不連続な読書日記(2002.3)




★2002.3

☆三浦雅士『青春の終焉』(講談社:2001.9)

 著者は、青春の終焉は教養の終焉でもあったと書いている。教養の終焉とは、成長(ビルドゥンクス・ロマン)の終わりでもある。十九世紀の馬琴に匹敵する影響を二十世紀の日本に与えたのは、漱石でも吉川英治でもなく、成長しない少年を造形し性の未分化を描いた手塚治虫のバロック的な作品(少女漫画の起源)であったと著者はいう。《教養の時代の終わりは、少なくとも日本においては、明確な日付を持っている。一九七○年十月二十日である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』の邦訳が刊行された日だ。》(375頁)かくして青春の終焉とともにすべての観念は考古学の対象と、つまり瓦礫、廃墟と化す。《論理としての青春はいまや完全に雲散霧消した。バロック的なものが漫然と空白を埋めているにせよ、青春という倫理をもたらした歴史哲学的な認識、すなわち身も蓋もない言い方をすれば進歩の思想もまた、雲散霧消したのである。いや、いまや歴史哲学的な認識への飢えさえも存在しないほどだ。バロックもたんなる意匠にすぎない。ベンヤミンのメランコリーは、その雲散霧消すなわち廃墟への、苦い予感によってもたらされたものとしか思われない。》(482頁)──本書は一種の世代論ともいうべき構えのもとで書かれている。実際、著者は登場する文学者や思想家の年齢差を克明に、いや執拗に記している。「歴史哲学的な認識」が雲散霧消した後に残るのは年齢差しかないと言わんばかりに。それでは性差はどうか。性差はもともと青春のテーマ(性欲、男性の?)から除外されていた。青春の次は子供か(子供は考古学者ではない。子供は解剖する)。あるいは幼年期か(フロイトの深層心理? それともユングやバハオーフェンの神話の古層?)。あるいは天使か(ピエール・クロソフスキーのベンヤン評、「天使の魂。実際、彼は天使のごとき人物だった」。またショーレムの『わが友ベンヤミン』によれば、ベンヤミンとごく親しかったある女性は彼のことを「肉体がない」と評したという)。青春の終焉によって廃墟と化した未来には、単性生殖する超人がひかえている?

☆F.フェルマン『現象学と表現主義』(木田元訳,岩波現代選書:1984.9/1982)

 木田元著『マッハとニーチェ』の「種本」その一。鮮やかな書物。訳者あとがきに、著者自身による本書の要約が紹介されている。《この学際的な研究において私は、一九一三年の『イデーン』において盛期に達するエドムント・フッサールの現象学の観念論と、文学上の表現主義とを共通の思考形態[Denkform]に帰一させようと試みる。それは、第一次世界大戦直前の精神史的‐社会史的問題状況への応答としての、この時代の現実性の概念を造形した〈脱現実化的現実化〉[entwirklichende Realisierung]という弁証法的思考形態である。フッサールの現象学的還元の理論は、この現実性の概念の哲学的方法論への翻訳にほかならない。これを証示するために私は、フッサールの思考をもっと広義の表現主義的作家たち──フーゴー・フォン・ホフマンスタール、ロベルト・ムージル、カジミール・エートシュミット、ヴィルヘルム・ヴォリンガー、マックス・ピカート、カール・バルトら──の思考と結びつけている構造上の親縁性を跡づける。最後に私の思考形態分析は、現象学を最終的に二十世紀のもう一つの大きな精神的運動、つまりジークムント・フロイトの精神分析に近づけることになった還元思想の変容を追跡する。》ここに出てくる「広義の表現主義的作家たち」をめぐる議論がとりわけ新鮮かつ斬新で、目が覚める思いがした。

☆上山安敏『神話と科学 ヨーロッパ知識社会 世紀末?20世紀』(岩波現代文庫:2001.10/1984)

 『マッハとニーチェ』の「種本」その二。巻末の解説「『神話と科学』のたまらない魅力」で木田元氏が、入り組み錯綜した共時的な事態を継時的でリニアな文章に載せて一気に語ろうとする「上山さんの不思議な文体」について、時にもどかしげに痙攣したり息せききってつっかえたりするように思われるが「読みなれてくると、この文体がまた上山さんの本のたまらない魅力の一つになってくる」と書いている。きわめて適切な評言だと思う。実際、上山氏の文体はどこか夢を思わせるところがある。夢の表層を剥ぎその深部を発掘してみると、そこにはカリスマ・ゲオルゲと職業人・ウェーバーとの直接の交流や、オットー・グロースとエルゼ・リヒトホーフェンとウェーバーをめぐるエロスの饗宴、スイスのアスコナ・コロニーやバーゼルでの知識人の錯綜した関係等々が目も眩むようなパノラマを織りなしている。上山氏は考古学者の手捌きでもって、こうした太古(アルケ)と近代(モデルネ)が交錯する夢の時代の細部を明かしていくのである。すべてが終わり夢から醒めてみると、そこには著者自身の「あとがき」があたかも墓碑銘のように残されている。(本書に続く『フロイトとユング』『魔女とキリスト教』が読みかけのまま書棚に積まれている。こうして、夢はさらなる夢へと接続されていく。)

☆中島義道『時間論』(ちくま学芸文庫:2002.2)

 中島氏の時間論はたいがい読んできた。『「時間」を哲学する』(1996年)の鮮烈さは今でもありありと想起できる(心身問題は現在と過去の関係の問題だという指摘など、今や私の思考の基底となっている)。『純粋理性批判』を「時間論の書」と規定した『カントの時間論』(1987年、原題『カントの時間構成の理論』)や『時間と自由』(1944年)もとても斬新だった(実は後者はまだ読み切っていない)。それらの著書と比べて本書の「新しさ」がどこにあるのか、率直に言って私にはよく分からなかった。確かに、アウグスチヌスやフッサールやベルクソンの「現在中心主義」に対する中島氏の「過去中心主義」(森岡正博氏の命名)はより鮮明に打ち出されているし、何よりも、現在とまったく異なった過去固有のあり方を確認した大森荘蔵の時間論に対する批判は徹底している。過去の行為に対する責任能力をめぐる議論やベルクソンの純粋持続(時間以前のもの=私以前のもの)と自由をめぐる議論など、読むべき箇所があるにはある。しかしそれでも疑問は拭えない。あえて『時間論』と名づけるだけの決定的な何かがここにあるのか。「時間について、厭になるほど考えてきた」と中島氏は本書のあとがきに書いている。厭になるほど考えるにはそれなりの理由がある。それが中島氏の「哲学の問題」だからだ。『「時間」を哲学する』では「「死ぬ」時としての未来」が最終章「現在という謎」の直前に置かれていた。本書では「時間の限界としての現在」の次に最終章「幻想としての未来」が置かれている。この逆転は何を意味しているのか。「死ぬのが嫌だ!」(『「時間」を哲学する』あとがき)と「ぼくは死ぬ!」(本書あとがき)の違いに、二つの〈いま・ここ〉における中島氏の「実感」の差異が示されているのだろうか。

☆青山拓央『タイムトラベルの哲学──「なぜ今だけが存在するのか」「過去の自分を殺せるか」』(講談社:2002.1)

 巻頭の対談「この本を読むにあたって」で永井均氏が語っているように、三部構成の本書のうち「哲学的な意味」で圧倒的に面白いのは第?部「誰が時間を語るのか」だ。著者はそこで、アキレスと亀のパラドックスが孕んでいる「すごい問題」(これも永井氏の言葉だ)を起点にして、「視点」の同一性に立ったカントの時間論(それは「私」の「視点」と一体化した世界の同一性を基盤としている)の枠組みから、「対象」の同一性(それは固有名詞の使用というかたちでわれわれの言語に溶け込んでいる)に基づいて構成される時間軸を分離し、さらに心脳問題との関係や主観成立以前の根源的な時間の流れについて言及し、そして時制の客観性と事物の同一性の二つの概念を不可分一体のものとして自らの内に取り込んだ言語をめぐる終章の議論へとつないでいく。ここには全ての哲学がそこから「始まる哲学」(これも永井氏の言葉だ)の可能性が凝縮されていると思う。もちろん第?部での「なぜ今だけが存在するのか」をめぐる議論や経験の「現実性」と個人の経験を超えた客観的な「実在性」の区別、ウィトゲンシュタイン=永井の「語り得ぬ現在」への言及もスリリングだったし、第?部での時間モデル(実在性と可能性、単線モデルと分岐モデルの組み合わせによる)をめぐる議論も魅力的だった。それでも、あえて(?)副題に取り上げなかった第三の問い「誰が時間を語るのか」(青山氏にとっての究極の哲学の問題だと思う)に真っ向から取り組んだ第?部の迫力には及ばない。そこから何か新しい歴史哲学のようなものが始まるのかどうか、それは誰にも分からない。

☆アミール・D・アクゼル『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(青木薫訳,早川書房:2002.2)

 数学の本はいつ読んでも、どんな内容でも楽しめる。まして、思想史や精神史といったいわゆる人文系の問題と関連づけられた本であれば、たちまちのうちに魅入られ陶酔できる。本書は優れた「数学ノンフィクション」の書き手によって著された無限をめぐる人間の精神史であり、ゲオルク・カントールやクルト・ゲーデルといった希代の数学者(神に狂った数学者)に関する第一級の物語である。十分堪能し充足したので、もう何も言うことはない。

☆木田元『最終講義』(作品社:2000.9)

 定年退職時の最終講義と最終講演──「最終講義『ハイデガーを読む』」(1999年1月23日、於中央大学文学部)と「哲学と文学──エルンスト・マッハをめぐって」(1999年2月25日、於中央大学人文科学研究所)の二編──が収められている。『存在と時間』を読みたい一心で東北大学に入学してから五十年、中央大学に就職してから四十年、「この間なにをしてきたかと申しますと、その答えは実に簡単で、終始ハイデガーを読みつづけてきたと言っていいかと思います」。このような簡潔な言葉で総括できる人生は美しい。

☆土屋恵一郎『処世術は世阿弥に学べ!』(岩波アクティブ新書:2002.2)

 力強い本である。それは何も命令形で終わる書名の最後に付された記号のせいではない。一流の武芸者が立合でみせる気合いのようなものが叙述のそこかしこから立ちあがってくる。《世阿弥の時代、能は一つの勝負ごとであった。…世阿弥の時代には、能は、「立合」という形式でその芸を競った。…実にきびしい世界であった。》(18頁)能の舞台はひとつの戦場であり、戦場には「いま」しかない。そこは人気や景気といった不安定なものに満ちた世界であり、役者はもう一つの不安定で変化していくもの、つまり身体ともむきあっている。戦場には戦略が必要である。世阿弥がいう「初心」とは、試練の時に臨んでこれを乗り越えていった戦略にほかならない。以下、著者は「時節感当」「男時・女時」「秘すれば花」「離見の見」「衆人愛敬」等々と、世阿弥が残した言葉がもつ戦略性を説き明かしていく。これが第一章「世阿弥の人生戦略」で、続く第二章が「世阿弥の創造性」、第三章が「人生のシステム 世阿弥の人生論」(人間の人生を七歳頃から初めて七段階に分けた『花伝書』第一章「年来稽古条々」の現代版)。私はこれらのうち第二章が一番面白かった(たとえば「情報カプセル」としての能、情報編集者としての世阿弥の「オリジナルを作らない」創造性)。不思議な人が書いた不思議な本。

☆土屋恵一郎『能 現代の芸術のために』(岩波現代文庫:2001.3)

 新曜社版(1989年)が刊行された直後に読んだ記憶があって、その時も随分夢中になっていたような気がするのだが、このたび一字一句反芻し、熟読玩味しながら読み返してみてあらためて驚嘆させられた。文庫版あとがきに、渡辺保氏から「君はこれ以上の文章はもう書けない」と評されたことが紹介されている。著者にとっての「まことの花」が密封された奇跡的な書物であるということなのだろう。構造主義以後の思想を媒介として世阿弥の身体論と演劇論をとらえることによって、能を祭儀的、共同体的、芸能史的な文脈から解き放ち、「時間と空間のうちでその時々の変化のなかを生きている能の身体的で触感的な場所」を示したかった、そこに「自由の空間」があると思ったからだ。同じく文庫版あとがきで著者はそのように述べ、この考え方の政治思想の表現として『正義論/自由論』や『ポストモダンの政治と宗教』を書いたと明かしている。迂闊だった。十数年前の私には、世阿弥の能が政治思想の問題に、そして歴史の問題に深くかかわっていることなど読みとれなかった。

☆マーク・ポスター『情報様式論』(室井尚・吉岡洋訳,岩波現代文庫:2001.10)

 伝統的な批判的社会理論(「理性的で自律的な主体の意志の道具」として言語をとらえる行為中心的な理論)をポスト構造主義(「それ自身を回帰的に指示し、指示性を崩壊させ、それによって主体に働きかけ、それを主体の方向を見失わせるような新しい仕方で構成するい言語構造をめぐる理論的テクスト)によって再構築し、電子メディアによるコミュニケーションのうちに自己指示的な言語のメカニズムが広がる現代の社会空間の新しい特性を、すなわち新しい主体の布置を理解するための理論的条件を探求すること。これが本書の目的で、たとえば「ボードリヤールとテレビCM」の章では、およそ次のような議論が展開される。──テレビCMは視聴者を非合理な仕方で操作する。こうしたネガティブな断定を行うとき、批判者(たとえばアルチュセール)は意識化のレベルで「言説の基礎となる自律的で合理的なエゴ」を擁護している。これに対して、言語理論に根ざした、つまり情報様式(電子メディアによって導入された、文脈を欠落させたモノローグ的で自己指示的なコミュニケーション)の概念を踏まえた新しいモデル(たとえばボードリヤール)によると、テレビCMは「かつて資本主義的な生産様式や家父長制や自民族中心主義と結びついていたようなタイプの主体」を解体し、言説の受動的な対象(メッセージの発話内的な力を受け入れる視聴者=消費者)であると同時に言説の主体(浮遊するシニフィアンをシニフィエである製品に結合することによってCMの意味を創造する主体=神)へと二重化する。《テレビCMの中で作られている言語は、主体が自分自身の主体性を構成された構造とみなし、自分自身を自己構成者の共同体の成員としてみなすようにし、そのように促すのである。それは(ヴィデオ・デッキや衛星を通じて)場所と時間を異にする非同時的な共同体であり、そして、メッセージの主体/客体として自分を構成するという仕方でのみテレビCMの自己指示的な会話に参加する個人からなる、無言の共同体なのである。》(148頁)──以下、「フーコーとデータベース」「デリダと電子的エクリチュール」「リオタールコンピュータ科学」と議論は続くも、駆け足で一気読みしたため印象は散漫。

☆斉藤英治『ホワイトハウスの記憶速読術』(ふたばらいふ新書:2001.6)
☆櫻木充『僕の新しい先生』(フランス書院文庫:2002.3)

 何を読んでも頭に入らなくて、何も読む気がしなくなって、それでも何か読みたくて、二冊まとめて買った。『記憶速読術』は1月10日発行の第6刷だから、結構売れてるんだ。途中まではなかなかよかったけれど、最後でちょっと腰砕け。櫻木充は『この官能小説がスゲェ!』の「官能作家20人」で「女が身につけるコスチュームのエロスを堪能したいなら、何といってもこの作者の作品を薦める」と紹介されている。

☆ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人』上(三浦陽一他訳,岩波書店:2001.3)

 カラオケにはめったに行かないし、行ってもあまり唄わないが、何曲か唄うこともたまにはあって、気分がのってくると必ず一度は「星の流れに」を唄う。この流行歌を同時代の体験として懐かしむような年齢ではないのだけれど、うまく説明できない回路でもってそこに痛切な郷愁を覚える。この歌の低層に漂う感傷的な哀切感と表層を覆う不思議な明るさに現代性をすら感じてしまうのだ。この感覚、というか感情の生理は本書を読んでいる時のそれとほとんど同じものだった。たとえば次の文章など、すぐれた歴史家の凄さにつくづく感じ入ってしまう。(第四章「敗北の文化」の149頁に「闇の女」をとらえた「古典的とも言える」写真が掲載されていて、そのキャプションが「こんな女に誰がした?」だったと紹介されている、その少し後にでてくるもの。)
《米兵と腕を組んで歩いたり、米兵のジープに乗って陽気にさわいだりするパンパンの姿は、突き刺すように日本人の誇りを傷つけたし、とくに男性には、男として情けなさを感じさせた。と同時に、パンパンの姿は占領下の日本人の誰もが巻きこまれていた「アメリカ化」という巨大で複雑な現象のなかの、ひとつの目立つ例なのであった。パンパンは公然と、恥しらずに征服者に身を売ったが、他の日本人、とくにアメリカ人のお近づきになった、いわゆる「善良」な特権的エリートたちもまた、肉体そのものではないが、ある意味で身を売っていたのである。》(162-163頁)
《ひょっとすると、この時代のパンパンたちは日本の「水平的」な西洋化という、それまでなかった文化交流現象の、もっともわかりやすい象徴かもしれない。かつては、この国で文化交流の影響といえば、まず例外なく「垂直的」に、つまり上層エリートから浸透していったものである。「モダン・ボーイ」や「クララ・ボウ・ガール」がもてはやされた一九二○年代のフラッパー文化は例外のようにもにえるが、これでさえ余裕のあるブルジョア階級にかかわりがあっただけで、一般庶民はあまり影響をうけなかった。社会の下層であるパンパンたちは、民衆レベルの「水平的」な西洋化という、それまでにないものの象徴となったのである。したたかで明るい彼女たちほど、比喩的にも文字通りにもアメリカ人に「近い」存在はいなかった。快楽主義と物質主義にもとづくアメリカ的消費文化の先駆者として、彼女たちにまさる者はいなかったのである。》(166頁)

☆細川亮一『形而上学者ウィトゲンシュタイン──論理・独我論・倫理』(筑摩書房:2002.1)

 著者は序章で「この書名は挑発的と思われるだろう」と書いている。そんなことに挑発される人が世の中にそう多くいるとはそもそも思わないけれど、一度でも『論考』や『草稿』をちゃんと目にしたことがある人ならばそこで論じられていたのが明らかに倫理や神をめぐる事柄であり、ウィトゲンシュタインの「問題」が徹底して形而上学的であったことなど当然知っているはずだと思う。語り得ないものについては沈黙しなければならない。この究極の言葉を書き記したその後の生の軌跡を知っている人なら、ウィトゲンシュタインがいかに宗教的な人間であったかを理解できるはずだ。たとえばトゥールミン/ジャニクの『ウィトゲンシュタインのウィーン』(とりわけ第六章「『論考』再考」)などを読めば、状況証拠はいくらでも挙がっている。しかしまあここまでなら誰にでも言えることだ。『論考』がアリストテレス、カントの伝統の上に築かれた存在論の書であり倫理の書であり形而上学の書であることをテキストに即して執拗かつ緻密に論証し、「形而上学者ウィトゲンシュタイン」の実質を余すところなく叙述し尽くすことは、それはそれで読者を「挑発」する力業だと思う。各章各節の冒頭に見取図を示し、それぞれの末尾で回顧と展望を加え、さらに序章と終章を設けて全体を二度総括するといったまことに懇切な本づくり、煩瑣をいとわぬ引用と議論の反復、章節項名の適切さなど、これで索引が充実していればパーフェクトな書物になったことだろう。読み終えて、ウィトゲンシュタインという名が指し示す「空虚な充填感」とでも形容するしかない高密度の生感覚(哲学感覚)の感触が後を引きそうな予感に襲われている。

☆永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書:1995.1)

 細川亮一氏の『形而上学者ウィトゲンシュタイン』を読みながら、これはひょっとすると永井氏の『入門』を批判しているのではないかと思われる箇所がいくつかあった。細川氏は、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「Die Logik ist transzendental」「Die Ethik ist transzendental」と書き記すとき、そこに出てくる「トランスツェンデンタール」(超越論的)は「超越的」や「形而上学的」と同義であって、すなわち『論考』は論理(本質・必然性にかかわる「である」をめぐる)と倫理(実在・偶然性にかかわる「がある」をめぐる)という二つの「トランスツェンデンタール」なものに関する形而上学の書であると書いていた。そして『論考』に出てくる独我論は、というより反独我論は「論理」の側に(世界の条件=本質に)属していると。一方、永井氏によると「トランスツェンデンタール」には「先験的」(経験的な事実に先立ち、世界と言語の形式を示すもの:「語りえないもの1」)と「超越論的」(世界を超越し世界の外にあるもの:「語りえないもの2」)の二つの訳語があるのだが、ウィトゲンシュタインにとって「論理は先験的である」が「倫理は超越論的である」。そして『論考』の独我論はこの両者を、つまり論理と倫理という二種類の語りえぬものをつなぐ役割を担わされている。──『論考』における独我論(あるいは反独我論)をどう位置づけるかが『形而上学者ウィトゲンシュタイン』と『ウィトゲンシュタイン入門』の二つの世界の相貌の違いを規定している。少なくとも『論考』の読解に関しては、アリストテレスやカントやハイデガーとの接続を意識した細川氏の著書の方がコクがあって斬新で刺激的だったのだが、永井氏の独我論(そして他者)をめぐる議論にはやはり棄てがたい魅力がある。

☆矢向正人『言語ゲームとしての音楽──ヴィトゲンシュタインから音楽美学へ』(勁草書房:2001.9)

 「鰯の頭も信心から」という言葉があるけれど、「鰯の頭」に神秘的なもの(語り得ないもの)を感じるのはそこに「信心」(内面)があるからではなくて、「鰯の頭」にカミが宿ることをすでに知っているからである。語り得ないものについては沈黙しなければならないこと(ただ祈り、瞑想し、あるいは身振りで示すしかないこと)を知っているからである。それを知らない人、つまり「鰯の頭」に神秘を感じるシステム(生活形式)に内属していない人、システムの外部にいる人にとっては「鰯の頭」をめぐる規範(ルール)は記述可能な事実でしかないし、これに対する「沈黙」の行為も単なる「信心」(迷信)によるものでしかない。この外部(超越的なメタレベル)を組み込んだ複合的な言語ゲーム論をもって法や社会システムをめぐる学的考察のための理論的装置を提唱したのが橋爪大三郎氏の『言語ゲームと社会理論』(1985)で、これをフーコーの「集蔵体」のアイデアと接続して「悟り」をめぐる宗教的言説へと応用をはかったのが同じく橋爪氏の『仏教の言語戦略』(1986)だった。(ちょっと乱暴な紹介だったかもしれないが、もうあれから十五年も経っているのだから、記憶が朦朧としている。)本書『言語ゲームとしての音楽』の基本的なアイデアは、ほぼこの橋爪理論に拠っている。精緻な分析と目配りのきいた叙述で独自の音楽美学を理論化しようとする意気込みは感じられるのだが、結局のところ、言語ゲームの概念を導入したことの画期性がいったいどこにあるのかが曖昧になってしまうのは、橋爪理論が持つ難点がそのまま反映しているのだろう。いつかまた反芻することはあるかもしれないが、少なくともいまのところこの本は私の関心の対象外。(断っておくと、橋爪氏の議論そのものは面白いものだったし、とても刺激的だった。ただしそれは言語ゲーム論の橋爪流解釈とその応用に拠るものではなかったと思う。)
 

★今月の棚卸し

☆砂田利一『バナッハ・タルスキーのパラドックス』(岩波科学ライブラリー:1997.4)

 実無限を認め、選択公理を認める精神はまさに絶対者の精神(ヘーゲル)である。しかし我々は絶対者を必要としない。無限は論理という思考を通して人間の理念の中に生き始めているのである。本書の末尾の言葉。

☆ムージル著作集第一巻『特性のない男?』(加藤二郎訳,松籟社:1992.5)

 第一巻第一部第四章「現実感覚なるものがあるのなら、可能性の感覚なるものもあるにちがいない」を読む。《だが可能的なものとは、神経の細かい人たちの夢だけではなく、まだ目ざめぬ神の意図をもたっぷり抱え込んでいるものなのだ。可能的体験といい、あるいは可能的真実というものは、現実的体験と現実的真実から現実性という価値を差し引いたものではないのであり、少なくともその信奉者の意見によれば、それにはきわめて神的なものが、火が、飛翔が、建設意欲が、そして現実を恐れはしないが、しかしこれを課題とし虚構として取り扱う意識的ユートピア主義が内在しているのである。》

☆多田富雄『脳の中の能舞台』(新潮社:2001.4)

 村上龍が奥村康との対談「ウイルスと文学」(『存在の耐えがたきサルサ』)で次のように語っている。《奥村先生の師にあたる多田富雄先生の書かれた『免疫の意味論』ですが、僕は初めてあの本を読んだとき、初心者に免疫のおおまかな仕組みを分からせるには素晴らしい本だと思いました。ただやっぱり、多田富雄先生は流行の知的アカデミズムにも非常に詳しく、おまけに能なんかやられて日本的だから「自己とは何か?」なんて余計なことまで言われています。『分子細胞生物学』などをまめに読んだ後だと、その部分が余計に思えてしまいました。免疫はスーパーシステムかどうかなんて、どうでもいいことだと僕は思うんですけれど……。》──『免疫の意味論』はたしかに素晴らしい本だったけれど、どこか違和感が残った。それは『生命の意味論』を読んでますます高じていった。村上龍の発言はこの違和感に一つの表現を与えていると思う。本書は最初から最後まで能についてだけ書かれた書物だから、この種の座りの悪さは覚えなかったが、その分読み手の思考に障るところがなくて、悪く言えば平板。ただ、茶の「独座観念」になぞらえてもう一つの能の愉しみを語る「脳の中の能舞台」とか、異なる時空を自由にワープする能の空白の舞台をパソコンの灰色の画面に喩える「サイバースペースとしての能舞台」などは、土屋恵一郎氏の議論に通じるところがあって面白い。

☆宮台真司・宮崎哲弥『M2われらの時代に』(朝日新聞社:2002.3)

 リベラリスト・宮台真司とコミュニタリアン・宮崎哲弥の対談集。最後に「今後、呼んでみたいゲストはいますか」と聞かれて、宮台が「大森荘蔵をイタコの口寄せで呼べないかな(笑)。「『ここに私はいる』と思っているのは誰なんだろう」みたいな現象学的な問題意識は、今広く大衆化してるからね。その意味では、僕の極右お師匠・小室直樹と極左お師匠・廣松渉よりも、むしろアップトゥデートかもしれないと思う」。「彼の仏教的認識論は刺激的です。色即是空の実在論とか、『時は流れず』とかね。ナーガールジュナの認識批判と極めて近いことが論じられていた。しかし大森さんは忘れられた哲学者になりつつある。村上一郎と廣松さんを招魂してテロ話をするのもいいね(笑い)」と宮崎。

☆立花隆『東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』(文藝春秋:2001.10)

 立花隆の本は東大講義『脳を鍛える』を読んで以来。最近は「知の巨人」と揶揄されているようだが、この人の本質は好奇心なので、学問や教養の体系化など企てない方がいいと思う。

☆土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト 哲学論集』(勁草書房:1998.9)

 「存在の問題の特殊性──ハイデガーとウィトゲンシュタイン」という論文が読みたくて、結局収録された7つの「哲学論文」全編にざっと目を通したのだが、読後なんとも陰鬱な気持ちになってしまった。たとえば件の論文で著者は、「後期ハイデガーは、答えを迫るようにみえる存在の問題に対して、通常の答えは不可能であっても、その存在の呼びかけになんらかの仕方で対応する必要がある、と考えている。その呼応の仕方はもはや命題で表現されるような主張ではなく、その時の哲学の言葉はむしろ詩に近いものになり、初期ギリシアの哲学者の断片にその理想が求められることになる」と書き、「ウィトゲンシュタインの立場は後年変化するが、その最終的な結論については終生変わらぬ態度をとりつづけた、と言うことができる。もちろんこの結論は、存在は自明なものだということを意味するものではない。この結論の意味するところは、存在の問題は問題とは言えない、ということである。存在の問題は原理的に解決不可能であり、解決を求めることがナンセンスであるような問題であり、したがって問題と呼ぶことはできない。それを問題として立てるところに根本的な錯誤がある」とした上で、最後に「以上が正しいなら、ハイデガーもウィトゲンシュタインも、同じ問題意識を抱きながら、存在の問題が解決不可能である、少なくとも普通の意味での「解決」は不可能である、したがって普通の意味での「問題」ではない、という結論に達していたと言うことができる。そこに至る道筋は違うし、そこから先に向う方向も違うけれども、その重要な結論については一致していたと思われるのである」と「結論」づけている。これは結局何も言っていないのに等しい。哲学的駄弁の典型である。(それとも何か私が勘違いしているのだろうか。)──猫がピアノの鍵盤の上を歩いて出す音がデタラメで、モーツァルトが五歳の時にピアノで弾いた音(父親がそれを書きとめた「ナンネルの楽譜帳」が残っている)が曲だとなぜ言えるのか。芸術を解し、芸術活動を営むロボットを作ることは可能か。こうした問題を「ウィトゲンシュタイン的に、一種のゲームの中で芸術をとらえ、人間のさまざまな行動の中でどのような役割を果たしているか、という問題として考える」標題論文などは、それでも結構いけていたと思う。