不連続な読書日記(2002.2)




★2002.2

☆J・デリダ/G・ドゥルーズ/J=F・リオタール/P・クロソウスキー『ニーチェは、今日?』(林好雄他訳,ちくま学芸文庫:2002.1)

 本書には、1972年夏、ノルマンジー地方の小村で10日間にわたって催されたコロックでの四人の発表記録が詳細な訳注と解説(本文の5倍の分量を割いたものもある!)付きで収録されている。実験者=誘惑者=創造者としての未来の哲学者をめぐるクロソウスキーの「悪循環」(林好雄訳)。調整された回帰としての資本のメタモルフォーズについて語るリオタールの「回帰と資本についてのノート」(本間邦雄訳)。現代的文化の曙をなす「三位一体」のうちマルクスやフロイトは違う「反‐文化の曙」としてのニーチェの「外の思考」を流れるような文体で綴るドゥルーズの「ノマドの思考」(本間邦雄訳)。尖鋭筆鋒(文体)とシュミラークルと女性(「女性の本質は存在しないのです」)の問題に関するデリダの長編論考「尖鋭筆鋒の問題 Eperons, Les styles de Nietzsche」(森本和夫訳)。私の力量ではとても咀嚼しきれない(とりわけデリダ)過剰なまでに尖鋭な思考の鉱脈がここにはある。そのそもそもの源流がニーチェにあるのだとすれば、読まずにすますことはできまい。そういうわけで、私はいま『権力への意志』(悪名高いフェルスター編集版)の謎めいた断章群にとりつかれている。

☆木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』(新書館:2002.2)

 この本を読み進めていくうち、三つの書物の読書体験がリアルタイムで重なってきた。ひとつは坂部恵著『ヨーロッパ精神史入門』で、本書ともども斯界の先達の目配りのきいた自在な語り口と絶妙な引用術に心地よく身を委ね、なにかしら豊饒で未発の思考の種子が惜しげもなくちりばめられた「哲学の現場」を最高のガイドつきで案内されているような穏やかな興奮を味わった。いま一つは、これは本書でも何度か言及されているのだが、トゥールミン/ジャニクの『ウィトゲンシュタインノウィーン』。思い起こせば私はこの書物を読んでマッハとウィトゲンシュタインにいたく心を惹かれ、それと同時に哲学的思考というものが生身の肉体の生理や個人的履歴や家族史やアクチュアルな政治経済状況や思考の系譜など諸々なレベルの異なる事柄の錯綜体として集団的に営まれるものであることを教えられた。『マッハとニーチェ』の面白さも、このような意味での「思想史」的アプローチに拠るものにほかならないと思う。最後は、これもまた本書で再々その名が出てくる上山安敏氏の『フロイトとユング』で、実はこの書物はかなり間隔をおいて断続的に読み進めていてまだ最後まで達していないのだが、まさしくヨーロッパ「世紀転換期」の思想状況の奥深さを斬新な切り口で見事に描いていると思う。もちろんこれは『マッハとニーチェ』にも(より強く)言えることだ。それから、ニーチェの「遺された断想」とかヴァレリーの『カイエ』とかベンヤミンの『パサージュ論』(本書ではその名は出てこないけれどノヴァーリスの断章も)といった私が愛してやまない断片的文章の切れ切れの印象が間歇的に浮かんできたことも記録しておこう。いずれにせよ一冊の本の内奥には万巻の書物の息遣いがリアルタイムで渦巻いている。──「マッハとニーチェを二つの焦点にして世紀転換期の思想史を粗描してみよう」というのが本書の狙いで、この着想そのもの、そしてマッハやニーチェが織りなす思想圏がどれほどの射程と深遠をもっているかについては実際に読んで確認(ついで驚嘆)していただくしかないのだが、私自身がとりわけ興味深く読んだのは「ムージルとマッハ/ニーチェ」の章(第十五回)で、たとえばそこに出てきたムージルの「可能性感覚」と「本質直観」(フッサール)や「ゲシュタルト」との関係をめぐる議論はスリリングだった。かくしてこの本は私の書棚の限られたスペースに指定席が割り振られる常備本の一つになった。

☆麻田龍太郎『少年』(フランス書院文庫:2000.12)
☆伝・アルフレッド・ド・ミュッセ『肉の宴』(山口椿超訳,河出文庫:2000.2)

 疲労と寝不足をものともせず一心不乱に読み耽る(惚ける)本といえばポルノかホラー。そういうわけでかたや現代的な「官能小説」、かたや古典的な「艶本」(解説者の鈴木敏文が「ビンテージ級の逸品」と讃えていた)を続けて読んだ。前者は「トー・クンを凌ぐ倒錯ロマンス」という謳い文句がやや(かなり)空を舞っていて、『ガミアニ』超訳版(副題にそう書いてあった)と比べるのがそもそも酷というもの。かつて親しんだ富士見ロマン文庫版『ガミアニ伯夫人』(須賀慣訳)を懐かしく思い出す。

☆ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫:1998.5)

 たぶんいつか無性にニーチェを読みたくなる時が訪れるという予感、いや確信があった。そういう時のためにあらかじめ用意しておいた呪文がある。「ニーチェを読むなら、まずこの本を読め」。──ドゥルーズによる簡潔きわまりないニーチェの生涯の要約。ドゥルーズ自身の思考の流れに寄り添い縒りあいながら叙述されるニーチェの哲学のエッセンス。ニーチェ的世界の主要登場人物辞典。六つの章に分割収録された三十四の文章からなる「ニーチェ選集」。最後に訳者による長編の(同じちくま学芸文庫から出ている『ヒューム』での合田正人氏の解説「ドゥルーズによるヒューム」ほどではないが)論考「ドゥルーズとニーチェ」。──この本を読み終えて、二冊の書物──『ニーチェと哲学』(ドゥルーズ)と『反復論』(湯浅博雄)──が書棚の潜在領域からアクチュアルな領域へと移行しつつあるのを予感、いや確信している。

☆渡辺哲夫『知覚の呪縛 病理学的考察』(ちくま学芸文庫:2002.2/1986)

 精神病理学者として、分裂病者Sの主治医として、著者は没落したSの世界を理解しようとする。「世界没落、瓜二つの世界の実現、知覚の呪縛、“非‐生命化”され、“非‐有機化”された知覚、分割され消去され“死所”性をおびるまでに破壊された他人、寸断され簒奪され続ける肉体自我、実体的思いと化した欲望・欲動の常軌を逸した破壊性」。この「死の欲動」が露呈し「主[あるじ]S」が排除された世界との「人間的交流」をめざして、著者はテオリア的に観ることから「治療」へと向けた一歩を踏みだす。それは、著者自身のメタモルフォーゼに賭けることである。Sによって呪縛され禁止された「私」が、そしてSを「分裂病者」と名づけた立法者である「私」が、Sにとって「真の絶対的な他人」へと変身していくことに賭けた、その感動的ともいえる「交流」の記録が本書である。──学術論文にして虚構世界の地形図(あるいは小説的構成の原型)を叙述し尽くした芸術作品として、希有な力を湛えた書物。この本を読み終えて、四冊の書物──『「名づけ」の精神史』(市村弘正)と『知の構築とその呪縛』(大森荘蔵)、それから『「あいだ」の空間』(トーマス・H・オグデン)と『仮面の人間学』(小見山実)──が書棚の潜在領域からアクチュアルな領域へと移行しつつあるのを予感、いや確信している。

☆皆川博子『ジャムの真昼』(集英社:2000.10)

 六枚の写真と一枚の画に寄せて語られる7つの短編(「森の娘」「夜のポーター」「ジャムの真昼」「おまえの部屋」「水の女」「光る輪」「少女戴冠」)。《カメラマン》によって函の中に閉じ込められた「私」は、潜望鏡のファインダーに映る娘の姿を一瞬垣間見る。その悦楽の対価として右腕の肘から先を斬り取られる。死への長い時間。《カメラマン》は7つの飾りを持つ銀の指輪をはめている(「森の娘」)。〈生存、そして諸元素そのものがその根源において汚染されていたと、どうして仮定しないでいられようか〉──シオランの『悪しき造物主』からの引用(「少女戴冠」)。怪物めいたものが生まれ出んとする予兆と戦慄。耽美的というよりほとんど詩に近い文章。続けて『死の泉』を読む。

☆佐藤正午『ジャンプ』(光文社:2000.9)

 佐藤正午はほんとうに上手い。著者紹介に「小説の上手さには定評があり、特に恋愛小説の名手として文壇の評価は高い」と書いてあるから、プロの間では定説なのだろう。上手すぎて、偶然再会した恋人から明かされる、まるで安物のTVドラマめいた五年前の失踪の秘密がとても哀切なものに思えてしまう。こういう経験は私にもある。読者にそう思わせることが青春小説や恋愛小説の成否を決定する超絶技巧で、それは時制表現に対する鋭い感覚に裏打ちされた文体を作者が持っているかどうかにかかっている。知覚世界での「物自体」に相当する想起世界での「過去自体」を現在の具体物の描写を通じて読者に垣間見せる技量、つまり成就しなかった可能性の分岐点を現在における潜在性として描写する力量。小難しく言えばそうなる。

☆佐藤正午『象を洗う』(岩波書店:2001.12)

 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』に「正午」の章があって、ツァラトゥストラが「もう飽きるほど眠ったろう。長かったな? 永遠の半分もか!」と自分を叱る場面がある。これがペンネームと処女作『永遠の1/2』の由来ではないか。ある人からの手紙にそう書いてあったが、著者の言によると、僕は『ツァラトゥストラ』を読んでいない、読みもしない本からは何も思い付くことはできない、だいいちどこでどうやって自分のペンネームを思い付いたかもう思い出せない。象を洗うとは、「アリナミンを飲めば象を洗える」というコピーに由来するもの(かどうかは知らないが)で、作品を完成させるという意味の業界用語なのだそうだ。村上春樹の「象工場」もたぶん類語なのだろう。

☆今福龍太『ここではない場所 イマージュの回廊へ』(岩波書店:2001.11)

 テクストと図版が因習的な主従関係から離脱し、文字と映像とが創造的な交渉と響きあいを奏でる書物を造りたいと長いあいだ切望してきた。著者は巻末の「謝辞」でそう書いている。それが達成されたかは読者の判断にゆだねたいとも。「LOVE AT LAST SIGHT 最後のひと目による恋」「映像の幻獣」「身体祭壇」「眼の眩暈、耳の陶酔」の四つのパーツに収められた十三の文章とプロローグとエピローグで構成された「パーフォーマティブなテクスト」(声によって読まれることをはじめから想定して書かれた批評的実践)群。《…「どこか別の場所」とは、夢見られたシャングリラではなく、結局は「ここ」の無限の反復=反響でしかないことに、私はいつからか気づいていった。》
 

★今月の棚卸し

☆別冊宝島編集部・編『このミステリーがすごい! 2002年版』(宝島社:2001.12)
☆高橋源一郎と官能小説研究会・編『この官能小説がスゲェ!』(KKベストセラーズ:2002.1)
☆SFマガジン編集部・編『SFが読みたい! 2002年版』(早川書房:2002.2)

 ブックガイドを眺めていると時を忘れる。たくさんの本を一時に読んだ気になってしまう。幸福な気分に浸れる。三冊続けて眺め、想像力の極点を上空から俯瞰しているような贅沢を味わった。

☆丸谷才一『山といへば川』(マガジンハウス:1991.12)
☆池内紀『私はこうして読書を楽しんだ』(中央公論社:1994.2)
☆須賀敦子『本に読まれて』(中央公論社:1998.9)
☆鹿島茂『暇がないから読書ができる』(文藝春秋:1998.9)

 暇がなく読みたい本が読めないフラストレーションが溜まりすぎ、せっかくの休日なのにどれから手を、いや目をつければいいか訳が分からなくなって、近所の図書館で借りてきた書評集をじっくり眺めて時間を潰した。丸谷本には1980年代の「週刊朝日」に掲載された文章が「書評の練習」の章に収められいる。いつもながらの達者な藝。池内本では『ノルウェイの森』を扱った「あらかじめ失われた恋人たち」に、須賀本では池澤夏樹の作品(『マシアス・ギリの失脚』『スティル・ライフ』『塩の道』『最も長い河に関する省察』)を取り上げた文章にとても共感して、「書評は、いうなれば、精神の筋肉トレーニングとして機能する」という鹿島氏の言葉でようやく休日のまどろみから覚めた。

☆松下圭一/西尾勝/新藤宗幸・編『岩波講座 自治体の構想1 課題』(岩波書店:2002.1)
☆松下圭一/西尾勝/新藤宗幸・編『岩波講座 自治体の構想2 制度』(岩波書店:2002.2)

 全5巻で、以下「政策」「機構」「自治」と続く。収録の西尾勝「分権改革の到達点と課題」(第1巻)で、地方財政秩序の再構築(第二次分権改革の課題)とは別に、なお残る課題(第三次以降の分権改革の課題)として、「法令による事務事業の義務づけと枠づけの緩和」「「補完性の原理」に基づく事務事業の移譲」「政府体系の再編成」「地方自治法等による制度規制の緩和と住民自治の拡充」「「地方自治の本旨」を具現する方策」の五つが挙げられている。この三番目に出てくる課題に関して、山口二郎「一国多制度」(第1巻)が、イギリスのデボリューション(スコットランドやウェールズに対する地方分権)や北欧のフリー・コミューンの事例紹介もまじえながら、日本における一国多制度の憲法上の可能性を論じている。秀逸。新藤宗幸「自治体の制度構想」(第2巻)も政府体系の多元化を公務員制度や税制論も含めて論じている。斬新。地味だが、時代を画する濃いシリーズになりそう。

☆ジョルジュ・バタイユ/吉田裕『異質学の試み──バタイユ・マテリアリストT』(書肆山田:2001.1)
☆ジョルジュ・バタイユ/吉田裕『物質の政治学──バタイユ・マテリアリストU』(書肆山田:2001.1)

 吉田裕氏による論考三篇(「バタイユ・マテリアリスト──物質の魅惑」「バタイユ・ポリティック──運動の中へ」「星々の磁場 『青空』・全体を受け止める試み」)と翻訳数編が収録されている。バタイユは内的体験と神秘体験とを厳密に区別していた。内的体験には神秘体験の中にある神が不在なのだ。しかしこの二つの体験の差異にはもう一つの側面がある。バタイユの内的体験には物質や他者や身体という「外部」が侵入してくる。外部の経験とはまず物質や女だが、もっとも拡大されたかたちでは戦争であろう。以上、「物質の魅惑」の第1節「物質感覚」から。

☆マルティン・ハイデッガー『ニーチェT 美と永遠回帰』(細谷貞雄他訳,(平凡社ライブラリー:1997.1)
☆マルティン・ハイデッガー『ニーチェU ヨーロッパのニヒリズム』(細谷貞雄他訳,(平凡社ライブラリー:1997.2)

 第1巻に収められた解説「ハイデッガーとニーチェ」で、木田元氏は「哲学書を読むのに何から読めばよいかとひとに尋ねられると、まずこの細谷訳の『ニーチェ』を勧めることにしている」と書いている。「噛んでふくめるように悠々と説き明かしてゆく」明快さを持ったハイデッガーの講義の中でも「抜群の出来ばえ」なのだという。『権力への意志』の副読本として読んでみようかと思っているだが、木田氏の複数の著書で紹介されている「ハイデッガーによるニーチェ読解」にはいまひとつ惹かれないのはなぜだろう。バタイユによるニーチェ、ベンヤミンによるニーチェ、そしてドゥルーズによるニーチェの異同ともあわせて、いつかこのことを検証してみよう。

☆ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』(香西泰訳,日本経済新聞社:1998.7/1992)
☆ベルナルド・リエター『マネー なぜ人はおカネに魅入られるのか』(堤大介訳,ダイヤモンド社:2001.10/2000)

 経済学の勉強は続いている。死後の生まで続けないと身につかないのではないかと思う。『経済の本質』と『マネー崩壊』を読んで以来、ジェイン・ジェイコブズとベルナルド・リエターはもっとも信頼できる師匠になった。いずれ熟読玩味すべし。

☆瀬名秀明『ロボット21世紀』(文春新書:2001.7)

 鉄腕アトムは『ブリキの太鼓』のオスカルと同じように、決して成長しない永遠の少年である。その意味で徹底した教養小説批判である。三浦雅士氏は『青春の終焉』の「あとがき」でそう書いている。ロボットは成長しない。ロボットはバージョン・アップするだけだ。つまりロボットは時間を経験しない。それが本質。

☆石田晴久『ブロードバンドを使いこなす』(岩波アクティブ新書:2002.1)

 ADSLに切り替えようか光ファイバーを導入しようか、はたまたケーブルTVを契約しようか。個人的な次世代インターネット環境の選択をめぐって、少し迷っている。で、読んでみた。