀は仮面の時代になると信じている」と書いている。それは多神教の時代というより、見えないもの同士を繋ぐインターフェイスとしての「哲学娯楽」(アート・オリンピック)の時代を意味している。《仮面を失い、仮面の心を忘れた人々は、不安の解消法を失ったのも同然である。仮面を失ったものたちの画一的な発想こそ、アメリカンスタンダードであり、それに対抗するイスラムの、テロリズムに訴えてでも世界をイスラム一色にしようとする発想ではないか。私は、二十一世紀の平和はアジアの中で仮面の心を伝え続けている人々によってつくられると信じている。多様な文化や思想を包含し、見えない物を信じる仮面の心こそ、様々な不安にさいなまれている現代人に必要なのではないか。私は同時多発テロ事件をきっかけに、仮面によって世界を繋ぐマスクロード・プロジェクトを実現しなければならないと、一層強く考えるようになったのである。》(210頁)

☆鹿島茂『愛書狂』(角川春樹事務所:1998.3.8)

 前著『子供より古書が大事と思いたい』から二年、自称B級コレクターの鹿島氏が自身の「マイ・コレクション王国」から二十五冊の十九世紀ロマンチック挿絵本を選んで、生前の遺書ならぬ「競売カタログ」を製作した。このての書物については、何か気の利いた寸評をくわえようなどとは思わず、ただただ眺め、呆れかつ賛嘆すればよい。──たとえば、著者贔屓の挿絵画家グランヴィルの『もうひとつの世界』(ボードレールにとってさえ不可解・不愉快と感じられ、唯一ルイス・キャロルに強い影響を与えただけで、二十世紀にシュルレアリストに評価されるまで八十年間、古書コレクターの本棚で眠っていた)について、著者は「これはもはや「挿絵」とか「イラストレーション」という言葉を使うべきではない。むしろ、グランヴィルの画集に「挿文」がなされたというべきだろう」と書き、グランヴィルの次に好きな似顔絵画家時代のナダールの『現代の顔』について次のように書いている。ただただそういうものかと納得するしかない。《ナダールは、かならずしも絵のうまいイラストレーターとはいえないが、ことカリカチュアに関しては、独特のスタイルを持つ画家で、一見見ただけでナダールのものと見分けがつく。とりわけ、誇張されて大きく描かれている顔は、その人物のもっとも特徴的なプロフィールを瞬間的にとらえていて、ナダールが、肖像写真家となる前から写真家であったことを物語っている。ナダールにとって、写真とは、カリカチュリストとして彼が心の中で捉えていた有名人たちの表情を、印画紙の上に「物質的に」定着して確認する手段にすぎず、写真の中の彼らは、ナダールの「解釈」を経て、そこにいるのである。》──マイ・フェイバリット・グッズを語るには、藝が要る。

☆宮本久雄・岡部雄三編『「語りえぬもの」からの問いかけ──東大駒場〈哲学・宗教・芸術〉連続講義』(講談社:2002.3.15)

 本書は…「語りえぬもの」のポリフォニィーにみちた魅力ある「語り」なのです(宮本「序」)。わたしたちが自由に語れるのも、気ままに空想を遊ばせうるのも、そしてなによりも活き活きと生きかつ創造しうるのも、語りえぬものがあればこそです(岡部「おわりに」)。この二人の編者の言葉の間に、編者自身を含む十一人の講師による一、二年生を対象としたテーマ講義の記録。──たとえば、第1講で野矢茂樹氏は、ウィトゲンシュタインの『論考』がしかけてくる退屈の罠から逃れるために、「無限とは本質的に退屈なのだ」(そして、人生も)という構成主義的無限論の立場を保持しながら、思考可能なものたち(語りうるものたち)の総体は不動ではない、だから「いつか新たな思考の可能性が開けるかもしれない」という期待あるいは「予感」(野矢氏はそれを「野生の無限」と呼ぶ)に賭けて、「なるほど、語りえぬものについては、沈黙するしかない、だが、語りえぬものを語りえぬままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない」と語る。続いて門脇俊介氏が、二十世紀の哲学者にとって語りえぬものの別名であった「世界の神秘」をめぐって、ハイデガーの哲学は、ハイデガーが人工的に仕組んだ世界の「故障状態」(そこにおいて、世界という語りえぬものが一瞬われわれの経験において閃く)だったのではないかと語る。そのハイデガーが愛してやまなかったエックハルトについて、岡部雄三氏は第8講で、「エックハルトにとって、自己を荒野化する、無化するとは、…自己を空にし透明化することによって自己の臨界を明確に線引きし、語りえぬかのもののエネルギーをその自己のうちに自由かつ個性的に噴出させ体現させることにほかならなかったのです」と語る。最終講義で沼野充義氏が、「個の魂に宇宙を見る」ロシア・コスミズムの香気をふりまきながら、「文学的創造とは、「表現されないもの」と向き合い、かりにそれを克服できなくとも、表現されえないものがいかに表現されえないかということを表現しようとする過程から成り立ってきた」と語る。────「語りえぬもの」の語り(哲学の思考)と表現(芸術の美)、そして「語りえぬもの」との対峙(宗教の智慧)をめぐるこれらの連続講義を総称する言葉は、「科学基礎論」(デカルトの哲学の樹の根っこにあるもの)なのではないか。(本書を読んで、なぜか富岡幸一郎『使徒的人間』を想起した。)
 

★今月の棚卸し

☆福田和也・柳美里『響くものと流れるもの 小説と批評の対話』(PHP研究所:2002.3.15)

 天才・福田和也の著書はいつかまとめて読もうと思いながら果たせないまま、日々積み上げられていく膨大な物量に圧倒されている。とりあえず『奇妙な廃墟』と『日本人の目玉』を読んでみよう(本書に収められた対談で柳美里がこの二冊を読んで「天才だと思いました」と言っている)。柳美里の文章はこれまで一字一句たりとも読んだことがなかったし、処女小説「石に泳ぐ魚」をめぐる訴訟沙汰やサイン会の事件にも全く関心がなかったのだが、少し興味を覚えたのでいつか読んでみよう。それから「セリーヌ全集」もまとめて読んでみたいと思った。(まとめてとかいつかとか言っているうちは、まあ駄目だろうけれど。)

☆村上龍『だまされないために、わたしは経済を学んだ』(NHK出版:2002.1)

 副題は「村上龍 Weekly Report」で、JMM(1993年3月〜)に毎週掲載されたエッセイを「二十世紀最後」の分まで93本収録している。途中からはリアルタイムで読んだ(はず)。《日本の金融・経済のシステムの変化は日本人の意識の変化を促すだろう。また、日本人の一人一人の意識の変化が日本の金融・経済システムの変化を加速させることになるはずだ。》(「002 システム」)──この言葉は、まったく正しいと思う。

☆岩本和明『意識の森の恋人たち』(文芸社:2000.11)

 書名に惹かれて手にした。第一章「神々の秩序」でいきなりフィボナッチ数の神秘を手がかりにあらゆる宗教教義の根本をなす普遍公式(「φ−φexp-1=1」:φ=「美、愛すること」,φexp-1=「私を考える私」,1=「他者、愛する人、生の根源」)を提示した著者は、バックミンスター・フラーの洞察と「知性への愛」に導かれて神々への感謝を捧げつつ、意識発生原理の探求(第二章「美の発見者大脳神経細胞の興奮システム」)を経て「人を愛すること」あるいは「魂の住みか」としての「意識の終着駅」(第三章の章名)へと読者を誘う。そして第四章「水と光の意識協奏曲」で記憶と言語を司る水と光の波動システムを解明する。どこまで正鵠を得ているのか私などには見当すらつかない科学理論や仮説の引用と妙に生々しく卑近な社会事象への言及が綯い交ぜになった奇書(私はこの言葉を好意的に使っている)である。「若き人々にとっての活力ホルモンは、性ホルモンである。性ホルモンの横溢と捌け口に呻吟する男子高校生と、性ホルモンによる子宮の疼きと膣壁の蠕動に連動して波立つ異性への憧憬で美しく輝く女子高校生にとって、彼ら彼女らの無意識(不随意)の行為は何か。異性への視線での接吻である。教室での窃視である。躊躇なき男根の律動である。禁忌の忘却である」(129頁)と語る著者は神戸で国語の高校教師をしているらしい。

☆木田元・編『ハイデガー本45 西洋哲学のハードコアを読み解く』(平凡社:2001.8.20)
☆木田元・編『思想読本[3] ハイデガー』(作品社:2001.8.10)

 同じ年の同じ月(ただし発行日は違う)に同じ編者によるハイデガー関連本が出る。これはどういうことなのだろう。時代はハイデガーを求めている?

☆大村幸弘(文)・大村次郷(写真)『カッパドキア──トルコ洞窟修道院と地下都市』(集英社:2001.4.25)

 以前、テレビ番組の「世界遺産」でカッパドキアが取り上げられていて、激しく心を揺さぶられながら観た記憶がある。その時揺れ動いた心は、想像力とも歴史感覚とも集合的無意識とも地球の記憶ともなんとでも名づけることはできようが、そもそもそうした心の動きを喚起するものはいったいなんと呼べばいいのだろう。大村次郷さんの写真をじっくりと心の中の無数の襞のうちに染み入らせるようにして眺めながら、はるか後世、たとえばハリウッド映画が徹底的に利用し尽くすことになる人類の心の洞窟と地下世界のイメージの祖型ともいうべきアナトリア一万年の歴史に思いは飛翔した。

☆細江英公・澤本徳美『写真の見方』(新潮社:1986.7.25)

 古い写真を眺めていると、インスピレーションをかきたてられ詩魂を揺るがされるのはなぜだろう。これは私自身の経験から思うことなのだが、詩は単品ではなく詩集で、それも複数の詩人によるアンソロジーで読むのが一番いい。それと同じことが写真にも言える。一枚の写真は、それが傑作であればなおさらのこと印象が強烈すぎる。濃すぎるのだ。一枚の写真に拮抗するだけの濃度が足りない。複数の写真を組み合わせて見て、はじめてバランスが回復する。──清水徹氏の『書物について』にリーヴル・ダルチスト(Livre d'artiste:Artist's book)の話が出てくる。「改めて私の考えを言えば、《リーブル・ダルチスト》とは書物であると同時に美術作品でもあるのであって、そこでは何よりも形象との相互浸透において言葉を読むという営みが最上位に置かれねばならない」(378頁)。写真に拮抗するには言葉を紡ぎ出すしかない。

☆飯沢耕太郎『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書:1996.2.20)

 著者が館長兼学芸員を勤める写真美術館は五つの展示室で構成されている。第一室「光学・発明・絵画」、第二室「鏡・肖像・裸体」、第三室「風景・モノ・都市」、第四室「出来事・社会・私」、第五室「色・複製・フレーム」。その各部屋の案内(目次)と図版を眺めているだけで、そして学芸員による懇切な、でも耳に障らない解説にふと聞き入ってしまううち、いつしか「技術」(縮小技術=機械的複製の方法)と「呪術」の境界線の移り変わり(ベンヤミン「写真小史」)を高速度で一望できてしまう。──「写真には意識よりも無意識の方がよく写ってしまう」(6頁)。「写真は…さまざまな読みとりの可能性を含みこんだ、無尽蔵のデータ・ベースなのです」(206頁)。プロローグとエピローグに記されたこの二つの言葉の間を、88枚の厳選された図版が埋めている。まことに懇切な書物。

☆『大航海』42号「特集 ゲーム 戦争/IT革命/遊戯」(新書館:2002.4.5)

 斎藤環×東浩紀「工学化する社会/動物化する人間」と木田元×三浦雅士「『マッハとニーチェ』を読む」の二つの対談を読んだ。大澤真幸「マルチストーリー/マルチエンディング」や橋爪大三郎「言語というゲーム/社会というゲーム」や野矢茂樹「立ち話でなんだけど、少し言語ゲームについて話をしようか」などもいずれ読むつもり。

☆『批評空間』第V期第1号(株式会社批評空間:2001.10.1)

 たまには全編読み通そうとがんばるつもりだったが、またつまみ食いで終わっていまいそうなのでこのあたりで中間総括。(やはり新鮮なうちに一気読みでいかなければだめだ。)斎藤環+中井久夫+浅田彰の共同討議「トラウマと解離」と小泉義之「ドゥルーズにおける意味と表現」が面白かった。西部忠、斎藤環、岡崎乾二郎の文章もいずれ読むつもり。